鷺城と宮沢城 ☆☆ 歴史ものから、城郭編⑦
2022.05.28(23:33)
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鷺城跡のある早坂山
米沢市の道の駅から南方面に早坂山(標高502m)が眺められる。
最近山形新聞にこの早坂山にある伊達時代に築かれた山城、鷺城の史跡をみんなに知ってもらおうという記事が載った。雲爺は早速車で現地へ行ってみた。
山城についてはまだ駆け出しの雲爺はまるで名前は知らなかった。米沢については昨年末に館山城を訪れたが、それ以上の規模であると知って胸が躍った。館山城以上の存在など考えてもいなかったのである。
この看板は鷺城史跡保存会が表口らしきところに建られたようだ。
今日は概略把握が目的だから現地探索は改めて行うことにした。
地図上の概念では関根の水窪ダムに行く途中と覚えればよいだろう。左が山の中を通る車道で、そこから右の山道を登って行くことになる。
鷺城は伊達時代の伊達稙宗から正宗までの4期60年に渡って存在したと考えられている。この城の特徴は大規模であるということである。主郭を中心に南北1468m、東西1020mに渡り3つの尾根筋に作られた。詳しくは早坂館、土肥単館、戸板山館、外内館という順に築城が加わりこれを合わせた城砦群とされる。南からの防衛の最前線基地としての役割は大きかったのであろう。しかし実戦で使われることはなく監視の範囲に留まったようである。こういう実戦なしの砦は戦国時代には無数にあったであろうな。まさに労力と年貢の大きなロスそのものである。しかしこれは現代にも言えることで、国防費というものは悔しいけれど必要悪の王者である。
別の入り口
北条郷の館 宮沢城本丸跡に建つ標柱
北条郷は南陽市域の古よりの地名であり鎌倉時代の執権将軍北条時政の子、北条相模坊臨空がこの地の羽黒修験者の大先達として仕切るようになったことからいつしかこう呼ばれたとされている。宮沢城は伊達氏が置賜地方を統治した南北朝以降に在地領主と推測される大津土佐守が居住した。後に上杉氏の時代になると直江兼続の従弟の子尾崎家が入る。江戸時代になると一国一城令により廃城となる。
現在は果樹園や畑田んぼに姿を変えており、石垣を使わない土塁で築かれた城の姿を確かめるのは難しい。ただ掘り跡などが残っているからそれが頼りである。
道路沿いに小道が伸びている。これは正面入り口である大手口である。細いながらもこうして残っているのだそうだ。まさかと驚いたが絵図面には確かに記されている。400年の年月を経た正真正銘ものなのだ。
こういう小道って「いいねえ、味あるねえ、愛着湧くねえ、皆そうだよねえ」
両脇の窪地は堀跡。上の面は二ノ丸になる。
最初はどこがどこだか分らなかったので住民に尋ねた。そしたら親切に案内してくれると言う。遠回りすれば道はあるのだろうがラフランス畑の中を近道してくれた。無断で農家の敷地を下向いて・・・・
左上方に本丸がある。横に伸びる斜面は敵の侵入を防ぐ土塁。
本丸跡 一面にラフランス畑が
本丸から宮内の町と右寄りに熊野大社がある森を眺める。
築城の場所としては要害性の高い所が選ばれただろうが、同時に熊野大社の近くであらねばならなかった。
田んぼの先は台地になっている。そこから次第に高さを増して二の丸、本丸、三の丸が配置されている。田んぼの所は堀だった。
熊野大社の石段
南陽市宮内地区には日本三大熊野神社の熊野大社がある
社伝によれば大同元年(806)平城天の勅命により紀伊熊野権現の勧請を受けて再興されたとするが、それより前の国分寺建立の時に創建されたと推定される。
後白河天皇が久寿2(1155)年の即位時に当社に天下泰平の祈祷を命じ、以降勅願所となった。歴代領主である伊達氏、最上氏、上杉氏の崇敬を受け、社領の寄進や社殿の整備が行われた。神仏習合の時代には熊野三山と同じ証誠寺を称することを許され江戸時代までは熊野山證誠寺と呼ばれていた。
羽黒山の修験はこちらでは白鷹山から峰伝いに行われ證誠寺を起点に山伏が集まったような。道なき道?を進むのってどてらいことですよ、ほんまに。「あんたかてアホやろ、うちかてアホや」🈚🆚、熊になったつもりで一度やってみなはれ・・・
熊野門前通り
江戸時代までは参道の位置は同じだが両側は杉並木でその奥に真言宗、天台宗、修験宗の寺、神職の住居が立ち並び一山寺院を形成し山の上の熊野宮を守護していた。
昔の領主は近くに寺社を配置し領内の安寧守護を願うとともに寺社そのものを守護した。
宮沢城主だった門前通りの大津家
伊達氏八代当主宗遠による置賜攻略にあたって伊達の重臣としてその戦功が賞され、宮内宮沢を封ぜられたのが甲斐布施氏を祖とする大津氏でした。宮沢城を本拠にこの地に根を下ろして力をつけ、莫大な財力と兵力で置賜きっての大土豪となります。熊野山炎上では身を以って獅子頭を守り、さらに熊野宮造営など熊野守護に力を発揮します。伊達岩出山転封に際しては土佐守本次が従い、弟庄左衛門郷次が残ります。上杉転入とともに金山館主となるも、当主善右衛門、長谷堂の戦いで討死、以来代々明治まで、神主として熊野宮に奉仕します。大津家は伊達の時代を今につなぐ旧家として、熊野門前で歴史を守っています。
(このカットの解説は宮内よもやま歴史絵巻よりお借りしました)
5月28日
県南囲碁会事務局 平吹
山形県・県南囲碁リーグ戦
愚息の顔を見たついでに新発田城も見て ☆☆ 歴史ものから、城郭編⑥
2022.05.27(19:39)
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1年半ぶりに新潟県の新発田市まで女房と一緒にドライブしました。
新発田市には一人暮らしの愚息がおりまして、そろそろアパート内の廃品回収をせねばと女房が言い始めてました。必須の目的と言うものでもないが、そうだな、行ってみっかとなったわけです。
南陽市から113号線を小国経由で向かいます。
車で走っていると道路に沿って流れる荒川の支流に靄がかかっているのが垣間見えました。すぐに女房に車を止めるよう言いました。でも止まる場所が見つかりません。しゃーないから窓越しに荒川をカメラを向けました。残念ながらこちらはうっすら程度でしかありませんでした。新聞なんかに載った只見川渓谷の朝霧は幻想的で有名になりましたね。それにしてもこんなことをしてカメラで撮ったりするとそれなりに何かを発見するものですね。樹木が繁茂する対岸の山の裾と水面が接していることを。水の中でも樹木は生き続けられるんだなあ。白川河畔の水没林も新聞に載っていたですね。
小国の道の駅の裏山にスノボーの練習台があります。北京冬季オリンピックで優勝した平野歩夢選手が小さい頃ここで練習したんですな。そうかぁ。
昼になったから息子と女房で昼飯に出掛けました。
その後息子の運転に任せていたら新潟東港に着きました。ここには火力発電所があります。向こうの船を見ているとロシアからの石油、ガス禁輸などで世界がエネルギー危機に見舞われるニュースが蘇ってきました。日本は石油の備蓄地からこうしてタンカーでこの港に運んでくるものなのだろうか。こんなわけでまたぞろ以下のような雲爺のうんちくが頭をもたげて来ました。ちょっとだけ聞いてください。
ウクライナ危機はガキプーチンの幼稚で勝手な悪魔の思い入れから生じたものです。BS番組「世界ふれあい街歩き」でウクライナのキーウ(旧名 キエフ)編を2回見ました。ウクライナはオレンジ革命、マイダン革命の苦難の歴史を経験しています。自由を理解出来ないプーチンは現代では所詮生きていけない生き物です。さらに中国、北朝鮮が同類であるは言うに及ばず。本質は権威主義国家が流しているニセ、エセ情報に踊らされることなく歴史が作り上げてきた自由、民主の思想を厳然と守って行くことです。社会主義、共産主義の性格としての全体制、武断制こそ除かなければなりません。
悪い癖で今回も前置きが長くなりました。
ここが新発田城です。一見して清々しくなる石垣がこの城の特徴です。全長350メートルに及ぶ石垣は見事です。寛文9(1669)年に大地震が起き大半が崩れ落ちました。江戸の職人を呼んで整形した石を隙間なく組んで再建しました。この技法は全国でもトップクラスと言われています。
慶長3(1598)年に加賀の国から溝口秀勝が初代藩主として柴田に入封する。そして上杉景勝と戦って滅びた新発田氏の館跡に築城する。入封当時は藩領は沼などが多い未開墾地だったが、歴代藩主が河川改修や干拓などの治水と新田開発に努めた結果、美田の広がる蒲原平野へと生まれ変わった。
表門
この表門は旧二の丸隅櫓とともに県内で唯一江戸時代から現存する城郭建造物である。
本丸にある三階櫓
事実上の天守閣だが幕府や親藩に遠慮して三階櫓や御三階櫓と呼んだ。秀勝侯入封400年記念事業を契機として三階櫓復元の機運が高まり、三階櫓と辰巳櫓の復元工事が行われ平成16年に完成した。
辰巳櫓
本丸の敷地には天守閣はなく代わりに城屋敷が建てられた。敷地の四ッ角にこのような櫓が作られた。
鉄砲櫓
新発田藩は12代、274年存続した。外様大名でありながら移封が無かったことは注目すべきことである。
新発田藩は高田馬場の仇討や赤穂浪士で有名な堀部安兵衛が生まれた地である。
5月27日
県南囲碁会事務局 平吹
山形県・県南囲碁リーグ戦
リーグ戦完全復活に向けて幸せの使者が
2022.05.26(21:06)
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6月からリーグ戦が復活します。今度こそ完全に
知らないうちに雲爺の庭の樅の木にキジバトが巣を作ろうとして居付いています。ハトは幸せの使者です。
リーグ戦の完全復活はこれで間違いありません。
嬉しいですね。3年目にしてようやく完全復活、長かった~。
一部変更がありますが、当面のリーグ戦のスケジュールは以下のようになります。
6月5日(日) 白鷹大会 荒砥地区コミュニティセンター
7月10日(日) 南陽大会 えくぼプラザ (7月3日の川西大会から日程、会場ともに変更)
7月31日(日) 南陽大会 南陽市体育館 (日程、会場が変更、8月7日から7月に)
9月4日(日) 長井大会
10月2日(日) 小国大会
近くの電線につがいで止まっています。
キジバト、樅の木の中でじっとしています。よく見るとまだ巣は出来ていないみたいで今が最中なのかどうも不明です。別名ヤマバト。留鳥で大きさは30cm程度。繁殖期はほぼ周年で1回に2ケの卵を産む。巣作りは下から中が見えるほど雑で、抱卵は夜間はメス、日中はオスだからこいつはオスじゃな。オスのさえずりはかなり特徴的で伝統的には「デデーポッポ」だが、耳を澄ますと「ポーポヤッタダー」と聞こえる。なんかいやらしい響きなのである。おもろいやら愛らしいやら。
♪ 啼~く~な~、小鳩よ~、心~の妻~よ~ ♪ 「 小鳩」と聞くとすぐこれになってしまうから、やっぱし雲爺も「焼け跡派」だなあ。
親父が植えた樅の木は長年のうちにこんなに背を伸ばしました。そしてキジバトが棲み始めました。
植物は皆そうでしょうが樅の木というのもすごいですね。凍えそうな雪吹の時、窓越しに樅の木を見ていたら、いつ止むともしれぬ強烈な風雪にさらされていました。押されては引かれ、押されては引かれでまさにいじめを受けいるかのようでした。とりわけ天辺の穂先などはもう弓なりっぱなしです。しかし彼らは揺れるという巧妙な武器でやり過ごすから心配などまるで無用なわけです。むしろ揺らしてもらってメリットを得ているのでしょう。真冬のバトル、なかなかなえらいものを見せてもらいました。それに比べると雲爺は雲散霧消が得意技と言うんだからメッチャ恥ずかしいですばい。
山形県・県南囲碁リーグ戦
再開、長井つつじ祭り大会
2022.05.16(20:35)
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長井市の恒例つつじ祭り囲碁大会が3年ぶりに開催されました。
5月15日(日)会場は生涯学習プラザ。
この時期おすすめの風景は会場前に広がる代掻き後の田んぼです。今の田んぼは昔と違って広いから眺めると迫力がせまってきますね。視野を遮るものがないのは本当に気持ちがいいです。右の方は緑っぽいからもう田植えが済んだものなのか・・・
長井の5月は白つつじ 一色になる
会場を目にするのは3年ぶり
今やご時世はウィズコロナ。3年目の今年こそはコロナに打ち勝ってゆかなければなりません。
Aクラス
左から 準優勝 平吹五段 南陽市、 優勝 島津六段 南陽市、 三位 松永六段 長井市
Bクラス
優勝 平吹3級 長井市、 ただ今好調持続中。
準優勝 加藤四段 小国町 (帰られた)
三位 高山四段 白鷹町 (帰られた)
今回はコロナの関係で内輪のメンバーに限定
昼食は館内では禁止。全員館外に出て歩いて近くの食堂へ。
試合再開
右の加藤氏は小国町から来られた。小国町もコロナの規制は厳しいらしい。しかし各地とも徐々にいい方向へ向かっているようで、これからもますます期待しているところである。
5月16日
県南囲碁会事務局 平吹
山形県・県南囲碁リーグ戦
3年ぶりに開催、南陽桜まつり県南大会
2022.05.09(16:57)
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来た来た来た、目の前にカモシカだ
5月連休に我が家からすぐのところにある秋葉山に息子と一緒に登ってみた。心臓に持病を持つ雲爺はだましだまし下を向きながら歩を進めていた。そして何気なしに顔を上げたら目の前にカモシカが立っていた。びっくりすると同時にかわいい感情が急激に湧きあがった。恐怖心はない。パンダみたいな特徴ある目元に釘付けになり、猫好きの雲爺は思わずニャンニャン言葉をかけてやった、が反応はない。しばらくして向こうへ立ち去った。
後日「熊に魅せられた男」というドキュメント番組を見た。それは熊と至近距離で一緒の時間を楽しむというものだった。熊と友になれてもそこはあくまでも一線を越えない範囲で触れ合うのだそうだ。熊とカモシカの違いはあったが、雲爺と息子はその時は確かにカモシカと時間を共有していたなあ。
来た来た来た、いよいよコロナ克服の時が来たのです、
5月3日、南陽桜まつり県南大会が3年ぶりに開催されました。
Aクラス
優勝 小野八段 喜多方 (中)
準優勝 斎藤六段 福島 (左)
三位 太田九段 山形 (右)
小野氏、秘密兵器の棋譜記録器で対戦する超一流勉強家だから、そろそろ結果が出るだろうと思っていたが、こうしてしっかりと証明してくれた。福島県では主要な大会では棋譜取りのお役に付かれるやに聞いている。いずれ県の代表になる日は近いのではないか。
来た来た来た、赤湯の自慢、芝桜山
雲爺、カモシカと出会った後に秋葉山の芝桜を観賞してきました。ここは山頂の山腹に芝桜が植えられている誠に貴重な花公園なのです。平地の芝桜はよく見かけるがこうして立体的に観賞できるところは他にはないのではないか。満開にはすこし早いようだが、間もなくすると薄ピンクの箇所は濃くなって目が覚めるほどになります。
Bクラス
優勝 斯波六段 山形
準優勝 本田五段 南陽
三位 大塚五段 米沢 (帰られた)
斯波氏 高桑氏に連絡してやるからよう。雲爺の昔の職場の同僚である高桑氏は斯波氏と高校で同級の由。命短し世間は狭しじゃ。後期高齢の雲爺はこうして碁を打ってあと25年は生きてみたいもんだぞ。
来た来た来た、雲爺の季節、山菜取りじゃなくて戦国山城跡探索
芝桜の後に今度は近くの二色根楯なる山城の痕跡を訪ねて息子と道なき藪漕ぎをやって参った。せめてもの思いで熊払いのストックなぞ持参したが、木の枝が邪魔してお荷物になるばかりじゃった 。📡 結論、方向を間違えて元の所に戻ってしまい成果なし。🍙
Cクラス
優勝 鈴木四段 米沢 (中)
準優勝 槇嶋四段 喜多方 (右)
三位 井上四段 喜多方 (左)
鈴木氏 往年の県三段位獲得戦の強豪 。 この時期お仕事忙しい中をおいでいただきました。
Dクラス
優勝 島津二段 高畠 (中)
準優勝 菅野初段 米沢 (左)
三位 平吹3級 長井 (右)
島津氏 将棋と碁の二刀流で有名。このたびは県の将棋大会では置賜地区代表として活躍された。
菅野氏 こちら数年前の県の三段位獲得戦で準優勝を治められ、昨年も活躍されている。
平吹氏 長井の地元の例会では先輩に猛稽古をつけてもらっており実力急上昇。
南陽の県南大会は86回を迎えることになった。
あの頃は80名もいた南陽囲碁会の会員はどこに行ったものかのう。立派な足付碁盤を一杯残してのう。🌠🌠
参加者は40名。
北は山形、南は福島県と広いエリアから来ていただいております。コロナで人数は少なくとも新しい強豪が顔を見せるきわめてレベルの高い棋戦です。
Aクラス
小野八段 対 太田九段 事実上の優勝決定戦
Cクラス
鈴木四段 対 槇嶋四段 事実上の優勝決定戦
Dクラス
島津二段 対 菅野初段 事実上の優勝決定戦
Cクラス
加藤四段 対 荒四段
加藤氏は小国碁楽会会長。コロナの関係で久方ぶりのご参加。
Aクラス
中村六段 対 福島九段
福島氏 最近では準優勝、優勝と戦歴は高かったがここにきて少々ブレーキがかかったか。
Aクラス
太田九段 対 斎藤六段
う~ん 黒持ち斎藤氏の地が多かったようですね。
Dクラス
平吹3級 対 菅野初段
Cクラス
森岡四段 対 槙嶋四段
5月9日
南陽囲碁会事務局 平吹
山形県・県南囲碁リーグ戦
4月10日お天気良し。今日は山形市の名峰、富神山へトレッキングに参ります。
山形市を代表する山と言ったら東に千歳山、そして西に富神山となるのではないですか。どちらも市内の身近なところ位置しており、初心者でも登れる誰からでも愛される山です。ごらんなさい、千歳山と同様にピラミッド形をしており登高意欲がそそられます。標高は402メートル。
1500万年前に白鷹山火山系の噴出したマグマが固まって安山岩の山が形成され、長年の風雪による浸食でこのような形が出来上がりました。山頂の西側には奥州関ヶ原出羽合戦で最上氏と上杉氏が死闘を演じた古戦場があります。
登り口の新道口(駐車場有)
女房が同行者です。雲爺は若いころは登山に夢中で、結婚しても単独や山岳会の仲間、会社の友人などと登っていました。当時は彼女は子育てに忙しかったこともあり、山にはあまり関心なかったと思っていました。ところが熟年になって「とんでもない思い違い」と恨まれる始末。それで思いをリフレッシュせんとグレ-トトラバースや日本百名山のテレビ番組を毎日見ております。こんなことで罪滅ぼしも兼ねて県内の低百名山に足を延ばしておるわけでごんす。
この山はとりわけ登り易くハイカーが多い
尾根伝いに緩やかな道が続く
中間の曲森山なる頂に到着。前方に富神山が
山頂間近か。いわゆるここは直登路で心臓に病を持つ雲爺にとってはまさに胸突き八丁なのである。情けないことにこの間2回は休まんといけんじゃろ。
着きました
富神大明神と秋葉大明神が祀られている。
山形市内、奥羽山系が一望
奥州関ヶ原出羽合戦の時に上杉軍は敵の霞ケ城を偵察せんとここで十日間待ったが晴れなかったという。そこからトオカミ ⇒ 富神、山と名がついたという。かっこいいねえ。
帰りしなに近くの菅沢古墳二号墳を見る。
直径52m,高さ5mの円墳で県の指定史跡になっている。各種埴輪や甲冑、楯、容器などが出土しており相当な権力者が統治した東北でも有数の古墳とされている。築造年代は5世紀後半。
5月9日
県南囲碁会事務局 平吹