秋の遺跡巡り研修①多賀城、郡山
2024.11.13(15:39)
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我が家の庭石に初めて蔦なんでしょうな、いつの間にかまとわりつきました。石から栄養を吸い取るわけでなく単に吸盤でふっ付いて伸びて行くのです。ご苦労にもここまで侵食なさって来た蔦君とやら、あんたの生きざまをとくと観察してあげるでのう。
1年ぶりに巡ってきましたよ、秋の研修旅行
高畠町にある「山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館」の恒例秋の研修旅行です。
今回は10月20日(日)宮城県の多賀城跡と七ヶ浜を巡ります。25名のバス旅行です。
仙台市の郡山遺跡です。ここは訪れませんでしたが東北の一大古代城柵、国府である多賀城が置かれる前に作られた官衙(役所)跡ですからここからスタートします。場所は仙台市太白区。古代律令国家が東北地方を支配する上で大きな障害となっているのが辺境の蝦夷でした。その蝦夷攻略のために最初に軍事基地城柵・官衙が置かれました。
【画像はグーグルアースから】
仙台市南部を流れる名取川と広瀬川の合流付近でJR東北線・長町駅の東側に広がる住宅街の中に郡山遺跡はあります。敵に対する防御のため近くに川があるところに立地されています。今ではこのように住宅地になっていますが、1300年以上前のことですから土中に長らく隠れておったわけです。それが発掘で出て来た。しかし不思議ですよね、百年、千年単位で年月が経過すれば土の下にお隠れするというそのことが、その過程をぜひ見てみたいもんですな。埋もれるという自然現象も神様の仕業だと考えればおもろいことです。
時期的には大化の改新以降であり7世紀半ばから8世紀初めのほぼ飛鳥時代の事です。官衙は最初は北東の向きに、その後は北向きに作り変えられました。
【画像は東北歴史博物館ホームページ、記事はウィキペディアより参照】
陸奥の国の一郡として最初に置かれたとされる高畠町小郡山の郡衙(郡役所)の位置
雲爺は今回の研修で郡山遺跡を目にしたことで今まで点でしかなかった一つの認識が線になり大きな喜びを覚えました。
どういうことかお話します。
奈良時代が始まって間もない712年に今の山形県域も国の行政組織の中に組み入れられました。内陸部の置賜郡や最上郡(今の山形市付近)はそれ以前は陸奥国に属していましたが、間もなく庄内地方を中心とした出羽国に編入されました。それではいわゆる飛鳥時代はどうなのかというに、それは陸奥国の一郡だったのです。優嗜曇(ウキタム)郡と呼ばれていて、今の高畠町の小郡山(元は古郡山)に郡役所、いわゆる郡衙が置かれたと戦前の学者が唱えました。陸奥国の郡山と同じ名称で小さい郡山ですからうなずけます。証拠の一部として示されたお濠が現在もご覧のように残っているようですのでこの位置にあったのだろうと雲爺も考えたいです。発掘したら何か出てきそうで期待しているんですがねえ。この郡山と小郡山とが線でつながっていたのがこれで初めて分りました。ちなみに郡とは役所を意味します。宮城県の桑折も同じこおりと読みます。
【記事の一部はうきたむ風土記の丘考古資料館資料から参照】
上方に多賀城と下方に城下町が築造されました
多賀城は多賀城市にあった日本の古代城柵。国の特別史跡。神亀元年(724)大野東人(おおのあずまひと)が創建し奈良・平安時代の陸奥の国の国府となり政治・文化・軍事の中心として栄えました。
【画像はグーグルアースから】
多賀城の入口 【画像はグーグルアースから】
現在は外郭南門や正面山道などを整備しています。
多賀城碑 2024年6月に国宝指定
多賀城の入口に多賀城の成り立ちを物語る大変重要な石碑があります。
724年の大野東人による多賀城創建と、藤原朝狩(恵美朝獦)が蝦夷平定を成し遂げた自身を顕彰し、762年の多賀城改修の記念に建造されたと考えられています。
内容は都(平城京)、蝦夷国、常陸国、下野国、靺鞨国から多賀城までの行程を記す前段部分と、創建と改修をした後段部分になっています。
【記事はウィキペディアより】
多賀城政庁から南門・南北大路に至る区域で南門と築地塀の復元工事を進めています
多賀城が設置されたとされる年から数えて今年令和6年創建1300年の年を迎えました。
多賀城跡の立体復元工事は平成2年の計画着工から復元工事が始まった令和元年まで、実に30年の歳月を経て実現しました。いろいろあったんでしょう、良かったですね。多賀城は名前でしか知らない方多いでしょうから。初めて立体復元される多賀城南門と築地塀は古代の工法で復元されました。歴史的建造物に触れることにより多賀城の歴史の理解と重要性を再認識出来ます。
一般公開は来年4月です。皆さんぜひ足を運んでください。今後はどこまで復元整備されるのでしょうね。とにかくリニアモーターカーと同じで生前の雲爺が目に出来なくても構いません。とにかく全体が復元されることを願ってやみません。
【記事は多賀城創建記念パンフレットより】
南門と築地塀遠望
庄内の城輪柵を春に初めて見学しましたが、当然ながら多賀城は格段上です。古代がこんなに華やかになったのですから、仙台の青葉城の方ももっと復元してもらいたいです。伊達政宗が悔しがってますよ。
政庁の南門から多賀城の外郭南門を通り城下町に通じていた南北大路
政庁跡のようです
政庁跡のようです
最も華やかだった第Ⅱ期政庁模型
多賀城のほぼ中央には政庁が置かれました。100m四方を築地で囲み、中央北側に正殿、手前両側に脇殿が配置され、建物で囲まれた空間は広場を形成しています。ここでは重要な政務の決済や儀式が行われました。
当初の多賀城は軍事機能も擁しておりその施設が向こうのものと説明されていたんだったかなあ、忘れました。
役人の休憩室だったかなあ
上が多賀城で南に南北大路が伸びて城下町に達し東西大路と交差しています
大路を軸として碁盤目に小路が切られました。右の建物は多賀城廃寺。大路に面した立地の良いところには国司を始め高級官人の邸宅があり、小路には多賀城で仕事をする人々の住居などが配置されました。街中ではいろいろな遺物が発掘されています。
国司屋敷
東北歴史博物館
博物館食堂で昼食
平城京復元
794年に桓武天皇が平安京に都を移し奈良時代から平安時代に変わります。この頃には日本は国力が付いており、続日本記には天皇の威厳と徳が渤海の北、蝦夷まで及んでいると記しており、中国古来の中華思想が早くも日本でも生まれているとの解釈があります。渤海国は今の中国東北部、いわゆる満州、日本海沿海部あたりまでを意味します。渤海は唐、新羅に滅ぼされた高句麗の遺民によって建国されたのですが、渤海と交流を持つ日本ではすでに渤海を属国視しており日本の勢力圏とみなしていたきらいがあります。極東アジアには渤海と日本を核としその外側には突厥、契丹、室韋、黒水靺鞨などの外国夷狄民族が取り巻き、国内においては陸奥国の東には蝦夷という夷狄民族がいるという図式で当時は見ていました。まさに中華思想の日本版と言えるでしょうか。白村江の海戦のように日本は外国に攻め入る力をすでに持っていたわけですから、豊臣秀吉が朝鮮出兵したのもうなずけます。
この辺は学校では教わることはありませんよね、新発見 !
【画像はウィキペディア、記事は東北歴史博物館の資料参照】
発掘された遺物
呪いの人形、人面墨書土器、土馬、大型人形
習字練習が書かれた高杯木簡
下級の役人の仕事は文書を作成することでした。文字を書けなければならなかったので文字の習得・修練に努めました。
昭和48年に多賀城から日本で初めて漆紙文書が発掘されました。当時漆の入った壺は書き終わり不要になった紙で蓋をしていたようでした。そこで漆に触れた紙の部分は腐ることなく土の中で長年保たれていたのです。変色していますが文字は赤外線かなんかで読み取ることが出来るんだそうです。現在では木簡と並んで貴重な資料になっています。それにしても漆ってすごいものなんですね。何が幸いするかわかりません。
各種硯
製鉄炉の出土品
直刀、手刀
鬼瓦
人面土器
多賀城廃寺
廃寺とは年月が古く名称が分らなくなっているお寺の事でここは多賀城の鎮守寺でした。観世音寺らしいようです。赤湯の薬師寺の脇にも観音寺というのが昔あったようです。観音寺系?
雲爺の養父は教師になった頃は羽前中山村の西福寺なる古刹に下宿していました。2年前にその場所を探したらずいぶん前に廃寺になっていたことを知りました。思わずじ~んと来ましたね。人間の歴史というものがこのような建物を介して蘇ってきます。所詮人間って誰でもが寂しい存在なんですよ。各々が各々だけの歴史を抱えながらみんな旅立ってゆきます。そして蘇ることはないでしょう。無限の無があるのです。宇宙と対極の無、それでいいのです。葉っぱになって蘇らなくても。でも、でも、こうして雲爺は実在しているんだよな、もしかして、やっぱり何かから雲爺も蘇っていたのかなあ・・・
石段
礎石
毎度おなじみの「行きはよいよい帰りは怖い」こわい、疲れる、居眠り
パーキングエリア 少し元気を取り戻して・・・・
11月14日
県南囲碁会事務局 平吹