マーラー交響曲の集大成、交響曲第8番「千人の交響曲」、これはロマン派音痴の僕ですら、ちょっと
表現できない類の感動を覚えた壮大な音楽でした。
人にマーラーの曲を1曲だけ薦めるとしたら、僕の場合は迷うことなくこれです。「千人」という表現は誇張ではなくて、初演時は本当に千人超えの編成だったそうで。この世紀のイヴェントは大センセーションを巻き起こし、
シェーンベルクや
シュトラウスといった大作曲家はもちろん、いろんな国の国王や皇太子、文学者や画家などの文化人なども観客として押し寄せたそうです。観客の興奮は凄まじく、終演後30分たってもまだ万雷の拍手が鳴り響きつづけたとか。マーラーは、自分の死の半年前の1910年の初演で、人生最大の賞賛を受けたことになります。死の直前で人生のクライマックスにたどり着くとはなんと素晴らしい人生でしょうか。後期ロマン派を代表する作曲家と言われるだけの事を実際にやってのけた大作曲家だと思います。
この曲、交響曲とはいうものの、編成が交響曲の範囲を超えてます。オルガンやハルモニウムやピアノを含む巨大なオーケストラ、児童合唱と混声合唱が2組、独唱が8人です。また、交響曲に詩を使う事をやめていたマーラー、ここで詩を復活させます。復活どころか、ずっと詩を軸に進んでいくので、交響曲じゃなくて声楽に思えちゃうほど。全体は2部に分かれていて、
1部は教会音楽風の大合唱の讃歌でものすごいテンション、絶叫に近い瞬間すらあります!そして
2部はゲーテのファウストのテキストを用いた神秘的なところから始まる音楽。マーラーの音楽って機能和声なロマン主義ど真ん中という音楽が多いですが、この第2部はマーラーの作品の中でもかなり挑戦的な響きが多く入ってると感じました。純粋に
音響面だけ見れば、僕にとっては千人の交響曲の第2部がマーラーの最高傑作で、弦楽器隊のピチカートの上に乗る木管、その中から独唱が出てきた瞬間は鳥肌ものです。さらに、ラストの昇天の豊饒さ静謐さ美しさ官能性といったら…。
そして、この1部と2部のコントラストが見事、この素晴らしさは文章では言い表しがたいです。詞の内容は、ユダヤ教やキリスト教という一神教の世界観を理解できていないとなかなか深い所まで分からないんだろうな、とは思いましたが、
この巨大な作品の最後の言葉が「永遠に女性的なものが、我々を率いて昇りゆく」ですから、やっぱり一神教的世界観が根底にあるなと思いました。そしてこの結末が、マーラーのすべての交響曲に共通するものなんじゃないかと。西洋の宗教音楽の多くって、死者を送り出すときに使う宗教音楽がとてつもなく美しくてゆったりしていて、まるでそれが最高の幸福のように鳴り響かせますよね。それに僕はいつも胸を打たれて、僕は死ぬのが恐いのに、こういう音楽を聴くだけで、まるで死が救いや安らぎのように感じられて、恐怖がスーっと引けていくのです。こういう感覚って、バッハのミサ曲ロ短調とか、
フォーレのレクイエムを聴いていても感じますが、千人の交響曲もやっぱりそういう音楽なんじゃないかと。ロマン派音楽崩壊寸前にこの音楽がきたというところに、なんとも言えない感動を覚えてしまいました。西洋のロマン派音楽が目指してきたものを総括して要約すると、これを言いたい音楽群なのだ、みたいな。この曲の最後に来る「神秘の合唱」は救いとともに官能の極致の響き、これほど劇的なラストを持つ音楽って、劇性の強いロマン派の交響曲ですらなかなかないです。
最後に、ちょっと異端かもしれない見解を。マーラー研究の学者さんからは怒られてしまうかも知れませんが…マーラーの交響曲って、2番以降はずっと声楽つきで、5番から7番までは純粋器楽、8番になって声が戻ってきて、しかもそれが宗教曲のような様相、結末は昇天です。そして8番最後の昇天は、実際にマーラーの人生のクライマックスともピッタリ合ってます。つまり…交響曲第1番がイントロダクション、そして2番から8番はそれでひとつの超巨大な交響曲になっているとも言えそうです。8番のみならず、マーラーのシンフォニー全体のラストであるかのように響くのが、僕にとっての千人の交響曲です。だから、この8番だけを聴くだけだと感動は半減、マーラーのシンフォニーぜんぶを聴くと「千人の交響曲」を聴いた時の感動が跳ね上がり、さらにロマン派音楽全体を聴いた後に聴くとそれだけで絶頂しちゃいそうになるという。な~んて、マーラーはこのあと第9番も書いたんですけどね(^^;)。
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