『ヘヴィー・ウェザー』2年後の1979にウェザー・リポートが発表したライブアルバムです。これも有名な1枚。ひとつ前の日記で、「フュージョンは3つの要素で出来ている」な~んて暴論を展開しましたが(^^;)、『Heavy Weather』が3つのバランスがいいアルバムだとしたら、
このアルバムはプレイ寄りな感じ。ライブ音源ですしね。
もしフュージョンを聴く人が、ポップスやロックも聴いたうえでフュージョンに辿りついた場合、フュージョンのどこに魅力を感じたのかを考えると、たいがいはプレイ部分じゃないかと思うのです。そういう
演奏志向のフュージョン・ファンの人にとってのウェザー・リポートのベスト・アルバムって、弾きまくりなこのアルバムになるのかも。
そしてその弾きまくり方に、フュージョンの特徴が出てる気がします。例えば
クラシックや
ジャズだったら?
フラメンコや
アル・アンダルース音楽や
タンゴだったら?どれも、あるピークに向かってゆるくアッチェルして、ピークでフォルテなりフォルテシモなりで「ガーン!」と来ると思うんですよね。それ以外のところでは、ルバートにしたりタッチをソフトにしたり歌わせたり…まあ、色々表現すると思うんです。でもウェザーリポート以降のフュージョンで感じるのは、そういう表現はまったくなく、表現のすべてが速さに特化されて聴こえる事。速さといってもテンポの変化ではなく、音価(4分音符とか8分音符とか、音符の長さの事)限定、みたいな。もちろんこれは極端な表現ですが、
他の音楽に比べると、指は速くなってもフォルテにならない、アッチェルしない、タッチは変わらない…クールなのです。だから、クラシックやジャズやタンゴやラテン音楽を聴くなり演奏するなりする人からすると、フュージョンやプログレに対する「テクがすごい」という褒め言葉にはうなづけない所もあるんじゃないかと。テクというものにスピードしか含まれていなくて、表現に使える技巧の幅がおそろしく狭い…みたいな。
これって、何で起きてるんでしょう。ミュージシャンの資質もさることながら、エレクトリックの弊害なんじゃないかと。電子ピアノを弾いていて嫌なのは、タッチを変えてもそれが音に反映されない事。音量は変わってる気がするんですよ。でも、音色が変わってなくて、強さの差による音色が5個ぐらいしか入ってない気がするんです。似たような事を、エレキ・ギターをひかせてもらった時も感じまして、弱く弾いても音が「バーン」と出てしまって弱くならないし音色も変わらない…。つまり、エレクトリックな楽器って、ある特定の音色を作る事にやたら神経を使ってる割に、音色を変化させるタッチやら音量には実に無神経で、そういう楽器を使って演奏していればプレイヤーだってだんだんそういうものに無頓着になっていくんじゃなかろうか、みたいな。
でもそれがある効果を生み出してる面もたしかにあって、これがフュージョンの「一生けんめい弾きまくってる割にクール」というイメージに繋がってると感じました。これをいいと思うかどうかは捉え方次第で、僕の場合、これはこれでカッコいいと思う時もたしかにあります。熱いけどクールというか。このライブ演奏を聴きながら、そんな事を感じていました(^^;)。
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