吉田簑助さんが死去 文楽人形遣い、91歳

文楽界をけん引した人形浄瑠璃文楽の人形遣いで人間国宝の吉田簑助(よしだ・みのすけ、本名=平尾勝義=ひらお・かつよし)さんが11月7日、死去した。91歳だった。告別式は11月12日正午から大阪府吹田市桃山台5の3の10の公益社千里会館。喪主は妻、匡子さん。
大阪市生まれ。人形遣いだった父、二代目桐竹紋太郎に連れられて幼い頃から大阪・四ツ橋の文楽座に通い、1940年に6歳で三代目吉田文五郎に入門。桐竹紋二郎を名乗り、43年四ツ橋文楽座で初舞台。48年二代目桐竹紋十郎の門下に移り、61年、東京・三越劇場で三代目吉田簑助を襲名した。
初代吉田玉男の相手役として存在感を高め、「曽根崎心中」のお初や「本朝廿四孝」の八重垣姫など女形の多くを当たり役とした。華と憂い、色気を同居させた表現は舞台に出るだけで注目を集める存在だった。
98年に脳出血で倒れたが、厳しいリハビリを経て翌年に舞台復帰。女形の第一人者として舞台に立ち続けた。後進の育成にも熱心で、三代目桐竹勘十郎ら多くの弟子を育てた。
94年に人間国宝、2006年フランスより芸術文化勲章コマンドール、09年文化功労者。12年日本芸術院会員に選ばれた。07年9月、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載した。
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