任天堂ファミコン30年 中年「マリオ」再び跳べるか
脱・集団指導体制、岩田流でスピード経営
「カリスマ」山内氏のワンマン経営で躍進
「環境変化に速いスピードで適応しなければいけない」(岩田社長)。6月27日に11年ぶりに代表取締役クラスの役員を大幅刷新した任天堂。山内前社長時代からの「番頭役」で、70歳前後の代表取締役2人を含む高齢の4人が退任した。新しい経営陣10人の平均年齢は約7歳も若返った。
代表権を持つのはそれまでの5人から、岩田社長、「マリオ」の生みの親として知られる宮本茂専務、ゲーム機開発の責任者である竹田玄洋専務の3人のみとなった。権限を集中させ、意思決定を迅速にして経営スピードを上げる。
任天堂は1889年に花札の製造で創業。その後、トランプやかるた、玩具などに手を広げ、多角化を進めて経営危機に陥ることもあった。しかし、1949年に社長に就任した山内氏の時代、ゲームへの参入が同社を国際優良企業に変えた。

1981年11月。開発第2部の部長だった上村雅之氏(70)に1本の電話が入った。受話器の先は山内社長。「テレビゲームの開発をやれ」。一言告げると電話を切った。後日になっても「性能や仕様に指示はなく、ただ『売値1万円以下でやれ』と、それだけですよ」と上村氏は振り返る。
「カリスマ」と呼ばれた山内氏の、こんなワンマン経営が任天堂躍進の原動力だった。山内氏の一言で開発が始まったファミコンは83年7月に発売。世界で累計6191万台を売る大ヒット商品になり、同社を世界的な企業に発展させた。
「ゲームのデフレ」で業績が悪化
マリオシリーズを筆頭に「ポケットモンスター(ポケモン)」などの人気ソフトによってハードの販売も促す事業モデルを確立、世界のゲーム界を席巻した。ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)や米マイクロソフトなどとの競争も勝ち抜いてきた。

そんな同社が、取締役の半分が代表権を持つという異例の体制になったのは2002年。52年間社長を務めた山内前社長が退任し、42歳だった岩田氏が社長に就任したときだ。社長就任の2年前に外部からスカウトし、社内基盤のなかった岩田氏を支えるため、代表取締役を4人から6人に増やし集団指導体制にしたのは山内氏の考えだ。
競合他社から「任天堂も鈍くなるね」と陰口をたたかれたが、04年発売の携帯型ゲーム機「ニンテンドーDS」、06年発売の家庭用ゲーム機「Wii」を世界で大ヒットさせた。金融危機で多くの企業が苦しむ中、09年3月期に過去最高益を記録した。
しかし、ネットの魔手が任天堂を直撃する。ネット上で無料や数百円で遊べるゲームが広がり、「ゲームのデフレ」が進行。「数千円を出してまでソフトを買いたいと思ってもらえるハードルは年々上がっている」と岩田社長は分析する。
任天堂の業績は10年3月期から急速に悪化。11~12年度は2期連続の営業赤字になった。岩田社長は集団指導体制からの脱却を決意。9年ぶりとなる営業組織の再編を16日付で実施する。社長室を経営企画室に改組し、テレビCMの担当部署を社長直轄にする。従来以上に社長の考えが現場に届きやすくする。米子会社の最高経営責任者(CEO)も岩田社長自ら兼務し、最大市場である米国での販売をテコ入れする。
14年3月期は営業利益1000億円を「コミットメント」として掲げる岩田社長。だが市場からは「達成は難しい」(国内証券アナリスト)との声もある。「ソフトに特化すればいい」(外資系証券アナリスト)との指摘さえ出る。
今も任天堂のキャラの主役はマリオ。中年となった不動のセンターは得意の跳躍力で同社を再生できるか。「30年たったから家庭用ゲーム機のビジネスモデルの寿命が来て、我々は苦しんでいるという見方を私はしていない」と岩田社長。それを証明するには数字で結果を示すしかない。
(早川麗)
[日経産業新聞2013年7月11日付]