川崎がJ1初Vで証明した3つのこと(後編)
武田信平・前会長に聞く
01年から04年までJ2で戦い、05年にJ1に昇格すると平均入場者数は前年の9148人から初めて1万人を超え、1万3658人に達した。地道な活動が評価されたということだろう。
■算数のドリルにまでフロンターレ

行政には「とにかく何でもいいんで『フロンターレを利用してください』」というお願いの連続だったのが、だんだんとあちこちから『フロンターレの選手に出演してもらえないか』と声がかかるようになった。当時の市長の阿部孝夫さんに理解があったから、行政の現場にいる職員の態度も変わってくるようになった。川崎の市立小学校の算数のドリルにまでフロンターレが使われるようになった。
「ドリルの件は、天野春果君という元プロモーション部部長で、今は東京五輪、パラリンピックの組織委員会に転出した、突貫小僧みたいな男が頑張った。08年に彼がJリーグの欧州視察に出かけたとき、ロンドンのアーセナルに属するセスクというスペイン代表選手が、スペイン語の教科書に使われていると知らされ、これをフロンターレもやろうと思い立った。川崎市の校長会に出席して趣旨を説明したら一人の校長先生が面白いといってくれて、算数のドリルにフロンターレの選手が出て出題する副読本が完成した。地域貢献活動として、川崎市内の全市立小学校の6年生を対象に、費用をフロンターレが持って配布した」
「これにも裏話があってさ。きっかけは、09年のヤマザキ・ナビスコ・カップ決勝の敗北なんだよ。FC東京に負けた後、選手はショックが大きすぎて、落胆のあまり、一部の選手は表彰式の態度がぞんざいになってしまった。これに当時の鬼武健二チェアマンが激怒され、テレビを見ていた視聴者からも抗議の電話やメールがクラブに殺到した」

「決勝の翌日、選手を集めてミーティングをした。抗議のメールを印刷したら1メートルくらいの高さになった。それを机の上に置いて。悔しいのはわかるけれど、あの態度はなかったな。自分たちがやったことは悪い。だから、僕とゼネラルマネジャーの福家三男は自らに減給を科そうと思う。準優勝の賞金5000万円も返上することにした。しかし心配するな。賞金の半額は契約通りチームに渡すから君らで分ければいい。そんな話をして部屋を出ていった」
「そうしたら、選手だけでその後、話し合いましたということで主将の伊藤宏樹と選手会長の井川祐輔が僕のところに『本当にクラブに対して申し訳ないことをした。社長や福家さんが減給なのに、のうのうと自分らが賞金をもらうなんてできない。僕らも賞金を返します』と言いにきた。驚いたし、うれしかったね」
「その後、今度はスポンサーであるヤマザキビスケットの飯島茂彰社長のところにおわびにいき、賞金を返上したいと申し出た。すると飯島社長は差し上げたものを返上されても困ります、Jリーグで有効に使ってくださいとおっしゃる。それで宙に浮いた賞金の使い道を考えているうちに、算数ドリルの制作費に充てて全市の小学6年生に配ればいいとなった」
「このドリルは(岩手県の)陸前高田市にも持っていった。東日本大震災で教材も流されて授業もできないので教材を送ってほしいという情報を受け取った川崎市の先生から連絡があって、800冊のドリル全部に(中村)憲剛がサインしてクルマに積んで、ボールやウエアと一緒に運んで配ったら大層喜ばれて。地元のお父さんから後で『震災を口実にして勉強したくないといっていた子供たちがまた机に向かうようになりました』と連絡をもらったりした」
「これが縁になって、陸前高田市と川崎市、フロンターレの交流は今も続いている。陸前高田市に選手が行ってサッカー教室やバーベキューをしたり、陸前高田市の子供たちを"川崎修学旅行"と銘打って川崎に招待し、川崎の名所を観光したりサッカー観戦したり。うちのサポーターはそういうとき、陸前高田市まで出向いてバーベキューの設営をしたり、川崎観光では子供たちのアテンドをしたりと、いろいろな場面で手伝ってくれる」
「そういうクラブと地元やサポーターの結びつきの重要性、必要性を広めてくれた人として感謝したいのは、初期のころなら中西哲生だろう。その後はクラブ生え抜きの寺田周平(1999年入団)、伊藤宏樹(01年入団)、中村憲剛(03年入団)らが何事も率先していとわずにやってくれた。ピッチ外のことも地域密着のためなら前向きに協力してやっていくという流れというか渦をチームの中につくってくれた。腹の中で『マジか』と思っても、表に出さずに何でもやってくれた」

「彼らがそういう色をつけてくれたおかげで、その後に入ってくる選手たちは『フロンターレはそういうクラブなんだ』と覚悟して入ってくるようになった。校風じゃないけれど、今では移籍してくる選手もみんなわかっている」
そんな、いろいろな苦労の末に昨季、悲願ともいえるリーグチャンピオンになった。胸のつかえも取れたのではないか。勝ったら言おうと思っていたことがいくつもあるのではないだろうか。
■スタイルやファンサービス…
「今回のフロンターレの優勝は3つのことを証明したと思っている」
「1つ目はサッカーのスタイルに関すること。12年に風間(八宏=現名古屋監督)が監督になってからフロンターレのサッカーは面白くなったし、選手はうまくなった。止める、蹴るの技術も判断力もどんどん磨かれて。サッカーは、こんなに面白いスポーツでしょということを世に知らしめた。でも、そうやって面白いサッカーをするから勝てないともいわれた。それをついに払拭できたと思う」
「勝つには堅守速攻に限る、なんてことはないでしょ。お客さんだって手に汗握る、ビールを飲んでいる暇もない、面白い試合が見たいわけで。勝っても負けてもクラブから離れないコアなサポーターは別として、一般のファンを獲得するには勝つのが大事なのは当たり前。問題はどう勝つか。リーグの順位で下位の3分の1くらいは残留争いが目前にあるのでぜいたくはいえないが、上位にいるクラブはもっともっと面白いサッカーを目指さないと。将来的には欧州に行かなくても、ここでやれば十分に成長できる、あーだこーだといわれる筋合いはない、そんな気概を示せるクラブが増えてほしいもんだね」
「フロンターレの優勝が証明した2つ目は、地域密着のために選手にいろんなことをさせても、それが負担になって勝てないということはない、ということ。僕自身はそんなことは絶対にないと思っていた。だけど、あれだけ2位や準優勝が続くと『余計なファンサービスなんかしているから勝てない』という声が耳に入るようになった。そうじゃないことを証明するには優勝しかなった。それが実現した」
「僕に言わせりゃ、ファンサービスは過剰なくらいでいい。もっともっと他のクラブも増やせよ、サービスを増やしてファンも増やそうよ、と思っているくらい。欧州だってもっとやっているでしょう。ピッチ外でクラブや選手を使ってもらって、それでお客さんが増えたら、選手のパフォーマンスに好影響を与えることはあっても悪影響を及ぼすことはないよ。将来のファン拡大に向けて、チームを強くしながらも地域密着も果たすスタンダードを示したと思っている」
「3つ目はサポーターへの感謝とともに明言したい。フロンターレのサポーターはチームが肝心な試合に負けても、負けても、選手にブーイングを浴びせない。本当に彼らだって悔しかったろうし、ヤジや罵声とともにブーイングで非難や怒りを表明しても不思議じゃなかった。それでも絶対にしなかった」
「そんなサポーターに対して『選手に対する厳しさが足りない』などと批判するやからがいる。それが僕は悔しくてね。『選手は観客がつくるもの』という意見には同調するけれど、北風じゃなきゃダメなのか、太陽では無理なのか、と僕は思っていた」

「うちの森谷(賢太郎)という選手が僕に言ったことがある。『社長、選手にとって一番きついのは負けた後のサポーターのねぎらいの拍手です。あれに比べたらブーイングされる方がよほどマシです』。僕もそう思う。ブーイングは厳しくて、拍手は甘い、なんてのはうわべのことで。日本には日本のサポーターと選手の関係という文化があってもいいんじゃないか。それもまた証明できた気がしている」
00年に51歳で社長になり、15年4月からは会長としてフロンターレの発展に意を尽くしてきた。考えてみたら、武田さんがこんなに長くクラブのトップについていられたのが不思議。出資企業を持つクラブのトップ人事は、本体の人事異動に組み込まれ、3年もすれば代わるものだから。裏返していえば、だからこそ、フロンターレは成功したといえるのかもしれない。
「どこかのタイミングで富士通も僕を会社に戻そうとしたけれど、よくよく見てみると戻す場所が会社にはもうなかった。それだけなんじゃないの(笑)」
「長く社長をやれたメリットはあったと思う。社長になりたてのころ、『どうせ本社に2~3年で戻るんだろう』とあいさつ周りした先でさんざんいわれたもの。信用されないよね。2~3年でいなくなったら。そこを実績で証明できた。僕も本気、富士通も本気だと」
「それと今から思うと、やっぱり社長になったころは若かった。おかげで、どんな集まりに出ても2次会、3次会、どこまでもついていけた。地域の本当の話は3次会くらいにならないと出てこないもの。いろんな細かい人間関係も見えてくるしね。昼間の席じゃわからないことがいっぱいある。そういうのって若くないとできないよ」
■感謝の気持ちを忘れないで
「これからのフロンターレに期待すること? 1つは感謝の気持ちを忘れないこと。ここまでのクラブになるのに本当にいろいろな人のお世話になっている。たとえば、中山茂さんという地主さん。川崎市麻生区の練習場のすぐ近くに住んでいる方なんだけれど、練習場が1面しか取れなくて困っていたとき、練習場に隣接する中山さんが所有する里山を崩すことを許してくれたおかげで2面に拡大できた。グラウンドの近くに選手寮をつくろうとしたときにも、われわれのわがままを聞き届けて土地・建物を提供してくれた。こういう『足を向けて寝られない』という人との出会いの妙が、クラブが優勝するまで、そのときどきであったわけで」
「いずれホームの等々力競技場はバックスタンド、両ゴール裏も改修されて、3万5千人収容くらいのスタジアムに変貌するだろう。その具現化に行政、地域、専門家、協力者を巻き込んで取り組んでほしいと思っている。等々力にはアリーナも野球場もミュージアムもテニスコートもある。川崎市のスポーツの中心地になるポテンシャルがあるわけで、そこでフロンターレには常に中心にいてほしいと思う」
「Jリーグ100年構想じゃないけれど、癒やしと憩いの場を提供しながら、フロンターレには、これからも『証明』していくクラブであり続けてほしい。いろんなことを証明することでしか得られないのがクラブというもの。日常生活の会話の中にフロンターレの名前が普通に出てくるようなところまで後輩たちには目指してもらいたい」