倍賞千恵子 「寅さん」中断を山田監督に直訴しかけた
編集委員 小林明
1969年の第1作から続いてきた映画「男はつらいよ」シリーズの50作目「お帰り 寅さん」(山田洋次監督)が昨年暮れに公開された。倍賞千恵子が寅さんの異母妹、さくら役としてスクリーンに登場するのは49作目「寅次郎ハイビスカスの花 特別篇」(97年11月公開)以来、22年ぶり。
庶民派女優として知られる倍賞さんに「男はつらいよ」シリーズ50作目の撮影にまつわるエピソードのほか、女優生活の途中で「もう日本に帰るつもりはない」と突然、欧州に一人旅に出かけた秘話なども含めて松竹歌劇団(SKD)から女優、歌手として活躍するまでの軌跡を振り返ってもらった。
愛告白した博の求婚シーン、「さくらさんは本当に幸せだった」
――50作目「お帰り寅さん」の回想シーンでは過去に撮影した多くの名場面が流れましたね。
「ええ。演者さんと一緒に台本読みをした時、私たちの脇にスクリーンが置いてあって、山田さんが『このシーンがここで入ります』なんて説明しながら、挿入する過去の映像を映してくれたんです。『へえ、そうなんだ』と頭の中では一応、理解していたんですが、撮影に入る時には『どんなふうになるんだろう』と思っていて、最終的にああいう形に仕上がるとは予想していませんでした」
――特に印象的な名場面はありますか。
「たくさんありますけど、第1作目で夫の博さん(前田吟さん)が私が演じるさくらに熱い思いを語りながら、結婚を申し込む場面はとても良かったですね。男性からあんな真剣に愛を告白されるなんて、さくらさんは本当に幸せだったと思います。あのシーンを見ているうちに私も胸がいっぱいになり、ボロボロと泣いていました。あれは本当に名場面ですね」
印象深い「メロン騒動」、撮影時に漂う渥美さんの気配
――寅次郎役の故・渥美清さんとの名場面ではどうですか。
「色々あるんですけど、やっぱりメロン騒動が印象深いかな(15作目『寅次郎相合い傘』に登場。高級メロンを切り分けて食べようとしたら、寅次郎が帰宅して自分の分のメロンがないと憤慨した事件)。セットのお茶の間で演技していた時、そんなシーンが懐かしく記憶によみがえってきました。不思議な感覚なんですが、今回の「お帰り寅さん」を撮影した際、どこかに渥美さんの気配が漂っている気がしたんです。山田さんの後ろだったり、博さんの後ろだったり……」
――渥美さんはどんな人柄でしたか。
「普段からバッグなどはあまり持たない人でしたね。だからポケットがたくさん付いている服をよく着ていました。現金をじかにポケットにいれたりして……。いつだったか忘れたけど、ディオールだったか、サンローランだったか、肩パッドが入ったステキな夏のブレザーを買ってきてくれたんです。透明なカバーがかかった高級ブランド品で、随分高かったんだろうけど『渥美ちゃん、わざわざ銀座まで行って買ってきてくれたんだ。ああ、やっぱりお兄ちゃんなんだなぁ』なんて思ったりしていた。その気持ちがすごくうれしかったですね」
「シリーズ中断」を山田監督に直訴決意 さくら役が重荷に
――さくら役を演じるのが嫌になったこともあったそうですね。
「ええ、最初はそれほどでもなかったんですけど、何本目だったかな、シリーズが始まってだいぶたった頃、さくらを演じることに次第に重荷を感じるようになってきたんです。街を歩いていても、食事をしていても、知らない人から『ねえ、さくらさん』とか、『さくら、あんちゃん元気か』なんて言われるので……。それで一時期、かなりつらくなってしまい、山田さんに『この辺りでそろそろ休憩しませんか』と提案しようと思っていたんです」
――山田監督に「シリーズ中断」を直訴しようとしたんですね。
「ええ。でもね、そう思っていた矢先に撮影所でプロデューサーに『山田さんが呼んでます』と言われたので行ってみたら、『倍賞くん、すごいことになったよ』って山田さんが興奮気味に言うんです。東京都が82年度に都民文化栄誉章を創設し、栄えある第1回目を『男はつらいよ』(山田監督、渥美さん、倍賞さんの3人)が受けることになったと。その時『あ、そうか、シリーズはまだまだ続くんだ』と悟り、私も覚悟を決めました。『男はつらいよ』という作品は長い長い1本の映画を撮っているようなものだと思っています。色々と人生のことも学べたから、私にとっては学校みたいなものですね」
庶民派と正反対のイメージに憧れ、パリの街さっそうと歩きたい
――ヒットした歌を映画化した「下町の太陽」(63年公開、山田洋次監督)で庶民派女優として脚光を浴びました。
「あれは私にとって大きな節目になった作品でした。そもそも私は生まれが東京の巣鴨(豊島区)だし、疎開後に育った場所も東京の滝野川(北区)。どちらも下町ですから、自然にそうなったんだと思います。当時、松竹では岩下志麻さんが『山の手のお嬢さん』というイメージ。それに対して私は『サンダル履きが似合う庶民派女優』なんて呼ばれていた。岡田茉莉子さんが『高根の花』という感じだったから、『野に咲く草花みたいな若手が入ってきた』と見られたんでしょうね。でも、私、実は庶民派女優とはまったく違うイメージにも憧れていたんですよ」
――どんなイメージの女優ですか。
「当時、フランスのヌーヴェルヴァーグ映画とかが日本に入っていたので、パリの街をフランスパンやオレンジを抱えながら、さっそうと歩くようなことに憧れていたんです。赤いマフラーなんか首に巻いて、革手袋をはめ、サングラスをかけ、オープンカーで街を駆け抜けるみたいな。窓から片腕を出して、オープンカーを運転したりね。でも、オープンカーって、いざやってみると夏はすごく暑いのね。だから、すぐにやめちゃったけど。(笑)」
――庶民派女優とは正反対のイメージですね。
「でも、憧れはやっぱり実践してみたいじゃないですか。私、形から入るタイプだから(笑)。それで、仕事もすごく忙しくなってきたし、おまけに恋愛もダメになってしまって……。というか、会社や親にダメにさせられちゃって、色々なことが嫌になり、思い切って欧州へ一人旅に飛び出したんです。もう日本には帰らないくらいの覚悟で。たしか20歳代半ばくらいだったかな」
ストレス・失恋……、「日本に帰らない」と伊仏に一人旅
――「男はつらいよ」が始まる少し前のことですね。どこに行ったんですか。
「憧れていたイタリアとフランス。一人旅なんて生まれて初めての体験だから、松竹に切符を買ってもらい、現地の日本人にお世話になる手配までしてもらいました。でもローマの空港ですぐにトラブルが起きちゃって、迎えに来るはずの日本人がいくら待っても来ないんです。辺りはどんどん暗くなってくるし、空港スタッフには言葉が全然通じない。必死の思いでその日本人の家に電話をかけたら、奥さんが出て『夫が家を出るのが遅れたから、その場で動かずに待っていてください』という返事。ようやくその方が姿を見せた時には、ホッとして涙が止まりませんでした」
――随分と心細い思いをしたんですね。フランスではどうでしたか。
「パリでは念願のフランスパンとオレンジを買い、パンをかじりながら街を歩いてみました。楽しかったですよ。色々と珍しい体験もできました。レストランでお客さんがおいしそうな貝を食べていたので、『あれと同じものを』と注文したらカタツムリだと言われてギョッとしたりね……。それまでストレスや疲れがたまっていたので、きっと松竹が私にガス抜きする機会を与えてくれたんだと思います」
「実は出発前に山田さんから『どうせフランスに行くなら、劇作家マルセル・パニョルさんに会い、本にサインをもらって来てよ』と頼まれていたんです。少々、行き違いはあったけど、結局、マルセルさんにも会えて、本にもサインをもらいました。向きを間違えたのでサインが逆さまになっちゃったけど(笑)。それで『本を山田さんに返さなきゃ』と思い返し、なんとか日本に帰国する気持ちになったんです」
山田監督に頼まれたサイン、いい役者になった吉岡秀隆
――「お帰り 寅さん」では息子役の吉岡秀隆さんとも久々に共演しましたね。
「ヒデは本当にいい役者になりましたね。撮影初日の時、私が『あー、なんか緊張するなぁ』って言ったら、ヒデが『母さん、大丈夫ですよ』なんて優しく励ましてくれました。渥美ちゃんと一緒で、ヒデとも演技について相談したり、話し合ったりしたことはありません。実の息子みたいに腰などをマッサージしてもらったりしています。いつだったか、ヒデが息子役で共演した『遙かなる山の呼び声』(80年公開、山田洋次監督)を一緒に見て、『私たちって、本当にいい映画に出ていたんだね』なんて感動したこともありました」
――山田監督は「男はつらいよ」は切りが良い50作目まで作りたいと言っていたとか。
「それは私は全然聞いていません。映画のエンドロールで亡くなった方の名が出てきた時『あ、エンドマークなんだ』と思ったけど、不思議に『終わった』という実感がないんです。でも、山田さんに出会って、思いがけず長い間、素晴らしい役をやらせていただいたことには本当に感謝しています。渥美ちゃんも映画をみたら、『よぉ、ご苦労さん』なんて言ってくれるかもしれませんね」
(聞き手は編集委員 小林明)
ワークスタイルや暮らし・家計管理に役立つノウハウなどをまとめています。
※ NIKKEI STYLE は2023年にリニューアルしました。これまでに公開したコンテンツのほとんどは日経電子版などで引き続きご覧いただけます。
関連企業・業界