花畑浅間神社
〇花畑浅間神社花又富士(富士塚) 足立区花畑5-10
毛長川流域には、多くの古墳や遺跡の存在が確認されており、この神社もその形態から古墳を利用したものと考えられています。
参道の入り口に第六天社の石碑と庚申塔があります。
鳥居と扁額「浅間神社」
浅間社
<説明板>
「花畑浅間神社富士塚
富士塚とは、富士山を信仰する人々の集団である富士講によって築造された塚である。
富士山の溶岩石を使用して小山を築き、頂上には浅間神社の祠を祀り、烏帽子岩、小御岳社をはじめ、実物の富士山と同様に各名所を配すのが一般的であり、登山して参拝できるようになっている。
富士信仰は、文化・文政年間(1804~1829)に江戸を中心として爆発的に広まり多くの講中が結ばれ、講の発達に伴い富士塚の築造も盛んに行われるようになった。
この富士塚は、千住神社、保木間氷川神社の富士塚と同じく伊藤参行を講祖とする丸参講による築造である。築造年代は明らかではないが、石鳥居の年代や伝承より明治初年と考えられている。また、花畑大鷲神社には、この講中により明治五年の記年のある富士登山絵馬が奉納されている。
花畑浅間神社は社殿を持たず、富士塚の頂上に祀る浅間社をそのまま社名とし「野浅間」といわれている。神社の北側を流れる毛長川流域には、多くの古墳や遺跡の存在が確認されており、この神社もその形態から古墳を利用したものと考えられており興味深い。
昭和五十九年十一月、足立区有形民俗文化財に登録されている。
平成七年三月 東京都足立区教育委員会」
毛長川流域には、多くの古墳や遺跡の存在が確認されており、この神社もその形態から古墳を利用したものと考えられています。
参道の入り口に第六天社の石碑と庚申塔があります。
鳥居と扁額「浅間神社」
浅間社
<説明板>
「花畑浅間神社富士塚
富士塚とは、富士山を信仰する人々の集団である富士講によって築造された塚である。
富士山の溶岩石を使用して小山を築き、頂上には浅間神社の祠を祀り、烏帽子岩、小御岳社をはじめ、実物の富士山と同様に各名所を配すのが一般的であり、登山して参拝できるようになっている。
富士信仰は、文化・文政年間(1804~1829)に江戸を中心として爆発的に広まり多くの講中が結ばれ、講の発達に伴い富士塚の築造も盛んに行われるようになった。
この富士塚は、千住神社、保木間氷川神社の富士塚と同じく伊藤参行を講祖とする丸参講による築造である。築造年代は明らかではないが、石鳥居の年代や伝承より明治初年と考えられている。また、花畑大鷲神社には、この講中により明治五年の記年のある富士登山絵馬が奉納されている。
花畑浅間神社は社殿を持たず、富士塚の頂上に祀る浅間社をそのまま社名とし「野浅間」といわれている。神社の北側を流れる毛長川流域には、多くの古墳や遺跡の存在が確認されており、この神社もその形態から古墳を利用したものと考えられており興味深い。
昭和五十九年十一月、足立区有形民俗文化財に登録されている。
平成七年三月 東京都足立区教育委員会」
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流山道③ プチテラス/西光寺
〇流山街道名地プチテラス 足立区保木間4-12-9
「成田山まで是より十六里」と刻まれた道標と案内板が設置されています。花畑を通って流山から成田山へ向かう街道だった事を紹介しています。
旧日光街道から渕江小学校横の脇道に入り、右手の渕江村役場跡を過ぎ、保木間氷川神社の前を通り、途中大乗院への参道を横切って、須賀写真館前から国道4号線を横断し、スシローの後ろを通って進むと、名地に至ります。道が二又に分かれます。左手の細い道が流山道、2つの道に挟まれた地点が名地プチテラスです。
プチテラスから先は、プチテラスの後ろの狭いほうの道を行くと山王堀公園に出ます。右に行き公園に沿って東に曲がり、玉蔵院の前を通り西光寺(成田山参詣の休憩所として賑わう)に至ります。西光寺を経て、堤根公園手前で道筋はなくなっていますが、河岸場があった榎戸で綾瀬川を渡り、六木を経て流山に向かうのが流山道です。
小林一茶も、流山道を通って、交友のあった流山の秋元三左衛門を訪ねていたようです。
<流山街道歴史案内板>
「流山街道(王子吉川線一四九号線府県道)
村の中ほどを東西に通り、成田参詣に通じる道で、別名成田道ともいった。街道に沿って阿弥陀院、玉蔵院、西光寺があり、西光寺の門前には不動様を刻んだ道標があり成田山へ是より十六里(約六十四キロ米)榎戸まで二十町」など記されている。人家もこの道に沿って建てられ、名地、在家、原といったズシ(地縁集団)もこの道をはさんで発展してきた。
細井塾(通称)
名主の細井左一氏が一八六二年(文久二年)~一八七八年(明治十一年)の間、地元の十才前後の子に「よみ」「かき」を教え、礼儀行儀を重視した教育をした。
朴堂小学校
一八七八年(明治十一年)開設。細井塾の塾生五十七名がそのまま朴堂小学校へ移された。農家の子を対象とした夜学も開き教育した。一九〇一年(明治三十四年)渕江尋常高等小学校(西保一)が朴堂小学校と竹の塚正矯小学校と合併し創立されるまで存続した。 」
○西光寺 足立区保木間4-38-2
門前には成田山への道標があり、江戸時代には成田山参詣者の休憩所としても賑わいました。荒綾八十八ヶ所霊場掛番所です。
(説明板)
「西光寺
当寺は浄土宗を宗旨とし、郭鴻山彩雲院西光寺と号す。永享六年(一四三四)、長誉宗善上人の開山と伝えられる。
境内の不動堂には、平安時代の高僧智證大師作と伝えられる不動尊像が、本堂には運慶作と伝えられる阿弥陀如来像が安置されている。門前左側には、万延元年(一八六〇)造立の「成田山これより十六里」の道標がある。これは成田山参詣の道しるべであり、当時は休憩所としても賑わったという。
また、当寺には足立区有形文化財に登録されている「紙本着色当麻曼荼羅図」が所蔵されている。当図は文政五年(一八二二)、保木間村の石井市左衛門が次男深川霊厳寺二十六世住職桂誉上人を通じて、父親の四十三回忌に際し、西光寺に寄進したものである。精緻な描写と表現様式に江戸中期の当麻曼荼羅図の特色が表れている。
平成九年三月 足立区教育委員会」
<道標>
門前の左にある道標は、正面に不動明王座像を彫り、
・正面「成田山江是ヨリ十六里 榎戸迄二十丁」
・左面「大鳥江二十丁」
・右面「天下泰平国土安寧 是ヨリ西新井大師二十丁」
と刻まれています。万延元(1860)年11月造立。
境内には元禄9(1696)年11月銘の青面金剛庚申塔があります。
「成田山まで是より十六里」と刻まれた道標と案内板が設置されています。花畑を通って流山から成田山へ向かう街道だった事を紹介しています。
旧日光街道から渕江小学校横の脇道に入り、右手の渕江村役場跡を過ぎ、保木間氷川神社の前を通り、途中大乗院への参道を横切って、須賀写真館前から国道4号線を横断し、スシローの後ろを通って進むと、名地に至ります。道が二又に分かれます。左手の細い道が流山道、2つの道に挟まれた地点が名地プチテラスです。
プチテラスから先は、プチテラスの後ろの狭いほうの道を行くと山王堀公園に出ます。右に行き公園に沿って東に曲がり、玉蔵院の前を通り西光寺(成田山参詣の休憩所として賑わう)に至ります。西光寺を経て、堤根公園手前で道筋はなくなっていますが、河岸場があった榎戸で綾瀬川を渡り、六木を経て流山に向かうのが流山道です。
小林一茶も、流山道を通って、交友のあった流山の秋元三左衛門を訪ねていたようです。
<流山街道歴史案内板>
「流山街道(王子吉川線一四九号線府県道)
村の中ほどを東西に通り、成田参詣に通じる道で、別名成田道ともいった。街道に沿って阿弥陀院、玉蔵院、西光寺があり、西光寺の門前には不動様を刻んだ道標があり成田山へ是より十六里(約六十四キロ米)榎戸まで二十町」など記されている。人家もこの道に沿って建てられ、名地、在家、原といったズシ(地縁集団)もこの道をはさんで発展してきた。
細井塾(通称)
名主の細井左一氏が一八六二年(文久二年)~一八七八年(明治十一年)の間、地元の十才前後の子に「よみ」「かき」を教え、礼儀行儀を重視した教育をした。
朴堂小学校
一八七八年(明治十一年)開設。細井塾の塾生五十七名がそのまま朴堂小学校へ移された。農家の子を対象とした夜学も開き教育した。一九〇一年(明治三十四年)渕江尋常高等小学校(西保一)が朴堂小学校と竹の塚正矯小学校と合併し創立されるまで存続した。 」
○西光寺 足立区保木間4-38-2
門前には成田山への道標があり、江戸時代には成田山参詣者の休憩所としても賑わいました。荒綾八十八ヶ所霊場掛番所です。
(説明板)
「西光寺
当寺は浄土宗を宗旨とし、郭鴻山彩雲院西光寺と号す。永享六年(一四三四)、長誉宗善上人の開山と伝えられる。
境内の不動堂には、平安時代の高僧智證大師作と伝えられる不動尊像が、本堂には運慶作と伝えられる阿弥陀如来像が安置されている。門前左側には、万延元年(一八六〇)造立の「成田山これより十六里」の道標がある。これは成田山参詣の道しるべであり、当時は休憩所としても賑わったという。
また、当寺には足立区有形文化財に登録されている「紙本着色当麻曼荼羅図」が所蔵されている。当図は文政五年(一八二二)、保木間村の石井市左衛門が次男深川霊厳寺二十六世住職桂誉上人を通じて、父親の四十三回忌に際し、西光寺に寄進したものである。精緻な描写と表現様式に江戸中期の当麻曼荼羅図の特色が表れている。
平成九年三月 足立区教育委員会」
<道標>
門前の左にある道標は、正面に不動明王座像を彫り、
・正面「成田山江是ヨリ十六里 榎戸迄二十丁」
・左面「大鳥江二十丁」
・右面「天下泰平国土安寧 是ヨリ西新井大師二十丁」
と刻まれています。万延元(1860)年11月造立。
境内には元禄9(1696)年11月銘の青面金剛庚申塔があります。
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tag : 荒綾八十八ヶ所霊場
流山道② 大乗院 じんがんなわ祭り(2020年)
○大乗院 足立区西保木間2-14-5
流山道を進んで行くと、左に曲がる道があり、大乗院への参道です。
「「大門」名の由来
大乗院(新義真言宗、小谷野山宝持寺大乗院)の創建は、平安時代と伝承され、また、文永九年(1272)との説もある。
室町時代の中期には七堂伽藍が建ち並び、僧兵までかかえて、大変な権勢を誇っていたといわれる。
掘で囲まれた広大な寺域の中に、本堂・観音堂・塔・薬師堂・鐘楼・山門・庫裡などが配置されていたが、一キロはあった参道の西側には、用水が流れ、道路脇には、大きな松並木があった。参道の西側及び大乗院の周辺の集落は、大門厨子と言い、門前集落としての位置づけである。
当時は、年の瀬になると、山門から流山街道まで、大乗院に貢物を持って近郊からやって来る人が参道に列をなしたほどの絶大な権勢を誇っていたが、中央では、応仁の乱(1467)が始まり、関東でも古河公方(足利成氏)と堀越公方(足利政知)の対立が激化し、双方の前線基地の中間に位置するこの寺が、戦乱に巻き込まれ文明元年(1469)、敵側の焼き討ちに遭い、権勢を誇った七堂伽藍も焼失した。
壮大な山門として入封を誇っていた”大乗院の大門”今も大門厨子を中心とした住民の心の中にその精神が生きている。
毎年1月7日の早朝、旧大門地区の住民が大乗院の境内に集まり、わらを編んで大蛇を作り、それを山門脇のイチョウの木にかけて、五穀豊穣と無病息災を祈願する「じんがんなわ祭り」の民俗行事がある。
大門まちづくり研究会 」
<大乗院参道プチテラス>足立区西保木間2-8-10
大乗院の参道途中にプチテラスが設けられ、説明板があります。
<大乗院>
寺号標「古谷野山寶持寺 真言宗大乗院」
山門屋根瓦
脇門
本堂は平成27(2015)年に建て替えられています。
(説明板)
「大乗院
大乗院は、新義真言宗、古谷野山大乗院寶持寺と称する。創建の時期は明らかではないが、鎌倉時代を下ることはない。文明・文化と二度の火災で諸堂宇を焼いたが、本尊聖観世音菩薩立像と薬師如来立像は災いを免れた。
昭和十四年春に、本堂裏から発掘された正応二年(一二八九)の釈迦一尊種字板碑は区内でも古い方に属する。また、文明元年(一四六九)阿弥陀三尊種字板碑は、中興賢勝阿闍梨の逆修板碑で、共に中世の好資料である。
毎年、一月七日初薬師の早朝、大門厨子の人々が持ち寄った藁で六メートルほどの大蛇を編みあげて、木の枝にわたらせた後、「干葉粥」を施し、五穀豊穣と無病息災を祈願している。
この「じんがんなわ祭り」は古い伝統を保持した祭りであり、市街地では極めて珍しい民族行事である。
平成十七年三月 足立区教育委員会 」
<じんがんなわ>
藁の大蛇が銀杏の木にいます。
※じんがんなわ祭り 2020年01月13日(月)9:00-12:00(成人の日に変更されています)
<庚申塔/供養塔>
・庚申塔(明和3(1766)年) 青面金剛、三猿が刻まれています。
・庚申塔(貞享元(1684)年) 三猿が刻まれています。
・普門品供養塔
<2020年1月13日 じんがんなわ祭り>
藁の大蛇を奉納する行事を見学してきました。資料もいただきました。
流山道を進んで行くと、左に曲がる道があり、大乗院への参道です。
「「大門」名の由来
大乗院(新義真言宗、小谷野山宝持寺大乗院)の創建は、平安時代と伝承され、また、文永九年(1272)との説もある。
室町時代の中期には七堂伽藍が建ち並び、僧兵までかかえて、大変な権勢を誇っていたといわれる。
掘で囲まれた広大な寺域の中に、本堂・観音堂・塔・薬師堂・鐘楼・山門・庫裡などが配置されていたが、一キロはあった参道の西側には、用水が流れ、道路脇には、大きな松並木があった。参道の西側及び大乗院の周辺の集落は、大門厨子と言い、門前集落としての位置づけである。
当時は、年の瀬になると、山門から流山街道まで、大乗院に貢物を持って近郊からやって来る人が参道に列をなしたほどの絶大な権勢を誇っていたが、中央では、応仁の乱(1467)が始まり、関東でも古河公方(足利成氏)と堀越公方(足利政知)の対立が激化し、双方の前線基地の中間に位置するこの寺が、戦乱に巻き込まれ文明元年(1469)、敵側の焼き討ちに遭い、権勢を誇った七堂伽藍も焼失した。
壮大な山門として入封を誇っていた”大乗院の大門”今も大門厨子を中心とした住民の心の中にその精神が生きている。
毎年1月7日の早朝、旧大門地区の住民が大乗院の境内に集まり、わらを編んで大蛇を作り、それを山門脇のイチョウの木にかけて、五穀豊穣と無病息災を祈願する「じんがんなわ祭り」の民俗行事がある。
大門まちづくり研究会 」
<大乗院参道プチテラス>足立区西保木間2-8-10
大乗院の参道途中にプチテラスが設けられ、説明板があります。
<大乗院>
寺号標「古谷野山寶持寺 真言宗大乗院」
山門屋根瓦
脇門
本堂は平成27(2015)年に建て替えられています。
(説明板)
「大乗院
大乗院は、新義真言宗、古谷野山大乗院寶持寺と称する。創建の時期は明らかではないが、鎌倉時代を下ることはない。文明・文化と二度の火災で諸堂宇を焼いたが、本尊聖観世音菩薩立像と薬師如来立像は災いを免れた。
昭和十四年春に、本堂裏から発掘された正応二年(一二八九)の釈迦一尊種字板碑は区内でも古い方に属する。また、文明元年(一四六九)阿弥陀三尊種字板碑は、中興賢勝阿闍梨の逆修板碑で、共に中世の好資料である。
毎年、一月七日初薬師の早朝、大門厨子の人々が持ち寄った藁で六メートルほどの大蛇を編みあげて、木の枝にわたらせた後、「干葉粥」を施し、五穀豊穣と無病息災を祈願している。
この「じんがんなわ祭り」は古い伝統を保持した祭りであり、市街地では極めて珍しい民族行事である。
平成十七年三月 足立区教育委員会 」
<じんがんなわ>
藁の大蛇が銀杏の木にいます。
※じんがんなわ祭り 2020年01月13日(月)9:00-12:00(成人の日に変更されています)
<庚申塔/供養塔>
・庚申塔(明和3(1766)年) 青面金剛、三猿が刻まれています。
・庚申塔(貞享元(1684)年) 三猿が刻まれています。
・普門品供養塔
<2020年1月13日 じんがんなわ祭り>
藁の大蛇を奉納する行事を見学してきました。資料もいただきました。
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- 流山道② 大乗院 じんがんなわ祭り(2020年)
- 流山道① 淵江村役場/氷川神社/賽積院
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
流山道① 淵江村役場/氷川神社/賽積院
流山道
○ 淵江村役場跡
○ 保木間氷川神社
○ 賽積院
○ 大乗院
○ 流山街道名地プチテラス
○ 西光寺
○ 花畑浅間神社花又富士
○ 六木中央公園
とめぐってきました。
〇流山道
(説明板)
「流山道
本説明板の前を東西に走る小道は、江戸の昔から流山道と呼ばれた古道である。保木間で日光街道からわかれ、南花畑、内匠橋、六木を経て流山に向かう。この道に接する宝積院と氷川神社は戦国時代の武士・千葉氏の陣屋があったと伝えられることから、道の成立は戦国時代以前にさかのぼると考えられる。
この道を東進すると花畑大鷲神社や成田山と結んでおり、西に進むと西新井大師に通じる信仰の道でもある。ここから大師道・成田道という別称もある。なお沿道には寺院・神社や旧村地帯が分布し、保木間の旧家の多くもこの道に沿って建っており、地域の歴史を今に伝える。
平成十年九月 東京都足立区教育委員会」
〇渕江村役場跡石碑 足立区西保木間1-8-13
「渕江村役場跡
昭和52年11月設置 足立区」
〇保木間氷川神社(千葉氏陣屋跡) 足立区西保木間1-11-4
当地は千葉氏の陣屋跡だったとされ、千葉氏が氏神の妙見社を祀り、後に天神を祀る菅原神社となったと伝えられています。
(説明板)
「保木間氷川神社
祭神として須佐之男命・豊受姫命・菅原道真を祀る。当社の創建は明らかでないが、中世この地は関東の豪族千葉氏の陣屋跡と伝えられ妙見社が祀られ、のち天神を祀る菅原神社となった。それ故に隣接の天神社別当寺宝積院は、その山号を北斗山と称するという。
江戸時代、保木間・竹塚・伊興三村の鎮守は、もと伊興氷川社で、明治の初め当社もそこに合祀されたが、明治五年分離して、社名を氷川神社と改め保木間村の鎮守となった。
この地域一帯は、伊興地区についで早く開け、平安期末から鎌倉期にかけて発展した。保木間の地名は、平安期末に西国の武士が木の柵を設け、田畑を起こしたことによると伝えている。またこの地域では、古墳時代の土師器や鎌倉期以降の板碑などが多く出土している。
平成元年一月 東京都足立区教育委員会」
<田中正造と保木間の誓い>
「田中正造と保木間の誓い
一八九〇年代に発生した足尾銅山鉱毒事件は近代史上で特筆される公害事件である。一八九八年(明治三一)九月群馬県邑楽郡・栃木県安蘇郡等の被害住民三○○○人が鉱毒被害を訴えるため上京した。被害問題に取り組んだ田中正造(当時衆議院議員)は、同年九月に二十八日、上京する被害住民とここ保木間氷川神社で出会い、鉱毒問題の解決に努力するという演説を行い、被害住民を帰郷に導いた。この時被害住民たちは涙して演説を聞いたといい、これを保木間の誓いという。
当時東京府南足立郡渕江村だったこの地では、村長坂田正助と村会議員が、上京途中憲兵や騎馬警官による阻止・排除を受けた被害住民に、炊き出しを行って出迎え、被害住民と共に正造の演説を聞いた(「田中正造日記」)。こうした被害住民への支援は渕江村の人々と被害住民の農民同士の連帯感によって支えられていたという。
平成十年九月 東京都足立区教育委員会」
「田中正造肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
天保12年11月3日〜大正2年9月4日(1841年12月15日〜1913年9月4日)
<忠魂碑>
戦後撤去された忠魂碑が再建されています。
<保木間稲荷社等>
<富士塚>
明治9(1876)年築造の榛名塚を富士塚に転用しています。
扁額「榛名神社」のかかる鳥居があり、その先に富士塚があります。
富士山の溶岩である黒ぼくで築かれています。
右手に登拝道があります。頂上は「榛名神社」石祠です。
〇賽積院 足立区西保木間1-11-4
寶積院は、北斗山と号します。淵江領を領地とする千葉一族が、一族の崇信する北斗妙見を祀るため、室町時代後期に創建したと考えられています。
新四国四箇領八十八箇所霊場第84番札所、荒綾八十八ヶ所霊場の第63番札所です。
<札所碑>
新四国四箇領八十八箇所霊場第84番の札所碑です。
次の85番は、延命寺です(こちらで記載)。
(正面)
「新四國八十八箇所
第八十四番」
(左側面)
「是ヨリ八十五番四丁」
(右側面)
天保14年3月の紀年
<札所碑>
「荒綾八十八ケ所第六十三番寶積院」
荒綾八十八ヶ所霊場の第63番の札所碑です。次の64番は王蔵院です。
<本堂>
<六地蔵/庚申板碑>
六地蔵とその左に延宝7(1679)年銘の庚申板碑があります。
○ 淵江村役場跡
○ 保木間氷川神社
○ 賽積院
○ 大乗院
○ 流山街道名地プチテラス
○ 西光寺
○ 花畑浅間神社花又富士
○ 六木中央公園
とめぐってきました。
〇流山道
(説明板)
「流山道
本説明板の前を東西に走る小道は、江戸の昔から流山道と呼ばれた古道である。保木間で日光街道からわかれ、南花畑、内匠橋、六木を経て流山に向かう。この道に接する宝積院と氷川神社は戦国時代の武士・千葉氏の陣屋があったと伝えられることから、道の成立は戦国時代以前にさかのぼると考えられる。
この道を東進すると花畑大鷲神社や成田山と結んでおり、西に進むと西新井大師に通じる信仰の道でもある。ここから大師道・成田道という別称もある。なお沿道には寺院・神社や旧村地帯が分布し、保木間の旧家の多くもこの道に沿って建っており、地域の歴史を今に伝える。
平成十年九月 東京都足立区教育委員会」
〇渕江村役場跡石碑 足立区西保木間1-8-13
「渕江村役場跡
昭和52年11月設置 足立区」
〇保木間氷川神社(千葉氏陣屋跡) 足立区西保木間1-11-4
当地は千葉氏の陣屋跡だったとされ、千葉氏が氏神の妙見社を祀り、後に天神を祀る菅原神社となったと伝えられています。
(説明板)
「保木間氷川神社
祭神として須佐之男命・豊受姫命・菅原道真を祀る。当社の創建は明らかでないが、中世この地は関東の豪族千葉氏の陣屋跡と伝えられ妙見社が祀られ、のち天神を祀る菅原神社となった。それ故に隣接の天神社別当寺宝積院は、その山号を北斗山と称するという。
江戸時代、保木間・竹塚・伊興三村の鎮守は、もと伊興氷川社で、明治の初め当社もそこに合祀されたが、明治五年分離して、社名を氷川神社と改め保木間村の鎮守となった。
この地域一帯は、伊興地区についで早く開け、平安期末から鎌倉期にかけて発展した。保木間の地名は、平安期末に西国の武士が木の柵を設け、田畑を起こしたことによると伝えている。またこの地域では、古墳時代の土師器や鎌倉期以降の板碑などが多く出土している。
平成元年一月 東京都足立区教育委員会」
<田中正造と保木間の誓い>
「田中正造と保木間の誓い
一八九〇年代に発生した足尾銅山鉱毒事件は近代史上で特筆される公害事件である。一八九八年(明治三一)九月群馬県邑楽郡・栃木県安蘇郡等の被害住民三○○○人が鉱毒被害を訴えるため上京した。被害問題に取り組んだ田中正造(当時衆議院議員)は、同年九月に二十八日、上京する被害住民とここ保木間氷川神社で出会い、鉱毒問題の解決に努力するという演説を行い、被害住民を帰郷に導いた。この時被害住民たちは涙して演説を聞いたといい、これを保木間の誓いという。
当時東京府南足立郡渕江村だったこの地では、村長坂田正助と村会議員が、上京途中憲兵や騎馬警官による阻止・排除を受けた被害住民に、炊き出しを行って出迎え、被害住民と共に正造の演説を聞いた(「田中正造日記」)。こうした被害住民への支援は渕江村の人々と被害住民の農民同士の連帯感によって支えられていたという。
平成十年九月 東京都足立区教育委員会」
「田中正造肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
天保12年11月3日〜大正2年9月4日(1841年12月15日〜1913年9月4日)
<忠魂碑>
戦後撤去された忠魂碑が再建されています。
<保木間稲荷社等>
<富士塚>
明治9(1876)年築造の榛名塚を富士塚に転用しています。
扁額「榛名神社」のかかる鳥居があり、その先に富士塚があります。
富士山の溶岩である黒ぼくで築かれています。
右手に登拝道があります。頂上は「榛名神社」石祠です。
〇賽積院 足立区西保木間1-11-4
寶積院は、北斗山と号します。淵江領を領地とする千葉一族が、一族の崇信する北斗妙見を祀るため、室町時代後期に創建したと考えられています。
新四国四箇領八十八箇所霊場第84番札所、荒綾八十八ヶ所霊場の第63番札所です。
<札所碑>
新四国四箇領八十八箇所霊場第84番の札所碑です。
次の85番は、延命寺です(こちらで記載)。
(正面)
「新四國八十八箇所
第八十四番」
(左側面)
「是ヨリ八十五番四丁」
(右側面)
天保14年3月の紀年
<札所碑>
「荒綾八十八ケ所第六十三番寶積院」
荒綾八十八ヶ所霊場の第63番の札所碑です。次の64番は王蔵院です。
<本堂>
<六地蔵/庚申板碑>
六地蔵とその左に延宝7(1679)年銘の庚申板碑があります。
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テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
投込寺② 善応寺など/雲光院
〇遊女供養塔 足立区中川3-3-5(善応寺) 足立区有形文化財
善応寺は、1929(昭和4)年に浅草橋場の正憶院が移転してきて合併してできた寺です。
橋場の正憶院は吉原遊女の投込寺のひとつでした。
<説明板>
「善応寺(ぜんのうじ)
善応寺は、天正十一年(1583)に創建されたという。現在の寺は、昭和四年浅草、橋場の正憶院が移転合併してできたものである。
堂内には、江戸時代の造像とみられる本尊阿弥陀三尊、阿弥陀如来立像、地蔵菩薩像が安置され、元和二年(1616)にはじまる正憶院の霊簿、善応寺田畑什物等、多数の古文書が残されている。
霊簿は、新吉原遊郭の開設者、庄司甚右衛門をはじめ楼主、遊女、禿の戒名を記し、境内の遊女の墓碑、笠塔婆、楼主庄司・野村・西田三氏の供養碑と共に貴重な資料である。
また、本寺には江戸時代中期ごろ、一老人が孫のおできの治療を地蔵に礼願し、そのお礼に艾餅を供えたとの言伝えがある。 それが世人に広まり、地蔵を草餅如来、本寺をくさもち寺と呼ぶようになったという。
平成元年十二月 東京都足立区教育委員会 」
<遊女墓碑>
供養塔の前に、遊女墓碑が並んでいます。
<楼主庄司・野村・西田三氏の供養碑>
大笠塔婆があり、遊女の戒名がびっしりと刻まれています。
供養塔の橋場からの移転について、東京市の許可も刻まれています。
<笠塔婆>
説明板中記載のある笠塔婆がわかりませんでした。供養碑が笠塔婆だとしたら、供養碑が浮いてしまうし。
<歴代住職の墓>
○庄司甚右衛門の碑 台東区千束3-22-3吉原弁財天
足立区の説明板で説明のある庄司甚右衛門ですが、吉原弁財天 「花吉原名残碑」の右に、元吉原の創設者である初代惣名主庄司甚右衛門の碑があります。 漢文で刻まれています。こちらで紹介済。
〇庄司甚右衛門墓(江東区史跡) 江東区三好2-17-14雲光院
庄司甚右衛門
天正3(1575)年〜寛永21年11月18日(1644年12月17日)
庄司甚右衛門の過去帳は正憶院にあるのに、墓は正憶院にはありません。当時は馬喰町の雲光院に葬られました。
本堂右手の墓域の手前の通路に墓石が3つ並んでおり、中央の墓の台石に、「庄司墓」と刻まれています。施主は「新吉原仲之町施主箕浦四郎」と刻まれています。
○阿茶局の墓(江東区文化財) 江東区三好2-17-14(雲光院 HP)
阿茶局(雲光院)(徳川家康側室)
天文23年2月13日(1554年3月16日)~寛永14年1月22日(1637年2月16日)
慶長16(1611)年、徳川家康の側室、阿茶局の発願により、増上寺の潮呑上人を初代住職として高巌寺が開創されました。阿茶局没後、阿茶局の法名「雲光院」が寺の名称となりました。開創地は中央区馬喰町付近で、明暦3(1657)年の大火に被災し神田岩井町に替地、天和2(1682)年、現在地に再び替地となりました。
「江戸名所図会」
挿絵は描かれていませんが、本文に深川寺町の一つとして雲光院が記載されています。
「江戸切絵図」
「霊厳寺」「浄心寺」があり、「龍徳山雲院」が描かれています。
明暦の大火(1657年)後、小名木川から仙台堀川の間に、霊厳寺(1658)、雲光院(1682)、浄心寺(1658創建)といった有力寺院の移転・創建が続きました。
※霊厳寺はこちらで記載、浄心寺はこちらで記載、臨川寺はこちらで記載
<山門/本堂>
(説明板)
「江東区指定有形文化財(建造物)
石造宝篋院塔(阿茶局墓塔) 寛永十四年在銘
三好二ー一七ー一四
平成一三年三月二九日指定
本塔は雲光院の開基である阿茶局の墓塔として建てられたものです。宝篋印塔とは内部に「宝篋印陀羅尼」をおさめたことに由来する塔婆の一形式ですが、墓塔・供養塔としても建てられるようになりました。
阿茶局は弘治元年(一五五五)、武田家の家臣飯田氏の子として生まれ、今川家の家臣神尾忠重の妻となりましたが、忠重の死後、徳川家康の側室となりました。大坂冬の陣には和睦の使者をつとめ、家康死後は徳川秀忠の五女和子の入内に際し、母代として在京しました。元和九年(一六二三)従一位に叙せられ、秀忠の死後は尼となり雲光院と称し、寛永十四年(一六三七)、八三歳で没しました。
本塔は総高三六三・一cm、石質は安山岩です。塔身正面には「雲光院殿従一位尼公」、左右側面と背面には阿弥陀三尊の種子が刻まれています。また、上基礎の正面には「正誉周栄大姉 寛永十四年閏正月廿日」と刻銘があります。
本塔は近世前期の宝篋印塔の様式をよく示し、江戸幕府成立に深く関わった人物の墓塔としても意義深く、貴重な石塔といえます。
平成一四年三月 江東区教育委員会」
<石造宝篋印塔(阿茶局墓塔)>
阿茶局の墓が墓域にあります。
「石造宝篋印塔(阿茶局墓塔) 寛永14年在銘」
塔身正面に「雲光院殿従一位尼公」、上基礎の正面に「正誉周栄大姉」と刻銘されています。
善応寺は、1929(昭和4)年に浅草橋場の正憶院が移転してきて合併してできた寺です。
橋場の正憶院は吉原遊女の投込寺のひとつでした。
<説明板>
「善応寺(ぜんのうじ)
善応寺は、天正十一年(1583)に創建されたという。現在の寺は、昭和四年浅草、橋場の正憶院が移転合併してできたものである。
堂内には、江戸時代の造像とみられる本尊阿弥陀三尊、阿弥陀如来立像、地蔵菩薩像が安置され、元和二年(1616)にはじまる正憶院の霊簿、善応寺田畑什物等、多数の古文書が残されている。
霊簿は、新吉原遊郭の開設者、庄司甚右衛門をはじめ楼主、遊女、禿の戒名を記し、境内の遊女の墓碑、笠塔婆、楼主庄司・野村・西田三氏の供養碑と共に貴重な資料である。
また、本寺には江戸時代中期ごろ、一老人が孫のおできの治療を地蔵に礼願し、そのお礼に艾餅を供えたとの言伝えがある。 それが世人に広まり、地蔵を草餅如来、本寺をくさもち寺と呼ぶようになったという。
平成元年十二月 東京都足立区教育委員会 」
<遊女墓碑>
供養塔の前に、遊女墓碑が並んでいます。
<楼主庄司・野村・西田三氏の供養碑>
大笠塔婆があり、遊女の戒名がびっしりと刻まれています。
供養塔の橋場からの移転について、東京市の許可も刻まれています。
<笠塔婆>
説明板中記載のある笠塔婆がわかりませんでした。供養碑が笠塔婆だとしたら、供養碑が浮いてしまうし。
<歴代住職の墓>
○庄司甚右衛門の碑 台東区千束3-22-3吉原弁財天
足立区の説明板で説明のある庄司甚右衛門ですが、吉原弁財天 「花吉原名残碑」の右に、元吉原の創設者である初代惣名主庄司甚右衛門の碑があります。 漢文で刻まれています。こちらで紹介済。
〇庄司甚右衛門墓(江東区史跡) 江東区三好2-17-14雲光院
庄司甚右衛門
天正3(1575)年〜寛永21年11月18日(1644年12月17日)
庄司甚右衛門の過去帳は正憶院にあるのに、墓は正憶院にはありません。当時は馬喰町の雲光院に葬られました。
本堂右手の墓域の手前の通路に墓石が3つ並んでおり、中央の墓の台石に、「庄司墓」と刻まれています。施主は「新吉原仲之町施主箕浦四郎」と刻まれています。
○阿茶局の墓(江東区文化財) 江東区三好2-17-14(雲光院 HP)
阿茶局(雲光院)(徳川家康側室)
天文23年2月13日(1554年3月16日)~寛永14年1月22日(1637年2月16日)
慶長16(1611)年、徳川家康の側室、阿茶局の発願により、増上寺の潮呑上人を初代住職として高巌寺が開創されました。阿茶局没後、阿茶局の法名「雲光院」が寺の名称となりました。開創地は中央区馬喰町付近で、明暦3(1657)年の大火に被災し神田岩井町に替地、天和2(1682)年、現在地に再び替地となりました。
「江戸名所図会」
挿絵は描かれていませんが、本文に深川寺町の一つとして雲光院が記載されています。
「江戸切絵図」
「霊厳寺」「浄心寺」があり、「龍徳山雲院」が描かれています。
明暦の大火(1657年)後、小名木川から仙台堀川の間に、霊厳寺(1658)、雲光院(1682)、浄心寺(1658創建)といった有力寺院の移転・創建が続きました。
※霊厳寺はこちらで記載、浄心寺はこちらで記載、臨川寺はこちらで記載
<山門/本堂>
(説明板)
「江東区指定有形文化財(建造物)
石造宝篋院塔(阿茶局墓塔) 寛永十四年在銘
三好二ー一七ー一四
平成一三年三月二九日指定
本塔は雲光院の開基である阿茶局の墓塔として建てられたものです。宝篋印塔とは内部に「宝篋印陀羅尼」をおさめたことに由来する塔婆の一形式ですが、墓塔・供養塔としても建てられるようになりました。
阿茶局は弘治元年(一五五五)、武田家の家臣飯田氏の子として生まれ、今川家の家臣神尾忠重の妻となりましたが、忠重の死後、徳川家康の側室となりました。大坂冬の陣には和睦の使者をつとめ、家康死後は徳川秀忠の五女和子の入内に際し、母代として在京しました。元和九年(一六二三)従一位に叙せられ、秀忠の死後は尼となり雲光院と称し、寛永十四年(一六三七)、八三歳で没しました。
本塔は総高三六三・一cm、石質は安山岩です。塔身正面には「雲光院殿従一位尼公」、左右側面と背面には阿弥陀三尊の種子が刻まれています。また、上基礎の正面には「正誉周栄大姉 寛永十四年閏正月廿日」と刻銘があります。
本塔は近世前期の宝篋印塔の様式をよく示し、江戸幕府成立に深く関わった人物の墓塔としても意義深く、貴重な石塔といえます。
平成一四年三月 江東区教育委員会」
<石造宝篋印塔(阿茶局墓塔)>
阿茶局の墓が墓域にあります。
「石造宝篋印塔(阿茶局墓塔) 寛永14年在銘」
塔身正面に「雲光院殿従一位尼公」、上基礎の正面に「正誉周栄大姉」と刻銘されています。
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- 投込寺 まとめ
- 文殊院(投込寺)
- 投込寺② 善応寺など/雲光院
- 洲崎遊郭と信州善光寺智栄上人
- 投込寺① 浄閑寺
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