成覚寺(投込寺)
○成覚寺(投込寺) 新宿区新宿2-15-18
内藤新宿の遊女(飯盛女、子供ともいう)が亡くなると、成覚寺に葬られたことから、「投げ込み寺」とも呼ばれました。
<六地蔵>
<子供合埋碑> 新宿区文化財
子供とは遊郭の抱主が遊女を呼ぶときの言葉で、投げ込まれた遊女を合葬し供養したもので、万延元(1860)年に楼主たちが建立しました。
(説明板)
「新宿区指定有形文化財 歴史資料
子供合埋碑
所在地 新宿区新宿二丁目十五番十八号
指定年月日 昭和六十年八月二日
江戸時代内藤新宿にいた飯盛女(子供と呼ばれていた)達を弔うため、万延元年(一八六○)十一月に旅籠屋中で造立したもので、惣墓と呼ばれた共葬墓地の一角に建てられた墓じるしである。
飯盛女の抱えは実質上の人身売買であり、抱えられる時の契約は年季奉公で年季中に死ぬと哀れにも投込むようにして惣墓に葬られたという。
もともと墓地の最奥にあったが昭和三十一年の土地区画整理に際し現在地に移設された。
宿場町として栄えた新宿を蔭で支えた女性達の存在と内藤新宿の歴史の一画を物語る貴重な歴史資料である。
平成五年十一月 東京都新宿区教育委員会」
<白糸塚>
見つけにくい白糸塚です。嘉永5(1852)年、二代目「坂東志うか」が、「鈴木主水と内藤新宿橋本屋の遊女白糸との情死」話に取材した芝居が大当たりし、その御礼として成覚寺に参詣した際に、白糸の供養として自作の句を刻銘した慰霊碑です。
「白糸塚
すえの世も結ぶえにしや糸柳
嘉永子のとし
しら糸の供やう建し 二代目志うか」
<無縁塔>
<恋川春町の墓> 新宿区史跡
正面に刻まれた3名の左に戒名「寂静院廓誉湛水居士」、俗名「倉橋寿正 源格」、没年「寛政己酉元年七月七日」が見えます。二基並んでいる墓石のうち右側です。
<恋川春町の辞世句>
左側面に辞世の句が刻まれています。
「生涯苦楽四十六年
即今脱却浩然帰天
我も万た身はなきものとおもひしが
今ハのきハハさ比しかり鳧」
(説明板)
「新宿区指定史跡
恋川春町の墓
所在地 新宿区新宿二丁目十五番十八号
指定年月日 昭和六十年七月五日
恋川春町(一七四四〜一七八九)は、江戸時代中期に活躍した浮世絵師・狂歌師・戯作者で本名を倉橋格俗称を寿平という。
江戸小石川春日町に住んでいたところから恋川春町を号した。
多くの書に挿絵などを描いていたが、安永四年(一七七五)自画自作の「金々先生栄花夢」を出版し、世相・人情の風刺を試み大歓迎を受け、多くの追随作を生み黄表紙という新しいジャンルを開拓し、文学史上に大きな影響を及ぼした。
墓石には正面に一族の者二人と並んで戒名、俗名、没年が記され更に左側面に春町の辞世の句が
生涯苦楽四十六年
即今脱却浩然帰天
我も万た身はなきものとおもひしが
今ハのきハハさ比しかり鳧
と記されている。
新宿区指定有形文化財歴史資料
旭地蔵
指定年月日 昭和六十年八月二日
三界万霊と刻まれた台座に露座し錫杖と宝珠を持つ石地蔵で、蓮座と反花の間に十八人の戒名が記されている。これらの人々は寛政十二年(一八○○)から文化十年(一八一四)の間に宿場内で不慮の死を遂げた人達で、そのうちの七組の男女はなさぬ仲を悲しんで心中した遊女と客達であると思われる。これらの人々を供養するため寛政十二年七月に宿場中が合力し、今の新宿御苑北側を流れていた玉川上水の北岸に建立した。
別名夜泣地蔵とも呼ばれていたと伝えられる。
明治十二年(一八七九)七月道路拡張に伴いここに移設された。
宿場町新宿が生み出した悲しい男女の結末と新宿発展の一画を物語る貴重な歴史資料である。
平成五年十一月 東京都新宿区教育委員会」
<旭地蔵> 新宿区文化財
もとは旭町(現:新宿四丁目)の玉川上水の北岸にあったため旭地蔵と呼ばれます。寛政12(1800)年の造立です。蓮華座下の台石に18名の戒名が刻まれており、玉川上水への入水自殺者を供養する目的で建立されたものです。そのうち7組は男女一組になっており遊女と客の名であるといいます。
明治12(1879)年7月に成覚寺に移され、旭地蔵の脇にはその際に建立された旭地蔵移転記念碑が建っています。
<旭地蔵移転記念碑>
旭地蔵の脇に建ち、四面にわたり娼妓中・茶屋中・芸妓中など多数の寄進者が刻まれています。
<塚本明毅の墓碑> 新宿区史跡
塚本明毅は、明治前期の改暦・地誌編纂等の事業を推進しました。墓所は昭和30年代に整理され、現在は塚本明毅の墓碑と塚本明毅妻の墓石のみが残っています。墓碑の篆額は、榎本武揚によるものです。
「寧海塚本先生 寧海塚本先生墓碑銘」
「塚本家之墓」
「明治四十三年三月二十九日没 塚本明毅妻俗名満喜子
明治四十四年三月十九日 明籌謹建」
(説明板)
「新宿区登録史跡
塚本明毅の墓碑
所在地 新宿区新宿二丁目十五番十八号
指定年月日 平成十二年三月二日
幕末から明治前期にかけて、国民生活の近代化に貢献した塚本明毅(一八三三〜八五)の墓碑。墓所は昭和三十年代に整理され、現在は墓碑のみが残る。
明毅は、江戸下谷に生まれた。幕臣として幕府海軍で重きをなし、沼津兵学校教頭をつとめた。維新後は明治政府に出仕し、兵学大教授などをつとめ、その後は官吏として地誌の編纂するい『皇国地誌』など地誌の編纂にあたり『日本地誌提要』などをまとめた。また、太陽暦への改暦を建白し。明治五年の改暦(五年十二月三日をもって明治六年一月一日とした)にあたっては、詔書の準備など手続きを遂行した。
碑は高さ一九八センチメートル、幅九五センチメートル。明毅没後十年を経た明治二十八年(一八九五)十月に建立されたもので、篆額を旧幕臣で農商務相の榎本武揚、撰文を儒学者・漢学者の川田剛、書を同じく田辺太一が担当するなど、明治を代表する顕官・学者が携わり、文化史的価値が高い。
平成三十年三月 新宿区教育委員会」
<子育地蔵像>
膝の上に子どもをのせた地蔵菩薩坐像で、元治元(1864)年の建立です。台座側面に建立の経緯が刻まれており、この地蔵は同年流行った疱瘡(天然痘)で死亡した子どもたちを供養するため造られたといいます。(破損激しく、「温故知しん!じゅく散歩」を参照しました。)
<本堂>
内藤新宿の遊女(飯盛女、子供ともいう)が亡くなると、成覚寺に葬られたことから、「投げ込み寺」とも呼ばれました。
<六地蔵>
<子供合埋碑> 新宿区文化財
子供とは遊郭の抱主が遊女を呼ぶときの言葉で、投げ込まれた遊女を合葬し供養したもので、万延元(1860)年に楼主たちが建立しました。
(説明板)
「新宿区指定有形文化財 歴史資料
子供合埋碑
所在地 新宿区新宿二丁目十五番十八号
指定年月日 昭和六十年八月二日
江戸時代内藤新宿にいた飯盛女(子供と呼ばれていた)達を弔うため、万延元年(一八六○)十一月に旅籠屋中で造立したもので、惣墓と呼ばれた共葬墓地の一角に建てられた墓じるしである。
飯盛女の抱えは実質上の人身売買であり、抱えられる時の契約は年季奉公で年季中に死ぬと哀れにも投込むようにして惣墓に葬られたという。
もともと墓地の最奥にあったが昭和三十一年の土地区画整理に際し現在地に移設された。
宿場町として栄えた新宿を蔭で支えた女性達の存在と内藤新宿の歴史の一画を物語る貴重な歴史資料である。
平成五年十一月 東京都新宿区教育委員会」
<白糸塚>
見つけにくい白糸塚です。嘉永5(1852)年、二代目「坂東志うか」が、「鈴木主水と内藤新宿橋本屋の遊女白糸との情死」話に取材した芝居が大当たりし、その御礼として成覚寺に参詣した際に、白糸の供養として自作の句を刻銘した慰霊碑です。
「白糸塚
すえの世も結ぶえにしや糸柳
嘉永子のとし
しら糸の供やう建し 二代目志うか」
<無縁塔>
<恋川春町の墓> 新宿区史跡
正面に刻まれた3名の左に戒名「寂静院廓誉湛水居士」、俗名「倉橋寿正 源格」、没年「寛政己酉元年七月七日」が見えます。二基並んでいる墓石のうち右側です。
<恋川春町の辞世句>
左側面に辞世の句が刻まれています。
「生涯苦楽四十六年
即今脱却浩然帰天
我も万た身はなきものとおもひしが
今ハのきハハさ比しかり鳧」
(説明板)
「新宿区指定史跡
恋川春町の墓
所在地 新宿区新宿二丁目十五番十八号
指定年月日 昭和六十年七月五日
恋川春町(一七四四〜一七八九)は、江戸時代中期に活躍した浮世絵師・狂歌師・戯作者で本名を倉橋格俗称を寿平という。
江戸小石川春日町に住んでいたところから恋川春町を号した。
多くの書に挿絵などを描いていたが、安永四年(一七七五)自画自作の「金々先生栄花夢」を出版し、世相・人情の風刺を試み大歓迎を受け、多くの追随作を生み黄表紙という新しいジャンルを開拓し、文学史上に大きな影響を及ぼした。
墓石には正面に一族の者二人と並んで戒名、俗名、没年が記され更に左側面に春町の辞世の句が
生涯苦楽四十六年
即今脱却浩然帰天
我も万た身はなきものとおもひしが
今ハのきハハさ比しかり鳧
と記されている。
新宿区指定有形文化財歴史資料
旭地蔵
指定年月日 昭和六十年八月二日
三界万霊と刻まれた台座に露座し錫杖と宝珠を持つ石地蔵で、蓮座と反花の間に十八人の戒名が記されている。これらの人々は寛政十二年(一八○○)から文化十年(一八一四)の間に宿場内で不慮の死を遂げた人達で、そのうちの七組の男女はなさぬ仲を悲しんで心中した遊女と客達であると思われる。これらの人々を供養するため寛政十二年七月に宿場中が合力し、今の新宿御苑北側を流れていた玉川上水の北岸に建立した。
別名夜泣地蔵とも呼ばれていたと伝えられる。
明治十二年(一八七九)七月道路拡張に伴いここに移設された。
宿場町新宿が生み出した悲しい男女の結末と新宿発展の一画を物語る貴重な歴史資料である。
平成五年十一月 東京都新宿区教育委員会」
<旭地蔵> 新宿区文化財
もとは旭町(現:新宿四丁目)の玉川上水の北岸にあったため旭地蔵と呼ばれます。寛政12(1800)年の造立です。蓮華座下の台石に18名の戒名が刻まれており、玉川上水への入水自殺者を供養する目的で建立されたものです。そのうち7組は男女一組になっており遊女と客の名であるといいます。
明治12(1879)年7月に成覚寺に移され、旭地蔵の脇にはその際に建立された旭地蔵移転記念碑が建っています。
<旭地蔵移転記念碑>
旭地蔵の脇に建ち、四面にわたり娼妓中・茶屋中・芸妓中など多数の寄進者が刻まれています。
<塚本明毅の墓碑> 新宿区史跡
塚本明毅は、明治前期の改暦・地誌編纂等の事業を推進しました。墓所は昭和30年代に整理され、現在は塚本明毅の墓碑と塚本明毅妻の墓石のみが残っています。墓碑の篆額は、榎本武揚によるものです。
「寧海塚本先生 寧海塚本先生墓碑銘」
「塚本家之墓」
「明治四十三年三月二十九日没 塚本明毅妻俗名満喜子
明治四十四年三月十九日 明籌謹建」
(説明板)
「新宿区登録史跡
塚本明毅の墓碑
所在地 新宿区新宿二丁目十五番十八号
指定年月日 平成十二年三月二日
幕末から明治前期にかけて、国民生活の近代化に貢献した塚本明毅(一八三三〜八五)の墓碑。墓所は昭和三十年代に整理され、現在は墓碑のみが残る。
明毅は、江戸下谷に生まれた。幕臣として幕府海軍で重きをなし、沼津兵学校教頭をつとめた。維新後は明治政府に出仕し、兵学大教授などをつとめ、その後は官吏として地誌の編纂するい『皇国地誌』など地誌の編纂にあたり『日本地誌提要』などをまとめた。また、太陽暦への改暦を建白し。明治五年の改暦(五年十二月三日をもって明治六年一月一日とした)にあたっては、詔書の準備など手続きを遂行した。
碑は高さ一九八センチメートル、幅九五センチメートル。明毅没後十年を経た明治二十八年(一八九五)十月に建立されたもので、篆額を旧幕臣で農商務相の榎本武揚、撰文を儒学者・漢学者の川田剛、書を同じく田辺太一が担当するなど、明治を代表する顕官・学者が携わり、文化史的価値が高い。
平成三十年三月 新宿区教育委員会」
<子育地蔵像>
膝の上に子どもをのせた地蔵菩薩坐像で、元治元(1864)年の建立です。台座側面に建立の経緯が刻まれており、この地蔵は同年流行った疱瘡(天然痘)で死亡した子どもたちを供養するため造られたといいます。(破損激しく、「温故知しん!じゅく散歩」を参照しました。)
<本堂>
海蔵寺(投込寺)
○海蔵寺(投込寺) 品川区南品川4-4-2
海蔵寺は江戸時代以来、身寄りのない死者や不慮の死を遂げた者を供養してきました。山門を入って右手奥の塚は身寄りのない人々等の遺骨を集めて築かれたものです。
「江戸名所図会 本光寺 大竜寺 天竜寺 海竜寺」
海竜寺とあるのは、海蔵寺の誤りのようです。挿絵には、海蔵寺山門前に「づつう塚」と記されています。
「江戸切絵図」
江戸切絵図に「海蔵寺」が見えます。
<山門/参道>
<寺号標>
「時宗 海蔵寺」
<案内碑>
「江戸時代無縁並首塚
関東大震災殃死者塚」
昭和8(1933)年銘です。
<駐車禁止>
<文化財説明板>
「海蔵寺無縁塔群(昭和53年指定)」と「木造菩薩形坐像(平成31年指定)」の説明があります。
(説明板)
「品川区指定有形文化財
海蔵寺無縁塔群
所在 南品川四丁目四番二号
昭和五十三年十一月二十二日指定(史跡第十四号)
本寺は江戸時代以来、身寄りのない死者や不慮の死を遂げた者を供養しており、往時から「品川の投げ込み寺」といわれてきた。
山門を入って右手奥の塚は、行き倒れや病気で亡くなった身寄りのない人々の遺骨を集め、寶永五年(一七〇四)に築かれたものである。さらに鈴ヶ森刑場で処刑された人の遺骨も葬られ「首塚」と呼ばれた。のちに天保の大飢饉で亡くなった二百十五人を祀る「二百十五人塚」なども合葬され現在に至っている。塚に参拝すると頭痛が治るという伝承があり、古くより「頭痛塚」とも呼ばれている。
このほか、境内には慶応元年(一八六五)に建立された「津波溺死者供養塔」や、大正四年(一九一五)の「京浜鉄道轢死者供養塔」などがあり、本寺が近代以降も不慮・無縁の死者を供養していることを示している。
令和三年三月二十五日 品川区教育委員会設置」
「木造菩薩形坐像(平成31年指定)」
(要約)
カヤノキという木材から丸ごと掘り出した一木造の仏像です。今から約千年前に京都や今の滋賀県で造られたものと考えられます。
<境内>
<寶蔵稲荷神社>
(掲示)
「寶藏稲荷神社縁起
當稲荷社は稲荷の神と同一とする夜叉神の吒枳尊天を本尊とする明治二十三年九月町内稲荷講中により旧跡に再建され火防の稲荷として霊験あらたかで土地の人々の安全守護神として尊崇され春秋二季に大祭が盛大に行われる。」
<無縁塔(首塚 頭痛塚)>
「墓誌」によると
「一、元禄時代非人溜・髑髏塚
当時牢屋で獄死した多くの罪人を埋葬、
宝永五年その髑髏をあつめ墳墓を築く」
「一、江戸時代首塚
当時鈴ヶ森の刑場で処刑された人の首を埋葬」
「一、品川宿遊郭娼妓之霊」
「一、品川京浜電鉄轢死者之霊」
「一、品川海岸溺死者之霊」
「一、品川行路病横死者之霊」
「一、関東大震災横死者之霊」
<京濱鉄道轢死者之墓>
大正4(1915)年の造立です。
「 當院無縁者永代施餓鬼料
金ニ百圓 山添萬吉
京濱鉄道轢死者之墓
東京市京橋區松川町
大正四年九月中日 山添萬吉建」
<関東大震災横死者供養塔>
昭和7年(1932)の造立です。
「大正十二癸亥震火大災横死者霊供養」
<津波溺死者供養塔>
慶応元年(1865)の造立です。
<本堂>
海蔵寺は江戸時代以来、身寄りのない死者や不慮の死を遂げた者を供養してきました。山門を入って右手奥の塚は身寄りのない人々等の遺骨を集めて築かれたものです。
「江戸名所図会 本光寺 大竜寺 天竜寺 海竜寺」
海竜寺とあるのは、海蔵寺の誤りのようです。挿絵には、海蔵寺山門前に「づつう塚」と記されています。
「江戸切絵図」
江戸切絵図に「海蔵寺」が見えます。
<山門/参道>
<寺号標>
「時宗 海蔵寺」
<案内碑>
「江戸時代無縁並首塚
関東大震災殃死者塚」
昭和8(1933)年銘です。
<駐車禁止>
<文化財説明板>
「海蔵寺無縁塔群(昭和53年指定)」と「木造菩薩形坐像(平成31年指定)」の説明があります。
(説明板)
「品川区指定有形文化財
海蔵寺無縁塔群
所在 南品川四丁目四番二号
昭和五十三年十一月二十二日指定(史跡第十四号)
本寺は江戸時代以来、身寄りのない死者や不慮の死を遂げた者を供養しており、往時から「品川の投げ込み寺」といわれてきた。
山門を入って右手奥の塚は、行き倒れや病気で亡くなった身寄りのない人々の遺骨を集め、寶永五年(一七〇四)に築かれたものである。さらに鈴ヶ森刑場で処刑された人の遺骨も葬られ「首塚」と呼ばれた。のちに天保の大飢饉で亡くなった二百十五人を祀る「二百十五人塚」なども合葬され現在に至っている。塚に参拝すると頭痛が治るという伝承があり、古くより「頭痛塚」とも呼ばれている。
このほか、境内には慶応元年(一八六五)に建立された「津波溺死者供養塔」や、大正四年(一九一五)の「京浜鉄道轢死者供養塔」などがあり、本寺が近代以降も不慮・無縁の死者を供養していることを示している。
令和三年三月二十五日 品川区教育委員会設置」
「木造菩薩形坐像(平成31年指定)」
(要約)
カヤノキという木材から丸ごと掘り出した一木造の仏像です。今から約千年前に京都や今の滋賀県で造られたものと考えられます。
<境内>
<寶蔵稲荷神社>
(掲示)
「寶藏稲荷神社縁起
當稲荷社は稲荷の神と同一とする夜叉神の吒枳尊天を本尊とする明治二十三年九月町内稲荷講中により旧跡に再建され火防の稲荷として霊験あらたかで土地の人々の安全守護神として尊崇され春秋二季に大祭が盛大に行われる。」
<無縁塔(首塚 頭痛塚)>
「墓誌」によると
「一、元禄時代非人溜・髑髏塚
当時牢屋で獄死した多くの罪人を埋葬、
宝永五年その髑髏をあつめ墳墓を築く」
「一、江戸時代首塚
当時鈴ヶ森の刑場で処刑された人の首を埋葬」
「一、品川宿遊郭娼妓之霊」
「一、品川京浜電鉄轢死者之霊」
「一、品川海岸溺死者之霊」
「一、品川行路病横死者之霊」
「一、関東大震災横死者之霊」
<京濱鉄道轢死者之墓>
大正4(1915)年の造立です。
「 當院無縁者永代施餓鬼料
金ニ百圓 山添萬吉
京濱鉄道轢死者之墓
東京市京橋區松川町
大正四年九月中日 山添萬吉建」
<関東大震災横死者供養塔>
昭和7年(1932)の造立です。
「大正十二癸亥震火大災横死者霊供養」
<津波溺死者供養塔>
慶応元年(1865)の造立です。
<本堂>
浄心寺~三沢局墓/洲崎廓追善墓
○浄心寺 江東区平野2-4-25
浄心寺は、4代将軍徳川家綱の乳母、三沢局の菩提を弔うため、万治元年(1658)に創建されました。
十万石の格式をもつ大寺院で、身延山からのご開帳が度々行われるなど、江戸十大祖師の随一といわれた名刹です。
「名所江戸百景 金杉橋海」(広重)
身延山久遠寺の開帳仏を東海道で各地から集まった講中が出迎えて、開帳仏とともに安政4(1857)年7月19日からの出開帳先の浄心寺に向かう様子が描かれています(諸説あります)。
<山門/本堂>
<蔵魄塔(関東大震災慰霊碑)>
作者は彫刻家の日名子実三氏。
「供養塔は半球ドーム型の白いコンクリート造の墳墓を悲しみに暮れる女性が抱きしめている姿のモニュメントで、蔵魄塔と名付けられました。」(説明板より抜粋)
【境内】
<梵鐘>
行伝寺(川越)の鐘が戦時中に金属供出されましたが溶かされる前に終戦となり、売出された鐘を浄心寺檀家さんが買受けたものです。
<百度石/水屋の由緒>
<梅玉之碑>
<石造燈籠>
【墓地】
墓地入口には石灯籠2基があります。
狭い通路に数多くの墓石が林立しています。
境内は案内・説明板が豊富なのですが、墓地は案内板は一切ありません。
三沢局墓と洲崎廓追善墓に墓参。
<三沢局墓>(江東区史跡)
三沢局(徳川家綱乳母)、慶長16(1611)年~明暦2年3月30日(1656年4月24日)。
墓地最奥の歴代住職の墓所の真中に三沢局の墓があります。
「浄心院殿妙秀日求大姉」「明暦二年三月三十日逝」
<元洲崎遊郭無縁精霊之供養塔>
左端に、比較的新しい高さのある供養塔があります。
「昭和三十九年八月十四日」
「施主 深川平野町二丁目有志」
<洲崎廓追善墓>(江東区史跡)
洲崎遊郭で亡くなった遊女の合葬墓です。
「大正八年九月再建」世話人に4名の名前が刻まれています。
<供養観世音>
「洲崎カフェー組合」と「従業婦多津美会」が昭和29年に建立した供養観世音。
「千代梅」の文字も刻まれています。
<不明の墓>
右端に、石川県士族堀鼎墓。詳細不詳。
浄心寺は、4代将軍徳川家綱の乳母、三沢局の菩提を弔うため、万治元年(1658)に創建されました。
十万石の格式をもつ大寺院で、身延山からのご開帳が度々行われるなど、江戸十大祖師の随一といわれた名刹です。
「名所江戸百景 金杉橋海」(広重)
身延山久遠寺の開帳仏を東海道で各地から集まった講中が出迎えて、開帳仏とともに安政4(1857)年7月19日からの出開帳先の浄心寺に向かう様子が描かれています(諸説あります)。
<山門/本堂>
<蔵魄塔(関東大震災慰霊碑)>
作者は彫刻家の日名子実三氏。
「供養塔は半球ドーム型の白いコンクリート造の墳墓を悲しみに暮れる女性が抱きしめている姿のモニュメントで、蔵魄塔と名付けられました。」(説明板より抜粋)
【境内】
<梵鐘>
行伝寺(川越)の鐘が戦時中に金属供出されましたが溶かされる前に終戦となり、売出された鐘を浄心寺檀家さんが買受けたものです。
<百度石/水屋の由緒>
<梅玉之碑>
<石造燈籠>
【墓地】
墓地入口には石灯籠2基があります。
狭い通路に数多くの墓石が林立しています。
境内は案内・説明板が豊富なのですが、墓地は案内板は一切ありません。
三沢局墓と洲崎廓追善墓に墓参。
<三沢局墓>(江東区史跡)
三沢局(徳川家綱乳母)、慶長16(1611)年~明暦2年3月30日(1656年4月24日)。
墓地最奥の歴代住職の墓所の真中に三沢局の墓があります。
「浄心院殿妙秀日求大姉」「明暦二年三月三十日逝」
<元洲崎遊郭無縁精霊之供養塔>
左端に、比較的新しい高さのある供養塔があります。
「昭和三十九年八月十四日」
「施主 深川平野町二丁目有志」
<洲崎廓追善墓>(江東区史跡)
洲崎遊郭で亡くなった遊女の合葬墓です。
「大正八年九月再建」世話人に4名の名前が刻まれています。
<供養観世音>
「洲崎カフェー組合」と「従業婦多津美会」が昭和29年に建立した供養観世音。
「千代梅」の文字も刻まれています。
<不明の墓>
右端に、石川県士族堀鼎墓。詳細不詳。
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
文殊院(投込寺)
〇文殊院 板橋区仲宿28-5
<遊女の墓>
墓地入口に無縁塔に「遊女の墓 この先20m左」の案内表示があります。
20m進むと、「遊女の墓 ← 板橋区教育委員会」の案内板があります。
<遊郭「盛元」家墓地/遊女の墓>
正面に、遊廓「盛元」家の大きな墓石があります。
脇に遊女の墓があります。
「盛元」楼主が自家の墓域に葬っています。
遊女の墓には、俗名、没年月日が刻まれています。
他の「投げ込み寺」は無縁塔として弔われているのとは異なっています。
<延命地蔵堂/庚申塔>
<閻魔堂>
「江戸東京四十四閻魔」の第三十二番です。
閻魔堂内には、左に亡者から剥ぎ取った衣を衣領樹の枝に掛け生前の罪の重さを計っている懸衣翁。
中心に閻魔大王、右に奪衣婆。
左手に地獄絵が掲示されています。
<子大権現>
<文殊院>
(説明板)
「文殊院
真言宗豊山派、幡場山大聖寺と号し、本尊は文殊菩薩です。
江戸初期、板橋本陣飯田家の菩提寺として、古くから信仰を集めていた延命地蔵尊の境内をひろげて建立されました。開山は寛永二年(一六二五)に入寂した権大僧都慶恵と伝えられます。天保六年(一八三五)に全焼し、安政年間(一八五四〜六○)以降は正住職を置かず、赴任する仮住職も短期間で他の大寺へ転住していることから、出世寺とも呼ばれました。
山門脇に延命地蔵堂、境内に二大閻魔を祀る閻魔堂、足腰の守り神として知られる子の権現があります。閻魔堂内には、文化年間(一八○四〜一八)に番場原出土と伝えられる石棒が朝日観音として祀られています。墓地には史跡として有名な宿場時代の遊女の墓があります。本堂内には、板橋七福神の毘沙門天が奉安されています。
飯田家墓地の飯田静の碑は昭和六十三年度に、また本尊文殊菩薩は平成元年度に板橋区の有形文化財に登録されました。
平成三十年三月 板橋区教育委員会」
「ありがたや六道能化のほとけたち
維時平成五年 文殊院第二十一世 照圓書」
<六地蔵/無縁塔/その他>
<八十八ヶ所霊場巡拝>
四国八十八ケ所お砂踏み巡礼として四国遍路ができるようになっています。
八十八番までの敷石があり、最後に 「高野山奥の院」であがりです。
<遊女の墓>
墓地入口に無縁塔に「遊女の墓 この先20m左」の案内表示があります。
20m進むと、「遊女の墓 ← 板橋区教育委員会」の案内板があります。
<遊郭「盛元」家墓地/遊女の墓>
正面に、遊廓「盛元」家の大きな墓石があります。
脇に遊女の墓があります。
「盛元」楼主が自家の墓域に葬っています。
遊女の墓には、俗名、没年月日が刻まれています。
他の「投げ込み寺」は無縁塔として弔われているのとは異なっています。
<延命地蔵堂/庚申塔>
<閻魔堂>
「江戸東京四十四閻魔」の第三十二番です。
閻魔堂内には、左に亡者から剥ぎ取った衣を衣領樹の枝に掛け生前の罪の重さを計っている懸衣翁。
中心に閻魔大王、右に奪衣婆。
左手に地獄絵が掲示されています。
<子大権現>
<文殊院>
(説明板)
「文殊院
真言宗豊山派、幡場山大聖寺と号し、本尊は文殊菩薩です。
江戸初期、板橋本陣飯田家の菩提寺として、古くから信仰を集めていた延命地蔵尊の境内をひろげて建立されました。開山は寛永二年(一六二五)に入寂した権大僧都慶恵と伝えられます。天保六年(一八三五)に全焼し、安政年間(一八五四〜六○)以降は正住職を置かず、赴任する仮住職も短期間で他の大寺へ転住していることから、出世寺とも呼ばれました。
山門脇に延命地蔵堂、境内に二大閻魔を祀る閻魔堂、足腰の守り神として知られる子の権現があります。閻魔堂内には、文化年間(一八○四〜一八)に番場原出土と伝えられる石棒が朝日観音として祀られています。墓地には史跡として有名な宿場時代の遊女の墓があります。本堂内には、板橋七福神の毘沙門天が奉安されています。
飯田家墓地の飯田静の碑は昭和六十三年度に、また本尊文殊菩薩は平成元年度に板橋区の有形文化財に登録されました。
平成三十年三月 板橋区教育委員会」
「ありがたや六道能化のほとけたち
維時平成五年 文殊院第二十一世 照圓書」
<六地蔵/無縁塔/その他>
<八十八ヶ所霊場巡拝>
四国八十八ケ所お砂踏み巡礼として四国遍路ができるようになっています。
八十八番までの敷石があり、最後に 「高野山奥の院」であがりです。
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