千住大橋駅「高野槇」

〇シンボルツリー「高野槇」 足立区千住橋戸町 千住大橋駅前交通広場

 千住大橋駅前交通広場に「高野槙」が植樹されており、説明板が設置されています。

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(説明板)
「交通広場のシンボルツリー「高野槙」
 交通広場の中央に見える立ち木は、交通広場のシンボルツリーとして植樹した常緑針葉樹「高野槙」です。和歌山県の高野山に多いことに由来する命名です。高野槙は、水に強くて朽ちにくいことから、橋の支柱として利用されていました。
 「千住大橋」は、徳川家康から普請奉行に任じられた伊奈備前守忠次が、文禄三年(一五九四年)、荒川(現在の隅田川)に架橋した木造橋「大橋」がその始まりです。大橋はその後流失のたびに架け替えられ、江戸時代を通じて維持されました。当時、多くの人々から名橋と謳われたその力強い姿は、江戸の名所として浮世絵師や画師たちの題材に度々取り上げられました。
 この千住の大橋の橋杭材として用いられたのが高野槙です。昭和二年(一九二七年)、金属製のアーチ橋に架け替える際、木造橋を惜しんだ千住の人々は、その橋杭を素材とした彫刻制作を地元の木彫家に依頼しました。以後作品は家々で守られ、大橋の歴史を今日に伝えています。
 なお、当時の木造橋の橋杭三本は、現在でも千住大橋の橋下の水中に見ることができます。
 高野槙は千住大橋さくら公園にもシンボルツリーの一本として、植樹されています。」

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川越夜舟と橋戸河岸/川蒸気

○川越夜舟と橋戸河岸

 千住宿の橋戸河岸は、川越と江戸を一晩で結び、旅客とともに米麦や薪炭、鮮魚を運んだ「川越夜舟」の中継地として水運で江戸の繁栄を支えました。やがて、大正3(1914)年の東上線の開通を経て鉄道輸送が台頭し、水運は衰退していきました。
 「川越夜舟」は、川越を夕方出発し、翌朝に千住、昼に浅草花川戸に到着しました。このため川越街道の宿場は客足が減少したようです。

「名所江戸百景 千住の大はし」(広重)
 「川越夜舟」は、屋根にアシの葉で編んだ苫(雨おおい)をかぶせて雨や寒さを防きました。「名所江戸百景 千住の大はし」に、橋戸河岸に苫をかぶせた川越夜舟らしきものが描かれています。

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 日帰り温泉施設「小江戸温泉 KASHIBA」の施設名は、新河岸川の河岸場にちなんでいます。壁面イラストに江戸までの水運ルートが描かれています。イメージが少々異なる「川越夜舟」も描かれています。

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<千住節(川越舟歌>

 川越夜舟の船頭達などにより歌われていたのが、千住節(川越舟歌)です。千住宿の飯盛旅籠から流行ったようです。
 「千住大橋際歴史資料空館」(千住大橋橋詰テラス)に掲示の「千住の橋戸河岸」から「千住節(川越舟歌)」を抜粋します。

(説明板)
「千住節(川越舟唄)」
〽富士下離れりや荒川までは竿も櫓かいも手につかぬ
〽千住出てから牧の野までは雨もふらぬにそでしぼる
〽千住川さえ竿さしや届くまして届かぬ主の胸
 江戸と小江戸と呼ばれた川越を結んだ川越夜舟の船頭達などにより謳われていた。」

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○川蒸気

 「千住大橋際歴史資料空館」(千住大橋橋詰テラス)に掲示の「千住の橋戸河岸」から「川蒸気の登場)」を抜粋します。

(説明板)
「川蒸氣の登場
江戸時代以来、江戸との交通には舟運も利用されていたが、明治に入り川蒸氣が登場した。
明治八年には、千住大橋と両国橋間に川蒸氣船が開通。船賃は六銭であった。
吾妻橋から千住大橋間は二銭、川蒸氣はその後も路線が拡大した。
俗に一銭蒸氣と言う言葉がありますが、これは運賃が一銭であったことに因む。」

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「吾妻汽船千住大橋發着場」(荒川区史 東京市荒川区 昭和11年)

 「荒川区史」の記述によると、「一銭蒸気」と呼ばれた隅田川汽船(現在の東京都観光汽船株式会社:こちらで記載)は、千住大橋と吾妻橋間も営業しており、開花の季節には江北まで遡ったとあります。
 また吾妻急行汽船は千住大橋と吾妻橋間を往復し、南千住町汐入と学校前に停船場を置いているとあります。
 千住汽船は千住大橋と王子を往復しているとあります。

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「千住渡船場」(足立区立郷土博物館蔵)

 解説によると(引用)、「千住大橋上流の橋戸町岸にあり、浅草吾妻橋まで定期船が出ていた。所要時間1時間、昭和初期の運賃5銭。明治18(1885)年の開通で「一銭蒸気」ともいった。」

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○京浜間蒸気船

 明治初年の京浜間では多くの蒸気船が就航しています。

「東京築地ホテル館」(三代歌川広重 明治3(1870)年 築地よりみち館掲示より)

 蒸気外車船「シティ・オブ・エド号」が描かれています。

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○通運丸

 隅田川の「一銭蒸気」より先行していたのが、明治10(1877)年に就航した内国通運会社(現在の日本通運株式会社)の「通運丸」です。利根川水系を代表する長距離航路の定期貨客船でした。田山花袋や森鴎外等も乗船しています。

「東京両国通運会社 川蒸気往復盛栄真景之図」(歌川重清 明治15年 足立区立郷土博物館蔵)

 内国通運会社の通運丸乗船所と外車式汽船通運丸が描かれてます。乗船所入口には「郵便御用蒸気通運丸乗船所」と書かれた看板と、寄港地の河岸名を描いた木札が掛けてあります。

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千潮金刀比羅宮 (足立市場)

○千潮金刀比羅宮 足立区千住橋戸町53足立市場内

 千潮金刀比羅宮(ちしおことひらぐう)は、食堂のすぐ近くにあります。
 往古より祀られていた浮島金毘羅宮(明治20(1887)年に石神井の水天宮を遷座して、水天宮を社名とする)に、昭和41(1966)年、足立市場内に祀られていた千潮稲荷社(当初は、大正12(1923)年に伏見稲荷から分霊され汐入に創建)を合祀し、千潮金刀比羅宮と改称しています。本務社は、素盞雄神社です。

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<玉垣>

 玉垣には、青果業者等の標柱が並びます。

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<石鳥居>

 石鳥居に架かる扁額も石造で「千潮金刀比羅宮」とあります。

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<千潮稲荷>

 鳥居をくぐって左手に、「千潮稲荷」と記された石碑があり、その縁起が刻まれています。狛狐が左右に祀られています。

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<塚田社記>

 鳥居をくぐって右手に、「塚田社記」(昭和34年1月建立)と記された石碑があります。

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<手水鉢>

 大正13(1924)年銘の手水鉢です。

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<手水鉢>

 文化7(1810)年銘の手水鉢です。

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<暴力追放 交通安全>

 昭和41(1966)年5月銘の石碑です。

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<本殿>

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やっちゃ場(千住河原町)

やっちゃ場(千住河原町)

 変遷があるので、重複も多々ですが新たに記載します。

○道標 足立区千住河原町23-1

 国道4号線と日光道中の分かれる三角点に道標が建っています。
 「左 旧日光道中
  右 国道四号」
 「昭和四十九年十月 足立区」

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○元やっちゃ場南詰 足立区千住河原町23-11 武蔵屋横

(説明板)
「此処は 元やっちゃ場南詰
 やっちゃ場の由来
 やっちゃ場は多くの問屋のセリ声がやっちゃいやっちゃいと聞こえてくる場所(市場)からきたと言われている。古くは戦国の頃より旧陸羽街道(日光道中)の両側に青空市場から始まり、江戸・明治と続き大正・昭和が盛んだったと聞いている。
 街道の西側に三十数軒の青物問屋が軒を並べ、毎朝威勢の良いセリ声が響きわたり、江戸・東京の市内に青物を供給する一大市場だった。昭和十六年末に第二次世界大戦の勃発により閉鎖となり、以来青果市場は東京都青果市場へと変わっていき、やっちゃ場という言葉のみが残った。
 五街道の奥州街道・日光道中の両側に三十数軒の青物問屋が軒をならべている。まさに専門店街である。日本の専門店街はここから始まった。と言っても良いだろう。
  旧道を楽しくしようかい(会)
  千住大賑わい会 河原
  あだちまちづくりトラスト助成」

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○元長床茶屋 将軍鷹狩休憩所 足立区千住河原町24-1 高内ビル

 「元長床茶屋 将軍鷹狩休憩所 高内長之助」

 将軍が鷹狩りの時などの休憩に利用したのが長床茶屋です。雀焼きと甘辛団子が名物だったようです。隣が煙草入れで有名な濱松屋とのことです。

(説明板)
「歴代将軍が葛飾の小菅御殿への行き帰りに御休憩されたり、草加や竹の塚、花又村での鷹狩りの帰りに立寄られた茶屋である。目黒は秋刀魚で有名であるが千住ではすずめ焼きと甘辛だんごで舌鼓を打ったと思われる。隣は紙煙草入れが有名な(へ源)濱松屋なので将軍も愛用したのではないだろうか。」

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(「紙煙草入商 浜松屋」) 千住河原町24→撤去
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○鮒平 元吉見屋 足立区千住河原町23-10 鮒平

 「鮒平 元吉見屋」

(説明板)
「鮒平と千住
 川魚問屋鮒平は初代平治郎により明治初頭にここ千住に創業された。それ以前当家は江戸時代中期より街道沿いで茶屋吉見屋を生業としていたと伝え聞く。現在は鰻を主に取り扱っているが平次郎創業時は川魚の代表格であった鮒も主力に商っていたとの事。そこでその鮒と平次郎の頭文字をとって屋号を鮒平としたことは容易に想像できる。現在千住の名物となっている鮒のすずめ焼きを調理し新橋の老舗佃煮店に卸していた時代もあったと聞く。
 都内には川魚関係の屋号に鮒を用いている場合が多い。特にここ千住はその地理的特性(すなわち東京湾奥や関東平野各地からの交通の要所であった)から川魚の集積地であった為街道沿いには鮒を屋号に用いる店舗が散在している。隣の橋戸町は鮒金(佃煮)、日光街道を北に向うと掃部宿(仲町)には鮒興(川魚問屋)があり本宿(二丁目)には鮒秋(佃煮)が現存している。そのほか古い町並図にはここ河原町には鮒甚、仲町には鮒治の屋号を確認する事ができる。
  平成十九年十月吉日 鮒平
  あだちまちづくりトラスト助成」

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○傘弁 千住河原町26-1 佐々木商店

「傘弁 元青物出仲買商 投師 石井」

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○佐野屋 足立区千住河原町26-2 駐車場奥

 「元青物問屋 佐野屋」

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○そば久 足立区千住河原町22-9 ダイモンビル

 「元そばや 川上久大郎 七代目」

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○新大坂屋 千住河原町21-16 ベルグレード前

(説明板)
「大喜 元青物問屋 新大阪屋
 当主為也善太郎は俳諧を良くし俳号を為也菖蒲園と称す。高浜虚子の指導を受け昭和十九年ホトトギス同人に推薦される。やっちゃ場では菖蒲園を先達として俳句会が生まれた。その名は高浜虚子の命名による「やっちゃ場句会」である。菖蒲園はやっちゃ場の青物問屋の主人の馬力で精力的に近隣地区の句会の指導を続けている。
 今でも千住の俳句界では菖蒲園の名は懐かしく語られ続けている。
  寄贈 株式会社大林組 あだちまちづくりトラスト助成」

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(「元車茶や 佐野屋」) 千住河原町21→移設
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(「元青物問屋 川崎屋」) 千住河原町21→移設
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(「元青物問屋 山崎屋」) 千住河原町21→移設
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(「元青物問屋 足立屋」) 千住河原町21→移設
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(「投師 元出仲買商 笊屋 武井善次」) 千住河原町26-3→撤去
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○蒟蒻屋 千住河原町26-3 山栄食品

 「蒟蒻屋 粉川吉次 現五代目」

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○遠州屋/板橋屋/葛西屋 千住河原町27-1

 「車茶や 元遠州屋 小林喜一」
 「元青物問屋 板橋屋」
 「元青物屋 葛西屋」

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(説明板)
「車茶屋とは
現代の駐車場である。大八車の預かりと茶店を兼ねたもの。初めは大八車を預かるだけが、お茶のサービスから始まり、お新香が出て、煎餅となり、おにぎり、おだんごとなれば商売である。この様にして駐車場と茶店を併用したものが車茶屋である。ただ預かるだけは繁盛しない。サービス、ノウハウが大事。やっちゃ場で大八車を預けるのは荷主(山方)と買出人である。山方は前日の夕
暮れから夜半に来て早朝に帰る。買出人は早暁に来て朝に帰る。両者の毎日帰る時間を的確に把握し帰る時に遅滞なく車を渡せるかが車茶屋としての腕の見せどころである。やっちゃ場の街道筋に五、六軒が見受けられる。」

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(「中村不折と葛西屋」) 足立区千住河原町27-1→撤去

(「元青果物 仲卸商 三谷屋」) 足立区千住河原町27-3→移設
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○吉田屋 足立区千住河原町27-4

 「元青物問屋 吉田屋」

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○川嘉 千住河原町27-4

 「元青物問屋 川嘉」

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(説明板)
「屋号の由来
問屋の創業者は清水嘉七。嘉永七年生れの年号そのままを名にして嘉七となる。後年問屋を創業するに際し本家の川崎屋丸角を踏襲して川崎屋嘉七となり、更に屋号を川嘉と号した。当時の屋号は概ねが出身地名や商いの品名を冠にして表わすことが多い内では数少ない屋号の顕し方でヤッチャバでもニ〜三軒といわれている。
(通称嘉七さん又は三ッ葉問屋)」

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(「元青物問屋 ニ合半屋」) 千住河原町27-4→撤去

○まちの歴史 千住の町並み 千住河原町27-5

(説明板)
「まちの歴史 千住の町並み
 「大千住」という言葉があります。千住に住んだ明治の文豪・森鴎外が使った言葉です。日光道中千住宿は品川・新宿・板橘と並んで江戸四宿といいました。江戸時代の末の人口は約1万人で、第2位の品川宿の6千300人を大きく引き離し最大でした(1844年「宿村大概帳」)。まさに「大千住」です。
 なぜ千住宿は最大だったのでしょう。答えは今の町並みにあります。町を歩くと宿場風の家とともに古色蒼然たる蔵がたたずんでいます。千住河原町は市場“ヤッチャバ”の故地です。このように見ると千住の町並みの中に宿場と市場が混在している事にお気付きてしょう。千住が最大規模を誇った理由はここにあります。宿という交通機能に加え、市場という物資集散地であったことが千
住の繁栄を築きました。物資を保管した蔵は、千住の市場機能を今日に伝えています。
 では市場が繁栄した要因は何かといえば、足立・葛飾から埼玉の農村が流通圏だったことです。千住宿の古絵図をひも解くと、含人屋・花又屋という区内の地名や、二合半屋、といった三郷の古名を名乗る店が見えますが、これは流通圏を反映しています(江戸後期「千往宿宿並図」)。千住は農村に支えられ四宿の頂点に君臨したのです。
 千住は単なる宿場てはない。いまの千住の町並みは、そうした栄光を私たちに語りかけてきます。」

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○昭和5年千住市場問屋配置図 足立区千住河原町27-5

 昭和5(1930)年の問屋配置図があります。

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(説明板)
「問屋配置図から見えてくる事柄と人間模様
一 問屋のセリ場
道路から家が下がって建ち、前に空間があるのは問屋の石畳でセリ場。道路際まで家が出ているのは問屋以外の商家。町の中心部に問屋が集まっている。

二 屋号は出身地?
屋号を見て何か気付くだろうか?地方の地名が多い。出身地が分る。江戸時代の国・地域・土地名である。大阪屋、和泉屋、遠州屋、平塚屋、川崎屋と東海道に沿った地名や、関東一円の地名も多い。

三 同じ屋号が多い
良く見ると同じ屋号がかなり見受けられる。柏屋・川崎屋・佐野屋・清水屋・坂川屋等である。兄弟、親戚、暖簾分け等である。屋号で区分できない部分は屋号の上にある印で区分している。〇・□・へ・¬そして色区分もある。

四 専門問屋
ネギ・三軒 柏 柏 角
果物・二軒 水重・水宗
蓮根・一軒 蓮屋(葛西屋)
セリの時間をずらす。
一人の仲買人が三軒のセリに参加するため早番・中番・遅番

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五 セリの時間が早いのはなぜ?
夏→三時から、冬→五時から、それは千住のやっちゃ場のみに存在する出仲買商(通称[投師])という商人形態である。やっちゃ場で商売するのではなくいち早く買出しをして市内の各市場、神田、京橋、駒込、品川、中野、江東等の市場に荷を運びそこで商売をする。その為に千住のセリ時間は早いのである。

六 車茶屋
車茶屋という商売がある。大八車の預かりと茶屋を兼ねたものである。始めは大八車を預かるだけが、お茶のサービスから始まり、お新香が出て煎餅となり、おにぎり、おだんごとなれば商売である。この様に駐車場と茶店を併用したものが車茶屋である。ただ、預かるだけでは繁盛しない。やっちゃ場で大八車を預けるのは荷主(山方)と買出人である。山方は前日の夕暮れから夜半に来て早朝に帰る。買出人は早暁に来て朝に帰る。両者の毎日の時間を的確に把握し、帰るときに遅滞なく車を返せるのが車茶屋の腕の見せどころ。やっちゃ場の街道筋には五、六軒が見受けられる。

七 やっちゃ場を存続させる人間のかかわり
やっちゃ場では人間の繋がりを表す言葉がある。「親戚」「親戚付合い」「引っ掛りがある」などである。やっちゃ場内の人間の繋がりを大切にする気質が感じられる。どうしてだろうか?
やっちゃ場では娘が多かったから婿取りで家業を引き継ぐことが大事であり三代続けて婿取り問屋もある。仲間の問屋の二・三番番頭の腕の良い者を婿に取り家業を続けてゆく。だからやっちゃ場はしっかりしたおかみさんが内側から仕切っていた。セリ場での売上帳を左腕に乗せ、右手は矢立を操り、するすると書きとめていく。そして帳場の帳合はおかみさんの城・問屋の屋台骨をしっかり支えていた。やっちゃ場はある意味、おかみさんでもっていた。

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やっちゃ場のしくみ
 ある資料によると慶応年間には江戸市中の青物、水菓子問屋を町域に応じて八組に区分けしたとある。三大市場と言われたうち、最大の神田市場は多町、連雀町に問屋が集中し、その他六町が入り約百三十軒と平面的である。駒込市場は高林寺門前に八軒。その他十二町で約二十七軒と分散している。千住市場は主要日光道中の両側千住河原町の一町に三十九軒と集中している。青果物の専門店街である。日本の専門店街の草分け的な市場といっても過言ではないだろう。」

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<千住の呼び名>

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<平成22年7月18日完成>

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○谷塚屋 足立区千住河原町21-12 メインステージ千住河原町

(説明板)
「谷清 谷塚屋 元青果物問屋
 両替商から青果物問屋へ
 江戸後期よりやっちゃ場にて両替商を営み明治三十四年より青果物商となる。初代は磯吉・二代は清吉、ここで谷清 谷塚屋を名乗る。三代から五代までは婿とりで、五代目の午三郎を青果物問屋□和泉屋より婿として向へて青果物問屋となり主に土物を扱っていた。谷塚屋に保存されていた両替商時代の帳面からみると両替商の商圏は千住周辺のみならず埼玉県草加や江戸川区平井附近の地名が読みとれる。青果物商となっても両替商時代の商圏を活用して広範囲に青物の集荷をしているのが現存する帳面から窺い知る事が出来る。特に大正期には関東全般は元より常磐線を利用して福島県岩城市や宮城県仙台附近の地名が印されている。やっちゃ場も昭和二十年四月の空襲で消滅し以後東京都足立市場となる。
  寄附 東京千住青果株式会社 あだちまちづくりトラスト助成」

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○谷塚屋の鬼瓦 足立区千住河原町21-12 メインステージ千住河原町

 マンション(メインステージ千住河原町)脇に、令和元(1989)年に解体された谷塚屋の鬼瓦が保存・展示されています。ここには、解体された建物に掲示されていた屋号が集めらています。屋号の墓場みたいで、今後も増えるかも。

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(説明板)
「土蔵の鬼瓦
 やっちゃ場には多くの土蔵があったと思われるが太平洋戦争末期の空襲でほとんどが消失してしまった。その中で谷塚屋と足立屋の2棟が並んで残りポツンと建っているさまはやっちゃ場の名残を表すシンボルのようであった。
 この鬼瓦は谷塚屋の鬼瓦である。建立年代は定かではないが永い間青物問屋の財産・文化財想い出の品物等を大切に守り続けて家の繁栄をささえていた。令和元年に2棟同時に解体された。現在はM.メインステージ千住河原町脇に設置。
  千住大賑会・河原」

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○やっちゃば句会 足立区千住河原町21-12

 やっちゃば句会の絵と句が掲げられていましたが、なくなりました。以下は以前の掲示です。

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○柏屋/投師 足立区千住河原町21-11 千住宿歴史プチテラス前

 「元青物問屋 柏屋」

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(説明板)
「やっちゃ場の最大の特徴 投師の存在
通称「投師」正式には出仲買商という。千住のやっちゃ場だけにあった商人形態である。店を持たず仲買人の店先を借り、セリに参加していち早く大八車に品物を積み東京市内の全市場え駆けつけ売り捌くのである。セリはその為に夏は早朝三時から始っていた。何が利幅があるかは情報の勝負である。昭和初期の投師は百五十人位である。市内の市場は投師の持込む青果物でかなりの部分が賄われていたと思われる。それだけ千ずうのやっちゃ場が巨大な市場であったと言う事であろう。」
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 投師 異聞
投師の総数は約百五十人位い、各人行き付の市場があり、神田市場え、京橋市場にその他市内各市場に投師が広がって行ったのである。やっちゃ場を出てすぐに千住大橋の急坂を上り下りしなければならない。梶棒取りと押手のみでは荷が重くて上り下り出来ない。そこで登場するのが通称「オッペシ屋」と呼ばれる人達てある。上り下りで何銭と決めて投師の専属で請負うのである。人が集まればそこには全体を差配する元締の登場となる。職業が次の職業を生んだのである。投師一人で大八車一台とは限らない。二台、三台と経済の拡大と共に増加する。毎日やっちゃ場から四、五百台の大八車がまだ明けやらね大橋を渡って行くのである。手ブラ提灯の光りが大橋の坂を下り右は金杉から根岸え、左はこつ通りから日本堤・浅草方面えと提灯の帯が続き大橋より俯瞰するとガラガラと言う大八車の音と共に光りの帯が天の川の流れのようだったと言う。この?大な野菜が毎日束京の人々の胃袋え吸込まれていったのてある。昭和二十年四月の空襲でやっちゃ場は焼野ヶ原となり問屋三十数軒が日光道中の街通の両側に集合して出来た青物市場は三百七十年の歴史を閉じたたのである。但しどっこい投師は生きている。その子孫が現在も築地、北足立、淀橋等の市場で仲買商として脈々と続いている。」

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○千住宿歴史プチテラス 足立区千住河原町21-11
 (別途記載

○富岡芳堂 足立区千住河原町21-10 阿部メディカルクリニック

 千住の古い家々の神棚や仏壇の奧に、明治18(1885)年に流失した千住大橋の高野杭で造った富岡芳堂の彫刻が保存されているそうです。(足立区教育委員会「足立史談」より)

(説明板)
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「やっちゃ場と千住の彫刻家 富岡芳堂
 明治二十三年 千住二丁目富岡呉服店の次男として生まれる。幼少より芸術を好み彫刻家吉田芳明氏に師事する。大正四年米国サンフランシコにて開催さた万国博覧会に国?代表作品として出展し二等銀牌を受けた。特に旧千住大橋の木橋材(高野槙)による作品は現在も千住の家々に千住の心として大切に保存されている。昭和三十二年没。
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 やっちゃ場の家々に旧千住大橋の木橋材で作った作品が十一体確認されている。なぜやっちゃ場にはこの様に多いのか。元投師(出仲買人)「油清」の井出忠太郎さんは芳堂と大変親しかった。油清の主要仕入問屋は「谷清」谷塚屋である。谷清を仲介して問屋や仲買人への働き掛けがあったものと思われる。新築祝、誕生祝、快気祝といった時に作った。大橋の長寿にあやかったのではないか。面白いもので作品の残っているのはやっちゃ場の東西の位置の家である。旧陸羽街道に沿った南北の家並には見当らない。おそらく昭和二十年四月の空襲で焼失したのであろう。比の他に千住には掃部宿、一?五丁目、大川町に十一体散在している。遠く横浜にも一体あり、冨岡家のご子孫の家には高さ1.2m巾1.3mの巨大な学問の神様菅原道真候の像が保存されている。何時の日か千住のしかるべき場所に祭り千往の子供達の学業向上に役立てばと考えている。実現すれば芳堂光生も喜ばれる事と思う。
  寄贈 阿部メディカルクリニック あだちまちづくりトラスト助成」

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○やっちゃば追想 足立区千住河原町21-10 阿部メディカルクリニック

 大正・昭和初期のやっちゃ場のようすが描写された案内板が、千住宿歴史プチテラス隣りに設置されています。
 平成18(2006)年に「千住青物市場創立330年祭記念碑」が明治39(1906)年に建立されてから100年目を迎えました。「千住大賑い会・河原」は、これを記念して「やっちゃ場追想」と題した案内板を作成したものです。当初は手漉き和紙に墨筆だったものが、改修されています。  

(掲示)
「やっちゃ場 追想 大正・昭和初期
裸電球の灯る早暁の市場、夏のやっちゃ場は朝が早い
三時近くになると問屋のせり場に続々と集まってくる出仲買人(投師)や仲買人の黒い人影。
そして 甲高いせり人の声が響き渡る。
主人 番頭がせり始める
それぞれ得意の品物をせる。
数十軒の問屋でいろいろなせり声、甲高い声、低い声 そしてダミ声
こうしてやっちゃ場の一日が始まる。
やっちゃいやっちゃい問屋のせり場は大混雑大混雑
まさに芋を洗うが如きである。
数時間後さしもの雑踏も汐が引くようにゆるみ始める
荷を引く買出人 仕切銭をもらって家路を急ぐやまの人。
台所では遅い朝飯を摂り始め、せり場では小僧が散らかった藁屑を竹箒で掃く。みるみる藁の山となる。
若い衆は縁台で将棋でくつろぎ、旦那衆は寄り合いに急ぐ
御影石を敷き詰めたせり場は広々として暫くの間子供達の格好の遊び場に変わり歓声がひびき渡る。
穏やかなひととき。夕暮れが近づきわずかだが静かに時が止まる。
ややあって旧道の奥の方から地鳴りのようなひびきが徐々に伝わって来る。
沢山の大八車や、牛車が連なって来るひびきである。
夕闇が濃くなる頃には手ぶら提灯を点けた大八車で旧道が埋まり陸続とゆらゆらとやっちゃ場へ向かう。
そして荷主は荷を下ろし二階の仮眠部屋で朝までしばしの眠りにつく。
 平成十八年は千住市場創立三百三十年祭記念碑建立(明治三十九年)より数えてちょうど百年の節目の年である。
  千住大賑会・河原
 平成22年7月18日完成」

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○和泉屋 足立区千住河原町21-10 阿部メディカルクリニック

 「元青果物問屋 和泉屋」

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○大師道への道標 足立区千住河原町21-10

 「旧日光道中」「是より西へ大師道」の道標です。平成元(1989)年2月に足立区が設置したものです。大師道を進むと河原稲荷神社があります。

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○佐野新  足立区千住河原町27-5 マンション

 「元めしや 佐野新」

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○川崎屋 足立区千住河原町20-10

 「元千住葱専門問屋 川崎屋」

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 千住葱専門問屋の川崎屋の長男に生まれた、やっちゃばの郷土史研究家、福嶋憲太郎の説明板です。

(説明板)
「元千住葱専門問屋 川崎屋」
「やっちゃ場の郷土史家 福嶋憲太郎 明治三十四年〜平成十ニ年
 やっちゃ場には千往葱を専門に扱う葱問屋三軒あり十一代目(○に角)川崎屋の長男として生まれる。千住葱は高級葱として取引され三軒の問屋が早番、中番、遅番と輪番制を取りセリを行っていた。
 何頃かは不明てあるが郷土史の研究を始め特に江戸中期の俳諧師建部巣兆の俳画の研究が著名である。各地の絵馬の研究収集にも力を注いでいた。
 晩年にはやっちゃ場に関する各種資料の収集を精力的に行っていた。
 福嶋氏の資料がやっちゃ場の「しくみ」を知るうえで大変用立てさせていただいている。
  寄贈 東京千住青果株式会社 あだちまちづくりトラスト助成」

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○千住ねぎ 葱 足立区千住河原町20-9 山柏青果物市場

 千住葱は、長ネギだけの民営のネギ専門の東京千住山柏青果物卸売市場で取り引きされたネギのブランド名です。現在の生産地は主に埼玉県のようです。

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(説明板)
「千住ねぎ 葱
柏は「千住葱」の専門の市場で代々やっちゃばにて問屋業を営んできた。千住葱は白味が長くて甘い高級葱として料亭、レストラにはなくてはならぬ品物である。生産地は越ヶ谷、吉川などの専門農家が作付をしている。皆さまも千住葱のお美味しさを是非味わって下さい。」

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○本坂川屋 足立区千住河原町20-8

 「元青物問屋 本坂川屋 兼業たくあん卸」

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 「名人 鯉の隠居 佐可和鯉隠」
 青物問屋坂川屋の隠居佐可和幸次郎は隠居して鯉隠と号し、酒井抱一に手ほどきを受けて絵描きとなりました。頌酒堂とも名乗り大の酒好きでした。墓が源長寺にあります(こちらで記載)。

(説明板)
「名人 鯉の隠居 佐可和鯉隠
 「千住酒合戦」文化十二年十月二十一日千住一丁目問屋場前の諸家飛脚宿中屋の隠居六右衛門「中六」が還暦祝いに酒合戦を催した。その勧進元は「中六」の呑友達の粋人鯉の隠居といわれた鯉隠(坂川利右衛門・頌酒堂・佐可和鯉隠・青物問屋坂川屋)が引受けた。鯉隠は千住の俳人建部巣兆の門下で絵を描き、酒井抱一と親交があった。千住に遊ぶ亀田鵬斎など文人墨客とも親交があり、江戸市中の文人らを来賓で招いている。その顔ぶれは鵬斎をはじめ、谷文晁、酒井抱一、市河寛斎など知名度の高い人達であった。竹塚村(現竹の塚)出身の文人、竹塚東子も来賓に連なっている。
 鯉隠は、隅田川を千住の大橋で渡った素盞雄神社に文政三年(一八ニ○)に亀田鵬斎による松尾芭蕉句碑を建立している。どうして南千住の素盞雄神社なのかは不明である。ご存知の方はお知らせ下さい。
  寄贈 有限会社喜田家」

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 「千住酒合戦図」(高田與清「擁斎漫筆」)が掲示されています。
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(「元青物問屋 坂川屋」) 足立区千住河原町27-6→撤去


○柏屋 足立区千住河原町27-6 駐車場

 「元千住葱専門問屋 柏屋」

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○中野屋 足立区千住河原町27-8

 「元青物問屋 中野屋」

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(「元仲卸商 清水屋」) 足立区千住河原町27-8→撤去
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○清水屋 足立区千住河原町27-8

 「元青物問屋 清水屋」 家の横に置かれています。

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○水重 足立区千住河原町19-10

 「元果物専門問屋 水重」

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○やっちゃ場の文化人 建部巣兆 足立区河原町29-1

(説明板)
「やっちゃ場の文化人 建部巣兆
 巣兆は文化、文政の江戸文化華やかなりしころ千住はずれの関屋の里に住み、俳画に長じ江戸三大家に数えられた俳諧師である。字を巣兆、菜翁、秋香庵と号した。亀田鵬斎、酒井抱一など江戸一流の文人墨客と親交があり千住にあっては俳句の点者や俳画、生花の指南で生活していたと思われる。一説では、巣兆は酒を非常に嗜み、その門人で近所に住んでいる豆箕とはよい飲み相手であり、金銭に活淡泊な巣兆は余財があれば惜しまず、酒代に差支える事も度々であった。いつもの如く秋香庵で両人が酒を酌み交していると、巣兆の妻女が背後から巣兆に小さな声で「もしもしもうお酒がありませんよ」と耳打ちすると「解った」と黙って着ていた羽織をぬいで妻女へ渡すと度々の事で心得たもので、それが質屋の露地から酒屋の暖簾を潜って黄金の液体に化けてくると言う次第である。豆箕は千住市場の青物問屋⑦伊勢屋七兵衛でありまさに此の土地の人物である。住居については不明な点が多いが参考資料を記述」

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 「化政時代 秋香庵附近図」が添えられています。
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 鯉隠が描いた巣兆像です。
巣兆像

 「芭蕉図」(足立区立郷土博物館蔵)
  千住の絵師・俳諧師だった建部巣兆が描いた松尾芭蕉像です。(縦に長いので加工しています)
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○伊勢屋/水宗 足立区千住河原町29-1

 「元青物問屋 伊勢屋」
 「元果物専門問屋 水宗」

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 青物とは、葉野菜、土物(根菜類)、水菓子(果物) の3種をいい、水菓子とは果物のことです。

(説明板)
「水菓子の話
 「水菓子」戦前より昭和三十年代まで使われていた言葉である。
 果物は当時貴重品で御祝の送り物や病気見舞に良く使われていた。
 家庭では病気になったときにお母さんが林檎を摺って飲ませてくれたものである。
 「水宗」はやっちゃ場では少ない果物専門問屋である。向いの「水重」と共に果物問屋の双壁を成していた。」

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(「元乾物商 野村」 足立区千住河原町29-3 駐車場→撤去
  撤去前です。
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○吉田 足立区千住河原町29-3

 「足袋や 元たび屋 吉田」

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(「やっちゃ場北詰」) 千住河原町19-8古谷ビル→撤去

 空家となり掲示が消失しています。

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(撤去前)
 「古谷 元お酒や 相洲屋」
 「此処は元やっちゃ場北詰」
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tag : 千住松尾芭蕉

千住宿歴史プチテラス(やっちゃば)

○千住宿歴史プチテラス 足立区千住河原町21-11 土日開館

 元地漉紙問屋・横山家(千住4丁目)の土蔵を移築して「千住宿歴史プチテラス」として利用されています。 国土交通省の平成6年度「手づくり郷土賞」「ふるさとの文化を育む街角の広場30選」に選定されています。

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<パンフレット>

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<やっちゃばの地碑>

 芭蕉句碑が「千住奥の細道プチテラス」に移設され、代わりに「やっちゃばの地」碑が建っています。令和2(2020)年とあります。

 「元千住青物市場
  やっちゃばの地
  令和ニ年 創立四百四十四年記念」

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「鮎の子のしら魚送る別哉」

 千住宿歴史プチテラスから千住奥の細道プチテラスへ移設されています。

(移設前)
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(移設先) 菖蒲園の句碑と並んで建っています。
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<千住宿歴史プチテラス石板>

「千住宿歴史プチテラス
 この建物は、平成四年六月、足立区千住四丁目二十八番の元地漉紙問屋・横山家の土蔵を家主である横山佐吉氏から足立区へ寄贈されたものです。
 寄贈された土蔵は、間口が二間半、奥行き三間半のニ階建てで母屋と棟続きの内蔵として使われていました。この土蔵の「棟札」によると、「天保元年葵寅三月」(一八三○年)に建築されたものであり、江戸時代建築の証拠が残る都内では珍しい建築物です。
 この度、ここ千住宿歴史プチテラスに移築し、“歴史と潤いのあるまちづくり”のためのギャラリーとして活用することとなりました。
 プチテラス整備に伴い、横山佐吉氏から「庭石」、千住二丁目二十七番の山崎忠男氏から高さ八尺(ニ、四メートル)の「石灯篭」、千住四丁目氷川神社から「力石」の寄贈を受けました。
 また、この計画には当初から地域住民の方々の参画を得て、設計から工事、管理・運営について検討を重ねてきました。
 管理、運営については、地域住民の方々により組織された「千住宿歴史プチテラス維持会」が平成四年十二月十日に発足し、当プチテラスを多くの人々に喜んで利用されるよう、清掃、鍵の管理等を行っています。
 このように、地域の方々に多大なる御尽力を得て無事完成することができました。
 ここに深く御礼申し上げます。
  平成五年四月一日
  足立区都市環境部まちづくり課
  (財)足立区まちづくり公社」

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【館内】

 やっちゃ場が賑わっていた時の品々や写真が展示されています。

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<千住市場と文人たち>

 「初市に 宝船踊り 果てにけり 菖蒲園句」
 「永き日の 古き歴史の 市場かな 虚子」

 「やっちゃ場句会」(高浜虚子の命名)を創立した為成菖蒲園の他の句です。
  「やっちゃ場の 主となりて 昼寝かな」
  「学問が 無くて幸せ 大根糶る」
  「ころげたる トマト踏まるゝ 市場かな」
  「百頭の 飾り馬来し 市場かな」
  「街薄暑 奥の細道 ここよりす」(奥の細道プチテラスに句碑)

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 プチテラス隣の建物に、やっちゃば句会の絵と句が掲示されていましたが、マンション建設で以下の掲示は消失しました。
 「千住出れば奥街道の青嵐 子規」
 「永き日の古き歴史の市場かな 虚子」
 「やっちゃ場の主となりて昼寝かな 為成菖蒲園」

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<為也善太郎> 足立区千住河原町21-16 ベルグレード前

 やっちゃ場に為也善太郎が主人の馬力だった屋号の掲示があります。

「大喜 元青物問屋 新大阪屋
 当主為也善太郎は俳諧を良くし俳号を為也菖蒲園と称す。高浜虚子の指導を受け昭和十九年ホトトギス同人に推薦される。やっちゃ場では菖蒲園を先達として俳句会が生まれた。その名は高浜虚子の命名による「やっちゃ場句会」である。菖蒲園はやっちゃ場の青物問屋の主人の馬力で精力的に近隣地区の句会の指導を続けている。
 今でも千住の俳句界では菖蒲園の名は懐かしく語られ続けている。
  寄贈 株式会社大林組 あだちまちづくりトラスト助成」

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<谷塚屋岡本午三郎と木彫家富岡芳堂/千住大橋の脚柱で作った品々>

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「大橋舊橋」(足立区立郷土博物館蔵)

 千住大橋の最後の木橋は、明治19(1886)年に架けられ、昭和2(1927)年に現在の鉄橋に変わりました。架け替えの際、地元の有志が脚柱を譲り受け、仏像や縁起物に細工しました。

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<富岡芳堂>  足立区千住河原町21-10 阿部メディカルクリニック

 やっちゃ場に「富岡芳堂」の説明板があります。

「やっちゃ場と千住の彫刻家 富岡芳堂
 明治二十三年 千住二丁目富岡呉服店の次男として生まれる。幼少より芸術を好み彫刻家吉田芳明氏に師事する。大正四年米国サンフランシコにて開催さた万国博覧会に国?代表作品として出展し二等銀牌を受けた。特に旧千住大橋の木橋材(高野槙)による作品は現在も千住の家々に千住の心として大切に保存されている。昭和三十二年没。
 やっちゃ場の家々に旧千住大橋の木橋材で作った作品が十一体確認されている。なぜやっちゃ場にはこの様に多いのか。元投師(出仲買人)「油清」の井出忠太郎さんは芳堂と大変親しかった。油清の主要仕入問屋は「谷清」谷塚屋である。谷清を仲介して問屋や仲買人への働き掛けがあったものと思われる。新築祝、誕生祝、快気祝といった時に作った。大橋の長寿にあやかったのではないか。面白いもので作品の残っているのはやっちゃ場の東西の位置の家である。旧陸羽街道に沿った南北の家並には見当らない。おそらく昭和二十年四月の空襲で焼失したのであろう。比の他に千住には掃部宿、一~五丁目、大川町に十一体散在している。遠く横浜にも一体あり、冨岡家のご子孫の家には高さ1.2m巾1.3mの巨大な学問の神様菅原道真候の像が保存されている。何時の日か千住のしかるべき場所に祭り千往の子供達の学業向上に役立てばと考えている。実現すれば芳堂光生も喜ばれる事と思う。
  寄贈 阿部メディカルクリニック あだちまちづくりトラスト助成」

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<奥庭>

 前庭のほかに、奥庭もあります。江戸時代の商家の税金対策としての特徴である間口が狭く奥行きが長い構造です。

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