根生院

○根生院 豊島区高田1-34-6

 金剛賓山根生院延寿寺と号します。根生院は、春日局の猶子榮春法印が開山となり、寛永12(1636)年徳川幕府西の丸祈願所として神田白壁町に建立しました。正保2(1645)年に下谷長者町へ移転、元禄元(1688)年に本郷切通坂知足院跡へ移転、明治22(1889)年に上野池端七軒町へ移転、明治36年(1903)当地へ移転、現在に至ります。
 御府内八十八ヶ所霊場35番札所です。

「江戸切絵図」
 湯島切通(現在の春日通り)に「根生院」が描かれています。
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「江戸名所図会 根生院」
 湯島切通に「根生院」が描かれています。
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「御府内八十八ケ所道しるべ 三十五番根生院」
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<根生院案内>

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<山門>

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<道標「藤稲荷大明神」>

 「藤稲荷大明神」(文政10(1827)年銘)とあり、東山藤稲荷神社(こちらで記載)への道標です。金乗院前の宿坂下、大榎一里塚からの移設です。

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<札所碑>
 「御府内八十八ヶ所 第三十五番 金剛賓山根生院」(明治四十五年)

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<庚申塔二基> 豊島区文化財
 左に元禄3(1690)年銘の庚申塔、右に天保6(1835)年の庚申塔があります。こちらも大榎一里塚からの移転です。

「(豊島区有形文化財)
  奉供養庚申天子
  元禄三庚午年四月十五日(一六九○)

 (豊島区有形文化財)
  青面金剛庚申塔
  天保六年巳未庚申日建之(一八三五)
  宿坂下、(旧)大榎一里塚より移転したものと思われる。」

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<手水舎>

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<稲荷大明神>
 幟には「稲荷大明神」とあります。

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<大日如来像>

「(真言)おんあびらうんきゃん
 大日如来(胎蔵界)
 寛文六年丙午八月四日(一六六六年)
 大日如来のお姿は金剛界大日如来と胎蔵界大日如来があります。これは密教独自の考え方です。
 金剛界大日如来は知恵の面からとらえたお姿です。
 胎蔵界大日如来は慈悲の面からとらえたお姿です。」

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<薬師瑠璃光如来石碑>

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<重修根生院記>
 「重修根生院記」

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<札所碑>

「四圀八十八ヶ處 第三十五番 願主 諦信
 南無大師遍照金剛
 宝暦七丁丑五月吉日
 江戸府内八十八ヶ所札所の石標(標石)
 初期(一七五七)の石標で府内に現存するは四基
 諦信:御府内八十八ヶ所の開創、維持発展に寄与」

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<文化彫>

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<本堂>

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 賽銭箱には葵紋が付されています。
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tag : 江戸名所図会

宿坂/富士見坂

〇宿坂 豊島区高田1丁目・2丁目
 「宿坂」の坂下に「金乗院」があり、坂上で目白通りに交差し、その先は「鬼子母神表参道入口」となります。

 坂下から坂上
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 坂上から坂下へ
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 目白通りと「宿坂」先の「鬼子母神表参道入口」
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現在地図
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「江戸切絵図」
 江戸切絵図から金乗院と宿坂の抜粋です。 宿坂下には「ジャリバト云」と記されています。

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「宿坂関旧址 金乗院 観音堂」(江戸名所図会)
 宿坂が描かれています。宿坂の左手に「金乗院」が描かれています。挿絵には「此標石の小路を行きて浅間坂へ出る」とあります。

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(説明板)
「宿坂道
 中世の頃、「宿坂の関」と呼ばれる場所がこの辺りにありました。天保七年(一八三六)出版の『 江戸名所図会 』には、金乗院とともに「宿坂関旧址」が描かれています。金乗院の裏門の辺りにわずかな平地があり、立丁場と呼ばれ、昔ヨ所があった跡であるとの伝承が記されています。この坂の名が「宿坂」といわれているのは、おそらくこれにちなむものと思われます。
 また金子直徳著『若葉の梢』(寛政一〇年・一七九八)によれば、宿坂の関は関東お留の関で、鎌倉街道の道筋にあったといわれています。鎌倉街道は、高田馬場から雑司ヶ谷鬼子母神方面へ抜ける街道で、現在の宿坂道よりやや東寄りに位置していたようです。
 江戸時代には竹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみ坂と呼ばれ、狐や狸が出て通行人を化かしたという話が今に伝わっています。」

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「江戸名所図会 姿見橋」
 「姿見橋」の先に「氷川」「南蔵院」「宿坂」「金乗院」「藤いなり」と続きます。

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〇金剛寶山根生院之道
 宿坂下から東へ「根生院之道」をたどると「根性院」へ至ります。

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〇富士見坂 豊島区高田一丁目・文京区目白台一丁目

 目白通り「目白台2丁目交差点」から下り、途中で豊島区と文京区の区境である「日無坂」と別れます。富士見坂は急坂で、坂の両側に手すりが設けられています。

 坂下
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 坂上、左下へ日無坂
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 「富士見坂 明治百年記念 高田富士見会」
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tag : 江戸名所図会

目白不動尊 金乗院

〇目白不動尊 金乗院 豊島区高田2-12-39

 神霊山金乗院慈眼寺と号します。第二次世界大戦で焼失した目白不動堂(新長谷寺)を合寺しています。

 <金乗院>
  ・江戸三十三観音霊場14番
  ・御府内八十八箇所霊場38番
  ・東京三十三観音霊場23番
 <目白不動堂>
  ・関東三十六不動霊場14番
  ・御府内八十八箇所霊場54番
  ・山の手三十三観音霊場9番
  ・近世江戸三十三観音霊場16番
  ・江戸五色不動

「江戸切絵図 目白不動堂」
 目白不動堂・別当新長谷寺は、目白坂上にありました。

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「江戸名所図会 目白不動堂」
 目白坂上に描かれている目白不動堂です。

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「絵本江戸土産 目白不動」(広重)
 挿絵には「目白不動は目黒とかはりて高き丘にあり眺望もつともよし」とあります。

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「東京名所四十八景 関口目しろ不動」(昇斎一景 都立図書館蔵)
 右上に目白不動、左の崖下に神田上水の関口大洗堰が見えます。

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「御府内八十八ケ所道しるべ 三十八番金乗院」
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「御府内八十八ケ所道しるべ 五十四番新長谷寺」
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<目白不動 金乗院>

(説明板)
「目白不動 金乗院
   所在地 豊島区高田二-一二-三九
 金乗院は真言宗豊山派の寺院で、開山永順が本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音堂を築いたのが草創とされています。永順の没年は文禄三年(一五九四)六月であることから、それより以前、天正年間(一五七三〜九二)の創建と考えられます。当初は蓮花山金乗院と称し、中野宝仙寺の末寺でしたが、のちに神霊山金乗院慈眼寺と改め、護国寺の末寺となりました。
 江戸時代には近辺の此花咲耶姫社などの別当でしたが、昭和二〇年四月の戦災で本堂等の建物や、水戸光圀の手になるという此花咲耶姫社の額などの宝物は焼失しました。現在の本堂は昭和四六年に再建され、平成一五年に全面改修されました。
 目白不動堂(東豊山浄滝院新長谷寺)は、元和四年(一六一八)大和長谷寺第四世小池坊秀算が中興し、関口駒井町(文京区)にありましたが、昭和二〇年五月の戦災により焼失したため、金乗院に合併し、本尊の目白不動明王像を移しました。
 目白不動明王は、江戸守護の五色不動(青・黄・赤・白・黒)の随一として名高く、目白の号は寛永年間(一六二四?四四)に三代将軍徳川家光の命によるといわています。
 墓地には、槍術の達人丸橋忠弥、青柳文庫を創設した青柳文蔵などの墓があり、境内には寛文六年(一六六六)造立の倶利伽羅不動庚申塔をはじめ、寛政一二年(一八〇〇)造立の鍔塚など多くの石造物があります。
  平成一九年(二〇〇七)三月  豊島区教育委員会」

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【山門】
 山門の扁額は、山号の「神霊山」です。
 門柱左に「江戸三十三観音霊場第十四番札所」。門柱右に「関東三十六不動霊場」が掲げられています。

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<札所碑等>

 左
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 右
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「地蔵菩薩坐像」
 戒名が刻まれており墓標のようです。

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<新長谷寺札所碑>

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(正面)
 「本尊十一面観世音 長せ寺」
  江戸第拾六番
  山之手第九番」
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(左側面)
  安永9(1780)年銘
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(右側面)
 「大和長谷の観世音同木同作 東豊山新長谷寺」
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<金乗院札所碑>
 「江戸八十八箇所之内
  第三十八番目 神霊山金乗院」
  宝暦8(1758)年銘

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<金乗院札所碑>
 「御府内三十八番 弘法大師」
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  明治44年銘。
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<新長谷寺札所碑>

(正面)
 「弘法大師」
(台座)
 「新長谷寺」
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(左側面)
 「五十四番」
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「目白不動明王像」
 享保6(1721)年銘。

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【境内】

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<石碑>
 「武運長久」「天下泰平」

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<水子地蔵>

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<鍔塚>
 寛政12(1800)年の鍔塚で、刀剣の供養塔です。 目白不動からの移設です。

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<庚申塔>
 境内の庚申塔です。紀年不明。

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<弘法大師像>
 弘法大師御誕生1200年を記念して、昭和49(1974)年に造立。

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<倶利伽羅不動庚申塔>
 寛文6(1666)年銘。倶利伽羅不動明王を主尊とする庚申塔です。

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(掲示)
「倶梨伽羅不動庚申
 人間を罪過から守る青面金剛の化身、三猿は天の神に人間の犯す罪を伝えない様子をあらわしている。」

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<宝筺印塔>
 宝暦11(1761)年の宝筺印塔。邪鬼が四隅で支えています。

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<圭水子地蔵尊>

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<手水鉢>

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<寺務所>
 扁額は「慈眼寺」です。

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<本堂>
 本堂の扁額は、山号の「神霊山」です。

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<目白不動堂>
 目白不動尊参道の階段を上がると、地蔵群があり、一番左の地蔵は元禄11(1698)年の銘があります。
 目白不動堂は、拝殿と本殿とがあります。拝殿に扁額「目白不動堂」、本殿に奉納額「目白不動尊」が掲げられています。

 参道
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 拝殿
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 本殿
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【墓地】
<庚申塔>
 墓地への通路手前右手にある2基の庚申塔です。
 左:元禄5(1692)年。中央「奉待念庚申一座」
 右:延宝5(1677)年。中央「庚申塔信心衆」

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<石碑>
 通路左手にある石碑です。

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<庚申塔>
 通路左一番手前の庚申塔です。寛文8(1668)年。三猿は座っているようで珍しい。両側面に鶏が彫られています。

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<札所碑>
 「弘法大師三十八番」

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<庚申塔>
 通路右手前の庚申塔です。延宝4(1676)年。「奉建立庚申塔婆二世安楽攸」右脇に年号。
 正面下に聞か猿、左側面に言わ猿、右側面に見猿。

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<六字名号塔/六十六部供養塔>
 宝永(1709)年。正面「南無阿弥陀佛」。左側面「奉回國六十六部供養為法界利益」。

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<庚申塔>
 万治2(1659)年。正面下部に三猿。左右側面に鶏。

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<不動明王像>

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<十一面観音立像>
 元文5(1740)年。

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<聖観音菩薩立像>
享保17(1732)年の聖観音菩薩立像。

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<青柳文蔵の墓>
 我が国の公開図書館の祖といわれる青柳文蔵の墓です。

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 辞世句碑
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<興教大師七百五十年御忌/弘法大師一千五十年御忌>

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<弘法大師1100年供養塔>

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<無縁法界萬霊>

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<丸橋忠弥の墓>
 丸橋忠弥は、由井正雪とともに江戸幕府転覆を図り捕えられ、処刑されました(慶安の変)。 丸橋忠弥の墓があります。

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 墓石には「尭雲院忠徳道盛居士」と刻まれています。
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 右側の標石には「先祖諸聖霊墓前」と刻まれています。
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雑司ヶ谷霊園(著名人の墓)

○雑司ヶ谷霊園著名人の墓 豊島区南池袋4-25-1

 雑司ヶ谷霊園の著名人の墓の一部を巡りました。パンフレットと現地の掲示で探しやすいです。

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○永井荷風墓 1種1号7側3番

 永井荷風の墓は、1種1号7側と8側の間で、8側の標識が立っているところを入ると、左手に生け垣に囲まれた永井荷風の墓があります。
 永井荷風は、死んだら浄閑寺に埋葬して欲しいと願っていましたが、父の長井久一郎の墓の隣に埋葬され墓が建てられました。
 永井荷風は掃苔(そうたい・墓参り)好きで、父の墓参の他、尊敬する文人のお墓をよく訪れました。

(参考)
 ・永井荷風筆塚と詩碑(浄閑寺)
 ・永井荷風文学碑(白幡天神社)

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 向かって左は父親の永井久一郎の墓です。「禾原(かげん)先生墓」とあります。
 中央が永井荷風(永井壮吉)の墓です。
 向かって右は永井家の墓です。

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 表に「永井荷風墓」と刻まれ、裏に「永井壯吉 昭和三十四年四月三十日卒 享年七十九」と刻まれています。

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○小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)墓 1種1号8側35番

「小泉八雲肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

 嘉永3年5月18日〜明治37年9月26日(1850年6月27日〜1904年9月26日)
 明治23(1890)年来日し、島根県の松江中学校に英語教師として赴任。同年小泉セツと結婚しました。明治29(1896)年日本に帰化。同年東京帝大文科大学講師に就任します。後任は夏目漱石です。代表的著作に『怪談』『心』等があります。

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 左 「小泉セツ之墓」
 中央「小泉八雲之墓」
 右 「小泉家之墓」

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 表「小泉八雲之墓」、左側面「明治三十七年九月二十六日寂」と刻まれています。永井荷風は、小泉八雲の墓を再三訪れています。

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(参考)「小泉八雲記念碑

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○東條英機墓 1種1号12側6番

「東條英機肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
 明治17(1884)年12月30日〜昭和23(1948)年12月23日

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「東條英教肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
 安政2年11月8日〜大正2年12月16日
 (1855年12月16日〜1913年12月16日)

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「東條家墓」

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 「明治四十四年七月第二代英俊埋葬の機会に於て墓地を浅草区松葉町清水寺より雑司ヶ谷共葬地に移し新に此墳墓を築く 第三代英教識す」
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(参考)
 東條家墓から北へ1kmのところに、巣鴨プリズンの絞首台があった場所に建つ「平和の碑」扱いの巣鴨プリズン跡碑があります(こちらで記載)。


○成島柳北墓 1種4号6側2番

<成島柳北>

 天保8年2月16日〜明治17年11月30日(1837年3月22日〜1884年11月30日)
 成島柳北は幕末明治の随筆家であり、実業家です。幕府の儒者の家(蔵前)に生まれ、18歳の時、家職をついで侍講に進み、奥儒者として将軍徳川家定・家茂に仕えました。後に、騎兵奉行・外国奉行・会計副総裁を歴任しました。
 明治維新後は向島の地に暮らし、新政府の招きを固辞しました。明治5(1872)年東本願寺の法主に従い訪欧、翌年に帰朝後、公文通誌が朝野新聞と改題され、紙勢を拡張する機会に社長として迎えられ、雑録欄を担当して時事を風刺しました。
 また、外遊の折、修得した生命保険制度の知識を生かし、日本の生命保険制度の草分けである「共済五百名社」(明治安田生命の前身)の創立に協力しました。
 明治7(1874)年『柳橋新誌』を刊行、墨堤植桜の保存に尽力し、グラント前米大統領の接遇委員も務めました。
 明治17(1884)年11月30日、海棠園と呼ばれた向島の住居で48年の生涯を閉じました。初め、横川にある本法寺に葬られましたが、明治42(1909)年に豊島区の雑司ヶ谷墓地に改葬されました。

「成島柳北肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
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 長命寺成島柳北の碑
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 「肖像」(野村文紹 国立国会図書館蔵)
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<成島家の墓>

 左「柳北先生墓」、右「成島家之墓」。

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<成島柳北墓>

 永井荷風は亡父の墓参りに来た際、成島柳北墓の墓が本法寺から移ってきたことを知り、その墓を訪れています。その後も再三訪れています。
 (正面)「柳北先生墓」
 (側面)「明治十七年十一月
      門生小澤圭謹書」

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(参考)
 ・成島柳北の住居跡(墨田区向島)
 ・成島柳北「柳橋新誌」
 ・墨堤植櫻と成島柳北
 ・成島柳北の碑(長命寺)


○森田草平墓 1種東6号3側9番

 明治14(1881)年3月19日〜昭和24(1949)年12月14日
 明治41(1908)年3月22日、福渡「万翠館 満寿屋」に泊まった森田草平と平塚明(らいてう)は、翌朝23日に宿を出立、人力車で町のはずれまで行き、そこから尾頭峠での心中を目指します。24日翌朝早々、尾頭峠付近山中で捜索隊に救助されます。この心中未遂を小説化したのが「煤煙」です。尾頭峠の麓、上塩原「和楽遊苑」の池の前に、「煤煙」碑があります。

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(正面)「森田家之墓」
(側面)「昭和三年九月森田草平建之」
(側面) 森田草平の戒名「浄光院寂然草平居士」と没年「昭和二十四年十二月十四日」が刻まれています。

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(参考)
 ・森田草平文学碑

<森田草平>
 明治14(1881)年3月19日〜昭和24(1949)年12月14日
 小説『煤煙』が朝日新聞に連載され、朝日新聞に嘱託社員として月給六十円で雇われました。同じく朝日新聞に校正係として務めていた石川啄木と親交を結びました。

 「森田草平集」(現代日本文学全集 改造社 昭和5年)
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○ラファエル・ケーベル墓 1種東6号2側13番

「ラファエル・フォン・ケーベル肖像」(神学及中古哲学研究の必要 ラファエル・フォン・ケーベル 教学研鑽和仏協会 明治43年 国立国会図書館蔵)
 1848年1月15日〜1923年6月14日

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<ラファエル・ケーベル墓>

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(説明板)
「東京都指定旧跡 ラファエル・ケーベルの墓
  所在地 豊島区南池袋四 雑司ヶ谷霊園六区一種ニ側一三番
  史蹟指定 昭和ニ九年一一月三日
  旧跡指定 昭和三○年三月ニ八日
 ラファエル・フォン・ケーベル(一八四八〜一九ニ三)は、ドイツ系口シア人の家に生まれ、モスクワ音楽院で音楽を学んだのち、ハイデルベルク大学に移り哲学と文学を学びました。明治二六年(一八九三)、帝国大学文科大学外国人教師として来日し、哲学や美学を講じました。また、東京音楽学校でも教鞭をとり、ピアノと音楽史の指導にあたるとともに、数多くの演奏会に出演しビ
アニストとしての手腕も発揮しました。日本の哲学の基礎を築き、また、日本近代音楽の葵展に大きな影響を与えたケーベルは、大正一二年(一九ニ三)に横浜で亡くなりました。
  平成ニ四年三月 建設  東京都教育委員会」

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○アレクサンダー・ジョセフ・ヘアー墓

 「ラファエル・ケーベル墓」の隣に、「アレクサンダー・ジョセフ・ヘアー墓」があります。

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(説明板)
「アレクサンダー・ジョセフ.・ヘアー先生は一八四八年口ンドンに生まれ、明治の初めに来日、海軍省傭員となる。
 一旦北米に渡るが、再来日し、一八七九年一橋大学の前身である商法講習所(明治八年、一八七五年森有礼が創設)に着任した。その後、同校の後身である東京高等商業学校を含め通算四〇年間教育に携わり、最古参の外国人教師として、勲三等旭日章を受けられた。
 ヘアー先生が学生たちに教えた商業英語、商業通信文は開国間もない我が国実業界に大いに貢献した。
 一九一八年五月病没。享年七〇歳。住居の表札に「平谷」と書く茶目っ気もあった。
 墓石および石碑銘文(左記ご参照)は先生の教え子であった同窓有志者により一九ニ九年三月に建立された。
  国立大学法人 一橋大学
  一般社団法人 如水会」

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○大町桂月墓 1種9号5側17番

<大町桂月像>

 明治2年1月24日〜大正14年(1869年3月6日〜1925年6月10日)
 「温泉郷」を最初に使用したのは大町桂月で、田山花袋が普及・定着させました。

「大学時代の桂月翁」
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「富士の頂上にて(中央桂月先生)」
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「大正七年夏」
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※以上、「文豪大町桂月」(田中貢太郎 青山書院 大正15年 国立国会図書館蔵)より


「著者最近の小照」(冷汗記 大町桂月 富山房 大正5年  国立国会図書館蔵)
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「書斎における著者」
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「庭前旅装の著者」
  大町桂月の旅装は、どことなく若山牧水の旅装に似ています。
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※以上、「自然の詩趣」(大町桂月 日本書院 大正7年 国立国会図書館蔵)より


<大町桂月の墓>

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 「大町の墓」は、桂月の筆によるものです。
 裏には「大正五年五月建之 」と刻まれています。

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(参考)
 ・大町桂月と温泉(PCサイト)


○夏目漱石墓 1種14号1側

 別途記載


○中浜万次郎(ジョン・万次郎)墓 1種15号19側1番

「中浜万次郎肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
 文政10年1月1日〜明治31年11月12日
 (1827年1月27日〜1898年11月12日)
 天保12(1841)年漁で遭難し、無人島でアメリカ船に救助され渡米。嘉永4(1851)年琉球に上陸、嘉永5(1852)年土佐に帰郷します。
 翌年、ペリー来航時幕府より召喚され、中浜姓を授けられ、江川太郎左衛門の配下となり、太郎左衛門の江戸屋敷の長屋に住みました。 この頃、勝海舟に英語を教えています。
 万延元(1860)年日米修好通商条約批准使節の通訳として咸臨丸で渡米します。帰国後も小笠原開拓調査、開成所(後の東京大学)教授就任など活躍しました。

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「万延元年遣米使節図録 咸臨丸烈風航行の圖」(田中一貞 1920)

 「咸臨丸」です。

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<中濱家墓域>

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「贈正五位 中濱萬次郎翁記念碑
        公爵徳川家達書」

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「中濱萬次郎之墓」

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「中濱家累代之墓」

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「團野千代之墓」

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(参考)
 ・江川太郎左衛門屋敷跡


○東郷青児墓 1種15号19側3番

 中浜万次郎(ジョン・万次郎)墓と同じ並びにあります。

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tag : 永井荷風成島柳北グラント将軍ジョン万次郎森田草平巣鴨プリズン池袋旧跡

雑司ヶ谷霊園(御鷹部屋)

○雑司ヶ谷霊園管理事務所 豊島区南池袋4-25-1 HP

 霊園管理事務所に、東京都雑司ヶ谷霊園に眠る著名人の紹介パンフレットが置いてあります。
 HPにもPDFがアップされています。

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○御鷹部屋 1種4号3側28番

 この辺りは、3代将軍家光の寛永15(1638)年に薬草栽培の御薬園となり、8代将軍吉宗の享保4(1719)年には御鷹部屋に変わり、将軍の鷹狩りに使う鷹の飼育場所として使われていたところです。御鷹部屋時代の松の大樹が今も残っています。明治7(1874)年9月1日に東京府の共同埋葬墓地となりました。

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「江戸切絵図」

 「御鷹部屋御用屋敷」が見えます。

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<御鷹部屋と松>

(説明板)
「御鷹部屋と松
 このあたりには、江戸時代中期の享保四年(一七一九)以降、幕府の御鷹部屋がありました。
 御鷹部屋には、鷹匠頭をはじめ目付、同心など常時七、八十名がおり、鷹狩りに用いる鷹の飼育や訓練などを行っていました。
 また、鷹狩りの際には、将軍が立ち寄って休息したり、食事をとったりしたこともあったようです。
 御鷹部屋敷地内には松の木がありました。この松の木は、当時のようすをしのばせてくれます。」

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