石尊垢離場跡(旧両国橋東詰)
〇石尊垢離場跡 墨田区両国1-11
<大山詣>
大山とは、神奈川県にある標高1,252メートルの山で、気軽に登れるので大山詣は人気がありました。大山詣に出かける前に、両国橋東詰の袂の石尊垢離場で水垢離を行い、「奉納大山石尊大権現」と書かれた納太刀を持って出かけました。
小林一茶が石尊垢離場を句に読んでいます。
「寒月や石尊祈る角田川」(七番日記 小林一茶 文化13年)
(説明板)
「江戸の町 石尊垢離場跡 24
石尊とは、神奈川県伊勢原市にある大山のことです。山頂の阿夫利神社は、商売繁盛と勝負事に御利益があるので江戸中期、江戸っ子が講を組み、白衣に振り鈴、木太刀を背負った姿でお参りに出かけました。
出発前に水垢離を取り、体を清めました。その垢離場が旧両国橋の南際にありました。川の底に石が敷いてあり、参詣に出かける者が胸のあたりまで水につかり「さんげさんげ、六根罪障、おしめにはったい、金剛童子・・・」などと唱えながら、屈伸を行い、そのたびにワラで作ったサシというものを流したのです。その賑わいは、真夏の海水浴場のようだったとされています。
墨田区」



<浮世絵に見る水垢離場>
国立国会図書館所蔵の錦絵だけから捜したので、他にもまだまだあるかと思います。
「東都両国夕涼之図」(貞房)
錦絵の一番左に、納太刀を立てて水垢離する9名の姿が見えます。水垢離場には「大山石尊」の立派な立て看板が川中に見えます。


「江戸両国すずみの図」(豊国)
複数の絵を連結しています。西側の両国広小路が描かれています。

向岸に、納太刀を立てて水垢離する人々が小さく描かれています。

「両国橋川開きの図」(絵師不詳)
人と舟が多く描かれている中、水垢離の光景も見えます。


「江戸年中風俗之絵」(橋本養邦)
両国橋と思われる部分の抜粋です。

隅田川左岸両国橋下から、3人の男たちが川から上がってくるところです。一人は納太刀を持っています。

「名所江戸百景 両国船中浅草遠景」(広重)
左に大きく梵天が見えます。「両国船中浅草遠景」のタイトルから推察して、船に立てられた梵天でしょう。

右の船上には、梵天を立てて、先達の修験者が法螺貝を吹いています。大山講中一行が柳橋の船着き場を目指すところです。

「隅田川両岸一覧 両国納涼・一の橋弁天」「隅田川両岸一覧 無縁の日中」(北斎)
2つのタイトル絵を連結しています。
両国橋で「奉納大山石(尊)大権現」の納太刀が見えます。
手前は両国橋の西詰なので、東側の水垢離場に行くところと推測します。または、納太刀を納めて古い納太刀を持ち帰ったので、大山詣から帰ってきたところでしょうか。

「奉納大山石(尊)大権現」部分の拡大です。右に、水の幟が見えます。氷かと思いましたが、冷やし水かと思います。

「東都隅田川両岸一覧 西」(鶴岡蘆水 天明1(1781)年)
絵巻から両国橋の部分の抜粋です。川中に石が敷かれているのが水垢離場でしょう。

<大山詣>
大山とは、神奈川県にある標高1,252メートルの山で、気軽に登れるので大山詣は人気がありました。大山詣に出かける前に、両国橋東詰の袂の石尊垢離場で水垢離を行い、「奉納大山石尊大権現」と書かれた納太刀を持って出かけました。
小林一茶が石尊垢離場を句に読んでいます。
「寒月や石尊祈る角田川」(七番日記 小林一茶 文化13年)
(説明板)
「江戸の町 石尊垢離場跡 24
石尊とは、神奈川県伊勢原市にある大山のことです。山頂の阿夫利神社は、商売繁盛と勝負事に御利益があるので江戸中期、江戸っ子が講を組み、白衣に振り鈴、木太刀を背負った姿でお参りに出かけました。
出発前に水垢離を取り、体を清めました。その垢離場が旧両国橋の南際にありました。川の底に石が敷いてあり、参詣に出かける者が胸のあたりまで水につかり「さんげさんげ、六根罪障、おしめにはったい、金剛童子・・・」などと唱えながら、屈伸を行い、そのたびにワラで作ったサシというものを流したのです。その賑わいは、真夏の海水浴場のようだったとされています。
墨田区」



<浮世絵に見る水垢離場>
国立国会図書館所蔵の錦絵だけから捜したので、他にもまだまだあるかと思います。
「東都両国夕涼之図」(貞房)
錦絵の一番左に、納太刀を立てて水垢離する9名の姿が見えます。水垢離場には「大山石尊」の立派な立て看板が川中に見えます。


「江戸両国すずみの図」(豊国)
複数の絵を連結しています。西側の両国広小路が描かれています。

向岸に、納太刀を立てて水垢離する人々が小さく描かれています。

「両国橋川開きの図」(絵師不詳)
人と舟が多く描かれている中、水垢離の光景も見えます。


「江戸年中風俗之絵」(橋本養邦)
両国橋と思われる部分の抜粋です。

隅田川左岸両国橋下から、3人の男たちが川から上がってくるところです。一人は納太刀を持っています。

「名所江戸百景 両国船中浅草遠景」(広重)
左に大きく梵天が見えます。「両国船中浅草遠景」のタイトルから推察して、船に立てられた梵天でしょう。

右の船上には、梵天を立てて、先達の修験者が法螺貝を吹いています。大山講中一行が柳橋の船着き場を目指すところです。

「隅田川両岸一覧 両国納涼・一の橋弁天」「隅田川両岸一覧 無縁の日中」(北斎)
2つのタイトル絵を連結しています。
両国橋で「奉納大山石(尊)大権現」の納太刀が見えます。
手前は両国橋の西詰なので、東側の水垢離場に行くところと推測します。または、納太刀を納めて古い納太刀を持ち帰ったので、大山詣から帰ってきたところでしょうか。

「奉納大山石(尊)大権現」部分の拡大です。右に、水の幟が見えます。氷かと思いましたが、冷やし水かと思います。

「東都隅田川両岸一覧 西」(鶴岡蘆水 天明1(1781)年)
絵巻から両国橋の部分の抜粋です。川中に石が敷かれているのが水垢離場でしょう。


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テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
百本杭跡(両国)
○百本杭跡 墨田区両国1-2-25
両国疫西口交差点前のビルの植栽の中に「百本杭跡」の説明板があります。百本杭は、隅田川の護岸のために、縦杭が埋め込まれていたところです。
他に両国橋東北詰と隅田川テラスにも説明板があり、3か所です。
(説明板)
「江戸の町 百本杭跡 12
百本杭とは、総武線鉄橋あたりの隅田川の湾曲した東側の部分に打たれていた護岸のための杭で、ここからほど近い川中にありました。川の流れを和らげて、土手を保護する役目を負っていました。その辺りは、明治中頃までは鯉の釣り場として有名で、釣り好きの幸田露伴もよく出かけたといわれています。
その風景も見事だったため、広重の「東都名所」にも描かれていますし、最後の浮世絵師といわれる小林清親が「千ぼんぐい両国橋」や「東京両国百本杭晩之図」として浮世絵に描いています。
また、歌舞伎の「色街模様薊色縫」の「稲瀬川百本杭の場」で、かなわぬ恋をした二人が身を投げて心中する場所とされています。
墨田区」


<隅田川テラスのモニュメント>

「仁山智水帖 両国百本杭」(光村写真部 明35.6)

「千ほんくい両国橋」(小林清親)
説明板に掲示されている版画です。

「両国百本杭之景」(井上安治)

「東京両国百本杭晩之図」(小林清親)

「百本杭ノ三日月」(井上安治)

「日本名勝図会 隅田川」(小林清親 明治30年4月)

隅田川アートギャラリ(両国地区)にも掲示があります。

「隅田川小春凪」(小林清親)
どこの光景を描いたのか不明ですが、土手が途切れて屋敷が見えます。土手には杭が見えます。
向岸は木橋の手前に橋が見え、さらに手前には石垣が見えるので浅草御蔵かも。木橋は両国橋かと思われます。

江戸切り絵図で確認すると、御蔵橋辺りからの両国橋方向を眺めた光景のようです。

「東京名所三十六戯撰 大川はた百本杭」(昇齋一景 明治5(1872)年)
釣りをしていて、釣れた鰻が百本杭に絡まって、おおあわてです。 雨が斜めに降っているので風が強い様子で、女性は前かがみです。 右下には三人の子どもがいて、人力車には三人は乗れないので車夫が困っています。 三人とも杖を持っているので、近くの杉山検校の学校で学んでいる子どもたちであろうことが想起されます。
両国疫西口交差点前のビルの植栽の中に「百本杭跡」の説明板があります。百本杭は、隅田川の護岸のために、縦杭が埋め込まれていたところです。
他に両国橋東北詰と隅田川テラスにも説明板があり、3か所です。
(説明板)
「江戸の町 百本杭跡 12
百本杭とは、総武線鉄橋あたりの隅田川の湾曲した東側の部分に打たれていた護岸のための杭で、ここからほど近い川中にありました。川の流れを和らげて、土手を保護する役目を負っていました。その辺りは、明治中頃までは鯉の釣り場として有名で、釣り好きの幸田露伴もよく出かけたといわれています。
その風景も見事だったため、広重の「東都名所」にも描かれていますし、最後の浮世絵師といわれる小林清親が「千ぼんぐい両国橋」や「東京両国百本杭晩之図」として浮世絵に描いています。
また、歌舞伎の「色街模様薊色縫」の「稲瀬川百本杭の場」で、かなわぬ恋をした二人が身を投げて心中する場所とされています。
墨田区」


<隅田川テラスのモニュメント>

「仁山智水帖 両国百本杭」(光村写真部 明35.6)

「千ほんくい両国橋」(小林清親)
説明板に掲示されている版画です。

「両国百本杭之景」(井上安治)

「東京両国百本杭晩之図」(小林清親)

「百本杭ノ三日月」(井上安治)

「日本名勝図会 隅田川」(小林清親 明治30年4月)

隅田川アートギャラリ(両国地区)にも掲示があります。

「隅田川小春凪」(小林清親)
どこの光景を描いたのか不明ですが、土手が途切れて屋敷が見えます。土手には杭が見えます。
向岸は木橋の手前に橋が見え、さらに手前には石垣が見えるので浅草御蔵かも。木橋は両国橋かと思われます。

江戸切り絵図で確認すると、御蔵橋辺りからの両国橋方向を眺めた光景のようです。

「東京名所三十六戯撰 大川はた百本杭」(昇齋一景 明治5(1872)年)
釣りをしていて、釣れた鰻が百本杭に絡まって、おおあわてです。 雨が斜めに降っているので風が強い様子で、女性は前かがみです。 右下には三人の子どもがいて、人力車には三人は乗れないので車夫が困っています。 三人とも杖を持っているので、近くの杉山検校の学校で学んでいる子どもたちであろうことが想起されます。

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御竹蔵と御蔵橋、石原橋 本所御蔵跡
○御竹蔵と御蔵橋 墨田区横網
幕府の材木蔵(後に米蔵)だった「御竹蔵」がかつて本所にありました。 隅田川からの御竹蔵への入堀に架かっていたのが「御蔵橋」です。
「江戸切絵図」
「御蔵橋」「御竹蔵」が見えます。御竹蔵は広大な敷地です。堀に囲まれ、北の入堀に「石原橋」が架かっています。
隅田川の向岸には鳥越川が描かれ、北側に「浅草御米蔵」の記載が見えます。

<御蔵橋跡> 墨田区横網1-2-13
水上バス乗り場入口脇、子育て広場の端に説明板「御蔵橋跡」があります。
(説明板)
「江戸の町
御蔵橋跡 4
御蔵橋は、隅田川に面した松前伊豆守の屋敷のそばの入り堀に架かった橋で、この辺りにありました。
堀の突き当りは、御竹蔵(または御蔵地)という幕府の材木蔵でした。隅田川から船で運んだ木材や竹の荷を、この堀から引き入れて、御蔵地へと収納するようにできていたのです。後に米蔵として使用され、現在は国技館や江戸東京博物館などが建っています。
御蔵橋は、池波正太郎の「鬼平犯科帳特別長編雲竜剣流れ星」にも登場していて「左側は、まんまんたる水をたたえた大川が黒く横たわり、ここへ来るとまったく人影もなかった・・・幅一間半、長さ五間の橋である。」と書かれています。
(御蔵橋 小林清親作) 墨田区」




<御竹蔵方面>
説明板の反対側の御竹蔵方面には、国技館(横網1-3-2)があります。墨田区内循環バス「すみだ百景すみまるくん」が停留所に停車していました。


<両国ポンプ所水門> 墨田区横網1-2
隅田川テラスに降りると、両国ポンプ所の防潮のための水門があります。水門は御竹蔵をイメージしているかと思います。


<浮世絵に見る「御蔵橋」>
国立国会図書館所蔵分のみからの抜粋です。まだまだあるかとは思います。
「名所江戸百景 両国橋大川ばた」(広重)
御蔵橋が描かれています。


「名所江戸百景 両国船中浅草遠景」 (広重)
御蔵橋が描かれています。


「東都隅田川両岸一覧東」(鶴岡蘆水)
御蔵橋部分の抜粋です。「御竹蔵入口水門」の記載が見えます。両国橋の北袂から百本杭が見えます。


「絵本江戸土産 首尾の松大川端椎の木屋敷」(広重)
向岸に御蔵橋が見えます。


「絵本隅田川両岸一覧 新柳橋の白雨 御竹蔵の二時」(北斎)
手前に柳橋、向岸に御蔵橋が描かれています。


「東都名所 両国橋夕涼全図」(広重)
向岸の左手に御蔵橋が見えます。


「江戸両国すずみの図」(豊国)
向岸の左手に「御蔵橋」が見えます。


「本所御蔵橋」(小林清親)
案内板に掲載されている絵です。

「本所御蔵橋」(井上安治)

<石原橋>
御蔵橋の北の入堀に架かっていたのが石原橋です。現在の墨田区横網2丁目12番地に当たります。
「東都隅田川両岸一覧東」(鶴岡蘆水)
石原橋部分の抜粋です。入堀は「本所梅堀」との記載が見えます。
隅田川上流に「御馬屋河岸渡シ舟」とあります。

「絵本隅田川両岸一覧 首尾松の鉤舟 椎木の夕蝉」(北斎)
向岸左手に石原橋が描かれています。

拡大

「新板浮絵 両国橋夕涼花火見物之図」(北斎)
北斎が春朗時代に描いた浮絵です。手前に両国広小路、中央に両国橋、その向こうに花火、向岸に御蔵橋と石原橋が見えます。

拡大

「名所江戸百景 御厩河岸」(広重)
向岸に「石原橋」が見えます。

「石原橋」部分の拡大です。

「大川端石原橋」(小林清親)
小林清親が生まれた御蔵屋敷は、石原橋の南にあったようです。
明治13年の作品なので、向岸に見える煙突は、明治28年に送電開始した蔵前の浅草火力発電所の煙突ではいようです。

「大川端石原橋」(井上探景(井上安治))

○本所御蔵跡 墨田区横網1-4-4
浅草御蔵は広大な敷地でしたが、本所の御蔵も広大な敷地です。江戸東京博物館脇の歩道に、「本所御蔵跡」の令和3年の真新しい説明板があります。
(説明板)
「本所御蔵跡
墨田区横網一丁目4番・6番・8番・9番・10番、横網二丁目3番
本所御蔵は、米価の高騰が原因で発生した江戸初の打ち毀し(享保の打ち毀し)の直後に建設された江戸幕府の米蔵です。享保19年(1734)竣工の12棟棟88戸前の倉庫群から規模を拡大し、安政5年(1858)までに37棟246戸前を数えたとされています。敷地面積は4万4千坪(約14万5千㎡)で、その範囲は現在のJR両国駅から都立横網町公園にかかる一帯に及びます。
本所御蔵跡については、平成1年(2001)に部分的な発掘調査が実施され、掘割や護岸の跡、徳川家の三葉葵紋をあしらった瓦などが出土しました。また、御蔵が廃止された明治5年(1872)以降に設置された陸軍被服廠に関する遺物(木製の荷札など)も見つかりました。
こうしたことから、本所御蔵跡の大部分は、周知の埋蔵文化財包蔵地に指定されています。
令和3年3月 墨田区教育委員会」




幕府の材木蔵(後に米蔵)だった「御竹蔵」がかつて本所にありました。 隅田川からの御竹蔵への入堀に架かっていたのが「御蔵橋」です。
「江戸切絵図」
「御蔵橋」「御竹蔵」が見えます。御竹蔵は広大な敷地です。堀に囲まれ、北の入堀に「石原橋」が架かっています。
隅田川の向岸には鳥越川が描かれ、北側に「浅草御米蔵」の記載が見えます。

<御蔵橋跡> 墨田区横網1-2-13
水上バス乗り場入口脇、子育て広場の端に説明板「御蔵橋跡」があります。
(説明板)
「江戸の町
御蔵橋跡 4
御蔵橋は、隅田川に面した松前伊豆守の屋敷のそばの入り堀に架かった橋で、この辺りにありました。
堀の突き当りは、御竹蔵(または御蔵地)という幕府の材木蔵でした。隅田川から船で運んだ木材や竹の荷を、この堀から引き入れて、御蔵地へと収納するようにできていたのです。後に米蔵として使用され、現在は国技館や江戸東京博物館などが建っています。
御蔵橋は、池波正太郎の「鬼平犯科帳特別長編雲竜剣流れ星」にも登場していて「左側は、まんまんたる水をたたえた大川が黒く横たわり、ここへ来るとまったく人影もなかった・・・幅一間半、長さ五間の橋である。」と書かれています。
(御蔵橋 小林清親作) 墨田区」




<御竹蔵方面>
説明板の反対側の御竹蔵方面には、国技館(横網1-3-2)があります。墨田区内循環バス「すみだ百景すみまるくん」が停留所に停車していました。


<両国ポンプ所水門> 墨田区横網1-2
隅田川テラスに降りると、両国ポンプ所の防潮のための水門があります。水門は御竹蔵をイメージしているかと思います。


<浮世絵に見る「御蔵橋」>
国立国会図書館所蔵分のみからの抜粋です。まだまだあるかとは思います。
「名所江戸百景 両国橋大川ばた」(広重)
御蔵橋が描かれています。


「名所江戸百景 両国船中浅草遠景」 (広重)
御蔵橋が描かれています。


「東都隅田川両岸一覧東」(鶴岡蘆水)
御蔵橋部分の抜粋です。「御竹蔵入口水門」の記載が見えます。両国橋の北袂から百本杭が見えます。


「絵本江戸土産 首尾の松大川端椎の木屋敷」(広重)
向岸に御蔵橋が見えます。


「絵本隅田川両岸一覧 新柳橋の白雨 御竹蔵の二時」(北斎)
手前に柳橋、向岸に御蔵橋が描かれています。


「東都名所 両国橋夕涼全図」(広重)
向岸の左手に御蔵橋が見えます。


「江戸両国すずみの図」(豊国)
向岸の左手に「御蔵橋」が見えます。


「本所御蔵橋」(小林清親)
案内板に掲載されている絵です。

「本所御蔵橋」(井上安治)

<石原橋>
御蔵橋の北の入堀に架かっていたのが石原橋です。現在の墨田区横網2丁目12番地に当たります。
「東都隅田川両岸一覧東」(鶴岡蘆水)
石原橋部分の抜粋です。入堀は「本所梅堀」との記載が見えます。
隅田川上流に「御馬屋河岸渡シ舟」とあります。

「絵本隅田川両岸一覧 首尾松の鉤舟 椎木の夕蝉」(北斎)
向岸左手に石原橋が描かれています。

拡大

「新板浮絵 両国橋夕涼花火見物之図」(北斎)
北斎が春朗時代に描いた浮絵です。手前に両国広小路、中央に両国橋、その向こうに花火、向岸に御蔵橋と石原橋が見えます。

拡大

「名所江戸百景 御厩河岸」(広重)
向岸に「石原橋」が見えます。

「石原橋」部分の拡大です。

「大川端石原橋」(小林清親)
小林清親が生まれた御蔵屋敷は、石原橋の南にあったようです。
明治13年の作品なので、向岸に見える煙突は、明治28年に送電開始した蔵前の浅草火力発電所の煙突ではいようです。

「大川端石原橋」(井上探景(井上安治))

○本所御蔵跡 墨田区横網1-4-4
浅草御蔵は広大な敷地でしたが、本所の御蔵も広大な敷地です。江戸東京博物館脇の歩道に、「本所御蔵跡」の令和3年の真新しい説明板があります。
(説明板)
「本所御蔵跡
墨田区横網一丁目4番・6番・8番・9番・10番、横網二丁目3番
本所御蔵は、米価の高騰が原因で発生した江戸初の打ち毀し(享保の打ち毀し)の直後に建設された江戸幕府の米蔵です。享保19年(1734)竣工の12棟棟88戸前の倉庫群から規模を拡大し、安政5年(1858)までに37棟246戸前を数えたとされています。敷地面積は4万4千坪(約14万5千㎡)で、その範囲は現在のJR両国駅から都立横網町公園にかかる一帯に及びます。
本所御蔵跡については、平成1年(2001)に部分的な発掘調査が実施され、掘割や護岸の跡、徳川家の三葉葵紋をあしらった瓦などが出土しました。また、御蔵が廃止された明治5年(1872)以降に設置された陸軍被服廠に関する遺物(木製の荷札など)も見つかりました。
こうしたことから、本所御蔵跡の大部分は、周知の埋蔵文化財包蔵地に指定されています。
令和3年3月 墨田区教育委員会」





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最後の浮世絵師 小林清親墓(元浅草)
○龍福院 小林清親墓 台東区元浅草3-17-2
龍福院は、御府内八十八ヶ所霊場82番です。(これまで行ったのは、17番長命寺 23番薬研堀不動院 24番最勝寺 29番南蔵院 46番弥勒寺 47番城官寺 59番無量寺 86番護国寺)
「最後の浮世絵師」と呼ばれた小林清親の墓(非公開)と、「清親画伯之碑」(公開)が境内にあります。
<門前>



<台東区説明板>
門前にある台東区教育委員会の説明板です。
(説明板)
「小林清親墓
所在地 台東区元浅草三丁目十七番十二号 龍福院
小林清親は木版浮世絵師最後の人といえる。
江戸の末、弘化四(一八四七)八月一日、浅草御蔵屋敷に武士の子として生まれ、上野戦争には幕府方として参加、明治維新後は、新聞、雑誌にさし絵を描き、生計を立てた。その前後、イギリス人ワーグマンに洋画を、河鍋暁斎、柴田是真からは日本画を修得、浮世絵師としての大成をはかった。
やがて小林清親の版画には、上野、浅草を中心に新しい東京の風俗・建物が光と影によって描きだされ、それらは、明けゆく明治の時代を先取りしたものとして、ひろく一般に迎えられた。それは、広重や国芳ともちがう、写実のなかに木版の刷りの美しさを生かしたものだが、浮世絵興亡の歴史からみれば、最後の光でもあった。巷説、わが家が焼けたとも知らず、両国の大火を写生していた男である。
大正四年(一九一五)十一月二十八日死去。六十九歳。寺内には小林氏墓「真生院泰岳清親居士」と清親画伯碑がある。
平成四年十一月 台東区教育委員会」


<台東区と墨田区のどちらが正しい?>
台東区の説明では、浅草御蔵屋敷の武士の子として生まれたとあります。墨田区の説明では、本所御蔵屋敷の武士の子として生まれたとあります。どちらが正しいのでしょうか。
墨田区立図書館のサイトによると、小林清親の父は本所御蔵屋敷小揚頭頭取の茂兵衛で、母は浅草御蔵屋敷方小揚頭・松井安之助の娘である知加子とあります。
父親は浅草御蔵屋敷と本所御蔵屋敷の両方を担当していたとすれば、または、母が実家の浅草御蔵屋敷で清親を出産し、清親は本所御蔵屋敷で育ったとすればつじつまはあいます。
<幕臣から絵師へ>
慶応元(1865)年の徳川家茂上洛の際には勘定所下役として随行し、そのまま大坂にとどまり、慶応4(1868)年の鳥羽・伏見の戦いに加わります。上野戦争に幕府軍として参加しています。江戸幕府崩壊後は他の幕臣たちと共に静岡に下りました。
明治7(1874)年に東京に戻り、絵師を志します。明治9(1876)年に「東京名所図」シリーズを版行し人気絵師となりました。
「小林清親肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
弘化4年8月1日〜大正4年11月28日(1847年9月10日〜1915年11月28日)

<龍福院本堂>
門の正面に本堂、左手に社務所があります。



<清親画伯之碑>
本堂向かって右に、「清親画伯之碑」があります。「小林家(清親)墓地は公開しておりません 当院」の掲示があります。

公開されているのは「清親画伯之碑」です。昭和6年(1931)年の建立です。


碑裏には清親の法名「真生院泰岳清親居士」などが刻まれています。

<線刻碑など>
地蔵尊が線刻されている碑が向かって左脇にあります。碑の右側には力石かもしれない石があります。


<両国大火>
説明板に「わが家が焼けたとも知らず、両国の大火を写生していた男である。」とあります。以下は、両国大火の絵です(国立国会図書館蔵)。その他の作品は、それぞれの項目の中で掲載しています。
「浜町より写両国大火」

「両国大火浅草橋」

「両国焼跡」

「帝国議事堂炎上之図」
藝刻議事堂の炎上も描いています。

<光線画>
小林清親の作品は、明暗を強調し輪郭線を用いない空間表現で、「光線画」と呼ばれました。後年は、「近接拡大法」による「武蔵百景之内」を版行しています。
「川口鍋釜製造図」(光線画)

「隅田川夜」(光線画)

「武藏百景之内 道灌山」(近接拡大図)

「武藏百景之内 木母寺梅若神社」(近接拡大図)

<その他>
「風俗三十二相 高貴徳川継絡之写像 十五代将軍慶喜公」(小林清親 明治20年)
歴代の徳川将軍を描いています。小林清親が仕えた「十五代将軍慶喜公」の拡大です。


〇井上安治
弟子の井上安治(探景とも号す)は光線画を継承しましたが、26歳で夭逝しています。元治元(1864)年〜 明治22(1889)年9月14日。
(参考)井上安治墓(こちらで記載)
「東京名所 鹿鳴館」(光線画)

「駿河町夜景」(光線画)
龍福院は、御府内八十八ヶ所霊場82番です。(これまで行ったのは、17番長命寺 23番薬研堀不動院 24番最勝寺 29番南蔵院 46番弥勒寺 47番城官寺 59番無量寺 86番護国寺)
「最後の浮世絵師」と呼ばれた小林清親の墓(非公開)と、「清親画伯之碑」(公開)が境内にあります。
<門前>



<台東区説明板>
門前にある台東区教育委員会の説明板です。
(説明板)
「小林清親墓
所在地 台東区元浅草三丁目十七番十二号 龍福院
小林清親は木版浮世絵師最後の人といえる。
江戸の末、弘化四(一八四七)八月一日、浅草御蔵屋敷に武士の子として生まれ、上野戦争には幕府方として参加、明治維新後は、新聞、雑誌にさし絵を描き、生計を立てた。その前後、イギリス人ワーグマンに洋画を、河鍋暁斎、柴田是真からは日本画を修得、浮世絵師としての大成をはかった。
やがて小林清親の版画には、上野、浅草を中心に新しい東京の風俗・建物が光と影によって描きだされ、それらは、明けゆく明治の時代を先取りしたものとして、ひろく一般に迎えられた。それは、広重や国芳ともちがう、写実のなかに木版の刷りの美しさを生かしたものだが、浮世絵興亡の歴史からみれば、最後の光でもあった。巷説、わが家が焼けたとも知らず、両国の大火を写生していた男である。
大正四年(一九一五)十一月二十八日死去。六十九歳。寺内には小林氏墓「真生院泰岳清親居士」と清親画伯碑がある。
平成四年十一月 台東区教育委員会」


<台東区と墨田区のどちらが正しい?>
台東区の説明では、浅草御蔵屋敷の武士の子として生まれたとあります。墨田区の説明では、本所御蔵屋敷の武士の子として生まれたとあります。どちらが正しいのでしょうか。
墨田区立図書館のサイトによると、小林清親の父は本所御蔵屋敷小揚頭頭取の茂兵衛で、母は浅草御蔵屋敷方小揚頭・松井安之助の娘である知加子とあります。
父親は浅草御蔵屋敷と本所御蔵屋敷の両方を担当していたとすれば、または、母が実家の浅草御蔵屋敷で清親を出産し、清親は本所御蔵屋敷で育ったとすればつじつまはあいます。
<幕臣から絵師へ>
慶応元(1865)年の徳川家茂上洛の際には勘定所下役として随行し、そのまま大坂にとどまり、慶応4(1868)年の鳥羽・伏見の戦いに加わります。上野戦争に幕府軍として参加しています。江戸幕府崩壊後は他の幕臣たちと共に静岡に下りました。
明治7(1874)年に東京に戻り、絵師を志します。明治9(1876)年に「東京名所図」シリーズを版行し人気絵師となりました。
「小林清親肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
弘化4年8月1日〜大正4年11月28日(1847年9月10日〜1915年11月28日)

<龍福院本堂>
門の正面に本堂、左手に社務所があります。



<清親画伯之碑>
本堂向かって右に、「清親画伯之碑」があります。「小林家(清親)墓地は公開しておりません 当院」の掲示があります。

公開されているのは「清親画伯之碑」です。昭和6年(1931)年の建立です。


碑裏には清親の法名「真生院泰岳清親居士」などが刻まれています。

<線刻碑など>
地蔵尊が線刻されている碑が向かって左脇にあります。碑の右側には力石かもしれない石があります。


<両国大火>
説明板に「わが家が焼けたとも知らず、両国の大火を写生していた男である。」とあります。以下は、両国大火の絵です(国立国会図書館蔵)。その他の作品は、それぞれの項目の中で掲載しています。
「浜町より写両国大火」

「両国大火浅草橋」

「両国焼跡」

「帝国議事堂炎上之図」
藝刻議事堂の炎上も描いています。

<光線画>
小林清親の作品は、明暗を強調し輪郭線を用いない空間表現で、「光線画」と呼ばれました。後年は、「近接拡大法」による「武蔵百景之内」を版行しています。
「川口鍋釜製造図」(光線画)

「隅田川夜」(光線画)

「武藏百景之内 道灌山」(近接拡大図)

「武藏百景之内 木母寺梅若神社」(近接拡大図)

<その他>
「風俗三十二相 高貴徳川継絡之写像 十五代将軍慶喜公」(小林清親 明治20年)
歴代の徳川将軍を描いています。小林清親が仕えた「十五代将軍慶喜公」の拡大です。


〇井上安治
弟子の井上安治(探景とも号す)は光線画を継承しましたが、26歳で夭逝しています。元治元(1864)年〜 明治22(1889)年9月14日。
(参考)井上安治墓(こちらで記載)
「東京名所 鹿鳴館」(光線画)

「駿河町夜景」(光線画)

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隅田川ウォールアート(両国)
○隅田川ウォールアートギャラリー(両国地区) 蔵前橋~両国橋 横網2丁目~横網1丁目~両国1丁目
<蔵前橋>
蔵前橋上流からスロープで隅田川テラスに下りました。隅田川テラスの欄干は「屋根船」と「相撲」です。




<両国の百本杭>
(説明板)
「両国の百本杭
明治時代ごろまでの隅田川の川岸には、強い水勢を弱め護岸の役目を果たす多数の杭が打ち込まれていました。特に、両国橋より上流の左岸側(現在のJR総武線と両国橋のあいだ)に打たれた杭は「百本杭」の愛称で呼ばれ親しまれていました。
幼少をこの地で過ごした芥川龍之介は、作品「本所深川」で百本杭のあった頃の隅田川の風景を振り返っています。また、幸田露伴の著した東京の水辺の風景についての随筆「水の東京」でも「百本杭」について、『百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出でたるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた特に深し。ここにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり。』と記しています。
「百本杭」を題材とした絵画も何点か描かれており、江戸時代から続く昔の隅田川の風景を偲ばせる名所となっていたようです。」
当時の護岸の復元
当時の隅田川の護岸は石積でつくられていました。明治時代の柳橋の写真を見ると、(以下省略)。」



「隅田川両岸一覧」(北斎)と「百本杭」モニュメント




<隅田川テラス案内図>
この場所は、「駒留石」があった場所です。

<修景工事>
「 1993年4月
隅田川蔵前橋上下流左岸
被覆修景工事
← 延長510.5m
東京都
坂田建設(株)施行」

<相撲技>
相撲技が両国橋手前まで延々と続きます。



<両国ポンプ所水門> 墨田区横網1-2
近くの両国ポンプ所の、防潮のための水門です。御竹蔵圦堀に架けられていた「御蔵橋」があった場所で、水門は御竹蔵をイメージしているかと思います。



向岸に旧鳥越川暗渠河口部が見えます。


<東京水辺ラインの両国発着場> 墨田区横網1-2-15
上流側からの近景

発着場

下流側からの遠景

<隅田川距離標>

<修計工事>
「 2020年 7月
隅田川(両国地区)被覆修景工事
← 延長57.3m
東京都
株式会社 守谷商会 施行」



<隅田川テラス案内図>
「相撲博物館」「江戸東京博物館」の説明があります。」



<総武線橋梁>
総武線橋梁下を行く「エメラルダス」。

<主な潮位記録>
総武線橋梁を越えて。


<すみだがわ>
総武線橋梁を越えて、「竜馬」が来たのでパチリ。
一般的には欄干などに掲示されている隅田川表示が、珍しく立看板です。




<火の要鎮>
「火の要鎮」プランターが両国橋まで続いています。両国橋も間近です。



<隅田川テラス案内図>
両国橋上流の隅田川テラス案内図です。「両国橋」「両国花火資料館」の説明があります。


<修景工事>
両国橋上流にある修景工事石板です。
「1996年3月
隅田川(総武線上下流)左岸被覆修景工事
←延長 527.760m
東京都
白石・鶴岡建設共同企業体施行」

<隅田川テラス案内図>
両国橋上流、階段上の隅田側テラス案内板です。「隅田川テラス」「両国花火」の説明があります。両国橋と柳橋がよく見えます。






<欄干>
両国橋下流からは、相撲技から、両国の花火と両国橋の風景に欄干の模様は変わります。



<両国橋下流>


<修景工事>
「 1993年3月
隅田川両国橋下流左岸
被覆修景工事
← 延長195.6m
東京都
施行 東宝建設株式会社」

<隅田川テラス案内板>
両国橋から下流に進むと竪川水門で行き止まり。、
「テラス連絡橋(竪川水門)工事」の掲示がありました。
テラス連絡橋が完成するまで、一之橋へ迂回して竪川を渡ることとなります。



○隅田川テラスギャラリー 蔵前橋~総武線橋梁~両国橋
「隅田川テラスギャラリー」の掲示が2か所あります。


「向島の夜桜」(中島石松)

「両国水神祭夕涼の図」(楊洲周延)

「東京名所 両国河開き之光景」(黒木半之助)

「隅田川両岸一覧 首尾松の釣舟・椎木の夕蝉」

「隅田川両岸一覧 新柳橋の白雨 御竹蔵の虹」

「隅田川両岸一覧 両国納涼・一の橋弁天」「隅田川両岸一覧 無縁の日中」


「小松島八洲園美人の賑ひ」(楊斎延一)

「墨堤奥女中花見之図」(貞秀)

「東京名所 墨堤之桜」(楊洲周延)

「東京名所之図 隅田堤花ざかりの図」

「隅田川の桜」(三代豊国)

「隅田川の賑ひ」(三代広重)

「江戸八景 両国橋の夕照」(英泉)

「テラス上相撲力士絵」

「東京名勝 両国橋新築図」(三代広重)

「東都両国之風景」(昇亭北寿)

「隅田川両岸一覧」(鶴岡蘆水)

「東都名所 両国繁栄河開之図」(歌川国郷)

「日本名勝図会 隅田川」(小林清親)

「東京名所四季之内 両国夜影光景」(三代豊国)

「東都両国橋渡初寿之図」(二代広重)

「名所江戸百景 両国橋大川ばた」(広重)

「東京名所 両国回向院境内全図」(二代広重)

「不二三十六景 東都両国橋下」(初代広重)

「東都名所 永代橋全図」(初代広重)

「東京名所 両国橋の景」(春孝)

「安政乙卯十一月廿三日 両国橋渡初之図」(歌川国芳)

「東京名所見立五行」(三代広重)

「相撲番付力士行進図」(落合芳幾)

「両国大相撲繁栄之図」(歌川国郷)

「東都両国回向院 境内相撲の図」(初代広重)

「新板角力尽し」(歌川国郷)

「勧進大相撲土俵入之図」(蜂須賀国明)

「隅田川ボートレース」(絵葉書)

「東京名所 隅田川ボート競争」(絵葉書)

「江戸名所一覧双六」(二代広重)

「江戸一目図」(歌川国盛)

「新板隅田川競漕双六と袋」(歌川国利(楳樹邦年))

<蔵前橋>
蔵前橋上流からスロープで隅田川テラスに下りました。隅田川テラスの欄干は「屋根船」と「相撲」です。




<両国の百本杭>
(説明板)
「両国の百本杭
明治時代ごろまでの隅田川の川岸には、強い水勢を弱め護岸の役目を果たす多数の杭が打ち込まれていました。特に、両国橋より上流の左岸側(現在のJR総武線と両国橋のあいだ)に打たれた杭は「百本杭」の愛称で呼ばれ親しまれていました。
幼少をこの地で過ごした芥川龍之介は、作品「本所深川」で百本杭のあった頃の隅田川の風景を振り返っています。また、幸田露伴の著した東京の水辺の風景についての随筆「水の東京」でも「百本杭」について、『百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出でたるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた特に深し。ここにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり。』と記しています。
「百本杭」を題材とした絵画も何点か描かれており、江戸時代から続く昔の隅田川の風景を偲ばせる名所となっていたようです。」
当時の護岸の復元
当時の隅田川の護岸は石積でつくられていました。明治時代の柳橋の写真を見ると、(以下省略)。」



「隅田川両岸一覧」(北斎)と「百本杭」モニュメント




<隅田川テラス案内図>
この場所は、「駒留石」があった場所です。

<修景工事>
「 1993年4月
隅田川蔵前橋上下流左岸
被覆修景工事
← 延長510.5m
東京都
坂田建設(株)施行」

<相撲技>
相撲技が両国橋手前まで延々と続きます。



<両国ポンプ所水門> 墨田区横網1-2
近くの両国ポンプ所の、防潮のための水門です。御竹蔵圦堀に架けられていた「御蔵橋」があった場所で、水門は御竹蔵をイメージしているかと思います。



向岸に旧鳥越川暗渠河口部が見えます。


<東京水辺ラインの両国発着場> 墨田区横網1-2-15
上流側からの近景

発着場

下流側からの遠景

<隅田川距離標>

<修計工事>
「 2020年 7月
隅田川(両国地区)被覆修景工事
← 延長57.3m
東京都
株式会社 守谷商会 施行」



<隅田川テラス案内図>
「相撲博物館」「江戸東京博物館」の説明があります。」



<総武線橋梁>
総武線橋梁下を行く「エメラルダス」。

<主な潮位記録>
総武線橋梁を越えて。


<すみだがわ>
総武線橋梁を越えて、「竜馬」が来たのでパチリ。
一般的には欄干などに掲示されている隅田川表示が、珍しく立看板です。




<火の要鎮>
「火の要鎮」プランターが両国橋まで続いています。両国橋も間近です。



<隅田川テラス案内図>
両国橋上流の隅田川テラス案内図です。「両国橋」「両国花火資料館」の説明があります。


<修景工事>
両国橋上流にある修景工事石板です。
「1996年3月
隅田川(総武線上下流)左岸被覆修景工事
←延長 527.760m
東京都
白石・鶴岡建設共同企業体施行」

<隅田川テラス案内図>
両国橋上流、階段上の隅田側テラス案内板です。「隅田川テラス」「両国花火」の説明があります。両国橋と柳橋がよく見えます。






<欄干>
両国橋下流からは、相撲技から、両国の花火と両国橋の風景に欄干の模様は変わります。



<両国橋下流>


<修景工事>
「 1993年3月
隅田川両国橋下流左岸
被覆修景工事
← 延長195.6m
東京都
施行 東宝建設株式会社」

<隅田川テラス案内板>
両国橋から下流に進むと竪川水門で行き止まり。、
「テラス連絡橋(竪川水門)工事」の掲示がありました。
テラス連絡橋が完成するまで、一之橋へ迂回して竪川を渡ることとなります。



○隅田川テラスギャラリー 蔵前橋~総武線橋梁~両国橋
「隅田川テラスギャラリー」の掲示が2か所あります。


「向島の夜桜」(中島石松)

「両国水神祭夕涼の図」(楊洲周延)

「東京名所 両国河開き之光景」(黒木半之助)

「隅田川両岸一覧 首尾松の釣舟・椎木の夕蝉」

「隅田川両岸一覧 新柳橋の白雨 御竹蔵の虹」

「隅田川両岸一覧 両国納涼・一の橋弁天」「隅田川両岸一覧 無縁の日中」


「小松島八洲園美人の賑ひ」(楊斎延一)

「墨堤奥女中花見之図」(貞秀)

「東京名所 墨堤之桜」(楊洲周延)

「東京名所之図 隅田堤花ざかりの図」

「隅田川の桜」(三代豊国)

「隅田川の賑ひ」(三代広重)

「江戸八景 両国橋の夕照」(英泉)

「テラス上相撲力士絵」

「東京名勝 両国橋新築図」(三代広重)

「東都両国之風景」(昇亭北寿)

「隅田川両岸一覧」(鶴岡蘆水)

「東都名所 両国繁栄河開之図」(歌川国郷)

「日本名勝図会 隅田川」(小林清親)

「東京名所四季之内 両国夜影光景」(三代豊国)

「東都両国橋渡初寿之図」(二代広重)

「名所江戸百景 両国橋大川ばた」(広重)

「東京名所 両国回向院境内全図」(二代広重)

「不二三十六景 東都両国橋下」(初代広重)

「東都名所 永代橋全図」(初代広重)

「東京名所 両国橋の景」(春孝)

「安政乙卯十一月廿三日 両国橋渡初之図」(歌川国芳)

「東京名所見立五行」(三代広重)

「相撲番付力士行進図」(落合芳幾)

「両国大相撲繁栄之図」(歌川国郷)

「東都両国回向院 境内相撲の図」(初代広重)

「新板角力尽し」(歌川国郷)

「勧進大相撲土俵入之図」(蜂須賀国明)

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「東京名所 隅田川ボート競争」(絵葉書)

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