鍛冶橋門跡

○鍛冶橋門跡 千代田区丸の内3-8

 鍛冶橋交差点南西角歩道上に、説明板「鍛冶橋門跡」が設置されています。鍛冶橋の名は、現在は外堀通りと鍛冶橋通りが交わる鍛冶橋交差点としてその名をとどめています。
 なお、鍛冶橋通りは、鍛冶橋交差点から東へ延び、八丁堀を抜けて永代橋へ至る区間です。
 鍛冶橋交差点の西側、皇居方面へ進めば、東京府庁舎跡(現:東京フォーラム)を左手に過ぎ、馬場先門交差点で国道1号線と交差し、その先は二重橋前交差点で内堀通りと交差します。

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 鍛冶橋交差点
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 二重橋前交差点
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(説明板)
「鍛冶橋門跡
 鍛冶橋門は、1629年(寛永6年)に築造されました。門に附属する鍛冶橋は、現在の丸の内二、三丁目と中央区の八重洲六丁目を結んでいました。
 名称は、外堀の門外の町名が南鍛冶町(現在の中央区八重洲二丁目・京橋二丁目)であったことに由来します。また、江戸時代初期、御用絵師の狩野探幽の屋敷がありました。門内には大名屋敷が立ち並び、幕末には、津山藩(現在の岡山県)松平家、土佐藩(現在の高知県)山内家が付近に上屋敷を構えていました。
 1873年(明治6年)に鍛冶橋門は枡形石垣を残して撤去されました。橋は、1876年(明治9年)にアーチ橋として再建されましたが、終戦後の瓦礫処理で外堀が埋め立てられた際に、橋も姿を消しました。
 現在は「鍛冶橋架道橋」・「鍛冶橋交差点」にその名前が残っています。」

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「江戸切絵図」
 鍛冶橋御門内に「松平越後守」の上屋敷などが見えます。

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「絵本江戸土産 八ツ見橋の景 其二」(広重)
 全ての八ッ見橋が描かれており、左奥に鍛冶橋が見えます。

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「東都名所 八ツ見之橋真景」(広重 都立図書館蔵)
 鳥瞰図ですべての八橋が描かれており、左奥に鍛冶橋が見えます。

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「鍛冶橋遠景」(井上安治 明治10年)
 明治初めの江戸城外濠と鍛冶橋が描かれています。

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「鍛冶橋見附」(江戸見附写真帖 大正5年)

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「現今の鍛冶橋見附」(歴史写真大正10年3月號)
 大正10年2月撮影の石橋の鍛冶橋です。

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tag : 江戸城丸の内井上安治

北町奉行所跡(東京都旧跡)

○都旧跡北町奉行所跡 千代田区丸の内1-8-1

 グラントウキョウノースタワー(大丸東京店が入居)前に「都旧跡 北町奉行所跡」が設置されています。

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(プレート文)
「都旧跡 北町奉行所跡
  所在 東京都千代田区丸の内一丁目一番地国鉄所有地内
  指定 大正七年四月
江戸町奉行は徳川幕府の職制の一つで寺社奉行、勘定奉行とともに三奉行と呼ばれていた。江戸町奉行は老中の支配に属し、配下の本所奉行、道役、小伝馬町牢屋、寄場奉行、町年寄を統轄した。
その職掌は江戸府内の行政・司法・警察の一切にわたっていた。定員は二名で南北両奉行に分かれ月番で交替に執務したが時に応じて増減された。原則として旗本が任命され役科は三千石、芙蓉間詰で勘定奉行の上座輩下に与力・同心などがいた。
「いれずみ奉行」として名高い遠山左衛門尉景元(遠山金四郎)は天保十一年(一八四○)三月から三年の間北町奉行の職にあった。
  昭和四十三年十月一日 東京都教育委員会」

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○北町奉行所跡 千代田区丸の内1-8-1

 丸の内トラストタワーN館の東側に、説明板「北町奉行所跡」と下水遺構が設置されています。

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 下水遺構
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(説明板)
「東京都指定旧跡 北町奉行所跡
 この地域は、江戸時代には呉服橋門内と呼ばれ、文化3年(1806)から幕末まで北町奉行所が置かれていました。町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつで、今の有楽町駅前にあった南町奉行所と、ここ北町奉行所の二か所に分かれて交代で町人地の行政・司法・警察の職務を担っていました。 名奉行として有名な遠山左衛門尉景元は、 天保11年から14年(1840-1843)まで当所で執務をしていました。
 平成12年からの発掘調査では、北町奉行所の上水道や井戸、屋敷境などの遺構が発見されました。ここに復元した石組みの溝は、ここから西方約30mの地点で発見された、屋敷北東角の道路との境を巡る下水構の一部です。この遺構は、本来3〜4段の石積みであったものと思われますが、発見された時は最下段を残すのみでした。溝の角石が切り取ってあるのは、邪気が進入する鬼門である艮(うしとら:丑寅)の方角を防護するための呪術的な意味を示すものとされています。
  所在地 千代田区丸の内一丁目
  旧跡指定 大正7年4月
  MARUNOUCHI TRUST CITY」

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(参考)「遠山景元の墓」こちらで記載


○MARUNOUCHI TRUST CITY 歴史散策マップ 千代田区丸の内1-8-1

 丸の内トラストシティ入口に「歴史散策マップ」が掲示されています。

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①江戸城外堀の石垣の再現
 鍛冶橋門周辺で発見された堀石垣を江戸城外堀としてほぼ積まれていた形に再現しています。

(説明板)
「江戸城外堀の石垣
 北町奉行所の東方には、寛永13年(1636)に築かれた江戸城外堀がありました。現在この地域の外堀は、常盤橋門跡や日本橋川の護岸の一部などに石垣が残りますが、東京駅周辺は昭和三十年代には埋め立てられ、今は外堀通りや交差点の名前などに名残を留めている程度です。
 ここに再現した石積みは、かって存在した外堀をイメージしたもので、その一部には鍛冶橋門(東京駅八重洲口南口)周辺で発見された堀石垣を使用し、ほぼ当時の形で積み直しています。石垣石の表面には、築かれた当時の石を割った矢穴がみられます。
  MARUNOUCHI TRUST CITY」

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②玉川上水をイメージした親水空間
 玉川上水や江戸城外堀といった、かつて水との関わりの大きい本敷地内に上水の石組みをイメージした水空間を設置しています。

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③北町奉行所跡の石組溝
 敷地で発見された北町奉行所の屋敷北西部の道路の境を巡っていた下水溝の一部を復元しています。
 ※上記記載

④玉川上水跡の床埋込ライティング
 玉川上水がかつて存在したところに水をイメージした青色に光る照明を床に埋め込んでいます。

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tag : 江戸幕府施設旧跡丸の内玉川上水

三菱一号館美術館 日本工業倶楽部会館

○三菱一号館美術館 千代田区丸の内2-6-1

 「三菱一号館美術館」の赤煉瓦の建物は、三菱社が明治27(1894)年に建設した「三菱一号館」(ジョサイア・コンドル設計)を復元したものです。
 「一号館広場」から見た「三菱一号館美術館」です。
 美術館は2023年4月10から2024年秋までメンテナンスのため休館中です。受付におられたというコンドル像には会えませんでした。

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(説明板)
「三菱一号館
 三菱一号館は1894年(明治27年)に竣工した丸の内で最初のオフィスビルです。イギリス人建築家ジョサイア・コンドルによる設計で、ヴィクトリア時代におけるクイーンアンスタイルの煉瓦造3階地下1階建ての建物でした。丸の内では、三菱一号館にはじまり、次々に煉瓦造のオフィスビルが建設され、その街並みは「一丁倫敦(いっちょうろんどん)」と呼ばれ親しまれました。しかし、戦後の高度経済成長のなか、丸の内の赤煉瓦建築は次々と近代的なオフィスビルに建て替えられ、三菱一号館も竣工から74年後の1968年(昭和43年)に解体されました。2009年、41年の時を経て三菱一号館が当初と同じ場所に、可能な限り忠実に復元されました。
三菱一号館復元の経緯、丸の内の歴史について「歴史史料室」(当館1階)にてご紹介しております。是非お立ち寄りください。
【歴史史料室】10時〜18時(月曜休館、臨時休業有)」

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「三菱第一号館」(コンドル博士遺作集 コンドル博士記念表彰会 昭和7年)

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○日本工業倶楽部会館 国登録有形文化財 千代田区丸の内1-4-6

 日本工業倶楽部会館は大正9(1920)年11月に竣工しました。老朽化による建て替えで、会館の南側部分が保存され平成15(2003)年3月に竣工しました。

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 正面屋上には小倉右一郎作の二つの人像が置かれ、男性はハンマー、女性は糸巻きを手にし、当時の二大工業石炭と紡績を示しています。

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「日本工業倶楽部会館」(明治大正建築写真聚覧 建築学会 昭和11年)

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tag : 丸の内コンドル煉瓦国登録有形文化財

大名小路 (丸の内)

○大名小路 千代田区丸の内・有楽町

 江戸時代、武家地には町名はついておらず、現在の丸の内は一般に大名小路と呼ばれました。明治時代となり、明治5(1872)年に「永楽町」「八重洲町」「有楽町」の町名がつけられました。
 昭和4(1929)年、丸ノ内一丁目~三丁目という町名が誕生し、「永楽町」「八重洲町」は消えました。昭和45(1970)年、町名の表記が丸ノ内から丸の内と変更され、現在に至っています。

「大名小路神田橋内内桜田之図」(江戸切絵図)

 江戸切絵図の大名小路を含む絵図と大名小路の抜粋です。 江戸切絵図では、大名家の家紋で屋敷の表門の位置を示しています。

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「現在の地図」

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「古図より見たる丸ノ内」(三菱合資会社地所部 1929年)

 昭和4年の丸ノ内町名地番改称記念に、三菱地所部が発行した「古図より見たる丸ノ内」からの抜粋です。

 「寛政八年」 大名屋敷が密集しています。
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 「明治十一年」 軍用地が密集しています。
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 「大正十二年」震災ニヨル焼失区域 震災による被害をほぼ切り抜けています。
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 「昭和二年」  オフィス街となりました。

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 「丸ノ内新町名圖」昭和四年四月十五日改稍 丸ノ内の新町名の誕生です。
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 「丸ノ内舊町名圖」  旧町名「有楽町」「八重洲町」「永楽町」
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 出典
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<現在の大名小路>

 「丸の内ビルディング」「新丸の内ビルディング」の東側を南北に通る都道は、「大名小路」が愛称として使用されています。

 新丸の内ビルディング前の標識
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 案内図に表示されている大名小路(赤線が大名小路)

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<日比谷入江と大名小路>

 日比谷入江の南北は、現在のJR浜松町駅あたりから日比谷公園、皇居外苑、そして大手町まで続いていました。徳川幕府は日比谷入江の埋め立てと、そこに屋敷を建てて住むことを全国の大名に命じました。埋め立てられた入江のうち、愛宕下(現在の新橋赤レンガ通り)から丸の内までの範囲は、多くの大名屋敷が集中していたため、明治維新までの260年間にわたって「大名小路」と呼ばれていました。

 「愛宕ノ下大名小路」(江戸切絵図)
 こちらは愛宕下の大名小路です。
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○行幸通り

 東京駅の開業にあわせ、大正3(1914)年に「行幸通り」は開通しました。アメリカ式のビルが建ち並び、明治期の「一丁倫敦(ロンドン)」の街並みに対し「一丁紐育(ニューヨーク)」と呼ばれました。

 行幸通り(西から東京駅方向)  
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 丸ビル
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「大東京寫眞帖」(昭和5(1930)年 国立国会図書館蔵)
 (左上)行幸道路の右は郵船ビル、左は海上ビル。
 (右上)丸の内ビルディング。通勤者約4千人、事務所數361。
 (左下)郵船ビル。
 (右下)海上ビル。
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○行幸地下ギャラリー 千代田区丸の内1丁目 HP

 行幸地下ギャラリーは、東京駅と内堀通りとをつなぐ地下通路にあるギャラリーです。行幸通りの全長約200mの歩行者専用道路の整備に伴い、地下通路が2007年春に開通しました。
 地下通路の両脇には、全長220mにわたって「行幸地下ギャラリー」が設置されています。イベント展示が行われていない期間には、常設展示として、丸の内界隈を紹介する写真パネルが展示されています。

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○丸の内『一丁倫敦』

 江戸時代は大名屋敷が建ち並んでいた八代洲河岸ですが、明治維新以降は、陸軍の軍用地として使われます。明治政府は軍備の拡張を図るため、軍部を移転することを決定。移転費用は、丸の内一体を払い下げることで捻出することにしました。入札は不落に終わり、岩崎彌之助が率いる「三菱社」が引き受けることになりました。
 明治23(1890)年、「三菱社」は丸の内一帯を買い受けました。軍の施設が移転していく中で丸の内は原野となり「三菱ヶ原」と呼ばれました。
 「三菱社」は、「三菱ヶ原」に明治44(1911)年までに13棟のビルを建設しました。赤レンガ造りの建物が並ぶエリアは、街区が100メートル(1丁)だったことから、「一丁倫敦」とも呼ばれました。

「岩崎弥之助肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
 嘉永4年1月8日〜明治41年3月25日
 (1851年2月8日〜1908年3月25日)
 三菱財閥2代目。初代の岩崎弥太郎の弟。
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「丸の内全景」(東京風景 小川一真出版部 明治44年)
 中央にジョサイア・コンドル設計の「第一号館」が見えます。まだ空地の「三菱ヶ原」が見えます。三菱財閥はコンドルを支援しました。

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「日本風景風俗写真帖」(小川一真 明治43年)
 日本語タイトルは「八重洲町通」で、英語タイトルは「A new street looking toward the Imperial Palace, in Tokyo.」。馬場先門から東へ「三菱ヶ原」の中を抜けて、右手の東京府庁に至る道が開通「八重洲町通」と名付けられたようです。
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 写真右手に馬水槽が見えます(こちらで記載)。
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「ジョサイア・コンドル」(丸ノ内今と昔 富山房 昭和16年)
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「コンドル博士遺作集」(コンドル博士記念表彰会 昭和7年)

 三菱第一号館、三菱第二号館(掲示が逆になっています)
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 コンドル肖像と墓(護国寺)
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 博士銅像除幕式(東京大学)
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(参考)
 「工部大学校阯
 「コンドル像
 「鹿鳴館跡
 「東京倶楽部
 「ニコライ堂
 「一丁倫敦
 「三菱1号館
 「訓盲院跡
 「コンドル墓

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tag : 丸の内コンドル

丸の内の由来

○丸の内の由来

 丸の内の地名の由来は、江戸城の内濠と外濠で囲まれた城内であったことにあります。丸の内はもともとは江戸湾の日比谷入江で、日比谷(海苔養殖用のひびに由来)は海苔養殖の中心でした。天正18(1590)年徳川家康江戸入府の後、埋め立てられ、大名の屋敷地となりました。
 江戸時代、武家地には町名はついておらず、一般に大名小路と呼ばれました。明治の時代となり、明治5(1872)年に「永楽町」「八重洲町」「有楽町」の町名がつけられました。
 昭和4(1929)年、丸ノ内一丁目~三丁目という町名が誕生し、昭和45(1970)年、町名の表記が丸ノ内から丸の内と変更され、現在に至っています。

「丸ノ内図」(古図より見たる丸ノ内 三菱合資会社地所部 1929年)

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○千代田区町名由来板「丸の内」 千代田区丸の内1-2

 行幸通りに千代田区町名由来板「丸の内」が設置されています。

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(説明板)
「千代田区町名由来板 丸の内
 江戸時代この界隈は、江戸城の内堀と外堀に囲まれていました。丸の内とは、堀で囲まれた内側という意味合いをもった名で、大名屋敷が立ち並んでいました。
 明治維新後、大名屋敷が取り払われてから、周辺は一気にさびれていきます。屋敷跡が陸軍の練兵場などの軍用施設になり、街としての新しい開発が行われなかったためです。明治の文学者田山花袋は、明治二十年(1887年)ごろの丸の内を次のように描写しています。「丸の内は、いやに陰気で、さびしい、荒涼とした、むしろ衰退した気分が満ちわたっていて、宮城も奥深く雲の中に鎖されているように思われた」(『東京の三十年』)
 この丸の内一帯が大きく変貌をとげたのは明治二十三年(1890)、陸軍が一帯を三菱社に払い下げてからです。以後、三菱は大規模な再開発にのりだし、地域内の道路整備を行ったうえで、次々と洋風の建築物を建てました。赤レンガの建築物を中心としたそれらの建物が、ロンドンの景観を思わせたことから、一帯は「一丁倫敦」ともてはやされるようになりました。
 さらに大正三年(1914)には東京駅も完成。第一次世界大戦による空前の好景気が追い風となり、丸の内は一気に日本を代表するオフィス街へと成長しました。
 そのような歴史をもったこの界隈が、正式に「まるのうち」と呼ばれるようになったのは昭和四年(1929)、丸ノ内一丁目~三丁目という町名が誕生してからのことです。そして昭和四十五年(1970)、町名の表記が丸ノ内から丸の内と変更され、現在に至っています。
  大手・丸の内町会」

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○丸の内今昔散歩(歴史と文化の散歩道) 千代田区丸の内1-2

 「千代田区町名由来板丸の内」の隣に、「丸の内今昔散歩(歴史と文化の散歩道)」があります。

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(説明板)
「丸の内の変遷
現在の丸の内は、かつての日比谷入江の東側にあたっており、江戸時代に埋立てられたところである。当時は松平家などの大名屋敷が立ち並び、大名小路と呼ばれていた。明治維新後、屋敷を利用した官庁、兵営地帯となり、さらに明治23年、これらの用地が民間に払い下げられ、日本の著名なビジネス街として生まれ変わった。馬場先通り沿い一帯は、かつてレンガ造りの建物が軒を並べ、一丁ロンドンと呼ばれたこともあった。なお現在の丸ビル街は、東京駅と同様に大正時代に建てられたものである。」

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 ルートには標柱が建てられています。

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tag : 千代田区町名由来丸の内田山花袋

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