千住大門商店街 千住えびす会
○千住大門商店街 足立区千住柳町・千住龍田町
「千住大門商店街」は、千住柳町に遊廓があったことを示している名称です。街灯に「おおもん」の名前が残っています。商店街の北側の柳町に千住遊郭(柳新地)がありました。
北千住駅周辺の商店街と違って、ここは通りがかりの客はほぼいませんが、多くのカカシが店前にいます。かつての柳新地を取り囲む商店街群は寂れていますが、ここは現役営業店が多く、唯一活気を感じさせるレンガ舗装の商店街です。
<千住大門商店街アーチ撤去>
大門商店街の入口にアーチがあったのですが、令和2(2020)年に撤去されています。街灯「おおもん」は残っています。



アーチがなくなった現在


<カカシたち>
太子堂のカカシ


カフェのカカシ

肉屋のカカシ

花屋のカカシ

惣菜店のカカシ

組合理事長のお店「喜田家」のカカシ




カカシではありません。

<双子鮨>
こちらで記載

<マルギクベーカリー>
こちらで記載
<かかしの里 名頃>
カカシが持っているポスターです。
「天空の村 かかしの里 名頃
空にほど近い山奥にかかしと仲良く暮らす村があります・・・
徳島県三好市」

<経緯>
足立朝日の記事によると(こちら)、千住大門商店街振興組合理事長が、コロナ禍で商店街が淋しくなったことを憂い、「みんなの店先に置いてもらえたら」と自腹で「天空の村・かかしの里」(徳島県三好市名頃地区)から手配したといいます。2020年4月に設置されました。
<大門道子>
太子堂の店主が買い物客から若い子がいないねと言われ、造ったのが太子堂の向かいのプチテラス前の椅子に座る若い女性のカカシです。「大門道子ちゃん」と命名されて、唯一、着替えるカカシです。さまぁ~ずの三村マサカズの作画です。



クリスマスバージョン

太子堂がお休みの時には、「大門道子ちゃん」はいません。


<おばあのつぶやき>
おばあのつぶやきです。おばあとはどなた?







○千住えびす会 千住龍田町・千住元町
「大門商店街」から続くのが「千住えびす会」です。千住竜田郵便局から「千住えびす会」となります。ここもレンガ舗装です。商店街が違うので、ここにはカカシはいません。
東端から西方向

商店街の境



街灯

西から東方向


西端の墨堤通り下から東方向

<プチテラス予定地> 足立区千住元町2-2
どらっぐぱぱすの対面が「千住西地区プチテラス予定地」となっています。令和5年開設予定とあります。



「千住大門商店街」は、千住柳町に遊廓があったことを示している名称です。街灯に「おおもん」の名前が残っています。商店街の北側の柳町に千住遊郭(柳新地)がありました。
北千住駅周辺の商店街と違って、ここは通りがかりの客はほぼいませんが、多くのカカシが店前にいます。かつての柳新地を取り囲む商店街群は寂れていますが、ここは現役営業店が多く、唯一活気を感じさせるレンガ舗装の商店街です。
<千住大門商店街アーチ撤去>
大門商店街の入口にアーチがあったのですが、令和2(2020)年に撤去されています。街灯「おおもん」は残っています。



アーチがなくなった現在


<カカシたち>
太子堂のカカシ


カフェのカカシ

肉屋のカカシ

花屋のカカシ

惣菜店のカカシ

組合理事長のお店「喜田家」のカカシ




カカシではありません。

<双子鮨>
こちらで記載

<マルギクベーカリー>
こちらで記載
<かかしの里 名頃>
カカシが持っているポスターです。
「天空の村 かかしの里 名頃
空にほど近い山奥にかかしと仲良く暮らす村があります・・・
徳島県三好市」

<経緯>
足立朝日の記事によると(こちら)、千住大門商店街振興組合理事長が、コロナ禍で商店街が淋しくなったことを憂い、「みんなの店先に置いてもらえたら」と自腹で「天空の村・かかしの里」(徳島県三好市名頃地区)から手配したといいます。2020年4月に設置されました。
<大門道子>
太子堂の店主が買い物客から若い子がいないねと言われ、造ったのが太子堂の向かいのプチテラス前の椅子に座る若い女性のカカシです。「大門道子ちゃん」と命名されて、唯一、着替えるカカシです。さまぁ~ずの三村マサカズの作画です。



クリスマスバージョン

太子堂がお休みの時には、「大門道子ちゃん」はいません。


<おばあのつぶやき>
おばあのつぶやきです。おばあとはどなた?







○千住えびす会 千住龍田町・千住元町
「大門商店街」から続くのが「千住えびす会」です。千住竜田郵便局から「千住えびす会」となります。ここもレンガ舗装です。商店街が違うので、ここにはカカシはいません。
東端から西方向

商店街の境



街灯

西から東方向


西端の墨堤通り下から東方向

<プチテラス予定地> 足立区千住元町2-2
どらっぐぱぱすの対面が「千住西地区プチテラス予定地」となっています。令和5年開設予定とあります。




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千住大正通り商店会
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千住大門商店街 千住えびす会
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千住遊郭跡(千住柳町)
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テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
tag : 千住
千住遊郭跡(千住柳町)
○千住遊郭(柳新地)跡 足立区千住柳町
江戸から近い初宿は、宿泊する旅人が少なく、営業不振に陥る旅籠屋も少なくありませんでした。千住宿、品川宿、板橋宿は、幕府に連名で、旅籠屋に飯盛女を置くことを要望し、旅籠屋の飯盛女(食売女)が公認されます。江戸に近い遊里として人を集めるようになります。
金蔵寺の足立区教育委員会の説明板によれば、千住宿55軒の旅籠のうち、飯盛旅籠(食売旅籠ともいう)が36軒ありました(金蔵寺についてはこちらで記載)。
「千住遊郭」は、大正10(1921)年3月に郊外の「柳新地」(現・千住柳町)に移転します。関東大震災(大正12(1923)年)以後は板橋・吉原などからも移ってきて、56軒の楼が立ち並び繁栄しました。
「千住遊郭大門より北のようす」(「大震災千住町写真帖」 足立区立郷土博物館蔵)
関東大震災直後に、千住遊郭大門より北を撮影した写真です。


説明文には、大正13年3月には復興したと記されています。移転は大正10(1921)年3月とあります。

「千住遊郭大門」(足立区立郷土博物館蔵)
大門は銅製で、戦時中に供出されました。

<千住遊郭(柳新地)輪郭>
地図を見ると、正方形に整備された碁盤目状に区画割された道筋によって、遊郭(柳新地)の輪郭がわかります。



「東京府南足立郡千住町全図」(昭和6年1月15日 足立区立郷土博物館蔵)
標記地図から、柳町部分の抜粋です。○が遊郭です。

○柳町仲通り電灯会 足立区千住柳町
旧千住遊郭(柳新地)の大門からのメインストリートだった通りに、商店街「柳町仲通り電灯会」があります。今では商店街とは言えない寂れた通りで、ほぼ住宅街となっています。
<「柳町仲通り電灯会」と街灯>


<柳町仲通りの南から北方向>


<柳町仲通りの北から南方向>
柳町仲通りの北の終端から街灯があります。街灯のある通りから道が広くなります。 スカイツリーが見えます。




<「廊支」「くるわ支」電信柱>
電信柱に「廊」「くるわ」とあります。ストレートな遊郭の痕跡です。古い電電公社のマークの手書きの支柱もあります。





(参考)
電信柱には古い名残が意外に残っています。
・「猿之助支」電信柱
・「遊園支」電信柱
・「銅像堀支」電信柱
<「國太寿し」と「田中たばこ店」> 足立区千住柳町13
寿司店「國太寿し」とたばこ店「田中たばこ店」が並んでいます。この商店街で唯一のレトロ店です。

店先に掲示してあった絵です。

田中たばこ店です。





「國太寿し」に掲示されている住居表示「千住柳町一五番地 婦人部」です。
ここは13番地ですが15番地の表示です。

たばこ店に掲示されている「たばこ販売店」には、
ここは13番地ですが15番地の表示です。

<柳町会館> 足立区千住柳町28-1

○大門商店睦会 足立区千住龍田町・千住柳町
大門の仲通りへ南から続くのが大門商店睦会です。大門商店睦会と柳町仲通り電灯会の境にかつて大門がありました。左手に向かうレンガ舗装の道は、千住大門商店街です。




<長屋> 足立区千住柳町4-3
古い長屋があります。
<YAMATOYA> 足立区千住柳町4-5
大門のあった場所手前にガソリンスタンドがあるのですが、「YAMATOYA」の掲示が見えます。
屋号が「大和屋油店」です。
昔の業態は何だったのか気になるガソリンスタンドです。




<「廊支」「くるわ支」支柱>
電柱と電信柱に「廊支」「くるわ支」とあります。手書きもあります。




○千住ニコニコ商店会 足立区千住柳町・千住大川町
旧千住遊郭(柳新地)の北側の商店街です。千住遊郭(柳新地)華やかなりし頃は、一番の繁華街でしたが、昭和33(1958)年の遊郭廃止、都電の撤収等の影響により人の流れが変わり、衰微の一途をたどりました。
東からのいろは通り商店会、西からの千住元町明公会の商店街から、千住ニコニコ商店会の商店街に入ると、街灯がなくなります。googleストリートビューの2022年8月撮影では存在しているので最近撤去されたようです。それ以前にはアーチが撤去されています。
かつては盛況だった商店街は、もはや消滅し、解散しているのでしょう。ニコニコの名前は「ニコニコ不動産」にしか認められません。
東→西方向



西→東方向

<千住西地区プチテラス予定地> 足立区千住大川町38-1
空き地はプチテラス予定地です。



<千住西地区プチテラス予定地> 足立区千住柳町41-14
旧千住遊郭のメイン通りであった柳町仲通りが千住ニコニコ商店会に突き当ったところにもプチテラス予定地があります。



○箭弓稲荷神社 足立区千住大川町49-8
千住ニコニコ商店会から千住大川町側の小路に入ったところに「箭弓(やきゅう)稲荷神社」はあります。この地で火災が多く発生したのを憂えて、地元の有志が埼玉県東松山市の箭弓稲荷神社より分霊を勧請し大正15(1926)年に建立されました。旧千住遊郭の北の裏側にあるので、賑わっていた遊郭や商店街の火災が多かったのでしょうか。
現在も「足立箭弓稲荷講」により活動が行われています。千住神社の兼務社です。




(説明板)
「箭弓稲荷神社
ご祭神 保食神
宇迦之御魂神
大正十一年当時、この地で火災が多く発生したのを憂えて元宿新町会(会員一三八名)の役員の有志が和銅五年(七一ニ年)創建の関東一の火伏の神社として信仰されている埼玉県東松山市の箭弓稲荷神社より分霊を勧請し大正十五年に当地に建立した。
平成二十九年五月末日」

<石鳥居支柱>
石鳥居は社殿に対し、なぜか斜めに建っています。昭和12(1937)年9月、稲荷講中による建立です。


<手水鉢>
鳥居の先左手に手水鉢があります。

<社殿>
石段をニ段上がると扁額「箭弓稲荷大明神」が掲げられた社殿です。

社殿内の奉納を見るに、築地魚河岸の水産問屋の崇敬が篤いようです。


社殿内

<千住ニコニコ商店会横道> 足立区千住柳町
プチテラス予定地から、千住柳町仲通りへ向かう南北の通りも千住ニコニコ商店会です。千住ニコニコ商店会の街灯がありましたが、撤去されています(2022年8月撮影のgoogleストリートビューでは街灯を確認できるので、それ以降の撤去です)。
北から

南から

「廓支」「くるわ支」電信柱が、遊郭の裏手への通りであることの名残を示しています。「柳町仲通り電灯会」と「千住ニコニコ商店会」の電信柱は「廊支」でしたが、ここは「郭支」です。


江戸から近い初宿は、宿泊する旅人が少なく、営業不振に陥る旅籠屋も少なくありませんでした。千住宿、品川宿、板橋宿は、幕府に連名で、旅籠屋に飯盛女を置くことを要望し、旅籠屋の飯盛女(食売女)が公認されます。江戸に近い遊里として人を集めるようになります。
金蔵寺の足立区教育委員会の説明板によれば、千住宿55軒の旅籠のうち、飯盛旅籠(食売旅籠ともいう)が36軒ありました(金蔵寺についてはこちらで記載)。
「千住遊郭」は、大正10(1921)年3月に郊外の「柳新地」(現・千住柳町)に移転します。関東大震災(大正12(1923)年)以後は板橋・吉原などからも移ってきて、56軒の楼が立ち並び繁栄しました。
「千住遊郭大門より北のようす」(「大震災千住町写真帖」 足立区立郷土博物館蔵)
関東大震災直後に、千住遊郭大門より北を撮影した写真です。


説明文には、大正13年3月には復興したと記されています。移転は大正10(1921)年3月とあります。

「千住遊郭大門」(足立区立郷土博物館蔵)
大門は銅製で、戦時中に供出されました。

<千住遊郭(柳新地)輪郭>
地図を見ると、正方形に整備された碁盤目状に区画割された道筋によって、遊郭(柳新地)の輪郭がわかります。



「東京府南足立郡千住町全図」(昭和6年1月15日 足立区立郷土博物館蔵)
標記地図から、柳町部分の抜粋です。○が遊郭です。

○柳町仲通り電灯会 足立区千住柳町
旧千住遊郭(柳新地)の大門からのメインストリートだった通りに、商店街「柳町仲通り電灯会」があります。今では商店街とは言えない寂れた通りで、ほぼ住宅街となっています。
<「柳町仲通り電灯会」と街灯>


<柳町仲通りの南から北方向>


<柳町仲通りの北から南方向>
柳町仲通りの北の終端から街灯があります。街灯のある通りから道が広くなります。 スカイツリーが見えます。




<「廊支」「くるわ支」電信柱>
電信柱に「廊」「くるわ」とあります。ストレートな遊郭の痕跡です。古い電電公社のマークの手書きの支柱もあります。





(参考)
電信柱には古い名残が意外に残っています。
・「猿之助支」電信柱
・「遊園支」電信柱
・「銅像堀支」電信柱
<「國太寿し」と「田中たばこ店」> 足立区千住柳町13
寿司店「國太寿し」とたばこ店「田中たばこ店」が並んでいます。この商店街で唯一のレトロ店です。

店先に掲示してあった絵です。

田中たばこ店です。





「國太寿し」に掲示されている住居表示「千住柳町一五番地 婦人部」です。
ここは13番地ですが15番地の表示です。

たばこ店に掲示されている「たばこ販売店」には、
ここは13番地ですが15番地の表示です。

<柳町会館> 足立区千住柳町28-1

○大門商店睦会 足立区千住龍田町・千住柳町
大門の仲通りへ南から続くのが大門商店睦会です。大門商店睦会と柳町仲通り電灯会の境にかつて大門がありました。左手に向かうレンガ舗装の道は、千住大門商店街です。




<長屋> 足立区千住柳町4-3
古い長屋があります。
<YAMATOYA> 足立区千住柳町4-5
大門のあった場所手前にガソリンスタンドがあるのですが、「YAMATOYA」の掲示が見えます。
屋号が「大和屋油店」です。
昔の業態は何だったのか気になるガソリンスタンドです。




<「廊支」「くるわ支」支柱>
電柱と電信柱に「廊支」「くるわ支」とあります。手書きもあります。




○千住ニコニコ商店会 足立区千住柳町・千住大川町
旧千住遊郭(柳新地)の北側の商店街です。千住遊郭(柳新地)華やかなりし頃は、一番の繁華街でしたが、昭和33(1958)年の遊郭廃止、都電の撤収等の影響により人の流れが変わり、衰微の一途をたどりました。
東からのいろは通り商店会、西からの千住元町明公会の商店街から、千住ニコニコ商店会の商店街に入ると、街灯がなくなります。googleストリートビューの2022年8月撮影では存在しているので最近撤去されたようです。それ以前にはアーチが撤去されています。
かつては盛況だった商店街は、もはや消滅し、解散しているのでしょう。ニコニコの名前は「ニコニコ不動産」にしか認められません。
東→西方向



西→東方向

<千住西地区プチテラス予定地> 足立区千住大川町38-1
空き地はプチテラス予定地です。



<千住西地区プチテラス予定地> 足立区千住柳町41-14
旧千住遊郭のメイン通りであった柳町仲通りが千住ニコニコ商店会に突き当ったところにもプチテラス予定地があります。



○箭弓稲荷神社 足立区千住大川町49-8
千住ニコニコ商店会から千住大川町側の小路に入ったところに「箭弓(やきゅう)稲荷神社」はあります。この地で火災が多く発生したのを憂えて、地元の有志が埼玉県東松山市の箭弓稲荷神社より分霊を勧請し大正15(1926)年に建立されました。旧千住遊郭の北の裏側にあるので、賑わっていた遊郭や商店街の火災が多かったのでしょうか。
現在も「足立箭弓稲荷講」により活動が行われています。千住神社の兼務社です。




(説明板)
「箭弓稲荷神社
ご祭神 保食神
宇迦之御魂神
大正十一年当時、この地で火災が多く発生したのを憂えて元宿新町会(会員一三八名)の役員の有志が和銅五年(七一ニ年)創建の関東一の火伏の神社として信仰されている埼玉県東松山市の箭弓稲荷神社より分霊を勧請し大正十五年に当地に建立した。
平成二十九年五月末日」

<石鳥居支柱>
石鳥居は社殿に対し、なぜか斜めに建っています。昭和12(1937)年9月、稲荷講中による建立です。


<手水鉢>
鳥居の先左手に手水鉢があります。

<社殿>
石段をニ段上がると扁額「箭弓稲荷大明神」が掲げられた社殿です。

社殿内の奉納を見るに、築地魚河岸の水産問屋の崇敬が篤いようです。


社殿内

<千住ニコニコ商店会横道> 足立区千住柳町
プチテラス予定地から、千住柳町仲通りへ向かう南北の通りも千住ニコニコ商店会です。千住ニコニコ商店会の街灯がありましたが、撤去されています(2022年8月撮影のgoogleストリートビューでは街灯を確認できるので、それ以降の撤去です)。
北から

南から

「廓支」「くるわ支」電信柱が、遊郭の裏手への通りであることの名残を示しています。「柳町仲通り電灯会」と「千住ニコニコ商店会」の電信柱は「廊支」でしたが、ここは「郭支」です。



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千住元町明公会(千住元町)
○千住元町明公会 足立区千住元町
墨堤通りの下から東へ向かい、旧千住遊郭(柳新地)北側の「千住ニコニコ商店会」へと続く商店街が「千住元町明公会」です。街灯が立派な商店街です。
西端から東方向

街灯

東から西方向

東端から西方向
墨堤通りの下から東へ向かい、旧千住遊郭(柳新地)北側の「千住ニコニコ商店会」へと続く商店街が「千住元町明公会」です。街灯が立派な商店街です。
西端から東方向

街灯

東から西方向

東端から西方向

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tag : 千住
里帰り桜(千住元町)
○里帰り桜 足立区千住元町33-4
元宿神社前の区道の歩道に、「里帰り桜」碑と、説明板「桜土手」があります。
現在の墨堤通り(旧掃部堤)は、明治時代に桜が植樹され、大正時代末期まで桜土手の愛称で親しまれ、多くの花見客で大変賑わいました。 関東大震災後、桜並木は徐々に衰え姿を消しました。旧掃部堤西側は千住桜木町と命名され、かつての桜土手の盛況を地名に止めています。
旧桜土手から東にのびるこの区道に、昭和60(1985)年3月に桜を植えてかつての名残としています。



(説明板)
「桜土手
現在、干住地域の南部を走る都道補助一一九号線は、従来、元和二年(一六一六)に石出掃部助吉胤(いしでかもんのすけよしたね)が築いた荒川水除堤(通称は掃部堤)と熊谷堤の跡に敷設された道路である。明治時代中頃、この堤防には桜が植樹されてから、大正時代末期まで桜土手の愛称で親しまれ、春の開花時期には多くの花見客で大変賑わった。
大正十二年(一九ニ三)の関東大震災後、土手の桜並木は徐々に衰え残念ながらその姿を消した。昭和六年(一九三一)一月一日を期して、旧掃部堤西側の西耕地は千住桜木町と命名され、かつての桜土手の盛況を地名に止めた。
旧桜土手から東にのびるこの区道には、桜を植えてかつての名残とした。
平成二十九年三月 足立区教育委員会」

<里帰り桜>
(表)「里帰り桜」


(裏)「昭和六十年三月植樹」

<里帰り桜とは>
昭和27(1952)年、8種55本の桜の苗木の里帰りが行われましたが成功しませんでした。
昭和56(1981)年、再度里帰り桜が企画され、33品種3,000本の「桜の里帰り」が行われました。「桜の里帰り」の一環として、ナンシー・レーガン米国大統領夫人から贈られた「レーガン桜」も都立舎人公園に植えられました。
元宿神社前の区道の歩道に、「里帰り桜」碑と、説明板「桜土手」があります。
現在の墨堤通り(旧掃部堤)は、明治時代に桜が植樹され、大正時代末期まで桜土手の愛称で親しまれ、多くの花見客で大変賑わいました。 関東大震災後、桜並木は徐々に衰え姿を消しました。旧掃部堤西側は千住桜木町と命名され、かつての桜土手の盛況を地名に止めています。
旧桜土手から東にのびるこの区道に、昭和60(1985)年3月に桜を植えてかつての名残としています。



(説明板)
「桜土手
現在、干住地域の南部を走る都道補助一一九号線は、従来、元和二年(一六一六)に石出掃部助吉胤(いしでかもんのすけよしたね)が築いた荒川水除堤(通称は掃部堤)と熊谷堤の跡に敷設された道路である。明治時代中頃、この堤防には桜が植樹されてから、大正時代末期まで桜土手の愛称で親しまれ、春の開花時期には多くの花見客で大変賑わった。
大正十二年(一九ニ三)の関東大震災後、土手の桜並木は徐々に衰え残念ながらその姿を消した。昭和六年(一九三一)一月一日を期して、旧掃部堤西側の西耕地は千住桜木町と命名され、かつての桜土手の盛況を地名に止めた。
旧桜土手から東にのびるこの区道には、桜を植えてかつての名残とした。
平成二十九年三月 足立区教育委員会」

<里帰り桜>
(表)「里帰り桜」


(裏)「昭和六十年三月植樹」

<里帰り桜とは>
昭和27(1952)年、8種55本の桜の苗木の里帰りが行われましたが成功しませんでした。
昭和56(1981)年、再度里帰り桜が企画され、33品種3,000本の「桜の里帰り」が行われました。「桜の里帰り」の一環として、ナンシー・レーガン米国大統領夫人から贈られた「レーガン桜」も都立舎人公園に植えられました。
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元宿神社(千住元町)
○元宿神社 足立区千住元町33-4
千住元町は地名の通り、江戸時代初期に日光道中開発とともに成立した「千住宿」に対し「元宿」と称し、奥州路が通る宿場町でした。かつての元宿の元宿耕地と川田耕地は、荒川の河川敷になっています。また、川田耕地に築かれていた富士塚は、現在、大川町氷川神社にあります。
<社号標>
昭和10(1935)年銘の社号標「元宿神社」です。




(説明板)
「元宿神社 千住元町三三−四
祭神 誉田別命(八幡神)宇迦之御魂命(稲荷神)
この地は鎌倉時代既に集落ができていた古い土地で、奥州路もここを通っていたといわれ、江戸時代初期の日光道中開設とともに成立した「千住宿」に対し「元宿」と称していた。
天正の頃、甲州から移ってきた人々によって、北部の川田耕地などが開墾され、その人々の守護神八幡神が鎮守としてここに祭られたという。明治末年、一時千住四丁目氷川神社に合祀されたが、昭和五年稲荷神を合祀して村社となり、再び元宿の鎮守となった。
荒川放水路の開削により、祖先が苦心して開拓した耕地は河川敷となり、多くの人々は悲しくも故地を離れなければならなかった。それらを記した境内の「感旧碑」は足立区内の開拓の歴史の貴重な資料である。
平成十七年三月 足立区教育委員会」

<大師堂>
石鳥居の手前右に「大師堂」があります。 荒綾八十八ヶ所霊場五番札所です。大正14(1925)年に建立。


「札所碑」「八十八ヶ所第五番 元宿 大師堂」

「荒綾八十八ヶ所五番大師堂」「弘法大師」




<八幡神>
左に石祠、右に石扁額「八幡宮」。
「天正ニ年 一五七四年 八幡神 建立
昭和六年 元宿神社 改称」



後方に石扁額「元宿神社」があります。

<手水舎>
花手水です。


<感旧碑> 足立区文化財
この石碑には、鈴木印幡守貞宗の末裔である鈴木与吉氏によって大正5(1916)年に造立され、元宿開拓の歴史と荒川放水路開削により故地を離れざるを得なくなった思いが漢文で記されています。




(説明板)
「感旧碑(現代語訳)
我が祖先、因幡守貞宗は、長享元年、武田氏に仕え、甲府に住んでいました。長男蔵人は大永六年、武州安達郡に移り、さらに陸羽街道「元宿」に転居しました。その子左ヱ門尉信義は、天正元年(1573)、この地を開墾し、多くの良田を得ました。翌二年八月、村の東南に八幡神祠を、九月東北に稲荷新祠を建てました。
この信義は戦にも才能を発揮し、徳川に仕え、幾度となく功績をあげ、天正・慶長の時には、功状を賜ること三度、今尚、当家に伝わっています。この地に移転当初は、一族二十四戸でした。しかし、元禄二年、そのうち二十戸が今の千住四丁目一帯に移り住み、僅か四戸しか残りませんでしたが、後に十四戸までになり、全戸代々農業を営んできました。
天明七年(1787)の飢饉の時も、先祖代々の土地を固守して、この地を去ることなく、明治四十年?四十三年の大洪水の時は、家屋に浸水すること十余日、田圃もほとんどが被害にあい荒廃しましたが、それでも村から離れず死守して来ました。
大正元年八月、内務省が荒川改修工事を行うことになり、この村もその改修区域に入っていたので、先祖伝来の土地を十四戸分すべて国に提供し、その後一族は四散してしまいました。
我が一族が、この地に移り住んで四百余年、私は貞宗の遠い子孫になりますので、今この地を去るにあたり愛慕の情を禁じ得ず、碑を八幡神社に建てその概要を記して末代に伝えたいと思います。
大正五年次丙辰三月 貞宗遠孫 鈴木与吉建立
平成十八年丙戌三月 元宿神社」

<社務所>

<千寿七福神 ぼけ封じ 寿老神>



<狛犬>
昭和10(1935)年9月の奉納。



<拝殿>






<本殿>


<神楽殿>

<御神輿庫>

<庚申塔/三峯神社/元宿神社縁起>



左は天保9(1838)年2月銘の「庚申塔」です。足立区文化財です。
表に「庚申」、裏に紀年が刻まれています。


中央は「三峯神社」です。

右は昭和41(1966)年3月銘の「元宿神社縁起」碑です。


竹箒があちこちに置かれていて、お掃除が徹底して、とてもきれいな境内でした。
千住元町は地名の通り、江戸時代初期に日光道中開発とともに成立した「千住宿」に対し「元宿」と称し、奥州路が通る宿場町でした。かつての元宿の元宿耕地と川田耕地は、荒川の河川敷になっています。また、川田耕地に築かれていた富士塚は、現在、大川町氷川神社にあります。
<社号標>
昭和10(1935)年銘の社号標「元宿神社」です。




(説明板)
「元宿神社 千住元町三三−四
祭神 誉田別命(八幡神)宇迦之御魂命(稲荷神)
この地は鎌倉時代既に集落ができていた古い土地で、奥州路もここを通っていたといわれ、江戸時代初期の日光道中開設とともに成立した「千住宿」に対し「元宿」と称していた。
天正の頃、甲州から移ってきた人々によって、北部の川田耕地などが開墾され、その人々の守護神八幡神が鎮守としてここに祭られたという。明治末年、一時千住四丁目氷川神社に合祀されたが、昭和五年稲荷神を合祀して村社となり、再び元宿の鎮守となった。
荒川放水路の開削により、祖先が苦心して開拓した耕地は河川敷となり、多くの人々は悲しくも故地を離れなければならなかった。それらを記した境内の「感旧碑」は足立区内の開拓の歴史の貴重な資料である。
平成十七年三月 足立区教育委員会」

<大師堂>
石鳥居の手前右に「大師堂」があります。 荒綾八十八ヶ所霊場五番札所です。大正14(1925)年に建立。


「札所碑」「八十八ヶ所第五番 元宿 大師堂」

「荒綾八十八ヶ所五番大師堂」「弘法大師」




<八幡神>
左に石祠、右に石扁額「八幡宮」。
「天正ニ年 一五七四年 八幡神 建立
昭和六年 元宿神社 改称」



後方に石扁額「元宿神社」があります。

<手水舎>
花手水です。


<感旧碑> 足立区文化財
この石碑には、鈴木印幡守貞宗の末裔である鈴木与吉氏によって大正5(1916)年に造立され、元宿開拓の歴史と荒川放水路開削により故地を離れざるを得なくなった思いが漢文で記されています。




(説明板)
「感旧碑(現代語訳)
我が祖先、因幡守貞宗は、長享元年、武田氏に仕え、甲府に住んでいました。長男蔵人は大永六年、武州安達郡に移り、さらに陸羽街道「元宿」に転居しました。その子左ヱ門尉信義は、天正元年(1573)、この地を開墾し、多くの良田を得ました。翌二年八月、村の東南に八幡神祠を、九月東北に稲荷新祠を建てました。
この信義は戦にも才能を発揮し、徳川に仕え、幾度となく功績をあげ、天正・慶長の時には、功状を賜ること三度、今尚、当家に伝わっています。この地に移転当初は、一族二十四戸でした。しかし、元禄二年、そのうち二十戸が今の千住四丁目一帯に移り住み、僅か四戸しか残りませんでしたが、後に十四戸までになり、全戸代々農業を営んできました。
天明七年(1787)の飢饉の時も、先祖代々の土地を固守して、この地を去ることなく、明治四十年?四十三年の大洪水の時は、家屋に浸水すること十余日、田圃もほとんどが被害にあい荒廃しましたが、それでも村から離れず死守して来ました。
大正元年八月、内務省が荒川改修工事を行うことになり、この村もその改修区域に入っていたので、先祖伝来の土地を十四戸分すべて国に提供し、その後一族は四散してしまいました。
我が一族が、この地に移り住んで四百余年、私は貞宗の遠い子孫になりますので、今この地を去るにあたり愛慕の情を禁じ得ず、碑を八幡神社に建てその概要を記して末代に伝えたいと思います。
大正五年次丙辰三月 貞宗遠孫 鈴木与吉建立
平成十八年丙戌三月 元宿神社」

<社務所>

<千寿七福神 ぼけ封じ 寿老神>



<狛犬>
昭和10(1935)年9月の奉納。



<拝殿>






<本殿>


<神楽殿>

<御神輿庫>

<庚申塔/三峯神社/元宿神社縁起>



左は天保9(1838)年2月銘の「庚申塔」です。足立区文化財です。
表に「庚申」、裏に紀年が刻まれています。


中央は「三峯神社」です。

右は昭和41(1966)年3月銘の「元宿神社縁起」碑です。


竹箒があちこちに置かれていて、お掃除が徹底して、とてもきれいな境内でした。
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