芭蕉の顔いろいろ(森下駅)
○芭蕉の顔いろいろ 江東区森下 森下駅構内
都営新宿線「森下駅」A3出口付近に、「芭蕉の顔いろいろ」と題して、19点の松尾芭蕉の肖像画がパネル化して展示されています。
江東区芭蕉記念館にある松尾芭蕉の肖像画19点です。
都営新宿線「森下駅」A3出口付近に、「芭蕉の顔いろいろ」と題して、19点の松尾芭蕉の肖像画がパネル化して展示されています。
江東区芭蕉記念館にある松尾芭蕉の肖像画19点です。
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tag : 松尾芭蕉
浅草見附跡(浅草御門)
〇江戸城 浅草見附跡 台東区浅草橋1-1-15
浅草見附は、当時36ヵ所あった江戸城の門の一つで、現在は碑が建っているだけです。見付門と呼ばれる警備施設があった場所で、浅草観音へ向かう通り道であったことから「浅草御門」とも呼ばれました。
吉原に水路で向かう場合、浅草御門近くの柳橋から猪牙舟に乗り、大川(隅田川)をたどって山谷堀の最下流の今戸橋で下船して、そこから日本堤を徒歩か駕籠で向かいました。
浅草見附跡碑の裏面に、浅草見附跡の説明が刻まれています。昭和31年10月建立。
(TAITOおでかけナビより引用)
「神田川に架かる浅草橋は、江戸時代には浅草見附があったところで、台東区側の橋のたもとに「浅草見附跡」の碑が建っています。浅草見附が置かれたのは寛永13年(1636)、江戸城の警護のため36箇所に設けられた見附の一つで、枡形の門は「浅草御門」と呼ばれ、警護人を置いて浅草観音や遠くは奥州へ往来する人々を取り締まりました。」
<旧町名由来案内 下町まちしるべ>
(説明板)
「旧 浅草橋
浅草橋という町は昭和九年(一九三四)に茅町、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町、柵町、新須賀町、新福井町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町がひとつになってできた。町名は神田川に架けられた橋の名にちなんでいる。
江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。
ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永十三年(一六三六)のことである。浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった。 台東区」
「浅草橋見附」(幕末・明治・大正回顧八十年史 東洋文化協会 昭和10年)
木橋の時の浅草橋です。
「東京開化三十六景 柳橋ヨリ浅草橋」(三代広重)
明治7(1874)年架橋の石造アーチ橋が描かれています。
「浅草橋夕景」(井上探景(井上安治)明治13年)
井上安治が浅草橋を描いています。浅草橋は石造アーチ橋です。
余白には「画工 小林清親」と記されていますが、署名は「井上安次」となっています。
「浅草橋夕景」(井上安治)
神田川上流へ、柳が連なって植わっています(柳原堤)。
「浅草橋雨中之景」(井上探景(井上安治) 明治14年)
光線画の浅草橋です。
浅草見附は、当時36ヵ所あった江戸城の門の一つで、現在は碑が建っているだけです。見付門と呼ばれる警備施設があった場所で、浅草観音へ向かう通り道であったことから「浅草御門」とも呼ばれました。
吉原に水路で向かう場合、浅草御門近くの柳橋から猪牙舟に乗り、大川(隅田川)をたどって山谷堀の最下流の今戸橋で下船して、そこから日本堤を徒歩か駕籠で向かいました。
浅草見附跡碑の裏面に、浅草見附跡の説明が刻まれています。昭和31年10月建立。
(TAITOおでかけナビより引用)
「神田川に架かる浅草橋は、江戸時代には浅草見附があったところで、台東区側の橋のたもとに「浅草見附跡」の碑が建っています。浅草見附が置かれたのは寛永13年(1636)、江戸城の警護のため36箇所に設けられた見附の一つで、枡形の門は「浅草御門」と呼ばれ、警護人を置いて浅草観音や遠くは奥州へ往来する人々を取り締まりました。」
<旧町名由来案内 下町まちしるべ>
(説明板)
「旧 浅草橋
浅草橋という町は昭和九年(一九三四)に茅町、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町、柵町、新須賀町、新福井町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町がひとつになってできた。町名は神田川に架けられた橋の名にちなんでいる。
江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。
ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永十三年(一六三六)のことである。浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった。 台東区」
「浅草橋見附」(幕末・明治・大正回顧八十年史 東洋文化協会 昭和10年)
木橋の時の浅草橋です。
「東京開化三十六景 柳橋ヨリ浅草橋」(三代広重)
明治7(1874)年架橋の石造アーチ橋が描かれています。
「浅草橋夕景」(井上探景(井上安治)明治13年)
井上安治が浅草橋を描いています。浅草橋は石造アーチ橋です。
余白には「画工 小林清親」と記されていますが、署名は「井上安次」となっています。
「浅草橋夕景」(井上安治)
神田川上流へ、柳が連なって植わっています(柳原堤)。
「浅草橋雨中之景」(井上探景(井上安治) 明治14年)
光線画の浅草橋です。
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浅草寺駒形堂
○浅草寺駒形堂 台東区雷門2-2-3
駒形堂は、浅草寺発祥の霊地に建つお堂です。
<駒形堂 台東区教育委員会>
(説明板)
「 駒形堂 台東区雷門二丁目二番二号
『浅草寺縁起』によると、創建年代は朱雀天皇の天慶五年(九四二)で、建立者は安房守平公雅。名称由来には、
①隅田川を舟で通りながらこの堂を見ると、まるで白駒が馳けているようなので、「駒馳け」の転訛。(『江戸名所図会』)
②観音様へ寄進する絵馬を掛けたので「駒掛け堂」と呼んだのが訛る。(『燕石雑誌』)
③駒形神を相州箱根山から勧請したのにちなむ。(『大日本地名辞典』)
これらの説がある。本尊は馬頭観世音菩薩。
葛飾北斎・安藤広重らによって、堂は絵に描かれた。小さくとも江戸で名高い堂だった。当時の堂の位置は現駒形橋西詰道路中央付近。堂は関東大震災で焼けた。
平成四年十一月 台東区教育委員会」
<駒形堂 浅草寺>
(説明板)
「ご本尊ご示現の聖地 駒形堂
駒形堂は、浅草寺ご本尊の聖観世音菩薩さまが、およそ千四百年前、隅田川よりご示現なされ、はじめて奉安された地に建つお堂。
昔、この辺りは船着き場で、渡しや船宿もあり大変な賑わいをみせ、船で浅草寺参詣に訪れた人々は、まずこの地に上陸して駒形堂をお参りして、観音堂へと向った。
このお堂のご本尊さまは馬頭観音様で、今も昔も、この地を行き交う人々をお守り下さっている。
現在のお堂は平成十五年に再建されたもの。今もこの地はご本尊ご示現の聖地として、人々の篤い信仰に支えられ、毎月の十九日の馬頭観音さまのご縁日には、多くの参詣者で賑わう。
馬頭観音さまのご真言・・・「おん あみりとどはばうんはった」
金龍山 浅草寺」
<浅草観音戒殺碑> 東京都文化財
東京都の石標柱「浅草観音戒殺碑」が境内右手にあり、「浅草観音戒殺碑」は、境内左手にあります。
魚類の殺生を禁じた「戒殺碑」です。元禄6(1693)年3月の建立です。隅田川の南は諏訪町より、北は聖天町までの漁を禁じました。右隣には「紀元二千六百年記念碑」があります。
(説明板)
「東京都指定有形文化財(古文書)
浅草観音戒殺碑
所在地 台東区雷門ニーニー三
指 定 大正一一年六月
駒形堂は浅草寺の伽藍の一つで、浅草寺本尊の聖観世音菩薩が隅田川から発見された霊地である。このため元禄五年(一六九二)、当地を魚鳥殺生禁断の地とする法度が出された。これを記念して、翌年(元禄六年)浅草寺第四世権僧正宣存が願主となり、戒殺碑が建てられた。殺生禁断の範囲は駒形堂を中心に、南は諏訪町より北は聖天岸に至る十町余の川筋だった。『御府内備考』によると、諏訪町・聖天町にも高札が建てられたという。
戒殺碑が建てられた駒形堂の堂宇は、江戸時代に何度か焼失している。戒殺碑も倒壊し、宝暦九年(一七五九)に堂宇とともに再建された。現在の碑は関東大震災後の昭和二年(一九二七)に土中より発見され、同八年の駒形堂再建と同時に修補されたものである。元禄当初の碑か、宝暦再建のものか定かでない。
碑身は石造(安山岩)で、長方形円頭板状。正面及び両側面を研磨し、背面は野面のままである。台石は昭和八年修補時もので、上面・正面・両側面・背面の五面を研磨してある。総高一八三・五cm、正面幅六一cm。銘文は『浅草寺誌』や『江戸名所図会』にも収載される。元禄期当時の信仰及びその周辺の状況を明らかにする貴重な資料である。
平成二三年三月 建設 東京都教育委員会」
<江戸名所図会 駒形堂 清水稲荷>
「此碑では江をあはれまぬ蛍かな 其角」 とあります。其角の「生類憐れみの令」への嘆きの句であるといいます。駒形堂部分を拡大すると、石垣の下に「戒殺碑」が描かれています。
<名所江戸百景 駒形堂吾嬬橋>(広重)
左下に駒形堂と吾妻橋が見えます。秩父山中で切出した材木は、筏船に仕立て駒形で荷揚げされました。材木が描かれています。
上空にはホトトギスが舞っています。
竹棹の先に赤い旗が掲げられており、小間物屋「百助」の目印です(「百助化粧品店」浅草2丁目に移転)。吉原遊客は、猪牙船を一旦降り、ここで手土産を買いました。仙台藩主綱宗も、こちらで高尾太夫に渡す手土産を買ったようです。
「伊達ぎらい吉原中にただ一人」と言われた高尾太夫。「君はいま駒形あたりほととぎす」は、そのままもう来ないでとの気持ちがあったのかどうか。
<江戸名所百人美女 駒形>(豊国・国久 安政5(1859)年)
こま絵に駒形堂と百助の屋根が見えます。赤い旗がたなびいています。江戸名所百景とほぼ同じ所から描いています。
<絵本隅田川両岸一覧 駒形の夕日栄>(北斎)
江戸名所図会で「戒殺碑」が描かれている場所に、北斎の画でも碑が描かれています。
<東都隅田川両岸一覧 西>(鶴岡)
駒形堂部分の抜粋です。「戒殺碑」が見えます。
多数の猪牙船が見えます。途中下船して買い物している猪牙船でしょうか。
駒形堂は、浅草寺発祥の霊地に建つお堂です。
<駒形堂 台東区教育委員会>
(説明板)
「 駒形堂 台東区雷門二丁目二番二号
『浅草寺縁起』によると、創建年代は朱雀天皇の天慶五年(九四二)で、建立者は安房守平公雅。名称由来には、
①隅田川を舟で通りながらこの堂を見ると、まるで白駒が馳けているようなので、「駒馳け」の転訛。(『江戸名所図会』)
②観音様へ寄進する絵馬を掛けたので「駒掛け堂」と呼んだのが訛る。(『燕石雑誌』)
③駒形神を相州箱根山から勧請したのにちなむ。(『大日本地名辞典』)
これらの説がある。本尊は馬頭観世音菩薩。
葛飾北斎・安藤広重らによって、堂は絵に描かれた。小さくとも江戸で名高い堂だった。当時の堂の位置は現駒形橋西詰道路中央付近。堂は関東大震災で焼けた。
平成四年十一月 台東区教育委員会」
<駒形堂 浅草寺>
(説明板)
「ご本尊ご示現の聖地 駒形堂
駒形堂は、浅草寺ご本尊の聖観世音菩薩さまが、およそ千四百年前、隅田川よりご示現なされ、はじめて奉安された地に建つお堂。
昔、この辺りは船着き場で、渡しや船宿もあり大変な賑わいをみせ、船で浅草寺参詣に訪れた人々は、まずこの地に上陸して駒形堂をお参りして、観音堂へと向った。
このお堂のご本尊さまは馬頭観音様で、今も昔も、この地を行き交う人々をお守り下さっている。
現在のお堂は平成十五年に再建されたもの。今もこの地はご本尊ご示現の聖地として、人々の篤い信仰に支えられ、毎月の十九日の馬頭観音さまのご縁日には、多くの参詣者で賑わう。
馬頭観音さまのご真言・・・「おん あみりとどはばうんはった」
金龍山 浅草寺」
<浅草観音戒殺碑> 東京都文化財
東京都の石標柱「浅草観音戒殺碑」が境内右手にあり、「浅草観音戒殺碑」は、境内左手にあります。
魚類の殺生を禁じた「戒殺碑」です。元禄6(1693)年3月の建立です。隅田川の南は諏訪町より、北は聖天町までの漁を禁じました。右隣には「紀元二千六百年記念碑」があります。
(説明板)
「東京都指定有形文化財(古文書)
浅草観音戒殺碑
所在地 台東区雷門ニーニー三
指 定 大正一一年六月
駒形堂は浅草寺の伽藍の一つで、浅草寺本尊の聖観世音菩薩が隅田川から発見された霊地である。このため元禄五年(一六九二)、当地を魚鳥殺生禁断の地とする法度が出された。これを記念して、翌年(元禄六年)浅草寺第四世権僧正宣存が願主となり、戒殺碑が建てられた。殺生禁断の範囲は駒形堂を中心に、南は諏訪町より北は聖天岸に至る十町余の川筋だった。『御府内備考』によると、諏訪町・聖天町にも高札が建てられたという。
戒殺碑が建てられた駒形堂の堂宇は、江戸時代に何度か焼失している。戒殺碑も倒壊し、宝暦九年(一七五九)に堂宇とともに再建された。現在の碑は関東大震災後の昭和二年(一九二七)に土中より発見され、同八年の駒形堂再建と同時に修補されたものである。元禄当初の碑か、宝暦再建のものか定かでない。
碑身は石造(安山岩)で、長方形円頭板状。正面及び両側面を研磨し、背面は野面のままである。台石は昭和八年修補時もので、上面・正面・両側面・背面の五面を研磨してある。総高一八三・五cm、正面幅六一cm。銘文は『浅草寺誌』や『江戸名所図会』にも収載される。元禄期当時の信仰及びその周辺の状況を明らかにする貴重な資料である。
平成二三年三月 建設 東京都教育委員会」
<江戸名所図会 駒形堂 清水稲荷>
「此碑では江をあはれまぬ蛍かな 其角」 とあります。其角の「生類憐れみの令」への嘆きの句であるといいます。駒形堂部分を拡大すると、石垣の下に「戒殺碑」が描かれています。
<名所江戸百景 駒形堂吾嬬橋>(広重)
左下に駒形堂と吾妻橋が見えます。秩父山中で切出した材木は、筏船に仕立て駒形で荷揚げされました。材木が描かれています。
上空にはホトトギスが舞っています。
竹棹の先に赤い旗が掲げられており、小間物屋「百助」の目印です(「百助化粧品店」浅草2丁目に移転)。吉原遊客は、猪牙船を一旦降り、ここで手土産を買いました。仙台藩主綱宗も、こちらで高尾太夫に渡す手土産を買ったようです。
「伊達ぎらい吉原中にただ一人」と言われた高尾太夫。「君はいま駒形あたりほととぎす」は、そのままもう来ないでとの気持ちがあったのかどうか。
<江戸名所百人美女 駒形>(豊国・国久 安政5(1859)年)
こま絵に駒形堂と百助の屋根が見えます。赤い旗がたなびいています。江戸名所百景とほぼ同じ所から描いています。
<絵本隅田川両岸一覧 駒形の夕日栄>(北斎)
江戸名所図会で「戒殺碑」が描かれている場所に、北斎の画でも碑が描かれています。
<東都隅田川両岸一覧 西>(鶴岡)
駒形堂部分の抜粋です。「戒殺碑」が見えます。
多数の猪牙船が見えます。途中下船して買い物している猪牙船でしょうか。
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下落合の庚申塔
○下落合二丁目の庚申塔 新宿区文化財 新宿区下落合2-8-2
下落合氷川神社前の路傍(東山藤稲荷神社や新井薬師梅照院への参詣路)にある庚申塔で、文化13(1816)年に建てられたものです。
形態は駒型で、邪鬼を踏みつけた青面金剛像を主尊とし、邪鬼の下には三猿が刻まれています。
石塔の右側面には「左ぞうしがや道」、左側面には「右ばば下道」と刻まれ、道標も兼ねています。
道標を兼ねた庚申塔は、新宿区内では唯一のものです。
(新宿区サイトの「下落合二丁目の庚申塔」を参照しました。)
下落合氷川神社前の路傍(東山藤稲荷神社や新井薬師梅照院への参詣路)にある庚申塔で、文化13(1816)年に建てられたものです。
形態は駒型で、邪鬼を踏みつけた青面金剛像を主尊とし、邪鬼の下には三猿が刻まれています。
石塔の右側面には「左ぞうしがや道」、左側面には「右ばば下道」と刻まれ、道標も兼ねています。
道標を兼ねた庚申塔は、新宿区内では唯一のものです。
(新宿区サイトの「下落合二丁目の庚申塔」を参照しました。)
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下落合氷川神社
○新宿下落合氷川神社 新宿区下落合2-7-12
HP:https://www.shinjyuku-hikawa.jp/
「江戸時代には氷川明神社といい、旧下落合村の鎮守社である。祭神は稲田姫命一座で女体の宮ともいわれた。
下高田村鎮守の高田氷川神社の祭神が、素戔嗚尊一座で男体の宮と呼ばれたため、合わせて夫婦の宮と呼ばれた。」(「温故知しん!じゅく散歩」より引用)
<江戸名所図会 落合惣図>
「江戸名所図会 落合惣図」では、神田川と妙正寺川の合流点(落合)を中心に描かれています。
神田川に沿って「泰雲寺」「落合」「一枚岩」「田島橋」と記載されています。
絵図の左上に「薬王院」「鼠山」、右上に「氷川(氷川神社)」「富士(東山藤稲荷神社)」と記載。
惣図のほかに「泰雲寺古事」「藤森稲荷社」「一枚岩」「落合蛍」が別に描かれています。
「江戸名所図会 落合惣図」の氷川神社部分を拡大。
<表参道/南参道>
東側が表参道で、新目白通りに面した鳥居は、南参道となります。
表参道
南参道
<御由縁>
「 新宿下落合氷川神社 新宿区下落合二丁目七番十二号
御由緒
当社の御創建は今より二千四百年前、第五代孝昭天皇の御代とも、又更に上古と云われて詳らかではありませんが、蛍の名所として有名だった落合の郷、神田川の守り神として古くから信仰されてきました。豊島区高田氷川神社と夫婦の社と云い伝えられ、江戸期の文献には将軍家の御狩場「御留山」の山裾に広い境内を有していた様子が描かれています。
太平洋戦争末期に戦火に包まれるという憂き目に遭うものの、復興を遂げ昭和二十六年現在の御社殿が再建されました。(以下略)」
<境内社>
境内社の合殿には、三峰社、天祖社、稲荷社、諏訪社、浅間社が合祀されています。
<消防記念碑>
「消防記念碑
陸軍大将大庭二郎書」
<日露戦役記念碑>
「日露戦役記念碑
陸軍大将正三位勲一等功一級子爵川村景明書」
明治43(1910)年5月の建立。裏面に戦没者48名の名が刻まれています。
<狛犬>
慶応元(1865)年6月に地元の氏子が奉納。石工は兜木文蔵。獅子の子落としを表現しています。
<水鉢>
文政7年(1824)9月に地元の氏子が奉納。正面中央に刻まれた三つ巴紋は、近年の追刻とのこと。
<社殿>
社殿は1951(昭和26)年の再建。
HP:https://www.shinjyuku-hikawa.jp/
「江戸時代には氷川明神社といい、旧下落合村の鎮守社である。祭神は稲田姫命一座で女体の宮ともいわれた。
下高田村鎮守の高田氷川神社の祭神が、素戔嗚尊一座で男体の宮と呼ばれたため、合わせて夫婦の宮と呼ばれた。」(「温故知しん!じゅく散歩」より引用)
<江戸名所図会 落合惣図>
「江戸名所図会 落合惣図」では、神田川と妙正寺川の合流点(落合)を中心に描かれています。
神田川に沿って「泰雲寺」「落合」「一枚岩」「田島橋」と記載されています。
絵図の左上に「薬王院」「鼠山」、右上に「氷川(氷川神社)」「富士(東山藤稲荷神社)」と記載。
惣図のほかに「泰雲寺古事」「藤森稲荷社」「一枚岩」「落合蛍」が別に描かれています。
「江戸名所図会 落合惣図」の氷川神社部分を拡大。
<表参道/南参道>
東側が表参道で、新目白通りに面した鳥居は、南参道となります。
表参道
南参道
<御由縁>
「 新宿下落合氷川神社 新宿区下落合二丁目七番十二号
御由緒
当社の御創建は今より二千四百年前、第五代孝昭天皇の御代とも、又更に上古と云われて詳らかではありませんが、蛍の名所として有名だった落合の郷、神田川の守り神として古くから信仰されてきました。豊島区高田氷川神社と夫婦の社と云い伝えられ、江戸期の文献には将軍家の御狩場「御留山」の山裾に広い境内を有していた様子が描かれています。
太平洋戦争末期に戦火に包まれるという憂き目に遭うものの、復興を遂げ昭和二十六年現在の御社殿が再建されました。(以下略)」
<境内社>
境内社の合殿には、三峰社、天祖社、稲荷社、諏訪社、浅間社が合祀されています。
<消防記念碑>
「消防記念碑
陸軍大将大庭二郎書」
<日露戦役記念碑>
「日露戦役記念碑
陸軍大将正三位勲一等功一級子爵川村景明書」
明治43(1910)年5月の建立。裏面に戦没者48名の名が刻まれています。
<狛犬>
慶応元(1865)年6月に地元の氏子が奉納。石工は兜木文蔵。獅子の子落としを表現しています。
<水鉢>
文政7年(1824)9月に地元の氏子が奉納。正面中央に刻まれた三つ巴紋は、近年の追刻とのこと。
<社殿>
社殿は1951(昭和26)年の再建。
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