浦安市郷土博物館

○浦安市郷土博物館 浦安市猫実1-2-7 HP

 財政力指数が全国トップクラスの浦安市だけにあって、入館料無料の豪華な博物館です。経費節減意識なのでしょうか、パンフレットは白黒コピーです。

<館外>

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 「慈愛」(富永直樹)が置かれています。
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<あっさり君>

 博物館のマスコットキャラクター「あっさり君」は、平成14(2002)年に公募により誕生しました。べか舟、ねじりはちまきと、名産のあさりを組み合わせたキャラクターです。

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 来館スタンプも「あっさり君」です。
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<懐かしい古き浦安(富永直樹)>

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<漁師町浦安>

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<浦安の自然>

 無料の博物館に、大きな水槽に東京湾の魚が泳いでいるのには少々驚きました。

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<船の展示室>

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<屋外展示「浦安のまち」>

 昭和27(1952)年ごろの「浦安のまち」を再現しています。

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 チラシ
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「川沿い」
 境川や船圦川がイメージされているようです。

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「うらやすばし」

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「船宿」

 案内所となっておりボランティアスタッフがおられます。

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「たばこ屋(旧本澤家住宅)」大正15(1926)年の建築 浦安市有形文化財

 「昭和二十六年七月一日のたばこ定價表」が掲げられています。

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「漁師の家(旧吉田家貸家住宅)」明治後期頃の建築 浦安市有形文化財

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「とうふ屋」「魚屋」「三軒長屋」(江戸時代末期頃の建築 千葉県有形文化財)と左から並んでいます。

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「魚屋(旧太田家住宅)」明治38(1905)年頃の建築 浦安市有形文化財

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「天ぷら屋天鉄」

 天ぷら屋「天鉄」をモデルに建てられました。
 山本周五郎『青べか物語』に登場しています。山本周五郎も何度も足を運んでいました。
 店内には『青べか物語』に関する展示があります。

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(パネル文)
「作家・山本周五郎
 本名を清水三十六といいます。周五郎の代表作には、『青べか物語』のほか、『樅の木は残った』、『赤ひげ診療譚』などがあります。これらの作品は、広く読まれ、文学的にも高く評価されました。しかし、周五郎は直木賞を辞退したのをはじめ、ほとんどの賞を受けようとせず、執筆活動に努めました。そして、仕事場でその生涯を閉じたのです。
 享年六三歳でした。
 山本周五郎 明治三六年(一九○三)生〜昭和四二年(一九六七)没」

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「風呂屋」

 浦安は漁師町だったこともあり、風呂屋が多かった町でした。

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浦安町漁業記念碑

○浦安町漁業記念碑 浦安市美浜2-15 若潮公園

<浦安市と液状化>
 明治22(1889)年、堀江、猫実、当代島の3村が合併して「浦安村」が誕生しました。明治42(1909)年に浦安町、昭和56(1981)年に浦安市となりました。 海面埋立により美浜、舞浜などが誕生しています。行政面積はかつての4.43平方キロメートルから4倍近い16.98平方キロメートルに広がっています。
 埋立地は、東京湾で浚渫した海砂で埋立てており、井戸水位が浅いこともあり、東日本大震災の際には、浦安市の3/4で深刻な液状化が起きました。埋立て時期により、海砂の不足を山砂で補った埋め立て地もあり、埋立て時の方法により、液状化被害に差があったようです。

<漁業記念碑>
 「猫実」に接する「美浜(みはま)」は、第1期海面埋立事業で昭和46(1971)年8月2日に誕生した埋立地です。若潮公園に、浦安の漁業の歴史を刻んだ浦安町漁業記念碑があります。昭和51(1976)年の落成です。

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 船と貝・魚のオブジェと、銘板「浦安町 漁業記念碑」です。

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 漁業記念碑の裏に、「碑文」と「浦安町漁業記念碑建設委員」の石板があります。

(碑文)
「この浦は四季折々魚介の産豊にして自然の恵み絶ゆることなく伝えられて八百有余年 その漁業盛んなる時漁家千八百戸を数え境川船圦川に漁船溢れ 漁民斉しく潤い町大いに賑い漁業の町浦安の名は青ベカの物語と共に広く天下津々浦々に及びしものなり
 時遷りこの浦も邦家発展子孫繁栄の為国土の一端と変貌す 無為に非ざれど憶いは残り胸熱し ここに碑を建てこの浦を恵みし自然を謝し 幾多先人先輩漁民が営々の私財を顧みず漁業の為に生命を捧げ研鑽努力惜しまざりし偉業を顕彰し 永き水産の歴史と伝統に培われし在りし日の漁業の記念として後世に伝うるものなり。
  昭和五十一年十二月吉日  浦安町長 熊川好生」

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(参考)
 「大森の漁業記念碑」(こちらで記載
 「羽田の漁業碑」(こちらで記載
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庚申塔 おっぱらみ 金魚池跡(浦安市猫実)

○猫実の庚申塔 浦安市猫実4-15-27

 「庚申通り」入口右手に、正徳5(1715)年銘の庚申塔が祀られています。

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 「庚申通り」入口左手には、「庚申堂」があります。

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(説明板)
「猫実の庚申塔 昭和五十七年(一九八二) 市指定有形文化財
 この庚申塔は、正徳五年(一七一五)一月、猫実村の庚申講の信者によって建てられました。青面金剛菩薩を刻んだ庚申塔では、市内で最も古いものです。
 塔の正面には、邪鬼(たたりをする神)を踏みつけておさえている青面金剛菩薩、庚申の干支にちなんで「見ざる」「聞かざる」「言わざる」の三猿が刻まれています。
 庚申信仰は、もともと道教(中国の民間信仰から発達した宗教)の三尸説に始まったものです。三尸説では、六十日に一度の庚申の夜に、人の体内にいる三尸の虫が抜け出し、天の神様にその人が犯してきた罪を告げるのだといわれています。これを聞いた天の神様は、その分だけその人の命を削りとり、早死にさせるので、この虫が抜け出ないよう、信者たちは夜どおし話や会食をして過ごしました。
 ただし、この地域では、庚申の暁に祭礼を行ったというような記録は残っていません。大正時代には、毎月二十五日が祭礼日とされ、現在でもこの日に病気の回復などが祈願されています。かっては、祭礼の日には、お堂の前の道に露店が立ち並び、多くの参拝者でたいへん賑わったといわれています。
 今日でも、先人たちの信仰心が脈々と受け継がれ、この塔は「猫実の庚申様」として、地域の人々に大切されています。
  平成十六年一月 浦安市教育委員会」

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<力石>

 九拾貫と刻まれた力石が据えられています。

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<手水鉢>

 手水鉢は2匹の猿がそれぞれ片手で手水鉢を担いでいます。

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<題目塔>

 「南無妙法蓮華経供養塔」と刻まれた題目塔です。

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<神猿>

 右の猿は扇を持っています。

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<青面金剛供養塔>

 大正2年銘と比較的新しい「青面金剛供養塔」です。

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<庚申塔>

 正徳5(1715)年銘の庚申塔です。

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<地蔵堂>

 弘法大師像と地蔵尊です。

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<三峰神社>

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<弘法大師像と地蔵>

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○境橋 浦安市猫実3-2-12

 境橋の猫実側に説明板「新川」と「おっぱらみ」が設置されています。

 境川上流
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 境川下流
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(説明板)
「境川(さかいがわ)
  昭和三十三年(一九五八)、準用河川として指定
  昭和四十年(一九六五)、一級河川として指定
 境川は、江戸川の支流で、本市の中央を西から東へながれ、東京湾に注いでいます。
 かっての境川は、長さ一・七キロメートルほどの小さな川でしたが、昭和四十年(一九六五)からの海面埋立事業によって、川の長さも三倍の約四・八キロメートルになりました。
 江戸時代には、人々は境川の両岸に密集して民家をたて、北側が猫実村、南側が堀江村として、それぞれ集落を発展させてきました。
 川の水は、昭和二十年代ごろまでは、川底が透けて見えるほど美しかったといいます。人々は、長い間この川の水を飲み水や炊事洗濯などの生活用水として利用してきました。
 また、漁業を生業としていた人々にとって、境川は「海への玄関口」として大切な役割を果していました。かつては、二千艘近くの船がびっしりと係留されており、とってきた魚介類を荷揚げする光景があちらこちらで見られました。
 しかし、昭和四十六年(一九七一)に漁業権が全面放棄されると、それらの船は役目を終えて姿を消していきました。こうして、境川の風景も次第に漁師町の面影を失っていきました。
  平成十六年一月 浦安市教育委員会」

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(説明板)
「おっぱらみ
 ここ境橋附近は、境川のなかで最も川幅が狭いところで、かつては「おっぱらみ」と呼ばれていました。
 「おっぱらみ」という地名が生まれたのは江戸時代で、隣の行徳地域が徳川幕府に保護された塩の生産地だったころのことです。
 塩づくりは、五月から九月にかけて行われます。しかし、入梅時期で雨量が多くなると、江戸川が増水し、淡水が境川を経て海に流れ込むため、行徳地先の海水は塩分が薄くなり、よい塩ができなくなりました。そこで、行徳で塩をつくる人たちは、毎年梅雨どきには、川幅が最も狭いこのあたりを土砂や板を使ってふさいでしまうことを恒例としていました。
 しかし、堀江・猫実の漁師たちは、海への玄関口である境川が通れなくなってしまうので、漁にでることができず大変困っていました。ある年、漁師たちは相談して、このあたりの土砂や板を強引に取り去ってしまいました。これを知った行徳の人たちが大勢おしかけて、再びふさいでしまおうとしたのですが、浦安の漁師たちは、団結してこれを追い払いました。それ以来、行徳の人たちもあきらめたのか、ここがふさがれることはなくなったといわれています。
 この「追い払い」が「おっぱらみ」とかわり、このあたりをあらわす地名になったということです。
  平成十六年一月 浦安市教育委員会」

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○秋山の金魚池跡 浦安市猫実1-2 健康センター前

 昔、金魚を養殖していた大きな池の跡地です。現在は、浦安市郷土博物館(別途記載)、浦安市役所第2庁舎、浦安市健康センターが建っています。

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(説明板)
「金魚池跡
 このあたりは、かつて地域の人々から「秋山の金魚池」と呼ばれていた金魚の養殖場があったところです。三九、六〇〇平方メートル(一二、〇〇〇坪)にも及ぶ大変大きな池でした。
 この池は、はじめは鰻や鯉の養殖場として使われていました。大正十一年(一九二二)、東京市砂町(現在の江東区)で金魚の養殖業を営んでいた秋山古五郎 が買取り、ここで金魚の養殖を始めました。毎年、数十万匹もの金魚がここから全国へと出荷され、「関東一の金魚の養殖場」といわれていました。
 秋山は、金魚の新種開発に大変貢献した人物として知られています。明治の中頃まで、金魚は、和金・流金・蘭鋳・和蘭獅子頭・出目金という五種類しか存在していませんでしたが、秋山の精力的な研究により、「秋錦」「朱文金」「キャリコ」「金襴子」などの新しい金魚が誕生しました。なかでも「秋錦」は、背びれのない丸い体と長い尾をもつ姿が、「水清き秋の池に紅葉をちらした
ような美しさ」であるところからこのように名づけられ、たいへん評判を呼びました。
 しかし、昭和四十年(一九六五)から始まった界面埋立事業で、周辺の都市化が進み、昭和五十八年(一九八三)には、この池も埋立てられました。
 現在は、市の公共施設が建ち並んでいます。
  平成十六年一月 浦安市教育委員会」

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「浦安散策道案内図」

 説明板「金魚池跡」の左に設置されている「浦安散策道案内図」です。

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大蓮寺/久助稲荷(浦安市堀江)

○大蓮寺 浦安市堀江4-14-2

 光縁山勢至院大蓮寺と号します。行徳・浦安観音霊場三十三ヵ所33番です。

<石柱山門>
 石柱山門を入ってすぐ右手に、2枚の説明板が設置されています。

<宇田川六郎兵衛墓>
(説明板)
「宇田川六郎兵衛墓
 宇田川六郎兵衛は、天保四年(一八三三)、堀江村で生まれました。昌平坂学問所(神田湯島にあった江戸幕府直轄の学問所)で学び、その後、自宅に学問所を開き、子どもを教育しながら、剣道も教えていました。
 明治時代に入った頃のことです。魚介類を藩船で日本橋の魚河岸に運ぶ際、中川番所(現在の江東区大島)の検査に時間がかかり、魚介類が腐ってしまうので、人々は困っていました。これを知った六郎兵衛は代官と交渉し、以後堀江村の運搬船は無検査え通れるようになったといわれています。
 他にも、村同士の争いを解決するなお、村民に信頼されていました。
 また、六郎兵衛は漁民の収益増大を図るため、中洲(浜町がし)に「〇宇(まるう)」と称する魚市場を開設し、漁民から感謝されました。
 六郎兵衛は多くの人に信頼され、業績を残しましたが、明治二十六年(一八九三)、六十歳でこの世を去りました。
  平成二十三年三月  浦安市教育委員会」

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 宇田川六郎兵衛墓(子育て地蔵の左横にあります)

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<大塚亮平顕彰碑>
(説明板)
「大塚亮平顕彰碑
 大塚亮平は、嘉永二年(一八四九)、堀江村に生まれました。若い頃から俳句を好み、秋江菴釣月と称していました。明治五年(一八七二)学制が施行されるや翌六年に、浦安で最初の小学校である「堀江小学校」を創設しました。八年には堀江村学校事務掛を努めたほか、戸長や堤防取締を兼務し、また宮内省御用掛、江戸川筋猟場監守など数々の公職も歴任しました。
 また、明治十七年(一八八四)からは、堀江村の漁業組合長、さらに東京湾水産諮問会郡総代を努め、水産界でも活躍しました。
 明治十八年(一八八五)、亮平は村民の生活を豊かにしようと、浦安(「浦安」の名称は明治二十二年から)、葛西、深川などの有志とともに海苔養殖事業を計画し、深川に海苔養殖場を設置するため、東京府に出願しました。当初、人々はこの事業の将来性が理解できず、反対もありましたが、亮平はあきらめずに人々に説得にあたりました。そして、翌十九年には東京府に出願した深川
越中島地先の十万坪のうち、浦安では一万五千坪の使用権を取得しました。
 後に海苔養殖は、浦安の基幹産業になりますが、亮平はこの事業の盛況を見ることなく、明治二十二年(一八八五)に四十一才でこの世を去りました。
 この碑は、多くの分野で貢献した業績を讃え、村民によって、明治二十五年(一八九二)に建てられました。
  平成二十三年三月  浦安市教育委員会」

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 大塚亮平顕彰碑(本堂左横の施錠された扉内にあります)

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<山門>

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<水子地蔵尊>

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<勢至堂>

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<本堂>

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「阿弥陀如来諸菩薩来迎之庭」

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「藥師如来瑠璃光淨土之庭」

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<鐘楼>

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<愛玩動物供養塔>

 馬頭観音が祀られています。紀年は確認できず。

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<札所碑と弘法大師像など>

 「第33番札所碑」や「弘法大師像」などが置かれています。

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<黒門>
 旧福岡藩江戸藩邸移築屋敷門です。

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○久助稲荷 浦安市堀江4-14-2

 個人の名前のついた神社です。

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(説明板)
「久助稲荷
 久助稲荷は、相模国小田原の大蓮寺境内に祀られている福徳稲荷の分身として、天文十三年(一五四四)、堀江村の大蓮寺創建と同時に建られたものといわれています。
 大蓮寺第五代住職頓誉上人には、学誉という弟子がいました。仏門において一心に勉学に励んだ学誉は、後に、芝増上寺の第三十九代法主を務める大僧正になりました。
 ある日のこと、学誉上人の住まいの庭先に、大蓮寺にいたころ仕えていた使用人の久助が立っていました。久助は、大蓮寺の稲荷様が荒れ果ててしまったので復興したいと、学誉上人に頼みにきたのでした。学誉上人は、大蓮寺にいた若いころ、稲荷様に祈願したことを思い出し、久助に改築を約束しました。 学誉上人は、早速京都伏見稲荷へ使者を出し、正一位の神位を受けると、久助との約束を果たすという手紙を添えて、稲荷神社の建設費用を大蓮寺に送りました。
 ところが、久助は二十数年前に亡くなっていたのでした。学誉上人は、稲荷様の身代わりになって現れた久助の志に深く感動し、享保十三年(一七二八)、「久助稲荷」と名前を改め社殿を新築しました。
 毎年五月中旬には、お稲荷様のお祭りが行われています。
  平成二十六(二○一四)七月 浦安市教育委員会」

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宝城院(浦安市堀江)

○宝城院 浦安市堀江4-14-1

 清瀧山宝城院と号します。江戸時代には清滝神社の別当寺院でした。行徳・浦安観音霊場三十三ヵ所第32番です。

<石柱山門>

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<庚申塔/出羽三山供養塔>

 標柱「宝城院庚申塔 昭和四十四年四月十八日指定」

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(説明板)
「千葉県指定有形文化財 宝城院の庚申塔
 この塔は、元文元年(一七三六)十二月、宝城院住職の賢宥法印によって、建立されました。
 庚申信仰は、道教(古代中国で成立した不老長生や現世利益を主な目的とした宗教)の三尸説や日待(近隣の仲間が特定の日に集まって、夜明かしする行事)などが習合した信仰です。三尸説とは、干支の庚申にあたる日の夜に、人の体内にいる三尸の虫が抜け出し、天の神にその人がしてきた罪を告げ、これを聞いた天の神がその分だけその人の命を削りとって早死にさせてしまうという信仰です。信者はこれらをさけるため、夜を寝ずに会食し、話をしながら過ごしました。
 塔の表面中央に、邪鬼を踏みつけておさえている青面金剛菩薩、その下に庚申の干支にちなんだ「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿、青面金剛の左右の童子と雌雄の鶏、さらに下段には四体の夜叉が見事に彫刻されています。
 これほど破損の少ない庚申塔は珍しく、貴重なものであることから、昭和四十四年(一九六九)に千葉県有形文化財に指定されました。
  平成二十一年三月 浦安市教育委員会」

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 「月山湯殿山羽黒供養塔」
 祠内にあり側面や裏面が確認できず紀年は不明です。
 三山の並び順から、江戸時代の建立と思われます。

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<弘法大師1千年御忌供養塔>

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<大師堂>

 四基の大師像が並んでいます。

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<弘法大師像>

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<本堂>

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(説明板)
「おびんずる
 宝城院本堂の左側に、「おびんずる様」と呼ばれ、地域の人々に厚く信仰されている仏像が安置されています。
 「びんずる」とは、お釈迦さまの弟子である十六羅漢のひとり、賓頭盧尊者のことです。
 日本では、本堂の外陣(一般の人が礼拝するところ)にびんずる像が安置され、病人が患部と同じところを撫でて回復を祈願すると、病が治ると信じられており、「撫で仏」ともいわれます。
 宝城院のおびんずる様には、手に宝珠の玉がのせられています。この玉が、信者によって持ち帰られ、願いごとが叶うと元に戻されているということがたびたびあったと伝えられています。
 台座裏の墨書きの文字から、江戸時代後期の文政七年(一八二四)、大仏師西山浄慶・西山清八によって、つくられたものであることがわかります。また、像の背面には、明治三十七年(一九○四)、岡崎善蔵によって修復されたことが記されています。
  平成十六年一月 浦安市教育委員会」

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