綾瀬神社
○綾瀬神社 足立区綾瀬1-34-26
旧伊藤谷村には、氷川社と第六天社(明治以降、胡録神社)の2つの鎮守がありました。両社ともに宝暦5(1755)年の創建といわれています。昭和48(1973)年に胡録神社は氷川神社と合祀します。昭和50(1975)年に新社殿を旧氷川神社境内に建設し、新社名を綾瀬神社としました。
<鳥居/社号標>
<合祀社殿御造営記念碑>
「氷川神社 胡録神社 合祀社殿御造営記念碑」
<保存樹木 いちょう>
(説明板)
「足立区指定第86号 保存樹木 いちょう
綾瀬神社の御神木。この銀杏は氏神さまの象徴として古くから親しまれています。毎年元旦祭の神事では、依代となり地域を見守ります。秋になると沢山の実をつけ、氏子の人たちを楽しませてくれます。」
(平成18年11月撮影)」
<拝殿/本殿>
<境内社>
「稲荷社」
稲荷社は、かつては氷川社の末社でしたが、現在は綾瀬神社の境内にあります。
「三峯社」
三峯社は、かつては第六天社の末社でしたが、現在は綾瀬神社の境内にあります。
旧伊藤谷村には、氷川社と第六天社(明治以降、胡録神社)の2つの鎮守がありました。両社ともに宝暦5(1755)年の創建といわれています。昭和48(1973)年に胡録神社は氷川神社と合祀します。昭和50(1975)年に新社殿を旧氷川神社境内に建設し、新社名を綾瀬神社としました。
<鳥居/社号標>
<合祀社殿御造営記念碑>
「氷川神社 胡録神社 合祀社殿御造営記念碑」
<保存樹木 いちょう>
(説明板)
「足立区指定第86号 保存樹木 いちょう
綾瀬神社の御神木。この銀杏は氏神さまの象徴として古くから親しまれています。毎年元旦祭の神事では、依代となり地域を見守ります。秋になると沢山の実をつけ、氏子の人たちを楽しませてくれます。」
(平成18年11月撮影)」
<拝殿/本殿>
<境内社>
「稲荷社」
稲荷社は、かつては氷川社の末社でしたが、現在は綾瀬神社の境内にあります。
「三峯社」
三峯社は、かつては第六天社の末社でしたが、現在は綾瀬神社の境内にあります。
稲荷山蓮華院観音寺
○稲荷山蓮華院観音寺 足立区綾瀬4-9-6
五兵衛新田を開発した金子五兵衛が開基となり創建されました。 「稲荷社」と称した綾瀬稲荷神社の別当を務めました。
荒川辺八十八ヶ所霊場51番札所、荒綾八十八ヶ所霊場70番札所です。
幕末には新選組の屯所となりました。
(説明板)
「稲荷山蓮華院観音寺
真言宗豊山派の寺院。開山は賢智上人で十七世紀初頭に創建されたと推定される。この地は江戸時代のはじめ頃から開発が進み、五兵衛新田と言われ、その後も同新田の菩提寺として地域とともに歩んできた。のち慶応四年(一八六八)三月には、江戸から退却する新撰組の一隊(当時は甲陽鎮撫隊)が金子家とこの寺院に宿泊。新政府軍も伊藤谷橋まで進出し戦闘が始まろうとしたが、新撰組が流山に撤退したというエピソードを持つ。
開基は開発者の一人で法名を開田院と称した金子五兵衛である。境内に五輪塔形式の墓があり、開発の歴史を今に伝え、金子五兵衛の墓として足立区登録有形文化財となっている。
本尊は十一面観世音菩薩で江戸時代初期の作、境内に大師堂や鐘楼があるほか、荒川辺八十八か所五十一番、荒綾八十八か所七十番札所で、荒川をめぐる地域の巡拝地であった。ほかにも境内に寛文四年(一六六四)の聖観音立像庚申塔があり、足立区登録有形文化財となっている。
令和元年十二月 東京都足立区教育委員会」
<五兵衛新田> 足立区立郷土博物館掲示より抜粋
武蔵国入間郡金子村(現埼玉県入間市)から入植した金子五兵衛が五兵衛新田を開発しました。
<入口>
<本堂>
大正4(1915)年築の本堂が老朽化し、現在の本堂は平成18(2006)年の新築です。
「延命之塔」
<大師堂>
「南無大師遍照金剛」(昭和45(1970)年)
扁額「遍照尊」
「弘法大師一千年忌供養」(天保5(1834)年)
「弘法大師一千百御御遠忌記念塔」(昭和9(1934)年)
<鐘楼>
<報佛恩徳>
「宗祖弘法大師真跡」
平成18(2006)年4月に完成した本堂及び客殿の新築工事の経緯が記されています。
<聖観音立像庚申塔> 足立区文化財
左から、青面金剛懇親塔、聖観音立像庚申塔、墓石と並んでいます。
(説明板)
「聖観音立像庚申塔
庚申塔は庚申信仰をする庚申講の人々によって造立された塔である。
庚申とは十干の庚と十二支の申とが結び付いた六十日に一回巡ってくる日のことを指す。
庚申の日は、人間の体内にいる三尸という虫が睡眠中に体内から抜け出て天帝に罪過を告げるため人間の寿命が縮むという説が中国の道教にあり、これが日本に伝わり信仰された。庚申の夜には眠らずに過ごす守庚申に、札拝本尊や宗教儀札が組込まれた庚申待が室町時代の中頃から行われるようになり、江戸時代に入ると一般にも浸透し各地に庚申講が結成され、供養のための庚申塔が多数造立されるようになった。庚申塔の形態・様式は多様であり、文字塔の他、「青面金剛」・「帝釈天」など種々の神仏を主尊とする。
聖観音は正式には聖観世音著薩といい、すべての観音のみなもととして、古くから深く信仲されている。像型は光背型で像の左右に「寛文四庚辰年(一六六四)極月十五日」・「泰造立庚申供養二世安穏所也」、下部に施主名がある。区内にある江戸期の庚中塔の初期のものにあたるが、様相の整った極めて見事な刻像である。
昭和六十二年(一九八七)十一月、足立区登録有形民俗文化財とした。
令和元年十二月 東京都足立区教育委員会」
(中央)
聖観音立像庚申塔
後背左「寛文四(1664)年極月(12月)」
後背右「奉造立庚申供養二世安穏所也」
(左)
駒型庚申塔
寛政10(1798)年11月の造立。
<六地蔵>
<無縁墓など>
寛文8(1668)年銘の無縁墓
平成元(1989)年の一切精霊菩提
<戦没英霊菩提>
<井戸>
○金子五兵衛の墓 足立区文化財
寛永4年(1627)10月5日に亡くなった金子五兵衛(法名「開田院光月空花居士」)の五輪塔の墓があります。
「寛永四卯年十月五日
開田院光月空花居士
當村興創金子五兵衛」
五兵衛新田を開発した金子五兵衛が開基となり創建されました。 「稲荷社」と称した綾瀬稲荷神社の別当を務めました。
荒川辺八十八ヶ所霊場51番札所、荒綾八十八ヶ所霊場70番札所です。
幕末には新選組の屯所となりました。
(説明板)
「稲荷山蓮華院観音寺
真言宗豊山派の寺院。開山は賢智上人で十七世紀初頭に創建されたと推定される。この地は江戸時代のはじめ頃から開発が進み、五兵衛新田と言われ、その後も同新田の菩提寺として地域とともに歩んできた。のち慶応四年(一八六八)三月には、江戸から退却する新撰組の一隊(当時は甲陽鎮撫隊)が金子家とこの寺院に宿泊。新政府軍も伊藤谷橋まで進出し戦闘が始まろうとしたが、新撰組が流山に撤退したというエピソードを持つ。
開基は開発者の一人で法名を開田院と称した金子五兵衛である。境内に五輪塔形式の墓があり、開発の歴史を今に伝え、金子五兵衛の墓として足立区登録有形文化財となっている。
本尊は十一面観世音菩薩で江戸時代初期の作、境内に大師堂や鐘楼があるほか、荒川辺八十八か所五十一番、荒綾八十八か所七十番札所で、荒川をめぐる地域の巡拝地であった。ほかにも境内に寛文四年(一六六四)の聖観音立像庚申塔があり、足立区登録有形文化財となっている。
令和元年十二月 東京都足立区教育委員会」
<五兵衛新田> 足立区立郷土博物館掲示より抜粋
武蔵国入間郡金子村(現埼玉県入間市)から入植した金子五兵衛が五兵衛新田を開発しました。
<入口>
<本堂>
大正4(1915)年築の本堂が老朽化し、現在の本堂は平成18(2006)年の新築です。
「延命之塔」
<大師堂>
「南無大師遍照金剛」(昭和45(1970)年)
扁額「遍照尊」
「弘法大師一千年忌供養」(天保5(1834)年)
「弘法大師一千百御御遠忌記念塔」(昭和9(1934)年)
<鐘楼>
<報佛恩徳>
「宗祖弘法大師真跡」
平成18(2006)年4月に完成した本堂及び客殿の新築工事の経緯が記されています。
<聖観音立像庚申塔> 足立区文化財
左から、青面金剛懇親塔、聖観音立像庚申塔、墓石と並んでいます。
(説明板)
「聖観音立像庚申塔
庚申塔は庚申信仰をする庚申講の人々によって造立された塔である。
庚申とは十干の庚と十二支の申とが結び付いた六十日に一回巡ってくる日のことを指す。
庚申の日は、人間の体内にいる三尸という虫が睡眠中に体内から抜け出て天帝に罪過を告げるため人間の寿命が縮むという説が中国の道教にあり、これが日本に伝わり信仰された。庚申の夜には眠らずに過ごす守庚申に、札拝本尊や宗教儀札が組込まれた庚申待が室町時代の中頃から行われるようになり、江戸時代に入ると一般にも浸透し各地に庚申講が結成され、供養のための庚申塔が多数造立されるようになった。庚申塔の形態・様式は多様であり、文字塔の他、「青面金剛」・「帝釈天」など種々の神仏を主尊とする。
聖観音は正式には聖観世音著薩といい、すべての観音のみなもととして、古くから深く信仲されている。像型は光背型で像の左右に「寛文四庚辰年(一六六四)極月十五日」・「泰造立庚申供養二世安穏所也」、下部に施主名がある。区内にある江戸期の庚中塔の初期のものにあたるが、様相の整った極めて見事な刻像である。
昭和六十二年(一九八七)十一月、足立区登録有形民俗文化財とした。
令和元年十二月 東京都足立区教育委員会」
(中央)
聖観音立像庚申塔
後背左「寛文四(1664)年極月(12月)」
後背右「奉造立庚申供養二世安穏所也」
(左)
駒型庚申塔
寛政10(1798)年11月の造立。
<六地蔵>
<無縁墓など>
寛文8(1668)年銘の無縁墓
平成元(1989)年の一切精霊菩提
<戦没英霊菩提>
<井戸>
○金子五兵衛の墓 足立区文化財
寛永4年(1627)10月5日に亡くなった金子五兵衛(法名「開田院光月空花居士」)の五輪塔の墓があります。
「寛永四卯年十月五日
開田院光月空花居士
當村興創金子五兵衛」
綾瀬北野神社
○綾瀬北野神社 足立区綾瀬2-23-14
珍しい石祠型庚申塔(足立区文化財)が二基あります。
<北野神社由緒沿革>
<普賢寺新田の鎮守>
北野神社は、河合平内が開発した普賢寺新田の鎮守でした。
<力石>
力石が四基並んでいます。
<撫牛>
つるつるの撫牛がいます。
<稲荷社>
<石祠型庚申塔> 足立区文化財
左が元禄13(1700)年、右が元禄8(1695)年銘の石祠型庚申塔です。木板は右の庚申塔を説明しています。
(説明板)
「石祠型(せきじがた)庚申塔
庚申塔は庚申信仰をする庚中諜の人々によって造立された塔である。
庚申とは、十千の庚と十二支の申とが結び付いた六十日に一回巡ってくる日や年のことを指す。
庚申の日には、人間の体内にいる三戸という虫が睡眠中に抜け出て天帝に罪過を告げるため寿命が縮むという説が中国の道教にあり、これが日本に伝わり信仰された。庚申の夜には眠らずに過ごす守庚申に、礼拝本尊や宗教儀礼が組み込まれた庚申待が室町時代の中頃から行われるようになり、江戸時代に入ると一般的にも浸透し、各地に庚申講が結成され、供養のための庚申塔が多数造立されるようになった。庚申塔の形態、様式は多様であり、形態は一般に笠付型、駒型、舟型などいくつかに分類することができる。
この庚申塔は石祀型といわれ、社殿の形を模したものである。右は元禄八年(一六九五)、左は同十三年(一七○○)の造立で、それぞれ「奉造立石之宮殿第六天村中庚申供養」、「庚申供養奉造立石宝殿一宇二世安薬処」とある。石祀型庚申塔は東京都内では類例を見ない珍しいものである。
昭和六十二年十一月、足立区有形民俗文化財に登録された。
平成七年三月 東京都足立区教育委員会」
<社殿>
珍しい石祠型庚申塔(足立区文化財)が二基あります。
<北野神社由緒沿革>
<普賢寺新田の鎮守>
北野神社は、河合平内が開発した普賢寺新田の鎮守でした。
<力石>
力石が四基並んでいます。
<撫牛>
つるつるの撫牛がいます。
<稲荷社>
<石祠型庚申塔> 足立区文化財
左が元禄13(1700)年、右が元禄8(1695)年銘の石祠型庚申塔です。木板は右の庚申塔を説明しています。
(説明板)
「石祠型(せきじがた)庚申塔
庚申塔は庚申信仰をする庚中諜の人々によって造立された塔である。
庚申とは、十千の庚と十二支の申とが結び付いた六十日に一回巡ってくる日や年のことを指す。
庚申の日には、人間の体内にいる三戸という虫が睡眠中に抜け出て天帝に罪過を告げるため寿命が縮むという説が中国の道教にあり、これが日本に伝わり信仰された。庚申の夜には眠らずに過ごす守庚申に、礼拝本尊や宗教儀礼が組み込まれた庚申待が室町時代の中頃から行われるようになり、江戸時代に入ると一般的にも浸透し、各地に庚申講が結成され、供養のための庚申塔が多数造立されるようになった。庚申塔の形態、様式は多様であり、形態は一般に笠付型、駒型、舟型などいくつかに分類することができる。
この庚申塔は石祀型といわれ、社殿の形を模したものである。右は元禄八年(一六九五)、左は同十三年(一七○○)の造立で、それぞれ「奉造立石之宮殿第六天村中庚申供養」、「庚申供養奉造立石宝殿一宇二世安薬処」とある。石祀型庚申塔は東京都内では類例を見ない珍しいものである。
昭和六十二年十一月、足立区有形民俗文化財に登録された。
平成七年三月 東京都足立区教育委員会」
<社殿>
綾瀬稲荷神社(富士塚)
〇綾瀬稲荷神社 足立区綾瀬4-9-9 HP
金子五兵衛が開発した五兵衛新田の鎮守として、慶長19(1614)年に創建され、稲荷社と呼ばれました(別当は観音寺)。明治7(1874)年に五兵衛神社に改称、昭和42(1967)年に現在の綾瀬稲荷神社に改称しました。
<五兵衛新田>
武蔵国入間郡金子村(現埼玉県入間市)から入植した金子五兵衛が五兵衛新田を開発しました。
<一の鳥居/社号標>
鳥居は西向きに立っています。京都の「伏見稲荷大社」の方角を向いて創建されています。
<手水舎>
<二の鳥居>
文化7(1810)年建立の鳥居です。
<神楽殿>
<社務所>
<狛犬>
<落語狛犬>
平成12(2000)年、落語家・三遊亭圓丈氏(2021年11月逝去)によって奉納された落語狛犬です。
座布団に座り、扇子、手拭と茶托が置かれています。狛犬の背中には小さく「くずし橘」の家紋が入っていて、尾が扇の形をしています。お客さんの反応を聞くため耳が開いています。
<拝殿/本殿>
拝殿は昭和57(1982)年の造営で、覆屋の中に天保14(1843)年の本殿があります。
<燈籠型庚申塔> 足立区文化財
本殿の後ろから見ると、わずかに安永8(1779)年銘の燈籠型庚申塔が見えます。
<御神木>
<三峯神社>
一之鳥居をくぐってすぐ左手に「三峯神社」があります。
脇に石塔が三基あります。
<弁天社>
<慰霊之碑>
昭和29(1954)年建立の「慰霊之碑」があります。
<富士塚> 足立区文化財
昭和2(1927)年に築造(移築)の富士塚です。山頂に「浅間大神」の石祠があります。。
(説明板)
「綾瀬稲荷神社富士塚
この富士塚は、「綾瀬富士」または「五兵衛富士」と呼称され、山容が秀麗であると紹介されることがつとに多い。築造年は、昭和二年。富士北麓からボク石(溶岩塊)を西新井駅まで貨車で輸送し、さらに馬車で運び入れて築山した。現在の山高は、約三・五メートル。御頂上には御頂上には浅間社(昭和五十二年再造)が奉斎され、山中には烏帽子岩や小御嶽も祀り、山麓には、胎内窟
がある。所謂富士塚築造の五大要素を完備Lた正統な富士塚である。昭和三十六年・昭和五十二年・平成二十六年に修築・拡張整備工事を施し、今仰ぎ見上げる御山となっている。
富士塚を築造したのは、麻布の包市郎兵衛が興した、山包講の枝講である「山包丸渕講」で、現、山包綾?講。綾?地域の古称に由来する講名で、講紋は包の字を丸で囲んだり、山の字を丸で囲んだ紋を使用する。講名は戦後、山包・五兵衛町講を経て現講名になった。山包の元講は、後年麻布から浅草橋に本拠を移し、更に、元講の証である、富士講箪笥(三十一日之巻を始め、御三幅など講祭具一式を収納。文政十年<1837>製)が丸渕講に移讓されて同講が元講となった。現在では二十三区内唯 一の山包講だが、千葉県の市原・館山には多く残る。
富士塚と祭具一式は、江戸時代の富士講信仰を伝えるものとして貴重であり、それぞれ足立区登録有形民俗文化財となっている。
令和三年三月 東京都足立区教育委員会」
<出羽三山供養塔>
出羽三山供養塔「月山 湯殿山 羽黒山 供養塔」がありました。紀年が読みとれませんが、湯殿山が中央にあるので、江戸時代の造立と思われます。
十条富士神社や西之宮稲荷神社、安養寺の各富士塚にも出羽三山供養塔がありました。富士信仰と出羽三山信仰が両立している地域もあったことが伺えます。
金子五兵衛が開発した五兵衛新田の鎮守として、慶長19(1614)年に創建され、稲荷社と呼ばれました(別当は観音寺)。明治7(1874)年に五兵衛神社に改称、昭和42(1967)年に現在の綾瀬稲荷神社に改称しました。
<五兵衛新田>
武蔵国入間郡金子村(現埼玉県入間市)から入植した金子五兵衛が五兵衛新田を開発しました。
<一の鳥居/社号標>
鳥居は西向きに立っています。京都の「伏見稲荷大社」の方角を向いて創建されています。
<手水舎>
<二の鳥居>
文化7(1810)年建立の鳥居です。
<神楽殿>
<社務所>
<狛犬>
<落語狛犬>
平成12(2000)年、落語家・三遊亭圓丈氏(2021年11月逝去)によって奉納された落語狛犬です。
座布団に座り、扇子、手拭と茶托が置かれています。狛犬の背中には小さく「くずし橘」の家紋が入っていて、尾が扇の形をしています。お客さんの反応を聞くため耳が開いています。
<拝殿/本殿>
拝殿は昭和57(1982)年の造営で、覆屋の中に天保14(1843)年の本殿があります。
<燈籠型庚申塔> 足立区文化財
本殿の後ろから見ると、わずかに安永8(1779)年銘の燈籠型庚申塔が見えます。
<御神木>
<三峯神社>
一之鳥居をくぐってすぐ左手に「三峯神社」があります。
脇に石塔が三基あります。
<弁天社>
<慰霊之碑>
昭和29(1954)年建立の「慰霊之碑」があります。
<富士塚> 足立区文化財
昭和2(1927)年に築造(移築)の富士塚です。山頂に「浅間大神」の石祠があります。。
(説明板)
「綾瀬稲荷神社富士塚
この富士塚は、「綾瀬富士」または「五兵衛富士」と呼称され、山容が秀麗であると紹介されることがつとに多い。築造年は、昭和二年。富士北麓からボク石(溶岩塊)を西新井駅まで貨車で輸送し、さらに馬車で運び入れて築山した。現在の山高は、約三・五メートル。御頂上には御頂上には浅間社(昭和五十二年再造)が奉斎され、山中には烏帽子岩や小御嶽も祀り、山麓には、胎内窟
がある。所謂富士塚築造の五大要素を完備Lた正統な富士塚である。昭和三十六年・昭和五十二年・平成二十六年に修築・拡張整備工事を施し、今仰ぎ見上げる御山となっている。
富士塚を築造したのは、麻布の包市郎兵衛が興した、山包講の枝講である「山包丸渕講」で、現、山包綾?講。綾?地域の古称に由来する講名で、講紋は包の字を丸で囲んだり、山の字を丸で囲んだ紋を使用する。講名は戦後、山包・五兵衛町講を経て現講名になった。山包の元講は、後年麻布から浅草橋に本拠を移し、更に、元講の証である、富士講箪笥(三十一日之巻を始め、御三幅など講祭具一式を収納。文政十年<1837>製)が丸渕講に移讓されて同講が元講となった。現在では二十三区内唯 一の山包講だが、千葉県の市原・館山には多く残る。
富士塚と祭具一式は、江戸時代の富士講信仰を伝えるものとして貴重であり、それぞれ足立区登録有形民俗文化財となっている。
令和三年三月 東京都足立区教育委員会」
<出羽三山供養塔>
出羽三山供養塔「月山 湯殿山 羽黒山 供養塔」がありました。紀年が読みとれませんが、湯殿山が中央にあるので、江戸時代の造立と思われます。
十条富士神社や西之宮稲荷神社、安養寺の各富士塚にも出羽三山供養塔がありました。富士信仰と出羽三山信仰が両立している地域もあったことが伺えます。
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