久保田万太郎生誕の地

○久保田万太郎生誕の地 台東区雷門1-15-12

 雷門通りに面した角地に「久保田万太郎生誕の地」碑があります。
 昭和52(1977)年8月、地元有志にて建立されました。題字は、内山栄一台東区長です。

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(碑文)
「久保田万太郎生誕の地
 ふるさとの 月のつゆけさ 仰ぎけり
 久保田万太郎は明治二十二年十一月七日此地に生まれ 市立浅草尋常小学校へ入学 府立三中に学び大正三年慶應義塾大学文科を卒業し 十月月移転する迄の二十六年間在住した
 昭和三十八年五月六日永眠するまでの明治 大正 昭和の三代に亘り 常に下町の義理と人情を描写した小説 戯曲の作品多く 其他文学 演劇界に多大の功績を残した作家であった 此の生誕の地に有志相はかり句碑を建立して永遠に久保田文学を讃えたい
  昭和五十二年八月吉日 建立」

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(碑陰)
 発起人が記されています。

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(説明板)
「記
 久保田万太郎の生家近くに昭和五十二年八月建つ。内山栄一区長の題字と「九月二十六日、十五夜、たま々浅草にあり」として昭和二十五年作、二十七年『冬三日月』に収録されて居る句を碑に刻す。
 浅草にて  万
 ふるさとの 月のつゆけさ 仰ぎけり
  久保田万太郎先生生誕の地碑建立委員会」

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(江戸料理櫻田説明板)
「パワースポット
 久保田万太郎 生誕の地
 大正・昭和時代に文学、演劇、演芸に多大な功績を残した久保田万太郎。
 この場所はそんな万太郎の生誕の地であり、文学や芸能を志す人々からパワースポットとして話題を呼んでいます。
 また、櫻田店内に竹久夢二が描いた絵に万太郎の俳句を添えた書がございます。
 ご遠慮なくご覧ください。
  江戸料理 櫻田」

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「久保田万太郎肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
  明治22(1889)年11月7日〜昭和38(1963)年5月6日

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<久保田万太郎ゆかりの地>
 ○ 句碑「ふるさとの月のつゆけき仰ぎけり」(久保田万太郎生誕の地)  本頁
 ○ 句碑「神輿まつまのどぜう汁すゝりけり」(駒形どぜう)
 ○ 句碑「竹馬やいろはにほへとちりちりに」(浅草神社)
 ○ 句碑「浅草の茶の木ばたけの雪解かな」(浅草新奥山)
 ○ 幇間塚碑「またの名のたぬきづか春深きかな」(鎮護堂)
 ○ 句碑「天狗坂夕木枯のおもいでに」(待乳山聖天)
 ○ 句碑「この里におぼろふたたび濃きならん」(吉原神社)
 ○ 句碑「しぐるゝや大講堂の赤れんが」(慶應義塾大学)
 ○ 泉鏡華筆塚(久保田万太郎らが建立) (湯島天満宮)
 ○ 日本橋魚市場発祥の地記念碑(撰文)(日本橋魚市場跡)
 ○ 長命寺桜餅
   「船つけて買ひにあがるや桜餅」
   「桜もち籠を流せば鴎かな」
   「とりわくるときの香もこそ桜餅」
   「葉の濡れてゐるいとしさや桜餅」
   「桜餅うき世にみれんあればかな」

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tag : 久保田万太郎

諏訪神社(駒形)

○諏訪神社 台東区駒形1-4-15

 一帯は、江戸を代表する神社の森の一つ「宮戸森」があり、道灌七稲荷の「宮戸森稲荷」関連としても知られています。
 かつて諏訪神社の周辺は、神社に因んで浅草諏訪町と呼ばれていました。昭和9(1934)年に駒形に編入されています。現在は、奥州街道に面した小さな社です。

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「江戸名所図会 三島明神社 諏訪明神社」

 大きな鳥居が奥州街道にはみ出して建っています。鳥居の中央には賽銭箱が置かれています。左手に街道に面して井戸が見えます。

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「江戸切絵図」

 「諏訪社」が記されています。

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<由緒>

「諏訪神社
 当社の創祀は定かではありませんが口碑に依りますと承久の乱のあと信濃国諏訪郡に住んでいたある神主が諏訪大社の神霊を当地に奉斎したのに始まると云われております。
 諏訪の信仰が東国に広まるのは鎌倉時代中頃と云われ当時諏訪大社は鎌倉幕府より箱根権現や伊豆山権現三島大社と共に特別の尊崇を受けていたのです。それは諏訪大社の大祝家が源頼朝の旗上げに最初から協力し祈祷の効を積んだからである。従がって頼朝も諏訪大社を武家守護之神として崇敬したのです。又後白河法皇の染塵秘抄にも関より東の軍神として鹿島大社、香取大社を挙げ三番目に諏訪大社を記しています。
 その後幕府の執権となった北条氏は信濃国の守護職となり、諏訪郡を得宗領とし諏訪大社の神主を得宗被官としたのです。こうした北条得宗家の支援によって諏訪大社の御分社を奉斎すると共に支配する所領地にも御分社を奉斎し神主を招き神事を執行してきたと云われています。当社に残されています社史には当社は天正年間神職が数代に亘って奉仕してきた事が伝えられており諏訪大社と同じ諏訪梶の御神紋を使用し風祭りの神事が行われていた事が分っています。
 江戸時代に入ると浅草寺との関係が生まれその寺領内に当社が鎮座しており浅草寺の十二衆徒の一院である修善院が別当となり当社をお守りしてきました。尚当地は現在駒形となっていますが江戸時代以来諏訪町と呼ばれてきたのです。再訂江戸鹿子には近年度々の回禄によりて社頭は形の如くなれども神徳は社の捐凶によらず唯霊験の灼をもって崇め祀とぞと記されています。」


<御神紋>

 御神紋は「諏訪大社」と同じ諏訪梶です。

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<手水舎>

 手水舎に授与品が掲げられています。

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<稲荷社>

 稲荷社の後ろに石祠があり、右側面に「安永九子三月吉日」(1780年)と刻まれています。正面は稲荷社の陰となっていて確認できず。

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<社殿/狛犬>

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<社務所>

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tag : 江戸名所図会太田道灌

隅田川テラス(厩橋~駒形橋)

○隅田川テラス(厩橋~駒形橋) 台東区駒形2丁目

 厩橋から上流の駒形橋に向かいます。

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<うまやの渡し跡>

 説明板「うまやの渡し跡」があります。実際の渡し場は、厩橋の上流ではなく、下流にありました。

(説明板)
 「うまやの渡し跡
  江戸時代は幕府の政策により橋の数が少なく、かわりに各所に「渡し舟」がありました。
  ここには「うまやの渡し」があり多くの人々を渡しました
  春のお花見の頃は「墨堤の桜」を見に行く多くの人々が利用しました。」

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「名所江戸百景 御厩河岸」(広重)

 向岸に見えるのは「石原橋」(現存せず)です。現在の横網2丁目12番地にかつてあった入堀に架かっていました。
 船上の二人は夜鷹(私娼)で、濃い化粧で表現されています。夜鷹は、黒の着付けで白木綿の手拭いをかぷり、端を口にくわえ吹きさらしにする姿が定形でした。
 横に控える男は妓夫(ぎゅう)(客引き、用心棒)で、牛、牛夫とも書き、牛太郎とも呼ばれました。
 夜鷹は石原橋奥の本所吉田町の裏長屋に住み、隅田川を越えて商売をしていました。

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<看板「東京で一番美しく隅田川・スカイツリー・屋形船がみえる処」>

 夜景が映えそうです。

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<隅田川テラス案内図>

 駒形橋が面前に見えてきました。隅田川テラス案内図には「駒形橋」と「駒形堂」の説明があります。

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○駒形橋 台東区雷門2丁目・駒形2丁目~墨田区東駒形1丁目・吾妻橋1丁目

<御柱>

 安達裕氏作のオブジェ「御柱」が駒形橋西詰にあります。
 「昭和62年度 東京都文化のデザイン事業
  御柱
  制作 安達裕」

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<駒形橋石碑>

 正面:「駒形堂付近のながめ 名所江戸百景より」
    「名所江戸百景 駒形堂吾嬬橋」
 左面:「江戸名所図会より」
    「江戸名所図会 駒形堂 清水稲荷」
 裏面:「駒形堂付近のながめ 名所江戸百景より」
    「名所江戸百景 駒形堂吾嬬橋」
 右面:「江戸名所図会より」
    「江戸名所図会 駒形堂 清水稲荷」

(碑文)
「駒形(こまかた)の名は、浅草寺に属する駒形堂に由来する。土地の人々によれば、コマカタは清く発音して、コマガタと濁らないと伝えている。
 ここは古来、交通の要地で、”駒形の渡し”のあったところである。
 江戸の巷説に有名な、
  君はいま 駒形あたり ほととぎす
 の句は、文芸・美術などの上で、駒形堂とともに、この辺りの雰囲気を伝えるものである。
 関東大震災(一九二三年)の後、復興事業の一環として、この地に新しく、優美なアーチ橋が設計され、昭和二年(一九二七年)に完成した。
 歌人、正岡子規の和歌にも、
  浅草の林もわかず 暮れそめて
   三日月低し 駒形の上に
というのがあり、当時の景況がしのばれる。
  昭和五十八年三月 東京都」

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「名所江戸百景 駒形堂吾嬬橋」

 石碑にはめ込まれている錦絵です。
 左下に駒形堂と吾妻橋が見えます。秩父山中で切出した材木は、筏船に仕立て駒形で荷揚げされました。材木が描かれています。
 上空にはホトトギスが舞っています。竹棹の先に赤い旗が掲げられており、小間物屋「百助」の目印です。(「百助化粧品店」浅草2丁目に移転)
 吉原遊客は、猪牙船を一旦降り、ここで手土産を買いました。仙台藩主綱宗も、こちらで高尾太夫に渡す手土産を買ったようです。
 「伊達ぎらい吉原中にただ一人」と言われた高尾太夫。「君はいま駒形あたりほととぎす」は、そのままもう来ないでとの気持ちがあったのかどうか。

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「江戸名所図会 駒形堂 清水稲荷」

 石碑にはめ込まれている江戸名所図会です。

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※駒形堂については、こちらで記載済です。

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tag : 江戸名所図会歌川広重高尾太夫隅田川

浅草寺駒形堂

浅草寺駒形堂 台東区雷門2-2-3

 駒形堂は、浅草寺発祥の霊地に建つお堂です。

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<駒形堂 台東区教育委員会>

(説明板)
「 駒形堂  台東区雷門二丁目二番二号
 『浅草寺縁起』によると、創建年代は朱雀天皇の天慶五年(九四二)で、建立者は安房守平公雅。名称由来には、
 ①隅田川を舟で通りながらこの堂を見ると、まるで白駒が馳けているようなので、「駒馳け」の転訛。(『江戸名所図会』)
 ②観音様へ寄進する絵馬を掛けたので「駒掛け堂」と呼んだのが訛る。(『燕石雑誌』)
 ③駒形神を相州箱根山から勧請したのにちなむ。(『大日本地名辞典』)
これらの説がある。本尊は馬頭観世音菩薩。
 葛飾北斎・安藤広重らによって、堂は絵に描かれた。小さくとも江戸で名高い堂だった。当時の堂の位置は現駒形橋西詰道路中央付近。堂は関東大震災で焼けた。
  平成四年十一月  台東区教育委員会」

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<駒形堂 浅草寺>

(説明板)
「ご本尊ご示現の聖地 駒形堂
 駒形堂は、浅草寺ご本尊の聖観世音菩薩さまが、およそ千四百年前、隅田川よりご示現なされ、はじめて奉安された地に建つお堂。
 昔、この辺りは船着き場で、渡しや船宿もあり大変な賑わいをみせ、船で浅草寺参詣に訪れた人々は、まずこの地に上陸して駒形堂をお参りして、観音堂へと向った。
 このお堂のご本尊さまは馬頭観音様で、今も昔も、この地を行き交う人々をお守り下さっている。
 現在のお堂は平成十五年に再建されたもの。今もこの地はご本尊ご示現の聖地として、人々の篤い信仰に支えられ、毎月の十九日の馬頭観音さまのご縁日には、多くの参詣者で賑わう。
 馬頭観音さまのご真言・・・「おん あみりとどはばうんはった」
  金龍山 浅草寺」

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<浅草観音戒殺碑> 東京都文化財

 東京都の石標柱「浅草観音戒殺碑」が境内右手にあり、「浅草観音戒殺碑」は、境内左手にあります。
 魚類の殺生を禁じた「戒殺碑」です。元禄6(1693)年3月の建立です。隅田川の南は諏訪町より、北は聖天町までの漁を禁じました。右隣には「紀元二千六百年記念碑」があります。

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(説明板)
「東京都指定有形文化財(古文書)
 浅草観音戒殺碑
   所在地 台東区雷門ニーニー三
   指 定 大正一一年六月
 駒形堂は浅草寺の伽藍の一つで、浅草寺本尊の聖観世音菩薩が隅田川から発見された霊地である。このため元禄五年(一六九二)、当地を魚鳥殺生禁断の地とする法度が出された。これを記念して、翌年(元禄六年)浅草寺第四世権僧正宣存が願主となり、戒殺碑が建てられた。殺生禁断の範囲は駒形堂を中心に、南は諏訪町より北は聖天岸に至る十町余の川筋だった。『御府内備考』によると、諏訪町・聖天町にも高札が建てられたという。
 戒殺碑が建てられた駒形堂の堂宇は、江戸時代に何度か焼失している。戒殺碑も倒壊し、宝暦九年(一七五九)に堂宇とともに再建された。現在の碑は関東大震災後の昭和二年(一九二七)に土中より発見され、同八年の駒形堂再建と同時に修補されたものである。元禄当初の碑か、宝暦再建のものか定かでない。
 碑身は石造(安山岩)で、長方形円頭板状。正面及び両側面を研磨し、背面は野面のままである。台石は昭和八年修補時もので、上面・正面・両側面・背面の五面を研磨してある。総高一八三・五cm、正面幅六一cm。銘文は『浅草寺誌』や『江戸名所図会』にも収載される。元禄期当時の信仰及びその周辺の状況を明らかにする貴重な資料である。
  平成二三年三月 建設  東京都教育委員会」

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<江戸名所図会 駒形堂 清水稲荷>

 「此碑では江をあはれまぬ蛍かな 其角」 とあります。其角の「生類憐れみの令」への嘆きの句であるといいます。駒形堂部分を拡大すると、石垣の下に「戒殺碑」が描かれています。

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<名所江戸百景 駒形堂吾嬬橋>(広重)

 左下に駒形堂と吾妻橋が見えます。秩父山中で切出した材木は、筏船に仕立て駒形で荷揚げされました。材木が描かれています。
 上空にはホトトギスが舞っています。
 竹棹の先に赤い旗が掲げられており、小間物屋「百助」の目印です(「百助化粧品店」浅草2丁目に移転)。吉原遊客は、猪牙船を一旦降り、ここで手土産を買いました。仙台藩主綱宗も、こちらで高尾太夫に渡す手土産を買ったようです。
 「伊達ぎらい吉原中にただ一人」と言われた高尾太夫。「君はいま駒形あたりほととぎす」は、そのままもう来ないでとの気持ちがあったのかどうか。

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<江戸名所百人美女 駒形>(豊国・国久 安政5(1859)年)

 こま絵に駒形堂と百助の屋根が見えます。赤い旗がたなびいています。江戸名所百景とほぼ同じ所から描いています。

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<絵本隅田川両岸一覧 駒形の夕日栄>(北斎)

 江戸名所図会で「戒殺碑」が描かれている場所に、北斎の画でも碑が描かれています。

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<東都隅田川両岸一覧 西>(鶴岡)

 駒形堂部分の抜粋です。「戒殺碑」が見えます。
 多数の猪牙船が見えます。途中下船して買い物している猪牙船でしょうか。

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tag : 江戸名所図会歌川広重葛飾北斎其角江戸名所百人美女高尾太夫

バンダイ/久保田万太郎句碑/君はいま駒形

〇バンダイキャラクターストリート 台東区駒形1-4-8

 バンダイ本社ビル横に並ぶキャラクター達の道です。
 写真撮影する子連れの外国の方々を見かけます。観光ガイドブック等に掲載されているのでしょうね。
 お向かいは駒形どぜう本店。

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〇久保田万太郎句碑  台東区駒形1-7-13駒形どぜう

「神輿まつまのどぜう汁すゝりけり」

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「久保田万太郎先生は市井のひとを愛し、とくに、またふるさとをおなじくする浅草ッ子を愛した。ここに駒形どぜう 越後谷 五代 助七 その生前の厚誼をしのんで、先生をしたう情は、まことに涙ぐましいものがあるが、昭和四十一年初夏、この句にゆかりの三社祭の吉日に当たって駒形どぜうの店の前に、いま、先生の句碑を立てる。旧称田原町三丁目なる先生の生家にもっともちかくこの句碑を立てられたことは、さだめし先生もよろこばれていることと思われる。ここにつつしんでこれをしるす者は、おなじく浅草ッ子のひとり。
  昭和四十一年五月十七日  安藤鶴夫」

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(参考)久保田万太郎まとめ


○駒形橋説明碑 台東区駒形2-1

「君はいま駒形あたりほととぎす」(高尾太夫)
「浅草の林もわかず 暮れそめて 三日月低し 駒形の上に」(正岡子規)

<駒形橋西詰にある駒形橋説明碑(東京都)>
(碑文)
「駒形(こまかた)の名は、浅草寺に属する駒形堂に由来する。土地の人々によれば、コマカタは清く発音して、コマガタと濁らないと伝えている。
 ここは古来、交通の要地で、”駒形の渡し”のあったところである。
 江戸の巷説に有名な、
  君はいま 駒形あたり ほととぎす
 の句は、文芸・美術などの上で、駒形堂とともに、この辺りの雰囲気を伝えるものである。
 関東大震災(一九二三年)の後、復興事業の一環として、この地に新しく、優美なアーチ橋が設計され、昭和二年(一九二七年)に完成した。
 歌人、正岡子規の和歌にも、
  浅草の林もわかず 暮れそめて
   三日月低し 駒形の上に
というのがあり、当時の景況がしのばれる。
  昭和五十八年三月 東京都」

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<駒形橋ポケットパーク側> 台東区雷門2-1-1

 雷門側の親柱からはスカイツリーが良く見えます。夜景が映えます。

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tag : 久保田万太郎正岡子規銅像高尾太夫隅田川

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