護持院ケ原 町名由来「神田錦町」 不二ラテックス本社


○護持院ケ原

 五代将軍綱吉は、現在の神田錦町、一ツ橋一帯に広大な密教の大寺院「筑波山護持院元禄寺」を建立しました。護持院が享保2(1717)年正月の大火で焼失した跡地が「火除地」となり、護持院ケ原と呼ばれました。

「江戸名所図会 護持院原」
 広大な火除地が描かれています。

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「絵本江戸土産 護持院原」(広重)
 挿絵には「護持院原 むかし元禄年中この地に護持院といへる大伽藍あり真言宗和州長谷の一派なりとぞ実に東国武双の大地なりしがその頃音羽町の北に徒されその跡なる
が故にかく呼ぶとぞ」とあります。

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「江戸切絵図」
 護持院原部分の抜粋です。広大な「御火除地」が見えます。

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○護持院原跡碑 千代田区神田錦町3-3 錦三会児童遊園
 錦三会児童遊園に「ごじんがはら跡」碑があります。

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 「ごじいんがはら跡」

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 「錦三会子供遊び場」
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 「昭和二十四年五月三日」
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 「よい子 強い子 役立つ子」
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 「よい子 強い子 役立つ子」
 「昭和三十一年江戸築城五百年を記念し建之」

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 「安田のおじいちゃんの木(安田規工次氏)」

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 「不詳」
  紋が刻まれているので、江戸城の石垣石の一部でしょうか?

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○町名由来板「神田錦町三丁目(錦町三丁目町会)」 千代田区神田錦町3-3

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(説明板)
「千代田区町名由来板 神田錦町三丁目
 江戸時代、この界隈は武家地で、「錦小路」と呼ばれていました。一色という名の旗本の家が二軒あったことから「二色小路」、そしていつのころからか「錦」の字に置きかわり「錦小路」となったわけです。そのほか、京都にある錦小路にあやかったとも、この地にあった護持院に、錦のように美しい虫を祀った弁財天堂があったためとも言い伝えられています。
 護持院は、もともと真言宗筑波山中禅寺知足院の別院として、紺屋町にあった寺でした。当時、住職をつとめていた隆光は、五代将軍徳川綱吉の絶大な信任をうけ、貞享年間(一六八四〜一六八八)に、現在の神田錦町から一ツ橋にかけての広大な地を与えられ、さらに元禄九年(一六九六)には、護持院という称号が贈られています。
 ところが享保二年(一七一七)、大火によって護持院は跡形もなく焼けてしまいます。江戸城のすぐ北で燃えさかった火事に、幕府関係者はよほど肝をひやしたのでしょう。護持院はここに再建することを許されず、大塚の護国寺(現・文京区)へと移されます。護持院と周辺の武家屋敷の跡地は火除地(延焼防止の空き地)とされ、「護持院原」と呼ばれるようになりました。当初、将軍
の鷹狩などがおこなわれていましたが、その後、散策路として町人たちにも開放されました。
 神田錦町三丁目の町名が正式に生まれたのは、明治五年(一八七二)のことです。明治時代になると、この広い土地を利用して大学などの教育機関が立ち並ぶようになります。幕府の開成所の流れをくむ開成学校や東京外国語学校(のちの東京外国語大学)、学習院がこの地にありました。
 明治四十四年(一九一一)、いったん錦町三丁目と変わりますが、昭和二十二年(一九四七)にはふたたび神田錦町三丁目となり、現在に至っています。 錦町三丁目町会」

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○不二ラテックス本社ビル 千代田区神田錦町3-19-1

 護持院原跡(三番明地)に建っている「不二ラテックス本社ビル」です。同社の製品がビルのオブジェとなっています。

 大手町川端緑道から
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 平川門交差点から
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 パレスサイドビル屋上から
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 本社前から
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【神田錦町二丁目】
○電機学校発祥の地 千代田区神田錦町2-2-1
 令和2(2020)年にオープンした「神田スクエア」に、「電機学校発祥の地」と「東京電機大学」の石碑が並んでいます。

(碑文)
 「電機学校発祥の地
  1907年9月11日 電機学校この地に設立さる
  幾多の有為なる人材を世に送り その使命を今
  東京電機大学に託す」
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(碑陰)
 「歴代東京電機大学電機学校長
  (旧名 電機学校)
  (以下略)」
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○豊川稲荷神社 千代田区神田錦町2-2-8

 神田スクエア敷地内に鎮座する豊川稲荷神社です。

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○町名由来板「神田錦町二丁目」 千代田区神田錦町2-2

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(説明板)
「町名由来板 神田錦町二丁目
 江戸時代、この界隈は、武家屋敷が軒を連ねる地域でした。当時の武家地には町名がなく、かわりに「錦小路」という通称で呼ばれていました。もともとは「二色小路」という字を当てていたとされるこの呼び名は、近くに一色という名の旗本の家が二軒あったことに由来するといわれています。
 錦という名の由来については、この周辺を所有していた護持院に、錦のように美しい虫を祀った弁財天堂が建っていたためという説、住人が京都にある錦小路にあやかりたいと考え、錦と付けたという説もありますが、本当のところははっきりしていません。
 護持院は、享保二年(一七一七)の大火で跡形もなく焼け落ちてしまいました。江戸城外堀に隣接する地域で起こった火事に幕府関係者は驚き、護持院の跡地だけでなく、周辺の武家屋敷も召し上げて火除地(延焼防止の空き地)としました。この広大な火除地はのちに「護持院原」と呼ばれ、将軍の鷹狩などがおこなわれました。
 神田錦町二丁目という町名が正式に誕生したのは、明治五年(一八七二)のことです。明治十八年(一八八五)には、中央大学の前身である英吉利法律学校が開学しています。明治四十年(一九○七)に小川町で開学した電機学校(東京電機大学の前身)は、昭和になってこの町内に移ってきました。武家地だったこの界隈は、明治以降、教育機関が立ち並ぶ文教の町として発展を続けました。
 明治四十四年(一九一一)、町名から神田が外され錦町二丁目に変更されますが、昭和二十二年(一九四七)にはふたたび神田錦町二丁目となり、現在に至っています。 神田錦町二丁目町会」

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tag : 江戸名所図会歌川広重神田千代田区町名由来

町名由来「鍛冶町」

○千代田区町名由来「鍛冶町」
 神田金物通りの南側が「鍛冶町一丁目」、北側が「鍛冶町二丁目」です。

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○町名由来板「鍛冶町一丁目」 千代田区鍛冶町1-7
 「神田金物通り」に、「千代田区町名由来板 鍛冶町一丁目」が設置されています。

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(説明板)
「千代田区町名由来板 鍛冶町一丁目
 江戸時代初期の慶長八年(1603)、幕府は江戸の町割(区画整理)を実施しました。このとき、新たに誕生した町の一つが鍛冶町です。新しい町名は、すぐに江戸っ子の間でも定着したようで、明暦三年(1657)の『新添江戸之図』や『寛文新板江戸絵図』でも「かち町」、あるいは「かぢ丁」という町名が見受けられます。
 ちなみに「鍛冶」という名は、町が生まれた当初、江戸幕府お抱えの鍛冶方棟梁だった高井伊織が、この地を幕府より拝領して屋敷を構えたことに由来するとされます。高井家は、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野の「関八州」の鍛冶頭を務め、その配下にある数多くの鍛冶職人たちもこの地に集まり、住むようになりました。
 江戸時代に刊行され、大名や旗本の氏名・系図・家紋・御用達町人の氏名などが記された『武鑑』には、町内の住人として、文化年間(1804〜1818)だけでも、高井家をはじめ、金属加工を生業とする職人頭の名前が多く記録されています。
 ほかにも、鍛冶に関連した仕事をする御用職人が多かったようで、文政七年(1824)の『江戸買物独案内』には、刃物やくぎなどを扱う卸売業者がいたことも記されています。
 鍛冶町は、江戸時代の武士や庶民にとって必要不可欠な金属製品を提供し、日常生活を支え続けた町だったのです。 鍛冶町一丁目町会」

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(参考)鍛冶町一丁目にある史跡
 ○ 今川橋由来碑
 ○ 今川橋跡碑
 ○ 主水河岸跡
 ○ 主水の井跡


○町名由来板「鍛冶町二丁目」 千代田区鍛冶町2-7

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(説明板)
「その名が示すとおり、江戸時代や明治時代、この界隈には金物を扱う流通業者や小売業者が集まっていました。
 鍛冶町の名前のはじまりは江戸時代にさかのぼります。この近辺に幕府御用を勤める鍛冶方棟梁だった高井伊織が屋敷を拝領し、鍛冶職人などが数多く集まっていたのです。
 この二丁目界隈は、金物のなかでも、とくに刀や薙刀といった打物を扱う業者が多かったのが特徴だったようです。
 そのほか、鍛冶町二丁目には鍛冶職人の屋敷だけでなく、江戸後期にはじつにバラエティ豊かな店がそろっていました。文政七年(1824)の『江戸買物独案内』には、下駄の鼻緒を扱う問屋や、書物問屋、さらには薬の小売業者までいたことが記されています。『江戸名所図会』からは、下駄の製作・販売にたずさわる職人や業者が集まっていた「下駄新道」と呼ばれる裏通りがあったこと
もわかります。
 戦後、日本の復興期には、家庭金物店、建築金物店、銅・真鍮・鉄販売店などが軒を並べ、神田駅南口から東神田までの大通りは「神田金物通り」としてにぎわっていました。
 昭和二十二年の区画整理で、黒門町、上白壁町、下白壁町、紺屋町、松田町、鍋町、塗師町、新石町、竪大工町、鍛冶町二丁目が統合され、「神田鍛冶町二丁目」となりました。さらに、昭和四十九年(1974)に住居表示が施行されると、神田の文字がはぶかれ「鍛冶町二丁目」と名前を変えて現在に至っています。 鍛冶町二丁目町会」

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tag : 千代田区町名由来

お玉ヶ池跡とその界隈

○繁栄於玉稲荷神社 千代田区岩本町2-5-13

<安政三年地図>
 町名由来板に掲示されていた安政3(1856)年の地図の抜粋です。「お玉ヶ池跡」「玉池稲荷」が見えます。

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<新井商店> 千代田区岩本町2-6-8
 水天宮通りに面した新井商店から西への小路に入ると、すぐ右手に「繁栄於玉稲荷神社」はあります。

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<幟>
 「繁榮お玉稲荷大明神 お玉ヶ池史蹟保存会」
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<鳥居扁額>
 「繁榮お玉稲荷」
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<提灯>
 「繁栄於玉稲荷」
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<標柱「お玉が池跡」> 東京都旧跡

(標柱)
「お玉が池跡
 江戸時代以前、この地域にお玉が池という池があったと言われています。不忍池よりも大きかったという言い伝えもありますが、詳しいことは分かっていません。当初は桜が池と呼ばれていましたが、ほとりにあった茶店のお玉という女性が池に身を投げたという伝説から、お玉が池と呼ばれるようになりました。 千代田区」

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<社殿内>

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<弁財天社>
 社殿右手に、小さな池と「弁財天社」が祀られています。

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○お玉が池児童遊園 千代田区岩本町2-5-1

 繁栄於玉稲荷神社から少し西へ行くと「お玉が池児童遊園」があります。

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 昭和31(1956)年に千代田区が建てた、東京都史蹟「お玉ヶ池跡」の標柱があります。花壇の縁取りは、池をイメージしているようです。カエルがいます。

 「お玉ヶ池跡」
 「東京都史蹟指定 昭和三十一年一月千代田区建之」

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(説明板)
「神田お玉が池
 江戸時代以前、この地域にはお玉が池と呼ばれる池がありました。当初は桜が池と呼ばれていましたが、ほとりにあった茶店のお玉という女性が池に身を投げた故事から、お玉が池と呼ばれるようになったといわれています。
 池は江戸時代の早い時期に埋め立てられ、正確な場所は不明ですが、岩本町二丁目・神田岩本町・神田東松下町周辺であったと考えられます。
 江戸時代以降、この地域は文化人が多数住む場所として知られていました。江戸時代後期に発行された人名録からは、儒学者・漢学者・蘭学者が塾を開き、剣術家・柔術家などが道場を開いていたことが分かります。  千代田区」

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「東都旧跡尽 神田お玉が池の故事」(広重)
 説明板に掲示されている広重の錦絵です。茶屋というか野点です。

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「江戸名所図会 於玉ヶ池の古事」
 広重はこちらを参照していますね。

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○お玉ヶ池跡碑 千代田区岩本町2-6-3 全宅連会館

 会館北の植栽に「お玉ヶ池跡」碑があります。

 「東京都指定史蹟
  お玉ヶ池跡」

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○お玉が池通り 千代田区岩本町2丁目

 西→東

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 東→西

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○お玉ケ池駐車場 明治鋼業 千代田区岩本町2-2

 駐車場に「お玉ケ池」の名称がつけられています。

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○玄武館道場跡 神田お玉ヶ池畔 千代田区岩本町2-3-11 明治鋼業ビル

 明治鋼業ビル1階右手入口脇に碑があります。玄武館道場はここにあったわけではなく、神田お玉ヶ池畔にあったことを示す碑です。

 「史蹟
  北辰一刀流 千葉周作先生
  玄武館道場跡
  神田お玉ヶ池畔」

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<明治鋼業ロゴマーク>
「明治鋼業株式会社セキレイロゴマークの由来
明治鋼業本社(千代田区神田岩本町)は江戸時代、神田お玉ヶ池があった場所で、池畔には、江戸時代の剣豪・千葉周作が開いた北辰一刀流「玄武館道場」が建てられていました。北辰一刀流は刀の切っ先をセキレイの尾のように上下に動かせることで有名で、明治鋼業のロゴに描かれたセキレイは、どんな困難な入刀にもただちに対処できる研ぎ澄まされた感覚を持っていたいとの願いが込められています。」(HPより引用)

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○於玉湯 千代田区岩本町2-2-14

 「於玉」の名前が残るビル内銭湯です。

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○玄武館・瑶池塾跡 千代田区神田東松下町23

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(碑文)
「右文尚武
 東條一堂先生瑶池塾の址
東條一堂先生は江戸時代の漢学の大家で安政七年十一月七日千葉縣茂原市八幡原に生まれた名は弘といひ一堂はその號であるはじめ皆川淇園亀田鵬斎等に従って業を受けたが學成つて後神田お玉が池に瑶池塾を開いたこの塾は市橋主殿頭の邸と千葉周作の玄武館の間に在り今の千櫻小学校の地に當ってゐるこの両先生は親交があり自然門人同士も互に相往來して文武の道に勵んだ先生は老中阿部正弘を始め盛岡庄内等の各藩公に召されたが往還常に輿を以て送迎されたので世に輿儒者の稱があつた天性勤王の志篤く氣節に富んでゐたので弟子三千餘人の中には清川八郎桃井儀八鳥山新三郎等幾多の志士が輩出した安政四年七月十三日歿享年八十墓は葛飾区堀切町妙源寺に在る先生の學は漢宋新古の註を排した先秦の古學であり自らは常に焚書以上の人と稱した詩文を善くし又書にも巧みであった著書百二十部その中でも四書知言五辯等が最も有名である
 千葉周作先生玄武館の址
千葉周作先生は幕末に於ける剣術の達人寛政六年正月元旦宮城縣栗原郡花山村に生まれた幼時父幸右衛門に北辰夢想流の剣法を學んだが後松戸の住人淺利又七郎義信の門に入つて小野派一刀流を修め更にその師中西忠兵衛に従って秘術を授かり心気力三者一致の妙諦を悟るに至つたここに夢想流と一刀流とを取捨折衷して最も實用に適する組型を創定しこれを北辰一刀流と稱した玄武館を神田お玉が池に開き桃井春蔵斎藤彌九郎の塾と名を齊しくし江戸の三大道場といはれた後に水戸藩主徳川齊昭慶篤の二公に仕えたが期する所は人材の養成にあつた弟子數千人には海保帆平櫻田良佐庄司辯吉等知名の剣客がありまた坂本龍馬清川八郎等の勤王家も輩出した安政二年十二月十日病没享年六十二墓は豊島区巣鴨本妙寺に在る先生人となり剛毅風貌魁梧身長六尺に近く眼光炯炯として人を射犯すべからざる威厳があった
 明治神宮宮司 鷹司信輔 題額
 文學博士 鹽谷温 撰文
  文學博士 諸橋轍次 書」
「昭和三十二年七月建
 瑶池塾 玄武館 遺蹟保存會」

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(説明板)
「玄武館・瑶池塾跡
 玄武館は、北辰一刀流開祖の千葉周作が開いた北辰一刀流の道場です。1822年(文政5年)、日本橋品川町に創立された玄武館は、その後神田お玉が池(現在地)に移転します。練兵館・士学館と並び、幕末の江戸三大道場の一つに数えられました。
 玄武館の東隣には、1821年(文政4年)、儒学者の東条一堂が儒学と詩文を教授するため開いた瑤池塾がありました。一堂は、京都の皆川淇園の下で儒学を学んだ後、江戸でも亀田鵬斎に師事して儒学を修めました。  千代田区」

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(参考)
 千葉周作の墓は、本妙寺(巣鴨)にあります。こちらで記載

「江戸切絵図」
 江戸切絵図(嘉永2(1849)〜文久2(1862))でも確認すると、「東條文蔵」その隣は「イシ」とありました。

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<宇宙船千桜号>
 千桜小学校廃校 → アルファグランデ千桜タワー

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<千桜百年の碑>
 赤い石の「千桜百年」碑(千桜小学校創立百年記念事業協賛会)が、説明板の下に埋もれています。

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<防災井戸>

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○町名由来板「東松下町」 千代田区神田東松下町17

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(説明板)
「千代田区町名由来板 東松下町
 江戸時代のこの界隈は、商人や職人の家と、武家屋敷が混在する場所でした。このうち武家地には、「お玉が池」という一風変わった通称の一角があったことも知られています。
 文政八年(一八二五年)、北辰一刀流の開祖千葉周作の剣術道場「玄武館」が、日本橋品川町からこの地に移ってきました。門人数千人という玄武館は江戸随一の道場ともいわれ、坂本龍馬、清河八郎、山岡鉄舟なども同門の出身です。また、玄武館の隣には、儒者東条一堂の「瑤池塾」がありました。幕末のこの界隈は、新時代を切り拓くために奔走した若き志士たちが、飛躍へむけ文武を練った場所だったのです。
 明治二年(一八六九年)、神田松下町一丁目代地、神田紺屋町一丁目代地、神田三島町、神田岸町、神田富山町二丁目の一部と武家地が合併し、東松下町となりました。松下町(現在の内神田)一丁目〜三丁目の一部)と区別するために「東」を付けたといわれています。昭和二十二年(一九四七年)、神田を冠して町名は神田東松下町となり、現在に至っています。 東松下町町会」

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 町名由来板に掲示されている安政3(1856)年の地図の「お玉ヶ池跡」「玉池稲荷」部分の抜粋です。

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○岩本町馬の水飲み広場 千代田区岩本町3-10

 芝生があるだけで、ベンチもなく中に入って休む人もいません。

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(碑文)
「岩本町馬の水飲み広場
 この場所は、江戸時代より房総や東北方面からの物資輸送(米・野菜・魚介類・材木等)のために荷車を牽く牛馬の水飲み場として、また、街道を往来する人々の休息の場所として、重要な役割を果たしてきました。
  千代田区役所」

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(参考その1)
 日比谷公園に馬の水飲みがあります。

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(参考その2)
 新宿駅東口ひろばに、倫敦から東京市に寄贈された「馬水槽」があります。

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※町名由来「東松下町」を2023年5月の記事に追記しました。

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町名由来「駿河台」  お茶の水碑

○千代田区町名由来板「駿河台(西)」 千代田区神田駿河台2-3

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(説明板)
「千代田区町名由来板「駿河台(西) 駿河台西町会
 高台である「駿河台」は元来、本郷・湯島台と地続きで、その南端に位置し、「神田山」と呼ばれていました。江戸に幕府を開いた徳川家康は、新たな町づくりのため、この神田山を切り崩し、江戸城の南に広がる日比谷入江(現在の日比谷公園、新橋周辺)を埋め立てました。しかし、埋め立てによって、それまで海に流れ込んでいた平川(神田川のもとになった川)の流れがとどこおり、下流で洪水が頻発するようになりました。そこで現在の飯田橋付近から隅田川まで、分流としての水路を確保し、あわせて江戸城の外堀の役目も果たす「神田川」が開削されたのです。こうしてこの界隈は、本郷・湯島台から切り離され、現在の駿河台が形成されました。
 さて、家康が駿府で没した後、家康付を解かれ、駿河から帰ってきた旗本(駿河衆)たちが、江戸城に近く富士山が望めるこの地に多く屋敷を構えました。駿河衆が住んでいたことや駿河国の富士山が見えたことなどから、この地は駿河台と呼ばれるようになり、多くの武家屋敷が立ち並ぶ地域となりました。
 江戸時代初期には、奈良奉行を勤めた旗本中坊長兵衛、また、幕末には勘定奉行や軍艦奉行を勤めた小栗上野介忠順などが居住していました。明治になると、武家屋敷の跡地が華族や官僚などの屋敷に変わり、加藤高明男爵邸、坊城俊長伯爵邸、小松官邸などいくつかの邸宅は昭和の初期まで残っていました。
 明治五年(一八七二)に新たに定められたこの地域の町名は、駿河台西紅梅町、駿河台北甲賀町、駿河台南甲賀町、駿河台袋町、駿河台鈴木町(いずれも神田区)でした。関東大震災後の区画整理が終わった昭和八年(一九三三)に現在の駿河台一丁目、駿河台二丁目に町名が変更され、昭和二十二年(一九四七)に千代田区となってからもこの地名で親しまれています。」

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○お茶の水碑 千代田区神田駿河台2-3-1

 JR御茶ノ水駅御茶ノ水橋口の出口、お茶の水交番の脇に「お茶の水」碑があります。鷹狩りに出た2代将軍秀忠が、この付近の高林寺に立ち寄ったとき、境内の名水で茶をたてました。大変良い水だとお褒めの言葉をいただき、それから毎日この水を差し上げるようになり、この寺はお茶の水高林寺と呼ばれ、この辺りをお茶の水と言うようになりました。
 石碑は台地の上に建っていますが、高林寺は台地下の湯島聖堂の南側辺りにありました。

(碑文)
「お茶の水
聖堂の西比井名水にてお茶の水にもめしあげられたり
神田川堀割の時ふちになりて水際に形残る 享保十四年 江戸川拡張の後川幅を広げられし時 川の中になりて今その形もなし
  「再校江戸砂子」より
慶長の昔 この邊り神田山の麓に高林寺という禅寺があった ある時 寺の庭より良い水がわき出るので将軍秀忠公に差し上げたところ お茶に用いられて大変良い水だとお褒めの言葉を戴いた 
それから毎日この水を差し上げる様になり この寺をお茶の水高林寺と呼ばれ この辺りをお茶の水と云うようになった
 其の後 茗渓又小赤壁と稱して文人墨客が風流を楽しむ景勝の地であった 時代の変遷と共に失われ行くその風景を惜しみ心ある人達がこの碑を建てた
  お茶の水保勝会 坂内熊治
  高林寺 田中良彰
 昭和三十二年九月九日」

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(参考)「御茶の水坂」こちらで記載


○千代田区町名由来板「駿河台東部」 千代田区神田駿河台4-3

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(説明板)
「千代田区町名由来板 駿河台東部
 「駿河台」は元来、本郷・湯島台と地続きで、「神田山」と呼ばれる丘陵でした。江戸に幕府を開いた徳川家康は、新たな町づくりのため、この神田山を切り崩し、江戸城の南に広がる日比谷入江(現在の日比谷公園、新橋周辺)を埋め立てました。しかし、埋め立てによって平川(現・飯田橋付近から一ツ橋を通り、海に流入していたといわれている)の流れがとどこおり、下流で洪水が頻発しました。そこで、隅田川に通じ、江戸城の外堀の役目も果たす「神田川」が分流として開削されたのです。こうしてこの界隈は、本郷・湯島台から切り離され、独立した台地となりました。
 元和二年(1616)、家康が駿府で没すると、家康直属の家臣だった旗本(駿河衆)がその任を解かれて江戸に戻りました。駿府から帰った駿河衆が、江戸城に近く富士山が望めるこの地に多く屋敷を構えたことから、駿河台と呼ばれるようになりました。
 現在の駿河台三丁目と四丁目にあたるこの地域は、明治時代は三つの町で、駿河台北甲賀町、駿河台南甲賀町、駿河台東紅梅町と名付けられていました。甲賀という町名は、忍者で有名な甲賀者が多く住んだからとも、また甲賀者が勤める火消役屋敷があったからともいいます。紅梅町は、紅梅の大樹があった紅梅坂の名称とともに誕生した町名といわれています。
 大きなドーム型のニコライ堂(日本ハリストス正教会教団復活大聖堂)は、幕末から日本で布教を行っていたニコライ大主教が七年の歳月をかけ、明治二十四年(1891)に完成させたもので、以来、この町のシンボル的存在になっています。関東大震災で被害を受けたものの、昭和四年(1929)に復興され、国の重要文化財に指定されました。 駿河台東部町会」

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<本郷文学散歩>

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(参考)
【神田駿河台1・2丁目】
 ○ 町名由来板「駿河台(西)」 本頁
 ○ お茶の水碑 本頁
 ○ 大田姫稲荷神社(本宮)
 ○ 皀角坂
 ○ 神田上水懸樋跡
 ○ 皀角坂の芭蕉句碑
 ○ 旧文化学院
【神田駿河台3・4丁目】
 ○ 町名由来板「駿河台東部」 本頁
 ○ 大田姫稲荷神社(元宮)
 ○ 淡路坂
 ○ 布袋像「慧」
 ○ ニコライ堂
 ○ 紅梅坂

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町名由来「神田神保町」

○歴史と文化の散歩道「神田本屋街散歩」 千代田区神田神保町2-1-1

 神保町交差点に、歴史と文化の散歩道「神田本屋街散歩」が設置されています。

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(説明板)
「歴史と文化の散歩道 神田本屋街散歩
 神田本屋街散歩は、靖国神社から靖国通りを神田小川町まで至る約1.7kmのみちのりです。数多くの書店とスポーツ用品店が立ち並び、学生たちが行き交う活気ある街を歩く散歩道です。
 旧飯田町と神田本屋街
 江戸時代、このあたり一帯は武家地であり、町屋は九段坂北側の旧飯田町だけであった。この旧飯田町は、かつて文人などが多く住み、滝沢馬琴ゆかりの地でもあり、明治時代には、尾崎紅葉を主宰者とする硯友社があった。
 神保町周辺は、明治以後、周辺の大学の拡張に伴って学生の街として発展した。震災復興後の昭和初期には銅板や装飾を施した町並みが続き、古書店が数多く軒を並べる町となった。この本屋街の規模は世界に類を見ないもので、周辺の出版関連会社とともに、日本の文化や科学を支える役割を担っている。」

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「神田神保町書店街」(大東京寫眞帖 1930年)

 九段坂から神田神保町書店街を望んだ光景です。左手の駿河台にニコライ堂が見えます。

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 現在の九段下交差点からの光景です。
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○町名由来板「神田神保町一丁目」 千代田区神田神保町1-3

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(説明板)
「千代田区町名由来板 神田神保町一丁目
 江戸時代、この界隈には武家屋敷が立ち並んでいました。そこに表神保町、裏神保町などの町が誕生したのは、明治五年(1872)のことです。裏神保町は、大正十一年(1922)に通神保町と改称したのち、表神保町、表猿楽町などとともに、昭和九年(1934)、神保町一丁目となりました。さらに昭和二十三年(1948)、神田区と麹町区が合併して千代田区ができると、現在の神田神保町一丁目になりました。
 町名の由来は、元禄年間(1688?1704)のころ、旗本の神保長治が広大な屋敷をかまえ、そこを通っていた小路が「神保小路」と呼ばれるようになったためといわれています。 神保一丁目町会」

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「わが街、神田神保町  作家・逢坂剛
 神保町という町名の由来が、江戸時代の旗本神保家の屋敷からきたことは、すでによく知られている。
 試みに、江戸城下の変遷絵図集「御府内沿革図書」を開くと、早くも十七世紀後半(延宝年間)の図上に、「神保新右衛門」の名前が見つかる。屋敷の場所は、今の白山通りからさくら通りにはいった左側、有斐閣ビルのあたりになる。神保家の名は、幕末の切絵図にも出てくるから、江戸時代を通じてずっとこの地に、屋敷があったことが分かる。
 神保家ほどではないが、わたしの神保町との付き合いも、きわめて長い。小学生のころから数えれば、およそ半世紀にも及ぶ。高校生のころまで、本を探しによく足を運んだものだし、かよった大学は神田駿河台、就職した広告会社は神田錦町と、いずれも神保町と目と鼻の先の距離にあった。あまりに長い付き合いなので、ついそのよさを忘れてしまいがちだが、かりにわたしが東京から他の土地に移住して、神保町を離れることになったらと考えると、冷や汗を禁じえない。この街に対する愛着は、いわば自分の家や書斎を大切にする気持ちと、よく似ている。
 神保町は〈本の街〉といわれ、大型新刊書店や大小無数の古書店がひしめいて、独特の雰囲気を醸し出す。しかし、神保町の魅力は本だけにとどまらない。この街は〈食〉に関しても、並なみならぬ文化を持っている。中華をはじめ、イタリア、ブラジル、インド等の各国料理、さらに寿司、うなぎ、ラーメン、蕎麦となんでもあり、飲み食いにはいっさい困らない。戦前、戦後の歴史とともに歩んできた多くの老舗は、再開発で街の景観が一変した今も、なお健在である。
 そうした新旧すべてを引っくるめて、〈神保町文化〉と呼ぶことに異論のある人はいない、とわたしは信じている。逢坂 剛」

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<歴史と文化の散歩道「神田本屋街散歩」>

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○町名由来板「神田神保町二丁目・一ツ橋二丁目」 千代田区神田神保町2-17

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(説明板)
「千代田区町名由来板 神田神保町二丁目・一ツ橋二丁目 作家 紀田 順一郎
 神田神保町二丁目は、一丁目とともに世界に誇る古書店街として知られていますが、江戸時代には武家屋敷が立ち並んでいました。町名の由来は、元禄(1688?1704)ごろ、現在のさくら通り(救世軍本部の横)のあたりに神保長治という旗本が広大な屋敷をかまえ、付近に神保小路という通称が生まれたことからです。一ツ橋はさらに古く、徳川家康が江戸入府のころ、日本橋川(現在
の外堀)に架けられた橋の名称に由来するものです。
 明治五年(1872)の市区改正で、この地区は南・北神保町と呼ばれるようになりました。そのころはまだ人口の少ない場所でしたが、付近の一ツ橋地区に開成学校をはじめ、東京大学、東京英語学校などが連なる文教地区として発展したため、神保町一帯には多くの書店が軒を並べるようになりました。明治後期には隣接の町内を含めて数十軒の古書店が生まれ、大正の初期には周辺の学校は七十以上を数え、新刊書店や出版社も増加しました。昭和戦前にかけては、喫茶店や映画館も含む学生街として大いに繁昌したものです。
 第二次大戦中、神保町と一ツ橋地区はともにアメリカ軍の空襲を免れました。神保町は昭和二十二年(1947)に神田神保町と改められ、その後も、隣り合う一丁目や三崎町、小川町なども含む古書店街として発展を続けてきました。一ツ橋一帯は企業が集中し、昭和四十一年(1966)には竹橋や神保町など、地下鉄の各駅も誕生して交通至便となり、近年は海外から訪れる人も増えています。
 私は半世紀以上も前、高校生時代に初めて一ツ橋の共立講堂を訪れて以来、この地区全体の文化の香りに引かれ、とくに書物文化の奥深さに強く魅せられるようになりました。以後も週に一度ぐらいは必ず訪れていますが、その間にめずらしい本、貴重な資料を見つけた経験も数多く、古書店の主人から書物のことを教えられたこともあります。手に入れたばかりの本を近くの喫茶店で開くのを、いまでも最大の楽しみとしています。伝統ある二つの町のたたずまいは、東京の中心部にふさわしい品位を備えているようです。紀田 順一郎 一神町会」

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○町名由来板「神田神保町三丁目」 千代田区神田神保町3-1

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(説明板)
「千代田区町名由来板 神田神保町三丁目
 江戸時代、この界隈は、武家屋敷が軒を連ねていました。古文書や古絵図をひもとくと、石川摂津守、井上遠江守、丹波園部藩小出家の上屋敷といった名前が見てとれます。
 そんな武家のなかでも、朝廷や公家に関連する儀式などを担当した高家旗本の今川家は、ひときわ目を引く存在だったようです。屋敷前の通りは今川小路と呼ばれ、明治五年(1872)には、この小路の名前から、今川小路一丁目、同二丁目、同三丁目という町も生まれています。
 また、日本橋川に架かる「俎橋」は、江戸時代はじめのころから伝わる名前です。当初、まるで俎のような木の板を渡しただけの橋であったことから、この名前が付いたとされています。
 そんな俎橋周辺について、森鴎外の小説『雁』のなかにこんな一文があります。「今川小路の少し手前に御茶漬という看板を出した家がその頃あった。二十銭ばかりでお膳を据えて、香の物に茶まで出す。末造はこの家を知っているので、午を食べに寄ろうかと思ったが、それにはまだ少し早かった。そこを通り過ぎると、右へ廻って俎橋の手前の広い町に出る。」
 江戸時代には武家地だったこのあたりも、明治時代後半には活気あふれる商業地に生まれ変わり、いまの町の原型が形づくられていきました。
 昭和九年(1934)、今川小路一丁目、同二丁目、同三丁目の一部が合併して神保町三丁目となり、昭和二十二年(1947)、神田神保町三丁目となりました。 神保町三丁目町会」

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