江戸の上水まとめ
○江戸の上水まとめ
【全般】
○ 東京都水道歴史館
〇 銭瓶橋(吐樋)
【神田上水】
○ 神田川源流/お茶の水
○ 神田上水大洗堰
○ 水神社(神田上水守護神)/関口水神
○ 神田上水改修と松尾芭蕉
○ 神田上水遺構(本郷給水所公苑)
○ 神田上水懸樋(浮世絵と明治時代)
○ 神田上水懸樋(現在)
・皀角坂
・お茶の水坂
○ 神田上水枡(伝馬町牢屋敷)
○ 大久保主水/主水河岸/主水の井
○ 大久保主水墓
【玉川上水】
○ 清流の復活ー玉川上水
○ 水番所跡/水道碑記
○ 玉川上水の石枡(清水谷公園)
○ 江戸上水の石枡(日比谷公園)
〇 二本の木樋写真(江戸城北桔橋門)
○ 玉川上水跡(北町奉行所跡)
○ 広尾水車跡(玉川家屋敷跡)
○ 玉川庄右衛門および清右衛門墓
【本所上水(亀有上水・小梅上水)】
○ 本所開発
○ 曳舟川親水公園/曳舟川由来
【溜池上水】
○ 溜池と洗堰
【三田用水】
○ 三田用水跡
○ 三田用水跡と茶屋坂隧道跡
【全般】
○ 東京都水道歴史館
〇 銭瓶橋(吐樋)
【神田上水】
○ 神田川源流/お茶の水
○ 神田上水大洗堰
○ 水神社(神田上水守護神)/関口水神
○ 神田上水改修と松尾芭蕉
○ 神田上水遺構(本郷給水所公苑)
○ 神田上水懸樋(浮世絵と明治時代)
○ 神田上水懸樋(現在)
・皀角坂
・お茶の水坂
○ 神田上水枡(伝馬町牢屋敷)
○ 大久保主水/主水河岸/主水の井
○ 大久保主水墓
【玉川上水】
○ 清流の復活ー玉川上水
○ 水番所跡/水道碑記
○ 玉川上水の石枡(清水谷公園)
○ 江戸上水の石枡(日比谷公園)
〇 二本の木樋写真(江戸城北桔橋門)
○ 玉川上水跡(北町奉行所跡)
○ 広尾水車跡(玉川家屋敷跡)
○ 玉川庄右衛門および清右衛門墓
【本所上水(亀有上水・小梅上水)】
○ 本所開発
○ 曳舟川親水公園/曳舟川由来
【溜池上水】
○ 溜池と洗堰
【三田用水】
○ 三田用水跡
○ 三田用水跡と茶屋坂隧道跡
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
tag : 江戸幕府施設
江戸の火消
〇江戸の火消
江戸の町には「大名火消」(大名家による火消)、「定火消」(旗本による火消)、「町火消」という火消の組織がありました。
町火消は享保3(1718)年に町奉行大岡忠相によって組織された町人による火消です。享保5(1720)年「いろは48組」及び本所・深川を担当する「16組」が誕生しました。各組の目印として、各組によって纏と幟が定められていました。
「江戸の花名勝会 を 十番組 中村歌右衛門/下谷広徳寺/下谷」(国貞改三代豊国 国立国会図書館)
「江戸の華名勝会」は、江戸町火消「いろは四十八組」の各組の名所旧跡を紹介しています。
「を組」(新門辰五郎が有名)には、「びっくり下谷の広徳寺」と詠まれるほど広大な敷地を擁していた「下谷広徳寺」が描かれています。
「町火消纒装束の図」(東京都立図書館蔵)
町火消の纒と装束が絵巻で掲載されています。
「を組」「人員二百八十九人」
「新板纏つくし」(落合芳幾 安政3年 国立国会図書館蔵)
いろは組とその纏が描かれています。
「を組」
〇破壊消防と龍吐水
江戸の町火消では、火災の延焼阻止に家々を破壊するいわゆる破壊消防がもっぱら用いられました。
また、 龍吐水(りゅうどすい)と呼ばれる木製の腕用ポンプが開発され、町火消組で使用されていました。放水する様子が、龍が水を吐くように見えたことから名付けられたといわれています。放水距離が短く水量も少なく、火災を消火できるほどではありませんでした。 板橋区立郷土資料館の解説では、龍吐水は火を消す人が火傷をしないように水をかけるためのものと言いきっています。
(参考)
石神井神社(越谷市西新井)の龍吐水(こちらで記載)
(参考)
吉原公園と京町公園(台東区千束)に「動力龍吐水格納庫」が置かれています(こちらで記載)。
(参考)
ポンプ車及び輅車(らくしゃ) 板橋区立郷土資料館(こちらで記載)
(説明板)
「ポンプ車及び輅車
明治3年(1870)にイギリスから輸入されたのが、この形式のポンプ車の始まりである。同17年には警視庁で製作され、実際に配備された。こうして江戸時代以来の「竜吐水」は廃止された。
竜吐水は火を消す人が火傷をしないように水をかけるためのものであり、直接消火に役立つものではなかったが、ポンプ車はこの意味でも画期的なものだった。
輅車は普通、消防自動車に詰まれ、火災現場に到着すると降ろし、これを引いて走りながらホースを伸ばすものである。」
江戸の町には「大名火消」(大名家による火消)、「定火消」(旗本による火消)、「町火消」という火消の組織がありました。
町火消は享保3(1718)年に町奉行大岡忠相によって組織された町人による火消です。享保5(1720)年「いろは48組」及び本所・深川を担当する「16組」が誕生しました。各組の目印として、各組によって纏と幟が定められていました。
「江戸の花名勝会 を 十番組 中村歌右衛門/下谷広徳寺/下谷」(国貞改三代豊国 国立国会図書館)
「江戸の華名勝会」は、江戸町火消「いろは四十八組」の各組の名所旧跡を紹介しています。
「を組」(新門辰五郎が有名)には、「びっくり下谷の広徳寺」と詠まれるほど広大な敷地を擁していた「下谷広徳寺」が描かれています。
「町火消纒装束の図」(東京都立図書館蔵)
町火消の纒と装束が絵巻で掲載されています。
「を組」「人員二百八十九人」
「新板纏つくし」(落合芳幾 安政3年 国立国会図書館蔵)
いろは組とその纏が描かれています。
「を組」
〇破壊消防と龍吐水
江戸の町火消では、火災の延焼阻止に家々を破壊するいわゆる破壊消防がもっぱら用いられました。
また、 龍吐水(りゅうどすい)と呼ばれる木製の腕用ポンプが開発され、町火消組で使用されていました。放水する様子が、龍が水を吐くように見えたことから名付けられたといわれています。放水距離が短く水量も少なく、火災を消火できるほどではありませんでした。 板橋区立郷土資料館の解説では、龍吐水は火を消す人が火傷をしないように水をかけるためのものと言いきっています。
(参考)
石神井神社(越谷市西新井)の龍吐水(こちらで記載)
(参考)
吉原公園と京町公園(台東区千束)に「動力龍吐水格納庫」が置かれています(こちらで記載)。
(参考)
ポンプ車及び輅車(らくしゃ) 板橋区立郷土資料館(こちらで記載)
(説明板)
「ポンプ車及び輅車
明治3年(1870)にイギリスから輸入されたのが、この形式のポンプ車の始まりである。同17年には警視庁で製作され、実際に配備された。こうして江戸時代以来の「竜吐水」は廃止された。
竜吐水は火を消す人が火傷をしないように水をかけるためのものであり、直接消火に役立つものではなかったが、ポンプ車はこの意味でも画期的なものだった。
輅車は普通、消防自動車に詰まれ、火災現場に到着すると降ろし、これを引いて走りながらホースを伸ばすものである。」
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夜鷹/夜鷹そば/船饅頭
○夜鷹
<本所吉田町>
本所吉田町(昭和4(1929)年に墨田区石原四丁目に編入)は法恩寺橋の西の両側にありました。本所吉田町の裏長屋は、夜鷹の巣窟として有名でした。
「江戸切絵図」
<本所吉田町の裏長屋>
「東京開化狂画名所 本所吉田町 夜たかのどんたく」(月岡芳年 都立図書館蔵)
どんたくとは休日を意味します。土曜日は半日が休みなので「半ドン」です。夜鷹たちの本所吉田町の裏長屋での休日の光景が描かれています。鼻がもげて、鼻穴だけの女性もいます。
川柳「はな散る里は吉田町鮫ケ橋」
<隅田川を渡って>
「名所江戸百景 御厩河岸」(広重)
船上の二人は夜鷹で、横に控える男の肌色の顔色と異なり、真っ白な濃い化粧で表現されています。 男は妓夫(ぎゅう)(客引き、用心棒)で、牛、牛夫とも書き、牛太郎とも呼ばれました。
夜鷹は石原橋奥の本所吉田町の裏長屋に住み、隅田川を越えて商売をしていました。
隅田川の向岸に見えるのが「石原橋」(現存せず)です。現在の横網2丁目12番地の入堀に架かっていました。
「江戸名所百人美女 大川橋里俗吾妻はし」(豊国・国久)
夜鷹は、黒の着付けで白木綿の手拭いをかぷり、端を口にくわえ吹きさらしにする姿が定形でした。夜鷹の横にいるのは妓夫(客引き、用心棒)です。妓夫は左手に「吉田」と書かれた傘をもっています。 夜鷹と妓夫は、本所吉田町から来て、隅田川を吾妻橋で渡り柳原に商売に行くのでしょう。
「月百姿 田毎ある中にもつらき辻君の かほさらしなや運の月かけ 一とせ」(月岡芳年)
柳原で人気だった夜鷹が「ひととせ」です。黒の着付けで白木綿の手拭いをかぷり、端を口にくわえ、ゴザを抱える夜鷹の定型の姿です。月に向かって顔をさらさないようにと訴え、さらせば運の尽きと掛けています。
川柳に「てうちんで 夜鷹をみるは むごい人」があります。
<柳原土手>
昼間は古着屋が軒を連ね賑わった柳原土手ですが、夜は夜鷹が営業する場所として有名でした。
「古着屋と 二十四文と 入れかわり」(川柳)
「江戸名所図会 柳原堤」
昼間の柳原堤です。古着屋が軒を連ねて、古着が吊るされています。
「東京開化狂画名所 柳原 生臭坊主の臆病」(月岡芳年 都立図書館蔵)
柳原土手での光景が描かれています。
「江戸の花:温故知新 柳原夜鷹の図」(博文舘 1890年)
柳原の夜鷹が描かれています。
「東京名所三十六戯撰 柳原元和泉はし」(昇齋一景 1872年)
神田川の和泉橋辺りの柳原での光景です。女性が舟に乗ろうとして、たぶんこぼれていた汚物に滑って、お隣の汚穢舟に転げ落ちています。転んでいる女性はゴザを持っているので、夜鷹でしょう。左端の男性は臭くて鼻をつまんでいます。右端の女性は着物の袖で顔の下をおおい、男性は扇子で顔の下をおおっています。下肥は、長屋より武家屋敷のほうが高く買い取られ、神田川は汚穢舟が目立った東京の名所でしたか?
「江戸名所道化尽 七 新シ橋の大風」(歌川広景)
神田川の新シ橋(現在の美倉橋)辺りの柳原での光景です。柳原堤と強風にあおられている柳が見えます。神田川の上流には、火の見櫓が見えます。
新シ橋の上では、吹き荒れる風に人々が翻弄されています。一人は空高く傘を飛ばされ、一人は笠を飛ばされています。女性はマリリン・モンロー状態で、紙(浅草紙ですかね)を飛ばされています。飛ばされている紙は、柳原という場所を考えると御簾紙で女性は夜鷹に思えます。手がふさがっている男性は布を顔面に飛ばされ前が見えません。
○夜鷹そば
夜そば売りは「夜鷹そば」と呼ばれました。夜鷹がよく食べたから、そばの値段が夜鷹の代金と同じだったから、夜鷹と同じく夜になると現れて商売したからなど諸説あります。
夜鷹蕎麦よりも上等な風鈴蕎麦が登場しますが、夜鷹そばも真似て風鈴をつけ出し、両者の区別はなくなり風鈴そばという名称も消えていきました。風鈴だけはそのまま使われ、夜そば売りのトレードマークとなりました。
「江戸年中風俗之絵」(橋本養邦)
「夜そば売り」です。提灯を脇に置いて、客がそばをすすっています。
「今世斗計十二時 寅ノ刻」(国貞)
寅ノ刻とあるので、深夜3時から5時です。夜鷹が描かれており、こま絵には夜そば売りが描かれています。屋台に風鈴が2つぶら下げられています。
「鐘淵劇場故」(国貞 都立図書館蔵)
役者絵で描かれた夜そば売りです。 掛行燈には「二八 そは うんどん」の文字が入っています。
○船饅頭
船で商売する私娼を「船饅頭」と呼びました。 表向きは「饅頭」を売っていたからだといわれています。船饅頭は川岸で客に声をかけ、客を船に乗せて水上へ船を出し、一定の時間で戻ります。行徳河岸〜永久橋、鉄砲洲の川岸に多かったようです。
「東京開化狂画名所 鉄砲洲船饅頭舟玉の開扉 」(月岡芳年 都立図書館蔵)
碇泊している船から船饅頭が小舟に飛び降りてきています。 船に乗り込んで仕事を終えてきたのか、船に乗り込んで客引きをしてきたのか、どちらですかね。
「盲文画話 舟まんぢう」
「世諺口紺屋雛形」(曲亭馬琴)
「間合俗物譬問答」
「絵本阿房袋」
<本所吉田町>
本所吉田町(昭和4(1929)年に墨田区石原四丁目に編入)は法恩寺橋の西の両側にありました。本所吉田町の裏長屋は、夜鷹の巣窟として有名でした。
「江戸切絵図」
<本所吉田町の裏長屋>
「東京開化狂画名所 本所吉田町 夜たかのどんたく」(月岡芳年 都立図書館蔵)
どんたくとは休日を意味します。土曜日は半日が休みなので「半ドン」です。夜鷹たちの本所吉田町の裏長屋での休日の光景が描かれています。鼻がもげて、鼻穴だけの女性もいます。
川柳「はな散る里は吉田町鮫ケ橋」
<隅田川を渡って>
「名所江戸百景 御厩河岸」(広重)
船上の二人は夜鷹で、横に控える男の肌色の顔色と異なり、真っ白な濃い化粧で表現されています。 男は妓夫(ぎゅう)(客引き、用心棒)で、牛、牛夫とも書き、牛太郎とも呼ばれました。
夜鷹は石原橋奥の本所吉田町の裏長屋に住み、隅田川を越えて商売をしていました。
隅田川の向岸に見えるのが「石原橋」(現存せず)です。現在の横網2丁目12番地の入堀に架かっていました。
「江戸名所百人美女 大川橋里俗吾妻はし」(豊国・国久)
夜鷹は、黒の着付けで白木綿の手拭いをかぷり、端を口にくわえ吹きさらしにする姿が定形でした。夜鷹の横にいるのは妓夫(客引き、用心棒)です。妓夫は左手に「吉田」と書かれた傘をもっています。 夜鷹と妓夫は、本所吉田町から来て、隅田川を吾妻橋で渡り柳原に商売に行くのでしょう。
「月百姿 田毎ある中にもつらき辻君の かほさらしなや運の月かけ 一とせ」(月岡芳年)
柳原で人気だった夜鷹が「ひととせ」です。黒の着付けで白木綿の手拭いをかぷり、端を口にくわえ、ゴザを抱える夜鷹の定型の姿です。月に向かって顔をさらさないようにと訴え、さらせば運の尽きと掛けています。
川柳に「てうちんで 夜鷹をみるは むごい人」があります。
<柳原土手>
昼間は古着屋が軒を連ね賑わった柳原土手ですが、夜は夜鷹が営業する場所として有名でした。
「古着屋と 二十四文と 入れかわり」(川柳)
「江戸名所図会 柳原堤」
昼間の柳原堤です。古着屋が軒を連ねて、古着が吊るされています。
「東京開化狂画名所 柳原 生臭坊主の臆病」(月岡芳年 都立図書館蔵)
柳原土手での光景が描かれています。
「江戸の花:温故知新 柳原夜鷹の図」(博文舘 1890年)
柳原の夜鷹が描かれています。
「東京名所三十六戯撰 柳原元和泉はし」(昇齋一景 1872年)
神田川の和泉橋辺りの柳原での光景です。女性が舟に乗ろうとして、たぶんこぼれていた汚物に滑って、お隣の汚穢舟に転げ落ちています。転んでいる女性はゴザを持っているので、夜鷹でしょう。左端の男性は臭くて鼻をつまんでいます。右端の女性は着物の袖で顔の下をおおい、男性は扇子で顔の下をおおっています。下肥は、長屋より武家屋敷のほうが高く買い取られ、神田川は汚穢舟が目立った東京の名所でしたか?
「江戸名所道化尽 七 新シ橋の大風」(歌川広景)
神田川の新シ橋(現在の美倉橋)辺りの柳原での光景です。柳原堤と強風にあおられている柳が見えます。神田川の上流には、火の見櫓が見えます。
新シ橋の上では、吹き荒れる風に人々が翻弄されています。一人は空高く傘を飛ばされ、一人は笠を飛ばされています。女性はマリリン・モンロー状態で、紙(浅草紙ですかね)を飛ばされています。飛ばされている紙は、柳原という場所を考えると御簾紙で女性は夜鷹に思えます。手がふさがっている男性は布を顔面に飛ばされ前が見えません。
○夜鷹そば
夜そば売りは「夜鷹そば」と呼ばれました。夜鷹がよく食べたから、そばの値段が夜鷹の代金と同じだったから、夜鷹と同じく夜になると現れて商売したからなど諸説あります。
夜鷹蕎麦よりも上等な風鈴蕎麦が登場しますが、夜鷹そばも真似て風鈴をつけ出し、両者の区別はなくなり風鈴そばという名称も消えていきました。風鈴だけはそのまま使われ、夜そば売りのトレードマークとなりました。
「江戸年中風俗之絵」(橋本養邦)
「夜そば売り」です。提灯を脇に置いて、客がそばをすすっています。
「今世斗計十二時 寅ノ刻」(国貞)
寅ノ刻とあるので、深夜3時から5時です。夜鷹が描かれており、こま絵には夜そば売りが描かれています。屋台に風鈴が2つぶら下げられています。
「鐘淵劇場故」(国貞 都立図書館蔵)
役者絵で描かれた夜そば売りです。 掛行燈には「二八 そは うんどん」の文字が入っています。
○船饅頭
船で商売する私娼を「船饅頭」と呼びました。 表向きは「饅頭」を売っていたからだといわれています。船饅頭は川岸で客に声をかけ、客を船に乗せて水上へ船を出し、一定の時間で戻ります。行徳河岸〜永久橋、鉄砲洲の川岸に多かったようです。
「東京開化狂画名所 鉄砲洲船饅頭舟玉の開扉 」(月岡芳年 都立図書館蔵)
碇泊している船から船饅頭が小舟に飛び降りてきています。 船に乗り込んで仕事を終えてきたのか、船に乗り込んで客引きをしてきたのか、どちらですかね。
「盲文画話 舟まんぢう」
「世諺口紺屋雛形」(曲亭馬琴)
「間合俗物譬問答」
「絵本阿房袋」
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新田開発
○新田開発
○ 移住と開発の奨励(伊奈忠治)
○ 新田開発者
・芦川内匠 「内匠新田」
・星野彦六 「久左衛門新田」「辰沼新田」
・佐野新蔵胤信 「佐野新田」
・渡辺小衛門常頓「小右衛門新田」
・平田利兵衛 「二ツ家新田」
・次郎左衛門 「槐新田」
・栗原村飛地 「栗原新田」
・伊藤嘉兵衛 「嘉兵衛新田」
・浅野久右衛門 「上谷中新田」
・吉野長左衛門 「下谷中新田」
・金子五兵衛 「五兵衛新田」
・河合平内 「大谷田新田」「普賢寺・北三谷新田」「六木新田」「千住榎木新田」
・蒲原村 「蒲原新田」
・浅田長右衛門 「長右衛門新田」
・京極弥五郎 「弥五郎新田」
・吉田四郎兵衛 「伊藤谷新田」
・石出掃部介吉胤「掃部新田」
○ 八か村落し堀
○ 米穀の流通
○ 下肥の利用
その他
○ 鈴木新田(羽田)
○ 砂村新田(砂村)
○ 利田新田(東品川)
○ 深川村
○ 本所開発
○移住と開発の奨励(伊奈忠治)
代官伊奈忠治は、移住と新田開発を勧め、新田開発者に忠治は5か条の開発定書を交付しました。
新田には、開発した人物の名前が付けられる例が多く見られます。
「普賢寺北三谷新田宛伊奈忠治開発定書」(慶長19(1614)年 足立区立郷土博物館所蔵) 足立区文化財
宛所の「川井平内」は開発人、河合平内です。
「大谷田新田宛伊奈忠治開発定書」(元和2(1616)年 足立区立郷土博物館所蔵) 足立区文化財
宛所の「平内」は開発人、河合平内です。
「伊奈忠治印判状写(河合平内宛)」(元和5(1619)年 足立区立郷土博物館所蔵)
新田開発人の河合平内に対し、新田開発をすすめたことについて「御忠節」と位置づけ、「御褒美」として田畑屋敷地2町歩を与えるとしています。
「江戸時代はじめの新田開発関係図」(足立区立郷土博物館所蔵)
【新田開発者】
○芦川内匠
<内匠新田>
武田氏の家臣だった芦川内匠が土着し、新田開発に従事しました。
(関連)
・内匠本町
・七面神社(芦川家氏神)
・内匠橋(芦川内匠に由来)
○星野彦六
<久左衛門新田>
福島正則の家臣星野又太郎(彦六)が、この地を開発して「土合村」とし、子の久左衛門の時に「久左衛門新田」と呼ばれるようになりました。
明治22(1889)年に久左衛門新田は周辺の村と合併し、花畑村となります。
(関連)
・南蔵院
・神明天祖神社
・東稲荷神社
・赤稲荷神社
<辰沼新田>
星野彦六が開発し、久左衛門新田に含まれていましたが、元禄8(1695)年に分村、独立したと伝えます。
(関連)
・辰沼稲荷神社(辰沼新田鎮守社)
・龍岩寺
○佐野新蔵胤信
<佐野新田>
千葉勝胤の子、新蔵胤信が佐野氏の養子となり(佐野家の伝承)、佐野家は、佐野新田の開発者であるとともに、関東郡代伊那氏に仕えました。
(関連)
・佐野いこいの森(佐野家屋敷森)
・佐野新蔵胤信の墓
・妙見社(千葉稲荷)
・柳野稲荷神社
○渡辺小衛門常頓
<小右衛門新田>
岩槻城主の家臣であった渡辺小右衛門常頓が小右衛門新田を開発しました。
(関連)
・小右衛門稲荷神社(渡辺小右衛門由来)
・渡辺小右衛門の墓
・槐戸地蔵尊
・庚申堂
○平田利兵衛
<二ツ家新田>
二ツ家新田は、織田家旧臣の平田利兵衛、若菜の両家が開発、家が二軒しかなかったことが地名の由来です。
(関連)
・増福寺
・二ツ家愛宕神社
○次郎左衛門
<槐新田>
槐新田(次郎左衛門新田)は、次郎左衛門等の村人が開いたと言われています。
(関連)
・四ツ家稲荷神社
○栗原村飛地
<栗原新田>
当地は綾瀬川沿いにある栗原村の飛地で、栗原村の人々の新田開発により栗原新田と唱えられていました。
(関連)
・一ツ家稲荷神社(栗原新田鎮守社)
・東栗原土地区画整理記念碑
○伊藤嘉兵衛
<嘉兵衛新田>
武蔵国橘樹郡稲毛領(現・神奈川県川崎市北部)に居住していた伊藤嘉兵衛が、当地に移住し嘉兵衛新田を開発しました。
寛永年間(1624〜1644)に内匠新田から小菅の古隅田川まで新川(新綾瀬川)が開削されました。このため、嘉兵衛新田は、東西に分断されました。
(関連)
・伊藤嘉兵衛の墓(神宮寺墓地)
・加平天祖神社(東の嘉兵衛新田)
・西加平神社(西の嘉兵衛新田)
○浅野久右衛門/吉野長左衛門
<谷中新田>
谷中新田は、浅野久右衛門が開墾した「久右衛門新田」と、吉野長左衛門が開発した「長左衛門新田」の通称です。
一般的には久右衛門新田を「上谷中新田」、長左衛門新田を「下谷中新田」と呼びました。
(上谷中新田関連)
・浅野家墓所(法立寺)
・浅野家長屋門(足立区都市農業公園)
(下谷中新田関連)
・下谷中稲荷神社(鎮守)
○金子五兵衛
<五兵衛新田>
武蔵国入間郡金子村(現埼玉県入間市)から入植した金子五兵衛が五兵衛新田を開発しました。
(関連)
・綾瀬稲荷神社(五兵衛新田の鎮守社)
・稲荷山蓮華院観音寺(金子五兵衛の開基)
・金子五兵衛の墓
○河合平内
河合平内は、
・大谷田新田(足立区大谷田・中川)
・普賢寺・北三谷新田(足立区東和・綾瀬・東綾瀬)
・六木新田(足立区六木)
・千住榎木新田(位地未詳)を開発しました。
外からの移住者が中心であった新田開発人の中で、珍しく室町時代辺りからこの地にいた一族のようです。
<六木新田/大谷田新田>
六木は、天正の末期(1590年)ごろに、織田信長の次子・織田信雄に仕えた天野国忠など、六騎の武者によって開拓され「六騎村」と呼ばれ、「六木村」となり、現在に至ります。
(関連)
・大光寺(天野国忠が開基)
・六木諏訪神社(鎮守社)
<普賢寺新田/北三谷新田>
河合平内は北三谷新田の名主でした。墓が北三谷新田の円性寺にあります。
北三谷の地名の由来には、梅若丸の母親の従者が浅草山谷の地に住んだが安住の地を求めて隅田川を北上し、この地を開いて北三谷と名付けたという伝説があります。
(関連)
・河合平内の墓(円性寺)
・北三谷稲荷神社(北三谷新田旧村社)
・梅若丸と北三谷(北三谷の地名由来)
・綾瀬北野神社(普賢寺新田の鎮守)
・大谷田氷川神社(大谷田新田の浪人氷川)
○蒲原村(かばらむら)
新田開発に伴い新しく作られた村とは異なり、古隅田川の北に添った蒲原村は古い駅路の宿だったと言われています。在原業平が都鳥の歌を詠んだのは、この辺りではないか、また源頼朝が宿陣したとの伝えがあります。
<蒲原新田>
(関連)
・蒲原村宿駅伝説
○浅田長右衛門
<長右衛門新田>
浅田長右衛門が開発したのが長右衛門新田です。浅田長右衛門は永禄6(1563)年、武蔵国埼玉郡与野村に生まれ岩槻城主の高力清長に仕えましたが、慶長の初めごろにこの地に移り住んだと伝わります。
(関連)
・西光院(浅田長右衛門開基)
・浅田長右衛門の墓
○京極弥五郎
<弥五郎新田>
弥五郎新田は、京極弥五郎(武蔵千葉氏の家臣)による開発です。
(関連)
・西之宮稲荷神社(弥五郎新田の総鎮守)
・日ノ出神社(荒川底に沈んだ稲荷神社起源)
○吉田四郎兵衛
<伊藤谷新田>
吉田四郎兵衛の開発のよる伊藤谷新田です。
(関連)
・綾瀬神社(伊藤谷新田の鎮守社)
・伊藤谷橋/伊藤谷支柱
○石出掃部介吉胤
<掃部新田>
石出掃部介吉胤の開発による掃部新田です。
(関連)
・掃部宿
・掃部宿プチテラス
・仲町の家(石出掃部介吉胤の子孫)
・源長寺(石出一族菩提寺)
・石出掃部亮吉胤の墓(源長寺)
・掃部堤
・千住大橋(石出掃部介吉胤の架橋)
○八か村落し堀
「八か村落し堀」は、江戸時代初期に足立区東部の新田地帯の悪水の排除のため開削されました。葛西用水に源を発し、六木から大谷田、東和を通り、綾瀬に入り、古隅田川及び綾瀬川へ流れる水路でした。
名前の由来となった「八か村」とは、明治22年の町村制実施まで続いていた八つの村を指し、水路がこの地域を経由していた事から「八ヶ村落し堀」と呼ばれていました。
※「八か村」
六木(むつき)、佐野新田(さのしんでん)、大谷田(おおやた)、蒲原(かばら)、北三谷(きたさんや)、普賢寺(ふげんじ)、五兵衛新田(ごへいしんでん)、伊藤谷(いとや)
(関連)
・八か村落し親水緑道 ① ② ③
○米穀の流通
米穀の流通には綾瀬川の舟運が主に利用されたことが伺えます。
○下肥の利用
(下肥についてはこちらで記載)
<コエタンゴ(肥桶)/コエビシャク>
肥桶は天秤棒で担いで運びます。重さは一荷で80キロほどになります。肥桶には蓋がついていますね、明治維新後、肥桶に蓋をすることが義務付けられました。
<汲み取りのシステム>
汚わい船、人力による下肥の輸送経路です。
<肥溜め>
肥溜めのシステムです。
○ 移住と開発の奨励(伊奈忠治)
○ 新田開発者
・芦川内匠 「内匠新田」
・星野彦六 「久左衛門新田」「辰沼新田」
・佐野新蔵胤信 「佐野新田」
・渡辺小衛門常頓「小右衛門新田」
・平田利兵衛 「二ツ家新田」
・次郎左衛門 「槐新田」
・栗原村飛地 「栗原新田」
・伊藤嘉兵衛 「嘉兵衛新田」
・浅野久右衛門 「上谷中新田」
・吉野長左衛門 「下谷中新田」
・金子五兵衛 「五兵衛新田」
・河合平内 「大谷田新田」「普賢寺・北三谷新田」「六木新田」「千住榎木新田」
・蒲原村 「蒲原新田」
・浅田長右衛門 「長右衛門新田」
・京極弥五郎 「弥五郎新田」
・吉田四郎兵衛 「伊藤谷新田」
・石出掃部介吉胤「掃部新田」
○ 八か村落し堀
○ 米穀の流通
○ 下肥の利用
その他
○ 鈴木新田(羽田)
○ 砂村新田(砂村)
○ 利田新田(東品川)
○ 深川村
○ 本所開発
○移住と開発の奨励(伊奈忠治)
代官伊奈忠治は、移住と新田開発を勧め、新田開発者に忠治は5か条の開発定書を交付しました。
新田には、開発した人物の名前が付けられる例が多く見られます。
「普賢寺北三谷新田宛伊奈忠治開発定書」(慶長19(1614)年 足立区立郷土博物館所蔵) 足立区文化財
宛所の「川井平内」は開発人、河合平内です。
「大谷田新田宛伊奈忠治開発定書」(元和2(1616)年 足立区立郷土博物館所蔵) 足立区文化財
宛所の「平内」は開発人、河合平内です。
「伊奈忠治印判状写(河合平内宛)」(元和5(1619)年 足立区立郷土博物館所蔵)
新田開発人の河合平内に対し、新田開発をすすめたことについて「御忠節」と位置づけ、「御褒美」として田畑屋敷地2町歩を与えるとしています。
「江戸時代はじめの新田開発関係図」(足立区立郷土博物館所蔵)
【新田開発者】
○芦川内匠
<内匠新田>
武田氏の家臣だった芦川内匠が土着し、新田開発に従事しました。
(関連)
・内匠本町
・七面神社(芦川家氏神)
・内匠橋(芦川内匠に由来)
○星野彦六
<久左衛門新田>
福島正則の家臣星野又太郎(彦六)が、この地を開発して「土合村」とし、子の久左衛門の時に「久左衛門新田」と呼ばれるようになりました。
明治22(1889)年に久左衛門新田は周辺の村と合併し、花畑村となります。
(関連)
・南蔵院
・神明天祖神社
・東稲荷神社
・赤稲荷神社
<辰沼新田>
星野彦六が開発し、久左衛門新田に含まれていましたが、元禄8(1695)年に分村、独立したと伝えます。
(関連)
・辰沼稲荷神社(辰沼新田鎮守社)
・龍岩寺
○佐野新蔵胤信
<佐野新田>
千葉勝胤の子、新蔵胤信が佐野氏の養子となり(佐野家の伝承)、佐野家は、佐野新田の開発者であるとともに、関東郡代伊那氏に仕えました。
(関連)
・佐野いこいの森(佐野家屋敷森)
・佐野新蔵胤信の墓
・妙見社(千葉稲荷)
・柳野稲荷神社
○渡辺小衛門常頓
<小右衛門新田>
岩槻城主の家臣であった渡辺小右衛門常頓が小右衛門新田を開発しました。
(関連)
・小右衛門稲荷神社(渡辺小右衛門由来)
・渡辺小右衛門の墓
・槐戸地蔵尊
・庚申堂
○平田利兵衛
<二ツ家新田>
二ツ家新田は、織田家旧臣の平田利兵衛、若菜の両家が開発、家が二軒しかなかったことが地名の由来です。
(関連)
・増福寺
・二ツ家愛宕神社
○次郎左衛門
<槐新田>
槐新田(次郎左衛門新田)は、次郎左衛門等の村人が開いたと言われています。
(関連)
・四ツ家稲荷神社
○栗原村飛地
<栗原新田>
当地は綾瀬川沿いにある栗原村の飛地で、栗原村の人々の新田開発により栗原新田と唱えられていました。
(関連)
・一ツ家稲荷神社(栗原新田鎮守社)
・東栗原土地区画整理記念碑
○伊藤嘉兵衛
<嘉兵衛新田>
武蔵国橘樹郡稲毛領(現・神奈川県川崎市北部)に居住していた伊藤嘉兵衛が、当地に移住し嘉兵衛新田を開発しました。
寛永年間(1624〜1644)に内匠新田から小菅の古隅田川まで新川(新綾瀬川)が開削されました。このため、嘉兵衛新田は、東西に分断されました。
(関連)
・伊藤嘉兵衛の墓(神宮寺墓地)
・加平天祖神社(東の嘉兵衛新田)
・西加平神社(西の嘉兵衛新田)
○浅野久右衛門/吉野長左衛門
<谷中新田>
谷中新田は、浅野久右衛門が開墾した「久右衛門新田」と、吉野長左衛門が開発した「長左衛門新田」の通称です。
一般的には久右衛門新田を「上谷中新田」、長左衛門新田を「下谷中新田」と呼びました。
(上谷中新田関連)
・浅野家墓所(法立寺)
・浅野家長屋門(足立区都市農業公園)
(下谷中新田関連)
・下谷中稲荷神社(鎮守)
○金子五兵衛
<五兵衛新田>
武蔵国入間郡金子村(現埼玉県入間市)から入植した金子五兵衛が五兵衛新田を開発しました。
(関連)
・綾瀬稲荷神社(五兵衛新田の鎮守社)
・稲荷山蓮華院観音寺(金子五兵衛の開基)
・金子五兵衛の墓
○河合平内
河合平内は、
・大谷田新田(足立区大谷田・中川)
・普賢寺・北三谷新田(足立区東和・綾瀬・東綾瀬)
・六木新田(足立区六木)
・千住榎木新田(位地未詳)を開発しました。
外からの移住者が中心であった新田開発人の中で、珍しく室町時代辺りからこの地にいた一族のようです。
<六木新田/大谷田新田>
六木は、天正の末期(1590年)ごろに、織田信長の次子・織田信雄に仕えた天野国忠など、六騎の武者によって開拓され「六騎村」と呼ばれ、「六木村」となり、現在に至ります。
(関連)
・大光寺(天野国忠が開基)
・六木諏訪神社(鎮守社)
<普賢寺新田/北三谷新田>
河合平内は北三谷新田の名主でした。墓が北三谷新田の円性寺にあります。
北三谷の地名の由来には、梅若丸の母親の従者が浅草山谷の地に住んだが安住の地を求めて隅田川を北上し、この地を開いて北三谷と名付けたという伝説があります。
(関連)
・河合平内の墓(円性寺)
・北三谷稲荷神社(北三谷新田旧村社)
・梅若丸と北三谷(北三谷の地名由来)
・綾瀬北野神社(普賢寺新田の鎮守)
・大谷田氷川神社(大谷田新田の浪人氷川)
○蒲原村(かばらむら)
新田開発に伴い新しく作られた村とは異なり、古隅田川の北に添った蒲原村は古い駅路の宿だったと言われています。在原業平が都鳥の歌を詠んだのは、この辺りではないか、また源頼朝が宿陣したとの伝えがあります。
<蒲原新田>
(関連)
・蒲原村宿駅伝説
○浅田長右衛門
<長右衛門新田>
浅田長右衛門が開発したのが長右衛門新田です。浅田長右衛門は永禄6(1563)年、武蔵国埼玉郡与野村に生まれ岩槻城主の高力清長に仕えましたが、慶長の初めごろにこの地に移り住んだと伝わります。
(関連)
・西光院(浅田長右衛門開基)
・浅田長右衛門の墓
○京極弥五郎
<弥五郎新田>
弥五郎新田は、京極弥五郎(武蔵千葉氏の家臣)による開発です。
(関連)
・西之宮稲荷神社(弥五郎新田の総鎮守)
・日ノ出神社(荒川底に沈んだ稲荷神社起源)
○吉田四郎兵衛
<伊藤谷新田>
吉田四郎兵衛の開発のよる伊藤谷新田です。
(関連)
・綾瀬神社(伊藤谷新田の鎮守社)
・伊藤谷橋/伊藤谷支柱
○石出掃部介吉胤
<掃部新田>
石出掃部介吉胤の開発による掃部新田です。
(関連)
・掃部宿
・掃部宿プチテラス
・仲町の家(石出掃部介吉胤の子孫)
・源長寺(石出一族菩提寺)
・石出掃部亮吉胤の墓(源長寺)
・掃部堤
・千住大橋(石出掃部介吉胤の架橋)
○八か村落し堀
「八か村落し堀」は、江戸時代初期に足立区東部の新田地帯の悪水の排除のため開削されました。葛西用水に源を発し、六木から大谷田、東和を通り、綾瀬に入り、古隅田川及び綾瀬川へ流れる水路でした。
名前の由来となった「八か村」とは、明治22年の町村制実施まで続いていた八つの村を指し、水路がこの地域を経由していた事から「八ヶ村落し堀」と呼ばれていました。
※「八か村」
六木(むつき)、佐野新田(さのしんでん)、大谷田(おおやた)、蒲原(かばら)、北三谷(きたさんや)、普賢寺(ふげんじ)、五兵衛新田(ごへいしんでん)、伊藤谷(いとや)
(関連)
・八か村落し親水緑道 ① ② ③
○米穀の流通
米穀の流通には綾瀬川の舟運が主に利用されたことが伺えます。
○下肥の利用
(下肥についてはこちらで記載)
<コエタンゴ(肥桶)/コエビシャク>
肥桶は天秤棒で担いで運びます。重さは一荷で80キロほどになります。肥桶には蓋がついていますね、明治維新後、肥桶に蓋をすることが義務付けられました。
<汲み取りのシステム>
汚わい船、人力による下肥の輸送経路です。
<肥溜め>
肥溜めのシステムです。
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
江戸の古着と鳶沢甚内
○三甚内
江戸幕府初期に三甚内と呼ばれる人物がいました。盗賊の高坂(向坂)甚内、吉原遊郭の総名主となった庄司甚内(甚右衛門)、古着商の鳶沢甚内です。三人とも元は忍者でしたが、主家滅亡により盗賊に転身しました。
<高坂(向坂)甚内>
高坂(向坂)甚内は武田忍者から主家滅亡により盗賊に転身します。下総国向崎(現:茨城県守谷市)を拠点とする盗賊の大頭目となりました。
慶長18(1613)年に鳶沢甚内の手引きにより捕縛・処刑されます。処刑された鳥越刑場に「陣内神社」が建てられ、病気平癒の神として祭られています。
(参考)
「甚内神社」「甚内橋遺跡」
<庄司甚内(甚右衛門>
小田原北条氏に仕えた風魔小太郎は主家滅亡により盗賊となり、慶長8(1603)年に高坂(向坂)甚内の手引きにより捕縛・処刑後、その残党は、江戸の町で商売を始め成功を収めます。
元和4(1618)年に吉原遊郭を開業させた庄司甚内(甚右衛門)と、現在の日本橋富沢町にその名を残す古着商となった鳶沢甚内です。
(参考)
「親父橋」(元吉原)
「末廣神社」(元吉原)
「庄司甚右衛門の碑」(吉原弁財天)
「庄司甚右衛門墓」(雲光院)
「庄司甚右衛門過去帳」(旧正憶院)
<鳶沢甚内>
鳶沢甚内は、小田原北条氏の家臣でしたが、小田原落城ののち、盗賊となります。鳶沢甚内は捕えられますが、徳川家康から幕府の盗賊取締りに協力することを条件に助命され、葭の生える土地(現在の富沢町)を与えられ、生計のために古着屋の元締めを許されます。
手下を古着屋として周辺に住まわせ、鳶沢町と呼ばれます。鳶沢町は大変賑わい、やがて「鳶」を「富」に改め富沢町となりました。
盗賊は、江戸時代は高価だった衣類を盗み、富沢町の古着屋に売りました。鳶沢甚内は、古着屋の元締めで、周辺に住まわせた元盗賊の手下も古着屋です。盗賊の情報は古着屋ネットワークで元締めである鳶沢甚内に集められ、鳶沢甚内は、小田原北条氏の忍者から徳川家康の忍者として、江戸幕府の盗賊取り締まりに協力しました。幕府は鳶沢甚内の協力によって、慶長18(1613)年に盗賊の高坂甚内を捕縛し、処刑しています。
「二人連れの古着買」(江戸の白浪 昭和8年 国立国会図書館蔵)
鳶沢甚内は、手下の元盗賊に、2人連れで古着買をさせて、盗賊の居場所の情報を調べさせました。一人は布の袋を肩にかけ、一人が「古着」と言えば、一人が「買おう」と言って、町屋の軒下を左右に分かれて通り、家の内の様子を探りました。世の中が落ち着くにつれて、二人連れの古着買の巡回も自然となくなりました。
「江戸切絵図」
「富沢町」が見えます。
<江戸の古着>
江戸時代の織物は、手織りで、大変な手間と時間がかかり、高価で希少なものでした。このため、江戸庶民は新品の衣類は手を出せず、古着屋で衣類を購入していました。古着は修繕しながら使い、子どもがいれば仕立て直して子どもの着物にしました。最後は下駄の鼻緒や雑巾となり、燃やした灰は灰買いが買い取りました。アルカリ性の灰は、酸性の関東ローム層を中和するのに重宝されました。
富沢町の古着屋は品揃えが豊富でした。越後屋呉服店が売れ残った商品を富沢町に卸すと、他の呉服店もこれにならい、富沢町の古着屋は扱う商品が高級化していきました。
「柳原土手」
寛政6年(1794)に柳原土手が火除地となり、すぐに取り除ける葦簀張の下級の古着を扱う古着屋が集まりました(こちらで記載)。
高級の商品を扱うようになった富沢町に対し、柳原土手は、下級の商品を扱う古着屋として賑わいました。
「江戸名所図会 柳原堤」
古着屋が軒を連ねて、古着が吊るされています。
「竹馬古着屋」
行商「竹馬古着屋」による古着の販売も行われていました。
「竹馬古着屋」(守貞謾稿巻6 国立国会図書館蔵)
挿絵には、「竹具の四足なるを担う 故に竹馬と云 古衣服及び古衣を解き分て 衿あるいは裡其他諸用の小物を売る 専ら小戸を巡る也」とあります。
竹馬という竹で組んだ四脚の運搬具に衣類や布を下げ、天秤棒の両端にさげて担いで売った棒手振りです。
「湯灌場買い」
湯灌場(ゆかんば:死体を清めるための小屋)に出向いて、故人が着ていた着物を遺族から買い取っていたのが湯灌場買いです。
「赤門寺のボロ市」(勝専寺)
赤門寺のボロ市は、参勤交代の大名や旅人が江戸入りする千住で正装に着替え、捨てられた衣服や足袋が洗って売られたのがはじまりといわれます。ボロ市は、二七の市といって二と七のつく日に行われていました。(こちらで記載)
○富沢稲荷神社 中央区日本橋富沢町7-18
日本橋富沢町の鎮守として祀られているのが「富沢稲荷神社」です。創建年代は不詳で、かつては巴熊稲荷神社と称していましたが、昭和25(1950)年に元弥生町・新大阪町・元浜町の稲荷社が合祀され、現在の「富澤稲荷神社」に改称されました。
社号標「富澤稲荷神社」
扁額「富澤稲荷神社」
灯篭台石跡
手水舎
拝殿
拝殿内
拝殿から参道
江戸幕府初期に三甚内と呼ばれる人物がいました。盗賊の高坂(向坂)甚内、吉原遊郭の総名主となった庄司甚内(甚右衛門)、古着商の鳶沢甚内です。三人とも元は忍者でしたが、主家滅亡により盗賊に転身しました。
<高坂(向坂)甚内>
高坂(向坂)甚内は武田忍者から主家滅亡により盗賊に転身します。下総国向崎(現:茨城県守谷市)を拠点とする盗賊の大頭目となりました。
慶長18(1613)年に鳶沢甚内の手引きにより捕縛・処刑されます。処刑された鳥越刑場に「陣内神社」が建てられ、病気平癒の神として祭られています。
(参考)
「甚内神社」「甚内橋遺跡」
<庄司甚内(甚右衛門>
小田原北条氏に仕えた風魔小太郎は主家滅亡により盗賊となり、慶長8(1603)年に高坂(向坂)甚内の手引きにより捕縛・処刑後、その残党は、江戸の町で商売を始め成功を収めます。
元和4(1618)年に吉原遊郭を開業させた庄司甚内(甚右衛門)と、現在の日本橋富沢町にその名を残す古着商となった鳶沢甚内です。
(参考)
「親父橋」(元吉原)
「末廣神社」(元吉原)
「庄司甚右衛門の碑」(吉原弁財天)
「庄司甚右衛門墓」(雲光院)
「庄司甚右衛門過去帳」(旧正憶院)
<鳶沢甚内>
鳶沢甚内は、小田原北条氏の家臣でしたが、小田原落城ののち、盗賊となります。鳶沢甚内は捕えられますが、徳川家康から幕府の盗賊取締りに協力することを条件に助命され、葭の生える土地(現在の富沢町)を与えられ、生計のために古着屋の元締めを許されます。
手下を古着屋として周辺に住まわせ、鳶沢町と呼ばれます。鳶沢町は大変賑わい、やがて「鳶」を「富」に改め富沢町となりました。
盗賊は、江戸時代は高価だった衣類を盗み、富沢町の古着屋に売りました。鳶沢甚内は、古着屋の元締めで、周辺に住まわせた元盗賊の手下も古着屋です。盗賊の情報は古着屋ネットワークで元締めである鳶沢甚内に集められ、鳶沢甚内は、小田原北条氏の忍者から徳川家康の忍者として、江戸幕府の盗賊取り締まりに協力しました。幕府は鳶沢甚内の協力によって、慶長18(1613)年に盗賊の高坂甚内を捕縛し、処刑しています。
「二人連れの古着買」(江戸の白浪 昭和8年 国立国会図書館蔵)
鳶沢甚内は、手下の元盗賊に、2人連れで古着買をさせて、盗賊の居場所の情報を調べさせました。一人は布の袋を肩にかけ、一人が「古着」と言えば、一人が「買おう」と言って、町屋の軒下を左右に分かれて通り、家の内の様子を探りました。世の中が落ち着くにつれて、二人連れの古着買の巡回も自然となくなりました。
「江戸切絵図」
「富沢町」が見えます。
<江戸の古着>
江戸時代の織物は、手織りで、大変な手間と時間がかかり、高価で希少なものでした。このため、江戸庶民は新品の衣類は手を出せず、古着屋で衣類を購入していました。古着は修繕しながら使い、子どもがいれば仕立て直して子どもの着物にしました。最後は下駄の鼻緒や雑巾となり、燃やした灰は灰買いが買い取りました。アルカリ性の灰は、酸性の関東ローム層を中和するのに重宝されました。
富沢町の古着屋は品揃えが豊富でした。越後屋呉服店が売れ残った商品を富沢町に卸すと、他の呉服店もこれにならい、富沢町の古着屋は扱う商品が高級化していきました。
「柳原土手」
寛政6年(1794)に柳原土手が火除地となり、すぐに取り除ける葦簀張の下級の古着を扱う古着屋が集まりました(こちらで記載)。
高級の商品を扱うようになった富沢町に対し、柳原土手は、下級の商品を扱う古着屋として賑わいました。
「江戸名所図会 柳原堤」
古着屋が軒を連ねて、古着が吊るされています。
「竹馬古着屋」
行商「竹馬古着屋」による古着の販売も行われていました。
「竹馬古着屋」(守貞謾稿巻6 国立国会図書館蔵)
挿絵には、「竹具の四足なるを担う 故に竹馬と云 古衣服及び古衣を解き分て 衿あるいは裡其他諸用の小物を売る 専ら小戸を巡る也」とあります。
竹馬という竹で組んだ四脚の運搬具に衣類や布を下げ、天秤棒の両端にさげて担いで売った棒手振りです。
「湯灌場買い」
湯灌場(ゆかんば:死体を清めるための小屋)に出向いて、故人が着ていた着物を遺族から買い取っていたのが湯灌場買いです。
「赤門寺のボロ市」(勝専寺)
赤門寺のボロ市は、参勤交代の大名や旅人が江戸入りする千住で正装に着替え、捨てられた衣服や足袋が洗って売られたのがはじまりといわれます。ボロ市は、二七の市といって二と七のつく日に行われていました。(こちらで記載)
○富沢稲荷神社 中央区日本橋富沢町7-18
日本橋富沢町の鎮守として祀られているのが「富沢稲荷神社」です。創建年代は不詳で、かつては巴熊稲荷神社と称していましたが、昭和25(1950)年に元弥生町・新大阪町・元浜町の稲荷社が合祀され、現在の「富澤稲荷神社」に改称されました。
社号標「富澤稲荷神社」
扁額「富澤稲荷神社」
灯篭台石跡
手水舎
拝殿
拝殿内
拝殿から参道
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