銅像堀公園 (西村勝三銅像)
○銅像堀公園 墨田区向島5-9-1
「故西村勝三君銅像」(京浜所在銅像写真 人見幾三郎 諏訪堂 明治43年5月)
かつて、西村勝三の像が銅像堀公園にありました。 明治39(1906)年に銅像が建立され(高村高雲作)、12月9日に除幕式が行われました。 銅像は、昭和18(1943)年に戦時供出され、昭和24(1949)年に石像として再建されるも昭和40(1965)年に撤去されました。
<銅像堀公園> 墨田区向島5-9-1
かつて銅像があった名前だけが、銅像堀自転車保管所や、銅像堀公園、電信柱名に残っています。
<「銅像堀支」電信柱>
電信柱にも銅像堀の名前が残っています。
※西村勝三については、こちらで記載
「故西村勝三君銅像」(京浜所在銅像写真 人見幾三郎 諏訪堂 明治43年5月)
かつて、西村勝三の像が銅像堀公園にありました。 明治39(1906)年に銅像が建立され(高村高雲作)、12月9日に除幕式が行われました。 銅像は、昭和18(1943)年に戦時供出され、昭和24(1949)年に石像として再建されるも昭和40(1965)年に撤去されました。
<銅像堀公園> 墨田区向島5-9-1
かつて銅像があった名前だけが、銅像堀自転車保管所や、銅像堀公園、電信柱名に残っています。
<「銅像堀支」電信柱>
電信柱にも銅像堀の名前が残っています。
※西村勝三については、こちらで記載
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
隅田公園④ 水戸家本邸/堀辰雄ゆかり地
○隅田公園 墨田区向島1
水戸徳川家の江戸下屋敷があった場所で、明治維新後、上屋敷の小石川邸が砲兵工廠となったため、水戸家本邸の小梅邸(当主・徳川昭武:徳川慶喜の弟)が置かれました。
昭武は慶喜の生母吉子も水戸から呼び明治6(1873)年から死去する明治26(1893)年まで小梅邸で暮らしました。
徳川慶喜も度々訪れ、昭武と共通の趣味である写真の撮影をしています。
関東大震災で焼失し、隅田公園の一部となりました。
<門柱>
公園の入口は、かつて小梅邸が存在していたかのような門柱があります。
<小梅邸と明治天皇行幸>
(説明板)
「小梅邸と明治天皇行幸
江戸時代、この地は水戸徳川家の蔵屋敷で、上屋敷の小石川邸(その外庭が小石川後楽園)が明治時代初めに歩兵工廠となったため、この小梅邸が本邸(当主・徳川昭武:15代将軍慶喜の弟)となりました。小梅邸は、北十間川から隅田川に出る舟運の要衝であると同時に、水戸と小石川邸を結ぶ水戸街道沿いにあって街道の要衝でもありました。
江戸時代から桜の名所であった隅田堤の桜が満開の明治8年(1875)4月4日、明治天皇が小梅邸に行幸され、その時の御製が石碑に刻まれています。これは徳川関係屋敷への最初の行幸で、明治政府と徳川の和解の場でした。行幸啓は以後5回に及び、明治29年(1896)には洋館が造られました。」
<明治天皇行幸所 水戸徳川邸舊阯>
「昭和十三年三月建設」
<隅田公園水戸邸跡由来記>
東京両国ライオンズクラブが墨田区へ寄贈した由来記です。昭和五十四年四月設置。
<明治天皇御製歌碑>
(表面)
「明治天皇御製 花ぐわし 桜もあれど 此やど乃 よ々のこころを 我はとひけり」
(裏面)
「明治八年四月四日 明治天皇先臣昭武の邸に臨ませられ畏くも宸筆の御製を賜ふ此地は當年の邸趾にして大正十二年の大震火灾後帝都の復興に際し隅田公園となれり圀順此光榮ある遺蹟を永く世に傳へんと欲し御製を謹書して茲に此碑を建つ
昭和五年三月 公爵 徳川圀順」
【徳川圀順】
徳川圀順は水戸徳川家第13代当主。父、篤敬が死去し11歳で家督を相続し、母・聰子と先々代当主の昭武が後見人となりました。
○堀辰雄ゆかりの地 墨田区向島1-3
東の縁に堀辰雄説明板があります。
(説明板)
「堀辰雄ゆかりの地 現在地 墨田区向島一丁目三番
堀辰雄は明治三十七年(一九○四)、麹町平河町(現在の千代田区平河町)に生まれました。二歳のとき、母志気に連れられ向島小梅町(現在の向島三丁目)に住む叔母の家に移りました。その後、明治四十一年に母が彫金師上條松吉と結婚し、向島中ノ郷町三十二番地(左図①)で暮らしはじめます。
更にその二年後には大水の影響で新小梅町二の四(同②)に移り、ここから牛嶋尋常小学校(同A)に通います。府立第三中学校(現在の都立両国高校)を卒業した辰雄は、室生犀星の紹介により同校の先輩である芥川龍之介を知り、文学的影響を受けます。
関東大震災では九死に一生を得ますが、母を亡くしました。大正十三年(一九二四)四月に父松吉が隅田公園東隣の新小梅町八番地(左図③)に住居を新築し、辰雄が結婚して軽井沢へ赴く昭和十三年(一九三八)まで父と共にそこで暮らしました。辰雄の夫人多恵氏は随筆「蓮の花」の中でこの家を懐かしみ、「あの竹の植わっていた小さい玄関ー辰雄はそんな自分の家を『雀のお宿』と呼んでいた」と記しています。
人生の過半を向島で過ごした辰雄は、「墓畔の家」や『幼年時代』などの作品に、当時の墨堤や近隣の寺社の様子を記しています。「神社の境内の奥まったところに、赤い涎かけをかけた石の牛が一ぴき臥てゐた。私はそのどこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった。」(『幼年時代』)とあるのは、牛島神社境内の撫牛のことです。
昭和初期の文学の傑作として高い評価を受けた『聖家族』をはじめ、『風立ちぬ』『美しい村』など愛や生死をテーマとする作品を残し、昭和二十八年(一九五三)に没しました。
平成二十三年八月 墨田区教育委員会」
堀辰雄は牛嶋神社の「撫牛」について、「幼年時代」で「どこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった」と記しています。
堀辰雄住居跡(墨田区向島3-36-7)が別途あります。
「堀辰雄肖像」(「近代日本人の肖像」国立国会図書館)
明治37(1904)年12月28日〜昭和28(1953)年5月28日
○二峯先生之碑
二峯先生とは、幕末から明治時代初期にかけて活躍した書家の高林二峯です。
篆額「二峯先生之碑」は勝海舟が受け持ちました。
(説明板)
「二峯先生之碑 所在地 墨田区向島一丁目三番 隅田公園内
二峯先生とは、幕末から明治時代初期にかけて活躍した書家の高林二峯のことです。二峯の生涯を称える内容が刻まれたこの碑は明治三十年(一八九七)八月十六日に二峯が没した翌年の三月、円通寺(押上二)に建碑され、のちに現在地に移設されました。
二峯は、文政二年(一八一九)九月三日に上野国後閑村(群馬県安中市)に生まれました。生誕地より望める妙義・榛名の二山にちなみ二峯と号しました。幼少より書の才を現わし、天保十四年(一八四三)には幕末の三筆と呼ばれた巻菱湖に師事しようと江戸に出ました。しかし、菱湖はすでに亡くなっていたので、二峯は中国の古筆の研究を進めやがて独自の書法を確立するに至ります。二峯の書は向島百花園の「しのぶつか」、「きゃうけん塚」などの碑でも見ることができます。
碑文を担当したのは長男の寛です。五峯と号し、父の書風を受け継ぎ、さらに中国の書に近世の諸流を学び、独特の書風を打ち立てました。篆額「二峯先生之碑」は勝海舟(勝安房)が受け持ちました。
建碑の中心となったのは、今泉雄作です。東京美術学校(現在の東京藝術大学)創立者の一人で、二峯の弟子として文峯の号を名乗りました。庶務を担当した佐羽喜六は十一才で二峯に入門した後、桐生の豪商に婿入りして佐羽氏を継ぎ、桐生の近代織物業の発展に力を注ぎました。裏面に刻まれる建碑寄付者の中には、二峯の出身地とゆかりのある前橋市長竹内勝蔵や貴族院議員江原芳平などの名も見られます。
平成二十二年十二月 墨田区教育委員会」
水戸徳川家の江戸下屋敷があった場所で、明治維新後、上屋敷の小石川邸が砲兵工廠となったため、水戸家本邸の小梅邸(当主・徳川昭武:徳川慶喜の弟)が置かれました。
昭武は慶喜の生母吉子も水戸から呼び明治6(1873)年から死去する明治26(1893)年まで小梅邸で暮らしました。
徳川慶喜も度々訪れ、昭武と共通の趣味である写真の撮影をしています。
関東大震災で焼失し、隅田公園の一部となりました。
<門柱>
公園の入口は、かつて小梅邸が存在していたかのような門柱があります。
<小梅邸と明治天皇行幸>
(説明板)
「小梅邸と明治天皇行幸
江戸時代、この地は水戸徳川家の蔵屋敷で、上屋敷の小石川邸(その外庭が小石川後楽園)が明治時代初めに歩兵工廠となったため、この小梅邸が本邸(当主・徳川昭武:15代将軍慶喜の弟)となりました。小梅邸は、北十間川から隅田川に出る舟運の要衝であると同時に、水戸と小石川邸を結ぶ水戸街道沿いにあって街道の要衝でもありました。
江戸時代から桜の名所であった隅田堤の桜が満開の明治8年(1875)4月4日、明治天皇が小梅邸に行幸され、その時の御製が石碑に刻まれています。これは徳川関係屋敷への最初の行幸で、明治政府と徳川の和解の場でした。行幸啓は以後5回に及び、明治29年(1896)には洋館が造られました。」
<明治天皇行幸所 水戸徳川邸舊阯>
「昭和十三年三月建設」
<隅田公園水戸邸跡由来記>
東京両国ライオンズクラブが墨田区へ寄贈した由来記です。昭和五十四年四月設置。
<明治天皇御製歌碑>
(表面)
「明治天皇御製 花ぐわし 桜もあれど 此やど乃 よ々のこころを 我はとひけり」
(裏面)
「明治八年四月四日 明治天皇先臣昭武の邸に臨ませられ畏くも宸筆の御製を賜ふ此地は當年の邸趾にして大正十二年の大震火灾後帝都の復興に際し隅田公園となれり圀順此光榮ある遺蹟を永く世に傳へんと欲し御製を謹書して茲に此碑を建つ
昭和五年三月 公爵 徳川圀順」
【徳川圀順】
徳川圀順は水戸徳川家第13代当主。父、篤敬が死去し11歳で家督を相続し、母・聰子と先々代当主の昭武が後見人となりました。
○堀辰雄ゆかりの地 墨田区向島1-3
東の縁に堀辰雄説明板があります。
(説明板)
「堀辰雄ゆかりの地 現在地 墨田区向島一丁目三番
堀辰雄は明治三十七年(一九○四)、麹町平河町(現在の千代田区平河町)に生まれました。二歳のとき、母志気に連れられ向島小梅町(現在の向島三丁目)に住む叔母の家に移りました。その後、明治四十一年に母が彫金師上條松吉と結婚し、向島中ノ郷町三十二番地(左図①)で暮らしはじめます。
更にその二年後には大水の影響で新小梅町二の四(同②)に移り、ここから牛嶋尋常小学校(同A)に通います。府立第三中学校(現在の都立両国高校)を卒業した辰雄は、室生犀星の紹介により同校の先輩である芥川龍之介を知り、文学的影響を受けます。
関東大震災では九死に一生を得ますが、母を亡くしました。大正十三年(一九二四)四月に父松吉が隅田公園東隣の新小梅町八番地(左図③)に住居を新築し、辰雄が結婚して軽井沢へ赴く昭和十三年(一九三八)まで父と共にそこで暮らしました。辰雄の夫人多恵氏は随筆「蓮の花」の中でこの家を懐かしみ、「あの竹の植わっていた小さい玄関ー辰雄はそんな自分の家を『雀のお宿』と呼んでいた」と記しています。
人生の過半を向島で過ごした辰雄は、「墓畔の家」や『幼年時代』などの作品に、当時の墨堤や近隣の寺社の様子を記しています。「神社の境内の奥まったところに、赤い涎かけをかけた石の牛が一ぴき臥てゐた。私はそのどこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった。」(『幼年時代』)とあるのは、牛島神社境内の撫牛のことです。
昭和初期の文学の傑作として高い評価を受けた『聖家族』をはじめ、『風立ちぬ』『美しい村』など愛や生死をテーマとする作品を残し、昭和二十八年(一九五三)に没しました。
平成二十三年八月 墨田区教育委員会」
堀辰雄は牛嶋神社の「撫牛」について、「幼年時代」で「どこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった」と記しています。
堀辰雄住居跡(墨田区向島3-36-7)が別途あります。
「堀辰雄肖像」(「近代日本人の肖像」国立国会図書館)
明治37(1904)年12月28日〜昭和28(1953)年5月28日
○二峯先生之碑
二峯先生とは、幕末から明治時代初期にかけて活躍した書家の高林二峯です。
篆額「二峯先生之碑」は勝海舟が受け持ちました。
(説明板)
「二峯先生之碑 所在地 墨田区向島一丁目三番 隅田公園内
二峯先生とは、幕末から明治時代初期にかけて活躍した書家の高林二峯のことです。二峯の生涯を称える内容が刻まれたこの碑は明治三十年(一八九七)八月十六日に二峯が没した翌年の三月、円通寺(押上二)に建碑され、のちに現在地に移設されました。
二峯は、文政二年(一八一九)九月三日に上野国後閑村(群馬県安中市)に生まれました。生誕地より望める妙義・榛名の二山にちなみ二峯と号しました。幼少より書の才を現わし、天保十四年(一八四三)には幕末の三筆と呼ばれた巻菱湖に師事しようと江戸に出ました。しかし、菱湖はすでに亡くなっていたので、二峯は中国の古筆の研究を進めやがて独自の書法を確立するに至ります。二峯の書は向島百花園の「しのぶつか」、「きゃうけん塚」などの碑でも見ることができます。
碑文を担当したのは長男の寛です。五峯と号し、父の書風を受け継ぎ、さらに中国の書に近世の諸流を学び、独特の書風を打ち立てました。篆額「二峯先生之碑」は勝海舟(勝安房)が受け持ちました。
建碑の中心となったのは、今泉雄作です。東京美術学校(現在の東京藝術大学)創立者の一人で、二峯の弟子として文峯の号を名乗りました。庶務を担当した佐羽喜六は十一才で二峯に入門した後、桐生の豪商に婿入りして佐羽氏を継ぎ、桐生の近代織物業の発展に力を注ぎました。裏面に刻まれる建碑寄付者の中には、二峯の出身地とゆかりのある前橋市長竹内勝蔵や貴族院議員江原芳平などの名も見られます。
平成二十二年十二月 墨田区教育委員会」
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
隅田公園③ 墨堤通り
隅田公園③ 墨田区向島1
隅田公園の墨堤側と墨堤をめぐります。隅田公園のこの場所は旧小梅邸があった場所で、藤田東湖の漢詩碑があります。
○ 散策解説板①
○ 葛飾北斎ゆかりの案内板⑯
○ 明治天皇海軍漕艇展覧玉座阯の碑/隅田川ボート記念碑
○ 藤田東湖「天地正大気」漢詩碑
○ 俳人 富田木歩終焉の地
○ 平成植桜の碑
○隅田公園
<隅田公園 散策解説板①>
「墨田公園 散策解説板①
江戸時代の墨堤 江戸随一の観光名所
江戸時代以前の墨堤は、牛御前と呼ばれる牛嶋神社に表されるように、放牧や農業(田畑)を営む地域でした。
江戸時代に入り、三代将軍徳川家光の頃から盛んに鷹狩などが行われるようになり、徐々に江戸の市民に景勝地として認知されてきました。
墨堤の始まりは、四代将軍徳川家綱の頃の植桜とされていますが、実際は八代将軍徳川吉宗の頃の植桜を期に江戸の花見の名所として認識され、上野寛永寺・飛鳥山・御殿山等とともに江戸の桜の名所として親しまれました。
当時の墨堤の繁栄の様子は、数多く残されている浮世絵や俳句・和歌等によって伝えられています。」
○すみだが誇る世界の絵師葛飾北斎が描いた風景をたどろう
「⑯ 大川橋の月 小梅の泊舩(船) -絵本隅田川両岸一覧-
隅田川の1年を描いた狂歌絵本『隅田川両岸一覧』は全3巻25作品で、隅田川両岸の様子を中心に高輪から吉原までを描いたものです。中巻に収められたこの作品は大川橋(現在の吾妻橋)のあたりが描かれており、現在の墨田区役所はこの絵の中では大川橋の真上にあたります。大川橋の左の小さな橋が北十間川に架かる枕橋です。画面手前には御休處でくつろぐ人たち、タライを回して子どもたちと戯れる人、そして茶店に集う人々の活き活きとした様子が描かれています。また橋の上やたもとにはたくさんの人たちが往来し、当時の賑わいを知ることができます。」
○明治天皇海軍漕艇展覧玉座阯の碑/隅田川ボート記念碑 墨田区向島1-3隅田公園
「明治天皇海軍漕艇展覧玉座阯の碑」と、「隅田川ボート記念碑」が並んで建っています。
明治天皇は4回もレガッタを展覧しています。明治天皇のレガッタ視察のために玉座をしつらえた場所に碑が建っています。昭和16年11月に建碑。
○藤田東湖「天地正大気」の漢詩碑
(説明板)
「藤田東湖「天地正大気」の漢詩碑
江戸末期の尊王攘夷論者として知られた水戸藩士藤田彪(号は東湖)の「和文天祥正気歌」の刻まれた漢詩碑です。
弘化二年(一八四五)十一月、藤田東湖はこの地にあった小梅の水戸徳川家下屋敷に幽閉されているときに次の詩を作りました。
「天地正大の気、粋然として神州に錘まる。秀でては富士の獄となり、巍々として千秋に聳ゆ・・・(下略)」と、五言七十四句の中に天地自然の美しさと日本古来の国体を賛美した内容で、通称「正気の歌」の名で有名です。
中国宋時代の忠臣文天祥も敵に捕まり、故国を賛美した「正気之歌」を作詞したことから、同じ境遇の東湖は同名の漢詩を作りました。
東湖は、文化三年(一八○六)水戸に生まれ、彰考館編集として攘夷論を水戸学としてまとめあげました。また、徳川斉昭の腹心として藩政改革に活躍したことでも知られています。安政二年(一八五五)の大地震の時に、五十歳で不運な死を遂げましたが、この漢詩は水戸の尊皇攘夷派のバイブルとなり、さらには幕末の志士たちに大きな影響を与え、明治維新の原動力になったといわれています。
この碑は、昭和十九年六月に東湖会が建立しました。
平成二十年三月 墨田区教育委員会」
「藤田東湖三十三歳肖像」(肖像 野村文紹 国立国会図書館蔵)
○俳人 富田木歩終焉の地
「俳人 富田木歩終焉の地」
関東大震災の犠牲となった向島出身の俳人の標柱です。
○平成植桜の碑
人々の寄付によって隅田公園内に桜を植栽した記念碑です。
(説明板)
「平成植栽の碑
墨堤に桜を植え、花見の名所にしたのは八代将軍の吉宗でした。吉宗は桜・桃・柳などを植えて、人々の憩える場所にしました。以来人々は、墨堤の桜を大切に育ててきました。
東都有数の景勝地として人々に知られた墨堤の桜は、これまで幾度も洪水などの危機に見舞われましたが、そのたびに地元の人々が寄付を募り、その寄付で桜を植え直し今日に至っています。
高速道路の建設工事に伴い植え替えられた現在の桜は、樹齢も四十年余りの年月を数え、一部の桜は樹勢が衰えてきました。そこで、これまでの歴史的な背景もふまえ、このたびの「墨堤の桜の保全・創出事業」において、桜を愛する人々の寄付によって生育環境の改善を図るとともに、隅田公園内に新たに桜を植栽し、墨田区登録名勝ともなっている墨堤の桜を次の世代に守り伝えていくことになりました。
新たな桜植栽にご協力をいただいたのは、先の方々をはじめとする多くの善意あるみなさんです。
平成十九年三月 墨田区」
隅田公園の墨堤側と墨堤をめぐります。隅田公園のこの場所は旧小梅邸があった場所で、藤田東湖の漢詩碑があります。
○ 散策解説板①
○ 葛飾北斎ゆかりの案内板⑯
○ 明治天皇海軍漕艇展覧玉座阯の碑/隅田川ボート記念碑
○ 藤田東湖「天地正大気」漢詩碑
○ 俳人 富田木歩終焉の地
○ 平成植桜の碑
○隅田公園
<隅田公園 散策解説板①>
「墨田公園 散策解説板①
江戸時代の墨堤 江戸随一の観光名所
江戸時代以前の墨堤は、牛御前と呼ばれる牛嶋神社に表されるように、放牧や農業(田畑)を営む地域でした。
江戸時代に入り、三代将軍徳川家光の頃から盛んに鷹狩などが行われるようになり、徐々に江戸の市民に景勝地として認知されてきました。
墨堤の始まりは、四代将軍徳川家綱の頃の植桜とされていますが、実際は八代将軍徳川吉宗の頃の植桜を期に江戸の花見の名所として認識され、上野寛永寺・飛鳥山・御殿山等とともに江戸の桜の名所として親しまれました。
当時の墨堤の繁栄の様子は、数多く残されている浮世絵や俳句・和歌等によって伝えられています。」
○すみだが誇る世界の絵師葛飾北斎が描いた風景をたどろう
「⑯ 大川橋の月 小梅の泊舩(船) -絵本隅田川両岸一覧-
隅田川の1年を描いた狂歌絵本『隅田川両岸一覧』は全3巻25作品で、隅田川両岸の様子を中心に高輪から吉原までを描いたものです。中巻に収められたこの作品は大川橋(現在の吾妻橋)のあたりが描かれており、現在の墨田区役所はこの絵の中では大川橋の真上にあたります。大川橋の左の小さな橋が北十間川に架かる枕橋です。画面手前には御休處でくつろぐ人たち、タライを回して子どもたちと戯れる人、そして茶店に集う人々の活き活きとした様子が描かれています。また橋の上やたもとにはたくさんの人たちが往来し、当時の賑わいを知ることができます。」
○明治天皇海軍漕艇展覧玉座阯の碑/隅田川ボート記念碑 墨田区向島1-3隅田公園
「明治天皇海軍漕艇展覧玉座阯の碑」と、「隅田川ボート記念碑」が並んで建っています。
明治天皇は4回もレガッタを展覧しています。明治天皇のレガッタ視察のために玉座をしつらえた場所に碑が建っています。昭和16年11月に建碑。
○藤田東湖「天地正大気」の漢詩碑
(説明板)
「藤田東湖「天地正大気」の漢詩碑
江戸末期の尊王攘夷論者として知られた水戸藩士藤田彪(号は東湖)の「和文天祥正気歌」の刻まれた漢詩碑です。
弘化二年(一八四五)十一月、藤田東湖はこの地にあった小梅の水戸徳川家下屋敷に幽閉されているときに次の詩を作りました。
「天地正大の気、粋然として神州に錘まる。秀でては富士の獄となり、巍々として千秋に聳ゆ・・・(下略)」と、五言七十四句の中に天地自然の美しさと日本古来の国体を賛美した内容で、通称「正気の歌」の名で有名です。
中国宋時代の忠臣文天祥も敵に捕まり、故国を賛美した「正気之歌」を作詞したことから、同じ境遇の東湖は同名の漢詩を作りました。
東湖は、文化三年(一八○六)水戸に生まれ、彰考館編集として攘夷論を水戸学としてまとめあげました。また、徳川斉昭の腹心として藩政改革に活躍したことでも知られています。安政二年(一八五五)の大地震の時に、五十歳で不運な死を遂げましたが、この漢詩は水戸の尊皇攘夷派のバイブルとなり、さらには幕末の志士たちに大きな影響を与え、明治維新の原動力になったといわれています。
この碑は、昭和十九年六月に東湖会が建立しました。
平成二十年三月 墨田区教育委員会」
「藤田東湖三十三歳肖像」(肖像 野村文紹 国立国会図書館蔵)
○俳人 富田木歩終焉の地
「俳人 富田木歩終焉の地」
関東大震災の犠牲となった向島出身の俳人の標柱です。
○平成植桜の碑
人々の寄付によって隅田公園内に桜を植栽した記念碑です。
(説明板)
「平成植栽の碑
墨堤に桜を植え、花見の名所にしたのは八代将軍の吉宗でした。吉宗は桜・桃・柳などを植えて、人々の憩える場所にしました。以来人々は、墨堤の桜を大切に育ててきました。
東都有数の景勝地として人々に知られた墨堤の桜は、これまで幾度も洪水などの危機に見舞われましたが、そのたびに地元の人々が寄付を募り、その寄付で桜を植え直し今日に至っています。
高速道路の建設工事に伴い植え替えられた現在の桜は、樹齢も四十年余りの年月を数え、一部の桜は樹勢が衰えてきました。そこで、これまでの歴史的な背景もふまえ、このたびの「墨堤の桜の保全・創出事業」において、桜を愛する人々の寄付によって生育環境の改善を図るとともに、隅田公園内に新たに桜を植栽し、墨田区登録名勝ともなっている墨堤の桜を次の世代に守り伝えていくことになりました。
新たな桜植栽にご協力をいただいたのは、先の方々をはじめとする多くの善意あるみなさんです。
平成十九年三月 墨田区」
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
隅田公園① 王貞治、野口雨情など
○隅田公園少年野球場 墨田区向島5-6-13
一本足打法のレリーフがあります。
(説明板)
「隅田公園少年野球場
この少年野球場は、昭和24年戦後の荒廃した時代に「少年に明日への希望」をスローガンとして、有志や子ども達の荒地整備による汗の結晶として誕生した日本で最初の少年野球場です。
以来数多くの少年球児がこの球場から巣立っていったが、中でも日本が誇る世界のホームラン王巨人軍王貞治氏もこの球場から育った一人です。
昭和61年3月 墨田区教育委員会」
○道案内碑ほか 墨田区向島5-1-1
(道標)
「多聞寺
白鬚神社
向島百花園
長命寺
弘福寺
三圍神社 」
(解説板)
「隅田公園 散策解説板?
艇庫とレガッタ レガッタによる隅田川の賑わい
レガッタは明治、大正時代の学生達の間で最も盛んに行われたスポーツで、日本における発祥の地は隅田川です。
1883年 (明治16年) 日本初のレガッタが向島で開催された後は、学校や企業間を問わず盛んに行われ、隅田川はレガッタのメッカとなりました。現在の首都高速6号向島線向島ランプ及び屋内プール体育館の辺りには「艇庫村」と称されるほど艇庫が立ち並び、レガッタの際には川岸を大の観衆が埋め尽くしました。しかし水質の悪化等の理由で、1967年(昭和42年)の一橋大学艇庫の移転を最後に隅田川から艇庫の姿が消えました。
近年では水質浄化により隅田川でのレガッタが復活し、往時の活気を取り戻しつつあります。」
○野口雨情詩歌碑 墨田区向島5-1-1
言問団子の向かいの隅田公園に野口雨情詩歌碑があります。
「序詞 野口雨情
都鳥さへ 夜長のころは 水に歌書く 夢も見る」
「立札
都鳥さえ夜長のころは水に歌書く夢も見る
ここに刻まれた都鳥の詩は、日本童謡民謡の先駆、巨匠野口雨情氏が、昭和八年門下生の詩謡集の序詞執筆のため当地に来遊の折、唱われたものである。
東京都民の心のふるさとである隅田川ぞいを飾るにふさわしい作品として、記念に刻し、永遠に保存する。
昭和六十三年十月九日 墨田区」
○墨堤植櫻之碑 墨田区向島5-1-1
4代将軍家綱に始まるさくらの植栽の由来を記しています(明治20年建碑)。榎本武揚の篆額です。
碑陰には水害のため、明治29年に移設された経緯が刻まれています。
(説明板)
「墨堤植桜の碑 所在 墨田区向島五丁目一番 隅田公園
この石碑は墨堤の桜の由来を記したもので、榎本武揚の篆額、濱邨大澥の撰文、宮亀年の彫刻です。
墨堤の桜は、初め四代将軍家綱の命で、皆と共にに楽しむためにと植えさせ、享保二年(一七一七)に八代将軍吉宗が百本の桜を、同十一年には桜、桃、柳各百五十本植えさせ、その世話は代々隅田村の名主阪田氏が担当しました。その後文化年間に佐原鞠塢、朝川黙翁、中山ト鄰が百五十本、天保二年(一八三一)に阪田三七郎が二百余株の桜を植えました。弘化三年(一八四六)洪水で堤が決壊し、それを須崎村の宇田川総兵衛が独力で修築、そのことを顕彰して村人が百五十本、安政元年(一八五四)に阪田三七郎が二百株、明治に至り其角堂永機、旧水戸藩知事、寺島村の人々が各々桜を植えました。
さらに大倉喜八郎、成島柳北が名勝を守るため白鴎社を設立、村人もこれに応じ、南葛飾郡長伊志田友方は、このことを府知事に告げ植樹を助成しました。志半ばで死去した成島柳北の遺志を継いで、安田善次郎、大倉喜八郎、川崎八右衛門が出資し、村人の協力を得て墨堤の植桜が完成しました。
このような功績を永世に伝えるため、明治二十年に建碑されましたが、後に堤が壊れ碑が傾いたので、明治二十九年に本所区長飯島保篤が大倉、安田、川崎三氏と共に起工し、榎本武揚、小野義真も出資して移設しました。
平成二年三月 墨田区」
(解説板)
「隅田公園 散策解説板⑧
墨堤植桜之碑と桜勧進 住民が育てた墨堤の桜
江戸時代、花見の名所として地位を確立していった墨堤も、当初の墨堤の桜は水神社(現在の隅田川神社)付近を中心に植えられていました。しかし1800年代から、地元の村の有志らによって桜が植えられ、墨堤の桜が南へと延伸して行きました。
墨堤の桜が長命寺、三囲神社と徐々に延びて、枕橋まで達したのは1880年ごろといわれています。この間は地元有志の植桜だけではなく、有志が発起人となった「桜勧進」と呼ばれる寄付が行われています。
墨堤の桜が地元の人々に愛されていた桜であることが、この植桜之碑に刻まれています。」
一本足打法のレリーフがあります。
(説明板)
「隅田公園少年野球場
この少年野球場は、昭和24年戦後の荒廃した時代に「少年に明日への希望」をスローガンとして、有志や子ども達の荒地整備による汗の結晶として誕生した日本で最初の少年野球場です。
以来数多くの少年球児がこの球場から巣立っていったが、中でも日本が誇る世界のホームラン王巨人軍王貞治氏もこの球場から育った一人です。
昭和61年3月 墨田区教育委員会」
○道案内碑ほか 墨田区向島5-1-1
(道標)
「多聞寺
白鬚神社
向島百花園
長命寺
弘福寺
三圍神社 」
(解説板)
「隅田公園 散策解説板?
艇庫とレガッタ レガッタによる隅田川の賑わい
レガッタは明治、大正時代の学生達の間で最も盛んに行われたスポーツで、日本における発祥の地は隅田川です。
1883年 (明治16年) 日本初のレガッタが向島で開催された後は、学校や企業間を問わず盛んに行われ、隅田川はレガッタのメッカとなりました。現在の首都高速6号向島線向島ランプ及び屋内プール体育館の辺りには「艇庫村」と称されるほど艇庫が立ち並び、レガッタの際には川岸を大の観衆が埋め尽くしました。しかし水質の悪化等の理由で、1967年(昭和42年)の一橋大学艇庫の移転を最後に隅田川から艇庫の姿が消えました。
近年では水質浄化により隅田川でのレガッタが復活し、往時の活気を取り戻しつつあります。」
○野口雨情詩歌碑 墨田区向島5-1-1
言問団子の向かいの隅田公園に野口雨情詩歌碑があります。
「序詞 野口雨情
都鳥さへ 夜長のころは 水に歌書く 夢も見る」
「立札
都鳥さえ夜長のころは水に歌書く夢も見る
ここに刻まれた都鳥の詩は、日本童謡民謡の先駆、巨匠野口雨情氏が、昭和八年門下生の詩謡集の序詞執筆のため当地に来遊の折、唱われたものである。
東京都民の心のふるさとである隅田川ぞいを飾るにふさわしい作品として、記念に刻し、永遠に保存する。
昭和六十三年十月九日 墨田区」
○墨堤植櫻之碑 墨田区向島5-1-1
4代将軍家綱に始まるさくらの植栽の由来を記しています(明治20年建碑)。榎本武揚の篆額です。
碑陰には水害のため、明治29年に移設された経緯が刻まれています。
(説明板)
「墨堤植桜の碑 所在 墨田区向島五丁目一番 隅田公園
この石碑は墨堤の桜の由来を記したもので、榎本武揚の篆額、濱邨大澥の撰文、宮亀年の彫刻です。
墨堤の桜は、初め四代将軍家綱の命で、皆と共にに楽しむためにと植えさせ、享保二年(一七一七)に八代将軍吉宗が百本の桜を、同十一年には桜、桃、柳各百五十本植えさせ、その世話は代々隅田村の名主阪田氏が担当しました。その後文化年間に佐原鞠塢、朝川黙翁、中山ト鄰が百五十本、天保二年(一八三一)に阪田三七郎が二百余株の桜を植えました。弘化三年(一八四六)洪水で堤が決壊し、それを須崎村の宇田川総兵衛が独力で修築、そのことを顕彰して村人が百五十本、安政元年(一八五四)に阪田三七郎が二百株、明治に至り其角堂永機、旧水戸藩知事、寺島村の人々が各々桜を植えました。
さらに大倉喜八郎、成島柳北が名勝を守るため白鴎社を設立、村人もこれに応じ、南葛飾郡長伊志田友方は、このことを府知事に告げ植樹を助成しました。志半ばで死去した成島柳北の遺志を継いで、安田善次郎、大倉喜八郎、川崎八右衛門が出資し、村人の協力を得て墨堤の植桜が完成しました。
このような功績を永世に伝えるため、明治二十年に建碑されましたが、後に堤が壊れ碑が傾いたので、明治二十九年に本所区長飯島保篤が大倉、安田、川崎三氏と共に起工し、榎本武揚、小野義真も出資して移設しました。
平成二年三月 墨田区」
(解説板)
「隅田公園 散策解説板⑧
墨堤植桜之碑と桜勧進 住民が育てた墨堤の桜
江戸時代、花見の名所として地位を確立していった墨堤も、当初の墨堤の桜は水神社(現在の隅田川神社)付近を中心に植えられていました。しかし1800年代から、地元の村の有志らによって桜が植えられ、墨堤の桜が南へと延伸して行きました。
墨堤の桜が長命寺、三囲神社と徐々に延びて、枕橋まで達したのは1880年ごろといわれています。この間は地元有志の植桜だけではなく、有志が発起人となった「桜勧進」と呼ばれる寄付が行われています。
墨堤の桜が地元の人々に愛されていた桜であることが、この植桜之碑に刻まれています。」
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
隅田公園② みめぐりの土手
○隅田川テラス/土手
<かもめ>
理由はわかりませんが、隅田川では、ここが一番カモメが多い。至近距離でカメラを向けても、ハトのごとく、全く逃げません。
(解説板)
「隅田公園 散策解説板⑤
桜橋とポトマック帰りの桜 ワシントンからの贈り物
台東区と墨田区は隅田川を挟んで相対していることから、昭和52年に姉妹区協定を結びました。この記念事業として、両区にまたがる隅田公園に歩行者専用の橋を架けることを計画し、昭和60年に桜橋が完成しました。
この架橋に際して、アメリカ合衆国ワシントンD.C.より桜がとどきました。ワシントンD.C.のポトマック河畔の桜並木は世界の名所のひとつになっています。この桜は明治末期頃、当時のタフト大統領夫人が東京を訪れた際に向島の桜に魅せられ、是非ワシントンに植えたいという希望に対して、当時の尾崎行雄東京市長がプレゼントしたものです。
約70年の時を経て、その桜の子孫が再び向島の地に戻ってきました。」
<すみだが誇る世界の絵師葛飾北斎が描いた風景をたどろう>
(説明板)
「⑭ 須佐之男命厄神退治之圖
葛飾北斎晩年期の傑作といわれている、縦1.2m余、横2.8mに及ぶ大きな板絵です。北斎は弘化2年(1845)年頃、牛嶋神社(現在向島1丁目)付近に住んでいたと伝えられ、「須佐之男命厄神退治之図」を奉納しました。この作品は悪病をもたらす厄神たちに今後は悪事を働かないように須佐之男命が証文を書かせている場面を描いたものです。画面右下には「前北斎卍筆 齢八十七歳」の落款があります。残念ながら大正12(1923)年、関東大震災で焼失してしまいましたが、現在は原寸大の復元パネルが牛嶋神社の社殿に飾られています。」
〇常夜燈 墨田区向島5-1-1
(説明板)
「墨田区指定有形文化財
石造墨堤永代常夜燈 所在地 墨田区向島五丁目 隅田公園内
所有者 牛嶋神社
石造墨堤永代常夜燈は、高さ五メートルを超え、琴柱状の脚が特徴的です。天辺の宝珠部分には牛嶋神社の社紋があり、基台上段には同神社の地位を表す「本所惣鎮守」の銘が彫刻されています。また、石組基壇には「永代常夜燈」の銘と「石工宮本平八」の名前を刻んだ石製プレートがはめ込まれています。
東京府文書によれば、この常夜燈は、江戸近郊の名所の演出にあずかってきた牛嶋神社の氏子十七名、具体的には植半や八百松、武蔵屋など有名料亭の主人たちの発意によって設置されたようです。明治四年(一八七一)の牛嶋神社の臨時祭に併せて奉納されたもので、元来は墨堤から牛嶋神社旧地(弘福寺西隣)へ下りる坂の頂にありました。
設置当時、この付近は夜になると真っ暗だったそうで、常夜燈の火が貴重な明かりとして利用されたことがうかがわれます、発起人十七名が東京府へ提出した設置許可申請書にも、この付近を通行する人々の役にも立つはずだとの思いがしたためられています。
この常夜燈は、設置以来、墨堤を代表する風物詩の一つとして絵画にも描かれるなどしてきました。平成二十八年七月二十一日、墨田区指定有形文化財に指定されました。
平成二十九年二月 墨田区教育委員会」
(解説板)
「隅田公園 散策解説板⑥
常夜燈と渡し舟
隅田川の水運と向島風情の象徴
この常夜燈の置かれている場所は、かつて牛嶋神社の境内地でした。牛嶋神社は隅田公園の整備とともに現在地に移転しましたが、この常夜燈だけはここに残されました。それは墨堤における重要な目印であったためです。
この付近にはかつて「竹屋の渡し」が設けられ、春の花見や夏の花火見物、明治に入ってからは向島の花柳界へと遊興客を数多く運んできました。まだ照明が発達していないこの時代にはこの常夜燈の明かりは非常に重要な役割を果たしていました。また、明治の画家達は墨堤の桜とこの常夜燈を好んで組み合わせることにより、墨堤の風情を描きました。当時の向島の格好のシンボルとしてその姿を今に伝えています。」
「墨田堤の花見」(小林清親)
隅田川下流からの光景、常夜燈が大きく描かれています。
「武藏百景之内 東京隅田堤のさくら」(小林清親)
隅田川上流から常夜燈が見えます。
○みめぐりの土手 墨田区向島2-1
「みめぐりの土手」(鬼平犯科ゆかりの高札)が、三囲神社の隅田川辺に建っています(平成25年設置)。
隅田川の対岸には山谷堀水門が見えます。
○三囲神社の大鳥居 墨田区向島2-1
三囲神社の隅田川に面して、鳥居が建っています。こちらの入口は現在は使用されていません。
(説明板)
「(墨田区登録文化財)
堤下の大鳥居と竹屋の渡し 所在地 墨田区向島二丁目一番 隅田公園内
隅田川七福神めぐりや桜の花見など、墨堤の散策は行楽好きの江戸市民に人気がありました。そのランドマークの一つとされたのが三囲神社の鳥居で、堤下の大鳥居として親しまれていました。土手の下にあったにもかかわらせず、対岸からでも鳥居の貫きより上が見られるほど大きなもので、桜の咲く頃に花に囲まれて見える様はたいへん風情があり、歌舞伎の背景や多くの浮世絵などの題材として描かれています。現在のものは文久二年(一八六二)の建立です。
三囲参詣には吾妻橋を利用する場合と、隅田川を舟で渡る方法とがありました。渡しはちょうどこの大鳥居がある土手下辺りの岸と、淺草山谷堀入口の待乳山下とを結ぶもので、竹屋の渡しと呼ばれていました。
竹屋の渡しの名は、山谷堀側の船宿「竹屋」に由来します。墨堤側には「都鳥」という掛茶屋があり、舟を出してもらうために「たけやー」と呼びかける女将の美声が参詣客の評判であったと伝えられています。
昭和五年(一九三○)、言問橋の開通により、この渡しは廃止されました。
平成二十年二月 墨田区教育委員会 」
<すみだが誇る世界の絵師葛飾北斎が描いた風景をたどろう>
(説明板)
「⑮ 新板浮絵 三囲牛御前両社之図
版元・伊勢屋利兵衛から板行された「新板浮絵」の一枚です。浮絵とは西洋の遠近法を取り入れた浮世絵技法の一つで、手前が浮き上がって見えることから名づけられました。文化(1804~18)中期、葛飾北斎50歳頃の作品とされています。手前に鳥居のあたまだけ見えているのが特徴的な三囲神社は隅田川沿いの名所のひとつで、かつて田中稲荷と呼ばれ毎年2月の「初午の祭り」には多くの人出がありました。寛政11(1799)年のご開帳は特に盛大で北斎も作品を奉納したと伝えられています。画面左奥には牛御前(現牛嶋神社)も描かれています。」
○高原基金の森/隅田公園「新・墨堤桜の森」 墨田区向島2-1隅田公園
高原慶一朗氏(ユニ・チャーム株式会社創業者)の寄付をもとに、財団法人都市緑化基金により整備。
ソメイヨシノとは異なる品種の桜や、さまざまな花木を植栽されています。
<GTS観光アートプロジェクト>
GTS(藝大・台東・墨田)観光アートプロジェクトは、東京藝術大学、台東区、墨田区が連携し、
浅草と東京スカイツリーを結ぶ地域の魅力を、アートを通じて発信するプロジェクトです。
平成22~24年度にかけて実施されました。
・ GTS観光アートプロジェクトについて
・ GTS観光アートライン(環境アート作品、アートベンチ)のご案内
ここには、作品「ソラニハ」が展示されています。
(説明板)
「G ソラニハ 2012年度作品
ここに訪れた方の憩いの場となり、東京スカイツリーを眺めながらコミュニケーションが生まれるような場になる事を願って、私たちはここに「ソラニハ」と名付けた作品を作りました。空を眺め憩うための庭、あるいは彫像と共に見上げた空の先には…という意味を込めています。」
<かもめ>
理由はわかりませんが、隅田川では、ここが一番カモメが多い。至近距離でカメラを向けても、ハトのごとく、全く逃げません。
(解説板)
「隅田公園 散策解説板⑤
桜橋とポトマック帰りの桜 ワシントンからの贈り物
台東区と墨田区は隅田川を挟んで相対していることから、昭和52年に姉妹区協定を結びました。この記念事業として、両区にまたがる隅田公園に歩行者専用の橋を架けることを計画し、昭和60年に桜橋が完成しました。
この架橋に際して、アメリカ合衆国ワシントンD.C.より桜がとどきました。ワシントンD.C.のポトマック河畔の桜並木は世界の名所のひとつになっています。この桜は明治末期頃、当時のタフト大統領夫人が東京を訪れた際に向島の桜に魅せられ、是非ワシントンに植えたいという希望に対して、当時の尾崎行雄東京市長がプレゼントしたものです。
約70年の時を経て、その桜の子孫が再び向島の地に戻ってきました。」
<すみだが誇る世界の絵師葛飾北斎が描いた風景をたどろう>
(説明板)
「⑭ 須佐之男命厄神退治之圖
葛飾北斎晩年期の傑作といわれている、縦1.2m余、横2.8mに及ぶ大きな板絵です。北斎は弘化2年(1845)年頃、牛嶋神社(現在向島1丁目)付近に住んでいたと伝えられ、「須佐之男命厄神退治之図」を奉納しました。この作品は悪病をもたらす厄神たちに今後は悪事を働かないように須佐之男命が証文を書かせている場面を描いたものです。画面右下には「前北斎卍筆 齢八十七歳」の落款があります。残念ながら大正12(1923)年、関東大震災で焼失してしまいましたが、現在は原寸大の復元パネルが牛嶋神社の社殿に飾られています。」
〇常夜燈 墨田区向島5-1-1
(説明板)
「墨田区指定有形文化財
石造墨堤永代常夜燈 所在地 墨田区向島五丁目 隅田公園内
所有者 牛嶋神社
石造墨堤永代常夜燈は、高さ五メートルを超え、琴柱状の脚が特徴的です。天辺の宝珠部分には牛嶋神社の社紋があり、基台上段には同神社の地位を表す「本所惣鎮守」の銘が彫刻されています。また、石組基壇には「永代常夜燈」の銘と「石工宮本平八」の名前を刻んだ石製プレートがはめ込まれています。
東京府文書によれば、この常夜燈は、江戸近郊の名所の演出にあずかってきた牛嶋神社の氏子十七名、具体的には植半や八百松、武蔵屋など有名料亭の主人たちの発意によって設置されたようです。明治四年(一八七一)の牛嶋神社の臨時祭に併せて奉納されたもので、元来は墨堤から牛嶋神社旧地(弘福寺西隣)へ下りる坂の頂にありました。
設置当時、この付近は夜になると真っ暗だったそうで、常夜燈の火が貴重な明かりとして利用されたことがうかがわれます、発起人十七名が東京府へ提出した設置許可申請書にも、この付近を通行する人々の役にも立つはずだとの思いがしたためられています。
この常夜燈は、設置以来、墨堤を代表する風物詩の一つとして絵画にも描かれるなどしてきました。平成二十八年七月二十一日、墨田区指定有形文化財に指定されました。
平成二十九年二月 墨田区教育委員会」
(解説板)
「隅田公園 散策解説板⑥
常夜燈と渡し舟
隅田川の水運と向島風情の象徴
この常夜燈の置かれている場所は、かつて牛嶋神社の境内地でした。牛嶋神社は隅田公園の整備とともに現在地に移転しましたが、この常夜燈だけはここに残されました。それは墨堤における重要な目印であったためです。
この付近にはかつて「竹屋の渡し」が設けられ、春の花見や夏の花火見物、明治に入ってからは向島の花柳界へと遊興客を数多く運んできました。まだ照明が発達していないこの時代にはこの常夜燈の明かりは非常に重要な役割を果たしていました。また、明治の画家達は墨堤の桜とこの常夜燈を好んで組み合わせることにより、墨堤の風情を描きました。当時の向島の格好のシンボルとしてその姿を今に伝えています。」
「墨田堤の花見」(小林清親)
隅田川下流からの光景、常夜燈が大きく描かれています。
「武藏百景之内 東京隅田堤のさくら」(小林清親)
隅田川上流から常夜燈が見えます。
○みめぐりの土手 墨田区向島2-1
「みめぐりの土手」(鬼平犯科ゆかりの高札)が、三囲神社の隅田川辺に建っています(平成25年設置)。
隅田川の対岸には山谷堀水門が見えます。
○三囲神社の大鳥居 墨田区向島2-1
三囲神社の隅田川に面して、鳥居が建っています。こちらの入口は現在は使用されていません。
(説明板)
「(墨田区登録文化財)
堤下の大鳥居と竹屋の渡し 所在地 墨田区向島二丁目一番 隅田公園内
隅田川七福神めぐりや桜の花見など、墨堤の散策は行楽好きの江戸市民に人気がありました。そのランドマークの一つとされたのが三囲神社の鳥居で、堤下の大鳥居として親しまれていました。土手の下にあったにもかかわらせず、対岸からでも鳥居の貫きより上が見られるほど大きなもので、桜の咲く頃に花に囲まれて見える様はたいへん風情があり、歌舞伎の背景や多くの浮世絵などの題材として描かれています。現在のものは文久二年(一八六二)の建立です。
三囲参詣には吾妻橋を利用する場合と、隅田川を舟で渡る方法とがありました。渡しはちょうどこの大鳥居がある土手下辺りの岸と、淺草山谷堀入口の待乳山下とを結ぶもので、竹屋の渡しと呼ばれていました。
竹屋の渡しの名は、山谷堀側の船宿「竹屋」に由来します。墨堤側には「都鳥」という掛茶屋があり、舟を出してもらうために「たけやー」と呼びかける女将の美声が参詣客の評判であったと伝えられています。
昭和五年(一九三○)、言問橋の開通により、この渡しは廃止されました。
平成二十年二月 墨田区教育委員会 」
<すみだが誇る世界の絵師葛飾北斎が描いた風景をたどろう>
(説明板)
「⑮ 新板浮絵 三囲牛御前両社之図
版元・伊勢屋利兵衛から板行された「新板浮絵」の一枚です。浮絵とは西洋の遠近法を取り入れた浮世絵技法の一つで、手前が浮き上がって見えることから名づけられました。文化(1804~18)中期、葛飾北斎50歳頃の作品とされています。手前に鳥居のあたまだけ見えているのが特徴的な三囲神社は隅田川沿いの名所のひとつで、かつて田中稲荷と呼ばれ毎年2月の「初午の祭り」には多くの人出がありました。寛政11(1799)年のご開帳は特に盛大で北斎も作品を奉納したと伝えられています。画面左奥には牛御前(現牛嶋神社)も描かれています。」
○高原基金の森/隅田公園「新・墨堤桜の森」 墨田区向島2-1隅田公園
高原慶一朗氏(ユニ・チャーム株式会社創業者)の寄付をもとに、財団法人都市緑化基金により整備。
ソメイヨシノとは異なる品種の桜や、さまざまな花木を植栽されています。
<GTS観光アートプロジェクト>
GTS(藝大・台東・墨田)観光アートプロジェクトは、東京藝術大学、台東区、墨田区が連携し、
浅草と東京スカイツリーを結ぶ地域の魅力を、アートを通じて発信するプロジェクトです。
平成22~24年度にかけて実施されました。
・ GTS観光アートプロジェクトについて
・ GTS観光アートライン(環境アート作品、アートベンチ)のご案内
ここには、作品「ソラニハ」が展示されています。
(説明板)
「G ソラニハ 2012年度作品
ここに訪れた方の憩いの場となり、東京スカイツリーを眺めながらコミュニケーションが生まれるような場になる事を願って、私たちはここに「ソラニハ」と名付けた作品を作りました。空を眺め憩うための庭、あるいは彫像と共に見上げた空の先には…という意味を込めています。」
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