西日暮里公園
○西日暮里公園 荒川区西日暮里3-5-5
本来は道灌山ではありませんが、道灌山のパネルが設置されているのでこちらで扱います。
西日暮里公園は、西日暮里駅を背にした高台にあります。樹木が生い茂り、西日暮里駅の喧噪から隔絶されている感があります。
西日暮里駅から急坂「間の坂」を上って、上り切ったところに入口があります。または、駅前の歩道橋からさらに上る階段を行くと、公園に通じています。
諏訪台通りからは、通りを北上すると、諏方神社を過ぎて突き当たりが公園です。
元々は、崖下に隣接する青雲寺の寺域でしたが、明治7年に寺院再興のために、前田家の墓地にと売却された一帯で、昭和47年に金沢に墓所が改葬され、跡地に公園が開設されました。
青雲寺の境内であった時代には、「滝沢馬琴の筆塚」や「日暮里舟繋の松の碑」がありました。現在それらは、崖下の青雲寺境内に移されています。 崖下には青雲寺の墓地が見えます。
<青雲寺境内と前田家墓地>
公園の南側入口を入ったところに説明板「青雲寺境内と前田家墓地」があります。
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
青雲寺境内と前田家墓地
かつてこの地には、太田道灌の砦に荷を運んでいた舟人が目印にしたという舟繋松があり、荒川(現隅田川)の雄大な流れ、筑波・日光山の山影を望むことができる景勝地として、多くの人びとが訪れた。花見寺の一つ青雲寺(西日暮里三丁目六番)の境内の一部で、金毘羅社なども祀られていた。
明治七年(一八七四)、この一帯が旧加賀藩前田家に売却され、同家墓地となった。前田家十二代当主の斉泰から四代にわたって神式の墓地として使われたが、昭和四十七年(一九七二)に国許の金沢(石川県)に改葬され、翌四十八年、その跡地にこの西日暮里公園が開設された。
なお、この地にあった日暮里舟繋松の碑や滝沢馬琴筆塚の碑などは、現在の青雲寺本堂前に移されている。
「江戸名所図会」(部分)
荒川区教育委員会」
<パネル「道灌山」「道灌山虫聴」「道灌船繋松」>
公園内にあった石碑は青雲寺境内に移設されていますが、パネルが充実しています。説明パネルは、2枚の見開きになっていて3組あります。
「道灌山」
右に道灌山の錦絵。左に説明文。
(説明板)
「道灌山は、上野から飛鳥山へと続く台地上に位置します。安政三年(一八五八)の「根岸谷中日暮里豊島辺図」では、現在の西日暮里四丁目付近にその名が記されています。この公園を含む台地上にひろがる寺町あたりは、ひぐらしの里と呼ばれていました。
道灌山の地名の由来として、中世、新堀(日暮里)の土豪、関道閑が屋敷を構えたとか、江戸城を築いた太田道灌が出城を造ったなどの伝承があります。ひぐらしの里は、江戸時代、人々が日の暮れるのも忘れて四季おりおりの景色を楽しんだところから、「新堀」に「日暮里」の文字をあてたといわれています。
道灌山・ひぐらしの里は、荒川区内で最も古い歴史をもつ所です。このあたりから出土した土器や、貝塚・住居址などは、縄文時代から数千年にわたって人々の営みが続けられたことを物語っています。
道灌山・ひぐらしの里は、江戸時代の中頃になると、人々の憩いの場として親しまれるようになりました。
道灌山の大半は、秋田藩主佐竹氏の抱屋敷になりますが、東の崖ぎわは人々の行楽地で、筑波・日光の山々などを展望できたといいます。また薬草が豊富で、多くの採集者が訪れました。ひぐらしの里では、寺社が競って庭園を造り、さながら台地全体が一大庭園のようでした。
桃さくら鯛より酒のさかなには
みどころ多き日ぐらしの里 十返舎一九
雪見寺(浄光寺)・月見寺(本行寺)・花見寺(妙隆寺〈現在は廃寺〉・修性院・青雲寺)、諏訪台の花見、道灌山の虫聴きなど、長谷川雪旦や安藤広重ら著名な絵師の画題となり、今日にその作品が伝えられています。
明治時代、正岡子規も道灌山・ひぐらしの里あたりをめぐり、『道灌山』という紀行文を著しました。
山も無き武蔵野の原をながめけり
車立てたる道灌山の上 子規
昭和四十八年、ここ西日暮里公園が開園し、区民の憩いの場となっています。」
「道灌山虫聴」
右に虫聴きの錦絵、左に説明文。
(説明板)
「江戸時代から明治時代にかけて、道灌山は虫聴きの名所でした。
『江戸名所花暦』(文政十年〔一八二七〕刊行、文は岡山鳥で、絵は長谷川雪旦)には、次のように書かれています。
虫
「道灌山 日暮より王子への道筋、飛鳥山の続なり。むかし太田道灌出城の跡なりといふ。くさくさの虫ありて、人まつ虫のなきいつれはふりいてゝなく鈴虫に、馬追ひ虫、轡虫のかしましきあり。おのおのその音いろを聞んとて、袂すゝしき秋風の夕暮より、人人ここにあつまれり。また麻布広尾の原、牛嶋もよし。」
虫聴きの名所は、道灌山が最も有名で、とくに松虫が多く、澄んだ音色が聞けたといいます。このほか、真崎(南千住の白鬚橋たもと)、隅田川東岸(牛島神社あたり)、三河島辺(荒木田の原あたり)、王子・飛鳥山辺、麻布広尾の原が虫聴きの名所でした。
『東都歳事記』によれば、旧暦七月の末、夏の終わりから秋の初めにかけて、「虫聴」がさかんだったと記されています。
道灌山虫聴の絵は、雪旦、安藤広重、尾形月耕が描いた三種類があります。広重の絵は公園入口脇に模写したものがあります。
尾形月耕は、明治期に活躍した画家で、岡倉天心らとともに、美術界発展に尽くした人です。新聞の口絵・さし絵が有名でした。
この絵は、道灌山に月が昇る頃、中腹にむしろを敷き、虫かごに虫を入れて鳴かせ、たくさんの虫に音色を催促しています。坂を上がってくる女性が足音を忍ばせている姿もほほえましく感じます。
この絵は、明治末頃の作と思われますが、秋の夜長に涼を求めて、老若男女がここに集まり、自然の美しさ、すばらしさを楽しんでいたのです。」
<江戸名所図会 道灌山聴蟲>
聴蟲の挿絵に其角の句が添えられています。
「まくり手に松むしさがす浅茅哉 其角」
<東都名所 道潅山虫聞之図>(広重)
<江戸名所道外尽 二十 道潅山虫聞>(歌川広景)
道灌山での虫聞の最中に、ヘビの来客で大慌てです。
「道灌船繋松」
上に江戸名所図会の挿絵、下に説明文を1枚として、見開き2枚です。
(説明板)
「道灌船繋松
道灌船繋松のことは、『江戸名所図会』(天保七年刊(一八三六)、斉藤幸雄、幸孝、幸成(月岑)の三代三人が文章を書き、長谷川雪旦が絵を描く)にくわしく書かれています。
「青雲寺の境内、崖に臨みうっそうとしてそびえたり。往古は二株ありしが、一株は往んじ安永元年の秋大風に吹き折れて、今は一木のみ残れり。(中略)
或人云く、往昔このふもとは豊島川に続きし入江にて、道灌の砦城ありし頃は、米穀その外すべて運送の船より、この松を目当てにせしものにて、つなぐといふもあながち繋ぎとどむるの義にはあらず、これは舟人の詞にして、つなぐといふは目的にするなどいえるに同じ心とぞ。よってその後道灌山の船繋ぎの松と称して、はるかにこの所の松を目当にせしを誤りて、道灌船繋の松と唱ふるとぞ。」
長谷川雪旦は、『日暮里惣図』と題し、この地域を七枚の絵に描いています。道灌山から諏方神社、浄光寺、養福寺、本行寺まで、当時の様子がわかります。
道灌船繋ぎの松は、この絵の中で台地上に高くそびえています。安永元年(一七七二)の秋台風のため一本が折れ、残り一本になってしまったようです。
この松をなつかしんで、『日暮里繋舟松之碑』が道灌山に建てられましたが、現在は、青雲寺本堂脇に移されています。建碑の年月はわかっていません。
天明五年(一七八五)に鳥居清長の描いた墨版『画本物見岡』の日暮里青雲寺境内の絵に、この石碑を眺めている人たちの姿がみられることから、石碑は、安永元年から天明五年までの十三年間に建てられたことがわかります。
道灌山の船繋松は、ここのシンボルであり、近在の人たちに親しまれ、大切にされていました。」
<舟繋松の場所>
舟繋の松があった場所に碑を建てるとか、松を植えるとか工夫があればなと思います。 また「滝沢馬琴の筆塚」が建っていた場所もわかりません。
筆塚に埋まっていた馬琴愛用の硯などは、前田育徳会・尊經閣(東京都目黒区駒場)に保管されており、ご当地には何も残っていません。
青雲寺にある荒川区説明板 「明治三十九年(一九○六)には、前田家墓地から馬琴愛用の硯などが出土し、財団法人・前田育徳会尊經閣文庫に保管されている。」
江戸名所図会の「舟つなぎ松」が描かれた場所から推定すると、東から上がってきた坂の右手の階段をあがったところに描かれています。 パネルの設置場所、四阿辺りに松があったものと思います。
「舟つなぎ松」の横に「こんぴら」が描かれていますが、青雲寺に石碑が移設されています。
【江戸名所図会日暮里惣図「舟つなぎ松」拡大】
<道灌山夕日暮>(小林清親)
小林清親が「道灌山夕日暮」を描いています。
祠が気になります。「こんぴら」でしょうか。切り株も気になります。
<道灌山>(井上安治)
井上安治が「道灌山」を描いています。
本来は道灌山ではありませんが、道灌山のパネルが設置されているのでこちらで扱います。
西日暮里公園は、西日暮里駅を背にした高台にあります。樹木が生い茂り、西日暮里駅の喧噪から隔絶されている感があります。
西日暮里駅から急坂「間の坂」を上って、上り切ったところに入口があります。または、駅前の歩道橋からさらに上る階段を行くと、公園に通じています。
諏訪台通りからは、通りを北上すると、諏方神社を過ぎて突き当たりが公園です。
元々は、崖下に隣接する青雲寺の寺域でしたが、明治7年に寺院再興のために、前田家の墓地にと売却された一帯で、昭和47年に金沢に墓所が改葬され、跡地に公園が開設されました。
青雲寺の境内であった時代には、「滝沢馬琴の筆塚」や「日暮里舟繋の松の碑」がありました。現在それらは、崖下の青雲寺境内に移されています。 崖下には青雲寺の墓地が見えます。
<青雲寺境内と前田家墓地>
公園の南側入口を入ったところに説明板「青雲寺境内と前田家墓地」があります。
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
青雲寺境内と前田家墓地
かつてこの地には、太田道灌の砦に荷を運んでいた舟人が目印にしたという舟繋松があり、荒川(現隅田川)の雄大な流れ、筑波・日光山の山影を望むことができる景勝地として、多くの人びとが訪れた。花見寺の一つ青雲寺(西日暮里三丁目六番)の境内の一部で、金毘羅社なども祀られていた。
明治七年(一八七四)、この一帯が旧加賀藩前田家に売却され、同家墓地となった。前田家十二代当主の斉泰から四代にわたって神式の墓地として使われたが、昭和四十七年(一九七二)に国許の金沢(石川県)に改葬され、翌四十八年、その跡地にこの西日暮里公園が開設された。
なお、この地にあった日暮里舟繋松の碑や滝沢馬琴筆塚の碑などは、現在の青雲寺本堂前に移されている。
「江戸名所図会」(部分)
荒川区教育委員会」
<パネル「道灌山」「道灌山虫聴」「道灌船繋松」>
公園内にあった石碑は青雲寺境内に移設されていますが、パネルが充実しています。説明パネルは、2枚の見開きになっていて3組あります。
「道灌山」
右に道灌山の錦絵。左に説明文。
(説明板)
「道灌山は、上野から飛鳥山へと続く台地上に位置します。安政三年(一八五八)の「根岸谷中日暮里豊島辺図」では、現在の西日暮里四丁目付近にその名が記されています。この公園を含む台地上にひろがる寺町あたりは、ひぐらしの里と呼ばれていました。
道灌山の地名の由来として、中世、新堀(日暮里)の土豪、関道閑が屋敷を構えたとか、江戸城を築いた太田道灌が出城を造ったなどの伝承があります。ひぐらしの里は、江戸時代、人々が日の暮れるのも忘れて四季おりおりの景色を楽しんだところから、「新堀」に「日暮里」の文字をあてたといわれています。
道灌山・ひぐらしの里は、荒川区内で最も古い歴史をもつ所です。このあたりから出土した土器や、貝塚・住居址などは、縄文時代から数千年にわたって人々の営みが続けられたことを物語っています。
道灌山・ひぐらしの里は、江戸時代の中頃になると、人々の憩いの場として親しまれるようになりました。
道灌山の大半は、秋田藩主佐竹氏の抱屋敷になりますが、東の崖ぎわは人々の行楽地で、筑波・日光の山々などを展望できたといいます。また薬草が豊富で、多くの採集者が訪れました。ひぐらしの里では、寺社が競って庭園を造り、さながら台地全体が一大庭園のようでした。
桃さくら鯛より酒のさかなには
みどころ多き日ぐらしの里 十返舎一九
雪見寺(浄光寺)・月見寺(本行寺)・花見寺(妙隆寺〈現在は廃寺〉・修性院・青雲寺)、諏訪台の花見、道灌山の虫聴きなど、長谷川雪旦や安藤広重ら著名な絵師の画題となり、今日にその作品が伝えられています。
明治時代、正岡子規も道灌山・ひぐらしの里あたりをめぐり、『道灌山』という紀行文を著しました。
山も無き武蔵野の原をながめけり
車立てたる道灌山の上 子規
昭和四十八年、ここ西日暮里公園が開園し、区民の憩いの場となっています。」
「道灌山虫聴」
右に虫聴きの錦絵、左に説明文。
(説明板)
「江戸時代から明治時代にかけて、道灌山は虫聴きの名所でした。
『江戸名所花暦』(文政十年〔一八二七〕刊行、文は岡山鳥で、絵は長谷川雪旦)には、次のように書かれています。
虫
「道灌山 日暮より王子への道筋、飛鳥山の続なり。むかし太田道灌出城の跡なりといふ。くさくさの虫ありて、人まつ虫のなきいつれはふりいてゝなく鈴虫に、馬追ひ虫、轡虫のかしましきあり。おのおのその音いろを聞んとて、袂すゝしき秋風の夕暮より、人人ここにあつまれり。また麻布広尾の原、牛嶋もよし。」
虫聴きの名所は、道灌山が最も有名で、とくに松虫が多く、澄んだ音色が聞けたといいます。このほか、真崎(南千住の白鬚橋たもと)、隅田川東岸(牛島神社あたり)、三河島辺(荒木田の原あたり)、王子・飛鳥山辺、麻布広尾の原が虫聴きの名所でした。
『東都歳事記』によれば、旧暦七月の末、夏の終わりから秋の初めにかけて、「虫聴」がさかんだったと記されています。
道灌山虫聴の絵は、雪旦、安藤広重、尾形月耕が描いた三種類があります。広重の絵は公園入口脇に模写したものがあります。
尾形月耕は、明治期に活躍した画家で、岡倉天心らとともに、美術界発展に尽くした人です。新聞の口絵・さし絵が有名でした。
この絵は、道灌山に月が昇る頃、中腹にむしろを敷き、虫かごに虫を入れて鳴かせ、たくさんの虫に音色を催促しています。坂を上がってくる女性が足音を忍ばせている姿もほほえましく感じます。
この絵は、明治末頃の作と思われますが、秋の夜長に涼を求めて、老若男女がここに集まり、自然の美しさ、すばらしさを楽しんでいたのです。」
<江戸名所図会 道灌山聴蟲>
聴蟲の挿絵に其角の句が添えられています。
「まくり手に松むしさがす浅茅哉 其角」
<東都名所 道潅山虫聞之図>(広重)
<江戸名所道外尽 二十 道潅山虫聞>(歌川広景)
道灌山での虫聞の最中に、ヘビの来客で大慌てです。
「道灌船繋松」
上に江戸名所図会の挿絵、下に説明文を1枚として、見開き2枚です。
(説明板)
「道灌船繋松
道灌船繋松のことは、『江戸名所図会』(天保七年刊(一八三六)、斉藤幸雄、幸孝、幸成(月岑)の三代三人が文章を書き、長谷川雪旦が絵を描く)にくわしく書かれています。
「青雲寺の境内、崖に臨みうっそうとしてそびえたり。往古は二株ありしが、一株は往んじ安永元年の秋大風に吹き折れて、今は一木のみ残れり。(中略)
或人云く、往昔このふもとは豊島川に続きし入江にて、道灌の砦城ありし頃は、米穀その外すべて運送の船より、この松を目当てにせしものにて、つなぐといふもあながち繋ぎとどむるの義にはあらず、これは舟人の詞にして、つなぐといふは目的にするなどいえるに同じ心とぞ。よってその後道灌山の船繋ぎの松と称して、はるかにこの所の松を目当にせしを誤りて、道灌船繋の松と唱ふるとぞ。」
長谷川雪旦は、『日暮里惣図』と題し、この地域を七枚の絵に描いています。道灌山から諏方神社、浄光寺、養福寺、本行寺まで、当時の様子がわかります。
道灌船繋ぎの松は、この絵の中で台地上に高くそびえています。安永元年(一七七二)の秋台風のため一本が折れ、残り一本になってしまったようです。
この松をなつかしんで、『日暮里繋舟松之碑』が道灌山に建てられましたが、現在は、青雲寺本堂脇に移されています。建碑の年月はわかっていません。
天明五年(一七八五)に鳥居清長の描いた墨版『画本物見岡』の日暮里青雲寺境内の絵に、この石碑を眺めている人たちの姿がみられることから、石碑は、安永元年から天明五年までの十三年間に建てられたことがわかります。
道灌山の船繋松は、ここのシンボルであり、近在の人たちに親しまれ、大切にされていました。」
<舟繋松の場所>
舟繋の松があった場所に碑を建てるとか、松を植えるとか工夫があればなと思います。 また「滝沢馬琴の筆塚」が建っていた場所もわかりません。
筆塚に埋まっていた馬琴愛用の硯などは、前田育徳会・尊經閣(東京都目黒区駒場)に保管されており、ご当地には何も残っていません。
青雲寺にある荒川区説明板 「明治三十九年(一九○六)には、前田家墓地から馬琴愛用の硯などが出土し、財団法人・前田育徳会尊經閣文庫に保管されている。」
江戸名所図会の「舟つなぎ松」が描かれた場所から推定すると、東から上がってきた坂の右手の階段をあがったところに描かれています。 パネルの設置場所、四阿辺りに松があったものと思います。
「舟つなぎ松」の横に「こんぴら」が描かれていますが、青雲寺に石碑が移設されています。
【江戸名所図会日暮里惣図「舟つなぎ松」拡大】
<道灌山夕日暮>(小林清親)
小林清親が「道灌山夕日暮」を描いています。
祠が気になります。「こんぴら」でしょうか。切り株も気になります。
<道灌山>(井上安治)
井上安治が「道灌山」を描いています。
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
道灌山遺跡 向陵稲荷神社など
○道灌山 荒川区西日暮里4丁目
JR西日暮里駅の西側に切り立った大きな崖があり、西日暮里4丁目の高台が道灌山です。 崖の上には開成学園のグラウンドなどが広がっています。
道灌山は文豪たちに愛され、正岡子規もよく訪れ 「山も無き 武蔵野の原を ながめけり 車立てたる 道灌山の上」の短歌があります。
道灌山の高台は陸地の先端にあたり、古代日本人が暮らした「道灌山遺跡」が戦後発掘されています。
1916(大正5)年には渡辺治右衛門が開発した田園都市である日暮里渡辺町が出現し、文人や芸術家が住む街となりました。
<地名の由来>
地名の由来については、太田道灌の出城があったためとも、関妙山善性寺や長耀山感応寺(現天王寺)の開基、関小次郎長耀(後に出家して道閑あるいは道観坊)の居所であったためとも言われます。
江戸時代には虫聴きの名所として知られ、秋になると文人たちが訪れ、月を見ながら松虫や鈴虫の音に聴き入りました。付近の浄光寺、本行寺、青雲寺は、文人趣味でそれぞれ雪見寺、月見寺、花見寺と呼ばれました。
道灌山の大半は、秋田藩主佐竹氏の抱屋敷でしたが、東の崖ぎわは人々の行楽地で、筑波・日光の山々などが展望できました。
<江戸切絵図 根岸谷中辺絵図>
江戸切り絵図根岸谷中辺絵図から、道灌山とひぐらしの里部分の拡大です。
<絵本江戸土産 道灌山>
「絵本江戸土産 道灌山」の広重は以下記述しています。 「ここを一名城山というは太田持資の江戸城にありし頃出張の砦なりしによれりと 然れども関道観坊が宅地の跡なりという説あり この辺すべて薬草あり 採薬の輩多く来る 元来廣々たる郊野にて月雪眺望はさらなり 秋の夜虫の聲を称して酒殽を携え興を催おす」
○ひぐらし坂/道灌山遺跡
<佐竹屋敷と渡辺町>
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
佐竹屋敷と渡辺町
この付近一帯は、秋田藩主佐竹右京太夫の広大な抱屋敷であった。約二万坪(約六万六千平方メートル)に及ぶ敷地内には「衆楽園」と名づけられた山荘があり、当時、城北屈指の名園として知られていた。
明治以降、笹や竹が生い茂り、「佐竹っ原」と呼ばれるようになったが、大正五年に二十七銀行(後の東京渡辺銀行)頭取渡辺治右衛門が入手し、近代的田園都市を目指した高級住宅地を建設・分譲した。渡辺町と呼ばれ、石井柏亭 ら多くの芸術家・文化人が住んだ。昭和七年の区制施行時に、日暮里渡辺町が正式地名に採用された。
荒川区教育委員会」
※開成学園の工事が一端終わり、説明板が復活しました。
<ひぐらし坂と道灌山遺跡>
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
道灌山遺跡
昭和29年、弥生時代の住居跡が発掘された開成グラウンドほか、西日暮里4丁目の台地上は、縄文時代から江戸時代までの遺跡が残されている地域である。
荒川区教育委員会」
※開成学園の工事が一端終わり、説明板が復活しました。
(説明板)
右「道灌山遺跡」 と、左「第一号住居址。
「あらかわの史跡・文化財
道灌山遺跡
開成学園第二グランドを中心に広がり、縄文時代(およそ八〇〇〇年前)から江戸時代にわったて営まれた集落址である。
これまでの調査により、縄文時代前期の住居址、弥生時代中期の住居址と溝(環濠)、平安時代の住居址、江戸時代の溝などが検出されている。グランドの北側から検出された環濠は幅約一・六メートル、深さ約一・三メートルで断面形がV字形を呈する。ほぼ東西に延び、台地上における弥生時代集落の住居区域の北限を示すと考えられる。
荒川区教育委員会」
「あらかわの史跡・文化財
ここから西へ、約10メートル
第一号住居址
開成学園第二グランド内から発見された弥生時代中期の住居址である。平面形は四隅が丸い長方形を呈し、長径約五・六メートル、短径約四・四メートル、深さ約ニ〇センチメートルである。
荒川区教育委員会」
○向陵稲荷坂
標識が神社をかたどっています。
○向陵稲荷神社 荒川区西日暮里4-7-34
向陵稲荷坂を上がっていくと、坂名の由来となった向陵稲荷神社があります。
江戸時代初期より佐竹右京大夫の屋敷内に祀られていましたが(邸内社)、屋敷地は大正時代にひぐらし公園となり、公園廃止後は開成中学校・高校の校庭となったため、 現在地に移動しています。
(説明板)
「向陵稲荷神社縁起
当社は向陵稲荷大明神(宇迦之御魂神)を主神とし祭祀を行ない、祭神の神徳をひろめ本神社を信奉する人々を教化育成し、家内安全・商売繁盛及び学業成就の神であります。
当社は江戸時代初期より佐竹右京太夫の屋敷内に祀られておりましたが、大正の初期渡辺町(現西日暮里四丁目の一部)の開設されたときにひぐらし公園(現開成学園中学校の校庭)に祀られ、町の鎮守と崇められていました。
後当初に移転しましたが、昭和二十年の大戦災で全町焼土と化しましたが当社は不思議にも戦火をまぬかれ神威赫々として現存し、昭和四十六年社殿を改築社務所を新設し、宗教法人向陵稲荷神社となりました。(以下略)」
JR西日暮里駅の西側に切り立った大きな崖があり、西日暮里4丁目の高台が道灌山です。 崖の上には開成学園のグラウンドなどが広がっています。
道灌山は文豪たちに愛され、正岡子規もよく訪れ 「山も無き 武蔵野の原を ながめけり 車立てたる 道灌山の上」の短歌があります。
道灌山の高台は陸地の先端にあたり、古代日本人が暮らした「道灌山遺跡」が戦後発掘されています。
1916(大正5)年には渡辺治右衛門が開発した田園都市である日暮里渡辺町が出現し、文人や芸術家が住む街となりました。
<地名の由来>
地名の由来については、太田道灌の出城があったためとも、関妙山善性寺や長耀山感応寺(現天王寺)の開基、関小次郎長耀(後に出家して道閑あるいは道観坊)の居所であったためとも言われます。
江戸時代には虫聴きの名所として知られ、秋になると文人たちが訪れ、月を見ながら松虫や鈴虫の音に聴き入りました。付近の浄光寺、本行寺、青雲寺は、文人趣味でそれぞれ雪見寺、月見寺、花見寺と呼ばれました。
道灌山の大半は、秋田藩主佐竹氏の抱屋敷でしたが、東の崖ぎわは人々の行楽地で、筑波・日光の山々などが展望できました。
<江戸切絵図 根岸谷中辺絵図>
江戸切り絵図根岸谷中辺絵図から、道灌山とひぐらしの里部分の拡大です。
<絵本江戸土産 道灌山>
「絵本江戸土産 道灌山」の広重は以下記述しています。 「ここを一名城山というは太田持資の江戸城にありし頃出張の砦なりしによれりと 然れども関道観坊が宅地の跡なりという説あり この辺すべて薬草あり 採薬の輩多く来る 元来廣々たる郊野にて月雪眺望はさらなり 秋の夜虫の聲を称して酒殽を携え興を催おす」
○ひぐらし坂/道灌山遺跡
<佐竹屋敷と渡辺町>
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
佐竹屋敷と渡辺町
この付近一帯は、秋田藩主佐竹右京太夫の広大な抱屋敷であった。約二万坪(約六万六千平方メートル)に及ぶ敷地内には「衆楽園」と名づけられた山荘があり、当時、城北屈指の名園として知られていた。
明治以降、笹や竹が生い茂り、「佐竹っ原」と呼ばれるようになったが、大正五年に二十七銀行(後の東京渡辺銀行)頭取渡辺治右衛門が入手し、近代的田園都市を目指した高級住宅地を建設・分譲した。渡辺町と呼ばれ、石井柏亭 ら多くの芸術家・文化人が住んだ。昭和七年の区制施行時に、日暮里渡辺町が正式地名に採用された。
荒川区教育委員会」
※開成学園の工事が一端終わり、説明板が復活しました。
<ひぐらし坂と道灌山遺跡>
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
道灌山遺跡
昭和29年、弥生時代の住居跡が発掘された開成グラウンドほか、西日暮里4丁目の台地上は、縄文時代から江戸時代までの遺跡が残されている地域である。
荒川区教育委員会」
※開成学園の工事が一端終わり、説明板が復活しました。
(説明板)
右「道灌山遺跡」 と、左「第一号住居址。
「あらかわの史跡・文化財
道灌山遺跡
開成学園第二グランドを中心に広がり、縄文時代(およそ八〇〇〇年前)から江戸時代にわったて営まれた集落址である。
これまでの調査により、縄文時代前期の住居址、弥生時代中期の住居址と溝(環濠)、平安時代の住居址、江戸時代の溝などが検出されている。グランドの北側から検出された環濠は幅約一・六メートル、深さ約一・三メートルで断面形がV字形を呈する。ほぼ東西に延び、台地上における弥生時代集落の住居区域の北限を示すと考えられる。
荒川区教育委員会」
「あらかわの史跡・文化財
ここから西へ、約10メートル
第一号住居址
開成学園第二グランド内から発見された弥生時代中期の住居址である。平面形は四隅が丸い長方形を呈し、長径約五・六メートル、短径約四・四メートル、深さ約ニ〇センチメートルである。
荒川区教育委員会」
○向陵稲荷坂
標識が神社をかたどっています。
○向陵稲荷神社 荒川区西日暮里4-7-34
向陵稲荷坂を上がっていくと、坂名の由来となった向陵稲荷神社があります。
江戸時代初期より佐竹右京大夫の屋敷内に祀られていましたが(邸内社)、屋敷地は大正時代にひぐらし公園となり、公園廃止後は開成中学校・高校の校庭となったため、 現在地に移動しています。
(説明板)
「向陵稲荷神社縁起
当社は向陵稲荷大明神(宇迦之御魂神)を主神とし祭祀を行ない、祭神の神徳をひろめ本神社を信奉する人々を教化育成し、家内安全・商売繁盛及び学業成就の神であります。
当社は江戸時代初期より佐竹右京太夫の屋敷内に祀られておりましたが、大正の初期渡辺町(現西日暮里四丁目の一部)の開設されたときにひぐらし公園(現開成学園中学校の校庭)に祀られ、町の鎮守と崇められていました。
後当初に移転しましたが、昭和二十年の大戦災で全町焼土と化しましたが当社は不思議にも戦火をまぬかれ神威赫々として現存し、昭和四十六年社殿を改築社務所を新設し、宗教法人向陵稲荷神社となりました。(以下略)」
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