隅田川ウォールアート(浜町)
○隅田川テラス 新大橋~両国橋 中央区日本橋浜町2丁目~東日本橋1丁目・2丁目
中央区立浜町公園から隅田川テラス(浜町)に入ります。
新大橋から両国橋まで850mの表示。
<隅田川ウォールアートギャラリー>(新大橋西北端~両国ジャンクション) 中央区日本橋浜町2丁目
新大橋から高速の両国ジャンクションまで、日本橋地域の街並みなどの錦絵が展示されています。
「東海道五拾三次 日本橋朝之景」(広重)
「新撰江戸名所 日本橋雪晴ノ図」(広重)
日本橋の上に、剣菱の酒樽を運ぶ人、マグロを運ぶ人が見えます。
「東京名所四十八景 小網町箱崎橋より湊橋遠景」(昇齋一景)
風俗画を多く描いた広重の門人、昇齋一景の作品です。
「東京名所之内 人形町通り水天宮 明治九年」(三代広重)
「明治座開場之図」(香朝楼芳梅(三代歌川国貞))
「浜町公園」(版元不詳 昭和4(1929)年)
「東京名所 駿河町三ツ井組 明治八年」
社旗が第一国立銀行のダブルスターが見えるので?に思います。
「東京名勝図会 柳橋の夜景」(三代広重)
「東都名所 両国橋納涼」(広重)
向岸右手は、柳橋。花火が上がっています。
「東京開花名所 両国橋大川ばた 明治七年」(三代広重)
隅田川左岸からの光景。富士山が見えます。
○江戸時代の風俗を描いた絵
江戸時代の風俗を描いた絵も展示されています。最初は芭蕉と楚良(たぶん)が描かれています。
○隅田川テラス 新大橋~両国ジャンクション 中央区日本橋浜町2丁目
木組のみで、雨除けにはなっていません。
隅田川距離標「墨画川右岸 河口より4.0km」
先に進みます。
両国ジャンクションに下にあるこれは何でしょう。カッパに見えるかな。
向岸に墨田区へ流れる竪川の水門が見えます。
○隅田川テラス 両国ジャンクション~両国橋 中央区東日本橋1丁目~2丁目
両国ジャンクションから両国橋まで、隅田川テラスの壁は、レンガ調となります。
「1993年3月
隅田川(両国橋下流)右岸被覆修景工事
延長 343.0m →
東京都
株式会社 大林組 施行」
「牛?羊?のモニュメント」
明治維新で、日本橋など都心部にあった広大な武家屋敷の跡地は牛乳生産の牧場としても利用されました。
芥川龍之介の家族も牛乳生産の牧場に従事しています。
牛のモニュメントかと思ってもみましたが、よく見ると、角が羊の気がします。
<元柳橋跡>
対岸から見たところ。ここは元柳橋があった場所で、モニュメントは、元柳橋をかたどっているように見えます。
元柳橋についてはこちらで記載
<隅田川テラス案内板>
「両国橋」「柳橋」の説明があります。
<両国橋→50m>
○両国橋 中央区東日本橋二丁目~墨田区両国一丁目
<両国橋来歴>
隅田川テラスは両国橋の下を通り、終端の階段を上がると、柳橋東詰に出ます。
両国橋来歴のプレートがありました。
「本橋ハ帝都復興事業トシテ改築シタルモノナリ
起工 昭和五年二月
竣工 昭和七年十一月
工費 八拾六萬弐千七百圓
東京市」
欄干は、花火と国技館です。バルコニーは土俵をかたどっています。
両国橋から見る隅田川右岸の隅田川テラス終端と柳橋
中央区立浜町公園から隅田川テラス(浜町)に入ります。
新大橋から両国橋まで850mの表示。
<隅田川ウォールアートギャラリー>(新大橋西北端~両国ジャンクション) 中央区日本橋浜町2丁目
新大橋から高速の両国ジャンクションまで、日本橋地域の街並みなどの錦絵が展示されています。
「東海道五拾三次 日本橋朝之景」(広重)
「新撰江戸名所 日本橋雪晴ノ図」(広重)
日本橋の上に、剣菱の酒樽を運ぶ人、マグロを運ぶ人が見えます。
「東京名所四十八景 小網町箱崎橋より湊橋遠景」(昇齋一景)
風俗画を多く描いた広重の門人、昇齋一景の作品です。
「東京名所之内 人形町通り水天宮 明治九年」(三代広重)
「明治座開場之図」(香朝楼芳梅(三代歌川国貞))
「浜町公園」(版元不詳 昭和4(1929)年)
「東京名所 駿河町三ツ井組 明治八年」
社旗が第一国立銀行のダブルスターが見えるので?に思います。
「東京名勝図会 柳橋の夜景」(三代広重)
「東都名所 両国橋納涼」(広重)
向岸右手は、柳橋。花火が上がっています。
「東京開花名所 両国橋大川ばた 明治七年」(三代広重)
隅田川左岸からの光景。富士山が見えます。
○江戸時代の風俗を描いた絵
江戸時代の風俗を描いた絵も展示されています。最初は芭蕉と楚良(たぶん)が描かれています。
○隅田川テラス 新大橋~両国ジャンクション 中央区日本橋浜町2丁目
木組のみで、雨除けにはなっていません。
隅田川距離標「墨画川右岸 河口より4.0km」
先に進みます。
両国ジャンクションに下にあるこれは何でしょう。カッパに見えるかな。
向岸に墨田区へ流れる竪川の水門が見えます。
○隅田川テラス 両国ジャンクション~両国橋 中央区東日本橋1丁目~2丁目
両国ジャンクションから両国橋まで、隅田川テラスの壁は、レンガ調となります。
「1993年3月
隅田川(両国橋下流)右岸被覆修景工事
延長 343.0m →
東京都
株式会社 大林組 施行」
「牛?羊?のモニュメント」
明治維新で、日本橋など都心部にあった広大な武家屋敷の跡地は牛乳生産の牧場としても利用されました。
芥川龍之介の家族も牛乳生産の牧場に従事しています。
牛のモニュメントかと思ってもみましたが、よく見ると、角が羊の気がします。
<元柳橋跡>
対岸から見たところ。ここは元柳橋があった場所で、モニュメントは、元柳橋をかたどっているように見えます。
元柳橋についてはこちらで記載
<隅田川テラス案内板>
「両国橋」「柳橋」の説明があります。
<両国橋→50m>
○両国橋 中央区東日本橋二丁目~墨田区両国一丁目
<両国橋来歴>
隅田川テラスは両国橋の下を通り、終端の階段を上がると、柳橋東詰に出ます。
両国橋来歴のプレートがありました。
「本橋ハ帝都復興事業トシテ改築シタルモノナリ
起工 昭和五年二月
竣工 昭和七年十一月
工費 八拾六萬弐千七百圓
東京市」
欄干は、花火と国技館です。バルコニーは土俵をかたどっています。
両国橋から見る隅田川右岸の隅田川テラス終端と柳橋
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
両国花火組合と篠塚稲荷 花柳界火伏稲荷
○篠塚稲荷神社 台東区柳橋1-5-1
「江戸名所図会 第六天 篠塚稲荷」
挿絵には、「いなり」「本社」「金ひら」とあります。「いなり」が篠塚稲荷で、「本社」が第六天でしょう。
第六天は遷座していますが、篠塚稲荷神社は昔の位置にあります。
<玉垣「両国花火組合」>
両国花火組合は、柳橋料亭組合が運営していました。両国花火大会は、高度経済成長期に至り昭和36(1961)年を最後に終わります。昭和53(1978)年に隅田川花火大会と改称し台東区と墨田区が毎年交互に担当し再開されました。打ち上げ場所は隅田川上流に移っています。
台東区「文化探訪」が参考になります。
<説明文>
詳しい説明が掲示されています。
(説明文)右
「御祭神 倉稲魂命 御神徳 商売繁盛、火伏せ
例大祭 六月第一土曜日、日曜日
毎年、氏子の役員や有志の方々が御奉仕誘導して江戸葛西囃子を先頭に、獅子頭、大太鼓の山車と子供神輿が氏子町内を巡行します。そして氏子の崇敬者が所々に設営した御旅所(おたびしょ、即ち御神輿がお立寄りして休む所)で子供さん達に飲物、菓子、玩具、文房具等を沢山に振舞います。
当神社の創建は非常に古くて確かな事は判りませんが、神社に伝わる古文書や伝記などに依れば、正中年間(1325年頃)に新田義貞の四天王の一人であった篠塚伊賀守重宏が、足利尊氏軍との四国での最後の戦いに敗れた後ひそかに東国へ逃れ、現在地近辺の茅原の里にあったと言う当稲荷の祠の傍らにて仏門に入り、日夜主家の再興を祈願していた事から、いつしか里人が篠塚稲荷神社と称する様になったと言われています。古来諸大名や高家及び庶民の崇敬厚く右の図は天保七年版(1836年)『江戸名所図会』に記載されている稲荷社の絵図ですが『篠塚稲荷神社。当地の旧社なり。昔、新田(義貞)の家臣篠塚伊賀守、当社を信仰し、晩年に入道して社の側に庵室を結びて住す。別当玉蔵院はその裔孫なりと言えり」と記してあります。当時は神仏混交の時代で篠塚伊賀守の子孫は京都醍醐寺から篠塚山玉蔵院宗林寺の三号を受けた真言宗の修験僧で稲荷社の別当を務め、且つ江戸期から大正末期までは神社境内に寺子屋(後に篠塚小学校)を運営し、また福井町にも分校を設けていましたが明治維新の際の廃仏棄釈により玉蔵院を廃止し、大正11年には篠塚学校も廃校致しました。
↓左手前が新田義貞公、背後は篠塚伊賀守、 ↓伊賀守が敵の軍船を奪うの絵
篠塚伊賀守重宏については太平記や徳川光圀公の大日本史などに詳しく記述されていますが、大変な強力無双な武将で新田義貞公が福井で戦死した後は、義貞の弟、脇屋義助に従って各地を転戦し、四国で新田一門が滅亡する時、単騎で敵の軍船を奪い、現在の魚島を経て関東に向ったとあります。魚島やその他には様々な史跡が残存していますがその没年は不確かです。その豪傑振りは歌舞伎の演目にもなり左図の如き武者絵にもなりました。後年出生地の群馬県邑楽町篠塚の大信寺境内に御廟が建立され、毎年4月は篠塚一門の者が集まりご供養しています。」
(説明文)左
「当神社は小社ですが境内に古跡地としての由来を記した石碑と、宗祇が詠んだ句碑があります。
(句碑)
「代地川岸永住栞 涼風や月雪 はなの隅田川 宗祇」
「(註)
「宗祇」は室町後期の歌人(一四二一~一五○二)
平安末期の「西行法師」(一一一八ー一一九○)及び江戸時代末期の「芭蕉」(一六四四ー一六九四4)と共に漂泊の三歌人として名高い」
(石碑・表面)
「篠塚稲荷神社 社歴
御祭神 倉稲魂命。
例祭日 六月初旬
御由緒
当社の創起年代は詳らかではないが、古記に大川辺に高き丘あり篠生い茂り里人ここに稲荷神を祀るとあれば悠久の昔より奉斎し奉りあり 正平年間新田義貞の家臣篠塚伊賀守重廣、主家再興の祈請をなし来国光の刀を神前に捧げ、社傍に庵を結びて出家し日夜参篭怠らず、為にいつしか篠塚稲荷大明神と尊称するに至った。延宝九年三月神社別当僧たる伊賀守の子孫に醍醐寺三宝院御門跡より篠塚山玉蔵院宗林寺の称号を賜り、元禄六年二月本多紀伊守殿寺社奉行の折には御府内古跡地と定められたが、明治初年神仏分離の際、玉蔵院は廃せられた 古来より商売繁昌火防神として厚く尊崇奉る」
(石碑・裏面)
「をしからぬ 身を東路に めぐり来て 神に誓いを 申しおくなり」
「正平年中(西暦一三四○年頃)篠塚伊賀守重宏神前に詠みて捧げたる一首と伝う」
<境内・社殿>
<篠塚稲荷神社社歴と句の石碑>
<宗祇句碑>
「芳年武者无類 篠塚伊賀守貞綱」(月岡芳年)
篠塚重広は、南北朝時代の南朝方の武将。新田義貞の側近で、新田四天王の一人に数えられました。
北朝方が立てこもる近江三井寺攻略に参戦。三井寺を南朝方が攻めあぐねていた時、篠塚重広が寺の外にあった卒塔婆を持ち上げ、それを堀に渡して橋とし、攻め込んだと言われています。
(刀剣ワールドを参照しました)
「大日本六十余州之内 越前 篠塚伊賀守重広」(一陽斎豊国)
○石塚稲荷神社 台東区柳橋1-1-15
柳橋から柳橋大川端通りを北上すると、右手に石塚稲荷神社があります。
石塚稲荷神社は、かつての柳橋花柳界の火伏として信仰を集めました。
<玉垣>
玉垣には、亀清、柳光亭、柳水、津久松・・・、料亭の屋号等が並びます。
門柱には、左「柳橋料亭組合」、右「柳橋藝妓組合」とあります。
<鳥居>
鳥居の額「火伏神 石塚稲荷神社」
<境内>
境内には「二葉」の石碑。玉垣にも「二葉」とありますが、料亭「二葉」の碑なのでしょうかね?
「旧町名由来案内 下町まちしるべ 旧浅草柳橋」
柳橋の東北詰と同じ案内板があります。
「江戸名所図会 第六天 篠塚稲荷」
挿絵には、「いなり」「本社」「金ひら」とあります。「いなり」が篠塚稲荷で、「本社」が第六天でしょう。
第六天は遷座していますが、篠塚稲荷神社は昔の位置にあります。
<玉垣「両国花火組合」>
両国花火組合は、柳橋料亭組合が運営していました。両国花火大会は、高度経済成長期に至り昭和36(1961)年を最後に終わります。昭和53(1978)年に隅田川花火大会と改称し台東区と墨田区が毎年交互に担当し再開されました。打ち上げ場所は隅田川上流に移っています。
台東区「文化探訪」が参考になります。
<説明文>
詳しい説明が掲示されています。
(説明文)右
「御祭神 倉稲魂命 御神徳 商売繁盛、火伏せ
例大祭 六月第一土曜日、日曜日
毎年、氏子の役員や有志の方々が御奉仕誘導して江戸葛西囃子を先頭に、獅子頭、大太鼓の山車と子供神輿が氏子町内を巡行します。そして氏子の崇敬者が所々に設営した御旅所(おたびしょ、即ち御神輿がお立寄りして休む所)で子供さん達に飲物、菓子、玩具、文房具等を沢山に振舞います。
当神社の創建は非常に古くて確かな事は判りませんが、神社に伝わる古文書や伝記などに依れば、正中年間(1325年頃)に新田義貞の四天王の一人であった篠塚伊賀守重宏が、足利尊氏軍との四国での最後の戦いに敗れた後ひそかに東国へ逃れ、現在地近辺の茅原の里にあったと言う当稲荷の祠の傍らにて仏門に入り、日夜主家の再興を祈願していた事から、いつしか里人が篠塚稲荷神社と称する様になったと言われています。古来諸大名や高家及び庶民の崇敬厚く右の図は天保七年版(1836年)『江戸名所図会』に記載されている稲荷社の絵図ですが『篠塚稲荷神社。当地の旧社なり。昔、新田(義貞)の家臣篠塚伊賀守、当社を信仰し、晩年に入道して社の側に庵室を結びて住す。別当玉蔵院はその裔孫なりと言えり」と記してあります。当時は神仏混交の時代で篠塚伊賀守の子孫は京都醍醐寺から篠塚山玉蔵院宗林寺の三号を受けた真言宗の修験僧で稲荷社の別当を務め、且つ江戸期から大正末期までは神社境内に寺子屋(後に篠塚小学校)を運営し、また福井町にも分校を設けていましたが明治維新の際の廃仏棄釈により玉蔵院を廃止し、大正11年には篠塚学校も廃校致しました。
↓左手前が新田義貞公、背後は篠塚伊賀守、 ↓伊賀守が敵の軍船を奪うの絵
篠塚伊賀守重宏については太平記や徳川光圀公の大日本史などに詳しく記述されていますが、大変な強力無双な武将で新田義貞公が福井で戦死した後は、義貞の弟、脇屋義助に従って各地を転戦し、四国で新田一門が滅亡する時、単騎で敵の軍船を奪い、現在の魚島を経て関東に向ったとあります。魚島やその他には様々な史跡が残存していますがその没年は不確かです。その豪傑振りは歌舞伎の演目にもなり左図の如き武者絵にもなりました。後年出生地の群馬県邑楽町篠塚の大信寺境内に御廟が建立され、毎年4月は篠塚一門の者が集まりご供養しています。」
(説明文)左
「当神社は小社ですが境内に古跡地としての由来を記した石碑と、宗祇が詠んだ句碑があります。
(句碑)
「代地川岸永住栞 涼風や月雪 はなの隅田川 宗祇」
「(註)
「宗祇」は室町後期の歌人(一四二一~一五○二)
平安末期の「西行法師」(一一一八ー一一九○)及び江戸時代末期の「芭蕉」(一六四四ー一六九四4)と共に漂泊の三歌人として名高い」
(石碑・表面)
「篠塚稲荷神社 社歴
御祭神 倉稲魂命。
例祭日 六月初旬
御由緒
当社の創起年代は詳らかではないが、古記に大川辺に高き丘あり篠生い茂り里人ここに稲荷神を祀るとあれば悠久の昔より奉斎し奉りあり 正平年間新田義貞の家臣篠塚伊賀守重廣、主家再興の祈請をなし来国光の刀を神前に捧げ、社傍に庵を結びて出家し日夜参篭怠らず、為にいつしか篠塚稲荷大明神と尊称するに至った。延宝九年三月神社別当僧たる伊賀守の子孫に醍醐寺三宝院御門跡より篠塚山玉蔵院宗林寺の称号を賜り、元禄六年二月本多紀伊守殿寺社奉行の折には御府内古跡地と定められたが、明治初年神仏分離の際、玉蔵院は廃せられた 古来より商売繁昌火防神として厚く尊崇奉る」
(石碑・裏面)
「をしからぬ 身を東路に めぐり来て 神に誓いを 申しおくなり」
「正平年中(西暦一三四○年頃)篠塚伊賀守重宏神前に詠みて捧げたる一首と伝う」
<境内・社殿>
<篠塚稲荷神社社歴と句の石碑>
<宗祇句碑>
「芳年武者无類 篠塚伊賀守貞綱」(月岡芳年)
篠塚重広は、南北朝時代の南朝方の武将。新田義貞の側近で、新田四天王の一人に数えられました。
北朝方が立てこもる近江三井寺攻略に参戦。三井寺を南朝方が攻めあぐねていた時、篠塚重広が寺の外にあった卒塔婆を持ち上げ、それを堀に渡して橋とし、攻め込んだと言われています。
(刀剣ワールドを参照しました)
「大日本六十余州之内 越前 篠塚伊賀守重広」(一陽斎豊国)
○石塚稲荷神社 台東区柳橋1-1-15
柳橋から柳橋大川端通りを北上すると、右手に石塚稲荷神社があります。
石塚稲荷神社は、かつての柳橋花柳界の火伏として信仰を集めました。
<玉垣>
玉垣には、亀清、柳光亭、柳水、津久松・・・、料亭の屋号等が並びます。
門柱には、左「柳橋料亭組合」、右「柳橋藝妓組合」とあります。
<鳥居>
鳥居の額「火伏神 石塚稲荷神社」
<境内>
境内には「二葉」の石碑。玉垣にも「二葉」とありますが、料亭「二葉」の碑なのでしょうかね?
「旧町名由来案内 下町まちしるべ 旧浅草柳橋」
柳橋の東北詰と同じ案内板があります。
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
消えた花街 柳橋
○柳橋 中央区東日本橋2丁目~台東区柳橋1丁目
<中央区側>
<かんざし>
欄干の「かんざし」は、柳橋の芸者衆のかんざしにちなんだもので、青と赤のかんざしが交互に据えられています。
<柳通り~両国広小路>
中央区側は柳通りとなり、両国広小路跡に出ます。
○復興記念碑/柳橋銘板〜正岡子規 中央区東日本橋2丁目 柳橋際
碑銘「復興記念」(昭和4年12月)と、柳橋の説明モニュメントがあります。
銘板に正岡子規の句が刻まれています。
「春の夜や女見返る柳橋 子規」
「贅沢な人の涼みや柳橋 子規」
(碑銘文)
「柳橋
柳橋の下を流れる神田川は、三鷹市井之頭池を水源とし、都心部を流れて隅田川に注ぐ全長約25kmの都市河川です。
この位置に初めて橋が架かったのは、元禄十一年(1698)のことで、「川口出口之橋」あるいは近くに幕府の矢の倉があったことから「矢の倉橋」と呼ばれていました。
「柳橋」の由来については、
(1) 矢の倉橋が矢之城(やのき)橋になり、さらに柳橋となる。
(2) 柳原堤の末にあったことに由来する。
(3) 橋の袂に柳の木があったことに由来する。
このように諸説ありますが、真説は不明です。
明治維新後、柳橋は新橋とともに花街として東京を代表するような場所になり、新橋は各藩から出て政府の役人になった人々、柳橋は江戸以来の商人や昔の旗本といった人々が集まる所であったようです。
区では平成3年度に、優美な形をしたこの橋を後世に傳えるため、傷んだ親柱を復元し、欄干は花街に因んで「かんざし」を飾り、歩道には御影石を張って再生しました。また、夕暮れより照明の演出をして、神田川河口に架かる「柳橋」の存在感をもたせました。
平成4年1月 東京都中央区
柳橋の諸元
形式 タイド・アーチ橋
橋長 37.9m
有効幅員 11.0m(車道6.0m 歩道2.5m×2)
建設年次 昭和4年12月(復興局施工)
春の夜や女見返る柳橋 子規
贅沢な人の涼みや柳橋 子規」
(説明板)
「中央区民文化財
柳橋
所在地 中央区東日本橋二丁目
台東区柳橋一丁目 (神田川)
柳橋は神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一橋梁です。
その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平石右衛門町(台東区)とは渡船で往き来していましたが、不便なので元禄十年(一六九七)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌十一年に完成しました。
その頃の柳橋辺りは隅田川の舟遊び客の船宿が多く、“柳橋川へ蒲団をほうり込み”と川柳に見られるような賑わいぶりでした。
明治二十年(一八八七)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正十二年(一九二三)の関東大震災で落ちてしまいました。
復興局は支流河口部の第一橋梁には船頭の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる工夫をしています。
柳橋はドイツ・ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ、昭和四年(一九二九)に完成しました。
完成から七十余年、現在、区内では復興橋梁も少なくなり、柳橋は貴重な近代の土木遺産として平成三年に整備し、同十一年に区民有形文化財に登録されています。
平成十四年三月 中央区教育委員会」
<隅田川テラス>
こちらから、隅田川テラスに出ることができます。
○船宿小松屋 中央区東日本橋2-27-22
柳橋の南詰、神田川に張り出して建っているかつての舟宿の屋形船の店です。
<台東区側>
<猪牙舟>
柳橋は、新吉原通いの猪牙船(ちょきふね)の発着所でした。柳橋から大川(隅田川)に出て遡ります。左手に浅草御蔵にある首尾の松を見て、山谷堀の今戸橋に入ります。ここで上陸し日本堤を徒歩か駕籠で新吉原に向かいました。
(猪牙舟については、山谷堀の項目で記述澄)
<柳橋説明>
(説明板)
「柳橋 台東区柳橋一丁目一番一号
この橋は、元禄十一年(一六九八)に、神田川が隅田川に注ぐところに架けられ、最初は、「川口出口の橋」と呼ばれた。近くに幕府の矢の倉があったことにちなみ、矢の倉橋・矢之城橋と呼んだともいう。柳橋は享保頃からの呼称らしい。橋の名の由来には、「柳原堤の末にある」「矢之城を柳の字に書きかえた」「橋畔の柳にちなむ」など諸説ある。鉄橋に架け替えられたのは明治二十年で、現在の橋は昭和四年に完成した。江戸時代、橋畔は船宿が並んで賑わった。幕末・明治以降、柳橋は花柳界として名を知られ、多くの文人・墨客が題材に取り上げている。また、柳橋は落語にもよく登場し「船徳」等はこの地を舞台にした噺である。
〔柳橋ゆかりの人々〕
成島柳北 蔵前生まれ。『柳橋新誌』を著わした。
小林清親 「元柳橋両国遠景」で、往時の柳橋周辺の情景を描いた。
正岡子規 句集『寒山落木』の中で「春の夜や 女見返る 柳橋」と詠んだ。
島崎藤村 今の柳橋1丁目に住み、柳橋を題材にした随筆『新片町』を発表し、小説『沈黙』」の中では大正期の柳橋界隈を情景豊かに書いている。また、代表作の『春』『家』などの作品も柳橋在住のときに発表した。
池波正太郎 『剣客商売』などの作品で柳橋界隈を取り上げている。
平成二十八年七月 台東区教育委員会」
(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
旧浅草柳橋
いくつかの町が統合され、昭和九年(一九三四)に誕生した。
町名の由来は、神田川の隅田川合流点近くに「柳橋」と称する橋があったのにちなんだ。
柳橋の名は、江戸中期の頃から花街として人によく知られ、橋のほとりには船宿が並んで賑わっていた。ひところは、料亭および芸者衆も多く、隆盛を誇ったものである。
「柳橋」は、元禄十一年(一六九八)に初めて架けられた。
神田川が大川にそそぐところにあったことから、その当時は、川口出口之橋と呼ばれていたが、橋のほとりに柳が植えられていたことから、いつしか柳橋と呼ばれた。現在の橋は、昭和四年に架けられたものでローゼ形式の橋である。 台東区」
○亀清楼 台東区柳橋1-1-3
「休業のご挨拶 平成29年11月吉日」
配管・変電室の老朽化による建て替えのため、2017年10月いっぱいで休業との挨拶です。
○小松屋 台東区柳橋1-2-1
柳橋の北詰、神田川に張り出して建っているかつての船宿の佃煮の専門店です。
岡地に営業していないマンション1階の店舗もありました。
○江戸名所図会と錦絵で見る柳橋の賑わい
「江戸名所図会」
柳橋部分の拡大です。花火は料理屋からよく見えるように打ち上げられています。
「絵本江戸土産 両国柳橋料理屋会席」(広重)
柳橋を袂に石段と屋根船が見えます。吉原通いの猪牙船もここから出ました。
「東都隅田川両岸一覧 西」(鶴岡蘆水 天明1(1781)年)
「東都隅田川両岸一覧」は、浮世絵師の鶴岡蘆水の作品で、隅田川両岸の連続絵巻となっています。柳橋部分の抜粋です。
柳橋から両国広小路へ、舟宿料理屋が密集している中、広大なスペースに「上様御舟場」とあります。将軍のお上がり場がかつてここにもあったことがうかがえます。両国橋の下流側にも描かれています。
「隅田川両岸一覧 新柳橋の白雨 御竹蔵の虹」(北斎)
にわか雨に降られ、傘を持った人々が新柳橋の上を走っている様子が描かれています。左奥の橋は御蔵橋で、幕府の材木蔵であった「御竹蔵」の入堀に架かっていました。右奥には百本杭が見えます。
「江戸八景 両国橋の夕照」(英泉)
万八楼で、書画会が行われています。万八楼は、江戸の文人墨客の書画会や句会などの場でもありました。
正岡子規は柳橋を詠んでいます。
「春の夜や女見返る柳橋 子規
贅沢な人の涼みや柳橋 子規」
「江戸高名会亭尽 柳ばし夜景 万八」(広重)
錦絵には「狂句合 万八の 二階夏とハ うそのやう」とあります。
柳橋の北袂の料理茶屋「万八楼」を描いています。「亀清楼」に引き継がれ現在は亀清楼の入るマンションが建っています。
「江戸名所百人美女 柳はし」(豊国・国久)
こま絵には万八楼が描かれています。隅田川には猪牙舟、屋根船、釣船が見えます。
「江戸高名会亭尽 両国柳ばし 梅川」(広重)
柳橋南袂。「梅川へのつと月の出江戸芸者 錦糸」
「江戸高名会亭尽 両国柳橋 大のし」(広重)
柳橋南袂。「狂句合 大のしと 貸上下の 小てうちん 株木」
「江戸高名会亭尽 両国柳橋 河内屋」(広重)
柳橋南袂。「狂句合 おつな業平河内屋へ度々通ひ ヒトヒ」」
「東京名所三十六戯撰 柳はし」(昇齋一景)
柳橋を渡っていた人が商品の傘を落とし、柳橋の下を行く舟の女性の下半身に直撃するハプニングが描かれています。
「東京開化狂画名所 柳橋 書画會画工の狼藉」(月岡芳年 都立図書館蔵)
書画会は明治に入っても盛んだったようです。
「東京名所 柳橋夜景」(井上探景(井上安治))
明治初期の柳橋が描かれています。
<中央区側>
<かんざし>
欄干の「かんざし」は、柳橋の芸者衆のかんざしにちなんだもので、青と赤のかんざしが交互に据えられています。
<柳通り~両国広小路>
中央区側は柳通りとなり、両国広小路跡に出ます。
○復興記念碑/柳橋銘板〜正岡子規 中央区東日本橋2丁目 柳橋際
碑銘「復興記念」(昭和4年12月)と、柳橋の説明モニュメントがあります。
銘板に正岡子規の句が刻まれています。
「春の夜や女見返る柳橋 子規」
「贅沢な人の涼みや柳橋 子規」
(碑銘文)
「柳橋
柳橋の下を流れる神田川は、三鷹市井之頭池を水源とし、都心部を流れて隅田川に注ぐ全長約25kmの都市河川です。
この位置に初めて橋が架かったのは、元禄十一年(1698)のことで、「川口出口之橋」あるいは近くに幕府の矢の倉があったことから「矢の倉橋」と呼ばれていました。
「柳橋」の由来については、
(1) 矢の倉橋が矢之城(やのき)橋になり、さらに柳橋となる。
(2) 柳原堤の末にあったことに由来する。
(3) 橋の袂に柳の木があったことに由来する。
このように諸説ありますが、真説は不明です。
明治維新後、柳橋は新橋とともに花街として東京を代表するような場所になり、新橋は各藩から出て政府の役人になった人々、柳橋は江戸以来の商人や昔の旗本といった人々が集まる所であったようです。
区では平成3年度に、優美な形をしたこの橋を後世に傳えるため、傷んだ親柱を復元し、欄干は花街に因んで「かんざし」を飾り、歩道には御影石を張って再生しました。また、夕暮れより照明の演出をして、神田川河口に架かる「柳橋」の存在感をもたせました。
平成4年1月 東京都中央区
柳橋の諸元
形式 タイド・アーチ橋
橋長 37.9m
有効幅員 11.0m(車道6.0m 歩道2.5m×2)
建設年次 昭和4年12月(復興局施工)
春の夜や女見返る柳橋 子規
贅沢な人の涼みや柳橋 子規」
(説明板)
「中央区民文化財
柳橋
所在地 中央区東日本橋二丁目
台東区柳橋一丁目 (神田川)
柳橋は神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一橋梁です。
その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平石右衛門町(台東区)とは渡船で往き来していましたが、不便なので元禄十年(一六九七)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌十一年に完成しました。
その頃の柳橋辺りは隅田川の舟遊び客の船宿が多く、“柳橋川へ蒲団をほうり込み”と川柳に見られるような賑わいぶりでした。
明治二十年(一八八七)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正十二年(一九二三)の関東大震災で落ちてしまいました。
復興局は支流河口部の第一橋梁には船頭の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる工夫をしています。
柳橋はドイツ・ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ、昭和四年(一九二九)に完成しました。
完成から七十余年、現在、区内では復興橋梁も少なくなり、柳橋は貴重な近代の土木遺産として平成三年に整備し、同十一年に区民有形文化財に登録されています。
平成十四年三月 中央区教育委員会」
<隅田川テラス>
こちらから、隅田川テラスに出ることができます。
○船宿小松屋 中央区東日本橋2-27-22
柳橋の南詰、神田川に張り出して建っているかつての舟宿の屋形船の店です。
<台東区側>
<猪牙舟>
柳橋は、新吉原通いの猪牙船(ちょきふね)の発着所でした。柳橋から大川(隅田川)に出て遡ります。左手に浅草御蔵にある首尾の松を見て、山谷堀の今戸橋に入ります。ここで上陸し日本堤を徒歩か駕籠で新吉原に向かいました。
(猪牙舟については、山谷堀の項目で記述澄)
<柳橋説明>
(説明板)
「柳橋 台東区柳橋一丁目一番一号
この橋は、元禄十一年(一六九八)に、神田川が隅田川に注ぐところに架けられ、最初は、「川口出口の橋」と呼ばれた。近くに幕府の矢の倉があったことにちなみ、矢の倉橋・矢之城橋と呼んだともいう。柳橋は享保頃からの呼称らしい。橋の名の由来には、「柳原堤の末にある」「矢之城を柳の字に書きかえた」「橋畔の柳にちなむ」など諸説ある。鉄橋に架け替えられたのは明治二十年で、現在の橋は昭和四年に完成した。江戸時代、橋畔は船宿が並んで賑わった。幕末・明治以降、柳橋は花柳界として名を知られ、多くの文人・墨客が題材に取り上げている。また、柳橋は落語にもよく登場し「船徳」等はこの地を舞台にした噺である。
〔柳橋ゆかりの人々〕
成島柳北 蔵前生まれ。『柳橋新誌』を著わした。
小林清親 「元柳橋両国遠景」で、往時の柳橋周辺の情景を描いた。
正岡子規 句集『寒山落木』の中で「春の夜や 女見返る 柳橋」と詠んだ。
島崎藤村 今の柳橋1丁目に住み、柳橋を題材にした随筆『新片町』を発表し、小説『沈黙』」の中では大正期の柳橋界隈を情景豊かに書いている。また、代表作の『春』『家』などの作品も柳橋在住のときに発表した。
池波正太郎 『剣客商売』などの作品で柳橋界隈を取り上げている。
平成二十八年七月 台東区教育委員会」
(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
旧浅草柳橋
いくつかの町が統合され、昭和九年(一九三四)に誕生した。
町名の由来は、神田川の隅田川合流点近くに「柳橋」と称する橋があったのにちなんだ。
柳橋の名は、江戸中期の頃から花街として人によく知られ、橋のほとりには船宿が並んで賑わっていた。ひところは、料亭および芸者衆も多く、隆盛を誇ったものである。
「柳橋」は、元禄十一年(一六九八)に初めて架けられた。
神田川が大川にそそぐところにあったことから、その当時は、川口出口之橋と呼ばれていたが、橋のほとりに柳が植えられていたことから、いつしか柳橋と呼ばれた。現在の橋は、昭和四年に架けられたものでローゼ形式の橋である。 台東区」
○亀清楼 台東区柳橋1-1-3
「休業のご挨拶 平成29年11月吉日」
配管・変電室の老朽化による建て替えのため、2017年10月いっぱいで休業との挨拶です。
○小松屋 台東区柳橋1-2-1
柳橋の北詰、神田川に張り出して建っているかつての船宿の佃煮の専門店です。
岡地に営業していないマンション1階の店舗もありました。
○江戸名所図会と錦絵で見る柳橋の賑わい
「江戸名所図会」
柳橋部分の拡大です。花火は料理屋からよく見えるように打ち上げられています。
「絵本江戸土産 両国柳橋料理屋会席」(広重)
柳橋を袂に石段と屋根船が見えます。吉原通いの猪牙船もここから出ました。
「東都隅田川両岸一覧 西」(鶴岡蘆水 天明1(1781)年)
「東都隅田川両岸一覧」は、浮世絵師の鶴岡蘆水の作品で、隅田川両岸の連続絵巻となっています。柳橋部分の抜粋です。
柳橋から両国広小路へ、舟宿料理屋が密集している中、広大なスペースに「上様御舟場」とあります。将軍のお上がり場がかつてここにもあったことがうかがえます。両国橋の下流側にも描かれています。
「隅田川両岸一覧 新柳橋の白雨 御竹蔵の虹」(北斎)
にわか雨に降られ、傘を持った人々が新柳橋の上を走っている様子が描かれています。左奥の橋は御蔵橋で、幕府の材木蔵であった「御竹蔵」の入堀に架かっていました。右奥には百本杭が見えます。
「江戸八景 両国橋の夕照」(英泉)
万八楼で、書画会が行われています。万八楼は、江戸の文人墨客の書画会や句会などの場でもありました。
正岡子規は柳橋を詠んでいます。
「春の夜や女見返る柳橋 子規
贅沢な人の涼みや柳橋 子規」
「江戸高名会亭尽 柳ばし夜景 万八」(広重)
錦絵には「狂句合 万八の 二階夏とハ うそのやう」とあります。
柳橋の北袂の料理茶屋「万八楼」を描いています。「亀清楼」に引き継がれ現在は亀清楼の入るマンションが建っています。
「江戸名所百人美女 柳はし」(豊国・国久)
こま絵には万八楼が描かれています。隅田川には猪牙舟、屋根船、釣船が見えます。
「江戸高名会亭尽 両国柳ばし 梅川」(広重)
柳橋南袂。「梅川へのつと月の出江戸芸者 錦糸」
「江戸高名会亭尽 両国柳橋 大のし」(広重)
柳橋南袂。「狂句合 大のしと 貸上下の 小てうちん 株木」
「江戸高名会亭尽 両国柳橋 河内屋」(広重)
柳橋南袂。「狂句合 おつな業平河内屋へ度々通ひ ヒトヒ」」
「東京名所三十六戯撰 柳はし」(昇齋一景)
柳橋を渡っていた人が商品の傘を落とし、柳橋の下を行く舟の女性の下半身に直撃するハプニングが描かれています。
「東京開化狂画名所 柳橋 書画會画工の狼藉」(月岡芳年 都立図書館蔵)
書画会は明治に入っても盛んだったようです。
「東京名所 柳橋夜景」(井上探景(井上安治))
明治初期の柳橋が描かれています。
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
両国広小路
○史跡両国広小路 中央区東日本橋2-26-1地先
江戸時代の火除け地が広小路に発展し、両国広小路は、上野、浅草と並ぶ有数の盛り場でした。
両国広小路にある石碑の施工は、石勝ガーデンとあります。江戸時代から続く石屋です。将門塚の石碑も石勝ガーデン施工です。
(裏面碑文)
「明暦の大火(1657年)は江戸の市街の大半を焼失し10万余の死者を出した その際このあたりで逃げ場を失って焼死するものが多数出た このため対岸への避難の便を図り両国橋が架けられた 隅田川は当時武蔵下総両国の境をなしていた また延焼防止のため橋に向う沿道一帯を火除け地に指定し空き地とした やがてこれが広小路となり 江戸三大広小路の一つとして上野浅草に並び称せられる盛り場に発展した 明治維新のころここには新柳町元柳町横山町吉川町米沢町薬研堀町若松町があったが 昭和7年合併して日本橋両国となり現在に及んだ 維新後百年を経た今日 まちの近代化はめざましく 広小路や両国の名も過去のものとして忘れ去られようとしているが 300年前火除け地が設定され これが広小路に発展して行った事跡の中には 先人の英知と努力が偲ばれてまことに意義深いものがある ここに由緒ある両国広小路の旧跡を永く保存するため町会の総意により この碑を建てた
昭和44年11月3日
中央区日本橋両国町会 建碑
施工 青山 石勝ガーデン」
<浮世絵に見る広小路>
「江戸両国すずみの図」(豊国)
複数の絵を連結しています。西側の両国広小路が描かれています。
よしず張りの茶店が並んでいます。左下には「大坂下り」の幟が見えます。見世物の軽業興行でしょう。
拡大 北斎の絵で橋から2軒目に「水」の幟が見えましたが、その2軒目から、行商に出る冷やし水売りが見えます。
「隅田川両岸一覧 両国納涼・一の橋弁天」「隅田川両岸一覧 無縁の日中」(北斎)
拡大 水の幟が見えます。氷かと思いましたが、冷やし水かと思います。
「隅田川両岸一覧」(北斎)
3つのタイトル絵を両国広小路部分を抜粋して連結しています。左が両国橋、右が元柳橋です。軽業とからくりの幟が見えます。水の幟が2つ見えます。隅田川の向岸には幕府の御船蔵がずらりと並んでいます。
「新板浮絵 両国橋夕涼花火見物之図」(北斎)
北斎が春朗時代に描いた浮絵です。手前に両国広小路、中央に両国橋、その向こうに花火、向岸には御蔵橋と石原橋が見えます。
拡大 両国広小路には「志るこ餅」などの店が見えます。
江戸時代の火除け地が広小路に発展し、両国広小路は、上野、浅草と並ぶ有数の盛り場でした。
両国広小路にある石碑の施工は、石勝ガーデンとあります。江戸時代から続く石屋です。将門塚の石碑も石勝ガーデン施工です。
(裏面碑文)
「明暦の大火(1657年)は江戸の市街の大半を焼失し10万余の死者を出した その際このあたりで逃げ場を失って焼死するものが多数出た このため対岸への避難の便を図り両国橋が架けられた 隅田川は当時武蔵下総両国の境をなしていた また延焼防止のため橋に向う沿道一帯を火除け地に指定し空き地とした やがてこれが広小路となり 江戸三大広小路の一つとして上野浅草に並び称せられる盛り場に発展した 明治維新のころここには新柳町元柳町横山町吉川町米沢町薬研堀町若松町があったが 昭和7年合併して日本橋両国となり現在に及んだ 維新後百年を経た今日 まちの近代化はめざましく 広小路や両国の名も過去のものとして忘れ去られようとしているが 300年前火除け地が設定され これが広小路に発展して行った事跡の中には 先人の英知と努力が偲ばれてまことに意義深いものがある ここに由緒ある両国広小路の旧跡を永く保存するため町会の総意により この碑を建てた
昭和44年11月3日
中央区日本橋両国町会 建碑
施工 青山 石勝ガーデン」
<浮世絵に見る広小路>
「江戸両国すずみの図」(豊国)
複数の絵を連結しています。西側の両国広小路が描かれています。
よしず張りの茶店が並んでいます。左下には「大坂下り」の幟が見えます。見世物の軽業興行でしょう。
拡大 北斎の絵で橋から2軒目に「水」の幟が見えましたが、その2軒目から、行商に出る冷やし水売りが見えます。
「隅田川両岸一覧 両国納涼・一の橋弁天」「隅田川両岸一覧 無縁の日中」(北斎)
拡大 水の幟が見えます。氷かと思いましたが、冷やし水かと思います。
「隅田川両岸一覧」(北斎)
3つのタイトル絵を両国広小路部分を抜粋して連結しています。左が両国橋、右が元柳橋です。軽業とからくりの幟が見えます。水の幟が2つ見えます。隅田川の向岸には幕府の御船蔵がずらりと並んでいます。
「新板浮絵 両国橋夕涼花火見物之図」(北斎)
北斎が春朗時代に描いた浮絵です。手前に両国広小路、中央に両国橋、その向こうに花火、向岸には御蔵橋と石原橋が見えます。
拡大 両国広小路には「志るこ餅」などの店が見えます。
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
薬研堀 元柳橋 矢ノ倉 薬研堀不動院
○薬研堀(やげんぼり)
江戸幕府は、隅田川から、矢ノ倉(米蔵)への米の搬入のための入堀として薬研堀を開削しました。薬研堀には元柳橋が架かっていました。
矢ノ倉は、元禄11(1698)年、火災により焼失し、米蔵は築地に移されています。
<江戸切絵図>
江戸切絵図に「元柳橋」と「薬研堀」が見えます。
<現在地>
日本橋中学校校庭から歩道橋の南側付近にかけて、かつて薬研堀があったところです。
○元柳橋
薬研堀に架かる橋は、北詰に柳の木があることから「柳橋」と呼ばれましたが、神田川河口部に架かる「川口出口之橋」が同じ名で呼ばれるようになり、元の柳橋は、「元柳橋」と呼ばれるようになりました。
<元柳橋モニュメント> 中央区東日本橋1-11
元柳橋があったと思われる場所は、隅田川テラスへの階段となっています。東京都下水道局の高潮防潮扉ともなっています。
実用的ではない欄干は、元柳橋をイメージしていると思えます。
モニュメントが元柳橋をイメージしているとして、牛だか羊だかわからないオブジェは何をイメージしているのか、隅田川テラスを散策した時も、不思議に思いました。
竜馬が来たのでパチリ。
<江戸名所図会や錦絵に見る元柳橋>
「江戸名所図会 両国橋」
複数の挿絵を合成しています。左下に「柳橋」、右端に「元柳橋」が見えます。
元柳橋の拡大です。橋の袂に柳の木が見えます。
「絵本江戸土産 両国橋}(広重)
「絵本江戸土産 両国橋}中に「元柳橋」が見えます。橋の袂に柳が描かれています。
「絵本江戸土産 向両國茶屋 元柳橋 濱町}(広重)
元柳橋と向岸に一之橋が見えます。元柳橋の袂に柳が描かれています。
「絵本隅田川両岸一覧 元柳橋の子規 大橋の綱引/広小路の群衆 御船蔵の(虫偏に舟)」(北斎)
柳橋部分と広小路の一部を連結しています。元柳橋と柳が描かれています。隅田川下流に新大橋が見えます。
「名所江戸百景 両ごく回向院元柳橋」(広重)
元柳橋部分を拡大すると、橋の袂に大きな柳が描かれています。
「東都両国夕凉之図」(貞房)
錦絵の右上に、元柳橋と柳が見えます。
「東都隅田川両岸一覧 東」(鶴岡蘆水 天明1(1781)年)
元柳橋部分の抜粋です。柳が描かれています。
「元柳橋両国遠景」(小林清親)
元柳橋は手前にあり描かれていませんが、柳とその先の両国橋が描かれています。
柳の袂には力石?が描かれています。
「東京五大橋之一両国真景」(小林清親 明治9年)
両国橋がメインですが、富士山、筑波山、元柳橋と盛り沢山です。
元柳橋部分を拡大すると、柳が見えます。薬研堀も描かれています。
「元柳橋」(井上安治)
井上安治が光線画で元柳橋を描いています。
○旧跡矢ノ倉 中央区東日本橋1-10-2
日本橋中学校の西南角に、2つの碑が建っています。右側には「旧跡 矢の倉」の趣旨が、左側には由来が刻まれています。
(碑銘文)
「旧跡 矢ノ倉
趣旨
由緒ある矢ノ倉の地名が時代の流れにより失われてゆくことを惜むの余り旧跡として、後の世の人々の語り草ともなればと、町内有志が相寄って町会記念事業として、この碑を建立したものである。
昭和五十年十一月三日
東日本橋一丁目矢ノ倉町会有志一同」
「由来
江戸初期の頃からこの辺りは谷野といわれ、正保二年(一六四五)徳川幕府が米倉を建て、これを谷之御蔵と称した。元禄十一年(一六九八)火災により焼失、米倉は築地に移された。米倉移転後幕末までこの地域は、北東部が町家に、北西および南部は武家地となり柳沢出羽守屋敷や幾つかの屋敷に分割され、その後松平壱岐守など諸氏の邸地となった。矢ノ倉町の地名には昔から谷野倉、谷蔵、矢野倉、矢之倉などの字が宛てられたが、明治五年町名設定によって俚俗の称をとり矢ノ倉町と定めた。
昭和四十六年四月一日住居表示の実施に伴う町名変更により東日本橋一丁目となった。江戸時代からの旧町名の保存を記念としてこの碑を建立する。
昭和五十年十一月三日」
○薬研堀不動院 中央区東日本橋2-6-8
薬研堀はなくなりましたが、その名を今に残すのが薬研堀不動院です。現在は川崎大師別院となっています。HP
<江戸名所図会 薬研堀 不動 金比羅 歓喜天>
天保の改革時に、本所弥勒寺に移されましたが、明治維新後、旧地に遷っています。
江戸名所図会には、「薬研堀 不動」としてかろうじて描かれています。江戸切絵図には記載はありません。
<奉納品>
奉納ケースには「やげん堀 七味唐辛子本舗」と「カゴメ株式会社」からの奉納品。
「七色唐辛子売り」(近世流行商人狂哥絵図 曲亭馬琴 天保6(1835)年)
江戸時代は、ハリボテの唐辛子を担いで唐辛子を売り歩いていました。子どもの目を引けば親もやって来ます。
<聖徳太子碑>
本堂右手に「聖徳太子」碑があります。
<子寶地蔵尊>
<梵字佛薬研堀不動三尊>
<納めの歳の市碑>
平成8(1996)年の建立。
<遍路大師尊像>
<順天堂発祥之地碑>
順天堂の学祖・佐藤泰然が、天保9(1838)年に和蘭医学塾を開講した地です。学校法人・順天堂により、昭和57(1982)年に建碑されました。
<講談発祥記念之碑>
関東大震災で失われ、昭和59(1984)年に再建されました。
江戸幕府は、隅田川から、矢ノ倉(米蔵)への米の搬入のための入堀として薬研堀を開削しました。薬研堀には元柳橋が架かっていました。
矢ノ倉は、元禄11(1698)年、火災により焼失し、米蔵は築地に移されています。
<江戸切絵図>
江戸切絵図に「元柳橋」と「薬研堀」が見えます。
<現在地>
日本橋中学校校庭から歩道橋の南側付近にかけて、かつて薬研堀があったところです。
○元柳橋
薬研堀に架かる橋は、北詰に柳の木があることから「柳橋」と呼ばれましたが、神田川河口部に架かる「川口出口之橋」が同じ名で呼ばれるようになり、元の柳橋は、「元柳橋」と呼ばれるようになりました。
<元柳橋モニュメント> 中央区東日本橋1-11
元柳橋があったと思われる場所は、隅田川テラスへの階段となっています。東京都下水道局の高潮防潮扉ともなっています。
実用的ではない欄干は、元柳橋をイメージしていると思えます。
モニュメントが元柳橋をイメージしているとして、牛だか羊だかわからないオブジェは何をイメージしているのか、隅田川テラスを散策した時も、不思議に思いました。
竜馬が来たのでパチリ。
<江戸名所図会や錦絵に見る元柳橋>
「江戸名所図会 両国橋」
複数の挿絵を合成しています。左下に「柳橋」、右端に「元柳橋」が見えます。
元柳橋の拡大です。橋の袂に柳の木が見えます。
「絵本江戸土産 両国橋}(広重)
「絵本江戸土産 両国橋}中に「元柳橋」が見えます。橋の袂に柳が描かれています。
「絵本江戸土産 向両國茶屋 元柳橋 濱町}(広重)
元柳橋と向岸に一之橋が見えます。元柳橋の袂に柳が描かれています。
「絵本隅田川両岸一覧 元柳橋の子規 大橋の綱引/広小路の群衆 御船蔵の(虫偏に舟)」(北斎)
柳橋部分と広小路の一部を連結しています。元柳橋と柳が描かれています。隅田川下流に新大橋が見えます。
「名所江戸百景 両ごく回向院元柳橋」(広重)
元柳橋部分を拡大すると、橋の袂に大きな柳が描かれています。
「東都両国夕凉之図」(貞房)
錦絵の右上に、元柳橋と柳が見えます。
「東都隅田川両岸一覧 東」(鶴岡蘆水 天明1(1781)年)
元柳橋部分の抜粋です。柳が描かれています。
「元柳橋両国遠景」(小林清親)
元柳橋は手前にあり描かれていませんが、柳とその先の両国橋が描かれています。
柳の袂には力石?が描かれています。
「東京五大橋之一両国真景」(小林清親 明治9年)
両国橋がメインですが、富士山、筑波山、元柳橋と盛り沢山です。
元柳橋部分を拡大すると、柳が見えます。薬研堀も描かれています。
「元柳橋」(井上安治)
井上安治が光線画で元柳橋を描いています。
○旧跡矢ノ倉 中央区東日本橋1-10-2
日本橋中学校の西南角に、2つの碑が建っています。右側には「旧跡 矢の倉」の趣旨が、左側には由来が刻まれています。
(碑銘文)
「旧跡 矢ノ倉
趣旨
由緒ある矢ノ倉の地名が時代の流れにより失われてゆくことを惜むの余り旧跡として、後の世の人々の語り草ともなればと、町内有志が相寄って町会記念事業として、この碑を建立したものである。
昭和五十年十一月三日
東日本橋一丁目矢ノ倉町会有志一同」
「由来
江戸初期の頃からこの辺りは谷野といわれ、正保二年(一六四五)徳川幕府が米倉を建て、これを谷之御蔵と称した。元禄十一年(一六九八)火災により焼失、米倉は築地に移された。米倉移転後幕末までこの地域は、北東部が町家に、北西および南部は武家地となり柳沢出羽守屋敷や幾つかの屋敷に分割され、その後松平壱岐守など諸氏の邸地となった。矢ノ倉町の地名には昔から谷野倉、谷蔵、矢野倉、矢之倉などの字が宛てられたが、明治五年町名設定によって俚俗の称をとり矢ノ倉町と定めた。
昭和四十六年四月一日住居表示の実施に伴う町名変更により東日本橋一丁目となった。江戸時代からの旧町名の保存を記念としてこの碑を建立する。
昭和五十年十一月三日」
○薬研堀不動院 中央区東日本橋2-6-8
薬研堀はなくなりましたが、その名を今に残すのが薬研堀不動院です。現在は川崎大師別院となっています。HP
<江戸名所図会 薬研堀 不動 金比羅 歓喜天>
天保の改革時に、本所弥勒寺に移されましたが、明治維新後、旧地に遷っています。
江戸名所図会には、「薬研堀 不動」としてかろうじて描かれています。江戸切絵図には記載はありません。
<奉納品>
奉納ケースには「やげん堀 七味唐辛子本舗」と「カゴメ株式会社」からの奉納品。
「七色唐辛子売り」(近世流行商人狂哥絵図 曲亭馬琴 天保6(1835)年)
江戸時代は、ハリボテの唐辛子を担いで唐辛子を売り歩いていました。子どもの目を引けば親もやって来ます。
<聖徳太子碑>
本堂右手に「聖徳太子」碑があります。
<子寶地蔵尊>
<梵字佛薬研堀不動三尊>
<納めの歳の市碑>
平成8(1996)年の建立。
<遍路大師尊像>
<順天堂発祥之地碑>
順天堂の学祖・佐藤泰然が、天保9(1838)年に和蘭医学塾を開講した地です。学校法人・順天堂により、昭和57(1982)年に建碑されました。
<講談発祥記念之碑>
関東大震災で失われ、昭和59(1984)年に再建されました。
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
- カウンター