【金沢】野島公園
○野島公園 横浜市金沢区乙舳町・野島町
案内図です。



<乙舳海岸>
野島公園の東端部の海岸が、乙舳海岸です。 海の公園の海岸は乙舳海岸を埋め立て拡張した人工の海浜ですが、野島公園の乙舳海岸は、自然海岸が残ります。



<野島の掩体壕(東側)>
乙舳海岸の背後の野島山の麓には、日本海軍の飛行機格納庫跡があります。


(説明板)
「野島の掩体壕
野島掩体壕は、横須賀市夏島町にあった旧横須賀海軍航空隊基地の戦闘機を空襲から守る施設として建設されました。
この掩体壕は、標高約55メートルの野島山の東西をトンネル状に貫通しており、長さは約260メー トル、両側に出入口があります。
出入口の部分は、幅約20メートル、高さ約7メートルで、トンネル状にコンクリートが打設されてお り、中央部分は、幅約10メートル、高さ約8メートルで、素掘りの状態です。
作業に当たった横須賀海軍の「第三○○設営隊戦時日誌」には、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年) 3月15日から6月30日までの掘削工事が進められていた記録が残されており、同時に掘削されていた夏島掩体壕とあわせて、海軍の小型機約100機を格納する計画でしたが、終戦で実際に使用されることはありませんでした。
通常の掩体壕は、戦闘機1機を格納する程度の大きさが一般的で、この野島掩体壕は、現存する掩体壕の中でも国内で最大規模と言われています。
第三○○設営隊は、横須賀海軍施設部第一部隊を改編した部隊で、海軍の将兵に技術者を加えた精鋭部隊でした。日吉台(横浜市港北区)の旧日本海軍連合艦隊総司令部地下壕や松代大本営地下壕 (長野市松代町) などの建設にも加わっていました。
平成22年3月 横浜市」



<野島の掩体壕(西側)>




<ビオトープ>

<野島山階段>
野島山へは舗装された園路の他、階段もあります。階段に50段ごとに段数表示が設置されています。最後は「239段」です。




<野島貝塚>
山頂部〜中腹部に貝塚があります。野島公園の山頂付近に貝塚があることが分かったのは、昭和20年代です。


(標柱)
「横浜市指定史跡 野島貝塚 平成三年三月設置
平成二年十一月一日指定 横浜市教育委員会」


(説明板)
「横浜市指定史跡 野島貝塚
平成二年十一月一日指定
横浜市金沢区野島町に所在する野島貝塚は、昭和二十年代前半に小発掘が繰り返され、その存在が明らかにされた縄文時代早期後葉の遺跡で、市域において現存する最古の貝塚です。貝塚は、標高約五十三メートルを測る独立丘の頂部北側緑辺部及びそれに続く標高五十〜三十七メートルの斜面中腹部に点在しています。貝層は、厚さ十センチメートル?三十センチメートルで、マガキ、オオヘビガイを主体とする純鹹性の貝で構成されています。貝層内からは、鹿角製の釣針、貝輪未製品、シカ、イルカなどの獣魚骨が、更に隣接する包含層からは磨製石器が出土しています。
貝層内出土の土器は、縄文時代早期後葉の野島式土器として形式が設定されており、また貝層下の土層からは大丸式、夏島式など早期初頭の土器が出土しているなど、本貝塚は学術上極めて貴重な位置を占めています。
平成三年三月 横浜市教育委員会」

<野島山展望休憩所>


「周辺の公園と歴史探訪」
「乙舳帰帆 ここに描かれている風景は、野島から柴町まで一望のもとに広がっていた海岸です。昭和40年代まで海水浴場として利用されていました。現在では海の公園の人工海浜になっています。」

「海の公園 海の公園は、乙舳海岸を埋め立ててつくり、昭和55年7月にオープンしました。」

「称名晩鐘」「称名寺」「金沢文庫」

「金沢自然公園」「金沢動物園」

「周辺の公園と歴史探訪」
「夏島貝塚」「野島貝塚」「称明寺貝塚」

「野島公園」

「旧伊藤博文別荘と憲法草創の碑」

<展望>

富士山が見えました。

<展望案内板>









案内図です。



<乙舳海岸>
野島公園の東端部の海岸が、乙舳海岸です。 海の公園の海岸は乙舳海岸を埋め立て拡張した人工の海浜ですが、野島公園の乙舳海岸は、自然海岸が残ります。



<野島の掩体壕(東側)>
乙舳海岸の背後の野島山の麓には、日本海軍の飛行機格納庫跡があります。


(説明板)
「野島の掩体壕
野島掩体壕は、横須賀市夏島町にあった旧横須賀海軍航空隊基地の戦闘機を空襲から守る施設として建設されました。
この掩体壕は、標高約55メートルの野島山の東西をトンネル状に貫通しており、長さは約260メー トル、両側に出入口があります。
出入口の部分は、幅約20メートル、高さ約7メートルで、トンネル状にコンクリートが打設されてお り、中央部分は、幅約10メートル、高さ約8メートルで、素掘りの状態です。
作業に当たった横須賀海軍の「第三○○設営隊戦時日誌」には、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年) 3月15日から6月30日までの掘削工事が進められていた記録が残されており、同時に掘削されていた夏島掩体壕とあわせて、海軍の小型機約100機を格納する計画でしたが、終戦で実際に使用されることはありませんでした。
通常の掩体壕は、戦闘機1機を格納する程度の大きさが一般的で、この野島掩体壕は、現存する掩体壕の中でも国内で最大規模と言われています。
第三○○設営隊は、横須賀海軍施設部第一部隊を改編した部隊で、海軍の将兵に技術者を加えた精鋭部隊でした。日吉台(横浜市港北区)の旧日本海軍連合艦隊総司令部地下壕や松代大本営地下壕 (長野市松代町) などの建設にも加わっていました。
平成22年3月 横浜市」



<野島の掩体壕(西側)>




<ビオトープ>

<野島山階段>
野島山へは舗装された園路の他、階段もあります。階段に50段ごとに段数表示が設置されています。最後は「239段」です。




<野島貝塚>
山頂部〜中腹部に貝塚があります。野島公園の山頂付近に貝塚があることが分かったのは、昭和20年代です。


(標柱)
「横浜市指定史跡 野島貝塚 平成三年三月設置
平成二年十一月一日指定 横浜市教育委員会」


(説明板)
「横浜市指定史跡 野島貝塚
平成二年十一月一日指定
横浜市金沢区野島町に所在する野島貝塚は、昭和二十年代前半に小発掘が繰り返され、その存在が明らかにされた縄文時代早期後葉の遺跡で、市域において現存する最古の貝塚です。貝塚は、標高約五十三メートルを測る独立丘の頂部北側緑辺部及びそれに続く標高五十〜三十七メートルの斜面中腹部に点在しています。貝層は、厚さ十センチメートル?三十センチメートルで、マガキ、オオヘビガイを主体とする純鹹性の貝で構成されています。貝層内からは、鹿角製の釣針、貝輪未製品、シカ、イルカなどの獣魚骨が、更に隣接する包含層からは磨製石器が出土しています。
貝層内出土の土器は、縄文時代早期後葉の野島式土器として形式が設定されており、また貝層下の土層からは大丸式、夏島式など早期初頭の土器が出土しているなど、本貝塚は学術上極めて貴重な位置を占めています。
平成三年三月 横浜市教育委員会」

<野島山展望休憩所>


「周辺の公園と歴史探訪」
「乙舳帰帆 ここに描かれている風景は、野島から柴町まで一望のもとに広がっていた海岸です。昭和40年代まで海水浴場として利用されていました。現在では海の公園の人工海浜になっています。」

「海の公園 海の公園は、乙舳海岸を埋め立ててつくり、昭和55年7月にオープンしました。」

「称名晩鐘」「称名寺」「金沢文庫」

「金沢自然公園」「金沢動物園」

「周辺の公園と歴史探訪」
「夏島貝塚」「野島貝塚」「称明寺貝塚」

「野島公園」

「旧伊藤博文別荘と憲法草創の碑」

<展望>

富士山が見えました。

<展望案内板>









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