【金沢】称名寺市民の森
【金沢】称名寺市民の森
<称名寺百観音>
称名寺の再建に尽力した出版会社、博文館オーナーの大橋新太郎氏は、北条実時の660年忌を記念して、金沢山に西国三十三番、稲荷山に坂東三十三番、日向山に秩父三十四番の観音像を奉配、金沢山山頂に八角観音堂を寄進しました。

「百番観世音霊場登口」(昭和十年十月)
「百番観音並観音堂建設之碑」(昭和十年十月)



かつては山道沿いに配されていた観音像は、現在は「観音通り」に札所ごとに集められています。


「奉納大乗妙典六十六部日本廻國一石一字供養塔」
登口に正徳4(1714)年の六十六部供養塔があります。日向山頂からの移設です。

「海中出現観世音(菩薩)」(昭和十年十月建立)
八角観音堂からの移設と思われます。

「慈母観音像」「弘法大師像」(観音広場)


観音広場まで、称名寺金堂から150m、この先、八角堂広場まで130mです。

進みます。

進みます。

途中「台の広場」への分岐があります。

<富士権現社>
金沢山の山頂に到着です。富士権現社が祀られています。富士権現社は新編武蔵風土記稿に記載があり、大橋氏は、既存の富士権現社に社殿を寄進しています。社殿は火災で焼失し、現在は石祠のみとなっています。
「金沢文庫案内」(京浜湘南電気鉄道 昭和15年)
「西に富士権現の社殿があり、中央に観音八角堂がたてられていゐます。何れも大橋翁の寄進であります。」 との記載があり、富士権現社の鳥居と社殿の写真も掲載されています。


現在の富士権現社


<八角堂と八角堂広場>
観音八角堂に、長浜観音が祀られていました(現在は金堂に安置)。


八景島、夏島、野島への眺望が開けています。

<稲荷山休憩所>
金沢山から稲荷山へは、急峻な崖地に架かる桟道を渡って行きます。

稲荷山休憩所に出ました。眺望は望めません。


<北条実時の墓>
稲荷山休憩所から100mで「北條實時公御廟」に到着です。ここは日向山に当たります。




(説明板)
「〔金沢北条一門の墓〕 北条実時の墓
北条実時(一二二四~一二七六)は、鎌倉幕府の第二代執権であった義時の孫で、貞応三年に実泰の子として生まれました。
実時は、引付衆や評定衆など幕府の要職を歴任し、文永三年(一二七五)には越訴奉行をつとめています。
政治面で活躍する一方、広範な分野の学問にも力をつくし、文武ともにすぐれた知識人で、現在の称名寺がある地に別業を開き、金沢文庫の礎を築きました。
墓地内中央の宝篋印塔は、実時の墓と伝えられ、さらに左右の五輪塔は一門の墓といわれています。
また、江戸時代この墓地を修理したときは、素焼きの壺の類が出土したといいます。
平成七年三月三一日 横浜市教育委員会」

中央の宝篋印塔が実時の墓と伝えられ、左右の五輪塔は一門の墓といわれています。



<先代一門次郎入道墓>
見当たりませんでした。
<日向山通り>
日向通りを進んでいくと、眺望の開けた場所に出ました。


福浦〜八景島の眺望が望めます。


<帰着>
<称名寺百観音>
称名寺の再建に尽力した出版会社、博文館オーナーの大橋新太郎氏は、北条実時の660年忌を記念して、金沢山に西国三十三番、稲荷山に坂東三十三番、日向山に秩父三十四番の観音像を奉配、金沢山山頂に八角観音堂を寄進しました。

「百番観世音霊場登口」(昭和十年十月)
「百番観音並観音堂建設之碑」(昭和十年十月)



かつては山道沿いに配されていた観音像は、現在は「観音通り」に札所ごとに集められています。


「奉納大乗妙典六十六部日本廻國一石一字供養塔」
登口に正徳4(1714)年の六十六部供養塔があります。日向山頂からの移設です。

「海中出現観世音(菩薩)」(昭和十年十月建立)
八角観音堂からの移設と思われます。

「慈母観音像」「弘法大師像」(観音広場)


観音広場まで、称名寺金堂から150m、この先、八角堂広場まで130mです。

進みます。

進みます。

途中「台の広場」への分岐があります。

<富士権現社>
金沢山の山頂に到着です。富士権現社が祀られています。富士権現社は新編武蔵風土記稿に記載があり、大橋氏は、既存の富士権現社に社殿を寄進しています。社殿は火災で焼失し、現在は石祠のみとなっています。
「金沢文庫案内」(京浜湘南電気鉄道 昭和15年)
「西に富士権現の社殿があり、中央に観音八角堂がたてられていゐます。何れも大橋翁の寄進であります。」 との記載があり、富士権現社の鳥居と社殿の写真も掲載されています。


現在の富士権現社


<八角堂と八角堂広場>
観音八角堂に、長浜観音が祀られていました(現在は金堂に安置)。


八景島、夏島、野島への眺望が開けています。

<稲荷山休憩所>
金沢山から稲荷山へは、急峻な崖地に架かる桟道を渡って行きます。

稲荷山休憩所に出ました。眺望は望めません。


<北条実時の墓>
稲荷山休憩所から100mで「北條實時公御廟」に到着です。ここは日向山に当たります。




(説明板)
「〔金沢北条一門の墓〕 北条実時の墓
北条実時(一二二四~一二七六)は、鎌倉幕府の第二代執権であった義時の孫で、貞応三年に実泰の子として生まれました。
実時は、引付衆や評定衆など幕府の要職を歴任し、文永三年(一二七五)には越訴奉行をつとめています。
政治面で活躍する一方、広範な分野の学問にも力をつくし、文武ともにすぐれた知識人で、現在の称名寺がある地に別業を開き、金沢文庫の礎を築きました。
墓地内中央の宝篋印塔は、実時の墓と伝えられ、さらに左右の五輪塔は一門の墓といわれています。
また、江戸時代この墓地を修理したときは、素焼きの壺の類が出土したといいます。
平成七年三月三一日 横浜市教育委員会」

中央の宝篋印塔が実時の墓と伝えられ、左右の五輪塔は一門の墓といわれています。



<先代一門次郎入道墓>
見当たりませんでした。
<日向山通り>
日向通りを進んでいくと、眺望の開けた場所に出ました。


福浦〜八景島の眺望が望めます。


<帰着>

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