井の頭公園(野口雨情/中田喜直)
○野口雨情碑 三鷹市井の頭4-1
野口雨情は、1924年から約20年間、井の頭恩賜公園に近い武蔵野村吉祥寺に居を構えて創作活動を行いました。この碑は1952年に東京雨情会が建立したもので、雨情歌詞の「井の頭音頭」の一節が紹介されています。
(碑文)
「鳴いて さわいて 日の暮れ頃は 葦に行々子 はなりゃせぬ 雨情」
(碑文)
「野口雨情氏は明治大正昭和にわたり民謡童謡の世界に偉大な足跡を残した詩人で深く自然を愛し當時まだ武蔵野そのままの吉祥寺に童心居を建て數多くの名作を生んだ
民謡は土の自然詩であるこれが氏の信條であり全作品に漲る特色であった この地井之頭は氏が朝夕散策愛でて措かなかった處である。」
(碑陰)
「昭和二十七年十一月二十七日
東京 雨情會建之」
(説明板)
「野口雨情碑
「七つの子」「赤い靴」「雨降りお月さん」などの童謡で名高い詩人野口雨情は、一九二四年から約二十年間、井の頭恩賜公園に近い武蔵野村吉祥寺に居を構えて創作活動を行いました。
この碑は一九五二年に東京雨情会が建立したもので、雨情歌詞の「井の頭音頭」の一節が紹介されています。」
○中田喜直歌碑「ちいさい秋みつけた」 三鷹市井の頭4-1
中田喜直(1923〜2000年)は、昭和20年代前半に三鷹市に居を構え、「夏の思い出」や「雪の降るまちを」などを作曲しました。なかでも、井の頭恩賜公園を散策していたときに生まれたのが「ちいさい秋みつけた」です。 平成25(2013)年に中田喜直の生誕90周年を迎えるにあたり、歌碑「ちいさい秋みつけた」が11月16日に建立されました。この歌碑には、氏の直筆譜が刻まれています。
(碑文)
「中田喜直 生誕90周年記念
中田喜直は、「めだかの学校」「夏の思い出」など、今日まで歌い継がれている数々の名曲を残した日本を代表する作曲家です。昭和20年代前半に三鷹市に居を構え、四季の美しい武蔵野の自然を愛し、都立井の頭恩賜公園を散策していた時に生まれたのが「ちいさい秋みつけた」のメロディーです。創作活動の際にはアップライトピアノを使用し、日本人の体形にあったピアノの必要性を訴
え、その製作に尽力したとのことです。この中田喜直の直筆譜が刻まれている「ちいさい秋みつけた」の歌碑は、中田喜直生誕90周年を迎えるにあたり、氏の業績を讃えて記念するとともに、広く後世に伝えていきたいという願いを込めて、一般の皆様からのご寄附も募り、三鷹市が建立したものです。」
野口雨情は、1924年から約20年間、井の頭恩賜公園に近い武蔵野村吉祥寺に居を構えて創作活動を行いました。この碑は1952年に東京雨情会が建立したもので、雨情歌詞の「井の頭音頭」の一節が紹介されています。
(碑文)
「鳴いて さわいて 日の暮れ頃は 葦に行々子 はなりゃせぬ 雨情」
(碑文)
「野口雨情氏は明治大正昭和にわたり民謡童謡の世界に偉大な足跡を残した詩人で深く自然を愛し當時まだ武蔵野そのままの吉祥寺に童心居を建て數多くの名作を生んだ
民謡は土の自然詩であるこれが氏の信條であり全作品に漲る特色であった この地井之頭は氏が朝夕散策愛でて措かなかった處である。」
(碑陰)
「昭和二十七年十一月二十七日
東京 雨情會建之」
(説明板)
「野口雨情碑
「七つの子」「赤い靴」「雨降りお月さん」などの童謡で名高い詩人野口雨情は、一九二四年から約二十年間、井の頭恩賜公園に近い武蔵野村吉祥寺に居を構えて創作活動を行いました。
この碑は一九五二年に東京雨情会が建立したもので、雨情歌詞の「井の頭音頭」の一節が紹介されています。」
○中田喜直歌碑「ちいさい秋みつけた」 三鷹市井の頭4-1
中田喜直(1923〜2000年)は、昭和20年代前半に三鷹市に居を構え、「夏の思い出」や「雪の降るまちを」などを作曲しました。なかでも、井の頭恩賜公園を散策していたときに生まれたのが「ちいさい秋みつけた」です。 平成25(2013)年に中田喜直の生誕90周年を迎えるにあたり、歌碑「ちいさい秋みつけた」が11月16日に建立されました。この歌碑には、氏の直筆譜が刻まれています。
(碑文)
「中田喜直 生誕90周年記念
中田喜直は、「めだかの学校」「夏の思い出」など、今日まで歌い継がれている数々の名曲を残した日本を代表する作曲家です。昭和20年代前半に三鷹市に居を構え、四季の美しい武蔵野の自然を愛し、都立井の頭恩賜公園を散策していた時に生まれたのが「ちいさい秋みつけた」のメロディーです。創作活動の際にはアップライトピアノを使用し、日本人の体形にあったピアノの必要性を訴
え、その製作に尽力したとのことです。この中田喜直の直筆譜が刻まれている「ちいさい秋みつけた」の歌碑は、中田喜直生誕90周年を迎えるにあたり、氏の業績を讃えて記念するとともに、広く後世に伝えていきたいという願いを込めて、一般の皆様からのご寄附も募り、三鷹市が建立したものです。」
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- 井の頭弁財天
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
tag : 野口雨情
井の頭公園(神田川源流と徳川家光)
○井の頭恩賜公園 HP 武蔵野市御殿山一丁目、吉祥寺南町一丁目、三鷹市井の頭三・四・五丁目、下連雀一丁目、牟礼四丁目
井の頭恩賜公園は、大正2(1913)年に皇室から東京市に下賜され、大正6(1917)年に一般公開されました。
<井の頭池>
井の頭池は、神田上水の水源です。池東端には神田上水取入口の石門が残ります。西端の石井筒は「お茶の水」と呼ばれ、家康がこの水を江戸城のお茶の水に用いるよう命じたといういわれがあります。三代将軍家光もこの池の水を好み、近くの辛夷の樹に「井之頭」と彫ったため、これが池の名となったとも伝えられます。
「七井の池」と呼ばれたほど豊富だった湧水は昭和の中頃に枯れ、現在では深井戸の水を給水して景観を保っています。
<神田川源流> 三鷹市井の頭3-34-1
井の頭池の水は、ひょうたん橋を通りひょうたん池に至ります。ひょうたん池の水は、水門橋を通って神田川となります。
ひょうたん橋標柱
ひょうたん橋
ひょうたん池
現地地図
「ここが神田川の源流です
神田川は善福寺川、妙正寺川と
合流して隅田川に注いでいます」
水門橋
(標石)「一級河川 神田川」 三鷹市井の頭3-35-1
神田川右岸の標石「一級河川 神田川」です。
<お茶の水> 三鷹市井の頭4-1
お茶の水の湧水は、お茶の水橋をくぐり、お茶の水池へ、弁天池、ボート池、ひょうたん池を経て神田川となります。
お茶の水橋
お茶の水池
(説明板)
「お茶の水
井の頭池は豊富な湧き水に恵まれ、かっては三宝寺池、善福寺池とともに「武蔵野三大湧水池」と呼ばれていました。
徳川家康がこの池の湧水を関東随一の名水とほめてお茶をいれたという伝説から「お茶の水」という名が付いたともいわれています。
現在では湧水減少のため、地下水をポンプでくみあげています。」
<徳川三代将軍 御切付旧跡> 三鷹市文化財 三鷹市井の頭4-1
この碑は「深川水船組合」が明治26(1893)年に建立しています(水船については、こちらで記載)。 鷹狩にきた三代将軍家光が池の名を尋ねると土地の者は「なない」(七井)と答えました。家光は「名無い」と聞き、「井の頭」と名付け近くのコブシの木に「井の頭」と刻みました。
(碑文)
「大猷院家光公様御手づから井之頭と御彫あそばされたる古むしの木是なり
御切付の文字は今に宝物として内陣に秘蔵す
正三位勲一等子爵 鳥尾小弥太敬書」
「深川水舩組」
○御殿山 武蔵野市御殿山1-18
御殿山は、三代将軍徳川家光が鷹狩の際に休憩する「御殿」があったことに由来します。
(説明板)
「井の頭恩賜公園 御殿山遺跡
本遺跡は、一九六二年九月 武蔵野市が市史編纂事業の一環として発掘したときに発見されたものである。
直径五米の竪穴住居跡等があって多くの遺物も発見された。
なお、この付近に遺跡の存在が推定されるから、この地域には今から約三、四千年以前の集落 があったことが判明した。
一九六四年四月、武蔵野市 建立」
(説明板)
「東京都指定史跡 井の頭池遺跡群
所在地 武蔵野市御殿山一
吉祥寺南町一
三鷹市井の頭三・四
井の頭恩賜公園内
指定 昭和五四年三月三一日
井の頭遺跡群は、井の頭池周辺の武蔵野市、三鷹市にまたがる大規模な遺跡群です。明治二〇年(一八八七)には学会に紹介された著名な遺跡です。井の頭恩賜公園のうち、池周辺は「井の頭池(神田上水水源地 )」として旧跡指定されており、外周の高台から斜面にかけての約五・五万㎡が史跡に指定されています。
昭和三七・三八年に武蔵野市史編纂事業などにより発掘調査され、縄文時代中期から後期の竪穴式住居跡三軒、敷石住居跡一軒などが発見されています。遺跡周辺は宅地化が進み、史跡内は公園のため開発事業がないことから、全体像は良くわかっていません。井の頭遺跡群全体では縄文時代 の住居跡六〇軒以上や旧石器時代の遺物などが発見されています。また、中世段階の遺構や遺物も検出されています。武蔵野台地に見られる湧水池周辺の旧石器・縄文時代の代表的な遺跡といえます。
平成二二年三月 建設 東京都教育委員会」
井の頭恩賜公園は、大正2(1913)年に皇室から東京市に下賜され、大正6(1917)年に一般公開されました。
<井の頭池>
井の頭池は、神田上水の水源です。池東端には神田上水取入口の石門が残ります。西端の石井筒は「お茶の水」と呼ばれ、家康がこの水を江戸城のお茶の水に用いるよう命じたといういわれがあります。三代将軍家光もこの池の水を好み、近くの辛夷の樹に「井之頭」と彫ったため、これが池の名となったとも伝えられます。
「七井の池」と呼ばれたほど豊富だった湧水は昭和の中頃に枯れ、現在では深井戸の水を給水して景観を保っています。
<神田川源流> 三鷹市井の頭3-34-1
井の頭池の水は、ひょうたん橋を通りひょうたん池に至ります。ひょうたん池の水は、水門橋を通って神田川となります。
ひょうたん橋標柱
ひょうたん橋
ひょうたん池
現地地図
「ここが神田川の源流です
神田川は善福寺川、妙正寺川と
合流して隅田川に注いでいます」
水門橋
(標石)「一級河川 神田川」 三鷹市井の頭3-35-1
神田川右岸の標石「一級河川 神田川」です。
<お茶の水> 三鷹市井の頭4-1
お茶の水の湧水は、お茶の水橋をくぐり、お茶の水池へ、弁天池、ボート池、ひょうたん池を経て神田川となります。
お茶の水橋
お茶の水池
(説明板)
「お茶の水
井の頭池は豊富な湧き水に恵まれ、かっては三宝寺池、善福寺池とともに「武蔵野三大湧水池」と呼ばれていました。
徳川家康がこの池の湧水を関東随一の名水とほめてお茶をいれたという伝説から「お茶の水」という名が付いたともいわれています。
現在では湧水減少のため、地下水をポンプでくみあげています。」
<徳川三代将軍 御切付旧跡> 三鷹市文化財 三鷹市井の頭4-1
この碑は「深川水船組合」が明治26(1893)年に建立しています(水船については、こちらで記載)。 鷹狩にきた三代将軍家光が池の名を尋ねると土地の者は「なない」(七井)と答えました。家光は「名無い」と聞き、「井の頭」と名付け近くのコブシの木に「井の頭」と刻みました。
(碑文)
「大猷院家光公様御手づから井之頭と御彫あそばされたる古むしの木是なり
御切付の文字は今に宝物として内陣に秘蔵す
正三位勲一等子爵 鳥尾小弥太敬書」
「深川水舩組」
○御殿山 武蔵野市御殿山1-18
御殿山は、三代将軍徳川家光が鷹狩の際に休憩する「御殿」があったことに由来します。
(説明板)
「井の頭恩賜公園 御殿山遺跡
本遺跡は、一九六二年九月 武蔵野市が市史編纂事業の一環として発掘したときに発見されたものである。
直径五米の竪穴住居跡等があって多くの遺物も発見された。
なお、この付近に遺跡の存在が推定されるから、この地域には今から約三、四千年以前の集落 があったことが判明した。
一九六四年四月、武蔵野市 建立」
(説明板)
「東京都指定史跡 井の頭池遺跡群
所在地 武蔵野市御殿山一
吉祥寺南町一
三鷹市井の頭三・四
井の頭恩賜公園内
指定 昭和五四年三月三一日
井の頭遺跡群は、井の頭池周辺の武蔵野市、三鷹市にまたがる大規模な遺跡群です。明治二〇年(一八八七)には学会に紹介された著名な遺跡です。井の頭恩賜公園のうち、池周辺は「井の頭池(神田上水水源地 )」として旧跡指定されており、外周の高台から斜面にかけての約五・五万㎡が史跡に指定されています。
昭和三七・三八年に武蔵野市史編纂事業などにより発掘調査され、縄文時代中期から後期の竪穴式住居跡三軒、敷石住居跡一軒などが発見されています。遺跡周辺は宅地化が進み、史跡内は公園のため開発事業がないことから、全体像は良くわかっていません。井の頭遺跡群全体では縄文時代 の住居跡六〇軒以上や旧石器時代の遺物などが発見されています。また、中世段階の遺構や遺物も検出されています。武蔵野台地に見られる湧水池周辺の旧石器・縄文時代の代表的な遺跡といえます。
平成二二年三月 建設 東京都教育委員会」
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- 井の頭弁財天
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
井の頭弁財天
○井の頭弁財天 三鷹市井の頭4-1-7 HP
井の頭池・中の島にある弁財天社は、天慶年間(938〜946年)に源経基により創建されました。
「名所江戸百景 井の頭の池 弁天の社」(広重)
名所江戸百景の中では、一番西に位置する名所です。
「名所雪月花 井頭の池弁財天の社雪の景」(広重 都立図書館蔵)
「絵本江戸土産 井の頭の池 辨財天社」(広重)
「江戸名所図会 井頭池 弁財天社」
池の中央に「神田上水の源なり」、絵の右下に「御殿山」とあります。 本文には「池中に清泉湧出する所七ヶ所ありて干魃にも涸ることなし故に世に七井の池とも称ふ」とあります。
弁財天社部分を拡大すると、上に石燈籠のある石階段からの参道、太鼓橋と、現在と同じ光景が描かれています。
「武蔵百景 井の頭弁天」(小林清親)
○弁財天参道/道標・黒門 三鷹市井の頭4-21-1
弁財天表参道入口に、弁財天への道標があります。「神田御上水源・井の頭弁財天」「是より社まで一丁半」と刻まれています。延亨2(1745)年建立・天明4(1784)改建。 台石には、瀬川菊之丞、高麗屋純蔵(松本幸四郎)、中村勘三郎といった有名役者や芝居小屋の名が刻まれています。
「黒門」は、大正13(1924)年に再建されたものです。
(説明板)
「江戸市中の飲料水の主水源(神田上水水源地)の象徴でもある井の頭弁財天は、江戸時代を通じて篤い信仰に支えられ、多くの参詣人が訪れていました。井の頭弁財天参詣のための道は「井の頭道」とよばれ、各地にその道標や石造物が今も残されています。
この道標は、弁財天への道を示す最後のもので、延享2(1745)年に建てられ、天明4(1784)年に改修されています。(以下略)」
黒門の左脇の小さな祠には、大黒天石像が祀られています。
<石燈籠>
石段の両脇に建つ石燈篭は、慶応元(1865)年のもので、紫燈篭と呼ばれています。
<大盛寺> 三鷹市井の頭4-26-1
参道左手に大盛寺があります。井の頭弁財天の別当寺です。
<石階段> 三鷹市文化財
文政元(1818)年の石階段です。下端には「兩」「國」とあり、上端には「兩國」「講中」とあります。
<石橋> 三鷹市文化財
天保4(1833)年の石燈籠と文化14(1817)年の石橋(太鼓橋)です。
<手水舎>
<狛犬> 三鷹市文化財
狛犬は、明和8(1771)年の寄進です。
<石燈籠/弁天堂>
現在の弁天堂は、昭和2(1927)年の再建です。
<脇参道>
弁天堂の脇に出る参道の石橋です。石燈籠には「開園」「大正六年」とあります。
<宇賀神像> 三鷹市文化財
明和4(1767)年に寄進された宇賀神像です。
平成25(2013)年に移設・改修されました。
<銭洗い弁財天>
<放生供養>
三鷹鮨商組合建之
<宝篋印塔>
<聖観世音菩薩像>
<鎮魂供養碑/聖観世音菩薩建立之由来>
人間のための命を断たれた動植物の鎮魂供養のため三鷹食肉組合有志一同により平成6(1994)年に建立。
【七井不動尊】
手水鉢は、正徳3(1713)年の寄進で、三鷹市文化財です。
扁額「七井不動尊」は安井謙による書です。
七井不動尊拝殿両脇に弁天像と庚申塔が祀られています。
拝殿裏に3基の地蔵尊が祀られています。
<三鷹市指定文化財 井の頭の石造物群>
(説明板)
「三鷹市指定文化財 井の頭の石造物群
種別 重宝
指定年月日 昭和53年(1978) 5月8日
所在地 三鷹市井の頭4丁目
江戸時代、井の頭池は神田上水の水源となり、江戸城内や下町に水を供給した。そのため弁財天は江戸町民の厚い信仰をうけ、行楽の地としても愛された。また、清く澄んだ神田川の水は江戸時代の代表的な染物である江戸紫を染め出すにも利用された。下記の石造物は、それらのことを明らかにする貴重な資料である。
①狛犬一対 明和8年(1771) ⑦石階段 文政7年(1824)
②水盤 正徳3年(1713) ⑧紫燈籠一対 慶応元年(1865)
③石橋 文化14年(1817) ⑨石鳥居標石(宇賀神) 明和4年(1767)
④石燈籠一対 天保4年(1833) ⑩石燈籠一対 文化7年(1811)
⑤辛夷の碑 明治26年(1893) ⑪石燈籠一対 享保5年(1720)
⑥水盤 安永4年(1775)
平成5年(1993)10月31日 三鷹市教育委員会」
井の頭池・中の島にある弁財天社は、天慶年間(938〜946年)に源経基により創建されました。
「名所江戸百景 井の頭の池 弁天の社」(広重)
名所江戸百景の中では、一番西に位置する名所です。
「名所雪月花 井頭の池弁財天の社雪の景」(広重 都立図書館蔵)
「絵本江戸土産 井の頭の池 辨財天社」(広重)
「江戸名所図会 井頭池 弁財天社」
池の中央に「神田上水の源なり」、絵の右下に「御殿山」とあります。 本文には「池中に清泉湧出する所七ヶ所ありて干魃にも涸ることなし故に世に七井の池とも称ふ」とあります。
弁財天社部分を拡大すると、上に石燈籠のある石階段からの参道、太鼓橋と、現在と同じ光景が描かれています。
「武蔵百景 井の頭弁天」(小林清親)
○弁財天参道/道標・黒門 三鷹市井の頭4-21-1
弁財天表参道入口に、弁財天への道標があります。「神田御上水源・井の頭弁財天」「是より社まで一丁半」と刻まれています。延亨2(1745)年建立・天明4(1784)改建。 台石には、瀬川菊之丞、高麗屋純蔵(松本幸四郎)、中村勘三郎といった有名役者や芝居小屋の名が刻まれています。
「黒門」は、大正13(1924)年に再建されたものです。
(説明板)
「江戸市中の飲料水の主水源(神田上水水源地)の象徴でもある井の頭弁財天は、江戸時代を通じて篤い信仰に支えられ、多くの参詣人が訪れていました。井の頭弁財天参詣のための道は「井の頭道」とよばれ、各地にその道標や石造物が今も残されています。
この道標は、弁財天への道を示す最後のもので、延享2(1745)年に建てられ、天明4(1784)年に改修されています。(以下略)」
黒門の左脇の小さな祠には、大黒天石像が祀られています。
<石燈籠>
石段の両脇に建つ石燈篭は、慶応元(1865)年のもので、紫燈篭と呼ばれています。
<大盛寺> 三鷹市井の頭4-26-1
参道左手に大盛寺があります。井の頭弁財天の別当寺です。
<石階段> 三鷹市文化財
文政元(1818)年の石階段です。下端には「兩」「國」とあり、上端には「兩國」「講中」とあります。
<石橋> 三鷹市文化財
天保4(1833)年の石燈籠と文化14(1817)年の石橋(太鼓橋)です。
<手水舎>
<狛犬> 三鷹市文化財
狛犬は、明和8(1771)年の寄進です。
<石燈籠/弁天堂>
現在の弁天堂は、昭和2(1927)年の再建です。
<脇参道>
弁天堂の脇に出る参道の石橋です。石燈籠には「開園」「大正六年」とあります。
<宇賀神像> 三鷹市文化財
明和4(1767)年に寄進された宇賀神像です。
平成25(2013)年に移設・改修されました。
<銭洗い弁財天>
<放生供養>
三鷹鮨商組合建之
<宝篋印塔>
<聖観世音菩薩像>
<鎮魂供養碑/聖観世音菩薩建立之由来>
人間のための命を断たれた動植物の鎮魂供養のため三鷹食肉組合有志一同により平成6(1994)年に建立。
【七井不動尊】
手水鉢は、正徳3(1713)年の寄進で、三鷹市文化財です。
扁額「七井不動尊」は安井謙による書です。
七井不動尊拝殿両脇に弁天像と庚申塔が祀られています。
拝殿裏に3基の地蔵尊が祀られています。
<三鷹市指定文化財 井の頭の石造物群>
(説明板)
「三鷹市指定文化財 井の頭の石造物群
種別 重宝
指定年月日 昭和53年(1978) 5月8日
所在地 三鷹市井の頭4丁目
江戸時代、井の頭池は神田上水の水源となり、江戸城内や下町に水を供給した。そのため弁財天は江戸町民の厚い信仰をうけ、行楽の地としても愛された。また、清く澄んだ神田川の水は江戸時代の代表的な染物である江戸紫を染め出すにも利用された。下記の石造物は、それらのことを明らかにする貴重な資料である。
①狛犬一対 明和8年(1771) ⑦石階段 文政7年(1824)
②水盤 正徳3年(1713) ⑧紫燈籠一対 慶応元年(1865)
③石橋 文化14年(1817) ⑨石鳥居標石(宇賀神) 明和4年(1767)
④石燈籠一対 天保4年(1833) ⑩石燈籠一対 文化7年(1811)
⑤辛夷の碑 明治26年(1893) ⑪石燈籠一対 享保5年(1720)
⑥水盤 安永4年(1775)
平成5年(1993)10月31日 三鷹市教育委員会」
蒲田梅屋敷と和中散薬売所跡
〇聖蹟蒲田梅屋敷公園(梅屋敷と和中散薬売所跡) 大田区蒲田3-25-6
蒲田の梅屋敷は、山本忠左衛門が和中散(道中の常備薬)売薬所を開いた敷地三千坪に、その子久三郎が文政の頃(1818~1829)に、梅の木百本をはじめとしてカキツバタなどの花々を植え、東海道の休み茶屋を開いたことに始まると言われています。亀戸の梅林とともに江戸近郊の梅の名所の一つとして賑わいました。十二代将軍徳川家慶は、蒲田の梅屋敷を鷹狩りの休み所としました。
蒲田は梅の木を栽培している農家が多くあり、東海道の旅人や江戸の人々に梅干を売っていました。
現在の梅屋敷公園は、第一京浜国道の拡張と京急の開通により往時と比べて相当小さくなっているようです。
(参考)「亀戸梅屋敷」
「江戸名所図会 蒲田里梅園 行方弾正宅跡」
挿絵には「梅干を 見知て居るか 梅の花 嵐雪」とあります。梅園には、池がつくられ、茶屋が設けられています。
「名所江戸百景 蒲田の梅園」(広重)
石碑が多く見えます。梅の木は横長ではなく高木です。
「絵本江戸土産 蒲田の梅園」(広重)
挿絵には「この辺すべて梅園多し 春如月の頃にいたれば 清香 四方に馨しく 紅白 宛もさらさの如く 実に遊観の勝景なり」とあります。
「蒲田梅園」(旅の家つと第12 明治32(1899)年)
<大田区立聖蹟蒲田梅屋敷公園入口>
南
南東
門柱「大田区立聖蹟蒲田梅屋敷公園」
「昭和14年10月12日 開園」
北東
「明治天皇行幸所蒲田梅屋敷」
「昭和十年三月建設 平成五年十一月再建」」
(説明板)
「明治天皇と梅屋敷」
梅屋敷は、明治元年(一八六八)から明治三十年(一八九七)の間に天皇の九度の行幸がありました。
天皇はことのほか梅屋敷の風致を好まれ、明治六年(一八七三)三月六日のご観梅のときには小梅一株をみずからお手植なされ、この梅は仙粧梅と称されて後に人々に愛されたと言われています。
その後昭和八年(一九三三)に史蹟として保存指定を受け、昭和十三年(一九三八)に東京市へ寄付、さらに昭和二十八年(一九五三)に大田区に譲与され、現在に至っています。 大田区」
<公園内>
池に水はありません。
(説明板)
「大田区文化財 梅屋敷と和中散売薬所跡
「和中散」は、食あたり、暑気あたり等に効く、道中常備薬としてつくられ、旅人に珍重された。元禄から正徳にかけて(一六八八~一七一六)大森村中原、谷戸、南原に三店が開業した。
このうち南原にあった店が、のちに北蒲田村の忠左衛門に譲られ、この地に移転したという。
文政年間(一八一八~一八三〇)の初め、忠左衛門の子の久三郎の代に、庭園に梅の名木を集めて、休み茶屋を開いた。
亀戸の梅林とともに梅の名所「梅屋敷」として有名になり、広重の浮世絵にも描かれた。
昭和五十三年三月十九日指定 大田区教育委員会」
「江戸名所図会 大森和中散」
大森村南原にあった頃の和中散の店頭が描かれています。
(説明板)
「梅屋敷の由来
梅屋敷は、山本忠左衛門が和中散(道中の常備薬)売薬所を開いた敷地三千坪に、その子久三郎が文政の頃(一八一八~一八二九)に、梅の木百本をはじめとしてかきつばたなどの花々を植え、東海道の休み茶屋を開いたことに始まると言われています。当時は、後の十二代将軍徳川家慶が鷹狩りの休み所とした程の屋敷で、雅趣ある風情は多くの文人、行楽客、東海道の旅人を集め、とくに梅の開花時期には非常なにぎわいを見せたようでした。 大田区」
<蒲田とあやめ>
(説明板)
「蒲田とあやめ
明治三十五年、現在の大田区立蒲田小学校付近に蒲田菖蒲園が開設された。6月になると、「あやめ」の花が一面に咲き誇り遠方からも見物客が訪れ、外国人も好んで立ち寄るほど蒲田はかつて「あやめ」がまちのシンボルであった。
一方、平成二十八年四月、山形県長井市と「災害時における相互応援に関する協定」を締結した。山形県長井市も「あやめ」がまちのシンボルになっており、市内には日本有数のあやめ公園があり、長井独自の品種である長井古種が植えられている。
共に「あやめ」がシンボルとなっており、山形県長井市とのご縁が出来たことを記念して、ここに山形県長井市より取り寄せた長井古種である「あやめ」を植栽した。 大田区」
<句碑/石碑>
(説明板)
「山本久蔵の句碑
この句碑は、天保五年(一八三四)にこの梅屋敷と関係の深い山本久蔵が建立したものです。文面は
神酒ささぐ間に鶯の初音かな 麦住亭梅久
とあります。戦前には他にも江戸時代の多くの句碑が残されていましたが、戦後の混乱期に姿を消してしまいました。 大田区」
(説明板)
「狂歌堂真顔の歌碑(復元)
昔、梅屋敷の園内には、数多くの碑石がありましたが、所有者が移った時や戦後の混乱期に姿を消してしまいしました。この歌碑はそれらの一つを資料をもとに復元したものです。
文面は、
旅人の神に手向(たむけ)の幣代(ぬさしろ)や 白絹咲きし庭中の梅
狂歌堂真顔
であったと伝えられています。 大田区」
(説明板)
「梅路、梅志の句碑
この句碑は弘化三年(一八四六)山本久蔵が梅路と号L、建立Lたものといわれています.
しら梅の 梢や月の高みくら
七十五歳 梅路
松竹は表にうらハ梅の春
六十五歳 梅志
弘化三のとしきく月 梅家女誌
また梅路、梅志の墓は蒲田の妙典寺にあり、その墓石にも句碑が刻されています。 大田区」
「距日本橋三里十八丁」
(説明板)
「里程標(復元)
昔、梅屋敷山本家の門の横に自然石の里程標の石碑がありました。その高さは一メートルほどでその表面には、
「距日本橋三里十八丁 蒲田村 山本屋」
と刻まれていたと伝えられています。
木戸孝允、伊藤博文らが梅屋敷で新年宴会を開いた際、二人が合作した一幅中の木戸孝允の画にも描かれていました。戦後、里程標は姿を消しましたが資料をもとに復元しました。 大田区」
<忠魂碑>
日清戦役、日露戦役等の忠魂碑です。
(表)
「忠魂碑 元帥伯爵東郷平八郎書」
(裏)
「昭和三年御大禮記念
在郷軍人会蒲田町分会 建之」
<戦歿記念碑>
明治27,8年戦役、明治37年戦役の記念碑です。
(表面)
「戦歿記念碑 高田忠周題書」
(裏面)
「昭和三年御大禮記念
在郷軍人会蒲田町分会 建之」
蒲田の梅屋敷は、山本忠左衛門が和中散(道中の常備薬)売薬所を開いた敷地三千坪に、その子久三郎が文政の頃(1818~1829)に、梅の木百本をはじめとしてカキツバタなどの花々を植え、東海道の休み茶屋を開いたことに始まると言われています。亀戸の梅林とともに江戸近郊の梅の名所の一つとして賑わいました。十二代将軍徳川家慶は、蒲田の梅屋敷を鷹狩りの休み所としました。
蒲田は梅の木を栽培している農家が多くあり、東海道の旅人や江戸の人々に梅干を売っていました。
現在の梅屋敷公園は、第一京浜国道の拡張と京急の開通により往時と比べて相当小さくなっているようです。
(参考)「亀戸梅屋敷」
「江戸名所図会 蒲田里梅園 行方弾正宅跡」
挿絵には「梅干を 見知て居るか 梅の花 嵐雪」とあります。梅園には、池がつくられ、茶屋が設けられています。
「名所江戸百景 蒲田の梅園」(広重)
石碑が多く見えます。梅の木は横長ではなく高木です。
「絵本江戸土産 蒲田の梅園」(広重)
挿絵には「この辺すべて梅園多し 春如月の頃にいたれば 清香 四方に馨しく 紅白 宛もさらさの如く 実に遊観の勝景なり」とあります。
「蒲田梅園」(旅の家つと第12 明治32(1899)年)
<大田区立聖蹟蒲田梅屋敷公園入口>
南
南東
門柱「大田区立聖蹟蒲田梅屋敷公園」
「昭和14年10月12日 開園」
北東
「明治天皇行幸所蒲田梅屋敷」
「昭和十年三月建設 平成五年十一月再建」」
(説明板)
「明治天皇と梅屋敷」
梅屋敷は、明治元年(一八六八)から明治三十年(一八九七)の間に天皇の九度の行幸がありました。
天皇はことのほか梅屋敷の風致を好まれ、明治六年(一八七三)三月六日のご観梅のときには小梅一株をみずからお手植なされ、この梅は仙粧梅と称されて後に人々に愛されたと言われています。
その後昭和八年(一九三三)に史蹟として保存指定を受け、昭和十三年(一九三八)に東京市へ寄付、さらに昭和二十八年(一九五三)に大田区に譲与され、現在に至っています。 大田区」
<公園内>
池に水はありません。
(説明板)
「大田区文化財 梅屋敷と和中散売薬所跡
「和中散」は、食あたり、暑気あたり等に効く、道中常備薬としてつくられ、旅人に珍重された。元禄から正徳にかけて(一六八八~一七一六)大森村中原、谷戸、南原に三店が開業した。
このうち南原にあった店が、のちに北蒲田村の忠左衛門に譲られ、この地に移転したという。
文政年間(一八一八~一八三〇)の初め、忠左衛門の子の久三郎の代に、庭園に梅の名木を集めて、休み茶屋を開いた。
亀戸の梅林とともに梅の名所「梅屋敷」として有名になり、広重の浮世絵にも描かれた。
昭和五十三年三月十九日指定 大田区教育委員会」
「江戸名所図会 大森和中散」
大森村南原にあった頃の和中散の店頭が描かれています。
(説明板)
「梅屋敷の由来
梅屋敷は、山本忠左衛門が和中散(道中の常備薬)売薬所を開いた敷地三千坪に、その子久三郎が文政の頃(一八一八~一八二九)に、梅の木百本をはじめとしてかきつばたなどの花々を植え、東海道の休み茶屋を開いたことに始まると言われています。当時は、後の十二代将軍徳川家慶が鷹狩りの休み所とした程の屋敷で、雅趣ある風情は多くの文人、行楽客、東海道の旅人を集め、とくに梅の開花時期には非常なにぎわいを見せたようでした。 大田区」
<蒲田とあやめ>
(説明板)
「蒲田とあやめ
明治三十五年、現在の大田区立蒲田小学校付近に蒲田菖蒲園が開設された。6月になると、「あやめ」の花が一面に咲き誇り遠方からも見物客が訪れ、外国人も好んで立ち寄るほど蒲田はかつて「あやめ」がまちのシンボルであった。
一方、平成二十八年四月、山形県長井市と「災害時における相互応援に関する協定」を締結した。山形県長井市も「あやめ」がまちのシンボルになっており、市内には日本有数のあやめ公園があり、長井独自の品種である長井古種が植えられている。
共に「あやめ」がシンボルとなっており、山形県長井市とのご縁が出来たことを記念して、ここに山形県長井市より取り寄せた長井古種である「あやめ」を植栽した。 大田区」
<句碑/石碑>
(説明板)
「山本久蔵の句碑
この句碑は、天保五年(一八三四)にこの梅屋敷と関係の深い山本久蔵が建立したものです。文面は
神酒ささぐ間に鶯の初音かな 麦住亭梅久
とあります。戦前には他にも江戸時代の多くの句碑が残されていましたが、戦後の混乱期に姿を消してしまいました。 大田区」
(説明板)
「狂歌堂真顔の歌碑(復元)
昔、梅屋敷の園内には、数多くの碑石がありましたが、所有者が移った時や戦後の混乱期に姿を消してしまいしました。この歌碑はそれらの一つを資料をもとに復元したものです。
文面は、
旅人の神に手向(たむけ)の幣代(ぬさしろ)や 白絹咲きし庭中の梅
狂歌堂真顔
であったと伝えられています。 大田区」
(説明板)
「梅路、梅志の句碑
この句碑は弘化三年(一八四六)山本久蔵が梅路と号L、建立Lたものといわれています.
しら梅の 梢や月の高みくら
七十五歳 梅路
松竹は表にうらハ梅の春
六十五歳 梅志
弘化三のとしきく月 梅家女誌
また梅路、梅志の墓は蒲田の妙典寺にあり、その墓石にも句碑が刻されています。 大田区」
「距日本橋三里十八丁」
(説明板)
「里程標(復元)
昔、梅屋敷山本家の門の横に自然石の里程標の石碑がありました。その高さは一メートルほどでその表面には、
「距日本橋三里十八丁 蒲田村 山本屋」
と刻まれていたと伝えられています。
木戸孝允、伊藤博文らが梅屋敷で新年宴会を開いた際、二人が合作した一幅中の木戸孝允の画にも描かれていました。戦後、里程標は姿を消しましたが資料をもとに復元しました。 大田区」
<忠魂碑>
日清戦役、日露戦役等の忠魂碑です。
(表)
「忠魂碑 元帥伯爵東郷平八郎書」
(裏)
「昭和三年御大禮記念
在郷軍人会蒲田町分会 建之」
<戦歿記念碑>
明治27,8年戦役、明治37年戦役の記念碑です。
(表面)
「戦歿記念碑 高田忠周題書」
(裏面)
「昭和三年御大禮記念
在郷軍人会蒲田町分会 建之」
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【金沢】海の公園
〇海の公園 横浜市金沢区海の公園10番
対岸の千葉県富津市から運んだ砂で人工的につくられた砂浜で、横浜市内で唯一海水浴ができ、春には潮干狩りが楽しめます。また、八景島駅前の海岸には安山岩を使用した磯がつくられています。
八景島とは、金沢八景大橋で結ばれています。
<海岸>
磯
砂浜
「金沢八景 乙舳帰帆」(広重)
金沢八景のうちの一つ、乙艫帰帆(おっとものきはん)は、海の公園ができる前のこの地が描かれています。海の公園は埋立てた地なので、描かれているのは少々内陸の旧海岸線です。「乙舳海岸」から小柴の岬に向かう帆船が描かれています。海岸には松が見えます。
「沖津舟ほのかにみしもとる梶のおとものうらにかへる夕波」
対岸の千葉県富津市から運んだ砂で人工的につくられた砂浜で、横浜市内で唯一海水浴ができ、春には潮干狩りが楽しめます。また、八景島駅前の海岸には安山岩を使用した磯がつくられています。
八景島とは、金沢八景大橋で結ばれています。
<海岸>
磯
砂浜
「金沢八景 乙舳帰帆」(広重)
金沢八景のうちの一つ、乙艫帰帆(おっとものきはん)は、海の公園ができる前のこの地が描かれています。海の公園は埋立てた地なので、描かれているのは少々内陸の旧海岸線です。「乙舳海岸」から小柴の岬に向かう帆船が描かれています。海岸には松が見えます。
「沖津舟ほのかにみしもとる梶のおとものうらにかへる夕波」
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