大光寺 (出羽三山供養塔等)
○大光寺 足立区六木3-10-13
織田信雄の旧臣天野国忠が開基となり、慶長元(1596)年に創建したといいます。
西新井組中川通四箇領八十八箇所第7番札所、荒綾八十八ヶ所霊場第76番札所です。
境内には元禄12(1699)年の庚申塔、四国八十八ヶ所霊場を模した88の大師像、鯖大師像、出羽三山供養塔等があります。
<六木新田>
六木は、天正の末期(1590年)ごろに、織田信長の次子・織田信雄に仕えた天野国忠など、六騎の武者によって開拓され「六騎村」と呼ばれ、「六木村」となり、現在に至ります。
※六騎とは、天野・寺島・矢沢・浜中・加藤・武内の六騎の武者と伝えられています。
<山門>
山門は北向き、墓地入口は西向きです。
<六地蔵>
参道右手に、真新しい供養塔と六地蔵です。
<六ツ木聖観音>
六地蔵の横に「六ツ木聖観音」。
<佛足跡>
<本堂/庫裡>
北向の山門から入って本堂の脇を通って左に曲がると本堂が南向きに建っています。
庫裡
「落慶記念碑」によると、本堂、客殿、は昭和49(1974)年の落慶です。
<十三重石塔>
本堂前庭に建つ「十三重石塔」です。
<興教大師八百五拾年御忌塔>
弘法大師空海は、真言宗の開祖。興教大師覚鑁は、真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖です。
<弘法大師一千百年御忌記念塔/弘法大師一千年忌塔>
「弘法大師一千百年御忌記念塔」(昭和9年)と「弘法大師一千年忌塔」です。
<鯖大師>
鯖をもらった行基の像は、善養寺(こちらで記載)で拝して以来です。
平成20(2008)年に奉納の鯖大師の後方にも、「鯖大師像」が建っています。
左横には「四國霊場巡錫記念」碑があります。
<施無畏>
三施(財施、法施、無畏施)の一つ「施無畏」碑です。明治18年の建碑です。
<庚申塔>
元禄12(1699)年銘の庚申塔です。
左側面に紀年。
右側面「奉造立庚申講中」
<無縁塔/石塔>
無縁塔の脇を進んだところに、石塔が三基並んでいます。中央に出羽三山供養塔がありました。
<札所碑> 一番左
天保12(1841)年銘の札所碑がありました。
(正面)「新四國八十八箇所 第七番 大光寺」
右側面に紀年が刻まれています。
<出羽三山供養塔> 中央
明和8(1771)年銘の出羽三山供養塔です。
「月山 湯殿山 羽黒山 奉納百番供養塔」
濱中、天野、星野、加藤、寺嶋の銘が見えます。
<四國八十八箇所 万人講> 一番右
<五輪塔>
歴代住職の墓域の右前にある五輪塔です。
寛文7(1667)年銘の五輪塔かと思いましたが、右に文政5(1822)年の銘が刻まれています。
<ぼけ除け地蔵尊>
足元で二人が合掌しています。
<弘法大師碑>
弘法大師が線刻されています。
<水子子育地蔵尊>
こどもを抱いた地蔵菩薩です。
<大師奉安殿>
四国八十八ヶ所霊場を模した、寺号と札所番号を刻んだ88の大師像が安置されています。
大師奉安殿の右手にとろけ地蔵が立っています。
<お休み処>
<寺号標>
お休み処の脇に、昭和十四年銘の寺号標が置かれています。
織田信雄の旧臣天野国忠が開基となり、慶長元(1596)年に創建したといいます。
西新井組中川通四箇領八十八箇所第7番札所、荒綾八十八ヶ所霊場第76番札所です。
境内には元禄12(1699)年の庚申塔、四国八十八ヶ所霊場を模した88の大師像、鯖大師像、出羽三山供養塔等があります。
<六木新田>
六木は、天正の末期(1590年)ごろに、織田信長の次子・織田信雄に仕えた天野国忠など、六騎の武者によって開拓され「六騎村」と呼ばれ、「六木村」となり、現在に至ります。
※六騎とは、天野・寺島・矢沢・浜中・加藤・武内の六騎の武者と伝えられています。
<山門>
山門は北向き、墓地入口は西向きです。
<六地蔵>
参道右手に、真新しい供養塔と六地蔵です。
<六ツ木聖観音>
六地蔵の横に「六ツ木聖観音」。
<佛足跡>
<本堂/庫裡>
北向の山門から入って本堂の脇を通って左に曲がると本堂が南向きに建っています。
庫裡
「落慶記念碑」によると、本堂、客殿、は昭和49(1974)年の落慶です。
<十三重石塔>
本堂前庭に建つ「十三重石塔」です。
<興教大師八百五拾年御忌塔>
弘法大師空海は、真言宗の開祖。興教大師覚鑁は、真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖です。
<弘法大師一千百年御忌記念塔/弘法大師一千年忌塔>
「弘法大師一千百年御忌記念塔」(昭和9年)と「弘法大師一千年忌塔」です。
<鯖大師>
鯖をもらった行基の像は、善養寺(こちらで記載)で拝して以来です。
平成20(2008)年に奉納の鯖大師の後方にも、「鯖大師像」が建っています。
左横には「四國霊場巡錫記念」碑があります。
<施無畏>
三施(財施、法施、無畏施)の一つ「施無畏」碑です。明治18年の建碑です。
<庚申塔>
元禄12(1699)年銘の庚申塔です。
左側面に紀年。
右側面「奉造立庚申講中」
<無縁塔/石塔>
無縁塔の脇を進んだところに、石塔が三基並んでいます。中央に出羽三山供養塔がありました。
<札所碑> 一番左
天保12(1841)年銘の札所碑がありました。
(正面)「新四國八十八箇所 第七番 大光寺」
右側面に紀年が刻まれています。
<出羽三山供養塔> 中央
明和8(1771)年銘の出羽三山供養塔です。
「月山 湯殿山 羽黒山 奉納百番供養塔」
濱中、天野、星野、加藤、寺嶋の銘が見えます。
<四國八十八箇所 万人講> 一番右
<五輪塔>
歴代住職の墓域の右前にある五輪塔です。
寛文7(1667)年銘の五輪塔かと思いましたが、右に文政5(1822)年の銘が刻まれています。
<ぼけ除け地蔵尊>
足元で二人が合掌しています。
<弘法大師碑>
弘法大師が線刻されています。
<水子子育地蔵尊>
こどもを抱いた地蔵菩薩です。
<大師奉安殿>
四国八十八ヶ所霊場を模した、寺号と札所番号を刻んだ88の大師像が安置されています。
大師奉安殿の右手にとろけ地蔵が立っています。
<お休み処>
<寺号標>
お休み処の脇に、昭和十四年銘の寺号標が置かれています。
出羽三山巡拝塔・道標(神明路傍)
○出羽三山等巡拝塔(道標) 足立区神明2-11-4
道標を兼ねた出羽三山等巡拝塔が路傍の覆屋の中にあります。
(正面)
「月山湯殿山羽黒山」
「坂東西國秩父」「一百八十八ケ所心願成就」
紀年は読み取れず。
(左側面)
「左 流山我孫子木下成田道」
(右側面)
「右 市川船橋佐倉成田道」
(台石)
道標を兼ねた出羽三山等巡拝塔が路傍の覆屋の中にあります。
(正面)
「月山湯殿山羽黒山」
「坂東西國秩父」「一百八十八ケ所心願成就」
紀年は読み取れず。
(左側面)
「左 流山我孫子木下成田道」
(右側面)
「右 市川船橋佐倉成田道」
(台石)
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tag : 出羽三山
六阿弥陀道路傍
○六阿弥陀道路傍 足立区扇2-8-19
六阿弥陀道路傍にその道標を兼ねた出羽三山供養塔と他一基があります。
<出羽三山供養塔>
文政7(1824)年銘の出羽三山供養塔で六阿弥陀道の道標を兼ねています。
(正面)
「月山 湯殿山 羽黒山 秩父 西國 坂東 為現當両益也」
「右リ 六あミだ道」
(左側面)
「渕江領本木村太田 田中文衛門」
(右側面)
「新四國八十八所 左リ□□道」
「文政七甲申二月吉日」
「江戸名所図会 六阿弥陀廻」(国立国会図書館蔵)
「江戸名所図会」に六阿弥陀廻の賑わいが描かれています。 延命院と餘木阿弥陀如来が文章で紹介されており、どちらかを描いたものと思われます。
六阿弥陀道路傍にその道標を兼ねた出羽三山供養塔と他一基があります。
<出羽三山供養塔>
文政7(1824)年銘の出羽三山供養塔で六阿弥陀道の道標を兼ねています。
(正面)
「月山 湯殿山 羽黒山 秩父 西國 坂東 為現當両益也」
「右リ 六あミだ道」
(左側面)
「渕江領本木村太田 田中文衛門」
(右側面)
「新四國八十八所 左リ□□道」
「文政七甲申二月吉日」
「江戸名所図会 六阿弥陀廻」(国立国会図書館蔵)
「江戸名所図会」に六阿弥陀廻の賑わいが描かれています。 延命院と餘木阿弥陀如来が文章で紹介されており、どちらかを描いたものと思われます。
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上沼田北野神社(出羽三山)/薬王院
○上沼田北野神社 足立区江北3-18-22
薬王院参道の右手に北野神社があります。江北氷川神社の兼務社です。
「羽黒山 月山 湯殿山 登山紀念」の碑が、ひっそりと建っています。
○薬王院 足立区江北3-18-22
薬王院は足立区教育委員会説明板によると沼田小学校跡、江北村役場跡です。 荒綾八十八ヶ所霊場の第75番札所です。
<庚申塔>
門の左側に庚申塔ほか4基の石造物が並んでいます。
(説明板)
「薬王院
真言宗豊山派、瑠璃光山薬王院と号す。創建は、元禄年間(一六八八?一七○四)、開山は乗禅法印で宝永三年(一七○六))の寂と伝わる。もとは瑞光山と号した。
門前にある庚申塔三基は、足立区登録有形民俗文化財となっている。庚申塔は、中国の道教の影響を受けた庚待という風習を継続した記念に立てられたものである。
道教では、人間の体内に三戸と呼ばれる三匹の虫がおり、六十日に一度訪れる庚中の日に、三尸の虫が人間の体内から抜け出し、人間の悪事を天帝に密告し、密告された人間の寿命が縮んでしまうと信じられていた。そのため皆で集まって一暁中寝ずに過ごすようになり、これを庚申待といった。薬王院の元禄十年(一六九七)銘の庚中塔には、直右衛門をはじめとして十六名の名前が刻まれており、多くの人々が集まって庚申待をしていた様子を今に伝えている。
薬王院には、明治七年(一八七四)六月に新井学校の分校が開設され、同校は同年十一月に第一○番公立小学沼田学校として独立し、明治二十年(一八八七)までこの地にあった。門脇には、沼田小学校跡の碑が立てられている。また、明治二十二年(一八八九)に九ヶ村が合併して江北村が成立すると、江北村役場が当寺に置かれたが、翌年に移転した。
令和ニ年三月 足立区教育委員会」
4基の石造物の手前にも4基の石造物が並んでいます。 沼田小学校跡碑と薬王院札所碑があります。
薬王院参道の右手に北野神社があります。江北氷川神社の兼務社です。
「羽黒山 月山 湯殿山 登山紀念」の碑が、ひっそりと建っています。
○薬王院 足立区江北3-18-22
薬王院は足立区教育委員会説明板によると沼田小学校跡、江北村役場跡です。 荒綾八十八ヶ所霊場の第75番札所です。
<庚申塔>
門の左側に庚申塔ほか4基の石造物が並んでいます。
(説明板)
「薬王院
真言宗豊山派、瑠璃光山薬王院と号す。創建は、元禄年間(一六八八?一七○四)、開山は乗禅法印で宝永三年(一七○六))の寂と伝わる。もとは瑞光山と号した。
門前にある庚申塔三基は、足立区登録有形民俗文化財となっている。庚申塔は、中国の道教の影響を受けた庚待という風習を継続した記念に立てられたものである。
道教では、人間の体内に三戸と呼ばれる三匹の虫がおり、六十日に一度訪れる庚中の日に、三尸の虫が人間の体内から抜け出し、人間の悪事を天帝に密告し、密告された人間の寿命が縮んでしまうと信じられていた。そのため皆で集まって一暁中寝ずに過ごすようになり、これを庚申待といった。薬王院の元禄十年(一六九七)銘の庚中塔には、直右衛門をはじめとして十六名の名前が刻まれており、多くの人々が集まって庚申待をしていた様子を今に伝えている。
薬王院には、明治七年(一八七四)六月に新井学校の分校が開設され、同校は同年十一月に第一○番公立小学沼田学校として独立し、明治二十年(一八八七)までこの地にあった。門脇には、沼田小学校跡の碑が立てられている。また、明治二十二年(一八八九)に九ヶ村が合併して江北村が成立すると、江北村役場が当寺に置かれたが、翌年に移転した。
令和ニ年三月 足立区教育委員会」
4基の石造物の手前にも4基の石造物が並んでいます。 沼田小学校跡碑と薬王院札所碑があります。
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應現寺
〇應現寺 足立区伊興本町2-3-3
源八幡太郎義家が奥州征伐(前九年の役)の時、伊興村内の応規寺に宿陣し、観音さまに戦勝祈願したとの伝説が残ります。
応現寺は、義家が戦勝祈願した観音堂の別当でしたが、後に現在地に移り、観音堂の別当は実相院となり、その後明治4年、観音堂は実相院と一緒になっています。
(説明板)
「 応現寺
応現寺は時宗を宗旨とし、西嶋山煎雲院と称し、阿弥陀如来立像を本尊とする。『新編武蔵風土記』によれば、当初は天台宗であったが、遊行二世他阿真教上人により時宗に改められたと伝わる伊興地区の古刹である。
『応現寺過去帳』(足立区登録有形文化財)には、山門は、寛永十四年(一六三七)十七代住職学円の建立と記されている。流破風桟瓦葺の四脚門で、後世の補修も加えられているが、江戸時代初期の山門建築の特徴を示しており貴重である。また、山門前の石灯籠二基は承応三年(一六五四)七月に、常田彦左衛門光能が父母のために寄進したものである。二基とも保存状態がよく、建立年次も明らかなもので、区内では古い遺構例として重要である。
寺内には時宗に深く関連する、天文七年(一五三八)銘以下四基の六字名号板碑(足立区登録有形文化財)、享保十三(一七二八)銘庚申塔(足立区登録有形民俗文化財)等の石造物が保存されている。
令和元年十二月 東京都足立区教育委員会 」
<山門>
山門は、寛永14(1637)年に建てられた江戸時代初期の山門建築の特徴を示しています。
足立区登録有形文化財です。
山門に建つ2基の燈籠は、承応3(1654)年の寄進。足立区登録有形文化財です。
大きなくろまつがあります。
<本堂>
<宗祖一遍上人御尊像>
本堂向かって右手に宗祖一遍上人御尊像があります。
一遍上人の法語が刻まれた碑があります。
「身を観ずれば水の泡 消ぬる後は人もなし 命を思へば月の影 出で入る息にぞ留まらぬ」
<再建紀念碑>(昭和17年5月)
<出羽三山供養塔>
本堂前左側に石造物が2基。
・左は「六道四生三界萬霊」碑。寛永18(1641)年10月。
・右は「月山 湯殿山 羽黒山 三所大権現」の出羽三山供養塔。嘉永3(1850)年3月。
「先達 大乗院」「天下太平 五穀成就」
<庚申塔>
無縁堂の無縁塔の中に庚申塔が1基、混じっています。
源八幡太郎義家が奥州征伐(前九年の役)の時、伊興村内の応規寺に宿陣し、観音さまに戦勝祈願したとの伝説が残ります。
応現寺は、義家が戦勝祈願した観音堂の別当でしたが、後に現在地に移り、観音堂の別当は実相院となり、その後明治4年、観音堂は実相院と一緒になっています。
(説明板)
「 応現寺
応現寺は時宗を宗旨とし、西嶋山煎雲院と称し、阿弥陀如来立像を本尊とする。『新編武蔵風土記』によれば、当初は天台宗であったが、遊行二世他阿真教上人により時宗に改められたと伝わる伊興地区の古刹である。
『応現寺過去帳』(足立区登録有形文化財)には、山門は、寛永十四年(一六三七)十七代住職学円の建立と記されている。流破風桟瓦葺の四脚門で、後世の補修も加えられているが、江戸時代初期の山門建築の特徴を示しており貴重である。また、山門前の石灯籠二基は承応三年(一六五四)七月に、常田彦左衛門光能が父母のために寄進したものである。二基とも保存状態がよく、建立年次も明らかなもので、区内では古い遺構例として重要である。
寺内には時宗に深く関連する、天文七年(一五三八)銘以下四基の六字名号板碑(足立区登録有形文化財)、享保十三(一七二八)銘庚申塔(足立区登録有形民俗文化財)等の石造物が保存されている。
令和元年十二月 東京都足立区教育委員会 」
<山門>
山門は、寛永14(1637)年に建てられた江戸時代初期の山門建築の特徴を示しています。
足立区登録有形文化財です。
山門に建つ2基の燈籠は、承応3(1654)年の寄進。足立区登録有形文化財です。
大きなくろまつがあります。
<本堂>
<宗祖一遍上人御尊像>
本堂向かって右手に宗祖一遍上人御尊像があります。
一遍上人の法語が刻まれた碑があります。
「身を観ずれば水の泡 消ぬる後は人もなし 命を思へば月の影 出で入る息にぞ留まらぬ」
<再建紀念碑>(昭和17年5月)
<出羽三山供養塔>
本堂前左側に石造物が2基。
・左は「六道四生三界萬霊」碑。寛永18(1641)年10月。
・右は「月山 湯殿山 羽黒山 三所大権現」の出羽三山供養塔。嘉永3(1850)年3月。
「先達 大乗院」「天下太平 五穀成就」
<庚申塔>
無縁堂の無縁塔の中に庚申塔が1基、混じっています。
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
- カウンター