毎日神社/ニッポン記念碑/ニツポン世界一周
○毎日神社 千代田区一ツ橋1-1-1 パレスサイドビル屋上
皇居の横にあるのが「パレスサイドビル」です。白い円柱状の2基の塔(エレベーター塔)が、2つのビルの両端に位置しています。
パレスサイドビルの屋上、中央北側に祀られているのが「毎日神社」です。昭和14(1939)年、毎日新聞社(当時東京日日、大阪毎日)の双発機ニッポン号が世界一周を達成したのを記念して創建されました。「飛行機が落ちない」から「入試で落ちない」「成績が落ちない」「業績が落ちない」というご利益があるようです。
毎日新聞東京本社の有楽町旧社屋からパレスサイドビルへの移転に伴い、旧社屋5階総務局の応接室に祀られていた毎日神社も、昭和41(1966)年10月17日にパレスサイドビル屋上に遷座しました。
<毎日神社由来>
(プレート文)
「毎日神社由来
本神社は昭和十四年(一九三九年)十月二十日毎日新聞社機「ニッポン」号による同社主催世界一周大飛行の完成記念として創建された 祭神は天照大神産土神日枝大神ならびに飛行の平安完遂を祈願し全国読者から寄進の御神符が奉安されている。
同航空機は中翼単葉の双発機で翼長二五メートル・全長一六メートルの純国産 当時日本航空科学の粋を集めて制作された 全航程五万三千キロ 北太平洋横断無着陸飛行に成功 空の難関といわれた南米アンデス越えの新記録や大西洋横断の快記録など 世界航空史に不滅の光彩を放っている
祭日 例大祭十月二十日 月例祭二十日」
<屋上の利用について>
パレスサイドビルの屋上は、平日の午前11時〜午後3時に開放されています(雨天の場合は閉鎖)。
屋上のエレベーターホールとエレベーターボタン
<屋上>
北側展望案内板と不二ラテックス本社ビル
南側展望案内板と平川門
内堀通りと大手濠緑地
○ニッポン記念碑 千代田区一ツ橋1-1-1 パレスサイドビル1階
1階の毎日新聞社玄関に、ニッポン記念碑が置かれています。
ニッポンの機体には「JーBACI」と描かれています。
「ニッポン世界一周大飛行完成記念」
「皇紀二千五百九十九年十月二十日」
「東京日日新聞社 大阪毎日新聞社」
ニッポン世界一周飛行記録
台座四隅の四羽の鳥は、くちばしが長いので鳩ではないようです、鷹か隼?
<ニッポン記念碑の由来>
(説明板)
「『ニッポン』記念碑 の由来
毎日新聞社は、昭和14年(1939)に、国際親善を深めるための世界一周飛行をなしとげた。毎日新聞航空部所属のパイロットが純国産機を操縦して、日本人として初めて太平洋、大西洋を横断し、北半球と南半球を結んで飛び、わが国の技術水準の高さを世界に示した。
使用機は、全長15メートル全幅25メートル全高3.6メートルの三菱製の双発輸送機で、巡航速度は260キロメートルと、当時の最新鋭機だった。
同機の名前には、130万通にのぼる読者の応募ハガキの中から、『ニッポン』が選ばれた。
『ニッポン』は、8月26日に東京・羽田飛行場を出発、10月20日に帰国した。56日間の全行程は52,860キロメートルで、実飛行時間は194時間だった。
世界一周飛行後まもなく、毎日新聞社は『ニッポン』のスケール・モデルを地球儀にのせた記念碑を作ったが、本社屋の移転などの間に破損してしまった。そこで『ニッポン』世界一周飛行後満50年にあたることし、設立当時のままに復元した。このため年号が「皇紀」となっているほか、社名が「大阪毎日」、「東京日日」となっている。
平成元年夏 毎日新聞社」
「「ニッポン」の世界一周飛行から50年目の平成元年(1989)にこの碑を復元した。 毎日新聞社」
〇ニツポン世界一周大飛行の意義(世界交通文化発達史 東京日日新聞社 昭和15年 国立国会図書館蔵)
詳細な記録が残されています。写真を中心とした抜粋です。
ニッポン世界一周大飛行記録画
ニッポン命名式当日(昭和14年8月3日 東條英機航空総監の姿も見えます)
待機のニッポンと乗員
羽田出発の瞬間―円内はニッポンを送る朝日新聞社の「朝風」―
上が毎日新聞社「ニッポン」、下が朝日新聞社「朝風」です。
札幌飛行場出発直前のニッポン
ニッポン太平洋横断
太平洋横断を終えノーム着
シカゴ空港に翼を休めるニッポン
峻険アンデスを突破してブエノスアイレスに安着
偉業完成 東京飛行場に帰還するニッポン
皇居の横にあるのが「パレスサイドビル」です。白い円柱状の2基の塔(エレベーター塔)が、2つのビルの両端に位置しています。
パレスサイドビルの屋上、中央北側に祀られているのが「毎日神社」です。昭和14(1939)年、毎日新聞社(当時東京日日、大阪毎日)の双発機ニッポン号が世界一周を達成したのを記念して創建されました。「飛行機が落ちない」から「入試で落ちない」「成績が落ちない」「業績が落ちない」というご利益があるようです。
毎日新聞東京本社の有楽町旧社屋からパレスサイドビルへの移転に伴い、旧社屋5階総務局の応接室に祀られていた毎日神社も、昭和41(1966)年10月17日にパレスサイドビル屋上に遷座しました。
<毎日神社由来>
(プレート文)
「毎日神社由来
本神社は昭和十四年(一九三九年)十月二十日毎日新聞社機「ニッポン」号による同社主催世界一周大飛行の完成記念として創建された 祭神は天照大神産土神日枝大神ならびに飛行の平安完遂を祈願し全国読者から寄進の御神符が奉安されている。
同航空機は中翼単葉の双発機で翼長二五メートル・全長一六メートルの純国産 当時日本航空科学の粋を集めて制作された 全航程五万三千キロ 北太平洋横断無着陸飛行に成功 空の難関といわれた南米アンデス越えの新記録や大西洋横断の快記録など 世界航空史に不滅の光彩を放っている
祭日 例大祭十月二十日 月例祭二十日」
<屋上の利用について>
パレスサイドビルの屋上は、平日の午前11時〜午後3時に開放されています(雨天の場合は閉鎖)。
屋上のエレベーターホールとエレベーターボタン
<屋上>
北側展望案内板と不二ラテックス本社ビル
南側展望案内板と平川門
内堀通りと大手濠緑地
○ニッポン記念碑 千代田区一ツ橋1-1-1 パレスサイドビル1階
1階の毎日新聞社玄関に、ニッポン記念碑が置かれています。
ニッポンの機体には「JーBACI」と描かれています。
「ニッポン世界一周大飛行完成記念」
「皇紀二千五百九十九年十月二十日」
「東京日日新聞社 大阪毎日新聞社」
ニッポン世界一周飛行記録
台座四隅の四羽の鳥は、くちばしが長いので鳩ではないようです、鷹か隼?
<ニッポン記念碑の由来>
(説明板)
「『ニッポン』記念碑 の由来
毎日新聞社は、昭和14年(1939)に、国際親善を深めるための世界一周飛行をなしとげた。毎日新聞航空部所属のパイロットが純国産機を操縦して、日本人として初めて太平洋、大西洋を横断し、北半球と南半球を結んで飛び、わが国の技術水準の高さを世界に示した。
使用機は、全長15メートル全幅25メートル全高3.6メートルの三菱製の双発輸送機で、巡航速度は260キロメートルと、当時の最新鋭機だった。
同機の名前には、130万通にのぼる読者の応募ハガキの中から、『ニッポン』が選ばれた。
『ニッポン』は、8月26日に東京・羽田飛行場を出発、10月20日に帰国した。56日間の全行程は52,860キロメートルで、実飛行時間は194時間だった。
世界一周飛行後まもなく、毎日新聞社は『ニッポン』のスケール・モデルを地球儀にのせた記念碑を作ったが、本社屋の移転などの間に破損してしまった。そこで『ニッポン』世界一周飛行後満50年にあたることし、設立当時のままに復元した。このため年号が「皇紀」となっているほか、社名が「大阪毎日」、「東京日日」となっている。
平成元年夏 毎日新聞社」
「「ニッポン」の世界一周飛行から50年目の平成元年(1989)にこの碑を復元した。 毎日新聞社」
〇ニツポン世界一周大飛行の意義(世界交通文化発達史 東京日日新聞社 昭和15年 国立国会図書館蔵)
詳細な記録が残されています。写真を中心とした抜粋です。
ニッポン世界一周大飛行記録画
ニッポン命名式当日(昭和14年8月3日 東條英機航空総監の姿も見えます)
待機のニッポンと乗員
羽田出発の瞬間―円内はニッポンを送る朝日新聞社の「朝風」―
上が毎日新聞社「ニッポン」、下が朝日新聞社「朝風」です。
札幌飛行場出発直前のニッポン
ニッポン太平洋横断
太平洋横断を終えノーム着
シカゴ空港に翼を休めるニッポン
峻険アンデスを突破してブエノスアイレスに安着
偉業完成 東京飛行場に帰還するニッポン
大手濠緑地(和気清麻呂像 震災いちょう 日本の道百選)
○大手濠緑地 千代田区大手町1-4
大手濠緑地内に、「和気清麻呂像」と「震災いちょう」があります。
パレスサイドビル屋上から、内堀通りと大手濠緑地
銘板「大手濠緑地」
大手濠と皇居、大手町ビル群
大手濠緑地と遠景に平川橋
<和気清麻呂像>
「和気清麻呂像(佐藤清蔵作)」です。銅像除幕式が、昭和15(1940)年12月18日に行われました。
和気清麻呂は、神護景雲3(769)年に道鏡が皇位をうかがった時、その野望を挫きました。大隅に配流、天皇の死後、道鏡失脚により復帰し、平安遷都を推進、造都に活躍しました。
外国の方々が来ては像の前で写真を撮っていきますが、どこかで紹介されているのでしょうか。
(碑文)
「國體擁護 元帥載仁親王
ここに立たるは護王大明神の神號を給はりし贈正一位和氣清麻呂公の像にして宇佐の大神の貴く畏き御教言を承り復奏の為に参内せるさまをうつせるなり公の誠忠は國史の上に顕著なるが殊に孝明天皇の宣命に身の危きを顧ず雄々しく烈しき誠の心を盡せるはと稱えさせたまひまた明治天皇の策命に日月と共に照り徹れる偉き勲をめでさせたまへりこれの像は明治の大御代に允許を忝うせしを今茲紀元二千六百年の記念として宮城の御濠に沿へる地に建設せるなり公の英霊は千載生けるが如く儼然として宮闕の下を離れず我が国體を擁護しまつり天地と倶にとこしへに存せむ
昭和十五年十ニ月 大日本護王會」
「紀元二千六百年記念
建設委員長
陸軍大将 従二位勲一等功四級 林銑十郎
寄贈者 石川博資」
「林銑十郎肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
明治9(1876)年2月23日〜昭和18(1943)年2月4日
<和気清麻呂と日本銀行券>
日本銀行券の肖像は右側に描かれるのがほとんどですが、一度だけ左側に描かれたことがあります。和気清麻呂を肖像とする十円券です。しかし、銀行などでお札を勘定する際に、左手でお札を持ち肖像と向き合うようにして数えるのが一般的だったため、「十円札だけ肖像が確認しにくく不便」との声が寄せられ、それ以降、肖像が左側にレイアウトされることはなくなりました。
なお、GHQは、昭和21(1946)年、「聖徳太子以外は、軍国主義的な色彩が強いため、肖像として使用することを認めない」としたことから、「紙幣の顔」として存続できたのは聖徳太子だけでした(以上、日本銀行HPを参照しました)。
<震災イチョウ>
(説明板)
「震災イチョウ
このイチョウは、かつて一ツ橋一丁目一番一帯にあった文部省の構内(現在のパレスサイドビル付近)にありました。1923年(大正12年)の関東大震災でこの地域一帯は焼け野原になりましたが、イチョウは奇跡的に生き残りました。
しかし、帝都復興計画による区画整理事業の中で切り倒されることになりました。それを聞いた当時の中央気象台長の岡田武松が惜しみ、帝都復興局長官の清野長太郎に樹木の保存を申し入れたところ、長官もその意義を理解しこの地に移植され、現在にまで残っています。」
<日本の道100選 内堀通り>
内堀通りは「日本の道100選」に選定されており、内堀通りの歩道に面して、大手濠緑地に顕彰碑が建てられています。
(碑文)
「日本の道百選 内堀通り」
「東京都」
(プレート)
「道 日本の道100選 内堀通り
昭和61年8月10日
建設省「道の日」実行委員会」
(プレート文)
「城郭と高層ビル 千代田区皇居外苑
皇居を内堀沿いに一周し、一方に江戸以来の歴史を偲ばせる城郭、掘割を望み、他方には近代的な高層ビル群が立ち並ぶ美しい景観を持つ。近年はジョキングコースとして親しまれている。」
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
大手町川端緑道
○大手町川端緑道 千代田区大手町 千代田区大手町一丁目・二丁目
大手町川端緑道は、平成26(2014)年4月22日、日本橋川に沿って錦橋からJR橋まで歩行者専用道路として整備されました。
「大手町川端緑道完成記念
平成26年4月
千代田区・UR都市機構」
「大手町川端緑道
大手町川端緑道は、大手町連鎖型都市再生プロジェクトとして独立行政法人都市再生機構が施工している大手町土地区画整理事業により日本橋川沿いに整備された歩行者専用道(延長780m、幅員約12m)です。
大手町は、江戸時代以降日本の行政・文化の中心地として、東京の歴史的な記憶を内包しながら発展した場所です。大手町川端緑道での今後の様々な活動が絵巻物のように物語として展開されるという意味を込めて「日本橋川環境絵巻」というコンセプトのもとにデザインしました。
平成二十六年四月 千代田区・UR都市機構」
現地地図より
「大手町川端量堂案内図」
<解説パネル>
鎌倉橋南詰に設置されています。
「水辺空間の変遷
この緑道(大手町川端緑道)は、日本橋川に沿って錦橋からJR橋まで約800m続く歩行者専用道路です。大手町地区再開発に伴い、新たな川べりの空間として整備されましたが、地区の骨格は江戸時代につくられた外堀に始まります。その後、明治、大正、昭和、平成と土地の記憶を重ねながら現在にいたります。
徳川家康が天正18年(1590)に当時湿地の多かった江戸へ入ると、自然を活かしながら城下町として改造し、水路を整備し水運を整えました。安価で大量の物資が運べる水上交通は当時の交通網の主役で、米をはじめ、様々な物資が運搬されていました。近世の人々は、経済、生活のあらゆる面で水に結び付いた暮らしをしており、江戸は水運の発達した「水の都」となっていきます。
明治維新をむかえ近代に入ると、道路の整備、鉄道の敷設など陸上交通が発達し、反比例して水上交通は衰え、水辺空間の重要性も忘れられていきました。大きな転換期は高度経済成長期の東京オリンピックの開催前後に行われた都市の改造でした。道路の用地には河川運河など公用地が利用されたため、水路は埋め立てられ、高速道路の下に隠れてしまいました。近世以来馴染んできた景観は消えていきました。」
「江戸水の都
江戸城築城にともないこの地は武家地となり、老中や親藩、譜代の大名の屋敷がおかれました。横を流れる川は城下町整備で平川の河口がつけかえられ外堀となり、日本橋川と呼ばれるようになりました。幕末時の地図によると、錦橋から神田橋の間あたりは御三卿一橋家、神田橋から小紋広場を通って鎌倉橋あたりは徳川四天王のひとつ、譜代大名の出羽鶴岡藩酒井家、鎌倉橋からJR橋は徳川御家門筆頭の大名家の越前福井藩松平家上屋敷であったことがわかります。外堀を境に神田側は細かく地割され、江戸城の石材が荷揚げされていた鎌倉中河岸があり町人地の中心としての様子がみられます。
江戸のまちは陰場道によってつくられていました。陰陽道では鬼門(北東)の方向から入り込んだ自然のエネルギー(気)が南西へ流れていくとされていて、その気に悪いものが流れこむと気が乱れ、その地に疾病や天災などの災いをもたらすと考えられていました。そこで、江戸城から北東にあたる位置に寛永寺(上野)を建て、気を浄化させ、南西に流れていく通り道に上記のような徳
川家とつながりのつよい大名などを配置しました。ちょうどこのあたりは北東から流れてきた気をさらに浄化する役目をにない、続く大名小路へ流していく場所だったと考えられます。気の出口にあたる桜田門外から南西方向のエリアには外様大名がおかれ、悪い気が入らないようにしました。
現在この緑道で日本橋川へかかる橋は錦橋、神田橋、鎌倉橋、JR橋と4つですが、当時は神田橋のみでした。神田橋は将軍の御成門であり、大番所として桝形の見附がある神田門から延びていました。対岸に江戸城築城の資材を荷揚げする河岸場があったので、 当時重要な役割を果たしていました。この緑道のある大手町の由来は江戸城大手門の東側にあたり、江戸時代は「大手前」と呼ばれていたことからきています。」
「江戸の経済と水運
近世は農民による米の生産と、商人による米の流通を中心に社会が成り立っていました。江戸は隅田川を介して関東の水系を網羅する利根川に通じており、それを取り込む水運を整備したので、物資は水上交通によって運搬されました。幕府の中央都市だけでなく関東経済圏の中心地としても発展しました。
河岸の賑わい
幕府は江戸の町に、自然の川の付け替え、新たな運河の掘削など改造を施し、計画的な水路のネットワークを形成しました。(✱河岸とは川の沿岸のこと。物資の運搬、輸送のための水路の際に作られた施設。さらには、そのような施設を利用する流通機構=廻船問屋の組織を意味する場合もあります。)
水辺の信仰
日本では古来水辺の空間は、神や霊の世界との接点であると考えられてきたため、神社や寺院などが多数設けられ、神聖な宗教空間を形成してきました。これらを中心に水辺に名所が生まれ、盛り場としても発展しました。浅草の「三社祭り」などは水辺の信仰として当時は舟祭りだったことが「東都蔵時記」に描かれています。
江戸の上水
江戸は人口増加にともない上水を整備しました。(低地の埋立地では井戸を掘っても塩分を含んだ水でした。)神田上水、玉川上水、亀有上水、青山上水、三田上水、千川上水の6上水が作られましたが、後に神田、玉川以外は廃止されました。その後、技術も発達し岩盤も打ち抜く「堀抜き井戸」が普及しました。
遊興空間
江戸の四季折々の遊びは水辺の空間とも密接に係わっていました。代表的なものは花見、川開きの花火、潮干狩り、月見などがあります。また江戸の文化形成に重要な役割をはたした芝居と遊郭も水辺の空間と結び付きながら成立しました。それらに遊びにいく人々が使った端爽とした猪牙舟は江戸を象徴した乗り物でした。」
「明治から平成の東京
明治維新をへて新政府がかかげた「富国強兵」の実現のため、宮城(きゅうじょう 現:皇居)を中心とした都心部に大兵力と官庁機能が結集されました。このあたりの藩邸は面積が広く勤蕃侍の長屋などの設備があったため、兵営や練兵場として利用しやすく、官庁に旧大名藩邸をそのまま転用することができました。大手町1丁目にあたる御三卿一橋家跡地は陸軍や近衛騎兵大隊の用地となり出羽鶴岡藩酒井家、越前福井藩松平家上屋敷など、大手町2丁目にあたる地区は、大蔵省や文部省などの用地や御雇外国人居留地などとなり、後に印刷局、東京電話交換局などがおかれました。
すべてが変化していく中、交通の主役も水上から陸上へ少しずつおきかえられていきました。乗り物では人力車にはじまり、乗合馬車、馬車鉄道、明治後期になると電車、タクシー、バス、鉄道と現れました。
大正時代に入ると、陸上交通機関はさらに発達していきます。丸の内のビジネス街としての地位を決定づける中央停車場駅(東京駅)が大正3年(1914)にでき、それまで市内電車だけのこの地区を変えました。大正8年(1919)には中央線東京‐万世橋間の延線開業にあわせて日本橋川に鉄道橋がかけられ、新しい橋が生まれました。しかし、その4年後大正12年(1923)の関東大震災で、外堀の石垣や江戸時代からかけられていた神田橋が倒壊します。その後震災復興橋として、神田橋の再建(大正14年)だけでなく、新たに錦橋(昭和2年)鎌倉橋(昭和4年)が作られました。(✱現在の神田橋は昭和55年地下鉄千代田線の工事にともない架け替えられたものです。)
昭和に入り、第二次世界大戦を経験し、高度成長期を迎えていきます。東京オリンピック開催前後には都市の改造が行われて、首都高速道路が建設されました。ここ日本橋川を通る首都高4号線は昭和39年(1964)に神田‐初台間をつなげ、東京の交通事情と景観を一変しただけでなく、江戸からの空間としての位置づけも大きく変えていきました。」
「神田錦町での大学の始まり
歩道の対岸にあたる一橋門外の神田錦町にて、のちの東京大学である開成学校が始まりました。前身は幕末の国際情勢の激変に応じて開設された幕府の教育機関である蕃書調書でした。
明治6年(1873)から明治17年(1884)までの短い期間でしたが、武家屋敷を学校町へ一変させるだけの効果がありました。
明治以降の東京の交通事情
西洋文化が一気に押し寄せ、移動手段も様変わりしました。明治5年(1872)9月に新橋‐横浜に日本初の鉄道が走りましたが、中央停車場)東京駅9は大正3年(1914)に完成しました。
お茶ノ水止りだった中央線が大正8年(1919)に東京駅まで延線し、現在の鉄道橋の原型が日本橋川にかかりました。関東大震災でもこの橋は残りました。
橋の変化
神田橋は江戸時代に将軍が上野の寛永寺へ参拝するときに利用していた見附橋です。明治17年(1884)に木橋に改架、大正12年(1923)の関東大震災で焼失しました。震災後、復興事業で鋼製の桁橋になりました。(その時、錦橋、鎌倉橋も架けられました。)現在の橋は昭和55年(1980)下を走る地下鉄千代田線の工事に伴って架け替えられたものです。
陸路の発達
日本橋川にかかる首都高速4号線(神田‐初台9.8km)は昭和39年(1964)8月に建設されました。当時の東京は自動車が急増、各地で渋滞が頓発、放置すればやがて交通麻痺に陥ると予測され、問題を解決するために建設されました。同年10月に東海道新幹線が東京‐大阪間で開通しました。その区間をひかりが4時間でつなぎ時間距離を一挙に縮め、ビジネスや旅行の概念を一変させました。
丸の内地区再開発
1990年代後半から丸の内地区の魅力を高めようと再開発が始まりました。ビジネスに特化した街から商業や文化の発信拠点などの「多様性のある街」への転換を目指しました。平成14年(2002)8月に完成した丸の内ビルディングをかわきりに街が大きく変わり、華やかなショッピング通りになった丸の内仲通りは、 この大手町歩道ともイベント広場でつながっています。」
<親水広場> 千代田区大手町1-3
錦橋 神田錦町三丁目〜大手町一丁目
<気象庁旧生物季節観測の木々>
<人道橋の架橋>
大手町川端緑道から対岸の内神田一丁目への人道橋架橋工事が進められています。
<神田橋>
大手町川端緑道は、平成26(2014)年4月22日、日本橋川に沿って錦橋からJR橋まで歩行者専用道路として整備されました。
「大手町川端緑道完成記念
平成26年4月
千代田区・UR都市機構」
「大手町川端緑道
大手町川端緑道は、大手町連鎖型都市再生プロジェクトとして独立行政法人都市再生機構が施工している大手町土地区画整理事業により日本橋川沿いに整備された歩行者専用道(延長780m、幅員約12m)です。
大手町は、江戸時代以降日本の行政・文化の中心地として、東京の歴史的な記憶を内包しながら発展した場所です。大手町川端緑道での今後の様々な活動が絵巻物のように物語として展開されるという意味を込めて「日本橋川環境絵巻」というコンセプトのもとにデザインしました。
平成二十六年四月 千代田区・UR都市機構」
現地地図より
「大手町川端量堂案内図」
<解説パネル>
鎌倉橋南詰に設置されています。
「水辺空間の変遷
この緑道(大手町川端緑道)は、日本橋川に沿って錦橋からJR橋まで約800m続く歩行者専用道路です。大手町地区再開発に伴い、新たな川べりの空間として整備されましたが、地区の骨格は江戸時代につくられた外堀に始まります。その後、明治、大正、昭和、平成と土地の記憶を重ねながら現在にいたります。
徳川家康が天正18年(1590)に当時湿地の多かった江戸へ入ると、自然を活かしながら城下町として改造し、水路を整備し水運を整えました。安価で大量の物資が運べる水上交通は当時の交通網の主役で、米をはじめ、様々な物資が運搬されていました。近世の人々は、経済、生活のあらゆる面で水に結び付いた暮らしをしており、江戸は水運の発達した「水の都」となっていきます。
明治維新をむかえ近代に入ると、道路の整備、鉄道の敷設など陸上交通が発達し、反比例して水上交通は衰え、水辺空間の重要性も忘れられていきました。大きな転換期は高度経済成長期の東京オリンピックの開催前後に行われた都市の改造でした。道路の用地には河川運河など公用地が利用されたため、水路は埋め立てられ、高速道路の下に隠れてしまいました。近世以来馴染んできた景観は消えていきました。」
「江戸水の都
江戸城築城にともないこの地は武家地となり、老中や親藩、譜代の大名の屋敷がおかれました。横を流れる川は城下町整備で平川の河口がつけかえられ外堀となり、日本橋川と呼ばれるようになりました。幕末時の地図によると、錦橋から神田橋の間あたりは御三卿一橋家、神田橋から小紋広場を通って鎌倉橋あたりは徳川四天王のひとつ、譜代大名の出羽鶴岡藩酒井家、鎌倉橋からJR橋は徳川御家門筆頭の大名家の越前福井藩松平家上屋敷であったことがわかります。外堀を境に神田側は細かく地割され、江戸城の石材が荷揚げされていた鎌倉中河岸があり町人地の中心としての様子がみられます。
江戸のまちは陰場道によってつくられていました。陰陽道では鬼門(北東)の方向から入り込んだ自然のエネルギー(気)が南西へ流れていくとされていて、その気に悪いものが流れこむと気が乱れ、その地に疾病や天災などの災いをもたらすと考えられていました。そこで、江戸城から北東にあたる位置に寛永寺(上野)を建て、気を浄化させ、南西に流れていく通り道に上記のような徳
川家とつながりのつよい大名などを配置しました。ちょうどこのあたりは北東から流れてきた気をさらに浄化する役目をにない、続く大名小路へ流していく場所だったと考えられます。気の出口にあたる桜田門外から南西方向のエリアには外様大名がおかれ、悪い気が入らないようにしました。
現在この緑道で日本橋川へかかる橋は錦橋、神田橋、鎌倉橋、JR橋と4つですが、当時は神田橋のみでした。神田橋は将軍の御成門であり、大番所として桝形の見附がある神田門から延びていました。対岸に江戸城築城の資材を荷揚げする河岸場があったので、 当時重要な役割を果たしていました。この緑道のある大手町の由来は江戸城大手門の東側にあたり、江戸時代は「大手前」と呼ばれていたことからきています。」
「江戸の経済と水運
近世は農民による米の生産と、商人による米の流通を中心に社会が成り立っていました。江戸は隅田川を介して関東の水系を網羅する利根川に通じており、それを取り込む水運を整備したので、物資は水上交通によって運搬されました。幕府の中央都市だけでなく関東経済圏の中心地としても発展しました。
河岸の賑わい
幕府は江戸の町に、自然の川の付け替え、新たな運河の掘削など改造を施し、計画的な水路のネットワークを形成しました。(✱河岸とは川の沿岸のこと。物資の運搬、輸送のための水路の際に作られた施設。さらには、そのような施設を利用する流通機構=廻船問屋の組織を意味する場合もあります。)
水辺の信仰
日本では古来水辺の空間は、神や霊の世界との接点であると考えられてきたため、神社や寺院などが多数設けられ、神聖な宗教空間を形成してきました。これらを中心に水辺に名所が生まれ、盛り場としても発展しました。浅草の「三社祭り」などは水辺の信仰として当時は舟祭りだったことが「東都蔵時記」に描かれています。
江戸の上水
江戸は人口増加にともない上水を整備しました。(低地の埋立地では井戸を掘っても塩分を含んだ水でした。)神田上水、玉川上水、亀有上水、青山上水、三田上水、千川上水の6上水が作られましたが、後に神田、玉川以外は廃止されました。その後、技術も発達し岩盤も打ち抜く「堀抜き井戸」が普及しました。
遊興空間
江戸の四季折々の遊びは水辺の空間とも密接に係わっていました。代表的なものは花見、川開きの花火、潮干狩り、月見などがあります。また江戸の文化形成に重要な役割をはたした芝居と遊郭も水辺の空間と結び付きながら成立しました。それらに遊びにいく人々が使った端爽とした猪牙舟は江戸を象徴した乗り物でした。」
「明治から平成の東京
明治維新をへて新政府がかかげた「富国強兵」の実現のため、宮城(きゅうじょう 現:皇居)を中心とした都心部に大兵力と官庁機能が結集されました。このあたりの藩邸は面積が広く勤蕃侍の長屋などの設備があったため、兵営や練兵場として利用しやすく、官庁に旧大名藩邸をそのまま転用することができました。大手町1丁目にあたる御三卿一橋家跡地は陸軍や近衛騎兵大隊の用地となり出羽鶴岡藩酒井家、越前福井藩松平家上屋敷など、大手町2丁目にあたる地区は、大蔵省や文部省などの用地や御雇外国人居留地などとなり、後に印刷局、東京電話交換局などがおかれました。
すべてが変化していく中、交通の主役も水上から陸上へ少しずつおきかえられていきました。乗り物では人力車にはじまり、乗合馬車、馬車鉄道、明治後期になると電車、タクシー、バス、鉄道と現れました。
大正時代に入ると、陸上交通機関はさらに発達していきます。丸の内のビジネス街としての地位を決定づける中央停車場駅(東京駅)が大正3年(1914)にでき、それまで市内電車だけのこの地区を変えました。大正8年(1919)には中央線東京‐万世橋間の延線開業にあわせて日本橋川に鉄道橋がかけられ、新しい橋が生まれました。しかし、その4年後大正12年(1923)の関東大震災で、外堀の石垣や江戸時代からかけられていた神田橋が倒壊します。その後震災復興橋として、神田橋の再建(大正14年)だけでなく、新たに錦橋(昭和2年)鎌倉橋(昭和4年)が作られました。(✱現在の神田橋は昭和55年地下鉄千代田線の工事にともない架け替えられたものです。)
昭和に入り、第二次世界大戦を経験し、高度成長期を迎えていきます。東京オリンピック開催前後には都市の改造が行われて、首都高速道路が建設されました。ここ日本橋川を通る首都高4号線は昭和39年(1964)に神田‐初台間をつなげ、東京の交通事情と景観を一変しただけでなく、江戸からの空間としての位置づけも大きく変えていきました。」
「神田錦町での大学の始まり
歩道の対岸にあたる一橋門外の神田錦町にて、のちの東京大学である開成学校が始まりました。前身は幕末の国際情勢の激変に応じて開設された幕府の教育機関である蕃書調書でした。
明治6年(1873)から明治17年(1884)までの短い期間でしたが、武家屋敷を学校町へ一変させるだけの効果がありました。
明治以降の東京の交通事情
西洋文化が一気に押し寄せ、移動手段も様変わりしました。明治5年(1872)9月に新橋‐横浜に日本初の鉄道が走りましたが、中央停車場)東京駅9は大正3年(1914)に完成しました。
お茶ノ水止りだった中央線が大正8年(1919)に東京駅まで延線し、現在の鉄道橋の原型が日本橋川にかかりました。関東大震災でもこの橋は残りました。
橋の変化
神田橋は江戸時代に将軍が上野の寛永寺へ参拝するときに利用していた見附橋です。明治17年(1884)に木橋に改架、大正12年(1923)の関東大震災で焼失しました。震災後、復興事業で鋼製の桁橋になりました。(その時、錦橋、鎌倉橋も架けられました。)現在の橋は昭和55年(1980)下を走る地下鉄千代田線の工事に伴って架け替えられたものです。
陸路の発達
日本橋川にかかる首都高速4号線(神田‐初台9.8km)は昭和39年(1964)8月に建設されました。当時の東京は自動車が急増、各地で渋滞が頓発、放置すればやがて交通麻痺に陥ると予測され、問題を解決するために建設されました。同年10月に東海道新幹線が東京‐大阪間で開通しました。その区間をひかりが4時間でつなぎ時間距離を一挙に縮め、ビジネスや旅行の概念を一変させました。
丸の内地区再開発
1990年代後半から丸の内地区の魅力を高めようと再開発が始まりました。ビジネスに特化した街から商業や文化の発信拠点などの「多様性のある街」への転換を目指しました。平成14年(2002)8月に完成した丸の内ビルディングをかわきりに街が大きく変わり、華やかなショッピング通りになった丸の内仲通りは、 この大手町歩道ともイベント広場でつながっています。」
<親水広場> 千代田区大手町1-3
錦橋 神田錦町三丁目〜大手町一丁目
<気象庁旧生物季節観測の木々>
<人道橋の架橋>
大手町川端緑道から対岸の内神田一丁目への人道橋架橋工事が進められています。
<神田橋>
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
常盤橋門跡(国史跡) 江戸桜通り
○国指定史跡「常盤橋門跡」 千代田区大手町二丁目〜中央区日本橋本石町二丁目
常盤橋公園内石垣、常磐橋、橋の石積が国史跡として指定されています(昭和3(1928)年3月24日)。
(標柱)
「史蹟常盤橋門址」
「昭和六年三月建設 東京市」
「昭和三年三月」(よく読めません)
<常磐橋>
国指定史跡「常盤橋門跡」内の常磐橋は、明治10(1877)年に木造から洋式石橋に架け替えられました。東日本大震災により橋の輪石が歪み、補修・修復工事が行われ、令和3(2021)年5月10日に工事完了・開通しました。
橋の中央区側には、1896年に辰野金吾の設計により建設された日本銀行本店が建っています。
橋の千代田区側には東京トーチタワーの建設が進められています。
「絵本江戸土産 神田明神」(二代広重)
挿絵には「神田明神は江戸大祭の随一にして祭事は九月十五日也 惶くも大樹公の上覧あり 這は田安御門より繰込みたるを 常盤橋御門より引出すのさまを図せり」とあります。常盤橋御門から出てくるところが描かれています。
「常盤橋門址 東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖」(東京市公園課 大正11年)
「常盤橋内紙幣寮之図」(小林清親 明治13年)
常盤橋の皇居側に明治9年に竣工した紙幣寮(現・国立印刷局)の印刷工場が描かれています。
「東京名所 紙幣局」(井上安治 明治10年)
紙幣局のタイトルで描かれています。
<青淵澁澤榮一像> 千代田区大手町2-7-2 常盤橋公園
こちらで記載
○常盤橋 千代田区大手町二丁目〜中央区日本橋本石町一丁目
常磐橋に代わる幹線道路用の橋として、昭和元(1926)年に架けられた石橋です。
上流(常磐橋)からの常盤橋
下流からの常盤橋
〇江戸桜通り 中央区日本橋本石町〜日本橋室町〜日本橋本町
常盤橋から日本銀行と貨幣博物館の間を東へ、三井本館の横を通り、昭和通りまで、桜並木が続くのが江戸桜通りです。西端の日本銀行横(中央区日本橋本石町2-1)、三越本店横(中央区日本橋室町1-4)、コレド室町横(中央区日本橋室町2-2)、東端の昭和通り手前(中央区日本橋本町2-5)に石標が建っています。「江戸桜通り」は、市川團十郎の「助六由縁江戸桜」にちなんで名づけられ、石標は十二代目市川團十郎による揮毫です。
日本銀行(辰野金吾設計 国重要文化財)
(石標)
「江戸桜通り
十二代目 市川團十郎
平成十七年十月吉日
名橋「日本橋」保存会 建立」
日本銀行横(中央区日本橋本石町2-1)
コレド室町横(中央区日本橋室町2-2)
昭和通り手前(中央区日本橋本町2-5)
常盤橋公園内石垣、常磐橋、橋の石積が国史跡として指定されています(昭和3(1928)年3月24日)。
(標柱)
「史蹟常盤橋門址」
「昭和六年三月建設 東京市」
「昭和三年三月」(よく読めません)
<常磐橋>
国指定史跡「常盤橋門跡」内の常磐橋は、明治10(1877)年に木造から洋式石橋に架け替えられました。東日本大震災により橋の輪石が歪み、補修・修復工事が行われ、令和3(2021)年5月10日に工事完了・開通しました。
橋の中央区側には、1896年に辰野金吾の設計により建設された日本銀行本店が建っています。
橋の千代田区側には東京トーチタワーの建設が進められています。
「絵本江戸土産 神田明神」(二代広重)
挿絵には「神田明神は江戸大祭の随一にして祭事は九月十五日也 惶くも大樹公の上覧あり 這は田安御門より繰込みたるを 常盤橋御門より引出すのさまを図せり」とあります。常盤橋御門から出てくるところが描かれています。
「常盤橋門址 東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖」(東京市公園課 大正11年)
「常盤橋内紙幣寮之図」(小林清親 明治13年)
常盤橋の皇居側に明治9年に竣工した紙幣寮(現・国立印刷局)の印刷工場が描かれています。
「東京名所 紙幣局」(井上安治 明治10年)
紙幣局のタイトルで描かれています。
<青淵澁澤榮一像> 千代田区大手町2-7-2 常盤橋公園
こちらで記載
○常盤橋 千代田区大手町二丁目〜中央区日本橋本石町一丁目
常磐橋に代わる幹線道路用の橋として、昭和元(1926)年に架けられた石橋です。
上流(常磐橋)からの常盤橋
下流からの常盤橋
〇江戸桜通り 中央区日本橋本石町〜日本橋室町〜日本橋本町
常盤橋から日本銀行と貨幣博物館の間を東へ、三井本館の横を通り、昭和通りまで、桜並木が続くのが江戸桜通りです。西端の日本銀行横(中央区日本橋本石町2-1)、三越本店横(中央区日本橋室町1-4)、コレド室町横(中央区日本橋室町2-2)、東端の昭和通り手前(中央区日本橋本町2-5)に石標が建っています。「江戸桜通り」は、市川團十郎の「助六由縁江戸桜」にちなんで名づけられ、石標は十二代目市川團十郎による揮毫です。
日本銀行(辰野金吾設計 国重要文化財)
(石標)
「江戸桜通り
十二代目 市川團十郎
平成十七年十月吉日
名橋「日本橋」保存会 建立」
日本銀行横(中央区日本橋本石町2-1)
コレド室町横(中央区日本橋室町2-2)
昭和通り手前(中央区日本橋本町2-5)
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銭瓶橋跡 (大手町)
○銭瓶橋跡 千代田区大手町2-6先 日本ビル北側歩道(説明板)
<江戸の銭湯発祥の地>
銭瓶橋は、江戸の銭湯発祥の地でもあります。
天正19(1591)年、伊勢出身の商人、伊勢与市が、銭瓶橋のたもとに銭湯を開業しました。
<本所・深川の給水源>
上水の届かない本所や深川では、上水の「余り水」を水船が運び、住民は棒手振りの水売から飲料水を買っていました。上水は江戸市中に給水後、余り水は銭瓶橋及び一石橋の吐樋から放流されていました。上水記によると、銭瓶橋の北側に神田上水の吐樋、南側に玉川上水の吐樋があったようです。幕府の鑑札を受けた水船業者が水船に汲んで本所や深川に運び、あるいは廻船に売水していました。
(説明板)
「銭瓶橋跡
銭瓶橋は、江戸城建設の物資補給路のために開削された道三掘・日本橋川と、1636年(寛永13年)に掘削された外堀の3本の水路が交差する場所(現在の丸の内一丁目付近)に架けられていました。
銭瓶橋の由来は諸説あり、橋を架設する際に地中から銭の入った瓶が掘り出されたからとする説と、この付近で永楽銭の引換えが行われており、「銭替橋」と呼ばれたからとする説があります。
江戸の名所の一つとして知られ、有名な景勝地でした。歌川広重の「名所江戸百景 八つ見のはし」には中央に銭瓶橋が描かれています。
1909年(明治42年)、道三堀が埋め立てられ橋も姿を消しました。 千代田区」
「江戸城を取り巻く地形と文化財
「名所江戸百景 八ツ見のはし」(広重)
説明板に掲示されている広重の「名所江戸百景 八ツ見のはし」です。
「八ツ見のはし」(一石橋)から、道三堀の銭瓶橋と奥に道三橋が見えます。
「江戸名所四十八景 一石はし夕景」(二代広重 都立図書館蔵)
手前が一石橋で、奥に銭瓶橋が描かれています。
さて、銭瓶橋には、上水懸樋が並行して架けられているように見えます?両側は吐樋だと思っていたので意外な一枚です。
「江戸切絵図」
銭瓶橋部分の抜粋です。
<江戸の銭湯発祥の地>
銭瓶橋は、江戸の銭湯発祥の地でもあります。
天正19(1591)年、伊勢出身の商人、伊勢与市が、銭瓶橋のたもとに銭湯を開業しました。
<本所・深川の給水源>
上水の届かない本所や深川では、上水の「余り水」を水船が運び、住民は棒手振りの水売から飲料水を買っていました。上水は江戸市中に給水後、余り水は銭瓶橋及び一石橋の吐樋から放流されていました。上水記によると、銭瓶橋の北側に神田上水の吐樋、南側に玉川上水の吐樋があったようです。幕府の鑑札を受けた水船業者が水船に汲んで本所や深川に運び、あるいは廻船に売水していました。
(説明板)
「銭瓶橋跡
銭瓶橋は、江戸城建設の物資補給路のために開削された道三掘・日本橋川と、1636年(寛永13年)に掘削された外堀の3本の水路が交差する場所(現在の丸の内一丁目付近)に架けられていました。
銭瓶橋の由来は諸説あり、橋を架設する際に地中から銭の入った瓶が掘り出されたからとする説と、この付近で永楽銭の引換えが行われており、「銭替橋」と呼ばれたからとする説があります。
江戸の名所の一つとして知られ、有名な景勝地でした。歌川広重の「名所江戸百景 八つ見のはし」には中央に銭瓶橋が描かれています。
1909年(明治42年)、道三堀が埋め立てられ橋も姿を消しました。 千代田区」
「江戸城を取り巻く地形と文化財
「名所江戸百景 八ツ見のはし」(広重)
説明板に掲示されている広重の「名所江戸百景 八ツ見のはし」です。
「八ツ見のはし」(一石橋)から、道三堀の銭瓶橋と奥に道三橋が見えます。
「江戸名所四十八景 一石はし夕景」(二代広重 都立図書館蔵)
手前が一石橋で、奥に銭瓶橋が描かれています。
さて、銭瓶橋には、上水懸樋が並行して架けられているように見えます?両側は吐樋だと思っていたので意外な一枚です。
「江戸切絵図」
銭瓶橋部分の抜粋です。
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
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