大都映画撮影所跡
〇大都映画巣鴨撮影所跡 豊島区西巣鴨4-9-1
大正8(1919)年に天然色活動写真株式会社(天活)がここに撮影所を設けたのに始まり、国際活動映画(国活)、独立プロを経て昭和2(1927)年に河合、昭和8(1933)年から大都映画となり、昭和17(1942)年に戦時統合により大映に吸収され、巣鴨撮影所が閉鎖されるまで映画製作が続けられました。
(説明板)
「河合英が巣鴨撮影所(大都映画巣鴨撮影所前身)ー現在朝日中学校ー
大都映画
大正8年、天然色活動写真(天活)の仮設ステージから始まり、国際活動映画(国活)や河合商会による買収などを経て設立された大都映画は現在の朝日中学校がある所に巣鴨撮影所を持っていた。大都映画は昭和17年に大映に吸収されるまで、「貞操」、「街の爆弾児」、「宮本武蔵」などを制作した。
東京都豊島区『豊島区50年のあゆみ』より」
(説明板)
「大都映画巣鴨撮影所全図ー現在朝日中学校ー」
所員用の浴場「甲子湯(きねゆ)」や稲荷神社までありました。
(説明板)
「大都映画巣鴨撮影所(初期のもの)ー現在朝日中学校ー」
昭和2年に河合映画会社が設立され、昭和8年には大都映画(株)に発展した。昭和2年当時、廃屋同然だった旧国活会社の巣鴨撮影所を買収して以来、昭和17年に大都映画の灯が消えるまでの15年間、この撮影所で映画の制作、配給が続けられた。戦前の日本映画界では制作本数最多を誇り、配給・興行の一貫体制を堅持し最も大衆に愛された映画会社であった。
ノーベル書房(株)協力による」
大正8(1919)年に天然色活動写真株式会社(天活)がここに撮影所を設けたのに始まり、国際活動映画(国活)、独立プロを経て昭和2(1927)年に河合、昭和8(1933)年から大都映画となり、昭和17(1942)年に戦時統合により大映に吸収され、巣鴨撮影所が閉鎖されるまで映画製作が続けられました。
(説明板)
「河合英が巣鴨撮影所(大都映画巣鴨撮影所前身)ー現在朝日中学校ー
大都映画
大正8年、天然色活動写真(天活)の仮設ステージから始まり、国際活動映画(国活)や河合商会による買収などを経て設立された大都映画は現在の朝日中学校がある所に巣鴨撮影所を持っていた。大都映画は昭和17年に大映に吸収されるまで、「貞操」、「街の爆弾児」、「宮本武蔵」などを制作した。
東京都豊島区『豊島区50年のあゆみ』より」
(説明板)
「大都映画巣鴨撮影所全図ー現在朝日中学校ー」
所員用の浴場「甲子湯(きねゆ)」や稲荷神社までありました。
(説明板)
「大都映画巣鴨撮影所(初期のもの)ー現在朝日中学校ー」
昭和2年に河合映画会社が設立され、昭和8年には大都映画(株)に発展した。昭和2年当時、廃屋同然だった旧国活会社の巣鴨撮影所を買収して以来、昭和17年に大都映画の灯が消えるまでの15年間、この撮影所で映画の制作、配給が続けられた。戦前の日本映画界では制作本数最多を誇り、配給・興行の一貫体制を堅持し最も大衆に愛された映画会社であった。
ノーベル書房(株)協力による」
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
tag : 巣鴨
妙行寺(お岩さん菩提寺)
〇妙行寺 豊島区西巣鴨4-8-28
長徳山妙行寺と号します。知泉院日善上人、本妙寺妙音院日慶上人により慶長9(1604)年に麹町の清水谷に創建、寛永元(1624)年に四谷の鮫河橋南町に移転、明治42(1909)年5月当地へ移転しました。
墓地には、四谷怪談のお岩さんの墓、浅野家遥泉院供養塔等があり、境内には、うなぎ供養塔、魚がし供養塔、浄行菩薩等があります。
「江戸切絵図」
妙行寺は2ヶ所に描かれています。一つは天王社(現:須賀神社)の隣ですが、こちらは現地に現存する寺です。紀伊家上屋敷(現:迎賓館)に接する「妙行寺」が移転前の寺と推察します。鮫河橋南町は、川柳「はな散る里は吉田町鮫ケ橋」と詠まれるなど、本所吉田町とともに夜鷹(こちらで記載)が住む巣窟でした。
「江戸名所図会 鮫が橋」
江戸名所図会に「鮫が橋」(本文では鮫河橋)が描かれています。
<お岩通り商店会>
「お岩通り商店会」中、「巣鴨五丁目交差点」から脇道に入り、さくらトラム「滝野川10号踏み切り」を渡ります。
「お岩通り商店会」の街路灯が、境内の中まで続いています。
<山門前>
(寺号標)
「明治四拾弐年四谷ヨリ移轉 お岩様之寺 長徳山 妙行寺」
「大正三年四月」
(標柱)
「史蹟
浅野内匠頭長直公夫人 高光院殿之墓
浅野内匠頭長矩公夫人 瑶泉院殿供養塔
浅野大學長廣公夫人 蓮光院殿之墓
浅野家歴世之墳墓數基」
昭和42(1967)年2月、義士会創立40周年に財団法人中央義士会により建立。
<山門内>
(寺号標)
「四谷怪談 お岩様の寺 妙行寺」
「昭和廿七年四月建之」
(道標)
妙行寺これより北へ2丁(218m)とあります。
中央「四谷怪談お岩様之寺」
左 「長徳山妙行寺これより北へ二丁」
右 「明治四十二年四谷鮫ケ橋より移轉」
(移転碑)
お岩の墓と浅野家の墓を明治42年に妙行寺跡から西巣鴨に移転したことを記した大正13年7月の碑です。
<参道>
参道に井戸があります。
<魚河岸供養塔>
昭和13(1938)年5月の建立です。
「何妙法蓮華経法界萬霊」「魚がし」
<浄行菩薩>
<子育地蔵尊>
<うなぎ供養塔>
昭和35(1960)年に「東京うなぎ蒲焼商組合」「東京淡水魚組合」が建てた「うなぎ供養塔」です。塔上の観音像は、高村光雲の原型を渡辺長男が鋳造しています。渡辺長男は、日本橋の麒麟などの作者で、万世橋駅の軍神広瀬中佐像などGHQによる撤去命令でかなり失われています。
(表)
「慈眼視衆生 福聚海無量 施主 東京うなぎ蒲焼商組合 東京淡水魚組合
うなぎ供養塔
法華宗管長 妙行寺十九世 大僧正日勢」
(裏)
「原型者 高村光雲先生 鑄造者 渡辺長男先生」
「昭和三十五年五月二十日建之 石治刻」
(参考)「身延別院」(日本橋小伝馬町)には、日本橋蒲焼商組合が建てた「鰻塚」があります(こちらで記載)。
<萬霊堂>
<日蓮上人像>
<霊佛縁起之碑>
<天水桶>
大正8年10月銘の川口鋳物師による天水桶です。
「武洲川口町 山崎寅蔵製」
<本堂>
本堂左手には、「お岩尊霊」をお祀りしています。
【墓地】
<赤鳥居>
墓地の中に赤鳥居があり、その先に案内板が設置されています。
(案内板)
「由緒
お岩様が、夫伊右衛門との折合い悪く病身となられて、その後亡くなったのが寛永十三年二月二十二日であり爾来、田宮家ではいろいろと「わざわい」が続き、菩提寺妙行寺四代目日遵上人の法華経の功徳により一切の因縁が取り除かれた。
この寺も当時四谷にあったが、明治四十二年に現在地に移転した。
お岩様に塔婆を捧げ、熱心に祈れば必ず願い事が成就すると多くの信者の語るところである。」
<浅野家の墓>
(左) 「浅野内匠頭長矩公夫人 瑶泉院殿供養塔」(瑤泉院240回忌の昭和28(1953)年に建立)
(中央)「浅野内匠頭長直公夫人 高光院殿之墓」
(右) 「浅野大学長廣公夫人 蓮光院殿之墓」
<百度石/石燈籠>
<お岩様の墓>
五重塔がお岩さんのお墓です。「得証院妙念日正大姉」とあります。
長徳山妙行寺と号します。知泉院日善上人、本妙寺妙音院日慶上人により慶長9(1604)年に麹町の清水谷に創建、寛永元(1624)年に四谷の鮫河橋南町に移転、明治42(1909)年5月当地へ移転しました。
墓地には、四谷怪談のお岩さんの墓、浅野家遥泉院供養塔等があり、境内には、うなぎ供養塔、魚がし供養塔、浄行菩薩等があります。
「江戸切絵図」
妙行寺は2ヶ所に描かれています。一つは天王社(現:須賀神社)の隣ですが、こちらは現地に現存する寺です。紀伊家上屋敷(現:迎賓館)に接する「妙行寺」が移転前の寺と推察します。鮫河橋南町は、川柳「はな散る里は吉田町鮫ケ橋」と詠まれるなど、本所吉田町とともに夜鷹(こちらで記載)が住む巣窟でした。
「江戸名所図会 鮫が橋」
江戸名所図会に「鮫が橋」(本文では鮫河橋)が描かれています。
<お岩通り商店会>
「お岩通り商店会」中、「巣鴨五丁目交差点」から脇道に入り、さくらトラム「滝野川10号踏み切り」を渡ります。
「お岩通り商店会」の街路灯が、境内の中まで続いています。
<山門前>
(寺号標)
「明治四拾弐年四谷ヨリ移轉 お岩様之寺 長徳山 妙行寺」
「大正三年四月」
(標柱)
「史蹟
浅野内匠頭長直公夫人 高光院殿之墓
浅野内匠頭長矩公夫人 瑶泉院殿供養塔
浅野大學長廣公夫人 蓮光院殿之墓
浅野家歴世之墳墓數基」
昭和42(1967)年2月、義士会創立40周年に財団法人中央義士会により建立。
<山門内>
(寺号標)
「四谷怪談 お岩様の寺 妙行寺」
「昭和廿七年四月建之」
(道標)
妙行寺これより北へ2丁(218m)とあります。
中央「四谷怪談お岩様之寺」
左 「長徳山妙行寺これより北へ二丁」
右 「明治四十二年四谷鮫ケ橋より移轉」
(移転碑)
お岩の墓と浅野家の墓を明治42年に妙行寺跡から西巣鴨に移転したことを記した大正13年7月の碑です。
<参道>
参道に井戸があります。
<魚河岸供養塔>
昭和13(1938)年5月の建立です。
「何妙法蓮華経法界萬霊」「魚がし」
<浄行菩薩>
<子育地蔵尊>
<うなぎ供養塔>
昭和35(1960)年に「東京うなぎ蒲焼商組合」「東京淡水魚組合」が建てた「うなぎ供養塔」です。塔上の観音像は、高村光雲の原型を渡辺長男が鋳造しています。渡辺長男は、日本橋の麒麟などの作者で、万世橋駅の軍神広瀬中佐像などGHQによる撤去命令でかなり失われています。
(表)
「慈眼視衆生 福聚海無量 施主 東京うなぎ蒲焼商組合 東京淡水魚組合
うなぎ供養塔
法華宗管長 妙行寺十九世 大僧正日勢」
(裏)
「原型者 高村光雲先生 鑄造者 渡辺長男先生」
「昭和三十五年五月二十日建之 石治刻」
(参考)「身延別院」(日本橋小伝馬町)には、日本橋蒲焼商組合が建てた「鰻塚」があります(こちらで記載)。
<萬霊堂>
<日蓮上人像>
<霊佛縁起之碑>
<天水桶>
大正8年10月銘の川口鋳物師による天水桶です。
「武洲川口町 山崎寅蔵製」
<本堂>
本堂左手には、「お岩尊霊」をお祀りしています。
【墓地】
<赤鳥居>
墓地の中に赤鳥居があり、その先に案内板が設置されています。
(案内板)
「由緒
お岩様が、夫伊右衛門との折合い悪く病身となられて、その後亡くなったのが寛永十三年二月二十二日であり爾来、田宮家ではいろいろと「わざわい」が続き、菩提寺妙行寺四代目日遵上人の法華経の功徳により一切の因縁が取り除かれた。
この寺も当時四谷にあったが、明治四十二年に現在地に移転した。
お岩様に塔婆を捧げ、熱心に祈れば必ず願い事が成就すると多くの信者の語るところである。」
<浅野家の墓>
(左) 「浅野内匠頭長矩公夫人 瑶泉院殿供養塔」(瑤泉院240回忌の昭和28(1953)年に建立)
(中央)「浅野内匠頭長直公夫人 高光院殿之墓」
(右) 「浅野大学長廣公夫人 蓮光院殿之墓」
<百度石/石燈籠>
<お岩様の墓>
五重塔がお岩さんのお墓です。「得証院妙念日正大姉」とあります。
盛雲寺(新門辰五郎の墓)
〇盛雲寺 豊島区西巣鴨4-8-40
三宝山歓喜院盛雲寺と号します。元和5(1620)年に下谷に開山、明治41(1908)年に下谷西蓮寺と合併し、同年西巣鴨(現在地)に移転しました。
「江戸切絵図」
広大な「広徳寺」の東に「西蓮寺」が描かれています。「西蓮寺」の西隣は「清雲寺」とあり「盛雲寺」でしょうか。「西蓮寺」の東に、下谷山崎町(新門辰五郎の生誕地)があります。
<すがも史跡まっぷ>
新門辰五郎の墓が紹介されています。
<地蔵二基>
門をくぐると右手に地蔵二基。
<階段をくぐる>
六地蔵と石燈籠の間を階段でくぐると墓地に出ます。
<新門辰五郎の墓>
墓地に出ると、すぐ右手に「新門辰五郎の墓」はあります。
中央に家紋と「先祖代々霊位」とあり、右下に「俗名 辰五郎 ぬい」とあります。後妻の「縫」と思われます。台座は横書きで「新門氏」とあります。
岩組みには石銘版がはめられています。「新門若者中」6人の名前と石工の名前が刻まれています。
(裏面)
元治元(1864)年に建立。新門辰五郎が徳川慶喜とともに上洛した時です。
「元治元年甲子五月建之」
「を組」と刻まれています。
「施主」
「大正元年九月拾九日下谷區稲荷町西蓮寺ヨリ移墓ノ際建之」とあります。下谷の西蓮寺が盛雲寺と明治41(1908)年に合併、西巣鴨へ移転後、大正元(1912)年に墓が移されています。
墓碑史蹟研究によると、施主のうち、浅草田島町の新門金太郎が町田家の当時の当主です。新門辰五郎の孫です。2代目(養子)は放蕩で評判が悪く先代と比べようがないと明治の文献にありました。
「中村屋」
中村は、新門辰五郎の生家です。
<百回忌の碑>
百回忌の碑が昭和49(1974)年9月19日に建てられています。
「徳広院正誉真覚居士 新門辰五郎 壱百回忌記念」
「昭和四十九年九月十九日 後裔 杉林一郎 建之」
(故・杉林一郎氏は、新門株式会社のHPによると新門六代目とのことです。)
<庚申塔> 豊島区文化財
新門辰五郎墓の裏に、貞享4(1687)年銘の庚申塔があります。
正面中央「奉修庚申待祈願成就也」
三猿が刻まれています。
<観音菩薩>
「皇紀2600年記念 昭和15年建立」
〇新門辰五郎
寛政12(1800)年(寛政4年や寛政9年の説あり)〜明治8(1875)年9月19日)
新門辰五郎は、煙管職人(飾職人とも)の中村金八の子として生まれました。江戸の町火消、浅草十番組「を組」の組頭であり、また輪王寺宮の衛士で輪王寺宮が隠棲した浅草寺伝法院の新門の警護をしていた町田仁右衛門の養子となります。町田仁右衛門の娘「錦」を妻とし、錦に先立たれ、後妻に「縫」を迎えています。
明治8(1875)年9月19日に浅草馬道の自宅で亡くなり、下谷の西蓮寺と善養寺とに分骨されました。なお、西蓮寺は盛雲寺に合併して豊島区西巣鴨に移転、善養寺も西巣鴨に移転しています。
娘のお芳は徳川慶喜の妾といわれていますが、明治時代の文献に「お芳」は見当たりません。
「珍らしい写真」(永見徳太郎編 粋古堂 昭和7年)に掲載の「新門辰五郎」の肖像です。
(参考)
「被官稲荷神社」(新門辰五郎が勧進)
「新門辰五郎碑」(円通寺 彰義隊の遺体を埋葬)
「力石・熊遊の碑」(浅草新奥山 新門辰五郎らが建碑)
「上野東照宮」 (手水舎を新門辰五郎が奉納)
「新門辰五郎の墓」(盛雲寺) 当頁
「町田家の墓」(善養寺 新門辰五郎を分骨)
〇新門飯店 北区滝野川3-44-5
新門辰五郎のご子孫が営んでおられる中華料理店「新門飯店」です。「滝野川八幡神社」に由来する滝野川八幡通りにあります。盛雲寺から徒歩750mです。
三宝山歓喜院盛雲寺と号します。元和5(1620)年に下谷に開山、明治41(1908)年に下谷西蓮寺と合併し、同年西巣鴨(現在地)に移転しました。
「江戸切絵図」
広大な「広徳寺」の東に「西蓮寺」が描かれています。「西蓮寺」の西隣は「清雲寺」とあり「盛雲寺」でしょうか。「西蓮寺」の東に、下谷山崎町(新門辰五郎の生誕地)があります。
<すがも史跡まっぷ>
新門辰五郎の墓が紹介されています。
<地蔵二基>
門をくぐると右手に地蔵二基。
<階段をくぐる>
六地蔵と石燈籠の間を階段でくぐると墓地に出ます。
<新門辰五郎の墓>
墓地に出ると、すぐ右手に「新門辰五郎の墓」はあります。
中央に家紋と「先祖代々霊位」とあり、右下に「俗名 辰五郎 ぬい」とあります。後妻の「縫」と思われます。台座は横書きで「新門氏」とあります。
岩組みには石銘版がはめられています。「新門若者中」6人の名前と石工の名前が刻まれています。
(裏面)
元治元(1864)年に建立。新門辰五郎が徳川慶喜とともに上洛した時です。
「元治元年甲子五月建之」
「を組」と刻まれています。
「施主」
「大正元年九月拾九日下谷區稲荷町西蓮寺ヨリ移墓ノ際建之」とあります。下谷の西蓮寺が盛雲寺と明治41(1908)年に合併、西巣鴨へ移転後、大正元(1912)年に墓が移されています。
墓碑史蹟研究によると、施主のうち、浅草田島町の新門金太郎が町田家の当時の当主です。新門辰五郎の孫です。2代目(養子)は放蕩で評判が悪く先代と比べようがないと明治の文献にありました。
「中村屋」
中村は、新門辰五郎の生家です。
<百回忌の碑>
百回忌の碑が昭和49(1974)年9月19日に建てられています。
「徳広院正誉真覚居士 新門辰五郎 壱百回忌記念」
「昭和四十九年九月十九日 後裔 杉林一郎 建之」
(故・杉林一郎氏は、新門株式会社のHPによると新門六代目とのことです。)
<庚申塔> 豊島区文化財
新門辰五郎墓の裏に、貞享4(1687)年銘の庚申塔があります。
正面中央「奉修庚申待祈願成就也」
三猿が刻まれています。
<観音菩薩>
「皇紀2600年記念 昭和15年建立」
〇新門辰五郎
寛政12(1800)年(寛政4年や寛政9年の説あり)〜明治8(1875)年9月19日)
新門辰五郎は、煙管職人(飾職人とも)の中村金八の子として生まれました。江戸の町火消、浅草十番組「を組」の組頭であり、また輪王寺宮の衛士で輪王寺宮が隠棲した浅草寺伝法院の新門の警護をしていた町田仁右衛門の養子となります。町田仁右衛門の娘「錦」を妻とし、錦に先立たれ、後妻に「縫」を迎えています。
明治8(1875)年9月19日に浅草馬道の自宅で亡くなり、下谷の西蓮寺と善養寺とに分骨されました。なお、西蓮寺は盛雲寺に合併して豊島区西巣鴨に移転、善養寺も西巣鴨に移転しています。
娘のお芳は徳川慶喜の妾といわれていますが、明治時代の文献に「お芳」は見当たりません。
「珍らしい写真」(永見徳太郎編 粋古堂 昭和7年)に掲載の「新門辰五郎」の肖像です。
(参考)
「被官稲荷神社」(新門辰五郎が勧進)
「新門辰五郎碑」(円通寺 彰義隊の遺体を埋葬)
「力石・熊遊の碑」(浅草新奥山 新門辰五郎らが建碑)
「上野東照宮」 (手水舎を新門辰五郎が奉納)
「新門辰五郎の墓」(盛雲寺) 当頁
「町田家の墓」(善養寺 新門辰五郎を分骨)
〇新門飯店 北区滝野川3-44-5
新門辰五郎のご子孫が営んでおられる中華料理店「新門飯店」です。「滝野川八幡神社」に由来する滝野川八幡通りにあります。盛雲寺から徒歩750mです。
天祖神社
○天祖神社 豊島区南大塚3-49-1 HP
鎌倉時代末期の元亨年間(1321~1324)に、領主の豊島景村が、巣鴨村の鎮守として伊勢神宮の分霊を勧請したのが神明宮の始まりと言われています。
江戸時代には、十羅刹女と鬼子母神を祀る巣鴨村総鎮守として崇敬を集め、「十羅刹社」と呼ばれていました。明治の神仏分離により十羅刹女神を分離(現在東福寺に安置)、天祖神社と改称し「巣鴨天祖神社」と呼ばれました。
住居表示によって巣鴨の地であった大塚駅周辺は北大塚・南大塚となり、現在は「大塚天祖神社」と呼ばれることが多くなりました。
境内には、樹齢500年を超える夫婦銀杏や子育狛犬があります。
「江戸名所図会 十羅刹女堂」
神明社(現在の天祖神社)が十羅刹女堂として描かれています。 右にあるのは別当の福蔵寺です。 大根の収穫が細かく描かれています。
大根畑で大根を抜いている人と、収穫した大根を天秤担いで運んでいる人が見えます。
大根を洗っている人と、キセル煙草を吸って休憩している人が見えます。
馬に大根を載せて運んでいる人が見えます。
<十羅刹女堂>
十羅刹女堂は、江戸時代には神明社(現・天祖神社)にありましたが、明治維新の神仏分離令により隣接する福蔵寺へと移され、福蔵寺が明治7(1874)年の火災で焼失したため、東福寺の管理となりました。福蔵寺の旧地に置かれていましたが、昭和30(1955)年に東福寺境内に移動、安置されました。(こちらで記載)
<すがも史跡まっぷ(抜粋)>
天祖神社周辺部分の抜粋です。巣鴨村に大塚駅が設けられ、巣鴨の中心地だった巣鴨本村は、現在は、大塚駅をはさんで豊島区北大塚、南大塚となっています。
<社号標>
大塚駅前にある「社号標」です。
(正面) 「天祖神社」
(左側面)「鈴木貫太郎謹書」
(右側面)「昭和九年十一月吉日」
(裏面) 「大塚仲見世聯合會」
社号標の先、サンモール大塚商店街入口の鳥居をくぐった先の右手に天祖神社はあります。
<電柱>
天祖神社の周囲は、「天祖」名の電柱です。
<社号標/鳥居>
<狛犬>
鳥居の右横に子育て狛犬。お乳を与えています。
<御神木(夫婦銀杏>
<手水舎>
吐水狛犬です。千住氷川神社(こちらで記載)以来、久しぶりに吐水狛犬を見ました。
古い手水鉢もありました。
<天祖神社御由緒>
(碑文)
「天祖神社御由緒
御祭神(略)
御由緒
天祖神社は今からおよそ六百数十年前 即ち元亨年間 当時武蔵国豊島郡の領主であり 豊島氏中興の祖といわれた景村のとき 巣鴨鎮護の神として祀られた と伝えられている。
江戸時代 鬼子母神の信仰が旺んになり一時十羅刹女神を併せ祀ったこともあるが 明治になって分離された 当神社は神明宮ともまた神明社ともいわれていたが 明治五年 ご祭神の伊勢の皇大神宮が天津御祖の大神であるところから 天祖神社と改稱され今日に至っている 当社の例大祭は九月十七日であって この日は旧暦の神嘗祭(伊勢の三大祭の一つ)にあたり祭儀が古くから巌修され 毎月七日 十七日 二十七日は通稱縁日として昔から門前市をなす賑いを呈している
天明年間改築された旧社殿は昭和のご大典記念事業として昭和八年に造営され壮麗を極めたものである その後第二次大戦も終りに近い昭和二十年四月の大空襲によってその一切が烏有に帰した
その際境内にあった樹齢五百年を数えるご神木夫婦銀杏も戦火を被り 近年ようやく芽吹いて繁茂するようになったものである
昭和二十五年復興奉賛会が結成され同年ひとまず拝殿が造営された その後区画整理がはじまり造営は一時中断され 境内も三分の一に縮小されることとなった 三十八年にいたって区画整理が完了をみたので氏子 崇敬者の協賛を得て造営工事に着手することとなり 昭和三十九年八月 改めて復興奉賛会を結成して翌四十年八月起工し ご本殿の造営 幣拝殿の修復 社務所並びに参集所の建設及び一連の附属設備工事を完了し 昭和四十三年九月 明治維新百年の意義ある年にあたり 造営竣工奉祝臨時大祭を執り行いここにようやく境内輪奥の美をみるに至ったものである。
昭和四十三年九月十七日 小林壮平謹書」
<さざれ石> 岐阜県天然記念物
ここにある「さざれ石」は、岐阜県春日村で見つかった50トンものさざれ石(岐阜県天然記念物:昭和52年11月)の一部です。
昭和55(1980)年にサンシャインシティに寄贈された1tの「さざれ石」から、天祖神社に分割奉納されました。
旧春日村が各方面に贈った「さざれ石」と、発見者の遺族が神社に奉納したざざれ石とがあり、全国にちらばっています。
(参考)これまで見た岐阜県の「さざれ石」
「神田明神」「日枝神社」「乃木神社」「幸龍寺」「玉前神社」
<拝殿/本殿>
天祖神社御鎮座700年を記念して、令和5(2023)年2月より、本殿・拝殿の屋根替工事が行われています(令和6(2024)年夏竣工予定)。
<御大典紀年碑/社殿再建碑>
【社殿左手の末社】
「菅原神社」「熊野神社」「厳島神社」の合殿です。
「富士神社」
令和5(2023)年に、御鎮座700年を記念して富士塚と富士神社が建立されました。
【社殿右手の末社】
「金明社」(左)と「稲荷社」(右)の合殿です。
「榛名神社」(左)と「三峯神社」(右)の合殿です。
三峯社の神使は日本狼とされる新しい狛犬がいます。
(参考)「包丁切りそば みとう庵」参拝後、こちらで蕎麦を食べました(こちらで記載)。
○空蝉橋(うつせみはし) 豊島区北大塚2丁目・3丁目〜東池袋2丁目・南大塚3丁目
貨物線の拡張工事に伴い大正初期に移転した出世稲荷神社(現在地:北大塚3-5)に赤松の木がありました。明治天皇がこの地を訪れた際、赤松の木に「せみ」の抜け殻がたくさんあったことをご覧になり、「空蝉の松」と名づけられ、その名前から「空蝉橋」と名づけられたといいます。
「空蝉の松」は工事のため伐採され、現在はありません。(豊島区及び大塚北口商栄会のHPを参照しました。)
鎌倉時代末期の元亨年間(1321~1324)に、領主の豊島景村が、巣鴨村の鎮守として伊勢神宮の分霊を勧請したのが神明宮の始まりと言われています。
江戸時代には、十羅刹女と鬼子母神を祀る巣鴨村総鎮守として崇敬を集め、「十羅刹社」と呼ばれていました。明治の神仏分離により十羅刹女神を分離(現在東福寺に安置)、天祖神社と改称し「巣鴨天祖神社」と呼ばれました。
住居表示によって巣鴨の地であった大塚駅周辺は北大塚・南大塚となり、現在は「大塚天祖神社」と呼ばれることが多くなりました。
境内には、樹齢500年を超える夫婦銀杏や子育狛犬があります。
「江戸名所図会 十羅刹女堂」
神明社(現在の天祖神社)が十羅刹女堂として描かれています。 右にあるのは別当の福蔵寺です。 大根の収穫が細かく描かれています。
大根畑で大根を抜いている人と、収穫した大根を天秤担いで運んでいる人が見えます。
大根を洗っている人と、キセル煙草を吸って休憩している人が見えます。
馬に大根を載せて運んでいる人が見えます。
<十羅刹女堂>
十羅刹女堂は、江戸時代には神明社(現・天祖神社)にありましたが、明治維新の神仏分離令により隣接する福蔵寺へと移され、福蔵寺が明治7(1874)年の火災で焼失したため、東福寺の管理となりました。福蔵寺の旧地に置かれていましたが、昭和30(1955)年に東福寺境内に移動、安置されました。(こちらで記載)
<すがも史跡まっぷ(抜粋)>
天祖神社周辺部分の抜粋です。巣鴨村に大塚駅が設けられ、巣鴨の中心地だった巣鴨本村は、現在は、大塚駅をはさんで豊島区北大塚、南大塚となっています。
<社号標>
大塚駅前にある「社号標」です。
(正面) 「天祖神社」
(左側面)「鈴木貫太郎謹書」
(右側面)「昭和九年十一月吉日」
(裏面) 「大塚仲見世聯合會」
社号標の先、サンモール大塚商店街入口の鳥居をくぐった先の右手に天祖神社はあります。
<電柱>
天祖神社の周囲は、「天祖」名の電柱です。
<社号標/鳥居>
<狛犬>
鳥居の右横に子育て狛犬。お乳を与えています。
<御神木(夫婦銀杏>
<手水舎>
吐水狛犬です。千住氷川神社(こちらで記載)以来、久しぶりに吐水狛犬を見ました。
古い手水鉢もありました。
<天祖神社御由緒>
(碑文)
「天祖神社御由緒
御祭神(略)
御由緒
天祖神社は今からおよそ六百数十年前 即ち元亨年間 当時武蔵国豊島郡の領主であり 豊島氏中興の祖といわれた景村のとき 巣鴨鎮護の神として祀られた と伝えられている。
江戸時代 鬼子母神の信仰が旺んになり一時十羅刹女神を併せ祀ったこともあるが 明治になって分離された 当神社は神明宮ともまた神明社ともいわれていたが 明治五年 ご祭神の伊勢の皇大神宮が天津御祖の大神であるところから 天祖神社と改稱され今日に至っている 当社の例大祭は九月十七日であって この日は旧暦の神嘗祭(伊勢の三大祭の一つ)にあたり祭儀が古くから巌修され 毎月七日 十七日 二十七日は通稱縁日として昔から門前市をなす賑いを呈している
天明年間改築された旧社殿は昭和のご大典記念事業として昭和八年に造営され壮麗を極めたものである その後第二次大戦も終りに近い昭和二十年四月の大空襲によってその一切が烏有に帰した
その際境内にあった樹齢五百年を数えるご神木夫婦銀杏も戦火を被り 近年ようやく芽吹いて繁茂するようになったものである
昭和二十五年復興奉賛会が結成され同年ひとまず拝殿が造営された その後区画整理がはじまり造営は一時中断され 境内も三分の一に縮小されることとなった 三十八年にいたって区画整理が完了をみたので氏子 崇敬者の協賛を得て造営工事に着手することとなり 昭和三十九年八月 改めて復興奉賛会を結成して翌四十年八月起工し ご本殿の造営 幣拝殿の修復 社務所並びに参集所の建設及び一連の附属設備工事を完了し 昭和四十三年九月 明治維新百年の意義ある年にあたり 造営竣工奉祝臨時大祭を執り行いここにようやく境内輪奥の美をみるに至ったものである。
昭和四十三年九月十七日 小林壮平謹書」
<さざれ石> 岐阜県天然記念物
ここにある「さざれ石」は、岐阜県春日村で見つかった50トンものさざれ石(岐阜県天然記念物:昭和52年11月)の一部です。
昭和55(1980)年にサンシャインシティに寄贈された1tの「さざれ石」から、天祖神社に分割奉納されました。
旧春日村が各方面に贈った「さざれ石」と、発見者の遺族が神社に奉納したざざれ石とがあり、全国にちらばっています。
(参考)これまで見た岐阜県の「さざれ石」
「神田明神」「日枝神社」「乃木神社」「幸龍寺」「玉前神社」
<拝殿/本殿>
天祖神社御鎮座700年を記念して、令和5(2023)年2月より、本殿・拝殿の屋根替工事が行われています(令和6(2024)年夏竣工予定)。
<御大典紀年碑/社殿再建碑>
【社殿左手の末社】
「菅原神社」「熊野神社」「厳島神社」の合殿です。
「富士神社」
令和5(2023)年に、御鎮座700年を記念して富士塚と富士神社が建立されました。
【社殿右手の末社】
「金明社」(左)と「稲荷社」(右)の合殿です。
「榛名神社」(左)と「三峯神社」(右)の合殿です。
三峯社の神使は日本狼とされる新しい狛犬がいます。
(参考)「包丁切りそば みとう庵」参拝後、こちらで蕎麦を食べました(こちらで記載)。
○空蝉橋(うつせみはし) 豊島区北大塚2丁目・3丁目〜東池袋2丁目・南大塚3丁目
貨物線の拡張工事に伴い大正初期に移転した出世稲荷神社(現在地:北大塚3-5)に赤松の木がありました。明治天皇がこの地を訪れた際、赤松の木に「せみ」の抜け殻がたくさんあったことをご覧になり、「空蝉の松」と名づけられ、その名前から「空蝉橋」と名づけられたといいます。
「空蝉の松」は工事のため伐採され、現在はありません。(豊島区及び大塚北口商栄会のHPを参照しました。)
東福寺
○東福寺 豊島区南大塚1-26-10
<すがも史跡まっぷ(抜粋)>
東福寺周辺部分の抜粋です。巣鴨村に大塚駅が設けられ、巣鴨の中心地だった巣鴨本村は、現在は、大塚駅をはさんで豊島区北大塚、南大塚となっています。
<江戸切絵図>
「東福寺」とその周辺です。「大塚波切不動ヨリ巣鴨庚申塚ヘ行道へ出ル」の記載があります。
巣鴨庚申塚には「大塚波切不動道」と記されています。
<大塚三業通り>
大塚三業通りに「東福寺 日本文化会館」の大きな案内板があります。
電柱名にも「三業」の名前が残っています。
東福寺の石段上の山門から三業通り方向を見たところです。
【石段両脇】
石段の両脇に石碑が並んでいます。
<札所碑>
(正面)
「第六十四番
御府内八十八ヶ所 弘法大師霊場
東福寺」
(現在、御府内64番は台東区谷中の「加納院」となっています。)
(左側面)
「三十三番 真性寺
明治三十五年三月吉日」
(右側面)
「右 八十七番 護国寺」
<庚申塔道標>
(正面)
「(庚申/剥離)塔
右 大塚道
向 巣鴨監獄道
左 巣鴨庚申塚道」
「歩いて見ました東京の街」に掲載されている庚申塔道標の写真は損壊しておらず庚申塔の文字が読み取れます。東日本大震災で倒壊して損壊したのでしょうか?
「巣鴨監獄」の名称が道標に残っています。
「巣鴨庚申塚道」は、江戸切絵図では「大塚波切不動道」と記されています。
(左側面)
「東福寺道」
(右側面)
「明治三捨七年七月建之」
<疫牛供養塔>
明治中期から終戦まで、巣鴨には多くの牧場がありました。明治43(1910)年に牛乳搾取業組合巣鴨支部による建立です。
「明治四十三年七月十六日
疫牛供養塔
牛乳搾取業組合巣鴨支部志之」
<その他>
<山門脇の説明板>
山門脇に豊島区教育委員会の説明板があります。
(説明板)
「東福寺
真言宗豊山派に属し、観光山と号す。創建の年代は明らかでないが、永禄五年(一五六二)に良賢和尚が中興したと伝えられている。初め小石川大塚にあったが、元禄四年(一六九一)に当地へ移ってきた。本尊は十一面観世音菩薩であり、ほかに薬師如来がある。
山門前石段の左右には、道標の役割をも兼ねる明治三十七年庚申塔、明治四十三年の疫牛供養塔などがあり、境内には山門脇に十羅刹女神を祀る堂がある。これは江戸時代、現在の天祖神社の地に祀られ、巣鴨の総鎮守であった。しかし、明治の神仏分離令によって十羅刹女神は福蔵寺の所有となり、その後、福蔵寺が火災で焼失し東福寺に合併したので、東福寺のものとなった。これは昭和三十年まで天祖神社に隣接した場所に置かれていたが、同年東福寺の境内に移された。
墓地には守山藩(陸奥田村郡)の儒学者戸崎淡園の墓があり、甲冑帯刀した武士が床几に腰をおろした像を刻んだ遅塚九二八の碑もある。
昭和五十七年一月 東京都豊島区教育委員会」
【参道】
山門は閉じられているので、脇の参道から境内へ向かいます。途中、日本文化会館があります。
<二宮金次郎像など>
石段の右手に二宮金次郎像があります。
左手に何だかわからない石造物があります。
他寄付石碑など。
<弘法大師修行像>
<奉献石燈籠>
大塚(巣鴨本村)に地主として住んでいた山口家による令和3(2021)年に寄進された奉献石燈籠です。
最樹院殿は、一橋徳川家第二代当主の徳川治済です。八代将軍徳川吉宗の孫で、十一代将軍徳川家斉の実父に当たります。
「奉献石燈籠両座
武州東叡山
最樹院殿 尊前
文政十丁亥年二月廿日
濱松侍従水野越前守源忠邦」
(説明板)
「この灯籠は最樹院(一橋徳川家二代治済公)の為に、文政十年(一八二七)、浜松藩主水野忠邦が献上した灯籠である。
(途中略)
令和三年吉日 山口家」
寛永寺は、戦後、寛永寺再建寄付の返礼などで、奉献石燈籠を寺院や個人に払い下げているので、山口家は寛永寺の再建にも協力したのでしょうね。当寺では、十羅刹女奉安殿を建立しています。
浜松藩主水野忠邦は、石燈籠を二基奉献しており、もう一基が延命寺(足立区竹の塚)にあります(こちらで記載) 。
<本堂>
<宝篋印塔>
<百度石道>
百度石は多く見ましたが、百度石道は初見です。参道の敷石でしょうか。
<しあわせ地蔵尊>
平成3(1991)年4月の建立です。
<十羅刹女堂>
十羅刹女堂は、江戸時代には神明社(現・大塚天祖神社)にありましたが、明治維新の神仏分離令により隣接する福蔵寺へと移され、福蔵寺が明治7(1874)年の火災で焼失したため、東福寺の管理となりました。福蔵寺の旧地に置かれていましたが、昭和30(1955)年に東福寺境内に移動、安置されました。
(発願文)
鬼子母神と十羅刹女神を祀る十羅刹女奉安殿は、発願主山口萬一、貴美子により昭和42(1967)年に建立されています。
山口氏は、大塚(巣鴨本村)の地主の山口家の十二代目当主で、十四代目が奉献石燈籠を寄進しています。
<石柱「旧鎮守十羅刹女神」>
文化2(1805)年の建立。
(正面) 「舊 鎮守十羅刹女神」
(左側面)「文化二乙丑年秋九月/八歳金太書」
(右側面)「別当瑠璃山福蔵寺」
<如意輪観音像>
左右に信女の文字があり、墓石のようです。
<鬼子母神と十羅刹女神>
「江戸名所図会 十羅刹女堂」
神明社(現在の大塚天祖神社)が十羅刹女堂として描かれています。右にあるのは別当の福蔵寺です。大根の収穫が細かく描かれています。
大根畑で大根を抜いている人と、収穫した大根を天秤担いで運んでいる人が見えます。
大根を洗っている人と、キセル煙草を吸って休憩している人が見えます。
馬に大根を載せて運んでいる人が見えます。
【墓地】
<馬頭観音>
馬頭観音供養塔が二基あります。右、万治元(1860)年と、左、大正6(1917)年銘です。
「馬頭観世菩薩」
「万延元庚申年」
「七月十四日」
「馬頭観世音」
「大正六年四月建之」
真っ二つに折れた修復跡があります。
<笠付角柱型庚申塔>
寛文11(1671)年銘の庚申塔です。
正面中央「如我昔所願今者已満足 右庚申供養二世安樂也」
正面右「寛文十一年辛亥二月中旬」
<廻国六十六部供養塔>
六地蔵と、正徳5(1715)年8月銘の廻国六十六部供養塔です。
<念仏供養塔>
寛保2(1742)年7月銘、寛政10(1798)年8月再建。
<すがも史跡まっぷ(抜粋)>
東福寺周辺部分の抜粋です。巣鴨村に大塚駅が設けられ、巣鴨の中心地だった巣鴨本村は、現在は、大塚駅をはさんで豊島区北大塚、南大塚となっています。
<江戸切絵図>
「東福寺」とその周辺です。「大塚波切不動ヨリ巣鴨庚申塚ヘ行道へ出ル」の記載があります。
巣鴨庚申塚には「大塚波切不動道」と記されています。
<大塚三業通り>
大塚三業通りに「東福寺 日本文化会館」の大きな案内板があります。
電柱名にも「三業」の名前が残っています。
東福寺の石段上の山門から三業通り方向を見たところです。
【石段両脇】
石段の両脇に石碑が並んでいます。
<札所碑>
(正面)
「第六十四番
御府内八十八ヶ所 弘法大師霊場
東福寺」
(現在、御府内64番は台東区谷中の「加納院」となっています。)
(左側面)
「三十三番 真性寺
明治三十五年三月吉日」
(右側面)
「右 八十七番 護国寺」
<庚申塔道標>
(正面)
「(庚申/剥離)塔
右 大塚道
向 巣鴨監獄道
左 巣鴨庚申塚道」
「歩いて見ました東京の街」に掲載されている庚申塔道標の写真は損壊しておらず庚申塔の文字が読み取れます。東日本大震災で倒壊して損壊したのでしょうか?
「巣鴨監獄」の名称が道標に残っています。
「巣鴨庚申塚道」は、江戸切絵図では「大塚波切不動道」と記されています。
(左側面)
「東福寺道」
(右側面)
「明治三捨七年七月建之」
<疫牛供養塔>
明治中期から終戦まで、巣鴨には多くの牧場がありました。明治43(1910)年に牛乳搾取業組合巣鴨支部による建立です。
「明治四十三年七月十六日
疫牛供養塔
牛乳搾取業組合巣鴨支部志之」
<その他>
<山門脇の説明板>
山門脇に豊島区教育委員会の説明板があります。
(説明板)
「東福寺
真言宗豊山派に属し、観光山と号す。創建の年代は明らかでないが、永禄五年(一五六二)に良賢和尚が中興したと伝えられている。初め小石川大塚にあったが、元禄四年(一六九一)に当地へ移ってきた。本尊は十一面観世音菩薩であり、ほかに薬師如来がある。
山門前石段の左右には、道標の役割をも兼ねる明治三十七年庚申塔、明治四十三年の疫牛供養塔などがあり、境内には山門脇に十羅刹女神を祀る堂がある。これは江戸時代、現在の天祖神社の地に祀られ、巣鴨の総鎮守であった。しかし、明治の神仏分離令によって十羅刹女神は福蔵寺の所有となり、その後、福蔵寺が火災で焼失し東福寺に合併したので、東福寺のものとなった。これは昭和三十年まで天祖神社に隣接した場所に置かれていたが、同年東福寺の境内に移された。
墓地には守山藩(陸奥田村郡)の儒学者戸崎淡園の墓があり、甲冑帯刀した武士が床几に腰をおろした像を刻んだ遅塚九二八の碑もある。
昭和五十七年一月 東京都豊島区教育委員会」
【参道】
山門は閉じられているので、脇の参道から境内へ向かいます。途中、日本文化会館があります。
<二宮金次郎像など>
石段の右手に二宮金次郎像があります。
左手に何だかわからない石造物があります。
他寄付石碑など。
<弘法大師修行像>
<奉献石燈籠>
大塚(巣鴨本村)に地主として住んでいた山口家による令和3(2021)年に寄進された奉献石燈籠です。
最樹院殿は、一橋徳川家第二代当主の徳川治済です。八代将軍徳川吉宗の孫で、十一代将軍徳川家斉の実父に当たります。
「奉献石燈籠両座
武州東叡山
最樹院殿 尊前
文政十丁亥年二月廿日
濱松侍従水野越前守源忠邦」
(説明板)
「この灯籠は最樹院(一橋徳川家二代治済公)の為に、文政十年(一八二七)、浜松藩主水野忠邦が献上した灯籠である。
(途中略)
令和三年吉日 山口家」
寛永寺は、戦後、寛永寺再建寄付の返礼などで、奉献石燈籠を寺院や個人に払い下げているので、山口家は寛永寺の再建にも協力したのでしょうね。当寺では、十羅刹女奉安殿を建立しています。
浜松藩主水野忠邦は、石燈籠を二基奉献しており、もう一基が延命寺(足立区竹の塚)にあります(こちらで記載) 。
<本堂>
<宝篋印塔>
<百度石道>
百度石は多く見ましたが、百度石道は初見です。参道の敷石でしょうか。
<しあわせ地蔵尊>
平成3(1991)年4月の建立です。
<十羅刹女堂>
十羅刹女堂は、江戸時代には神明社(現・大塚天祖神社)にありましたが、明治維新の神仏分離令により隣接する福蔵寺へと移され、福蔵寺が明治7(1874)年の火災で焼失したため、東福寺の管理となりました。福蔵寺の旧地に置かれていましたが、昭和30(1955)年に東福寺境内に移動、安置されました。
(発願文)
鬼子母神と十羅刹女神を祀る十羅刹女奉安殿は、発願主山口萬一、貴美子により昭和42(1967)年に建立されています。
山口氏は、大塚(巣鴨本村)の地主の山口家の十二代目当主で、十四代目が奉献石燈籠を寄進しています。
<石柱「旧鎮守十羅刹女神」>
文化2(1805)年の建立。
(正面) 「舊 鎮守十羅刹女神」
(左側面)「文化二乙丑年秋九月/八歳金太書」
(右側面)「別当瑠璃山福蔵寺」
<如意輪観音像>
左右に信女の文字があり、墓石のようです。
<鬼子母神と十羅刹女神>
「江戸名所図会 十羅刹女堂」
神明社(現在の大塚天祖神社)が十羅刹女堂として描かれています。右にあるのは別当の福蔵寺です。大根の収穫が細かく描かれています。
大根畑で大根を抜いている人と、収穫した大根を天秤担いで運んでいる人が見えます。
大根を洗っている人と、キセル煙草を吸って休憩している人が見えます。
馬に大根を載せて運んでいる人が見えます。
【墓地】
<馬頭観音>
馬頭観音供養塔が二基あります。右、万治元(1860)年と、左、大正6(1917)年銘です。
「馬頭観世菩薩」
「万延元庚申年」
「七月十四日」
「馬頭観世音」
「大正六年四月建之」
真っ二つに折れた修復跡があります。
<笠付角柱型庚申塔>
寛文11(1671)年銘の庚申塔です。
正面中央「如我昔所願今者已満足 右庚申供養二世安樂也」
正面右「寛文十一年辛亥二月中旬」
<廻国六十六部供養塔>
六地蔵と、正徳5(1715)年8月銘の廻国六十六部供養塔です。
<念仏供養塔>
寛保2(1742)年7月銘、寛政10(1798)年8月再建。
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