覇権主義政治家・橋下氏を「戦国武将型民主主義」政治家に喩える論理的倒錯と知的劣化の極み、朝日新聞紙面審議会員・湯浅氏の愚論・俗論を読んで、大阪都構想住民投票の意義と課題について(8)、橋下維新の策略と手法を考える(その36)

 2015年6月9日の朝日新聞、湯浅誠氏の「わたしの紙面批評」を読んでたまげた。住民投票で大阪維新の会提案の大阪都構想が否決されたことを受けて書かれた5月19日社説「橋下氏引退へ 議論なき独走の果て」及び天声人語「橋下氏の民主主義とは」に対して、およそ紙面批評と言うには程遠い愚論が堂々と掲載されていたからである。紙面審議会委員という大げさな肩書きなのだから、それなりにふさわしい見識が披露されるものとばかり思っていたら、そこに展開されていた紙面批評は愚にもつかない俗論そのものだった。朝日新聞関係者は(彼を紙面委員に登用したことを含めて)さぞかし恥ずかしい思いをしたに違いない。

 湯浅氏の言いたいことはいったいなにか。要するに都構想住民投票の結果は“僅差”で決まったのだから、橋下氏を一方的に批判するのではなく、橋下氏と彼を支持する人々の主張をもっと尊重した紙面をつくるべきだということだ。そしてそのために持ち出してきたのが、「戦国武将型民主主義」モデルという奇妙キテレツな言葉(ターム、概念)なのである。

彼の言う「戦国武将型民主主義」モデルとは、「選挙という合戦に勝利した武将が官軍となり、それに刃向う者は賊軍とみなす。合従連衡や呉越同舟は政治の常であり、すべてが民心を得て合戦に勝利する(選挙で多数を得る)ことにつながる」というもので、少しでも社会常識がある人ならこんなものを絶対に「民主主義」とは言わない。戦国武将の行動様式は武力と謀略(調略)で敵を征圧して支配下に置くことであり、これを「覇権主義」と言うが、橋下氏の政治手法は覇権主義そのものであり、専制支配が橋下政治の本質なのである。なのに、湯浅氏は覇権主義をなぜ「民主主義」モデルとみなすのか。

橋下氏の大阪府政・大阪市政の7年有余の実情を冷静に見れば、その政治手法は覇権主義・独裁主義以外の言葉で表現するのは困難というものだろう。教職員や子どもの思想信条の自由を踏みにじった国歌斉唱の強制、労働者の基本的権利を無視した団結権・交渉権の弾圧、高齢者福祉や行政サービスの一方的削減、議会制民主主義を否定する強圧的な議会運営などなど、橋下政治の覇権主義や専制性をあらわす事例は枚挙の暇もない。

だからこそ都構想は府市両議会で承認が得られずに否決され、それを謀略的手法で復活させた住民投票においても再度否決されたのである。これは大阪市民の間に根付いた知性と政治意識の輝かしい勝利であり、戦後民主主義の到達点とも言うべき歴史的快挙でなくしてなんであろうか。その「欧米型正統派民主主義」の流れを正当に評価せず(できず)、テレビなどマスメディアに見られるポピュリズム政治を煽る論調に奇妙キテレツな言葉を用いて同調するとは、かっての「社会活動家」も落ちぶれたものだと言わざるを得ない。

朝日新聞の半世紀にわたる(それ以上の)読者である私は、かくの如き倒錯した論理の紙面批評が恥しげもなく掲載されることに大きな衝撃を受けた。この紙面批評が果たしてどれだけ読者の支持を得られるのか、朝日新聞社は責任を持って紙上討論会を開催すべきだと思う。湯浅氏の「わたしの紙面批評」にたいする「読者の紙面批評」を対置し、彼を含む紙上討論を通じて新聞と言うマスメディアの権威を再び取り戻してほしいと思うのだ。それは湯浅氏ひとりの知的劣化を嘆くと言うよりは、紙面批評全体の知的劣化を防ぐためのミニマムの対応措置だと思うからだ。(つづく)