2015-01-01から1ヶ月間の記事一覧

スカイマークの経営破綻は神戸空港廃港につながる虞(おそれ)があるのではないか、「創造的復興3大プロジェクト=神戸空港・地下鉄海岸線・新長田駅南地区再開発事業」が直面する厳しい現実、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その23)

今年になってから書き始めた拙ブログの「阪神・淡路大震災20年シリーズ」の10回目(1月13日)で、私はこんなことを書いた。 ――阪神・淡路大震災に便乗して強行した『創造的復興3大プロジェクト=神戸空港・地下鉄海岸線・新長田駅南地区再開発事業』…

人口縮小時代の都市の持続的発展の原動力は住民の「市民性」と「市民力」にある、市民性は歴史の中で陶冶され、市民力は行政との(緊張ある)パートナーシップによって発揮される、神戸の市民性と市民力は果たして発展しているのだろうか、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その22)

阪神・淡路大震災20年を迎えてつくづく思うことは、神戸の命運を握っているのは結局のところ市民の存在だということだ。人口増加時代には、人口は労働力であり消費力だと見なされてきた。人口はもともと量的概念であり、経済成長率は労働力人口の増加とほ…

高度成長時代に神戸は「脱兎」の如く走り、京都は「亀」のような鈍間(のろま)な歩き方しかできなかった、しかし「ポスト成長」時代のいま、「亀(京都)」は何時の間にか「兎(神戸)」を追い抜いているのではないか、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その21)

昨年秋の行楽シーズンのことだ。京都からJR経由で神戸まで来た時、京都駅は乗降客でごった返していたのが大阪駅では混雑がやや減り(駅が大きくなった所為もある)、三ノ宮駅に着くと意外に閑散としていた。神戸駅まで行くと人影が疎らになり、そこからハ…

神戸型都市経営を転換できない根本原因は何か、それは市役所一家体制がいまだ崩壊していないからだ、阪神・淡路大震災と過去2回の神戸市長選がそのことを物語る、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その20)

「高度経済成長期(人口増加期)が遠くに去り、重化学工業の衰退と生活文化産業の低迷という神戸経済の構造変化にともない、これまで公共デベロッパーとして多大な成功を収めてきた神戸市政が都市経営戦略と都市経営システムの転換を求められている」という…

「最小の市民負担で、最大の福祉を追求する」ことを標榜した神戸型都市経営は高度成長時代の「あだ花」だった、神戸市政における開発利益中心の都市経営の根は深く、半世紀近くにわたって一致推進した「革新勢力」の共同責任は重い、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その19)

宮崎市政のもとで神戸市政の行政哲学・行政手法として定式化され、「最小の市民負担で最大の福祉を追求する」ことを標榜した神戸型都市経営論は、自民・公明はもとより社共両党も含めた「オール与党=市役所一家体制」によって推進された。具体的には、(1…

戦後70年、「ポスト成長時代」の神戸市政のあり方を考える、「冴えない神戸」から如何にして脱却するか、まずは市役所一家体制と「お抱え委員(学者)」の多い審議会の刷新が必要だ、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その18)

いろんな所を回り道したが、どうやら最初の出だしに戻ってきたようだ。拙ブログの「神戸シリーズ」は、もともと「冴えない神戸」をどうするかという問題意識からスタートしたのだから、やはりもう一度この原点に立ち戻って何らかの決着を付けなければならな…

阪神・淡路大震災20年のテレビ番組は力作が多かった、なかでも「新長田南再開発事業=巨艦商店街」の破綻を描いたルポ作品は圧巻だった、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その17)

例年は1月17日前後になると、申し訳程度に阪神・淡路大震災のテレビ番組が放映されるのが普通だ。しかし今年は違った。NHK、民放合わせて20本近い番組がつくられたのではないだろうか。一応全ての番組を録画しておいたが、余りにも多いのでまだ全部…

阪神・淡路大震災において真野地区はまちづくりの本領を発揮した、それは災害に果敢に立ち向かったこと、そして神戸市の「復興都市計画」(土地区画整理事業)を拒否したことだ、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その16)

阪神・淡路大震災における真野地区の奮闘は、広くマスメディアを通して伝えられている。多くの被災市街地では火災を前に住民が呆然と立ちすくんでいたのに対して、真野地区では勇敢にも住民が近隣工場の消防隊と協力して消火・救出活動にあたり、類焼を(奇…

真野地区まちづくりの歴史は長い、しかし全容を把握するには「マクロ視点」からの神戸市都市計画との関係性の分析が必要だ、私の著書を紹介してその一端に換える。阪神・淡路大震災20年を迎えて(その15)

真野地区のまちづくりはなにしろ半世紀にも及ぶのだから、その足跡をたどることは容易でない。まして拙ブログのような短文では、言えないことが余りにも多すぎる。そこで多少とも興味のある読者諸氏には(少ないとは思うが)、私が書いてきた幾つかの著書を…

真野地区のまちづくりは2015年11月で50年(半世紀)を迎える、阪神・淡路大震災20年を記念して開かれた真野地区のシンポジウムや感謝の集いは盛大かつ和やかだった、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その14)

2015年1月16日、17日の2日間、神戸市長田区の真野地区では震災20年の記念集会が開かれた。圧巻だったのは、全国から真野地区のまちづくりを支援する専門家やボランティアが数多く集まり、また300頁を超える記念誌が発行されたことだ。これだ…

阪神・淡路大震災が起きた日に私は何をしていたか、大学の仕事で釘付けになり1週間ほど動くに動けなかった、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その13)

20年前の今日、1月17日の未明、阪神淡路・大震災は起こった。自宅のある京都南部の伏見は比較的震源地に近く(淀川沿いに地震波がストレートに伝わってきた)、震度5近い激震に見舞われた。2階の書斎は本棚からは本が散乱して手がつけられない状態だ…

「ヒト」(被災者救済)よりも「ハコモノ」(インフラ整備)を優先する復興都市計画の悲劇、神戸新聞連載記事で明らかになった恐るべき「神戸市役所一家=市役所共同体」の体質(2)、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その12)

阪神・淡路大震災の発生後間もなく、大阪で開かれた土木学会の緊急シンポジウムに参加した時、主催者の冒頭発言に思わず慄然とした記憶がある。それは開催趣旨を説明するなかで主催者の口から飛び出した「今回の大震災の復興は難しい。それは市街地がまだら…

神戸市はなぜ震災発生から僅か2ヶ月で「復興都市計画=災害便乗型都市計画」の決定を強行したのか、神戸新聞連載記事で明らかになった恐るべき「神戸市役所一家=市役所共同体」の体質、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その11)

神戸空港・地下鉄海岸線・新長田駅南再開発の「創造的復興3大プロジェクト」の背景にあるのは、市役所一家の抜き差しのならない官僚主導・ハコモノ偏重の体質だ。そのことを象徴するのが、震災発生から僅か2ヶ月で強行決定された「復興都市計画」をめぐる…

「神戸市役所一家=市役所共同体」の得意技である「プロジェクト主義」と「イベント主義」では震災後の神戸を再生することが難しい、震災に便乗した「創造的復興3大プロジェクト」すなわち神戸空港建設・地下鉄海岸線建設・新長田駅南地区再開発事業は悉く失敗している、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その10)

ポスト成長時代すなわち成熟時代の都市には、神戸市役所一家の得意技である「プロジェクト主義」と「イベント主義」は有効に働かない。プロジェクト主義とは、公共デベロッパーとしての神戸市が国の補助金や起債を利用して大規模開発事業を企画し、その投資…

「神戸市役所一家体制=市役所共同体」が市民自治の形成を妨げている、戦後18回の神戸市長選の投票率は20%台から30%台に低迷してきた、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その9)

一般的に言って、大都市での首長選挙の投票率は高くない。有権者がマス集団であるうえに要求や関心が多様であり、しかも政治(行政)無関心層が大量に存在するからだ。しかしそのなかでも、神戸市長選の投票率の低さは際立っているのではないだろうか。戦後…

「神戸市役所一家体制=市役所共同体」の特性と機能、「神戸市政を市民の目線から考える連続シンポジウム」の広原報告から、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その8)

昨年6月から12月にかけて、阪神・淡路大震災以降、神戸市の震災復興計画を批判してきた市民グループによる「神戸市政を市民の目線から考える連続シンポジウム」(3回)が開かれた。私もシンポの企画に関わった1人として、第1回シンポ(2014年6月7日)…

神戸市の「(共産党を含む)オール与党体制=市役所一家体制」は如何にして形成されたか、宮崎市長の関西空港神戸沖建設反対声明(1973年)が「保革」を逆転させ、神戸市議会の神戸空港推進全会一致決議(1982年)が「保革」を溶解させた、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その7)

順風満帆だった宮崎市政に一大波乱が起こったのは、関西新空港の神戸沖建設問題への対処だった。神戸沖空港建設は神戸市政の悲願だったが、1970年代初頭は伊丹空港の騒音裁判を初め各地で公害反対運動が高揚しており、神戸市議会でも自民党(与党)を除…

ソフトでスマートな開発行政が宮崎市政で全開することになった、「輝ける神戸」が全盛時代を迎えて神戸は飛躍的に成長し、人口は順調に増え続けた、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その6)

1960年代後半は原口市政の末期に顕在化した公害など一連の都市問題にどう対処するかが神戸の最大の課題であったが、宮崎市政はこの難局を巧みに乗り切った。そして「輝ける神戸」は、70年代から80年代前半にかけて全盛期を迎えたのである。その変化…

住民とともに作り上げた『丸山レポート』(京都大学西山研究室編、1970年12月)が「まちづくり運動」の必然性を社会に認知させる契機になった、「まちづくり運動」は学会でも行政でも市民権を獲得した、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その5)

1967年夏に神戸市役所を訪れてから暫くして、私たちはいよいよ本格的に丸山地区のまちづくりに取り組むことになった。69年1月には予備作業として地区全体の骨格を考える「パイロットプラン」を作って住民の討議に付し、69年7月からは神戸市の委託…

『住みよい神戸を考える会』(神戸市、神戸新聞社、関学)の活動はダイナミックに展開された、丸山地区はその重点活動地域となり、「日本のまちづくり先進地区」との評価を受けた、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その4)

『住みよい神戸を考える会』(神戸市、神戸新聞社、関学)の活動方針は驚くほど広範にわたり、かつ意欲的なものだった。1965年に策定したばかりのマスタープランには全幅の信頼を置いていたが、同時に「公害」「住宅」「交通」「スラム」など神戸の影の…

神戸市、神戸新聞社、関西学院大学(社会学部)の3者で構成された『住みよい神戸を考える会』が宮崎市政の登場を用意した、丸山地区のまちづくりは「ポスト原口市政」の政策実験場となった、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その3)

これも後で知ったことだが、私たちが丸山地区のまちづくりに参加する以前から宮崎助役は周到な手を打っていた。それが1966年2月に発足した『住みよい神戸を考える会』(以下、『会』という)である。1966年2月と言えば、原口市政第5期目に当たる…

1960年代、原口市長の「輝ける都市・神戸」にも影(負)の部分があった、宮崎市政はその影に光を当てることからスタートした、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その2)

歴史は不思議なもので、いつでも相異なる2つの機会を用意してくれる。私たちが神戸市の企画調整局を訪ねたその日、前後してその部屋を訪れた(というよりは押しかけた)一群の集団があった。挨拶もなく突然激しい言葉のやりとりが始まり、やがてそれが詰問…

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阪神・淡路大震災20年が物語るもの、1960年代の「輝ける神戸」と21世紀の「冴えない神戸」を比較して、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その1) 2015年の新年を迎えた。昨年1年間は、橋下大阪市長の「出直し選挙」に始まり、安倍首相の「アベ…