“究極の民主主義=民意”のハードルは高い、致命的だった橋下市長の誤算、 大阪出直し市長選をめぐって(その11)

 3月23日の投票日を目前にしながら、このところ大阪出直し市長選関係のまとまった報道がさっぱり見当たらない。東京の友人からも「大阪のニュースがない」との連絡があったが、これは関西でも基本的に同じことだ。マスメディアが「報道の価値なし」と判断して事態を静観しているのか、とにかく橋下氏の独り相撲では書きようがないのだろう。

だが自業自得だとはいえ、この事態は橋下維新にとっては危機的な状態だといえる。そもそも今回の出直し市長選は、前回市長選で75万票(得票率59%)の大量得票で当選した橋下市長が、議会が自分の言うことを聞かないからと言って勝手に打って出た選挙である。橋下市長の言い分は、議会を翻意(屈服)させるためには出直し市長選で圧倒的な市民の支持を受けるほかはない。これが“究極の民主主義=民意”だということだった。だとすれば、橋下候補は前回市長選の75万票を(はるかに)上回る得票をしなければ“究極の民主主義=民意”を得たことにはならない。

 75万票と言えば有権者214万人の35%に当たる。相手が泡沫候補(群)だとはいえ一定数は得票するだろうから、橋下候補の得票数が75万票を(はるかに)上回るためには少なくとも40%以上の投票率を確保しなければならないことになる。2005年出直し市長選の投票率は33.9%だから、これはかなり高いハードルだといわなければならないだろう。

 ところが前回ブログでも書いたように、維新市議団幹部は今回の出直し市長選の「信任ライン」を2005年出直し市長選での関市長の得票数28万票までに下げようとして宣伝を始めた。しかし75万票で得た市長の座をわざわざ放り出しての出直し市長選だから、その目標が前回得票数の僅か3分の1余りだというのでは筋が通らない。こんな筋違いの市長選を各紙が書く気にならないのは当然のことだ。

 思うに、橋下市長は出直し市長選を強行するにあたって致命的な誤りを犯したのではないか。橋下市長が周辺の反対を押し切って出馬したのは、自らの支持率が依然として50%そこそこの高レベルを維持していること、大阪都構想への賛否が拮抗しつつあるもののいまだ賛成が反対を上回っていること、マスメディアが対立候補を擁立しない主要政党に対して批判的であることなど、当初は「勝算我にあり」と思い込んでいたからだ。

 橋下氏の誤算は、これまでの世論調査の支持率がそのまま投票率に結びつく(はず)との彼自身の強い思い込みにあったと思う。たしかに、橋下維新に対する「フワッ」とした期待が2011年ダブル選で60%台と言う驚異的な投票率を叩き出したことは記憶に新しい。橋下氏はその成功体験が忘れられず、「夢よ、もう一度」とばかり出直し市長選に期待を懸けたのだろう。しかしそこにはもはや往時の勢いは影も形もなく、有権者のほとんどは投票所に足を運ぼうともせず橋下氏に背を向けている有様だ。

 橋下維新に対する「フワッ」とした府民・市民の期待は、当初は爆発的な勢いで首長選挙や議員選挙を揺さぶった。そこでは「高支持率=高投票率」という定式が成立しており、橋下維新は怒涛のような勢いで当局や議会を席巻したのである。ところが期待が「期待外れ」となり、幻想が「幻滅」に転化し始めると支持率は次第に投票率にリンクしなくなった。「なんとなく支持=弱い支持」は世論調査では「支持」にカウントされるものの、それが必ずしも現実の投票行動に結びつくとは限らなくなったのだ。

 今度の出直し市長選は、実は橋下維新に対する幻想が幻滅へ移行する境界線上の選挙だったのではないか―と私は考えている。「なんとなく支持」が「なんとなく不支持」に変わり始めたちょうどそのとき、自業自得とは言え、橋下氏は自らの信任を問う出直し市長選を強行したのである。それはまた、「橋下流」といわれる彼一流の手法が破綻する時期にも相応していた。仮想敵をつくっては攻撃対象に祭り上げ、威勢のいい自作自演のパフォーマンスを繰り広げることで市民の拍車喝采を得る、こんなやり方がもはや限界に達していたときでもあった。橋下支持率が70%台をキープしていた当時と比べて支持率40〜50%台の現在は、それが20%程度下落したという単なる量的変化にとどまらず、「強い支持」から「弱い支持」への質的変化をともなっていたことを橋下氏は見落としていたのである。

 マスメディアは当初、出直し市長選に対立候補を擁立しない主要政党に対して「市民の選択肢を奪うもの」などと言って執拗になじったが、各党がその挑発に乗らず、大義のない選挙の「仮想敵」にならなかったことはきわめて賢明な選択だった。また各党内部では、候補を擁立しなければ選挙期間中に維新に「好き放題にやられる」との危機感が相当根強かったが、しかしこの見方は市民を基本的に信頼せず、有権者を宣伝対象としか見ない政党本位の狭い了見でしかなかった。実際、その後の推移を見れば、市民・有権者はそれ以上に賢明であり、「好き放題にやられる」ことなど決してないことが明らかになってきている。橋下劇場が結局何も生み出さないことは、すでに市民の間で広く知れ渡っているからである。