L・O・T・T・E! おおおお、ロッテ!
千葉ロッテマリーンズとは、日本のプロ野球パシフィック・リーグに加盟している球団である。現在の監督は吉井理人(2023年~)。
一軍の本拠地は千葉県千葉市美浜区の千葉マリンスタジアム(ネーミングライツにより2011年から2016年はQVCマリンフィールド、2017年からはZOZOマリンスタジアム)、二軍の本拠地は埼玉県さいたま市南区のロッテ浦和球場である。ファンからは主に千葉ロッテ、ロッテ、マリーンズなどと呼ばれている。
パシフィック・リーグ | |
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千葉ロッテマリーンズ | |
基本情報 | |
創設 | 1949年 |
本拠地 | ZOZOマリンスタジアム |
一般略称 | ロッテ |
アルファベット | M |
優勝回数 | |
リーグ優勝 | 5回 |
日本一 | 4回 |
セ・パ交流戦 | 2回 |
アジアチャンピオン | 1回 |
永久欠番 | |
経歴 | |
球団組織 | |
運営母体 | ロッテホールディングス |
オーナー | 重光武雄 |
球団社長 | 高坂俊介 |
プロ野球球団テンプレート |
1949年9月、毎日新聞を親会社とする毎日オリオンズとして結成される。東京を保護地域とし本拠地は後楽園球場だった(この時点でプロが使用出来る球場が都内には他になかった)。しかし、毎日新聞の球界参入に同業者の読売ジャイアンツ(読売新聞)と中日ドラゴンズ(中日新聞)が猛反発し、毎日の加盟に反対した球団がセントラル・リーグ、賛成した球団がパシフィック・リーグに分裂して2リーグ制となる球界再編騒動に繋がった。
初年度の1950年は、土壇場でパからセへ鞍替えした大阪タイガースの主力を大量に引き抜いたこともあって(監督の若林忠志以下、別当薫、土井垣武ら計6人)、2リーグ制での初代日本一になった。しかし翌年からは古豪南海ホークスの後塵を拝するようになり、1954年からは三原脩監督率いる西鉄ライオンズにまで遅れを取るようになった。
1957年、開幕前にパ・リーグが7球団となって対戦カードを組むにも苦慮したため(高橋ユニオンズが球団合併で消滅)、最下位を独走する大映ユニオンズを吸収合併して現在と同じ6球団制とすることとなった。毎日大映オリオンズ(大毎オリオンズ)の誕生である。存続会社は毎日球団とされたが、当時の毎日本社はすでにプロ野球への意欲を失っており、実質的なオーナーは大映球団の永田雅一が務める逆さ合併となった。
1960年に西本幸雄監督の下で10年ぶりの優勝を果たすものの、日本シリーズでは大洋ホエールズに敗れた。采配を巡って永田と対立した西本は解任された。毎日新聞社も球団経営には関わらないようになり、事実上永田の率いる球団となった。
1962年に南千住に永田の私財を投じて東京スタジアムを完成させ、後楽園球場からようやく移転した。内野には日本で初めて天然芝を敷き、水まきは自動。外野フェンスにはラバーを張り、バリアフリーの誘導路まであった。当時としては珍しい室内ブルペンを備え、ロッカーは一、三塁側に2つずつあり、選手食堂は「銀座の一流店のよう」と称されたという。下町の雰囲気漂う庶民的な球場でありながらも、設備は後楽園よりも整っていた。ただし外野のふくらみがなく、ホームラン量産球場とも呼ばれた。
1964年には「チーム名に東京を冠する唯一のチーム」であるとして東京オリオンズに改称した。ただ、このことに不快感を示した毎日新聞社は翌年には球団より資本を完全に引き上げた。
1969年のシーズンより、岸信介の仲介によりロッテをスポンサーに迎えてロッテオリオンズに改称した。経営権は引き続き永田が握った。
1970年に10年ぶりのリーグ優勝を果たした。観客は名物オーナーであった永田を真っ先の胴上げしたという。しかし大映本社の経営不振は深刻であり、翌年永田は球団を正式にロッテに譲渡した。オーナーには岸の秘書を務めた中村長芳が就任した。
1971年7月13日、西宮球場での対阪急戦で放棄試合を引き起こした。オーナーの中村の指示とされている。この責任を取る形で、10日後の3日に一軍監督の濃人渉が二軍監督に降格、代わって二軍監督の大沢啓二が一軍監督に昇格する人事が行われた。大沢監督の指揮でチームは上昇気流に乗り、3位に大差をつける2位でシーズンを終えた。だが翌年は主砲の江藤慎一らを放出するチーム改革が大失敗に終わり、大沢は複数年契約を反故にされて解任された。
球団は引き続き東京スタジアムを本拠地としていたが、永田は1972年に球場を小佐野賢治に売却する。小佐野はロッテ球団に球場の買い取りを求めたが、翌1973年より監督となった金田正一の反対もあって球団は拒否し、オリオンズは本拠地を失う事態となる(ジプシー・ロッテ)。1973年は後楽園球場など首都圏の球場を借用する計画であったが、日程的に無理があったため暫定的に25試合程度を宮城球場で開催することとなった。
翌1974年からは正式に本拠地を宮城球場に移し、保護地域も宮城県とした。開幕戦も宮城球場で開催されたが、相変わらず首都圏での開催試合も多く組まれ、宮城球場での試合は27試合に留まった。チームは後期優勝を果たし(前年よりパ・リーグは前期後期制)、プレーオフで阪急ブレーブスを破って日本シリーズに進出したが、宮城球場が日本シリーズ開催の要件を満たしていないという理由から後楽園球場で開催されることになった。日本シリーズでは中日ドラゴンズを下し、1950年以来の日本一となった。
横浜スタジアムの建設が決定し、大洋ホエールズが移転の意向を示すと、ロッテも球場の共用を大洋に申し入れた。だが交渉はまとまらず、結局1978年より空き家となった川崎球場を本拠地とすることとなり、保護地域も神奈川県に変更された。大洋が離れていった直後だったため地元ファンの反応も当初こそ良かったものの、既に著しい老朽化が進んでいた球場は開場以来30年以上そのままになった設備もあるほどでオンボロであった。徐々に観客動員は低迷し、1980年代の川崎球場時代の観客の少なさは珍プレー・好プレーなどでもよくネタにされていた。
1984年に球団は平和台球場への移転構想があることを発表し、そのための足がかりとして西鉄ライオンズOBの稲尾和久が監督に就任した。しかしこの移転計画は頓挫し、1986年シーズン終了をもって稲尾はチームを去ることになる。さらに稲尾を慕っていた落合博満がトレード志願ともとれる発言をしたのを機に、中日ドラゴンズとの大型トレードが成立し落合を放出するに至った。[1]
落合の退団でチーム力は急低下し、金田監督再登板も不発に終わった折、球団の移転案と千葉県から受けた開場間もない球場への誘致案が合致し1992年に保護地域を千葉県へ移転、専用球場を千葉マリンスタジアムへ変更し球団名は千葉ロッテマリーンズとなる。
2004年に勃発したプロ野球再編問題では、福岡ダイエーホークスとの合併が取り沙汰される事態となる。結局ソフトバンクグループによる球団買収が成立して福岡ソフトバンクホークスが誕生したため、福岡ロッテホークスは幻に終わった。
移転後は2005年、2010年に日本一を経験している(2005年は勝率2位ながらプレーオフで勝利したためパ・リーグ優勝。2010年はクライマックスシリーズとなりルールが改定されたため、パ・リーグ3位)。
ロッテは40年以上球団を保有しており、現在のパ・リーグ6球団では最長。また現在のパ・リーグで同一のチーム名やエンブレム、シンボル、ホームユニフォームを使用し続けているのも千葉ロッテが最長で、パ・リーグで1990年代の名残をそのまま残している唯一の球団となっている。
チームカラーは白、黒、灰色、赤でユニフォームにも取り入れられている(ペットマークである鴎のマークに使用されている配色)。過去にはオリオンズ時代に青、千葉移転初期の94年まではピンクが採用されていた時期もある。
この内、黒は、山本功児政権の2000年以降ビジター用の上着が黒になったのを発端とし、数年後のボビー政権での優勝時、超満員で大声援を送り続けるファンの印象から黒の軍団などと呼ばれている。現在も本拠地でのビジターユニフォーム使用を行う試合を一試合開催しており、ブラックナイトと呼ばれる。
逆に赤は他に比べ印象が薄く、ボビー政権の2004年サンデーユニフォームに使用される事を発端に同監督退任の2009年までユニフォームに採用されて以降採用されなくなったが、2014年にビジター用として復活した。2016年からはサードユニ(CHIBAユニ)のメインカラーとして赤が採用された。
落合博満退団後は、本塁打30本以上を記録した日本人選手が出ていない。飛ぶボール時代に福浦和也や大松尚逸、サブローが20本台を記録したことはあるが、統一球が導入された2010年にはチーム本塁打数がわずか46本に留まり、本塁打王の中村剛也の48本を下回るという赤っ恥を晒してしまった。2013年に井口資仁が本塁打23本、2018年に井上晴哉が24本を放ち、ようやくこの悪い流れを断ち切った。
1986年の落合博満を最後に30年以上本塁打王が出てこなかったことでも知られる。2019年からはZOZOマリンスタジアムに「ホームランラグーン」というラッキーゾーンが設置されたので、千葉ロッテ初の本塁打王の誕生が期待される。開幕前は「被本塁打が増えるだけでマイナスの方が大きのではないか」と言われていたが、防御率はむしろ良化し、移籍のブランドン・レアードの活躍などで本塁打数が増え得点力が増すというプラス面しか出ない結果となった。そして2023年に移籍のグレゴリー・ポランコが26本塁打を打ち、浅村栄斗・近藤健介と同数ながら37年ぶりに(千葉移転後では初めて)ロッテ選手として本塁打王を獲得した。
オリオンズ時代や千葉移転初期はメガホンが存在し、他球団と変わらない応援スタイルだったが90年代後半より、所謂MVP(マリーンズ私設応援団)(Marines Victory Productions)により、メガホンは一切使用しない(手拍子)、タオル・個人用フラッグ・指笛・ジャンプを他球団に先駆けて取り入れるなど、一風変わった応援が浸透していき、現在に至る。
鳴り物にはオリオンズ時代から行われていた小太鼓、トランペットの他、指笛を多用する傾向が強い。これに加えMVP時代の2009年頃までは、バルサホーンによる重圧な音色も多用されていたが、球場規制が厳しくなったこと、応援団以外の使用が禁止されているため、近年は見られなくなった。
応援歌は日本野球、サッカー(ジェフユナイテッド千葉など)、韓国野球、台湾野球などさまざまなところから影響を受けている。外国人選手の場合その選手の出身国の言語を用いた作詞も多い。オリジナル曲もあるが、ほとんど既存の曲のアレンジが採用されており、スポーツ関連にとどまらず民謡、新幹線の車内チャイムなどが原曲のものも存在する。ゲーム曲やアニメソングも多く、『Lovesong探して(ドラゴンクエスト)』、『ワンダーモモーイ』、『スペランカー』、『キラメキラリ(アイドルマスター)』、『ロマンシングサ・ガ』、『四六時夢中シンケンジャー(特撮)』、果ては『U.N.オーエンは彼女なのか?(東方Project)』のような同人作品など、多岐に及ぶ。
MVPが2009年の騒動(後述)により応援団から退いた2010年以降は、新たに球団主導の応援団が発足した。その際、応援歌が一部を除き一新された(旧応援歌はオリオンズ時代から存在する「L・O・TTE」コール、出塁テーマといったものと、西武戦専用テーマのみとなっていた)。
2010年以降の現在の応援団(千葉ロッテマリーンズ応援団)は2004年まで応援団員だったジントシオ氏が復帰し応援団長に就任することで発足。新応援歌は鳴り物と被らない発声のみのパートを行う『声を届ける』というコンセプトにしており、ジン氏自らが作曲を手掛けていた。2014年にはホーム開幕戦の4月1日より、応援団監修の応援歌メドレーCD「2014マリーンズスーパーベストヒットメドレー」も 発売されている。
その一方で、かつてのMVPのメンバーも球団と和解・現応援団との協議の末、2015年以降外野応援団に復帰し、現応援団の構成員として合流している。また未だにファンからの支持も根強い、旧応援歌の復活も示唆していた。
2015年シーズン終了後、ジントシオ氏が退団。応援団長も交代となった。そしてそれが影響なのか定かではないが、2016年以降は旧応援歌が復活し、一部の選手応援歌(サブロー、福浦)も復活することになっていたが、2016年8月22日に応援団より旧応援歌を再び廃止している。
※就任、退団などでの異動は球団の正式発表があるまで編集しないでください。
一軍 | 二軍 |
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コーディネーター | |
※トレード、自由契約などの異動については、NPB公示があるまで編集しないでください。
※※ドラフト指名を受けた新入団選手は入団発表後に追加してください。
支配下選手 | |||
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投手 | 捕手 | 内野手 | 外野手 |
育成選手 | |||
投手 | 捕手 | 内野手 | 外野手 |
開幕から好スタートをきり、この年から導入されたセ・パ交流戦で初代チャンピオンとなる。レギュラーシーズンは2位で終えたが、プレーオフで西武ライオンズ、福岡ソフトバンクホークスを下し、31年ぶりのリーグ優勝を果たす。
日本シリーズでは阪神タイガースに対して4連勝。31年ぶり3度目の日本一に輝き、こちらもこの年から始まったアジアシリーズでも全戦で勝ち、アジアチャンピオンに輝いた。
ボビー・バレンタインの変則的に打線が入れ替わる日替わりオーダー制による采配がことごとく当たったため、ボビーマジックと呼ばれた。
ちなみに、かの有名な「33-4」は、この年の日本シリーズである。
前年の優勝に貢献した選手10名をWBC日本代表に送り込んだ。主力だった小坂誠、李承燁が読売ジャイアンツへ、ダン・セラフィニがオリックス・バファローズへ移籍し、戦力が低下。セ・パ交流戦は二連覇したものの、これ以降チームは失速し、プレーオフ出場はならなかった。
開幕二連戦で引き分けという異例の事態から始まった。
打撃陣が故障離脱・不振に陥ったが、渡辺俊介、小林宏之、成瀬善久が活躍し、レギュラーシーズンを2位で終える。
クライマックスシリーズではファーストステージでソフトバンクを下したが、ファイナルステージで北海道日本ハムファイターズに敗れた。
先発投手陣の不調、開幕後に捕手の里崎智也、橋本将、田中雅彦が揃って故障。野手陣の度重なる故障もあり、前半戦では(勝率は5割だったものの)一時期最下位になり、最終的にBクラス(4位)に沈んだ。
そして翌年…
2009年にフロントと首脳陣、フロントとファンの間で確執が起こった。
2009年シーズンの開幕前、2009年までの複数年契約を結んでいたボビー・バレンタイン監督に対し、フロントが「来年(2010年)はバレンタイン監督と契約を更新しない」と発表した(当然ながら、シーズンが始まる前にこのような発表を行うことは異例である)。その後、シーズン途中に改めて『ボビー・バレンタイン監督を今季限りで退団させる』というフロントの動きが見え始め、監督らはこれに反対するが、7月に正式に球団側の方針を受け止め、退団することを決めた。
更に、千葉からの本拠地移転論(という名の怪文書)が出たために、これを聴いた過激派の応援団(Marines Victory Productions)がフロントと対立。千葉マリンスタジアムのライトスタンドのファンは『球団に残る迷フロントよ千葉を去れ!』などと書かれた横断幕を張った。横断幕があまりに過激的すぎるため、西岡剛がヒーローインタビューで「子供達の夢を壊さないで欲しい」と呼びかけたことは記憶に新しい(詳細については西岡剛の項目を参照)。また、フロントに対し脅迫文を出した過激なファンもいた。
また、9月下旬、ベニー・アグバヤニが交代した際に「ベニー選手の最終打席でした。」というアナウンスが千葉マリンスタジアム内で響き、ますますファンに不穏な空気が漂った。フロントが『脱ボビー色』を作り、ベニーなどの契約を結ばない形にしたためである。もっとも、バレンタイン監督とベニーはメジャーリーグにいた頃からの師弟関係であったため、監督退任が決まった時点で予測できたことではあるのだが…。
この騒動があったためか、シーズン5位に低迷した。
上記のような不協和音も影響してか、前年5位と不振に終わったマリーンズ。
監督には前年までコーチを務めていた西村徳文が昇格。日替わりオーダー制を廃止し、選手に打順ごとの役割を説いて固定していくオーソドックスな戦術へ転換した。
補強としては、開幕前に主砲候補として韓国から金泰均を、トライアウトで今岡誠、川越英隆、的場直樹らを、さらにシーズン開幕後、横浜ベイスターズとのトレードで吉見祐治を獲得。ドラフト会議では、1位で荻野貴司、4位で清田育宏と、社会人屈指の快足外野手を指名。さらにメジャーリーグへFA移籍した薮田安彦が復帰している。
そして迎えた2010年シーズン。荻野と金が前評判どおりの活躍を見せ、開幕ダッシュに成功。当時最下位だった北海道日本ハムファイターズに10ゲーム差をつけて首位に立った時期もあった。
しかし、荻野、里崎智也、唐川侑己ら、主力選手に故障が相次ぎ、6月から徐々に勢いが落ちていく。ほぼ同時期に主砲として四番に座っていた金が不振に陥り、井口資仁や福浦和也などに四番を譲る機会が増え、日本ハム、オリックス・バファローズとの3位争いに巻き込まれる形となった。
それでも、9月20日に1年以上白星から見放されていたクリネックススタジアム宮城での楽天イーグルス戦で勝利すると、負けたら終わりの9月28日、29日、10月1日の最後の3試合を3連勝しなんとか3位に滑り込む。4位日本ハムとのゲーム差はわずか0.5だった。
クライマックスシリーズファーストステージでは埼玉西武ライオンズとの対戦。初戦は涌井秀章と成瀬善久の息詰まる投手戦が繰り広げられたが、1-1の同点で迎えた8回裏に中継ぎの内竜也が乱れ4失点。これで決まりかと思われたが、9回表に4点を返し再び同点にすると、延長11回表に福浦のホームランで勝ち越し、見事初戦をものにする。
2戦目は先発のマーフィーが初回に3点を失い、3回にも追加点を取られ降板。しかし替わった渡辺俊介が好投。打線もそれに応えるように、9回表に里崎の同点ホームランが飛び出し再びゲームは延長戦に。 そして延長11回表に井口のタイムリーヒットで勝ち越し、2日連続土壇場での延長劇を制しファイナルステージへと駒を進めることになった。
ファイナルステージの福岡ソフトバンクホークス戦では、初戦こそ成瀬が杉内俊哉との投げ合いを制すものの、その後2連敗し、王手をかけられる。しかし第4戦では渡辺俊介が好投しなんとか踏みとどまると、第5戦では先発の大嶺祐太が2回で降板するも、後続の小野晋吾、そして西武戦で打たれた内がきっちり抑え、逆王手をかける。
第6戦は再び杉内と成瀬の投げ合い。成瀬はまたもエース対決を制し完封勝利。ここでも負けたら終わりの土壇場からの勝負強さでCS導入後初めてシーズン3位からの日本シリーズ進出を決めた。
日本シリーズではセ・リーグ優勝の中日ドラゴンズとの熱戦が繰り広げられた。3勝2敗で名古屋へ乗り込んだ第6戦でチェンと成瀬の投手戦が繰り広げられ、8回表にサブローのタイムリーヒットで同点に追いつくとそのまま試合は延長戦へ。その後、延長15回まで両者全く譲らず、日本シリーズ史上最長の5時間43分の熱戦を演じ、シリーズでは実に24年ぶりの引き分けとなった。
そして迎えた第7戦では、序盤に6点を失う苦しい展開ながらも打線が奮起し、7回表に金泰均のタイムリーヒットでついに勝ち越し、マリーンズの日本一が決まるかと思われた。しかし9回裏に登板した小林宏之が打たれ同点に。なんと今シリーズ三度目となる延長戦に突入した。そして延長12回表、それまで好投していた浅尾拓也から、育成枠から這い上がってきた岡田幸文が決勝タイムリーヒットを放ち死闘の幕をおろした。シリーズMVPは今江敏晃、2005年に続き2度目、名実ともにシリーズ男となった。
日本シリーズ4勝2敗1分け、5年ぶり4度目の日本一を達成し、史上最大の下克上を成し遂げた。
日本シリーズ最終戦試合終了後、ファンのいるレフトスタンドの前で、監督、コーチ、スタッフ、選手たちがチャンピオンフラッグを掲げ、ファンと一緒に肩を組んで高らかに勝利の歌を歌った。
”マリーンズが本当に好きだから みんなでこの喜びを分かち合おう”
2010年、西村監督の掲げる”和”というスローガンが結実した瞬間である。そこには2009年に生じた不協和音など、跡形もなく消え去っていた。
オフに頼れるキャプテン西岡剛がポスティング制度を使いMLBミネソタ・ツインズへ移籍。さらに終盤は安定感を欠いていたが不動の守護神である小林宏之が阪神タイガースに移籍した。また新加入の守護神候補の外人投手ボブ・マクローリーはキャンプで全く投げずに帰国し解雇される。
ドラフト会議ではルーキーNo.1野手との呼び声高い、前年度の大学日本選抜主将・伊志嶺翔大を指名するも、似たタイプの俊足巧打タイプの若手が多いため指名を疑問視された。
しかし決して悪いニュースばかりではなくいいことも多々あった。
まずは岡田幸文の成長である。前年の日本シリーズでこそ決勝三塁打を放った岡田だが、本来俊足から生まれる圧倒的な守備範囲が売りの選手であり、打撃での評価は低かった。しかしこの年のオープン戦からは何かを掴んだかのように好調を維持。成長した姿を見せ、誰が外野の守備を守るのかが注目された。
また去年のスタートダッシュを牽引した荻野貴司が復帰。怪我さえなければ新人王確実とまで言われた選手だが、この年は外野に似たタイプの岡田・清田などがいた事により出場機会を求めコンバートに同意。西岡が抜けたショートのレギュラー争いに参戦したのだが、この年も負傷のため途中離脱してしまった。
この年より導入された統一球に打者が対応出来ず、昨年リーグ1位を誇った打線が壊滅した(本塁打が前年から80本マイナス)。
この年はソフトバンクと日本ハムが序盤から快走。ロッテはなかなかAクラスに入れない状態が続いていたものの、8月の時点で3位とのゲーム差がそれほどない状態にとどまっていた。
しかし、中盤から故障離脱者が続出。前年故障した荻野・里崎に加え、清田が死球を手の甲に受けて骨折、伊藤は折れたバットがふくらはぎに刺さり故障し、共に離脱を余儀なくされる。さらに大松と金が大不振に陥った(震災の影響もあり、結果的に金は途中退団)結果、9月に入ってからは大失速。11連敗を喫するなど大幅に負け越し、最下位だった西武が大幅連勝、さほどゲーム差が開いていなかった楽天はある程度踏みとどまったため、4位から最下位に転落。10月9日に楽天に敗れたことで最下位が確定した。日本一チームが翌年最下位となったのはパリーグ史上初、セリーグを含めても3回目のことである。なお、二軍も前年の日本一から、イースタンリーグ最下位に転落した。
さらにこの年はもう一つ事件があった。
6月29日、ケガと若手の台頭で控えに甘んじていたサブローが巨人へ放出されたのである。
重光オーナー代行は今季、球団の赤字経営に待ったをかけるべく、瀬戸山球団社長および石川運営本部長に「赤字削減」を厳命。フロント陣はその命を実現するため、高年俸のサブロー放出を重光氏に打診。重光氏もこれを了承し、工藤隆人との交換トレードとして実現することになった。
しかし事前の情報が何もなかった上、石川球団本部長の「生え抜きというのは関係ない。チームに変化を与えていかないといけない」という発言がファンの反発を買い、結果的に最下位で終了したこともあって、全日程が終了後に瀬戸山・石川両氏が退任。ファンや有識者からは両氏のほか、移籍を了承した重光オーナー代行にも批判が集中することとなった。
前述の事件によりフロントを刷新。サブローの動向が注目されたが、結果的にフロントと和解しロッテに復帰。工藤も残留することに。また、巨人からセス・グライシンガー、ヤクルトからジョシュ・ホワイトセルを獲得。ドラフトでは「アマチュアNo.1投手」と評された藤岡貴裕を獲得。「和のもと ともに戦おう」をスローガンに始動した。
開幕戦から成瀬善久・唐川侑己・藤岡貴裕・グライシンガーが好投し、ロッテでは60年ぶりとなる開幕四連勝を達成。更に一死満塁からリリーフ登板し無失点で抑えるという鮮烈なデビューを果たした中後悠平、新人のシーズン登板記録と新人最多ホールドを更新することとなる益田直也、6月から一軍登録され内野の穴埋めや代走で貢献した鈴木大地と、藤岡のみならずルーキー全員が大活躍することとなり2011年ドラフト会議の恩恵を最大限受けることとなった。またルーキー以外にも完全復活し12勝をあげたグライシンガーや、この年覚醒し首位打者を獲得した角中勝也、打撃面での成長を見せ遊撃手のレギュラーを獲得した根元俊一を始めとした打線も絶好調で、前年最下位だったことが嘘であったかのように42年ぶりに前半戦を首位で折り返した。
しかし後半戦になると状況は一変。唐川が故障で離脱、藤岡も勝ちきれなくなり、中後も制球難から一軍登録を抹消される。この年不振だった渡辺俊介を始めとする先発陣の相次ぐ離脱はリリーフの負担にも繋がり、内竜也の離脱、セットアッパーの益田・ストッパーの薮田安彦の酷使を引き起こしリリーフ陣がボロボロになってしまう。更に前半戦好調だったベテラン勢の大失速、本職の外野から一塁に回してまで育成を試みていた大松尚逸の大不振もあって打線の得点力も不足気味になった。
夏以降は駒不足の先発と疲弊したリリーフ(終盤にはさらに中郷大樹、大谷智久、南昌輝が酷使されることになった。特に大谷はリリーフから中1日で先発登板を2度やらされるほどだった)、更には不調の打線と、前半戦の良さが何一つ残っていない状態でじわじわと貯金を吐き出し、9月には9連敗。これによりAクラス入りが絶望的となり、結果的には5位にてシーズンを終了した。前半戦首位ターンをしながら借金を残してシーズンを終えるということは50年ぶりのことであった。この責任を取り西村監督は辞任。任期を一年残した中で突然の辞任だった。
余談だが、二軍は2位に10.5ゲーム差の大差をつけ二年ぶりの優勝、日本一に輝いている。
首位打者のタイトルを角中が受賞(打率.312)、同時にベストナインも初受賞した。新人王に益田が選ばれ、ゴールデングラブ賞を岡田が2年連続2回目の受賞。この朗報に後半戦の惨状にがっかりしたファンも喜んだことだろう。なお、新人王にロッテの選手が選ばれたのは2005年の久保康友以来である。
10月18日、元西武監督の伊東勤が監督に就任することが発表された。それに先立ち、15日に高橋慶彦ヘッドコーチ、西本聖投手コーチ、井上祐二ブルペン投手コーチ、成本年秀2軍投手コーチ、袴田英利2軍バッテリーコーチ、金森栄治2軍打撃コーチ、上川誠二2軍内野守備・走塁コーチ、山森雅文2軍外野守備・走塁コーチとコーチ8名を解任した。
首脳陣を一新し出発したものの、春季キャンプ時点での戦力補強はドラフトで獲得した4人と戦力外から獲得したディッキー・ゴンザレスと監督の縁故採用となったG.G.佐藤のみ。去年大失速で5位になったにもかかわらず大型補強を施さなかった。下馬評も納得のBクラスのオンパレードで、おまけに5位6位が大半だった。ファンからも「今年は育成の年だから」「何とか里崎の後釜だけは育てて・・・」と悲痛な声もあった。
しかしシーズンが始まってみると投手野手問わず積極的な配置転換と既存戦力の覚醒により下馬評を覆す快進撃を続けた。投手陣も楽天相手に初登板・初勝利した育成の星・西野勇士や、復活を果たした大嶺祐太の好投、カルロス・ロサ、松永昂大、益田直也の必勝リレーなど、既存、新戦力問わずフル回転。野手では鈴木大地の遊撃定着により井口資仁の一塁コンバート、根元俊一の二塁コンバートが実現。送球に難があった根元が二塁で落ち着いてプレーできるようになり、ベテラン井口は守備負担の軽減から打撃成績が向上するなど、内野の守備の穴と打撃の穴が一気に解消された。
オールスター前の7月上旬まで首位を保ち続けたが、僧帽筋を痛めた成瀬が離脱、大嶺が制球難から抹消されるなど、先発陣にほころびが生じるようになった。しかしこの頃グライシンガーが復帰、そして2010年の中継ぎエース・古谷拓哉がノーヒットノーラン寸前の鮮烈な先発完封勝利を収めたり、6月末には待望の長距離砲クレイグ・ブラゼルの加入が発表されるなど、救世主もちらほら出てきてはいた。
後半戦は西野が二度の故障離脱、グライシンガー、古谷も一度離脱するなど致命的ともいえる先発のコマ不足に悩まされ、松永の先発配置転換、更には中4日ローテまでやらせるなど悲壮感も漂ったが、毎年故障が多かった唐川が踏ん張りチーム唯一の規定投球回到達。9月22日以降を12勝2敗でまとめた西武の猛追はかわしきれなかったものの、何とかAクラスの3位でシーズンを終えることができた。
チームではシーズン通算54犠飛の日本新記録を達成。またチーム総合126ホールドは12球団トップで、いかに中継ぎ陣が奮戦したかがわかる数字である。
個人記録では前年度新人王の益田直也が33セーブを上げ、パ・リーグ最多セーブのタイトルを獲得。打撃では交流戦以降4番に座った今江敏晃がリーグ2位の打率.325、一塁コンバートで守備負担の減った井口資仁がパ3位の長打率.511、唯一の全試合出場を果たした鈴木大地は12球団トップの11三塁打を記録した。
このシーズンをもって小野晋吾、薮田安彦が現役引退を表明。村田兆治の引退後に背番号29を最も長く背負った男と、かつての勝利の方程式「YFK」最後の一人が同時にユニフォームを脱いだ。また、日本シリーズ終了後に世界一低いアンダースローで名をはせた渡辺俊介が、メジャーリーグに挑戦するためチームを退団することになった。
オフに西武からFA宣言した涌井秀章、ワールドベースボールクラシック・メキシコ代表のルイス・クルーズ、チャッド・ハフマンを獲得した。
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掲示板
590 ななしのよっしん
2024/08/27(火) 22:37:08 ID: IWLug5lwPg
今年って西武に全勝しててそれで3位にいられてるみたいなとこあるな。楽天にじわじわ迫られてるし。
591 ななしのよっしん
2024/11/10(日) 20:10:14 ID: 3abM0dEbQG
何とは言わんが来年ここが優勝したら爆笑してしまうと思う
それはそれとして余計な前例作ってんじゃねえという話だが
そうはいってもここまで冷たく見られる現状は選手も見てるので
そこまでワガママ言う奴も危惧してるほどには出なさそうではある
アメリカの青田刈りが顕在化するかもだけど
592 ななしのよっしん
2024/11/11(月) 00:30:52 ID: BvxmUGkGFC
佐々木の件で入団時に密約は無かったと言う発言
あるなんて言うはずないけど仮に無かったとしても後からそういう横槍入れられてその通りにされちゃったっていう問題にもなるな
実際Xという謎の人物が影響あったらしいし
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最終更新:2024/12/23(月) 11:00
最終更新:2024/12/23(月) 10:00
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