レオン・リー(1952年12月4日~)とは、ロッテオリオンズ、横浜大洋ホエールズ、ヤクルトスワローズに所属していた元プロ野球選手である。
兄は同じくロッテで活躍したレロン・リー、息子はメジャーリーガーとして活躍したデレク・リーである。
兄との区別化のため日本での登録名は「レオン」となっていた。
兄と違いメジャーリーグでの経験は無かったが、兄に負けず劣らずの打力で各球団の主力打者として活躍した。
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兄と同じくグランドユニオン高校からセントルイス・カージナルスと契約するが、レオンは一度もメジャーに昇格することが出来ずにいた。
そんな時77年にロッテで大活躍していた兄・レロンの誘いを受け、78年に自身もロッテオリオンズに入団する。
ロッテでは1年目から5番を打ち、打率.317、19本塁打73打点と4番の兄と共に「リー・ブラザース」として強力クリーンナップを形成。
80年にはレロンが3番、レオンが4番を打ち、レロンが打率.358、33本塁打90打点、レオンが打率.340、41本塁打116打点という成績で兄弟でリーグ打率の1位2位を記録。しかし本塁打王・打点王のタイトルはチャーリー・マニエルに取られたため、兄と違いタイトル獲得は成らなかった。
83年にはトレードで横浜大洋に移籍し打率.288、30本塁打98打点とリーグが変わっても安定した成績を残し、この年横浜大洋の4年振りのAクラス入りに貢献。85年にはこの年結成された「スーパーカートリオ」の後を打つ4番として活躍、8月10日の広島戦では津田恒美から満塁弾、北別府学から2ラン、新見敏から3ラン、そしてタイムリーで1点の計10打点を1試合で稼ぐ記録を作りだし、同時に兄・レロンと兄弟通算200本塁打も達成している。
しかしレオンは打率.303、31本塁打110打点という非常に優秀な成績を残しながら「チャンスに弱い」という理由で自由契約となったため、ヤクルトスワローズに移籍。(おそらくは横浜大洋の監督であった近藤貞雄がレオンの後釜として「走れる中距離打者」を要望していたため、走れなかったレオンをあまり高く評価していなかったと思われる。)
ヤクルトでは86年・87年共に申し分ない成績を残すが、87年限りで兄と共に日本球界を去った。
その後メジャーでスカウトなどを歴任した後、2003年に打撃コーチとしてオリックス・ブルーウェーブに復帰、同年4月23日に石毛宏典監督が解任されると尻拭いとして急遽監督に就任、「攻撃的なチームを作りたい」と意気込むが、チームは打撃はともかく守備と投手陣が崩壊、チーム失策は132を数え、防御率に至っては5.95と創設初年度の楽天(5.67)よりも悲惨な数字を叩きだしてしまい球団最低勝率で最下位になると同年チームを退団した。
兄と同じく日本を愛した親日家であり、さらに兄と違い日本語を話すことが出来たため、監督時代はインタビューに日本語で応じたこともある。その縁か高倉健が出演した映画「ミスターベースボール」のアドバイザーを務めた。
インベーダーやラジコンなどが好きであり、現役時代はオフに兄と二人でラジコンではしゃいでいる姿が目撃され、大の男二人がラジコンに夢中になる姿を周囲の人たちも微笑ましく見ていたという。
2004年にはマイナーリーグに監督に就任したものの、直後に下半身露出で逮捕されている。
通算:10年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 1255 | 5218 | 4667 | 668 | 1426 | 268 | 884 | 28 | 4 | 42 | 479 | 26 | 638 | 177 | .308 | .372 |
通算:1年 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | |
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NPB | 120 | 41 | 76 | 3 | .350 | Bクラス1回 |
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最終更新:2024/12/23(月) 15:00
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