若生忠男 単語

ワコウタダオ

1.5千文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

若生忠男(わこう ただお)とは、元プロ野球選手である。故人。

概要

1937年8月22日生まれ。宮城県仙台市出身。

中学時代には既に速球投手として名が知られる存在であったようである。

東北高等学校に進学。高校でもエースとして活躍し、同地区にいた若生智男・若生照元とともに「東北の三若生」と呼ばれたが、塁審をバットで突き飛ばして出場停止を喰らい、休部に陥らせるなど問題行動を起こしたこともし、甲子園大会出場経験はなし。休部期間には、クラブチームの大会に出場して活躍したり、ボクシング大会に出場したこともあったようである。

1955年西鉄ライオンズに入団。

1957年先発での登板機会を得るようになり、9勝11敗、防御率2.20と躍動し、チーム日本一にも貢献。日本シリーズ登板した際にはその独特な投法から人気を博した。

1960年、13勝7敗、防御率2.49と初の二桁勝利到達。オールスターゲームにも初選出されたが、出場は辞退している。

以降も西鉄先発投手として活躍し、1961年は9勝、1962年はキャリアハイの14勝、1963年は12勝を挙げた。

1965年頃からリリーフでの起用が増え、1966年にはリリーフで3日連続でで勝利投手になるなど救援でも存在感を示し、12勝3敗、防御率1.54という成績を残した。

1967年シーズン成績は5勝9敗と振るわなかったが、1967年9月17日阪急ブレーブス戦で米田哲也と投げあい、ノーヒットノーランを達成している。

1969年読売ジャイアンツへ移籍。中継ぎ投手として起用され、1969年日本シリーズでも登板している。

1970年、2試合の登板に終わり、同年限りで現役を引退

引退後は解説者として活動。1975年には1シーズンのみロッテオリオンズ投手コーチを務めた。

1998年、死去。享年62歳。

人物・エピソード

足を上げてから打者に背を向けるよう体をねじり、サイド気味のアンダースローで投じるというトルネード投法に近い独特なフォームから「ロカビリー投手」と呼ばれた右腕。

メンタルの強さと決め球のシュート武器に厳しく内を攻める投球スタイルから、最多与死球3回、最多暴投1回と荒々しさが立つが、相手に当てても悪びれず容赦なく内を攻め続けたという。

荒くれ者の多かった当時のパ・リーグにおいても特に血の気の多い人物として知られ、年上の人物や審判監督であっても気に食わなければ食って掛かる武闘であった。一方で普段はジョークが好きな陽気な人物でもあったようである。

1970年シーズンの登録名は「若生 忠泰(わこう ただやす)」。

通算成績

投手成績

通算:16年 登板 完投 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率
NPB 578 43 17 105 107 --- --- .495 1973.1 676 1459 737 616 2.81

記録

関連項目

この記事を編集する

掲示板

掲示板に書き込みがありません。

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
ニコニ広告[単語]

提供: 高級餡子ゆっくり

もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2024/12/23(月) 15:00

ほめられた記事

最終更新:2024/12/23(月) 15:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP