長友佑都(Yuto Nagatomo, 1986年9月12日 - )とは、日本のサッカー選手である。
J1リーグのFC東京所属。サッカー日本代表。
170cm70kg。利き足は右足。ポジションは太鼓の達人DF(サイドバック)またはMF(ウイングバック、サイドハーフ)。愛称はユウト、ナガ、ナガティエロ、ナガトゥットなど。
愛媛県西条市出身。高校時代までは無名の選手だったが、明治大学時代にサイドバックにコンバートされたことで才能が開花。圧倒的なスタミナと鍛え抜かれた強靭なフィジカルによって日本代表不動の左サイドバックとして長年活躍するまでの選手となり、2011年から2018年までの7年間イタリア・セリエAの名門インテル・ミラノに所属。明るいキャラクターでチームメイトやサポーターから愛された。2013年には、AFCが選出する国際最優秀選手賞を受賞。
日本代表にはプロ1年目の2008年にデビューしており、以降10年以上代表のサイドバックとして試合に出場し続け、国際Aマッチに100試合以上出場している豊富な国際経験の持ち主。FIFAワールドカップには、2010年、2014年、2018年、2022年と4大会連続で出場。うち3大会でベスト16入りを果たした立役者である。AFCアジアカップにも3大会連続で出場しており、2011年大会の決勝では李忠成の決勝ゴールをアシストし日本の4度目の優勝に貢献。
抜群のスピードと90分間サイドの上下移動を繰り返す豊富な運動量が武器であり、小柄ながら体幹に優れている。彼の体幹トレーニングはジャンルを超えて広く支持されており、トレーニングに関する著書が多く出版されている。
愛媛県西条市出身。姉と弟がいる3人兄弟の真ん中として生まれる。父親の実家は大きな新聞販売所を経営していたということもあり、三世代同居の大きな家で幼少の頃は祖父母にもかわいがられ何不自由なく暮らせていた。
サッカーを始めたのは小学校1年生の頃だったが、きっかけは「一番女の子にモテるスポーツだと思ったから」というなかなか不純なものだった。地元の神拝サッカースクールに通い、最初は遊び感覚でプレーしていたが、徐々にサッカーの魅力に気付き、熱中するようになる。
しかし、小学3年生の頃に両親が離婚。それに伴って母親の実家近くのアパートに引っ越すことになり、生活環境が一変。親の離婚を誰よりも嫌がったこともあって精神的にも不安定になるが、それでもサッカーは辞めずに続けていた。小学6年生の頃に愛媛FCのジュニアユースのセレクションに落選。
地元の西条市立西条中学校に進学し、サッカーを続けていたものの、所属するサッカー部は練習をさぼる生徒も多く、荒れた環境であった。自身も部活どころか学校もさぼってゲームセンターに入り浸りになったり、ワルい仲間と付き合ったりとグレかけていた時期があった。そんな長友に対し、サッカーと真剣に向き合うように何度も説得し続けたのがサッカー部の監督である井上博監督だった。恩師の導きによって再びサッカーへの情熱を取り戻し、真剣にプレーするようになると、中学3年生のときにU-15全日本ユース選手権では県大会3位という成績を残す。
こうして反抗期を乗り越えた長友は卒業後親元を離れ、サッカーの名門校である東福岡高校へ進学する。高校時代のポジションはボランチであり、2年生の頃にボランチとしてレギュラーを掴み、3年生のときに第83回全国高校サッカー選手権に出場。しかし、地区選抜などに選ばれた経験はなく、全国的には無名の選手であったためスポーツ推薦を得られず、指定校推薦によって卒業後は明治大学に進学する。
2005年に明治大学サッカー部に入部。だが、当初は試合に出場することはできず、さらに椎間板ヘルニアを患ったこともあって1年、2年の頃はスタンドで応援団の太鼓担当として活躍していた。この頃アフリカンなノリでの太鼓叩きがちょっとした話題となり、鹿島アントラーズのサポーターグループから誘われるというエピソードもある。
2年生の頃に、長友のフィジカルや走力、持久力に目をつけた神川明彦監督からサイドバックにコンバートされると人生が変わり始める。負傷が完治し2006年後半あたりからレギュラーを掴むと、監督が「別格」と評する程のプレーを見せるようになり、急速に頭角を現す。大学選抜やユニバーシアード日本代表にも選出されると、FC東京との練習試合でのプレーがクラブ関係者から高く評価され、2007年5月に特別指定選手としてFC東京に加入。7月8日のナビスコカップ準々決勝の横浜F・マリノス戦に途中出場で公式戦デビューを果たす。さらに、U-22日本代表にも選出され、北京オリンピックアジア二次予選に出場する。
2008年大学卒業を待たずにプロ入りを決意し、FC東京と正式契約を結ぶ(大学には在籍したまま)。背番号はレギュラー番号である5を与えられ、クラブから大きな期待をかけられていた。2008シーズン開幕戦にスタメン出場を果たすと2ヶ月後にはJリーグ初ゴールを挙げるなど順調に成長。2008年5月には代表に招集され初キャップを記録し、以降代表に定着する。
クラブでは左右両方のサイドバックとして起用され、当時の城福浩監督は相手に合わせて徳永悠平と左右入れ替える戦略を採っていた。ルーキーイヤーは29試合3得点という記録を残し、Jリーグ優秀選手賞に選ばれるなど上々のプロ1年目となった。
2年目となった2009年は、アップダウンのスピードにさらに磨きがかかり、前年度を上回るパフォーマンスを披露。この時期にフィジカルコーチの土斐﨑浩一と共にアップダウンの質の向上を目指し走法の改良に着手したことでプレイヤーとしてさらに一段階レベルアップする。また、この年から1列前にポジションを上げてサイドハーフを務めることもあった。この年チームは前年を上回る5位でシーズンを終え、11月にはクラブにとっても自身のキャリアにおいても初のメジャータイトルとなるJリーグヤマザキ・ナビスコカップ優勝を経験。また、この年のJリーグベストイレブン選出され、名実共にトッププレイヤーへと飛躍。
すっかり日本を代表するサイドバックとなった2010年も開幕から主力として活躍するが、6月のワールドカップでの活躍が評価され、大会終了後の2010年7月にイタリアへの移籍が決定。退団セレモニーの際、FC東京のサポーターに対し、「世界一のサイドバック」になることを涙ながらに誓っている。
2010年7月14日、イタリア・セリエAのACチェゼーナへの買い取りオプション付きのレンタル移籍が発表される。背番号は自ら希望した「5」。チェゼーナは、この年20シーズンぶりにセリエAに復帰したチームだったが、合流して間もないうちに後にサガン鳥栖、名古屋グランバスでも指揮を執るマッシモ・フィッカデンティ監督の信頼を得る。2010-2011シーズン開幕戦からスタメン出場し、主力選手としてクラブを引っ張っていく。アジアカップ出場のためチームを離れるまで全試合フル出場を遂げ、いよいよビッグクラブ移籍の噂が囁かれるようになる。
2011年1月31日にチェゼーナからイタリア・セリエAのインテルへレンタル移籍が決定。チェゼーナはレンタル移籍でFC東京から長友を獲得していたのでインテルはチェゼーナと交渉できず、同日にFC東京からチェゼーナへ完全移籍してからインテルへレンタル移籍となった。背番号は「55」。インテルは前年に3冠(UEFAチャンピオンズリーグ、セリエA、コッパ・イタリア)を達成した世界でも指折りのビッグクラブであり、長友が移籍したことは大きな話題となった。ちなみに当時のインテルの監督は現役時代に鹿島アントラーズでもプレーしたことのあるレオナルドだった。
2月6日にはインテルでのデビューを果たし、インテルでもレギュラーを掴むと、3月6日のジェノア戦でセリエA初ゴールを記録する。チームメイトとなるスター選手たちからも気に入られ、特にヴェスレイ・スナイデルとは親友の間柄となる。UEFAチャンピオンズリーグ(CL)にもデビューし、準々決勝のシャルケ04戦では内田篤人との日本人対決が最高峰の舞台で実現。3月11日の東日本大震災で大きな被害を受けた日本に大きな希望を与えた。5月29日に行われたコッパ・イタリア決勝のパレルモ戦にスタメンで出場し勝利、イタリアでの初タイトルを獲得した。
1年目での活躍が認められ、2011年7月にはインテルに完全移籍。このシーズンはクラブの成績不振もあり2度も監督が交代となり、レギュラーから外される時期を経験する。それでも、12月10日のフィオレンティーナ戦と12月13日のジェノア戦では自身のキャリア初となる2試合連続ゴールを記録。12月21日のレッチェ戦では2アシストを記録するなど、与えられたチャンスでしっかりと結果を残し、最終的にはレギュラーの座を取り戻している。
2012-13シーズンも監督交代が起こる混乱のシーズンとなり、2012年10月7日のセリエA第7節ACミランとのミラノダービーでは初の退場処分を受ける。12月9日のナポリ戦でインテルでの公式戦100試合出場を達成。この頃、レアル・マドリードへの移籍話も浮上するが、インテル愛を宣言し残留を強調。ところが、2013年2月25日の第26節ミラン戦で同点ゴールをアシストするも、その際に左膝を負傷するアクシデントに見舞われ途中交代。そのまま戦線を離脱することになり、4月14日の第32節カリアリ戦で復帰するも、負傷を再発させてわずか8分で交代。左膝半月板損傷と診断され手術が必要とされたが、保存療法を選択することで手術を回避し、シーズン終盤に復帰を果たした。
2013-14シーズンはセリエA開幕戦のジェノア戦でゴールを決め、順調なスタートを切ると、2013年11月3日に行われたウディネーゼ戦でインテルでのセリエA100試合出場を達成した。12月のミラノダービー(対ACミラン戦)で、後半37分にベンチに下がるエステバン・カンビアッソからキャプテンマークを譲り受け、ミラノダービー初となる日本人キャプテンとなった。2014年2月にはイタリアダービー(ユヴェントス戦)でキャプテンマークを巻き先発フル出場を果たした。1年間大きな怪我もなくシーズンをフル稼働し、自己最高となる5得点6アシストを記録するなど大きく飛躍するが、主力の高齢化もあって低迷期がなかなか抜け出せないチームはタイトルから遠ざかり、CL出場権も届かないシーズンが続いてしまう。
三冠を経験したメンバーが次々と退団したことでチームでも古株となった2014-2015シーズンには副主将に選ばれる。2015年1月にAFCアジアカップ参加のためチームを離脱し、復帰後初のスタメン出場となった2月のパレルモ戦で代表で痛めていた右太ももの怪我を悪化させ、復帰までに3か月を要する長期離脱を強いられる。
2015-16シーズンはクラブが大規模な補強を敢行したことに加え、第2節のカルピ戦で途中出場ながら失点に繋がる致命的なミスを犯したことでメディアから大バッシングを受け、ロベルト・マンチーニ監督からの信頼を失ってしまう。苦しい立場となった長友は余剰人員となってしまい、冬の移籍マーケットで放出されることが既定路線として報道されていた。しかし、インテル愛を強調してチーム残留をアピールし腐ることなくコンディションを維持し準備を怠らなかった結果、2カ月ぶりの試合出場でありシーズン初スタメンとなった第9節パレルモ戦で気持ちの入ったプレーを見せ、アピールに成功。第11節のASローマ戦でも守備で貢献し、チームに必要な存在であることを証明したことでまたしてもレギュラーに復権。2016年4月にはクラブとの契約を延長したことが発表される。
2016-17シーズンも新加入のクリスティアン・アンサルディとのポジション争いを強いられ、しばらくの間は控えとなるが、やはりシーズン終盤に不死鳥のごとく復活を果たし、レギュラーの座を奪取する。2017年1月29日かねてから交際を明らかにしていたタレントの平愛梨と結婚。
2017-2018シーズンは、年齢的にもベテランに差し掛かってきたこともあって出場機会がめっきり減ってしまう。例年の同じポジション争いで勝てる見込みが見られず、結局ルチアーノ・スパレッティ監督の構想から外れたこともあり、7年間所属したインテルを退団することを決意する。
2018年1月31日出場機会を得るために、トルコの名門クラブであるガラタサライSKへ期限付き移籍。加入してすぐにレギュラーを掴むと、4月29日のフェネルバフチェとのダービーマッチでアシストを記録するなど、チームの3年ぶり21度目のリーグ優勝に貢献。シーズン終了後完全移籍が発表される。
2018-2019シーズンは、2019年2月に負傷による長期離脱を経験するも、終盤になって戦列に復帰し、復帰戦となった4月20日のカイセルスポル戦で移籍後初ゴールを決める。
2019-2020シーズンには、自身7年ぶりとなるCL本戦に出場。グループステージ全6試合にスタメン出場を果たすが、チームは1勝も挙げることができないまま敗退。その後、チームが若返りの方針を採ったことによって構想外となる。セリエAへの復帰が取り沙汰されるも実現せず、2020年2月以降は外国人枠の関係から登録メンバーから外れ、6月30日付けで退団が発表される。
2020年8月31日フランス・リーグ・アンのオリンピック・マルセイユへの移籍が発表される。背番号は「25」となり、日本代表で共にプレーする酒井宏樹とチームメイトになる。9月20日の第4節リールOSC戦でリーグ・アンデビューを果たすが、守備面で穴になってしまい後半15分で交代させられる。その後、本来の左SBのレギュラーであるジョルダン・アマヴィが復帰したことでSBのバックアッパーという立場になる。アマヴィが負傷で再び離脱したため出場機会を得るも低調なプレーが続き、地元メディアから「チームの弱点」と指摘されるなど酷評される。その後も不調の続くチームの戦犯扱いを受ける。公式戦26試合に出場したが、衰えは隠せずシーズンを通してフランスメディアからの評価は低かった。2021年7月1日、契約を更新せずマルセイユを退団することが発表される。
長友の35歳の誕生日である2021年9月12日に、古巣のFC東京が長友の完全移籍加入を発表した。背番号は「50」。長友は11年ぶりのJリーグ復帰となる。9月18日、J1第29節横浜FC戦で4144日ぶりにJリーグのピッチに立つとフル出場し、勝利に貢献する。チームに対し「正直ぬるい」と檄を飛ばす発言をするが、裏を簡単に取られるなど、失点の原因になる場面が目立ち、さらには11月6日の横浜F・マリノス戦で衝撃的な0-8での大敗を喫したことで批判が集まる。結局往年のキレを発揮できないままシーズンを終える。
2022年から背番号を慣れ親しんだ「5」に変更するが、開幕戦の川崎戦でスタメン落ちとなったうえに後半11分に途中出場した際にユニフォームの規定違反のためにピッチ上で着替えることになる。その後も開幕から4試合連続でスタメン落ちとなる。第5節の京都サンガ戦で右SBとして初スタメンを飾ると、以降は左右両方のSBで起用されるようになる。アルベル監督の戦術にフィットできていない面はあったが、中盤戦から終盤まではスタメンの座を守り続けた。
ワールドカップ後に引退を仄めかす発言もあったが、2023年も引き続きFC東京でプレーすることになる。シーズン序盤はSBの控えという立場だったが、中村帆高の負傷によって右SBのスタメンとして起用されるようになる。37歳となったことで衰えを指摘する声もあったが、低迷するチームの中で奮闘。特に猛暑で日程面の厳しい真夏の時期にはずっとフル出場を続け、健在ぶりを見せる。9月のルヴァンカップ準々決勝アビスパ福岡戦では大学時代以来となるCBで起用されている(正確には3バックの左)。
2024年シーズンは開幕から右SBとしてスタメンで出場し、コンディションの良さをアピール。代表復帰が決まった直後の3月15日、J1第4節アビスパ福岡戦ではJリーグでは実に2010年以来5054日ぶりとなるゴールを決める。その後はSBのポジション争いが激化した影響でスタメンから外れることも多く、29試合に出場したが、リーグ戦の出場時間は全体の半分に満たない1616分に留まった。
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
2007 | FC東京 | J1リーグ | 0 | 0 | |
2008 | FC東京 | J1リーグ | 29 | 3 | |
2009 | FC東京 | J1リーグ | 31 | 1 | |
2010 | FC東京 | J1リーグ | 12 | 1 | |
2010-11 | チェゼーナ(loan) | セリエA | 16 | 0 | |
インテル(loan) | セリエA | 13 | 2 | ||
2011-12 | インテル | セリエA | 35 | 2 | |
2012-13 | インテル | セリエA | 25 | 0 | |
2013-14 | インテル | セリエA | 34 | 5 | |
2014-15 | インテル | セリエA | 14 | 1 | |
2015-16 | インテル | セリエA | 22 | 0 | |
2016-17 | インテル | セリエA | 16 | 0 | |
2017-18 | インテル | セリエA | 11 | 0 | |
ガラタサライ(loan) | スュペル・リグ | 15 | 0 | ||
2018-19 | ガラタサライ | スュペル・リグ | 17 | 1 | |
2019-20 | ガラタサライ | スュペル・リグ | 15 | 1 | |
2020-21 | マルセイユ | リーグ・アン | 25 | 0 | |
2021 | FC東京 | J1リーグ | 10 | 0 | |
2022 | FC東京 | J1リーグ | 30 | 0 | |
2023 | FC東京 | J1リーグ | 29 | 0 | |
2024 | FC東京 | J1リーグ | 29 | 2 |
上記の通りプロ1年目の2008年にA代表初キャップを飾る。岡田武史監督から高く評価され、デビュー後も左サイドバックのレギュラーとして定着する。また、北京オリンピックを目指すU-23サッカー日本代表にも選出。後にA代表で長く苦楽を共にする本田圭佑、香川真司、岡崎慎司、内田篤人らが名を連ねたメンバーだったが、北京オリンピック本大会では3戦全敗と苦渋を味わった。本人にとっても何もできなかった不本意な大会となった。
その後A代表では常連メンバーとなり、何かと批判が多かった岡田JAPANにおいて不動の左SBとしての地位を築いていき、南アフリカワールドカップアジア最終予選突破に貢献。自身初のワールドカップとなる2010 FIFAワールドカップでは全4試合にフル出場。前述したようにグループリーグ初戦のカメルーン戦ではエトーを徹底マークして完封し、第2戦のオランダ戦では相手に合わせて途中から右SBとしてプレーするなど、エースキラーとして活躍し、日本の2度目となるベスト16入りに大きく貢献。この活躍が認められ、イタリア移籍を果たす。
余談ではあるが、初戦であるカメルーン戦で記録したトップスピードは時速30.13キロ。オランダ戦でも時速26.70キロと世界レベルで見てもサッカー選手の中でトップレベルの化け物じみた記録を残している。
アルベルト・ザッケローニ監督が就任した後の代表では、海外組として主力を担い、AFCアジアカップ2011でもチームの主軸として全6試合にフル出場。オーストラリアとの決勝戦では、試合途中から左SHの位置にポジションを上げ、延長戦で李忠成の決勝ゴールをアシストするなどの活躍を見せ、日本の3度目のアジア制覇に貢献。ちなみに表彰式では90分のフル出場はおろか延長戦後半まで走り続けたのにもかかわらず、疲労感漂うチームメイトをよそにはしゃいでいた。
その後も毎回日本代表に選出され、イタリアと日本の長距離移動の影響で何度か所属するインテルでスタメンを外れることがあったが、不動の左SBとしてすっかり定着。一方で、左サイドでコンビを組む香川真司が守備を苦手としていたこともあり、オーバーラップした後のスペースを狙われることが増えていた。2012年からのブラジルW杯アジア最終予選にも欠場した1試合を除く全ての試合でフル出場し、ワールドカップ出場権獲得に貢献。ちなみに、唯一欠場したアウェイのヨルダン戦は日本が唯一敗れた試合だった。2013年6月に開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2013にも3試合全てに出場するが、ブラジル、イタリア、メキシコといった強豪相手に9失点しての3連敗に「自分のプレーではサッカーを辞めたいくらいだった」とショックを受けていた。
2014年6月には、2014 FIFAワールドカップに出場。初戦のコートジボワール戦では、本田圭佑のゴールをアシストするが、その後自身が攻めあがった後のスペースが狙われたことで失点を重ね、逆転負け。その後も全3試合で両チーム合わせてトップの走力を記録したものの、歯車の狂ったチームは3戦目のコロンビア戦で大敗し、大きな期待を背負いながらグループリーグ敗退に終わる。コロンビア戦翌日のメディア対応の場では、悔しさのあまり涙を流していた。
その後、代表監督がハビエル・アギーレ、ヴァヒド・ハリルホジッチと変わっても主力として出場し続けていた。2015年1月に開催されたAFCアジアカップ2015では、全試合にフル出場するが準々決勝で敗退。30歳となり、チームの中でも年長者に部類するようになったロシアW杯予選では、以前よりも守備に比重を置いたプレーを見せる。以前の2大会と比べて苦戦を強いられたアジア最終予選だったが、6試合に出場し、若い選手をサポートする言動も見え、3度目のW杯出場権獲得を果たす。2017年11月10日のブラジルとの親善試合において、国際Aマッチ出場試合数が100試合に到達する。
2018年4月すでにロシアワールドカップ出場が決まり、本大会間近という時期ながらハリルホジッチが解任され、西野朗が監督に就任。このとき、本田圭佑らと共にハリルホジッチに造反した1人ではないか?という声もあったが、真相は不明。騒動によって日本国内がネガティブな空気に包まれる中、大会前に金髪にイメチェンする。自身3度目のワールドカップとなった2018 FIFAワールドカップでは、第2戦のセネガル戦で乾貴士のゴールをアシストするなど、下馬評を覆すグループリーグ突破に貢献。しかし、決勝トーナメント1回戦でベルギー相手に逆転負けを喫し、南アフリカ大会と同じベスト16という結果となった。
ロシアワールドカップ後に就任した森保一監督により、チームは大幅な若返りが敢行されるが、ベテランとして左サイドバックのレギュラーを引き続き任されている。3大会連続出場となったAFCアジアカップ2019でも6試合全てにフル出場するが、決勝でカタールに敗れ準優勝となった。2019年10月10日のカタールW杯アジア2次予選モンゴル戦において10年ぶりとなる代表でのゴールを記録。11月14日の同予選キルギス戦では、代表での通算出場試合数が井原正巳と並ぶ歴代2位となる122試合になる。2020年11月14日のパナマ戦で1年ぶりに代表の試合に出場し、日本代表単独2位となる123試合出場を果たすが、出来そのものは不満の残るものとなり後半13分で交代となっている。
限界説も囁かれるなかで、2022 FIFAワールドカップアジア最終予選でも引き続き左SBのレギュラーとして出場するが、全盛期と比べて衰えがさらに目立ち、低調な試合が続く代表において守備面で狙われることも多く、試合途中で中山雄太と交代することが毎試合パターン化されていたことで批判が集中する。「みなさんの批判が僕の心に火をつけてくれた」と語った2022年2月1日のホームのサウジアラビア戦では精力的なプレーを見せアシストも記録するが、全体的に低調だったことは否めなかった。6月の強化試合では右SBとして出場し、6月6日のブラジル戦ではマッチアップしたヴィニシウス・ジュニオールに仕事をさせなかった。
2022年11月にカタールで開催された2022 FIFAワールドカップでは、日本人選手としては最多タイの4度目の出場を果たす。大会前は前回と同じく金髪に変身したが、本番ではかつての戸田和幸を彷彿とさせる赤い髪で出場。中山が負傷で欠場となったこともあって左サイドバックのファーストチョイスとして起用され全4試合にスタメンとして起用されるが、システム変更の都合などで全試合途中で交代となっていた。それでも大会中は対人守備で存在感を発揮しつつベテランとしてチームを引っ張り、日本のベスト16進出に貢献。なお、大会中は「ブラボー!」と叫んで盛り上げるブラボー長友と化し、大きな話題となる。帰国後、公の場でブラボーを連呼し、すっかり持ちネタとなったようである。
カタールワールドカップ後、しばらくの間は代表から遠ざかっていたが、2024年3月の北朝鮮との2026 FIFAワールドカップアジア二次予選の北朝鮮戦で37歳にして1年4か月ぶりに代表に復帰。
女手一つで育ててくれば母親を尊敬しており、大学卒業を待たずにプロ入りしたのも「早く母に楽をさせてあげたかったから」と語っている。一時はグレかけていた長友が一流のサッカー選手にまで成長したことで長友家式子育て方法が注目されるようになった。
サッカー選手としての武器となっている驚異的な運動量は、中学時代のサッカー部の顧問である井上博監督が課した走り込みによって培ったものだと言われている。また、大学時代試合に出れずパチンコ三昧だった時期もあったが、この頃に体幹を鍛えるようになっており、その後長友式体幹トレーニングが注目されるようになる。結婚後も食事は専属のシェフに作ってもらうなど、肉体作りに関する意識は高い。
コミュニケーション能力が高く、そのおかげでイタリアの地でもチームに溶け込むのに苦労をしなかった。インテルでチームメイトだったアントニオ・カッサーノやマルコ・マテラッツィといったワルと言われている選手からも大変気に入られている。イタリア語も通訳なしで流暢に話せるほどマスターしており、イタリア人のザッケローニが日本代表監督だったときは、監督と選手の会話の橋渡し役となっていた。ただ、イタリアの生活が長いこともあり、会見で日本語を忘れてしまったことがあり、記者から「イタリア語でどうぞ」と言われ、イタリア語で話した。
平愛梨との交際が明らかになったとき、彼女のことを「僕のアモーレ(恋人)です。」とコメント。この「アモーレ」が2016年の流行語大賞にノミネートされる。ロシアワールドカップ前に金髪にイメチェンした際、周りから散々似合わないと言われた中、平はツイッター上でフォローしている。その後、三人の凍共を授かっている。
2011年に出版した著書『日本男児』がオリコン本ランキングで1位を獲得し、スポーツ選手では初となる快挙となった。
左サイドバックが主戦場であるが、右サイドバックでもプレーが可能で、ウイングバックとして3バックに対応ができ、サイドハーフもこなせるユーティリティプレイヤーである。全盛期の頃の運動量と持久力、トップスピードは世界でもトップクラスであり、ポジショニングに難はあったが運動量とスピードで十分カバーすることができた。フィジカルコンタクトも強く、大型の選手にぶつかられてもブレないだけの体幹を持ち合わせている。
対人守備の強さにも定評があり、スピードを売りにしたサイドアタッカーと対峙したときに対抗ができるエースキラーとしても重宝されている。2010 FIFAワールドカップではカメルーンのエースのサミュエル・エトーをしぶといマークで完封している。体幹の強さに基づいたフィジカルの強さ、スピード、そして守備の技術の高さから自分よりも遥かに大柄な選手とのマッチアップでもデュエルで互角以上に渡り合い、数々のワールドクラスのアタッカーを抑え込んでいる。
一方、左右両方のサイドをこなせる割には左足のキックの精度はそこまで高くない。止まって足元でボールを受けたときのプレーの選択肢は限られており、組み立て面であまり貢献ができず、縦に仕掛けるプレーが読まれると詰まってしまう。また、身長が低いため、4バックで中に絞って守る場合に相手の長身FWに狙われやすく、インテルでスタメンから外されるときは監督がこの高さのハンディを不安視するからだと言われている。
「ユウトとは、最高の関係にある。毎朝、お辞儀をして挨拶し合っているんだ。」
「時々、動くクマのぬいぐるみじゃないかと思っちゃうんだ。かわいすぎるよ!」
〜ハビエル・サネッティ〜 (元インテルキャプテン、元アルゼンチン代表)「“チームのマスコット”になっていますからね。彼がいることで、チームの雰囲気は明るくなる。彼は頭が良く、すごくフレンドリー。 彼は特に意識しないでも、自然にフレンドリーに振る舞えるんだろうね」
〜マッシモ・モラッティ〜 (インテル元会長、元名誉会長)「ユウトは我々が絶対に手放したくない選手。」
「ユウトは私が監督に就任して以来、最も上達した選手の1人だね。さらに上達できるよ。」
「彼のプロ意識は信じられないくらいのものだよ。向上心、やる気が非常にあり、常に大きいモチベーションを持っている。」
「どのポジションでもプレーできる選手だね、ゴールキーパー以外は(笑)」
〜アンドレア・ストラマッチョーニ〜 (インテル2012-13シーズン監督)「ユウトを批判する連中はサッカーを知らないんだと思う。サッカーを理解している人なら、誰よりもチームのためにプレーしているのがユウトだとわかるはずだけどね」
「いつも一緒なんだ。よくディナーを食べに僕に家に来るよ。ナイスガイで、とても良いやつだ」
「僕は残留したい。ここには素晴らしいチームメートがいる。サネッティは素晴らしい人格の持ち主で、チームのモラルが低かったときでさえ、僕たちを団結させたんだ。そしてユウトもね。妻はユウトの良さを分かってくれていないみたいだけど(笑)」
〜ヴェスレイ・スナイデル〜 (元インテル、オランダ代表)「今日は9時に起こしに行ったんだ。でも、彼は起きたがらなかったんだよ。ヒマができると、彼のところに行っている。ユートといると、あっという間に時間が過ぎるんだ」
〜アントニオ・カッサーノ〜 (元インテル、イタリア代表)
なお長友はブログをやっており、近況のほかルイス・フィーゴやファビオ・カンナバーロ、ディエゴ・フォルラン、ウェズレイ・スナイデル、アントニオ・カッサーノ、ハビエル・サネッティ等の数々の栄光を掴んできた一流選手たちとのフォトが掲載されていたりする。
2020年4月13日には自身の公式YouTubeチャンネルを開設。
なおCM本編の映像がスナイデルの目に止まり、ツイッターにより全世界に拡散された模様。
得点後や試合後にチームメイトとお辞儀をするパフォーマンスが有名。
2022 FIFAワールドカップの試合後のインタビューで「ブラボー!!」と絶叫していたのが持ちネタ話題となる。大会後、各メディアに出演した際も連呼していた。
2022年12月31日の第72回NHK紅白歌合戦に森保一監督と共にゲスト審査員として出演し、やっぱり「ブラボー!」を披露していた。
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