大迫勇也(Yuya Osako, 1990年5月18日 - )とは、日本のサッカー選手である。
J1リーグのヴィッセル神戸所属。元サッカー日本代表。
2010年代の日本を代表するFWであり、抜群のキープ力を武器としたポストプレーと前線からの献身的な守備で歴代の日本代表監督から重宝されている。
高校時代からすでに規格外のポテンシャルを発揮しており、第87回全国高等学校サッカー選手権大会では大会新記録となる10得点を記録しており、現在もこの記録は打ち破られていない。準々決勝で対戦し敗れた滝川二高のキャプテンが大迫の実力を目の当たりにし、「大迫半端ないって」というフレーズを残したことが有名になる。
2009年に鹿島アントラーズに入団し、プロ入り。選手層の厚い常勝・鹿島においても存在感を見せ2度のJリーグ優勝を経験。2013年には日本代表にデビューしている。
FIFAワールドカップには、2014年と2018年に2大会連続で出場。2018年のロシア大会では、初戦のコロンビア戦で値千金の決勝ゴールを決め、「大迫半端ないって」がネット上に溢れ返った。
2014年から2017年までの7年間ドイツ・ブンデスリーガでプレーしており、WGやMFとしても起用されている。ヴェルダー・ブレーメン時代にはチームを降格の危機から救ったこともある。2021年8月よりJリーグに復帰し、ヴィッセル神戸に移籍。2023年のJ1リーグでは神戸にリーグ初優勝をもたらし、リーグ年間最優秀選手賞と得点王を受賞。
2014年3月5日にモデルの三輪麻未と結婚。同年10月に第一子が誕生している。
2022年4月現在、代表初ゴールを決めた2013年以降、大迫がゴールを決めた試合で日本代表は負けなしである。
鹿児島県加世田市出身。3人兄弟の次男であり、父親は野球を、母親はバレーボールをするスポーツ一家で育つ。実家は最寄りのコンビニまで15分かかるほどの田舎だった。3つ年上の兄がサッカーをしていたこともあり、3歳の頃には近所の子供たちとボールを蹴って遊んでいた。幼稚園にサッカー教室としてスポーツクラブが来たことで関心を持ち、このスポーツクラブのサッカー教室に通っていた。
小学3年生のとき、兄が所属していた万世スポーツ少年団に入団。チームは鹿児島県内でもさほど強いチームではなく、厳しい練習もなかったが、負けず嫌いで特に兄には負けたくないと果敢に勝負を挑んでいた。当時のポジションはトップ下で、ドリブルで突破していき、ゴールまで自分でやっていた。小学5年生で既にはプロを目指すことを目標にしており、将来を見据えて体のことを考えた生活を意識しており、お菓子などのジャンクフードを食べず、炭酸飲料を飲まなくなるほどストイックだった。
中学は鹿児島育英館中学校に進学。セレクションに合格し、新設された体育コースの特待生として入学した。サッカー部が立ち上がったばかりということもあり、部員は1年生のみの15人だった。自宅から片道1時間かけて通学していたことに加え、練習がハードだったことでメンタル的にかなり鍛えられたという。中学に入ってから監督の勧めでFWに転向。中学2年になると頭角を現すようになり、鹿児島県内のサッカー関係者の間では名が知れ渡るほどの抜きんでた選手となっていた。
鹿児島城西高校に進学すると、1年でレギュラーの座を掴む。中学を卒業したばかりの段階で大学生相手の練習試合で1ゴール1アシストの活躍を見せるほどの才能を発揮し周囲を驚かせている。入学時点では身長も180cmまで伸びており、U-16日本代表にも選出されていた。すでに「プロでどう活躍するか」を考えるほど意識が高く、超高校級のストライカーとしてJリーグのスカウトから注目される存在となる。
2年生のときは、JFAプリンスリーグU-18九州1部で得点ランク5位の成績を残す。しかし、この年の全国高校選手権では、鹿児島県大会の決勝で敗れ全国への切符を逃している。
3年生になると、もはや異次元のプレイヤーと化していた。自らゴールを奪うだけでなく、周囲を使える近代型のストライカーへと進化し、JFAプリンスリーグU-18九州1部では8試合10ゴールを記録し、得点王に輝く活躍で鹿児島城西を優勝へ導いている。2008年9月の高円宮杯全日本ユース選手権では、準々決勝で宇佐美貴史を擁するガンバ大阪ユースを相手にハットトリックを達成。秋の高校選手権鹿児島県予選では5試合11得点の活躍で全国への切符を掴む。2008年は新人戦・高校総体・選手権と鹿児島城西サッカー部史上初となる鹿児島県内三冠達成にエースとして大きく貢献した。
第87回全国高等学校サッカー選手権大会では、メディアからの大きな注目と期待を受けながらも初戦から4試合連続2得点と爆発。最終的に決勝までの全6試合で得点を記録しており、10得点10アシストの大会新記録を樹立。この記録は現在も打ち破られていない。準々決勝の滝川二高戦で、大迫の規格外のプレーを目の当たりにした相手チームの主将からかの有名な「大迫半端ないって」というフレーズが生まれる。決勝で広島皆実に敗れ、準優勝に終わったがこの大会は「大迫勇也の大会」と称され、後の選手権での伝説になるほどの絶大なインパクトを残すこととなった(大迫半端ないっての記事も参照)。
早くからプロ入りを目指しており、Jリーグの6チームが争奪を繰り広げた中、卒業後の2009年に鹿島アントラーズに入団。シーズン開幕前の公式戦であるFUJI XEROX SUPER CUPのガンバ大阪戦で後半44分から途中出場をし、早々と公式戦デビューを果たすと、2009年3月18日のAFCチャンピオンズリーグ上海申花戦でプロ初ゴールを記録。4月12日のFC東京戦ではJリーグ初ゴールも決めるなど、高卒1年目から半端ない活躍を見せ、鹿島のJリーグ3連覇に貢献。最終的に6ゴールと柳沢敦と並ぶ鹿島の高卒1年目の選手の最多得点記録を残す。
2年目の2010年からは背番号9を譲り受けると、マルキーニョスや興梠慎三といった実力者とのポジション争いに置かれたことで控えに回ることも多かったが、チームの主力として着実に成長。2011年1月1日の第90回天皇杯決勝の清水エスパルス戦では、試合終了直前までピッチに立ち続け、優勝メンバーとなっている。
2011年は、クラブが東日本大震災の被害に遭い、一時は活動を休止する苦難に立たされるが、Jリーグヤマザキナビスコカップ決勝の浦和レッズ戦では決勝点を決め優勝に貢献。大会最優秀選手に輝いている。この年、マルキーニョスが退団、興梠の不調、鳴り物入りで加入したカルロンが期待外れだったこともあってFWのファーストチョイスに指名されていた。しかし、怪我で離脱したことも影響し、5ゴールと物足りない数字に終わり、伸び悩みを指摘する声も出始めていた。
2012年は開幕で大きく躓き、序盤戦は得点力不足に苦しむチームの中で自身も結果を残せず批判を受ける。それでも徐々に調子を上げ、Jリーグ発足後初の二桁順位に終わったチームの中で奮闘。1トップで起用される機会が増え、テクニックを活かしたポストプレーに磨きがかかる。さらに、プロ入り後自己最多となる9ゴールを記録。また、この年のヤマザキナビスコカップでは9試合で7ゴールを決め、大会得点王となり、鹿島の連覇に貢献している。
2013年には、課題とされていた決定力が大きく向上。新加入のダヴィとの2トップの相性も良く、パサーである柴崎岳や小笠原満男との連携も高まったことでゴールを量産できるようになる。8月7日におこなわれたスルガ銀行チャンピオンシップでは、サンパウロFCを相手に終了間際の劇的な決勝ゴールを含むハットトリックの大活躍を見せ、この年のチーム唯一のタイトルとなった鹿島の連覇に貢献。特に8月は6試合で6得点でJリーグ月間MVPに選出されるなど、圧倒的なパフォーマンスを見せていた。最終的には、プロになって初めてのシーズン二桁得点となる19ゴールを記録、日本を代表するストライカーとしての地位が確立されたシーズンとなり、この年のJリーグベストイレブンに初めて選出される。なお、鹿島での最後となったJ1リーグ最終節サンフレッチェ広島戦では、プロになって初めての退場になっている。
2014年1月6日、ドイツ・ツヴァイテリーガ(2部)のTSV1860ミュンヘンへの完全移籍が決定。背番号は「9」となり、ブンデスリーガ昇格の切り札として期待される。2014年2月10日のデュッセルドルフ戦でデビューを飾ると、その試合でいきなり初ゴールを決め、鮮烈なデビュー戦となる。そのままレギュラーに定着し、加入後6試合で4得点と結果を残す。しかし、失速するチームと共に6試合連続無得点が続く。終盤に監督が交代になるとトップ下で起用され、最終的に後半戦全試合に出場し、6ゴール3アシストで一定のッ評価を得た。チームが昇格を逃したこともあり、新天地を模索するようになる。
2014年6月5日、この年ブンデスリーガに復帰した1.FCケルンへ移籍。背番号は「13」。開幕当初から出場機会を与えられると、リーグ戦2試合目となる8月30日のVfBシュトゥットガルト戦でブンデスリーガでの初ゴールを記録。昇格組のチームということもあってサポートに恵まれなかったこともありゴール数が伸びず、スタメンから外れることも多くなる。シーズン終盤はシステム変更によって2トップの一角として起用され、チームの残留に貢献。
2015-2016シーズンは、開幕戦のシュトゥットガルト戦でゴールを決めたものの、新加入のアントニー・モデストが活躍したことによってポジション争いで敗れ、出場機会を失う。シーズン後半戦はトップ下やサイドハーフで起用される機会が増えるが、本来のスケールの大きいプレーからは程遠く、周囲を満足させる出来ではなかった。結局、開幕戦の1ゴールだけでシーズンを終えてしまう不本意なシーズンとなる。
2016-2017シーズンは、最初の公式戦となったDFBポカール1回戦で2ゴールを奪ったことでアピールに成功。2016年9月21日のブンデスリーガ第4節シャルケ04戦でシーズン初ゴールを決めると、第5節のRBライプツィヒ戦で2試合連続ゴールを決める。モデストとの2トップが嵌ったこともあり、ようやく本来のパフォーマンスを発揮できるようになる。2017年1月28日のダルムシュタット戦ではブンデスリーガでは初となる1試合2ゴールを記録。そして、勝てばUEFAヨーロッパリーグ出場権が決まるシーズン最終節のマインツ戦では、試合終了間際に値千金の劇的な決勝ゴールを決め、ケルンを15年ぶりの欧州の舞台へと導く。7ゴール6アシストと結果を残し、大事な場面でゴールを決めていたことから、サポーターからの信頼を掴んだシーズンとなった。
2017-2018シーズンは、開幕前にモデストが中国へ移籍した影響を受けチームは低迷。初のELの舞台を経験し、2017年11月2日のELグループステージ第4節BATEボリゾフ戦にてEL初ゴールを決める。しかし、チーム事情で色々なポジションをたらい回しにされた影響でリズムが狂ってしまい結果を残せず、地元メディアやサポーターから批判が集まるようになる。結局ケルンは浮上のきっかけを掴めないままシーズン最下位に終わり、降格となる。これに伴い、移籍が確実視される。
2018年8月20日にブンデスリーガのヴェルダー・ブレーメンに移籍。移籍金は6億円から8億円と見られ、背番号は「8」。2018年9月1日のブンデスリーガ第2節アイントラハト・フランクフルト戦でリーグ戦での移籍後初ゴールを決める。新天地で幸先の良いスタートを切ったかに見えたが、チームの不動のエースであり、10番を背負ったマックス・クルーゼとプレーエリアが被ったことで連携が合わず、ケルン時代と同じようにサイドやインサイドハーフで起用されることも増える。2019年1月にはアジアカップ出場のためチームを離れ、さらに背中の腱の炎症が発覚して長期の戦線離脱。このとき怪我を抱えながら大迫を起用した日本代表に対し、ブレーメンから抗議が出されている。復帰後も調子は上がらず、リーグ戦3ゴールという成績に終わっている。
2019-20シーズンでは、開幕前にクルーゼが移籍したことで前線の軸として期待され、監督自ら開幕戦でのCFでのスタメンを確約する発言をする。開幕直後は期待に応え、第2節ホッフェンハイム戦と第3節アウクスブルク戦では2ゴールの活躍を見せ、新エースとして順調なスタートを切る。しかし、第4節のウニオン・ベルリン戦で太ももを負傷し、5週間の戦線離脱を余儀なくされる。復帰後も調子が上がらず、チームも8試合無得点が続くなど深刻な不調に陥り、降格の危機に直面。自身も長くゴール、アシスト共にできない期間が続き、低迷の戦犯として批判を浴びせられる。しかし、新型コロナウィルスによる中断明けとなったシーズン終盤戦になって復調すると、自力での残留の可能性が無くなっていた最終節のケルン戦で2ゴールを決める活躍を見せ、逆転での入れ替え戦進出に貢献。結果、ブレーメンは残留を果たす。シーズンの得点数はドイツに渡ってからの最多となる8得点を記録。
2020-21シーズンもチームの柱として飛躍が期待されたが、DFBポカール1回戦、ブンデスリーガ開幕戦といずれも低調なプレーに終わり前半だけで交代させられてしまう。地元メディアやサポーターから厳しい批判を受けたこともあり、これによって序列が低下。出場機会が激減してしまい、放出の話も出るようになる。2021年4月7日におこなわれたDFBポカール準々決勝レーゲンスブルク戦で得意の後ろから来たボールをトラップしてのゴールを決め、ようやく公式戦初ゴールが生まれ、ベスト4進出をもたらす。しかし、最後まで序列は上がらず、巡ってきた出番で結果も残せず、キャリアで初めてリーグ戦ノーゴールに終わり、チームも最終節で2部に降格することが決定する最悪のシーズンとなった。
2021年8月8日、J1リーグのヴィッセル神戸へ移籍することが発表され、8年ぶりに国内でプレーすることになる。背番号は「10」。年俸はJリーグの日本人選手としては過去最高となる4億円と報じられている。コンディションの悪さもあってチームにフィットできず、なかなか結果を残せず批判を受けていたが、10月1日のJ1第31節浦和レッズ戦で加入後6試合目にして移籍後初ゴールを決める。シーズン終盤になるにつれてコンディションも上がり、武藤嘉紀との2トップがフィットするようになり、最後の4試合で3得点を記録し、神戸のACL出場権獲得に貢献する。
2022年は開幕戦の横浜F・マリノス戦で右脚を裂傷するが、強行出場した3月15日のACLプレーオフ メルボルン・ビクトリー戦では2ゴールの活躍を見せる。しかし、その後は自身の調子は上がらずノーゴールが続き、チームもJ1リーグでは開幕から11試合未勝利と危機的な状況となる。5月13日の第12節サガン鳥栖戦に途中出場すると、ようやくリーグ戦でのシーズン初ゴールが生まれ、チームも初勝利を飾る。7月に3試合連続ゴールを決めるなど復調の兆しを見せるが、ACL敗退後の8月28日に吉田孝行監督からコンディション不良のため当面の公式戦を欠場することが明らかにされる。9月18日のJ1第30節残留を争うガンバ大阪との直接対決で復帰。後半からピッチに立つと、2ゴールの活躍でチームの逆転勝利に貢献する。10月12日の第27節湘南ベルマーレ戦でも値千金の決勝ゴールを決め、チームのJ1残留に貢献する。
2023年は良好なコンディションでシーズンに入り、2月25日の第2節北海道コンサドーレ札幌戦でシーズン初ゴールを記録。4月15日には古巣である鹿島を相手に2ゴールを決め、勝利に貢献。その後も首位を走るチームの攻撃の核として得点とポストプレーで絶大な存在感を発揮し、5月20日の第14節柏レイソル戦では出場14試合目にして早くも二桁ゴールに到達。自信にとっては鹿島時代の2013年以来のシーズン二桁得点となった。8月12日の第23節川崎フロンターレ戦ではプロになって初となるFKからの直接ゴールを決め、勝利に貢献。8月26日の第25節FC東京戦のゴールで自身のキャリアハイに並ぶリーグ戦19ゴール目を記録し、9月29日第29節横浜F・マリノスとの首位攻防戦では先制ゴールとなるPKを決め、自身のキャリアで初となるシーズン20ゴールに到達。そして、勝てばリーグ制覇が決まる状況となった11月25日の第33節名古屋グランパス戦でも2アシストの活躍によって勝利をもたらし、ヴィッセル神戸を悲願のJ1初優勝に導く。大きな怪我もなくリーグ戦全試合に出場し22ゴールを記録。アンデルソン・ロペスと共にJ1得点王のタイトルを獲得。さらに、J1リーグの最優秀選手賞も受賞。まさに"半端ない"シーズンとなった。
2024年シーズンは開幕前に神戸との契約を2026年まで延長。3月9日の第3節FC東京戦でPKを失敗したものの、その後にシーズン初ゴールとなるFKからの決勝ゴールを決める。前年の活躍から相手からのマークがさらに厳しくなったこともあり、前半戦はなかなかゴールを決めることができなかったが、それでもポストプレーやチャンスメイクで攻撃を牽引し、武藤との抜群のコンビネーションでも貢献していた。第21節の鹿島戦からは3試合連続ゴールを決めるなど後半戦には調子を上げ、神戸のリーグ連覇と天皇杯優勝の二冠に貢献。シーズン中3本PKを失敗するなどらしくない面もあったが、11ゴール9アシストと20ゴールに関与しており、2年連続でベストイレブンにも選出されている。
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
2009 | 鹿島アントラーズ | J1リーグ | 22 | 3 | |
2010 | 鹿島アントラーズ | J1リーグ | 27 | 4 | |
2011 | 鹿島アントラーズ | J1リーグ | 25 | 5 | |
2012 | 鹿島アントラーズ | J1リーグ | 25 | 5 | |
2013 | 鹿島アントラーズ | J1リーグ | 33 | 19 | |
2013-14 | 1860ミュンヘン | ツヴァイテリーガ | 15 | 6 | |
2014-15 | ケルン | ブンデスリーガ | 28 | 3 | |
2015-16 | ケルン | ブンデスリーガ | 25 | 1 | |
2016-17 | ケルン | ブンデスリーガ | 30 | 7 | |
2017-18 | ケルン | ブンデスリーガ | 25 | 4 | |
2018-19 | ブレーメン | ブンデスリーガ | 21 | 3 | |
2019-20 | ブレーメン | ブンデスリーガ | 28 | 8 | |
2020-21 | ブレーメン | ブンデスリーガ | 24 | 0 | |
2021-22 | ブレーメン | ツヴァイテリーガ | 2 | 0 | |
2021 | ヴィッセル神戸 | J1リーグ | 11 | 4 | |
2022 | ヴィッセル神戸 | J1リーグ | 26 | 7 | |
2023 | ヴィッセル神戸 | J1リーグ | 34 | 22 | |
2024 | ヴィッセル神戸 | J1リーグ | 36 | 11 |
高校時代からU-16代表に呼ばれ、逸材という評価を受けていたが、意外にもアンダー世代の代表に呼ばれながらも本大会のメンバーからはことごとく外される挫折を味わっている。特に、2007年のU-17日本代表ではそれまでレギュラーの座を確保していたが、城福浩監督からポジションを奪う闘志に欠けていると判断され、最後のU-17ワールドカップ出場のメンバーから外されている。2012年のU-23代表においても、アジア予選や親善試合でノーゴールが続いたことで序列が下がってしまい、ロンドン・オリンピックの最終メンバーに残ることができず、予備登録メンバーとしてチームに帯同している。
2013年7月Jリーグでの活躍が評価され、東アジアカップ2013の出場メンバーとして日本代表に初選出。初戦の中国戦でフル代表デビューを果たすと、続くオーストラリアでは2得点を挙げる活躍を見せ、東アジアカップ初優勝に貢献。この活躍がアルベルト・ザッケローニ監督に認められ、柿谷曜一朗と1トップの座を争う存在となる。その後のヨーロッパ遠征では強豪オランダ相手に2点ビハインドの状況から1G1Aと結果を出し引き分けに持ち込んだ。日本人がA代表のオランダ相手にゴールを決めたのはこの時が初。
2014年には、2014 FIFAワールドカップ本大会メンバーに選出され、初めて日の丸を背負って世界大会に出場することになる。大迫は、第1戦のコートジボワール戦、第2戦のギリシャ戦とスタメンで起用されるが、何もできないままいずれも途中交代。最後のコロンビア戦は出場機会を与えられず、チームもグループリーグ敗退となる。
その後、負傷やドイツでの不調の影響もあってしばらく代表からは遠ざかっていたが、2016年11月に1年半ぶりに代表へ復帰。11月11日のオマーンとの親善試合で2ゴールを決める活躍を見せると、ヴァヒド・ハリルホジッチ監督から安定したポストプレーが評価され、以降のロシアW杯アジア最終予選で1トップのファーストチョイスとして起用されるようになる。2017年6月13日のイラク戦では、先制ゴールを決め、8月31日のオーストラリア戦では、高いキープ力で速攻を狙うチームの基準点としての役割を果たし、W杯出場権獲得に貢献。一部のマスコミやファンからは得点の少なさが指摘されていたが、前線で起点の働きができる貴重な存在として、就任した西野朗監督からも重宝される。
自身2度目のワールドカップとなる2018 FIFAワールドカップ本大会のメンバーに選出されると、これまでアジア勢が一度も勝利したことがない南米勢で尚且つ前回大会敗れていたコロンビア相手にコーナキックから決勝点をあげ日本のグループステージ突破に大きく貢献。このコロンビア戦でのゴールの瞬間、ツイッターなどネット界隈を中心に「大迫半端ないって」のワードが多く用いられ、2018年の流行語大賞にノミネートされる。大会では、ポーランド戦以外の4試合で1トップのレギュラーを務め、前線の基準点として2列目を活かす重要な働きを見せていた。
ワールドカップ後に森保一監督が就任した新生日本代表において、ロシア・ワールドカップを戦ったメンバーが多く代表を去る中、引き続き前線の核として君臨。中島翔哉、南野拓実、堂安律という新しい2列目のアタッカーを前線で操る存在としてチームに欠かせない存在となり、不在のときはチームが機能不全に陥ってしまうほどであった。
2019年1月にUAEで行われたAFCアジアカップ 2019では、直前の練習で負った背中の怪我で出場試合が限られた中、準決勝のイラン戦では2ゴールを挙げる活躍でチームを勝利に導き、最終的に4試合で4ゴールを記録し得点ランキングで2位につけた。だが、この大会で負傷を負っているにも関わらず強行出場させたことに所属チームのブレーメンが激怒し、一時日本サッカー協会と対立することとなった。2021年3月に日本代表に選出された際は、ブレーメンで出場機会が減っていたため選出に疑問を持つ声が多数あがったが、3月25日の韓国戦では2アシスト、3月30日のモンゴル戦では代表での1年半ぶりのゴールを含むハットトリックの活躍を見せ、存在価値をアピールする。5月28日のミャンマー戦では2試合連続ハットトリックとなる5ゴールを決め、ブンデスリーガで不遇だった鬱憤を晴らすかのようなゴールラッシュを披露。
2022 FIFAワールドカップアジア最終予選では第2戦の中国戦で決勝ゴールを決めたものの、コンディションの悪さが目立って精彩を欠き、それでも森保監督が不動の1トップとしてスタメンで使い続けたことで長友佑都、柴崎岳と共に低調な戦いが続くチームの戦犯の1人に挙げられ批判を受ける。ワールドカップ出場を決めた2022年3月のオーストラリア戦は怪我のため欠場。6月の代表戦はコンディション不良ということもあって落選。9月の欧州遠征も怪我のために不参加となり、ワールドカップ出場が危ぶまれる。10月に入りコンディションが上向きになり、代表復帰を有力視する声も出たが、ワールドカップ本大会のメンバーから落選する。バックアップメンバーとして招集を打診されたが、オファーを断っている。
プロ入り当初はヘディングが苦手であると語っていたがコロンビアやFIFAランクアジア最上位のイランから決勝点を奪ったり名手ノイアーを破ったりするなど武器として成長している。
上半身は一見ヒョロヒョロしている(内田篤人談)がポストプレーが上手く体格で上回る相手にもボールをしっかり収めて二列目を生かすことができる。またカップ戦に強い。
何でも水準以上のレベルでこなせてしまう万能型のストライカーであり、テクニックや裏を抜けるスピード、周りを操るパスセンス、安定したポストプレー、高さ、前線からの献身的な守備と現代のセンターFWが求められる能力を全て持ち合わせている。
特筆すべきは、競り合いの強さでジェロム・ボアテング、マッツ・フンメルス、ディエゴ・ゴディンといったワールドクラスのセンターバックとまともに競り合っても勝つことができ、ポストプレーの確度も維持することができる。特に、2列目に技術の高い選手が揃う日本代表においては、欠かせない存在とされ、大迫の代わりの役割ができる選手がいないことが日本の課題となっている。
逆に何でもこなせてしまうが、飛びぬけた能力があるわけではないため器用貧乏になってしまうことがあり、ドイツに移籍してからはトップ下やサイドハーフ、インサイドハーフでも起用され、調子を落としてしまうことに繋がっている。また、コンスタントにゴールを決めることができないのが課題であり、数字にこだわる欧州のメディアやファンからは批判の的にされてしまうことも。
※「大迫半端ないって」関連については専用記事を参照。
ヴェルダー・ブレーメン監督(2017-) フロリアン・コーフェルト
「彼は自分がどれほど優秀な選手かわかっているのかな」
「大迫半端ないって~!もぉ~・・・アイツ半端ないって!!後ろ向きのボールめっちゃトラップするもん!!そんなん出来ひんやん普通・・・」
掲示板
66 ななしのよっしん
2023/12/26(火) 11:51:12 ID: CzLHrgVDtH
今呼ばれてる選手もJリーグで活躍しても呼ばれてなかったんだから
三笘がいくらJで無双してても呼ばれなかったのに海外いったら呼ばれるようになったし古橋・前田・田中・旗手・上田あたりもそうでしょ
国内で戦術大迫で活躍したくらいじゃ呼ばれんでしょ
67 ななしのよっしん
2023/12/26(火) 12:04:05 ID: hmwon/4qeZ
そのポジションが手薄ならJリーグでも呼ばれるけど酒井ゴリとか長友とか
今の代表は別にポストできるプレーヤーいらないし
大迫自身強豪相手に背負えなくなったからJに来た
久保伊東三笘のサイドでボール持てる分裏抜けできるFWが必要なんで
で前からのハイプレ必須だから尚の事大迫はいらない
70分も攻撃&守備走りできないでしょ
68 ななしのよっしん
2023/12/30(土) 00:43:35 ID: pxlCm0zuLy
来年で34になるし、年齢的なものは大きいと思う
2023年あれだけ無双できたのも、クラブに専念できてコンディションを維持できたというのがあったし
それにカタールW杯のときにリザーブでの招集を拒否したのが問題視されたのもあるだろう。森保さんの中でも前ほど絶対的な存在ではなくなってたのもあるけど
ただ、2022年のワールドカップのときはレギュラーじゃなくても26人に入れておくべきだったと今でも思う。コスタリカやクロアチアみたいなタイプの相手には必要だった
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最終更新:2024/12/23(月) 19:00
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