岡崎慎司(Shinji Okazaki, 1986年4月16日 - )とは、日本の元サッカー選手である。
元サッカー日本代表。
174cm76kg。ポジションはFW。利き足は頭と右足。御年57歳。
チームメイトからは「オカ」「岡ちゃん」という愛称で呼ばれ、ファンからは「ザキオカ」と呼ばれることが多い。
小柄な体格ながらも献身的な働きと持ち前のゴール前の泥臭いプレーでゴールを奪う日本を代表するストライカーとして活躍。代名詞はダイビングヘッドと呼ばれるほど、常に全力で体を張り続けるプレースタイルは各方面から高く評価されている。テクニックが特別高いわけではなく、スピードも特別あるほうではないが、運動量と動きの質の高さで勝負するタイプである。前線からの守備にも定評があり、攻守両面でチームに貢献できる貴重な選手である。
ユース年代の頃やプロ入り初期の頃はけっして注目された選手ではなかったが、地道な努力によって成長を続け、日本代表にまで登りつめる。日本代表としては歴代3位の50ゴールを記録しており、出場試合数119試合も歴代4位の記録である。特に2009年の代表戦では16試合で15ゴールという脅威的な数字を叩き出しており、FIFAワールドカップにも2010年、2014年、2018年の3大会連続で出場し通算2ゴールを決めている。
ドイツ、イングランド、スペインの3ヶ国のトップリーグでプレーした経験を持ち、マインツ時代には2シーズン連続で二桁ゴールを記録。2013-14シーズンにはブンデスリーガで15得点をあげている。2016年には、レスター・シティのプレミアリーグ初優勝に貢献しており、「ミラクル・レスター」と呼ばれる歴史的な快挙を成し遂げたメンバーの一員となった。また、欧州主要リーグにおける日本人最多得点記録保持者でもある。
兵庫県宝塚市出身。父親は元野球部、母親はインターハイ優勝歴を持つ元テニス選手であり、2歳年上の兄もサッカーをやっているというスポーツ一家の末っ子として生まれ育つ。幼少の頃は、父親の仕事の影響で何度か引っ越すことがあった。
小学校2年生の頃から兄の影響でサッカーを始め、宝塚ジュニアFCに所属してからはサッカー漬けの生活となる。父親からは野球、母親からはテニスを勧められたが、兄がそれでもサッカーをやると言い出したことから兄についていく形でサッカーを選択。当初はDFとしてプレーしていたが、小学4年生のときにFWにコンバートされている。当時から努力家で人一倍練習をしており、クラブの練習後も兄と一緒に暗くなるまでボールを追いかけていた。岡崎の代名詞ともいえるダイビングヘッドは、この頃の練習で培ったものと言われている。
中学時代は、引き続き宝塚FCでプレーしながら三田市立けやき台中学校のサッカー部にも所属していた。この頃からメキメキと実力をつけており、兵庫県選抜にも選ばれている。
高校は、サッカーの強豪校として全国的にも知られる滝川二高に進学。1年生の頃からレギュラーを獲得すると、全国高校サッカー選手権では兄と2トップを組んで出場し、準々決勝で2ゴールを決めベスト4入りを果たしている。2年生のときの高校選手権ではエースストライカーとして3ゴールを記録し、2大会連続でベスト4に進出。しかし、準決勝で怪物・平山相太を擁した国見高校の前に完敗。3年生のときは、金崎夢生、森島康仁といった後の日本代表経験者が名を連ねたチームのキャプテンを務めた。大会直前に右足の疲労骨折を負い万全な状態ではなく、1回戦で3大会連続でのゴールを決めたものの、本田圭佑を擁する星稜高校に敗れ、高校サッカーの3年間を終えている。
2005年にJ1リーグの清水エスパルスに加入。地元のヴィッセル神戸からもオファーを受けていたが、より高いレベルでのプレーを求めて初めて地元を離れることを決意する。しかし、加入時の長谷川健太監督からの評価は「FW8人の中で8番目」といったもので、1年目は公式戦に出られない日々が続いた。それでも、8月6日のヤマザキ・ナビスコカップ準々決勝浦和戦で公式戦デビューを果たし、J1最終節のサンフレッチェ広島戦でリーグ戦デビュー。2006年1月1日の天皇杯決勝という大舞台で初めてスタメンに抜擢される。
2006年もサテライトで過ごすことが多かったが、着実に結果を残しリーグ戦7試合に出場。
2007年には、トップチームでの出場試合数が大幅に増える。4月15日のJ1第8節川崎フロンターレ戦において、プロ3年目でJリーグ初ゴールを決める。当初はSHとして起用されることが多かったが、徐々にCFとしての出場時間を増やして行き、最終的にリーグ戦5ゴールを記録。
2008年は途中出場ながら短い時間でゴールを決めたことが評価され、徐々にレギュラーとして起用されるようになり、シーズン後半戦には長谷川監督からFWの柱に指名される。一時は降格圏にまで低迷していたチームも岡崎ら若手が台頭するようになったことで最後には5位に浮上。この年、J1リーグで初の二桁ゴールを記録し、以降清水のエースとして定着。
2009年は、この年加入したフローデ・ヨンセンとの凸凹コンビが注目され、2トップの一角もしくは3トップの左ワイドストライカーとして起用される。夏以降に一時は首位に立つほど躍進を見せたチームにあって公式戦全41試合に出場するフル稼働ぶりを見せる。ゴールも自己最多となるリーグ戦14ゴールを記録。清水の選手としては10年ぶりにこの年のJリーグベストイレブンに選出される。ちなみに、優秀新人賞にも選ばれていたが、このときプロ5年目で日本代表でも十分な実績を持つ岡崎の選出には異論を唱える声が増え、新人王選出基準の見直しのきっかけとなる。
2010年はJ1第2節のモンテディオ山形戦でシーズン初ゴールを決めるも直後に相手選手と交錯し、前歯二本が根元から折れ曲がるアクシデントに見舞われる。小野伸二が司令塔としてチームに加入し、ヨンセン、藤本淳吾と構成した3トップはJリーグの台風の目となり、前半戦を首位で折り返す勢いを見せる。その中でチームサイトの13ゴールを決める活躍でチームを牽引。また、第90回天皇杯では決勝まで勝ち上がり、チームの久々のタイトル獲得に期待が集まるが、2011年1月1日の鹿島アントラーズとの決勝に敗れ、準優勝となる。そして、これが日本での最後の試合となった。
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2011年1月31日ドイツ・ブンデスリーガのVfBシュトゥットガルトに完全移籍が発表される。このとき、清水とシュトゥットガルトの間で移籍金1億円の発生を巡ってトラブルが起こり、ブンデスリーガのデビューが予定よりも伸びてしまう影響が出てしまう。この件をめぐり、安易に0円移籍で海外へ移籍する選手の在り方について議論が交わされることとなった。
2011年2月20日ブンデスリーガ第23節のレバークーゼン戦でスタメン出場を飾り、ドイツでのデビューを果たす。2010-11シーズンのシュトゥットガルトは残留争いに巻き込まれるほどの絶不調であり、岡崎は守備に走り回ることが多かったものの、その献身的な守備が評価され左サイドハーフのレギュラーを掴んだ。ドイツでの初ゴールは2011年5月6日に行われたハノーファー戦。厳しい残留争いの中、勝てば最終節を待たずに残留が決定する大一番で決勝点をもぎ取り、クラブの残留に貢献した。最終節では、強豪バイエルン・ミュンヘンを相手にゴールを決めている。
続く2011-12シーズンの前半戦では、左サイドハーフでの起用が多かったものの3得点を挙げるなどまずまずの活躍を見せたが、新加入選手の存在もありベンチを温めることも少なくなかった。シーズン後半戦には3試合連続得点を決め、2012年2月9日ハノーファー戦での見事なバイシクルシュートがドイツのテレビ番組が選ぶ月間最優秀ゴール賞に選ばれるなど調子がよかったが、怪我の影響もあり2桁得点にあと1歩届かなかった。
2012-13シーズンはベンチが定位置となり、試合終盤からの出場が多く、1得点を挙げるに留まった。シュトゥットガルト時代の3シーズンはストライカーとして評価されず、自身にとっても悔しい日々となった。
2013年6月25日にブンデスリーガの1.FSVマインツ05へ3年契約で完全移籍。背番号は清水時代と同じ「23」。
この新天地で似合わなかった長髪から短髪に戻したことでストライカーのレギュラーを勝ち取る。シーズン当初はシュトゥットガルト時代と同じ左SHで起用されていたが、1トップとして起用された第10節のブラウンシュバイイク戦でドイツに渡って初となるドッペルバックを達成。以降は1トップのファーストチョイスに定着する。この頃には、ドイツ国内での評価も日々上昇し、トーマス・トゥヘル監督からの信頼も勝ち取りエースとして君臨。最終節のハンブルガー戦でゴールを決めたことでリーグ戦では高原直泰、香川真司ら過去に活躍した日本人選手を上回るシーズン15得点をマーク。マインツに所属した選手のシーズンのゴール数のタイ記録であり、自身にとってもキャリアハイの記録となった。チームも7位という好成績を残す。ドイツオンラインメディアSPOXによる年間ベストイレブンにも選出され、ドイツに渡って4年目でようやく岡崎慎司の存在が認められた飛躍のシーズンとなった・
2014-15シーズンも開幕戦のパーダーボルン戦でゴールを決めて順調なスタートを切ると、第3節のヘルタ・ベルリン戦では2ゴールを決め、ケルンやブレーメンで活躍した元日本代表MF奥寺康彦のブンデスリーガ通算得点記録を更新した。序盤は好調だったチームは後半戦に入り失速するものの、自身は2シーズン連続2桁ゴール達成となるリーグ8位タイの12得点を挙げ、チームを牽引した。このマインツでの2年間の活躍により、岡崎の価値が上がり、さらなるステップアップを視野に入れる。
2015年6月26日イングランド・プレミアリーグのレスター・シティFCへ移籍。4年契約で移籍金は13億円。背番号は「20」。
開幕戦のサンダーランド戦からジェイミー・ヴァーディとの2トップでスタメンを勝ち取ると、8月15日の第2節ウェストハム戦でプレミアリーグ初ゴールを記録する。本来は残留が目標という中堅クラブのレスターだったが、このシーズンは誰もが予想できなかった快進撃を見せ、並み居る強豪クラブを抑えて首位に立つまでになる。そんな快進撃を見せるチームの中で、エースであるジェイミー・ヴァーディと抜群の相性の良さと守備における貢献度の高さが評価されて主力として定着。後半途中で交代となることが多かったが、チームのために常に全力で走る姿はサポーターからも愛されるようになる。2016年3月14日第30節ニューカッスル戦では、アクロバティックなオーバーヘッドキックによるゴールを決める。そして5月2日クラブ創設102年目にして初となるリーグ優勝を達成。後に「レスターの奇跡」と称されるタイトルは、自身のキャリアにとって初のリーグ戦優勝となった。得点数こそ少ないが、岡崎は前線の守備者としてクラウディオ・ラニエリ監督から必要不可欠な存在とされ、メディアやサポーターからも高く評価されていた。
2016-17シーズンは、2017年10月18日のUEFAチャンピオンズリーグ グループステージ第3節コペンハーゲン戦に途中出場し、CLデビューを飾る。11月22日のCL第5節クラブ・ブルージュ戦では、開始5分に先制ゴールを決め、CL初ゴールを記録。レスターの史上初となるCL決勝トーナメント進出に貢献する。しかし、リーグ戦では2つのコンペティションを戦う負担と堅守速攻のスタイルが研究されたことから不振に陥り、2017年2月には降格圏まで低迷したことでラニエリ監督が解任される。CLはベスト8まで勝ち残るが、準々決勝のアトレティコ・マドリード戦では、2試合ともスタメンで出場しながら前半で交代となり、チームも敗退。
3シーズン目となった2017-18シーズンは、チームに新加入のFWが入り競争が激しくなる。そんな中、開幕戦のアーセナル戦でゴールを決め、第2節のブライトン戦でもゴールを記録し、2試合連続ゴールと最高のスタートを切る。12月13日第17節のサウサンプトン戦では、吉田麻也との日本人対決となった中、ドッペルバックを達成しチームの4連勝に貢献。なお、この試合では吉田もゴールを決めており、プレミアリーグの歴史で初めて複数のアジア人選手が得点した試合となった。前半戦で1年目を上回る6ゴールを記録し、初の二桁ゴール達成に期待がかかるも、2018年以降は怪我によって欠場が続き、後半戦はノーゴールでシーズンを終える。
2018-19シーズンはプレミアリーグで4年目を迎えるが、チームが若手を積極的に起用する方針となったこともあり、32歳となった岡崎はベンチで過ごす時間が長くなる。2019年2月にボールポゼッションを重視するブレンダン・ロジャースが監督に就任するとますます厳しい立場へと追い込まれ、シーズン終了後、契約期間満了により4年間過ごしたレスターからの退団を発表する。
2019年7月30日スペイン・ラ・リーガ2部(セグンダ・ディビジオン)のマラガCFへの1年契約での移籍が発表される。レスター優勝時の主力としておおいに歓迎されるが、マラガ側のリーグ規定違反が発覚したことで選手登録ができず、9月2日に公式戦1試合も出場しないまま退団となる。
マラガと契約解除となった2日後の9月4日、ラ・リーガ2部のSDウエスカに1年契約で入団することが発表される。背番号は「12」。
9月4日のラ・リーガ2部第4節スポルディング・ヒホン戦で途中出場ながらスペインでのデビューを果たすと、第8節のジローナ戦では右足でのアクロバティックなボレーシュートを決め、移籍後初ゴールを決める。シーズン中7度も主審の判断によってゴールが取り消される不運を味わうものの、尻上がりに調子を上げていき、2020年7月2日の第37節ラス・パルマス戦で自身5シーズンぶりとなる二桁得点に到達。プリメーラ昇格のかかった7月17日の第41節CDヌマンシア戦では、華麗なヒールキックシュートを決め勝利に貢献。最終的にチームトップとなる12得点を記録し、ウエスカの1部昇格とセグンダ・ディビジオン優勝の立役者となる。シーズン後、サポーター投票によるクラブ最優秀選手に選ばれる。
2020-2021シーズンラ・リーガ1部開幕戦のビジャレアル戦に出場し、プリメーラでのデビューを果たす。開幕から5試合連続でスタメンを任されるが、第5節のエルチェ戦で前半40分に左足ハムストリングを負傷し交代となり、戦線離脱となる。第10節のオサスナ戦でおよそ1カ月半ぶりにピッチに復帰すると、2020年12月6日の第12節グラナダCF戦で後半37分に飛び出したGKの頭上を抜くループシュートを決め、待望のプリメーラ初ゴールを記録。これでドイツ、イングランド、スペインの3か国のトップリーグでゴールを決めた2人目の日本人選手となる。しかし、後半戦に入って監督が交代となると、チーム戦術がラファ・ミルへのロングボールを主体としたものに変更された影響で出場機会が激減。最後まで序列が回復することなく、チームは最終節で降格。悲願のプリメーラ挑戦は悔しいものとなり、シーズン終了後に退団を表明する。
2021年8月31日、スペイン・ラ・リーガ2部(セグンダ・ディビジオン)のFCカルタヘナへ移籍することが発表される。10月6日のイビサ戦で得意としているダイビングヘッドによって移籍後初ゴールを決め、チームの連敗を止める大勝に貢献する。献身的な働きでチームに貢献はしていたが、準レギュラーという立ち位置となりなかなかゴールが生まれずにいた。2022年2月28日第29節マラガ戦では後半38分に投入されると、試合終了間際に劇的なオーバーヘッドキックによるゴラッソを決め、チームの連敗を3で止める値千金のゴールとなる。しかし、スタメン出場はわずか9試合とチーム内での序列争いで敗れ、2ゴール1アシストでシーズンを終える。シーズン終了後、契約満了により退団となる。
カルタヘナを退団後、ベルギー・ジュピラー・プロ・リーグのシント=トロイデンVVの練習に参加。当初は契約を前提としたものではなかったが、林大地の負傷離脱を受け、2022年8月19日に契約締結が発表される。背番号は「30」。
移籍決定の翌日である8月20日の第5節KVオーデンセ戦にスタメンで出場し、香川真司との2トップが実現する。9月17日の第9節ズルテ・ワレヘム戦では、真骨頂である低空のダイビングヘッドで移籍後初ゴールを決め、チームの3試合ぶりの勝利に貢献する。シーズン途中からは中盤でも起用され、ゴールは1ゴールのみに終わったものの、加入以降は全試合に出場するなど主力として重宝された。シーズン終了後には契約を1年延長したことが発表される。
2023-24シーズンは膝の負傷に悩まされ、一転して出場時間が激減。そして2024年2月26日に「気付いたら体がボロボロで、そして自然と自分に限界を感じました」として今シーズン限りでの現役引退を表明する。ホームでのシーズン最終戦となった5月17日のルーベン戦が現役最後の試合となり、53分間プレー。交代でピッチを去る際には岡崎の功績を称え、両チームの選手が作り出した花道を通って送り出されるという粋な計らいが催された。
Jリーグのプレーが反町康治監督の目に留まり、2007年北京オリンピックアジア2次予選マレーシア戦のU-22日本代表に初選出される。当初は平山相太、李忠成、カレン・ロバートに次ぐFWの4番手という序列だったが、アジア最終予選の終盤の2試合でスタメンで起用される。2008年7月には北京オリンピック本大会の出場メンバーに選ばれ、壮行試合となったU-23オーストラリア代表戦で初ゴールを決める。本大会では、最初の2試合に途中出場、3戦目のオランダ戦にスタメンで出場するがノーゴールに終わっている。
2008年9月日本代表メンバーに初選出され、10月9日のUAE戦でスタメンで出場し、フル代表デビューを果たしている。その後の代表戦でも出場機会を与えられ、2009年1月20日のアジアカップ予選イエメン戦で代表初ゴールを決める。この時期から背番号「9」で定着し、5月のキリンカップ2試合ではチリ戦で2ゴール、ベルギー戦で1ゴールを決める活躍を見せ、6月6日の南アフリカワールドカップアジア最終予選ウズベキスタン戦では、前半9分ダイビングヘッドで日本をの4大会連続ワールドカップ出場を決める決勝ゴールを決める。この年の岡崎は、10月の代表戦で2試合連続ハットトリックを決めるなど、ゴールを量産。16試合に出場し15得点を決め、自身のキャリハイに並ぶ驚異的なペースでゴールを決めている。
2010年に入ると、前年の活躍が嘘のようにゴールが奪えず、2010 FIFAワールドカップの出場メンバーに選ばれるものの、本番直前に控え組に降格させられてしまう。それでも、グループステージ第3戦のデンマーク戦に途中出場し、本田圭佑からのパスを急にボールが来たのにもかかわらず落ち着いてゴールに流し込みワールドカップでの初得点を挙げる。初めてのワールドカップでは4試合全てに途中出場し、消耗の激しい大久保嘉人と松井大輔のリリーフ役という役割を務めた。
2010 FIFAワールドカップ後も代表に招集され、アルベルト・ザッケローニ監督の初陣となったアルゼンチン戦ではロングシュートのこぼれ球にいち早く反応して貴重な得点を挙げ、日本のアルゼンチン戦初勝利という快挙に貢献した。AFCアジアカップ2011では、負傷した松井に代わってグループリーグ3戦目のサウジアラビア戦からスタメンで起用され、自身代表では3度目となるハットトリックを達成。カタール戦では香川真司の得点をアシストし、代表での初タイトルとなるアジアカップ優勝に貢献。以降、得点力に加えて献身的な守備も持ち合わせたスタイルによりザックJAPANに欠かせない存在となる。
2011年9月からスタートしたブラジルワールドカップアジア予選でも、2次予選、最終予選を通じてチーム最多となる8ゴールをマークし、5大会連続のワールドカップ出場権獲得に貢献。2013年6月にブラジルで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2013にも出場。チームは3戦全敗という結果に終わったが、自身は3試合全てにフル出場しイタリア、メキシコという強豪から1ゴールずつ奪っている。2014年3月5日のニュージーランドとの親善試合で2ゴールを決め、代表での通算得点数が歴代3位の38得点となる。
2014年6月ブラジルで開催された2014 FIFAワールドカップのメンバーに選出され、グループリーグ3試合全てにスタメンで出場する。崖っぷちに立たされた状況での第3戦のコロンビア戦では、前半終了間際に本田圭佑のアシストから厳しい体勢でのヘディングシュートによる同点ゴールを決める。しかし、チームは後半に立て続けに失点して完敗。グループリーグ敗退という悔しい結果に終わる。
ブラジルワールドカップ後も代表の主力として起用され続け、2015年1月に開催されたAFCアジアカップ 2015に出場。この大会では、1トップとしてCFでの起用となり、初戦のパレスチナ戦でゴールを決めるが、以降の試合では不発に終わり、PK戦の末に敗れた準々決勝のUAE戦では後半20分に交代させられている。2016年3月29日ロシアワールドカップアジア2次予選シリア戦では、国際Aマッチ出場100試合を達成し、この試合に限り長谷部誠からキャプテンマークを譲られ、試合後チームメイトから胴上げで祝福されている。しかし、この年の後半あたりからヴァヒド・ハリルホジッチ監督から重要な存在と認識されなくなり、原口元気とのレギュラー争いに敗れて出場機会が減ってしまう。
2018年に入ると、怪我の影響もあり所属するレスターでの出場時間も減り、ワールドカップ本大会出場が危ぶまれるようになる。しかし、大会直前に就任した西野朗監督から2018 FIFAワールドカップのメンバーに選出され、3大会連続での出場を果たす。グループリーグ初戦のコロンビア戦では5分しか出番が無かったものの、第2戦のセネガル戦では1点ビハインドの後半30分から出場。後半35分自身がゴール前で潰れたことが本田圭佑の同点ゴールを呼び込む。控え組中心のメンバーとなった第3戦のポーランド戦でスタメンのチャンスが巡ってくるが、何もできないまま後半2分でベンチに下げられ、ベスト16のベルギー戦では出番が回ってこず、ワールドカップ3大会連続ゴールはならなかった。
2019年6月コパ・アメリカ2019の出場メンバーに選ばれ、およそ1年ぶりに代表に復帰する。大会にはオリンピック世代中心で出場するため、川島永嗣と共に若いメンバーに経験を伝えることを期待されてのサプライズ選出となった。グループリーグ初戦のチリ戦では11分間の出場となったが、第2戦のウルグアイ戦から大敗したチームのムードを変えるためにスタメンで出場。ゴールを挙げることはできなかったが、2試合にスタメンとして出場し、存在感は見せた。この大会が最後の代表戦での出場となる。
日本代表通算119試合50得点。通算ゴール数は釜本邦茂、三浦知良に続く歴代3位である。
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
2005 | 清水エスパルス | J1リーグ | 1 | 0 | |
2006 | 清水エスパルス | J1リーグ | 7 | 0 | |
2007 | 清水エスパルス | J1リーグ | 21 | 5 | |
2008 | 清水エスパルス | J1リーグ | 27 | 10 | |
2009 | 清水エスパルス | J1リーグ | 34 | 14 | |
2010 | 清水エスパルス | J1リーグ | 31 | 13 | |
2010-11 | シュトゥットガルト | ブンデスリーガ | 12 | 2 | |
2011-12 | シュトゥットガルト | ブンデスリーガ | 26 | 7 | |
2012-13 | シュトゥットガルト | ブンデスリーガ | 25 | 1 | |
2013-14 | マインツ | ブンデスリーガ | 33 | 15 | |
2014-15 | マインツ | ブンデスリーガ | 32 | 12 | |
2015-16 | レスター・シティ | プレミアリーグ | 36 | 5 | |
2016-17 | レスター・シティ | プレミアリーグ | 30 | 3 | |
2017-18 | レスター・シティ | プレミアリーグ | 27 | 6 | |
2018-19 | レスター・シティ | プレミアリーグ | 21 | 0 | |
2019-20 |
マラガ | ラ・リーガ2部 | 0 | 0 | |
ウエスカ | ラ・リーガ2部 | 37 | 12 | ||
2020-21 | ウエスカ | ラ・リーガ | 25 | 1 | |
2021-22 | カルタヘナ | ラ・リーガ2部 | 32 | 2 | |
2022-23 | シント=トロイデンVV | ジュピラー・プロ・リーグ | 30 | 1 | |
2023-24 | シント=トロイデンVV | ジュピラー・プロ・リーグ | 7 | 0 |
尊敬する選手として中山雅史の名前を挙げているように、プレースタイルそのものはゴン中山に似ている。
特別スピードがあるわけではなく、ボールテクニックに優れているわけでもないが、オフ・ザ・ボールの動きで勝負し、DFの死角からフリーランニングでゴール前に飛び込み、ピンポイントで合わせるタイプのストライカー。運動量と動きの質が持ち味で、一瞬でDFラインの裏に抜け出してシュートを決めるのが得意。また、FWとしては上背が無いが、ゴール前でのポジション取りが良く、DFよりも先に反応できるため利き足は頭と豪語するほどヘディングでのゴールが多い。泥臭いダイビングヘッドでのゴールが代名詞のようにもなっている。ちなみに座右の銘は、「一生ダイビングヘッド」。
FWとしてだけでなく、WGやSH、トップ下で起用されることも多く、ワイドで起用されたときは外から斜めの動きでゴール前に入り込むディアゴナル・ランを得意としている。
守備面での貢献度も高く、運動量の高さを活かして前線から相手に激しくプレッシャーをかける動きに定評があり、サイドハーフを務めたときはしっかり自陣にまで戻って上下移動を繰り返すことも苦としていない。かつてはがむしゃらに相手を追い回す質で勝負をしていたが、イングランドでイタリア人のラニエリに師事したことでコースの切り方やプレッシャーのタイミングが向上している。
前述したようにボールの扱いはうまくないため、ゴールより遠い位置でボールを持ったり、相手に囲まれた状態でボールを持つとあまり期待ができない。相手を背負った状態でのプレーも得意ではない。また、守備のタスクに尽力し過ぎてゴールが遠くなってしまうのも欠点といえる。
奇跡の優勝を果たした2015-16シーズンにおけるレスターの役割は、前線の守備者というものが大きかった。ラニエリが構築した守備システムは、敵陣から守備を開始するときは4-4-2で相手のDFラインとアンカーの間のパスコースを切りながらボールホルダーにプレッシャーをかけていた。自陣から守備をする場合は、4-4-1-1のトップ下の位置に入り、相手のアンカーをマークしながら守備を苦手とするリヤド・マフレズが守る右サイドのエリアもカバーする役割となっていた。
攻撃時はロングボールでボールを前に運ぶことが多いレスターにおいて、ヴァーディと共に前線で素早く動き出し、サイドに膨らみながらDFを引っ張りマークを分散させ、このシーズンゴールを量産したヴァーディをサポート。また、マフレズが中央へ入りこんだときは右サイドへ回り、チームのバランスを維持させていた。こうした縁の下の力持ち的な役割が評価され、優勝したシーズンの「陰のヒーロー」と呼ばれている。
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最終更新:2025/01/11(土) 06:00
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