川島永嗣 単語

257件

カワシマエイジ

1.0万文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE
サッカー選手 > 川島永嗣

川島永嗣Eiji Kawashima, 1983年3月20日 - )とは、日本のッカー選手である。
J1リーグジュビロ磐田所属。元サッカー日本代表

ポジションGK185cm82kg。利き足は右足。

概要

2010年代日本代表ゴールを守り続けたGKであり、FIFAワールドカップでは2010年から2018年までの3大会連続で正GKを務め、合計11試合でゴールを守っている。特に初めてのワールドカップ出場となった2010 FIFAワールドカップでは、大会直前に楢崎正剛から正GKの座を奪うと、守備的な戦いを選択したチームを最後尾から鼓舞しながらビッグセーブチームを救い、日本グループリーグ突破の立役者の一人となった。また、2011年AFCアジアカップでは準決勝の韓国戦で2本のPKを止め、決勝ではMOMに選ばれるなど日本の4度優勝に貢献している。

これまでの日本人GKべて海外での経験値は群を抜いており、ベルギースコットランドフランスの3かクラブチームに所属している。語学が堪なことで知られ、6か国語を話せるため日本人選手の海外移籍で大きなネックとなる言葉の壁に悩まされることはなく、ポジションコミュニケーション力が必要となることを考慮しても長所となっている。

メンタルの強さには定評があり、ゴールを守るときののような形相やビッグセーブをしたときの「ドヤ顔」がトレードマークのようになっている。ピッチ外でもチームのまとめ役として重要な存在を果たせる選手である。辛口でお染みのセルジオ越後氏からも高く評価されている。一方、たびたび大きなミス失点することもあり、何かと批判の的にされやすい。

経歴

プロ入り前

埼玉県与野市(現さいたま市中央区)出身。上にがいる3人兄弟の末っ子として生まれる。ちなみに父親高身長であり、恵まれた体格は遺伝によるものだと思われる。

小学2年生の時、公園家族と一緒にボールを蹴っているうちに、自然サッカーの楽しさを知るようになり、地元の与野八幡サッカースポーツ少年団で基礎を学ぶ。小学生の頃からGK志望で、当時の憧れのGKは90年ワールドカップイタリア大会で活躍した元アルゼンチン代表のセルヒオ・ゴイコエチェア。もっとも幼少の頃はサッカーよりも野球が好きで、友達野球もやっていた。

中学与野西中学に進学。ポジションは本格的にGKに固定されるようになり、才が開チームの正GKの座を掴むと順調にステップアップしていき、埼玉県選抜に選ばれてドイツオランダへの遠征を経験。学生生活では、学級委員を任されていた。

中学の頃にサッカー部の監督から誘われたことがきっかけで高校浦和高校へ進学。埼玉県内ではすでに注の選手となっており、入学時にはすでにJリーグスカウトから注をされていた。3年生のときに高校の3大全大会全てに出場している。また、学生時代の成績は優秀であり、進路導の教師からは大学進学を勧められていた。

大宮アルディージャ

2001年に地元の大宮アルディージャに入団しプロとしてのキャリアスタート。この時、川島の獲得を決めたのは当時大宮の強化部長だった佐々木則夫(後のサッカー日本女子代表監督)。この頃にイタリアセリエAパルマへのサッカー留学を経験。若手選手たちが出場する「ヴィニョーラ・トーナメント」に参加。チーム優勝を果たし、川島自身はベストゴールキーパーに選出された。

2年となる2002年4月6日J2第7節大分トリニータ戦でプロ初出場。当初は安藤智安・荒に次ぐ3番手の位置づけであったが、少しずつ出場機会を増やし公式戦12試合でゴールを守っている。

2003年からは正GKの座を掴み、33試合に出場。しかし、チームシーズン序盤こそ上位に食い込んでいたものの、場以降は昇格争いに加わることができずにいた。その中でも若き守護神として評価を高め、奮闘はしていた。それでもJ1に昇格することができず、オフJ1チームへの移籍を希望する。

名古屋グランパスエイト

2004年J1リーグ名古屋グランパスエイトへ移籍。他チームから獲得オファーを受けていたが、当時日本代表の正GKだった楢崎正剛がいるチームにあえて加入することとなった。しかし、まだ若かった川島は、全盛期の楢崎からポジションを奪えず控えGKの座に甘んじる日々が続く。

2006年は、楢崎が負傷したことでシーズン終盤に出番が増え、リーグ戦10試合に出場するが、結局3年間でJ1リーグ17試合のみの出場にとどまり退団する。

川崎フロンターレ

2007年に当時のクラブ史上最高額の移籍金1億5000万円で川崎フロンターレへ移籍。ここで才が開。当時の川崎は攻撃タレントっていた反面、GKが弱点となっていたが、それを補って余りある活躍を披露。強チーム仲間入りを果たそうとしていた川崎で不動の守護神としての地位を築いていく。AFCチャンピオンズリーグにも初めて出場。J1リーグでは全試合フル出場を果たしている。

2008年にはチームは実績のあるGKを補強したが、守護神としての立場が揺らぐことはなかった。シーズン序盤にフッキが反乱を起こして突然退団し、監督の関塚が持病の不整脈の悪化で辞任する震が走ったチームにおいてリーダーシップも発揮。惜しくもJリーグ優勝を逃したが、大きな怪く2年連続で全試合フル出場を達成。

2009年になると、日本でもトップクラスGKという評価が定着し、これまで以上に守護神としての存在感を増す。チームリーグ戦、ナビスコカップと2つの大会で準優勝に終わり、シルバーコレクターと揶揄されることもあったが、3年連続での全試合フル出場を達成。初めてJリーグベストイレブンに選出され、フェアプレー賞も受賞。AFCにも3年連続で出場し、経験値を磨いた。

2010年ワールドカップによる中断期間11試合全てでゴールを守る。南アフリカワールドカップに出場した後、悲願だった海外への移籍が決定する。

リールセ

2010年ワールドカップ出場後の7月7日ベルギージュピラー・プロ・リーグに昇格したばかりのリールセSKへ移籍。初年度から正GKの座を確保するが、お世辞にも戦力が整っているとはいえないチームの守備はザル失点を重ねることとなった。2010年11月27日のスタンダール・リエージュ戦では自身経験のい7失点を許す大敗を喫し流石ショックを受けるが、それでもビッグセーブを連発したことでメディアや相手監督からも称賛された。12月8日のヘンク戦では、後に世界的な名GKとなる若き日のティボー・クルトワと互いに譲らないビッグセーブ合戦を演じている。その後も飛んでくるシュートビッグセーブで防ぎ続け、1部残留に貢献。この活躍が評価され、サポーター投票によるチームMVPとなる。

2年となる2011年8月19日には対戦相手であるゲルミナル・ベールショットの一部サポーターからこの年起きた東日本大震災を揶揄する野次が飛ばされる。これに昂した川島は、抗議し試合が一時中断する事態となる。その後、ゲルミナル側が公式HP日本語で謝罪文を掲載する。この年の10月からチームキャプテンに任命され、このシーズン公式戦全試合に出場。また、サポーター投票チームMVPに2シーズン連続で選出されている。

スタンダール・リエージュ

2012年ベルギージュピラー・プロ・リーグの名門スタンダール・リエージュへ移籍。開幕からレギュラーを掴むと、豊富な経験を活かしてチームに貢献。チーム内での信頼も厚く、移籍1年ながらも全試合フル出場を達成。2013年1月には、同じ日本人永井小野裕二チームに加入すると、ベルギーでの経験の長さと語学力で2人をサポートしている。

2013-14シーズンは、リーグ戦第2節のコルトライク戦でPKをストップし、勝利に貢献。2013年12月1日の第17節では古巣であるリールセを相手にPKをストップして流れを断ち切り、クリーンシートを達成。試合後にはリールセのサポーターから川島の活躍を祝福したチャントが送られる歓迎ぶりを受けており、いかにリールセでされた存在だったかを明するエピソードとなった。さらに、レギュラーシーズン最終節となったメヘレン戦では1点リードの場面でシーズン3度のPKストップを披露し、勝利をもたらす。連続フル出場記録こそ途切れたが、前年を上回るパフォーマンスを見せ、ベルギーNO.1GKの呼びも出たほどだった。チームレギュラーシーズン1位フィニッシュに貢献。ベルギー移籍4年で初めてプレーオフにも出場するが、惜しくもチームリーグ優勝を逃している。

2014-15シーズン調子を落としてシーズン中盤にレギュラーを剥奪されて出場試合数が減。最後まで正GKの座を奪い返すことができず、2015年契約満了と共に退団。

ダンディ

スタンダールを退団後、移籍先がなかなか決まらず、半年ほど所属の状態が続いていたが、2015年12月ようやく移籍先を見つけ、スコットランドスコティッシュ・プレミアシップダンディー・ユナテッドに加入。降格の危機にあるチーム救世主として期待されるが、守備が崩壊状態だったチーム失点を止めることができず。結局チームリーグ戦最下位で降格が決まり、再び移籍先を探すことになる。

メス

2016年8月2日フランスリーグ・アンFCメスへの移籍が決定するが、クラブから「川島は第3GKとして加入する」と発表され、厳しい立場での新地のスタートとなった。予想通り加入してから半年間は公式戦でゴールを守る機会が与えられず、年明けのカップ戦でようやく出番が回ってくる。だが、第31節のパリ・サンジェルマン戦でリーグデビューを飾るとレギュラーを掴み、第37節のトゥールーズ戦ではPKをストップを活躍を見せる。

2017-2018シーズンでは、開幕から正GKという立場になり、低迷するチームの中で奮闘。2018年1月21日リーグ・アン第22節ASモナコ戦では一発退場となる。出場停止処分の解けた1月27日の第24節ニ―ス戦ではマリオ・バロテッリのPKを一度はストップするが、こぼれ球を押し込まれて失点している。ちなみにこれでフランスデビューしてから3試合連続でのPKストップとなり、リーグ・アン過去10年間で初めての記録となった。しかし、監督が「本当にプロと呼べるのは16名しかいない」と吐き捨てた程戦力が乏しいチームリーグ最下位に終わり2部に降格。およそ4シーズンぶりに年間を通してゴールを守り抜いたが、シーズン終了後、契約満了により退団する。

ストラスブール

ロシアワールドカップ後、またも所属となるが、2018年8月30日リーグ・アンのRCストラスブールへの移籍が決定。しかし、メス時代と同じく第3GKという立場での加入となった。予想通り、川島公式戦のピッチに立つチャンスはなかなか巡ってこず、リーグ最終節でようやくゴールを守ることとなった。それでも新たに2年契約を結ぶが、第3GKとしての立場に変わりはなく、2019-2020シーズンプロ1年以来となる公式戦出場が0で終わった。

2020-2021シーズンは正GKの長期離脱、第2GK新型コロナウィルス感染ということもあってリーグ・アン開幕戦のFCロリアン戦でゴールを任され、1年3カぶりに出場。1-3で敗れたものの、サポーターが選出するクラブMOMに選ばれる。第3節以降はビングルカマラが復帰したことで控えGKに戻るが、第11節のモンペリエHSC戦でリーグ戦8試合ぶりにゴールを任されると、続く第12節レンヌ戦でのプレーがまたもクラブMOMに選出され、第13節のFCナント戦では相手を完封し、勝利に貢献。第14節の古巣であるメス戦ではPKをストップし、チームを敗戦から救う。20試合連続でゴールを守り、評価を高めたが、正GKマッツセルスが復帰したことで再びベンチを座ることになる。だが、セルスが新型コロナウィルスに感染したことで最後の2試合でゴールを守り、チームの残留に貢献する。

38歳となっても契約延長を打診されるなど、首からの評価は高いものの、2021-2022シーズンも第2GKという立場で開幕を迎え、出場機会がなかなか得られない状況が続く。2022年1月9日リーグ・アン第20節メツ戦で、セルスがコロナ陽性となったことでリーグ戦初出場を果たし、見事クリーンシートに抑え勝利に貢献する。しかし、1月12日に自身もコロナで陽性反応が出てしまう。結局セルス復帰後は試合に出場する機会は訪れず、公式戦2試合のみの出場に終わる。

2022-23シーズンは開幕から11試合は第2GKとしてベンチ入りしていたものの、ワールドカップ後の2023年1月に負傷していた左肩の手術を受け、戦線を離脱。結局最後までメンバー入りすることはなく、公式戦では1度もピッチに立つことはなかった。2023年6月をもって契約満了により退団。

ジュビロ磐田

トラスブールを退団後、半年ほど所属の状態が続いていたが、2024年1月12日J1リーグジュビロ磐田への移籍が発表される。川島にとっては14年ぶりのJリーグ復帰となった。2月24日J1リーグ開幕戦ヴィッセル神戸戦でゴールを守り、第2節では古巣である川崎フロンターレとの対戦が実現。シーズン中、怪によって二度離脱した時期はあったが、ビッグセーブチームを救う場面も見られ、最後まで正守護神を務める。10月19日セレッソ大阪戦では試合終了間際にPKを止めてピンチを救い、クラブJ1通算400勝をもたらす。それでも、リーグワーストの68失点を喫し、低迷するチームを救うことはできず、最終節で磐田はJ2リーグ降格が決まる。

日本代表

2001年からU-18代表に選出されており、2002年U-19日本代表の一員としてAFCユース選手権2002に出場。不動の守護神として活躍し、日本ワールドユース出場権獲得に貢献。準決勝のウズベキスタン戦では、PK戦で2本ストップする活躍を見せる。翌年の2003 FIFAワールドユース選手権にも正GKとして出場。グループリーグ初戦のイングランド戦、第3戦のエジプト戦でビッグセーブを連発し、日本勝利をもたらす。準々決勝でブラジルに大敗するが、ベスト8進出したチームに貢献した。

アテネオリンピック代表(U-23日本代表)にも選出されることもあったが、当時名古屋で控えに甘んじていたこととオーバーエイで曽ヶ端準が選ばれたこともあって予備登録メンバーに留まる。

川崎に移籍直後の2007年2月15日日本代表の合宿メンバーに選出され、AFCアジアカップ2007メンバーにも選出される。2008年2月17日東アジアサッカー選手2008北朝鮮戦においてフル代表デビューを果たす。この試合では、当時チームメイトだった鄭大世にゴールを決められている。しかし、長年日本代表ゴールを守る楢崎正剛川口能活の壁は厚く、コンスタントに代表に呼ばれていたが、大事な試合では出場機会を与えられなかった。

2010 FIFAワールドカップでは当初第2GKと予想されていたが、イングランドとのテストマッチフランク・ランパードのPKを止めるなどの健闘ぶりが評価されると、大会直前に岡田武史監督から楢崎に代わってレギュラーを任される。グループリーグでは守備的な戦いにを切ったチームを最後尾から鼓舞し、決定的なシュートを次々とビッグセーブで救い、第3戦のデンマーク戦でもPKをストップするなど2大会ぶりのグループリーグ突破に貢献。パラグアイとのベスト16では、PK戦で5本全て決められ敗れるが、この大会でビッグセーブした後のどや顔話題となり、以降日本の守護神として定着する。

AFCアジアカップ2011では、グループリーグシリア戦での不可解な退場や準々決勝のカタール戦でのFKからの失点などの危ういプレーもあったものの、試合を重ねるごとに調子を上げ、準決勝の韓国戦では延長を経てPK戦までもつれ込んだ試合の中、韓国のPKを2本止める活躍を披露。決勝のオーストラリア戦でもビッグセーブを連発し、日本アジア制覇に大きく貢献した。この決勝戦ではMOMを受賞している。

その後のブラジルワールドカップアジア最終予選でも不安定なプレーが見られ、一部から西川周作と代わるべきというも挙がったが、アルベルト・ザッケローニ監督からの信頼は変わりなかった。迎えた2014 FIFAワールドカップでは、5大会にして初めて背番号1をつけてピッチに立つGKとなる。しかし、チーム調子が上がらず、グループリーグ敗退となる。

ブラジルワールドカップの後も日本代表の正GKを務め、AFCアジアカップ2015でも全試合にフル出場するが、準々決勝で地元のUAE相手にPK戦で5本全て決められ敗れる。2015年以降、移籍先が見つからず所属となったことで代表からも外される。2016年に移籍先が決まったことで代表には復帰するが、所属チームでなかなか試合に出場できず、実戦から遠ざかっていたため西川に正GKの座を奪われていた。しかし、2017年3月23日ロシアワールドカップアジア三次予選のUAE戦で久々となるスタメンに抜され、完封。試合後は歓喜余ってを流していた。8月31日ワールドカップ出場権監督のかかった大一番となるオーストラリア戦でも完封勝利に貢献し、ロシア大会出場権をもたらすとともに正GKの座を奪い返す。

自身3度の出場となった2018 FIFAワールドカップでは、初戦のコロンビア戦で不安定なプレーを見せ、第2戦のセネガル戦では致命的なパンチングのミスから失点してしまい、批判の的になる。一部ではGKを交代すべきというが挙がるが、西野朗監督からの信頼は変わらず、第3戦のポーランド戦ではゲームキャプテンを任される。この試合で決定的なシュート右手一本でのビッグセーブぐなど活躍し、意地を見せる。結局ワールドカップ3大会連続で全試合フル出場を果たすが、チームベスト16で敗退。

ロシアワールドカップ後は、日本代表世代交代を推し進めていたためしばらくの間遠ざかる。しかし、2019年5月代表へ復帰。36歳のベテランの復帰に疑問のもあがったが、森保一監督コパ・アメリカ五輪世代中心で挑むため、経験を伝えることを期待して選出。コパ・アメリカ2019では、初戦こそ控えだったものの、第2戦のウルグアイ戦からスタメンで起用され、エディソン・カバーニとの1対1をビッグセーブで防ぐ。第3戦のエクアドル戦でもゴールを守ったが、チームグループリーグ敗退となった。

その後も30代後半となりながらも代表に呼ばれ続けるが、控えGKという立場になり試合への出場は限られたものとなった。2022 FIFAワールドカップ アジア最終予選でも権田修一が正GKとしてピッチに立ち続けたため出番は回ってこなかった。消化試合となった2022年3月29日ベトナム戦でようやく出場機会を得るが、格下相手に失点したうえにビルドアップでの拙さを露呈してしまう。

2022 FIFAワールドカップカタール大会のメンバーに4大会連続で選出されるが、第3GKという立場のため出場機会は訪れず。それでも39歳のチーム最年長として裏方にし、精神的支柱としての役割を果たしている。大会後に代表活動に一区切りをつけることを表明。

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
2001 大宮アルディージャ J2リーグ 0 0
2002 大宮アルディージャ J2リーグ 8 0
2003 大宮アルディージャ J2リーグ 33 0
2004 名古屋グランパス J1リーグ 4 0
2005 名古屋グランパス J1リーグ 3 0
2006 名古屋グランパス J1リーグ 10 0
2007 川崎フロンターレ J1リーグ 34 0
2008 川崎フロンターレ J1リーグ 34 0
2009 川崎フロンターレ J1リーグ 34 0
2010 川崎フロンターレ J1リーグ 11 0
2010-11 リールセ ジュピラー・プロ・リーグ 23 0
2011-12 リールセ ジュピラー・プロ・リーグ 30 0
2012-13 スタンダール・リエージュ ジュピラー・プロ・リーグ 30 0
2013-14 スタンダール・リエージュ ジュピラー・プロ・リーグ 27 0
2014-15 スタンダール・リエージュ ジュピラー・プロ・リーグ 11 0
2015-16 ダンディ スコティッシュ・プレミアシップ 16 0
2016-17 メス リーグ・アン 5 0
2017-18 メス リーグ・アン 29 0
2018-19 トラスブール リーグ・アン 1 0
2019-20 トラスブール リーグ・アン 0 0
2020-21 トラスブール リーグ・アン 24 0
2021-22 トラスブール リーグ・アン 1 0
2022-23 トラスブール リーグ・アン 0 0
2024 ジュビロ磐田 J1リーグ 32 0

個人タイトル

プレースタイル

至近距離からのシュートストップに自信を持っており、一度波に乗るとビッグセーブを連発する。また、メンタル面も強いため、PKストップの割合が高く、ネイマールやランパード、マリオ・バロテッリ、ヨン・ダール・トマソンといったワールドクラスプレイヤーのPKを阻止した実績を持つ。身体力も高いため、ハイボールの際の相手との競り合いにも強い。

一方で勝気な性格が災いして理にボールに触ろうとしすぎたり、判断を誤ったり、測を誤ったりが原因で致命的なミスを犯すことが多い。また、キック力そのものはあるものの、正確さには欠けているため攻撃の一歩としての貢献度はあまり期待できない。足元のプレーも不安定なためビルドアップの逃げとして使うことができず、組み立ても要される現代の基準で言えばオールドタイプGKと言える。

エピソード・人物

2014年10月15日一般人女性との結婚を発表。熱ファンの多かったオネエ界隈では悲嘆のが挙がっていた。

ビッグセーブを披露した後に印的な「どや顔」を見せることから、ネット上では「どやさん」というあだ名が付く。

日本代表チームメイトだった内田篤人と仲が良く、ファンからは2人はデキているのでは?と疑われる程だった。その内田からは部屋全裸のまま筋トレをしていることを暴露されている。

高校時代は時間があらばトレーニングに励んでいたが、グラウンドで1人を出して居残り練習をしていた川島を見た監督から「電気代の駄だ。帰れ!」と怒られている。

2022 FIFAワールドカップアジア最終予選のホームサウジアラビア戦の試合後、内田生放送ピッチレポーターをしているところに乱入し、「残り組は走れよ!」と絡んできた。

語学

日本プレーしていた時期から海外でのプレー標としていたため、くから語学の勉強をしており、ベルギーに移籍する前から英語イタリア語ポルトガル語マスターしていた。その後、オランダ語フランス語も習得。そのため、日本人選手が海外移籍した際に苦しむ言葉の壁に悩まされず、ベルギー移籍後すぐにチームに溶け込むことができた。

アルベルト・ザッケローニ日本代表監督だった頃は、通訳を介することなくイタリア語ザッケローニコミュニケーションが取れていた。

スタンダール・リエージュ時代は、加入した永井の移籍会見の通訳を務めている。

関連動画

著書

関連項目

この記事を編集する
関連記事

親記事

子記事

  • なし

兄弟記事

  • なし

掲示板

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2024/12/23(月) 15:00

ほめられた記事

最終更新:2024/12/23(月) 15:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP