中島翔哉 単語

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中島翔哉(なかじま しょうや、1994年8月23日 - )とは、東京都八王子市出身のサッカー選手である。
J1リーグ浦和レッズ所属。元サッカー日本代表

167cm62kg。利き足は右。ポジションMF、FW。に左サイドハーフトップ下でプレーすることが多い。

経歴

生い立ち

1人っ子として育ち、6歳の頃からサッカーを始める。しかし、この頃に両離婚庭として育つことになる。幼少期はサッカーボールが遊び具であり、従兄弟である後にプロサッカー選手となった小池太と共に散歩をしながらドリブルをするのが日課となっていた。

小学生になると、母親が募集広告を見つけて進めた地元のフットボールクラブに入団する。さらに同時期にFC東京サッカースクールにも通い、さらにフットサル教室にも通っていた。当時、特別技術が高いわけではなかったが、ドリブルが大好きで1vs1で負けると泣いてしまうほどの負けず嫌いだった。

小学4年生となった2004年から東京ヴェルディの下部組織に所属する。その後もサッカーフットサル二刀流を続けており2007年にはヴェルディジュニアの一員としてJFA全日U-12フットサル選手権大会(現JFAバーモントカップ)に出場。準優勝を果たすとともに、大会優秀選手の一人に選ばれる。

中学生になると、東京ヴェルディジュニアユースに昇格。憧れの選手だったロナウジーニョであるブラジルに中1から中3までの合計4回留学している。この頃、将来の海外でのプレーも考えてポルトガル語を学んでおり、このままブラジルプロになることを希望するほどだったが、結局母親から反対されたことで日本へ帰することになる。

高校生東京ヴェルディユースに昇格すると、高1のときに東京選抜に選出され、国体決勝では南野拓実を擁する大阪選抜を相手に勝利し、優勝を遂げる。高2のとなった2011年にはクラブユース選手権連覇を達成し、ベストプレイヤー賞を受賞。そのご褒美としてオランダの名門アヤックスアルステムダムへの短期留学を経験。

東京ヴェルディ

高校3年生となった2012年に2種登録選手に登録され、同年9月天皇杯2回戦大分トリニータ戦で途中出場を果たし、トップチームデビューを果たす。高橋一郎監督から才を高く評価され、9月14日J2第23節のアビスパ福岡戦でJリーグ初出場を果たすと、この試合でプロゴール記録し、チームの連敗脱出に貢献。10月には高校3年生にして東京ヴェルディプロ契約を交わす。その後も出場機会を増やしていき、10月21日J2第39節栃木SC戦においてハットトリック記録18歳59日の達成で波正信が持っていたJリーグ最年少ハットトリック記録を19年ぶりに塗り替える。

満帆なプロキャリアになると思われたが、2013年高橋監督が退任し、新たに就任した三浦泰年監督はFWに守備のタスクめたことで出場機会が減。自身もプレーが消極的になったことで1年のようなスケールの大きな仕掛けが減り、ミスも増える。結局21試合2得点という庸な成績に終わるが、9月29日J2第35節ザスパクサツ群馬戦で決めたゴールがこの年のJ2最優秀ゴールに選出される。

カターレ富山

2014年出場機会を増やすためにFC東京全移籍後すぐにJ2リーグカターレ富山に育成期限付き移籍することになる。富山の安間監督からは自由を与えられ、中島を中心としたチーム作りとなったことから持ち前のドリブル突破で異を放っていた。しかし、当時J2でも最下位だった富山ではサポート恵まれず、孤立することも多かったため28試合で奪ったゴールは2ゴールのみだった。

FC東京

2014年8月25日シーズン途中にもかかわらず保有先のFC東京へ復帰することが決定。初のJ1リーグでのプレーとなるが、すでに容が固まっていたチーム満足な出場機会を得られず、5試合0得点に終わる。

2015年前線武藤嘉紀ら代表クラスタレントチーム内での序列は低く、マッシモ・フィッカデンティ監督める守備のタスクに適応できなかったことで満足な出場機会が与えられずにいた。6月20日J1第16節サガン鳥栖戦でJ1ゴール記録するが、フィッカデンティ監督めるアタッカー像とプレースタイルがかけ離れていたこともあって12試合1得点という成績に終わる。

2016年U-23代表での活動により新チーム発足に乗り遅れ、福浩新監督の構想から外れたこともあってJ3に所属するU-23チームでのプレーが続き、五輪代表で見せるかしいプレーJ1舞台で見せられずにいた。さらにはU-23代表の試合で負った右膝内側側副靱帯重症も重なり、J11stステージの出場は2試合に留まっていた。しかし、監督が解任となり、2ndステージから就任した篠田善之監督中島の個性を尊重したことで事態は好転。左サイドハーフ戦場としながら、カットインからの鋭いシュートという得意な形で出場機会が増えるようになる。すると、第10節の名古屋グランパス戦、第11節の湘南ベルマーレ戦で2試合連続ゴール、第15節鹿島アントラーズ戦、第16節ベガルタ仙台戦では2試合連続アシスト記録。ようやくJ1リーグでも才を発揮することができた。

2017年大久保嘉人永井ピーターウタカという代表クラス大物が加入したことでスーパーサブという立場になるが、開幕戦でゴールに絡む活躍を見せると、3月14日J1第2節大宮アルディージャ戦でシーズンゴール記録。しかし、その後も安定した活躍を見せることはできず、全にレギュラー奪取とまでは至らずにいた。8月5日の第20節川崎フロンターレ戦でシーズン2ゴールを決めるが、これが日本での最後のゴールになる。

ポルティモネンセ

2017年8月23日ポルトガルプリメイラ・リーガポルティモネンセへの期限付き移籍が決定。念願の海外移籍を果たす。すると、Jリーグではくすぶり、持て余していた才ポルトガルの地でいかんなく発揮されるようになる。第6節のフェイレンセ戦で移籍後初ゴールを含む2ゴールの活躍を見せると、力に定着。10月11月の4試合で3得点という活躍を見せたことで周囲から全に認められ、ポルティモネンセエースとして扱われるようになる。自慢のドリブルにも止められないと称され、左サイドからの大胆な仕掛けによって現地のサポーターからもされる存在となる。結局、加入最初のシーズンで29試合出場10得点12アシストという立記録を残し、チームも近年では最高順位となる1部で10位という成績を残す。出場全29試合がスタメンでうち21試合がフル出場ということからも、中島がいかに絶大な信頼を寄せられていたかを物語っている。シーズン終了後、全移籍したことが発表される。

背番号10を背負うようになった2018-2019シーズンでもチームの中心として君臨。10月7日におこなわれた第7節強ポルディング・リスボン戦では、2ゴール2アシストという全ゴールに絡む大車輪の活躍によって金星に貢献。この無双ぶりに同内の名門FCポルトスポルティングCP以外の他の欧州クラブからも多額のオファーが出るほどで、欧州でもっとも市場価値の高い日本人選手となっていた。

アル・ドゥハル

次の舞台へのステップアップが期待される中、2019年2月3日カタールアル・ドゥハイルSCexitへの全移籍が決定。移籍金は日本人史上最高額となる3500万ユーロ(約43億円)。本人からのコメント発表されたexitサッカーを楽しむその哲学はかつてのロナウジーニョ思い出させる。バルサ行け。3月12日ACLグループリーグ第2節アルヒラル戦では、ACLゴールとなる決勝ゴールを決める。

ポルト

2019年7月5日ポルトガルの名門クラブFCポルトへの全移籍が発表され、わずか半年で欧州に戻ることになる。背番号10を渡され、ポルティモネンセ時代の活躍が期待されたが、セルジオ・コンセイソン監督の戦術とプレースタイルが合わず、コンスタントに出場機会を得られずにいた。さらに、新型コロナウィルスによる中断明け以降の試合では、庭の事情によってチームへの合流が遅れたこともあり一度もベンチに入ることができなかった。しかも、チーム優勝セレモニーやイケル・カシージャスの送別会に姿を見せず、チームからの孤立が取り沙汰される。

一時は戦力外として放出されるという報道もされたが、2020-2021シーズンポルトに残留。2020年10月21日UEFAチャンピオンズリーググループリーグ第1節マンチェスター・シティ戦に途中出場し、CLデビューを果たすとともに7カぶりに公式戦に出場。3日後のジル・ビセンテ戦ではスタメンで起用され、決勝ゴールアシストする。しかし、セルジオ・コンセイソン監督の信頼を全に得るには至らず、12月に入るとベンチ入りメンバーからも外れる試合が続いていた。

アル・アイン

2021年1月16日塩谷も所属しているUAEアルアインFCへのレンタル移籍が発表され、再び中東プレーすることとなる。背番号22。2月13日シャールジャ戦で途中出場し、新地でのデビューを飾ると決勝点に関与する活躍を見せるが、2月22日練習中に足首の脛骨折及び靭帯損傷という重症を負ってしまう。

ポルティモネンセ復帰

アルアインとのレンタル期間終了後、保有先のポルトでは戦力外同然の扱いだったこともあり、2021年8月25日プリメイラ・リーガポルティモネンセSCレンタル移籍で復帰することが決定。10月17日、タッサ・デ・ポルトガル3回戦オリヴェイレンセ戦でスタメンとして出場し、8カぶりに公式戦のピッチに立つ。11月6日リーグ第11節ベレネセス戦で公式戦では約2年ぶりとなるゴールを決めている。ポジショントップ下が戦場となっており、パサーとしての役割となり、キーパスがチームトップ記録するなど攻撃の中心となっていた。

アンタルヤスポル

ポルティモネンセは再レンタル希望したが、全移籍にこだわる保有先のFCポルトとの交渉が決裂。相変わらずポルトでは構想外であり、欧州リーグの移籍市場が閉まっても移籍先が見つからなかったことから1年間このまま飼い殺しになる恐れもあったが、2022年9月8日トルコスュペル・リグアンタヤスポルと2年契約を結ぶ。
移籍決定から2日後の9月11日の第6節カイセリスポル戦で終盤に起用され、新地でのデビューを果たす。しかし、移籍2試合となった9月17日の第7節アダナ・デミスポル戦では後半14分に投入されるも、わずか15で危険なタックルにより一発退場となる。その後も負傷や不調もあって周囲を満足させるだけのパフォーマンスを見せられず、15試合0得点0アシスト、スタメンはわずか6試合のみという不本意な成績に終わる。
2023年7月4日、残り1年の給与の受け取りを放棄し、契約を解除したことが発表される。

浦和レッズ

2023年7月25日J1リーグ浦和レッズへの全移籍が発表され、6年ぶりのJリーグ復帰が決まる。背番号は「10」。しかし3試合に途中出場した9月8日に負傷のため離脱。復帰後もかつてのきは見せることができなかった。それでも12月3日J1最終節北海道コンサドーレ札幌戦で移籍後初ゴール記録

2024年シーズンの開幕当初はスーパーサブとして起用されていたが、4月25日ルヴァンカップ2回戦ガイナーレ鳥取戦で2ゴールを決めるなど、徐々に調子を上げてスタメンで起用されるようになる。6月1日、第17節ヴィッセル神戸戦ではリーグ戦のシーズンゴール記録するなど途中出場で流れを変える。しかしこの試合後に怪を再発させて戦線を離脱。マチェイ・スコルジャが監督に復帰してからは出場時間が大幅に減ってしまい、加入2年きを放ったのはわずかな期間のみとなった。

日本代表

2011年4月U-17代表に選出されると、6月に開催された2011 FIFA U-17ワールドカップに出場。準々決勝のブラジル戦で後半32分にゴールを決めている。

手倉監督率いるリオデジャネイロオリンピック代表(U-23日本代表)にはチームの立ち上げ時から選出。この世代は「谷間の世代」「勝てない世代」と揶揄されてきたが、得点力と切れ味鋭いドリブルチームを引っり、チームエースとして活躍。2014年1月開催のU-22アジア選手権に背番号10を背負って出場、チーム最多となる3得点記録。同年9月アジア競技大会でもエース格としてフル出場を続ける。2016年1月AFC U-23選手権では準決勝のイラン戦での2ゴールや決勝の韓国戦での浅野拓磨の決勝ゴールアシストするなど日本の初優勝オリンピック出場権獲得に貢献し、大会最優秀選手に選ばれている。
2016年8月に開催されたリオデジャネイロオリンピックメンバーにも選出され、背番号10を背負ってプレーグループステージ第2戦のコロンビア戦で鮮やかなミドルシュートを決める活躍を見せたものの、チームは1勝1分1敗の成績でグループ3位に終わり、グループステージ敗退という結果となった。

フル代表には、2015年AFCアジアカップ2015リザーブメンバーとして帯同したことはあったが、正式に代表メンバーとして初選出されたのは2018年3月マリとの善試合においてデビューを果たすと、チームを救う同点ゴールを決める。この活躍で一躍本大会の救世主として期待が集まるが、4月にヴァビト・ハリルホジッチ監督が解任され、西野朗監督が就任したもあり、ワールドカップメンバーから落選。

森保一監督が率いるようになった日本代表では、世代交代一気に進められたこともあって常連メンバーとして選出されるようになり、堂安律南野拓実と共に「新ビッグ3」と呼ばれるようになる。しかも、背番号「10」を与えられ、攻撃の中心として期待される。2019年1月に開催されたAFCアジアカップ2019メンバーに選出されていたが、現地での直前合宿中に負傷し、不参加となった。同年6月に開催されたコパ・アメリカ2019メンバーに選出。チームグループステージで敗退となったが、自身は全3試合に出場。第3戦のエクアドル戦でゴールを決め、この試合のMOMに選出されている。しかし、その後のポルトでの出場機会の減少やUAE移籍後に負った怪2019年11月を最後に代表からは遠ざかっている。

プレースタイル

中島プレースタイルは、彼の憧れでもあるメッシのように、とてもドリブルタッチが繊細でキレッキレな動きに加えて俊敏性を兼ね備えている。独創的なテクニックは個人の力で相手の守備組織を効化させるほどであり、「サッカーをとにかく楽しむこと」という彼の信条がプレースタイルにも集約されている。狭いエリアでのプレーであってもテクニックを発揮することができる。また、低い位置でボールを受けてから対線を狙うピンポイントのパスを得意としており、ミドルレンジのパスの精度も高い。

一方、その独特過ぎるプレースタイル故に自分の持ち場を離れすぎてしまう傾向があり、チームバランスを壊す要因になることもしばしば。また、守備への切り替えの意識が低く、守備時のポジションに戻らないことが多いため、彼の背後のスペースが狙われやすくなる。そのため、守備の規を重視する監督からは信頼を得られないことが多く、ポルトに移籍して間もない頃にセルジオ・コンセイソン監督衆の面前で怒鳴りつけられることとなった。

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
2012 東京ヴェルディ J2リーグ 8 4
2013 東京ヴェルディ J2リーグ 21 2
2014 東京ヴェルディ J2リーグ 21 2
2015 カターレ富山(loan) J2リーグ 28 2
FC東京 J1リーグ 5 0
2016 FC東京 J1リーグ 12 3
2017 FC東京 J1リーグ 21 2
2017-18 ポルティモネンセ(loan) プリメイラ・リーガ 29 10
2018-19 ポルティモネンセ プリメイラ・リーガ 13 5
アル・ドゥハイル スターズリーグ 7 1
2019-20 FCポルト プリメイラ・リーガ 16 0
2020-21 FCポルト プリメイラ・リーガ 4 0
アルアイン(loan) AGL 2 0
2021-22 FCポルト プリメイラ・リーガ 0 0
ポルティモネンセ(loan) プリメイラ・リーガ 22 1
2022-23 FCポルト プリメイラ・リーガ 0 0
アンタヤスポル スュペル・リグ 15 0
2023 浦和レッズ J1リーグ 7 1
2024 浦和レッズ J1リーグ 22 1

人物・エピソード

2017年8月23日ポルティモネンセSCへの移籍発表と同時に、かねてより交際していた一般女性結婚していたことも併せて発表。2019年9月1日に第1子となる長女の誕生を報告。

暇があれば公園練習するというサッカー小僧ぶりから、リアル大空とも呼ばれている。

幼い頃からの類のサッカー小僧ならではの変人エピソードが多く、日本サッカー協会エリートプログラムU-13・U-14)の合宿に参加した際、Jリーグの試合を観戦したとき、一般の観客の人達がたくさん歩いている通路で、その小さなボールを使ってドリブルし始め前からどんどん来る観客をドリブルで次々とかわすという奇行を見せている。

庭ということもあり、中島を育てるために母親の負担は大きく、東京ヴェルディの下部組織でプレーする費用を工面するために何度も入院し、痩せ細るほどだった。2014年リオデジャネイロオリンピックに出場した後、苦労をかけ続けた母親に一軒プレゼントしている。

柏レイソル横浜F・マリノスプレーし、ベルギーリーグでもプレーした経験のある1歳年下の小池太は方の従兄弟にあたる。2017年5月14日FC東京vs柏レイソルの試合ではお互いのポジションマッチアップすることになる「いとこ対決」が実現。

FC東京で干されていた時期、フィッカデンティ監督練習時間以外での自練を禁止していたこともあり、近くの公園でこっそり練習をしていた。このとき富山時代の恩師であり、当時FC東京コーチに就任していた安間義も中島の自練に付き合っていた。

浦和レッズ時代の2024年5月3日川崎フロンターレ戦では、ハーフタイム明けにピッチに戻る際、バナナったままピッチに入る姿がカメラに映し出された。

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