中村俊輔 単語

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中村俊輔(なかむら しゅんすけ、1978年6月24日-)とは、神奈川県横浜市戸塚区出身の元サッカー選手である。
横浜FCトップチームコーチ。元サッカー日本代表

概要

学園出身。利き足は左足。称は「俊輔」「俊さん」「ナカ」など。

視野の広さ、左足の正確なパス、フリーキックなどに優れたミッドフィルダー(右サイドもしくは中央)。長らく日本代表背番号10として活躍。2000年2013年Jリーグ最優秀選手を受賞。

2007年にスコティッシュ・プレミアリーグMVPを受賞。2006-2007シーズンUEFAチャンピオンズリーグマンチェスター・ユナイテッド戦において世界的な名GKであるエドウィンファン・デルサールから奪ったフリーキックによる直接ゴールは大きなインパクトを残し、セルティックでは伝説的な選手として語り継がれている。

一方でFIFAワールドカップでは何かと不遇を受けることが多く、2002年大会ではメンバーから落選となったことは日本中で話題となった。力としてプレーした2006年大会では力を出し切れず、2010年大会ではそれまでエースという立場だったものの、大会直前の戦術変更によって控えに降格している。

現役時代の経歴

生い立ち

横浜市瀬谷区で生まれ、4歳のときに戸塚区に引っ越している。3歳の頃からサッカーボールを蹴るようになり、小学生になり深園FCに入ってから本格的にサッカーを始める。

中学生の頃は、横浜マリノスジュニアユースに所属していたが、体が小さかったこともあってマリノスユースに上がれず、学園へ進学しサッカーを続ける。この頃から急に実力をつけるようになり、超高校級MFとして注されるようになる。全高校サッカー選手権には、2年生の頃と3年生の頃の2度出場。3年生の時には準優勝という実績を残している。

横浜マリノス

高校卒業後の1997年ジュニアユース時代に所属していた横浜マリノスに入団し、プロとしてのキャリアスタート背番号は「25」。

4月16日Jリーグ1stステージ第2節ガンバ大阪戦に途中出場し、Jリーグデビューを果たす。5月3日の第6節ベルマーレ平塚戦でJリーグゴールを決める。大物ルーキーとして注が集まっていた中村に対し、当時のハビエルアスカルゴルタ監督は才を高く評価しつつ、過度のプレッシャーがかからないように配慮し、最初は途中出場で出番をじわじわ増やし、プロに慣れてきた頃にスタメンとして起用していた。力に定着し、随所に期待通りの才の高さを見せると、高卒1年にしてJリーグ最優秀新人賞を受賞。1998年は、11月14日2ndステージ第17節のベルマーレ平塚戦でハットトリックを達成するなど、9得点記録している。

プロ3年となった1999年から背番号を「10」に変更。チーム名を「横浜F・マリノス」に変更したチーム徴として期待されると、この年初のJリーグベストイレブンに選出される。

2000年は、フル代表と五輪代表の掛け持ちという忙しいシーズンとなったが、としてレベルの高いプレーを随所に披露。中心選手としてチームJ1リーグ1st ステージ優勝に導く。チャンピオンシップ鹿島アントラーズに敗れ、年間王者の座を逃し、試合後に悔しを流す。しかし、この年の活躍は覚ましいものだがあり、史上最年少の22歳にしてJリーグ年間最優秀選手賞を受賞。大きく飛躍した1年となった。

一方、2001年チームが低迷したのに伴い、自身も前年を下回るパフォーマンスとなってしまう。慢性的な足首の負傷を抱えていたため離脱する時期もあった。それでも10月27日ナビスコカップ決勝では、当時黄金時代にあったジュビロ磐田相手にPK戦に持ち込み、1人キッカーとして成功させて優勝に貢献している。2002年も足首の負傷に苦しみ本来のパフォーマンスではなかった。それでも、にさらなるステップアップをするために海外への移籍を決断する。

レッジーナ時代

2002年7月イタリアセリエAへのレッジーナへの移籍が発表される。背番号は「10」。海外初挑戦のシーズンながらレギュラーを獲得し、プレーキッカーも任される。監督交代という混乱もあり、本職のトップ下ではなく、1列下がったポジションでの起用も多かったが、32試合に出場して7得点という記録を残し、チーム標だったセリエA残留に貢献する。

2003-04シーズンは、代表との過密日程のもあってコンディションが低下し、負傷が増えたこともあって前年よりもパフォーマンスが落ちてしまう。スタメンを外されることも増え、出場試合数は16試合とシーズンの半分を下回ってしまう不完全燃焼シーズンとなった。

3年となった2004-05シーズンは前年度に苦しめられた負傷が癒え、本来の姿を取り戻す。この年から就任したワルター・マッツァーリ監督がパスを繋ぐスタイルだったのも追いとなった。2004年11月6日セリエA第10節ユヴェントス戦では、チームの大金星に貢献する。終盤に負傷したものの、33試合に出場とほぼフル稼働し、チームは創設以来最高順位となる10位となる。イタリア誌からレッジーナ歴代ベストイレブンに選出される活躍をしたシーズンとなった。

セルティック時代

2005年7月コティッシュ・プレミアリーグスコットランド)のセルティックFCに移籍。背番号プロ1年と同じ「25」。中村の獲得をクラブに熱望していたゴードン・ストラカン監督から加入当初から信頼を受け、右SHを戦場に中心選手としてプレー。左足のキックと高いテクニックセルティックサポーターを虜にし、リーグ戦とカップ戦の内二冠に貢献。

2006-07シーズンは自身のキャリアハイと言えるシーズンとなる。スコットランドリズムにも慣れてきたこともあり、もはや攻撃の中心という存在となり、リーグ戦では2006年10月ダンディ戦で自身キャリア二度となるハットトリックを達成するなど9得点記録アシスト数はリーグトップの12アシスト記録リーグ連覇を成し遂げる。
自身初挑戦となるUEFAチャンピオンズリーグCL)では、2006年9月13日初戦で強マンチェスター・ユナイテッドと対戦。敵地オールド・トラフォードで1-2のビハインドを背負った前半43分フリーキックの場面で直接ゴールを狙うと、オランダ代表の名GKエドウィン・ファン・デル・サールが一歩も動けない完璧な弧を描いたシュートを決めて見せる。さらに、ホームセルティックパークでの再戦となった11月21日スコアレスで迎えた後半36分前回の対戦と同じような位置でフリーキックの場面が訪れ、鋭く曲がり落ちるシュートゴール右上に決める。試合後ファン・デル・サールが「あんなキックを蹴られたら、GKができることは何もない」と漏らすほどの芸術的ゴールは決勝ゴールとなり、今でもセルティックサポーターの間では語りとなっている。この活躍により、セルティックは初のCL決勝トーナメント出場権を手にし、同時に日本人として初めてCL決勝ラウンドのピッチに立つ。(CL再編成以前のチャンピオンズカップでは寺康が出場しているが、現行のCLでの決勝トーナメント進出は日本人としては中村が初めてである。)
これらの活躍は高く評価され、スコットランドPFA年間最優秀選手賞(Scottish PFA Players' Player of the Year)に選出され、アジア人間欧州一部リーグMVPを取る初の快挙を成し遂げた。さらにはスコットランドサッカー記者協会年間最優秀選手賞も受賞しており、タイトルを総なめにしたシーズンとなった。

チームで揺るぎない地位を手にした中村は、2007-08シーズンも攻撃の中心として活躍。2008年4月16日の宿敵グラスゴー・レンジャーズとのオールド・ファームでは、ゴールから30mほど離れた位置からアウトサイドにかけた衝撃的なスーパーゴールを決めている。このゴールセルティックリーグ戦3連覇を決定づけたものとなった。2008-09シーズン終了後、ストラカン監督と共に4シーズンに渡って数々の栄を築き上げたセルティックを退団し、次のステップをすことになる。

エスパニョール時代

2009年6月22日スペインリーガ・エスパニョーラのRCDエスパニョールに移籍。背番号は自身初となる「7」となった。本人にとって念願だったスペインでの挑戦となったが、全てが自分を中心に回っていたセルティック時代と違い、マウリシオポチェッティー監督による戦術のベースが出来上がったチームフィットできず、苦しむことになる。監督からの信頼を得られず、出場機会も次第に減っていき、スペインでの日々はわずか半年で終わることになる。2010年W杯が間近ということもあり、出場機会をめたことから日本へ戻ることを決意する。

横浜F・マリノス時代(第二次)

2010年2月28日Jリーグ開幕直前というタイミングで、古巣である横浜F・マリノスに7年半ぶりに復帰する。背番号セルティック時代と同じ「25」。前に所属していた頃は20代前半の若手だったが、今回は31歳のベテランとしてチームを引っる立場となった。リーグ戦32試合に出場とシーズンを通して稼働はしたものの、足首の負傷を抱えていた調子が上がらず、久々J1リーグで期待値を下回るパフォーマンスとなった。

松田直樹、山瀬攻治、河合二といった功労選手が軒並み放出となった2011年シーズンからは自身初となるチームキャプテンに就任する。だが、8月松本山雅に移籍した松田が急死したこともあってチームは暗いを落とし、自身も怪フル稼働はできなかった。2012年は、リーグ最少失点チームにあってフルに稼働することができた。

2013年シーズンは、トップ下の位置で守備の負担が軽減されたこともあり、全盛期を彷彿とさせる質の高いパフォーマンスを見せる。J1第30節の大分トリニータ戦では、通算17得点となるフリーキックからの直接ゴールを決め、J1リーグでのフリーキックからのゴールトップに躍り出る。以降首位に立つなど、優勝争いを演じていたチームを牽引していたが、11月に胆嚢炎のために入院しチームを離脱。その間の失速ので最終節に川崎フロンターレの逆転を許し、あと一歩でJ1リーグ優勝を逃す。だが、この年キャリア初の二桁得点記録する充実したシーズンを過ごし、史上最年長の35歳にして、史上初となる2度Jリーグ年間最優秀選手賞を受賞する。一方、天皇杯は決勝まで勝ち残り、2014年元旦の決勝でサンフレッチェ広島を破り、21年ぶりの優勝に貢献。

2014年からは背番号を「10」に変更し、チーム冠に終わったものの年間を通してチームを引っる。2015年オフに左足首の手術を受けたで出遅れ、復帰後の5月に今度は太もも離れによって再離脱。シーズンの前半戦をほぼ棒に振ることとなる。

2016年クラブ史上最長となる6年連続でキャプテンを務めるが、この年から就任したエリック・モンバエル監督は若手を積極的に起用する方針を採り、ピッチ上の力が強い中村は出場機会を減らされることとなった。加えて、チームは提携先であるシティフットボールグループが強く反映され、ベテラン勢に対する当たりが強くなっていた。指揮官クラブへの不信感が募り、シーズン終了後退団を決意することとなる。

ジュビロ磐田時代

2017年1月8日日本代表チームメイトだった名波浩監督から誘われたこともあり、ジュビロ磐田への移籍が決定する。背番号は「10」。このときマリノス時代からの減俸を受け入れての移籍となった。38歳にして新地でのスタートとなった2017年シーズンだったが、トップ下としてきを放つ。3月11日J1第3節大宮アルディージャ戦ではフリーキックによる直接ゴールで移籍後初ゴールを決め、第5節の清水エスパルスとの静岡ダービーでは3得点全てに絡む活躍を見せる。中村加入が磐田に与えたは大きく、最終的に前年度は残留争いをしていたチームは6位でシーズンを終えることとなった。

2018年も開幕当初はレギュラーとして活躍していたが、6月に右足の手術をおこなったにより3がチームを離脱することとなる。40歳を迎えた9月に復帰するが、チームは降格の危機に直面するほど低迷。何とかJ1参入プレーオフ東京ヴェルディを破り、J1残留を果たすが、プロになって初めて公式得点に終わり、大事なプレーオフでは1分にも満たない出場時間となっていた。

2019年移籍の噂もあったが、磐田に残留しJ1最年長選手として開幕を迎える。開幕戦こそスタメンを飾ったが、その後は怪もあって7月までにわずか出場2試合にとどまる。自らをチームに招いた名波監督が成績不振を理由に辞任したこともあり、シーズン途中で退団する。

横浜FC時代

2019年7月11日旧知の仲である三浦知良松井大輔が所属するJ2リーグ横浜FCへ移籍。背番号は「46」。初めてのJ2では、ボランチでの起用となったが、10月28日J2第38節東京ヴェルディ戦で移籍後初ゴールを決める。怪で離脱した時期があったものの、終盤の大事な5試合は連続でスタメンとして起用され、チームJ1自動昇格に貢献する。

J1復帰となった2021年シーズン開幕戦ではスタメンとして出場。しかし、その後は怪に悩まされたこともあって出場機会は減。10月24日J1第24節コンサドーレ札幌戦に10分間出場したのがシーズン最後の出場となった。

2021年背番号を慣れしんだ「10」に変更する。前年に引き続いて開幕戦にスタメンとして出場するが、守備面で問題を露呈し前半のみで交代となり、第2節以降はスタメンから外れる。コンディション不良もありシーズンを通してスタメンで出場したのは3試合のみにとどまり、チームJ2に降格。一時は引退を考えていたが、技術の高さを評価され契約を延長し、現役続行を決意する。

再びJ2プレーすることとなった2022年背番号を「25」に変更。3月13日J2第4節水戸ホーリーホック戦では途中出場から27後にCKから小川航基の決勝ゴールアシストしている。チームが1年でのJ1復帰を決めた2日後の10月18日に現役引退を発表。10月23日J2最終節ロアッソ熊本戦が現役最後の公式戦となった。

日本代表

1996年柳沢敦宮本恒靖チームメイトとなったU-19日本代表高校生にして選出。10月韓国で開催されたAFCユース選手権1996では、チームとしての役割を任され6試合に出場。グループリーグ第2戦のカタール戦でゴールを決めるなど、2大会連続となるワールドユース出場権獲得に貢献。

1997年には、6月からマレーシアで開催された1997 FIFAワールドユース選手権に出場。攻撃の中心として期待された中、初の世界舞台きを見せる。グループリーグ第2戦のコスタリカ戦ではチームの2点を決めて6-2の大勝を演出するなど、2大会連続の準々決勝進出に貢献。準々決勝でガーナを相手に延長戦の末に敗れたが、5試合全てにフル出場し、を残す大会となった。

1998年2月フランスW杯を控えた日本代表に初めて選出されるが、岡田武史監督からはまだ戦力として不十分と判断され、オーストラリアとの善試合でベンチに座ったが出場機会はかった。この年の後半からはフィリップ・トルシエ監督フル代表と兼任するU-21日本代表に選出。チーム初陣となった11月23日U-21アルゼンチン代表との善試合で決勝ゴールを決める。12月バンコクで開催された第13回アジア競技大会では3試合にフル出場するが、グループリーグで敗退。

1999年は、シドニー五輪出場をしたアジア予選がスタート。一次予選では、5得点をあげる活躍を見せ、攻撃の中心としての活躍が期待される。しかし、最終予選になるとフル代表のエースでもある中田英寿が合流。以降、中田トップ下に入り、自身は不慣れな左WBで起用されることになり、中田が不在のときはトップ下を任されることが続く。を抱きながらのプレーすることとなったが、それでも11月6日カザフスタン戦では、中田に譲られる形でフリーキックキッカーを務めて直接ゴールを決めるなど3得点全てに絡む活躍を見せ、2大会連続となるオリンピック出場権獲得に貢献している。

2000年2月13日アジアカップ予選マカオ戦においてフル代表初出場を果たす。2月16日の同予選ブルネイ戦で初ゴール記録する。この頃はトルシエ五輪世代から多くの選手を抜していたこともあり、フル代表と五輪代表を掛け持ちする状態になっていた。2000年9月シドニーオリンピックに出場するU-23日本代表メンバーに選出される。本大会では左サイドでの出場となったが、4試合全てに出場。準々決勝のアメリカ戦では、正確なクロス高原直泰の勝ち越しゴールを演出するが、チームPK戦で敗れている。2000年10月には、レバノンで開催されたAFCアジアカップ2000に出場。グループリーグから爆発的な攻撃力を見せた日本の中、ほとんどのゴールに絡む活躍を見せる。名波浩と共に攻撃リードしつつ、プレーキックでもゴールを演出。決勝のサウジアラビア戦でも、正確な左足のクロス望月重良のゴールアシスト日本の2度優勝に貢献し、大会のベストイレブンに選出される。

2001年3月24日スタッドゥ・フランスで当時最強と言われたフランス戦に出場するが、左サイドでの守備の甘さを露呈。攻撃面でも何もさせてもらえず、前半のみで交代となる。この試合以降、トルシエが左WBに守備を重視するようになったこと、自身もJリーグ調子を落としていたことから1年近く代表に選出されなくなる。日韓W杯を控えた2002年3月に代表に復帰。直前のテストマッチであるホンジュラス戦で2ゴールを決め、アピールする。しかし、足首の負傷のもあり、トルシエからはフィットネスが不十分と判断され、自開催となった2002 FIFAワールドカップメンバーから落選。当時日本中に大きな衝撃を与えるニュースとなった。

日韓W杯以降に就任したジーコ監督からは、全面的な信頼を得て攻撃の中心を任される。攻撃自由を与えたジーコの方針は、中村にとってはやり易い環境となった。2003年6月フランスで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2003に出場し、初戦のニュージーランド戦では2ゴールの活躍を見せ、続くフランス戦でも1ゴールを決める。チームグループリーグ3試合で敗退となったが、自身はブロンズシューズ賞を受賞。2004年には中国で開催されたAFCアジアカップ2004に出場。グループリーグ初戦のオマーン戦で決勝ゴールを決めると、第2戦のタイ戦でも先制ゴールを決める。準々決勝のヨルダン戦では、PK戦までもつれ込み、1人キッカーを務めるも荒れたピッチに足を取られて失敗してしまう。しかし、宮本ピッチ変更の要が通ったことと、川口能活ビッグセーブもあって戦犯にならずに済む。決勝の中国では、得意のプレーキックから2得点を演出し、試合終了間際には絶妙なスルーパスを通し、玉田の3点アシスト日本の連覇に貢献し、大会最優秀選手に選ばられる。

2004年からスタートしたドイツW杯アジア予選では、イタリアから試合の直前に合流することが多かったこともあり、他の海外組同様にコンディション調整に苦労することになる。2005年2月9日ホーム北朝鮮戦では、コンディション不良を理由にスタメンを外れることになる。その後は、スタメンに復帰し、あわや予選敗退の危機に直面しかけた6月3日バーレーン戦では、中田とのパスワークから小笠原満男の決勝ゴールを演出。世界最速でのW杯出場権獲得に貢献する。FIFAコンフェデレーションズカップ2005では、6月22日ブラジル戦でゴールを決め、2-2の引き分けに持ち込んでいる。

2006年ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップ日本代表に今度は事選出される。背番号10を背負い、ジーコ監督から攻撃の中心として重要視される立場にあった。グループリーグ第1戦のオーストラリア戦では右サイドからのクロスがそのままゴールに入る幸運な形でW杯得点となる先制点を決める。ところが、自身も含めてドイツの暑さによって時間とともに動きが鈍くなったチームは試合終盤に立て続けに3失点してしまい、逆転負け。グループリーグ3試合全てにフル出場するが、結局3試合とも本来のきを見せることなくチームは1勝もできないまま敗戦。大会後、エースとしての重責を果たせなかった中村に対し、厳しい批判が浴びせられた。

W杯後は、新たに就任したイビチャ・オシム監督の方針もあって2006年の間は海外組が招集されず、2007年3月4日ペルー戦で初めてオシム監督から招集される。引き続き代表の攻撃の中心の役割を与えられ、7月に開催されたAFCアジアカップ2017でも遠藤保仁と共に攻撃を組み立てるが、チームベスト4で敗退。3位決定戦までの6試合全てに出場し、2得点という内容だった。2008年から就任した岡田武史監督からも攻撃の軸とされ、9月6日南アフリカW杯アジア最終予選初戦のオマーン戦では、日本の最初のゴールを決めてみせる。岡田ジャパンでは、セルティックと同じ右SHが戦場になり、最終予選8試合中7試合にスタメンで出場し2得点記録。しかし、30歳を過ぎて衰えが見え始め、サッカーそのもののスピード性がアップする中、彼のスタイルは遅く見えてしまい、日増しに限界説を摘するが大きくなっていた

W杯イヤーの2010年Jリーグへ復帰したが、足首の負傷の調子が上がらず。6月南アフリカで開催される2010 FIFAワールドカップメンバーに選出されるが、チームの不振を受けて岡田監督チームの戦術を変更。その結果、本番直前で控えに降格することになる。結局、2度ワールドカップは、オランダ戦の30分間のみの出場となる。大会後、日本代表からの引退を表明。

日本代表通算98試合出場34得点

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
1997 日本日本 横浜マリノス Jリーグ 27 5
1998 33 9
1999 横浜F・マリノス

J1リーグ

26 7
2000 30 5
2001 24 3
2002 8 4
2002-2003 イタリアイタリア レッジーナ セリエA 32 7
2003-2004 16 2
2004-2005 33 2
2005-2006 スコットランドスコットランド セルティック Sプレミアシップ 33 6
2006-2007 37 9
2007-2008 26 6
2008-2009 32 8
2009-2010 スペインスペイン エスパニョール ラ・リーガ 13 0
2010 日本日本 横浜F・マリノス J1リーグ 32 5
2011 24 4
2012 31 6
2013 33 10
2014 32 2
2015 19 3
2016 19 4
2017 日本日本 ジュビロ磐田 J1リーグ 30 5
2018 16 0
2019 2 0
横浜FC J2リーグ 10 1
2020 J1リーグ 10 0
2021 12 0
2022 日本日本 横浜FC J2リーグ 6 0

個人タイトル

引退後の経歴

現役引退直後の2022年11月25日に2023シーズンより横浜FCトップチームコーチに就任することが発表される。また2023年2月には日本代表ローモデルコーチに就任。

2023年12月17日には、ニッパツ三ツ沢競技場で引退試合を開催。メンバーが集まり、若くして他界した松田直樹大介の名前メンバーに入り、中田英寿も姿を見せた。

プレースタイル

近年は数少なくなっているクラシカルな10番タイプに位置づけられる稀代のファンタジスタ。左足のキックから放たれるボールワールドクラスの正確さを持っており、長短のパスを駆使してチャンスメイクをし、視野の広さを活かすことでチーム全体を動かすことができる。縦パス、裏へのスルーパス、サイドチェンジとどれも一級品であり、彼がボールを持った間に前線の選手たちは一斉に動き出す。

足は速くないが、高い技術を駆使したドリブルも得意としており、左右両足による鋭い切り返しで相手を外すプレーを得意としている。

じっくりとタメを作って攻撃を作っていく、遅攻ゲームメーカーであり、キレや合理性よりも創造性溢れるプレーによって様々な攻撃のアイディアを提示する。ただし、年々スピードを増している現代サッカーにおいてこのプレースタイルボールを持ちすぎる遅さと捉われてしまうことがあり、2010年南アフリカW杯岡田監督ボールを展開するスタイルから機動性を重視するスタイルに転換したとき、チームに居場所がなくなってしまったのもそういった理由からだった。

フリーキック

中村の代名詞となっているのが、正確フリーキックである。歴代の日本人選手の中でも最高といっていいレベルキッカーであり、直接ゴールも味方にピンポイントで合わせるボールも得意としている。プレーキックレベル世界とも言われており、前述したように元オランダ代表のGKファン・デル・サールですらどうしもようもないと思わせるものである。

ボールの置く置き方の時点でそのときに蹴る方向を決めており、蹴る位置に向かう途中でコースを決め、その後GKの位置取りを確認にしてコースを変更するかを決めている。ボールから少し離れた位置に軸足を置き、横から助走し、軸足を中心にを回すように蹴る。使うのはインサイドで、インサイドの固いところをボールに当て、ボールの下側を狙って蹴る。外部から見ると、斜め上からこすり上げて蹴っているようなフォームになる。

蹴ったボールはただ曲がるだけではなく、ボールスピードも速い。実際中村の蹴ったボールスピードは時速99.7107キロを計上しており、世界的にも有数のボールスピードを生み出している。インサイドに近い位置でのキックボール斜めの回転を与えることでゴール近くで急速に落ちる軌となる。

本田圭佑2009年9月5日オランダとの善試合の後半18分に、FKキッカーをめぐり、当時絶対的な存在だった中村と衝突したが、「後にも先にも、シュンさんよりFKがうまいと思ったことは一度もない。ただ、あの時は蹴りたかったからした」と述べている。

エピソード

2004年一般人女性結婚。5人の子供がおり、2012年日本メンズファッション協会からベストファーザー賞に選ばれている。

2005年から2009年まで在籍していたセルティックでは、ヘンリクラーションやクリス・サットンらと共に2000年代以降のクラブレジェンドとして扱われている。後の選手たちに与えたも大きく、イタリアセリエAで活躍するヨシップ・イリチッチはセットプレーを蹴るうえでを受けた選手に中村名前を挙げ、「彼は世界一だよ」と述べている。また、セルティックからアーセナルへ移籍したキーラン・ティアニーは少年時代の憧れの選手を中村と答え、下部組織でプレーしていた当時中村から貰ったスパイクを今でも宝物にしている。

2012年日本テレビで放送された「ウルトラマンDASH」において、漫画キャプテン翼」の名シーン再現する企画に挑戦し、の中、走行中のバスに離れた位置からボールを蹴りこむ離れ業を披露している。

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