中村俊輔(なかむら しゅんすけ、1978年6月24日-)とは、神奈川県横浜市戸塚区出身の元サッカー選手である。
横浜FCトップチームコーチ。元サッカー日本代表。
中村俊輔 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 神奈川県横浜市戸塚区 |
生年月日 | 1978年6月24日 |
身長 体重 |
178 cm 73 kg |
選手情報 | |
利き足 | 左 |
守備位置 | MF |
プロ入り | 1995年 |
所属クラブ | |
代表歴 | |
代表チーム | 日本 |
出場歴 | 2000年-2010年 |
サッカー選手テンプレート |
桐光学園出身。利き足は左足。愛称は「俊輔」「俊さん」「ナカ」など。
視野の広さ、左足の正確なパス、フリーキックなどに優れたミッドフィルダー(右サイドもしくは中央)。長らく日本代表の背番号10として活躍。2000年と2013年にJリーグ最優秀選手を受賞。
2007年にスコティッシュ・プレミアリーグのMVPを受賞。2006-2007シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ、マンチェスター・ユナイテッド戦において世界的な名GKであるエドウィン・ファン・デルサールから奪ったフリーキックによる直接ゴールは大きなインパクトを残し、セルティックでは伝説的な選手として語り継がれている。
一方でFIFAワールドカップでは何かと不遇を受けることが多く、2002年大会ではメンバーから落選となったことは日本中で話題となった。唯一主力としてプレーした2006年大会では力を出し切れず、2010年大会ではそれまでエースという立場だったものの、大会直前の戦術変更によって控えに降格している。
横浜市瀬谷区で生まれ、4歳のときに戸塚区に引っ越している。3歳の頃からサッカーボールを蹴るようになり、小学生になり深園FCに入ってから本格的にサッカーを始める。
中学生の頃は、横浜マリノスジュニアユースに所属していたが、体が小さかったこともあってマリノスユースに上がれず、桐光学園へ進学しサッカーを続ける。この頃から急激に実力をつけるようになり、超高校級のMFとして注目されるようになる。全国高校サッカー選手権には、2年生の頃と3年生の頃の2度出場。3年生の時には準優勝という実績を残している。
高校卒業後の1997年、ジュニアユース時代に所属していた横浜マリノスに入団し、プロとしてのキャリアをスタート。背番号は「25」。
4月16日のJリーグ1stステージ第2節ガンバ大阪戦に途中出場し、Jリーグデビューを果たす。5月3日の第6節ベルマーレ平塚戦でJリーグ初ゴールを決める。大物ルーキーとして注目が集まっていた中村に対し、当時のハビエル・アスカルゴルタ監督は才能を高く評価しつつ、過度のプレッシャーがかからないように配慮し、最初は途中出場で出番をじわじわ増やし、プロの水に慣れてきた頃にスタメンとして起用していた。主力に定着し、随所に期待通りの才能の高さを見せると、高卒1年目にしてJリーグ最優秀新人賞を受賞。1998年は、11月14日2ndステージ第17節のベルマーレ平塚戦でハットトリックを達成するなど、9得点を記録している。
プロ3年目となった1999年から背番号を「10」に変更。チーム名を「横浜F・マリノス」に変更したチームの象徴として期待されると、この年初のJリーグベストイレブンに選出される。
2000年は、フル代表と五輪代表の掛け持ちという忙しいシーズンとなったが、司令塔としてレベルの高いプレーを随所に披露。中心選手としてチームをJ1リーグ1st ステージ優勝に導く。チャンピオンシップで鹿島アントラーズに敗れ、年間王者の座を逃し、試合後に悔し涙を流す。しかし、この年の活躍は目覚ましいものだがあり、史上最年少の22歳にしてJリーグ年間最優秀選手賞を受賞。大きく飛躍した1年となった。
一方、2001年はチームが低迷したのに伴い、自身も前年を下回るパフォーマンスとなってしまう。慢性的な足首の負傷を抱えていたため離脱する時期もあった。それでも10月27日のナビスコカップ決勝では、当時黄金時代にあったジュビロ磐田相手にPK戦に持ち込み、1人目のキッカーとして成功させて優勝に貢献している。2002年も足首の負傷に苦しみ本来のパフォーマンスではなかった。それでも、夏にさらなるステップアップをするために海外への移籍を決断する。
2002年7月イタリア・セリエAへのレッジーナへの移籍が発表される。背番号は「10」。海外初挑戦のシーズンながらレギュラーを獲得し、プレースキッカーも任される。監督交代という混乱もあり、本職のトップ下ではなく、1列下がったポジションでの起用も多かったが、32試合に出場して7得点という記録を残し、チームの目標だったセリエA残留に貢献する。
2003-04シーズンは、代表との過密日程の影響もあってコンディションが低下し、負傷が増えたこともあって前年よりもパフォーマンスが落ちてしまう。スタメンを外されることも増え、出場試合数は16試合とシーズンの半分を下回ってしまう不完全燃焼のシーズンとなった。
3年目となった2004-05シーズンは前年度に苦しめられた負傷が癒え、本来の姿を取り戻す。この年から就任したワルター・マッツァーリ監督がパスを繋ぐスタイルだったのも追い風となった。2004年11月6日のセリエA第10節ユヴェントス戦では、チームの大金星に貢献する。終盤に負傷したものの、33試合に出場とほぼフル稼働し、チームは創設以来最高順位となる10位となる。イタリア誌からレッジーナ歴代ベストイレブンに選出される活躍をしたシーズンとなった。
2005年7月スコティッシュ・プレミアリーグ(スコットランド)のセルティックFCに移籍。背番号はプロ1年目と同じ「25」。中村の獲得をクラブに熱望していたゴードン・ストラカン監督から加入当初から信頼を受け、右SHを主戦場に中心選手としてプレー。左足のキックと高いテクニックでセルティック・サポーターを虜にし、リーグ戦とカップ戦の国内二冠に貢献。
2006-07シーズンは自身のキャリアハイと言えるシーズンとなる。スコットランドのリズムにも慣れてきたこともあり、もはや攻撃の中心という存在となり、リーグ戦では2006年10月のダンディ戦で自身キャリア二度目となるハットトリックを達成するなど9得点を記録。アシスト数はリーグトップの12アシストを記録。リーグ連覇を成し遂げる。
自身初挑戦となるUEFAチャンピオンズリーグ(CL)では、2006年9月13日初戦で強豪マンチェスター・ユナイテッドと対戦。敵地オールド・トラフォードで1-2のビハインドを背負った前半43分フリーキックの場面で直接ゴールを狙うと、オランダ代表の名GKエドウィン・ファン・デル・サールが一歩も動けない完璧な弧を描いたシュートを決めて見せる。さらに、ホームのセルティック・パークでの再戦となった11月21日スコアレスで迎えた後半36分前回の対戦と同じような位置でフリーキックの場面が訪れ、鋭く曲がり落ちるシュートをゴール右上に決める。試合後ファン・デル・サールが「あんなキックを蹴られたら、GKができることは何もない」と漏らすほどの芸術的なゴールは決勝ゴールとなり、今でもセルティックサポーターの間では語り草となっている。この活躍により、セルティックは初のCL決勝トーナメント出場権を手にし、同時に日本人として初めてCL決勝ラウンドのピッチに立つ。(CL再編成以前のチャンピオンズカップでは奥寺康彦が出場しているが、現行のCLでの決勝トーナメント進出は日本人としては中村が初めてである。)
これらの活躍は高く評価され、スコットランドPFA年間最優秀選手賞(Scottish PFA Players' Player of the Year)に選出され、アジアの人間が欧州一部リーグのMVPを取る初の快挙を成し遂げた。さらにはスコットランドサッカー記者協会年間最優秀選手賞も受賞しており、タイトルを総なめにしたシーズンとなった。
チームで揺るぎない地位を手にした中村は、2007-08シーズンも攻撃の中心として活躍。2008年4月16日の宿敵グラスゴー・レンジャーズとのオールド・ファームでは、ゴールから30mほど離れた位置からアウトサイドにかけた衝撃的なスーパーゴールを決めている。このゴールがセルティックのリーグ戦3連覇を決定づけたものとなった。2008-09シーズン終了後、ストラカン監督と共に4シーズンに渡って数々の栄光を築き上げたセルティックを退団し、次のステップを目指すことになる。
2009年6月22日スペイン・リーガ・エスパニョーラのRCDエスパニョールに移籍。背番号は自身初となる「7」となった。本人にとって念願だったスペインでの挑戦となったが、全てが自分を中心に回っていたセルティック時代と違い、マウリシオ・ポチェッティーノ監督による戦術のベースが出来上がったチームにフィットできず、苦しむことになる。監督からの信頼を得られず、出場機会も次第に減っていき、スペインでの日々はわずか半年で終わることになる。2010年W杯が間近ということもあり、出場機会を求めたことから日本へ戻ることを決意する。
2010年2月28日Jリーグ開幕直前というタイミングで、古巣である横浜F・マリノスに7年半ぶりに復帰する。背番号はセルティック時代と同じ「25」。前に所属していた頃は20代前半の若手だったが、今回は31歳のベテランとしてチームを引っ張る立場となった。リーグ戦32試合に出場とシーズンを通して稼働はしたものの、足首の負傷を抱えていた影響で調子が上がらず、久々のJ1リーグで期待値を下回るパフォーマンスとなった。
松田直樹、山瀬攻治、河合竜二といった功労選手が軒並み放出となった2011年シーズンからは自身初となるチームのキャプテンに就任する。だが、8月に松本山雅に移籍した松田が急死したこともあってチームは暗い影を落とし、自身も怪我の影響でフル稼働はできなかった。2012年は、リーグ最少失点のチームにあってフルに稼働することができた。
2013年シーズンは、トップ下の位置で守備の負担が軽減されたこともあり、全盛期を彷彿とさせる質の高いパフォーマンスを見せる。J1第30節の大分トリニータ戦では、通算17得点目となるフリーキックからの直接ゴールを決め、J1リーグでのフリーキックからのゴール数トップに躍り出る。夏以降首位に立つなど、優勝争いを演じていたチームを牽引していたが、11月に胆嚢炎のために入院しチームを離脱。その間の失速の影響で最終節に川崎フロンターレの逆転を許し、あと一歩でJ1リーグ優勝を逃す。だが、この年キャリア初の二桁得点を記録する充実したシーズンを過ごし、史上最年長の35歳にして、史上初となる2度目のJリーグ年間最優秀選手賞を受賞する。一方、天皇杯は決勝まで勝ち残り、2014年元旦の決勝でサンフレッチェ広島を破り、21年ぶりの優勝に貢献。
2014年からは背番号を「10」に変更し、チームは無冠に終わったものの年間を通してチームを引っ張る。2015年はオフに左足首の手術を受けた影響で出遅れ、復帰後の5月に今度は太ももの肉離れによって再離脱。シーズンの前半戦をほぼ棒に振ることとなる。
2016年はクラブ史上最長となる6年連続でキャプテンを務めるが、この年から就任したエリック・モンバエルツ監督は若手を積極的に起用する方針を採り、ピッチ上の影響力が強い中村は出場機会を減らされることとなった。加えて、チームは提携先であるシティ・フットボール・グループの影響が強く反映され、ベテラン勢に対する風当たりが強くなっていた。指揮官とクラブへの不信感が募り、シーズン終了後退団を決意することとなる。
2017年1月8日、日本代表でチームメイトだった名波浩監督から誘われたこともあり、ジュビロ磐田への移籍が決定する。背番号は「10」。このときマリノス時代からの減俸を受け入れての移籍となった。38歳にして新天地でのスタートとなった2017年シーズンだったが、トップ下として輝きを放つ。3月11日のJ1第3節大宮アルディージャ戦ではフリーキックによる直接ゴールで移籍後初ゴールを決め、第5節の清水エスパルスとの静岡ダービーでは3得点全てに絡む活躍を見せる。中村加入が磐田に与えた影響は大きく、最終的に前年度は残留争いをしていたチームは6位でシーズンを終えることとなった。
2018年も開幕当初はレギュラーとして活躍していたが、6月に右足の手術をおこなった影響により3が月間チームを離脱することとなる。40歳を迎えた9月に復帰するが、チームは降格の危機に直面するほど低迷。何とかJ1参入プレーオフで東京ヴェルディを破り、J1残留を果たすが、プロになって初めて公式戦無得点に終わり、大事なプレーオフでは1分にも満たない出場時間となっていた。
2019年移籍の噂もあったが、磐田に残留しJ1最年長選手として開幕を迎える。開幕戦こそスタメンを飾ったが、その後は怪我の影響もあって7月までにわずか出場2試合にとどまる。自らをチームに招いた名波監督が成績不振を理由に辞任したこともあり、シーズン途中で退団する。
2019年7月11日旧知の仲である三浦知良、松井大輔が所属するJ2リーグの横浜FCへ移籍。背番号は「46」。初めてのJ2では、ボランチでの起用となったが、10月28日のJ2第38節東京ヴェルディ戦で移籍後初ゴールを決める。怪我で離脱した時期があったものの、終盤の大事な5試合は連続でスタメンとして起用され、チームのJ1自動昇格に貢献する。
J1復帰となった2021年シーズン開幕戦ではスタメンとして出場。しかし、その後は怪我に悩まされたこともあって出場機会は激減。10月24日のJ1第24節コンサドーレ札幌戦に10分間出場したのがシーズン最後の出場となった。
2021年は背番号を慣れ親しんだ「10」に変更する。前年に引き続いて開幕戦にスタメンとして出場するが、守備面で問題を露呈し前半のみで交代となり、第2節以降はスタメンから外れる。コンディション不良もありシーズンを通してスタメンで出場したのは3試合のみにとどまり、チームはJ2に降格。一時は引退を考えていたが、技術の高さを評価され契約を延長し、現役続行を決意する。
再びJ2でプレーすることとなった2022年は背番号を「25」に変更。3月13日のJ2第4節水戸ホーリーホック戦では途中出場から27秒後にCKから小川航基の決勝ゴールをアシストしている。チームが1年でのJ1復帰を決めた2日後の10月18日に現役引退を発表。10月23日のJ2最終節ロアッソ熊本戦が現役最後の公式戦となった。
1996年柳沢敦や宮本恒靖とチームメイトとなったU-19日本代表に高校生にして選出。10月に韓国で開催されたAFCユース選手権1996では、チームの司令塔としての役割を任され6試合に出場。グループリーグ第2戦のカタール戦でゴールを決めるなど、2大会連続となるワールドユース出場権獲得に貢献。
1997年には、6月からマレーシアで開催された1997 FIFAワールドユース選手権に出場。攻撃の中心として期待された中、初の世界の舞台で輝きを見せる。グループリーグ第2戦のコスタリカ戦ではチームの2点目を決めて6-2の大勝を演出するなど、2大会連続の準々決勝進出に貢献。準々決勝でガーナを相手に延長戦の末に敗れたが、5試合全てにフル出場し、爪痕を残す大会となった。
1998年2月フランスW杯を控えた日本代表に初めて選出されるが、岡田武史監督からはまだ戦力として不十分と判断され、オーストラリアとの親善試合でベンチに座ったが出場機会は無かった。この年の後半からはフィリップ・トルシエ監督がフル代表と兼任するU-21日本代表に選出。チームの初陣となった11月23日のU-21アルゼンチン代表との親善試合で決勝ゴールを決める。12月にバンコクで開催された第13回アジア競技大会では3試合にフル出場するが、グループリーグで敗退。
1999年は、シドニー五輪出場を目指したアジア予選がスタート。一次予選では、5得点をあげる活躍を見せ、攻撃の中心としての活躍が期待される。しかし、最終予選になるとフル代表のエースでもある中田英寿が合流。以降、中田がトップ下に入り、自身は不慣れな左WBで起用されることになり、中田が不在のときはトップ下を任されることが続く。葛藤を抱きながらのプレーすることとなったが、それでも11月6日のカザフスタン戦では、中田に譲られる形でフリーキックのキッカーを務めて直接ゴールを決めるなど3得点全てに絡む活躍を見せ、2大会連続となるオリンピック出場権獲得に貢献している。
2000年2月13日のアジアカップ予選マカオ戦においてフル代表初出場を果たす。2月16日の同予選ブルネイ戦で初ゴールを記録する。この頃はトルシエが五輪世代から多くの選手を抜擢していたこともあり、フル代表と五輪代表を掛け持ちする状態になっていた。2000年9月にシドニーオリンピックに出場するU-23日本代表のメンバーに選出される。本大会では左サイドでの出場となったが、4試合全てに出場。準々決勝のアメリカ戦では、正確なクロスで高原直泰の勝ち越しゴールを演出するが、チームはPK戦で敗れている。2000年10月には、レバノンで開催されたAFCアジアカップ2000に出場。グループリーグから爆発的な攻撃力を見せた日本の中、ほとんどのゴールに絡む活躍を見せる。名波浩と共に攻撃陣をリードしつつ、プレースキックでもゴールを演出。決勝のサウジアラビア戦でも、正確な左足のクロスで望月重良のゴールをアシスト。日本の2度目の優勝に貢献し、大会のベストイレブンに選出される。
2001年3月24日スタッドゥ・フランスで当時最強と言われたフランス戦に出場するが、左サイドでの守備の甘さを露呈。攻撃面でも何もさせてもらえず、前半のみで交代となる。この試合以降、トルシエが左WBに守備を重視するようになったこと、自身もJリーグで調子を落としていたことから1年近く代表に選出されなくなる。日韓W杯を控えた2002年3月に代表に復帰。直前のテストマッチであるホンジュラス戦で2ゴールを決め、アピールする。しかし、足首の負傷の影響もあり、トルシエからはフィットネスが不十分と判断され、自国開催となった2002 FIFAワールドカップのメンバーから落選。当時日本中に大きな衝撃を与えるニュースとなった。
日韓W杯以降に就任したジーコ監督からは、全面的な信頼を得て攻撃の中心を任される。攻撃陣に自由を与えたジーコの方針は、中村にとってはやり易い環境となった。2003年6月にフランスで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2003に出場し、初戦のニュージーランド戦では2ゴールの活躍を見せ、続くフランス戦でも1ゴールを決める。チームはグループリーグ3試合で敗退となったが、自身はブロンズシューズ賞を受賞。2004年には中国で開催されたAFCアジアカップ2004に出場。グループリーグ初戦のオマーン戦で決勝ゴールを決めると、第2戦のタイ戦でも先制ゴールを決める。準々決勝のヨルダン戦では、PK戦までもつれ込み、1人目のキッカーを務めるも荒れたピッチに足を取られて失敗してしまう。しかし、宮本のピッチ変更の要求が通ったことと、川口能活のビッグセーブもあって戦犯にならずに済む。決勝の中国船では、得意のプレースキックから2得点を演出し、試合終了間際には絶妙なスルーパスを通し、玉田圭司の3点目をアシスト。日本の連覇に貢献し、大会最優秀選手に選ばられる。
2004年からスタートしたドイツW杯アジア予選では、イタリアから試合の直前に合流することが多かったこともあり、他の海外組同様にコンディション調整に苦労することになる。2005年2月9日のホームの北朝鮮戦では、コンディション不良を理由にスタメンを外れることになる。その後は、スタメンに復帰し、あわや予選敗退の危機に直面しかけた6月3日のバーレーン戦では、中田とのパスワークから小笠原満男の決勝ゴールを演出。世界最速でのW杯出場権獲得に貢献する。FIFAコンフェデレーションズカップ2005では、6月22日のブラジル戦でゴールを決め、2-2の引き分けに持ち込んでいる。
2006年ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップの日本代表に今度は無事選出される。背番号10を背負い、ジーコ監督から攻撃の中心として重要視される立場にあった。グループリーグ第1戦のオーストラリア戦では右サイドからのクロスがそのままゴールに入る幸運な形でW杯初得点となる先制点を決める。ところが、自身も含めてドイツの暑さによって時間とともに動きが鈍くなったチームは試合終盤に立て続けに3失点してしまい、逆転負け。グループリーグ3試合全てにフル出場するが、結局3試合とも本来の輝きを見せることなくチームは1勝もできないまま敗戦。大会後、エースとしての重責を果たせなかった中村に対し、厳しい批判が浴びせられた。
W杯後は、新たに就任したイビチャ・オシム監督の方針もあって2006年の間は海外組が招集されず、2007年3月4日のペルー戦で初めてオシム監督から招集される。引き続き代表の攻撃の中心の役割を与えられ、7月に開催されたAFCアジアカップ2017でも遠藤保仁と共に攻撃を組み立てるが、チームはベスト4で敗退。3位決定戦までの6試合全てに出場し、2得点という内容だった。2008年から就任した岡田武史監督からも攻撃の軸とされ、9月6日の南アフリカW杯アジア最終予選初戦のオマーン戦では、日本の最初のゴールを決めてみせる。岡田ジャパンでは、セルティックと同じ右SHが主戦場になり、最終予選8試合中7試合にスタメンで出場し2得点を記録。しかし、30歳を過ぎて衰えが見え始め、サッカーそのもののスピード性がアップする中、彼のスタイルは遅く見えてしまい、日増しに限界説を指摘する声が大きくなっていた
W杯イヤーの2010年にJリーグへ復帰したが、足首の負傷の影響で調子が上がらず。6月に南アフリカで開催される2010 FIFAワールドカップのメンバーに選出されるが、チームの不振を受けて岡田監督はチームの戦術を変更。その結果、本番直前で控えに降格することになる。結局、2度目のワールドカップは、オランダ戦の30分間のみの出場となる。大会後、日本代表からの引退を表明。
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
1997 | 日本 | 横浜マリノス | Jリーグ | 27 | 5 |
1998 | 33 | 9 | |||
1999 | 横浜F・マリノス | 26 | 7 | ||
2000 | 30 | 5 | |||
2001 | 24 | 3 | |||
2002 | 8 | 4 | |||
2002-2003 | イタリア | レッジーナ | セリエA | 32 | 7 |
2003-2004 | 16 | 2 | |||
2004-2005 | 33 | 2 | |||
2005-2006 | スコットランド | セルティック | Sプレミアシップ | 33 | 6 |
2006-2007 | 37 | 9 | |||
2007-2008 | 26 | 6 | |||
2008-2009 | 32 | 8 | |||
2009-2010 | スペイン | エスパニョール | ラ・リーガ | 13 | 0 |
2010 | 日本 | 横浜F・マリノス | J1リーグ | 32 | 5 |
2011 | 24 | 4 | |||
2012 | 31 | 6 | |||
2013 | 33 | 10 | |||
2014 | 32 | 2 | |||
2015 | 19 | 3 | |||
2016 | 19 | 4 | |||
2017 | 日本 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 30 | 5 |
2018 | 16 | 0 | |||
2019 | 2 | 0 | |||
横浜FC | J2リーグ | 10 | 1 | ||
2020 | J1リーグ | 10 | 0 | ||
2021 | 12 | 0 | |||
2022 | 日本 | 横浜FC | J2リーグ | 6 | 0 |
現役引退直後の2022年11月25日に2023シーズンより横浜FCのトップチームコーチに就任することが発表される。また2023年2月には日本代表のロールモデルコーチに就任。
2023年12月17日には、ニッパツ三ツ沢競技場で引退試合を開催。豪華なメンバーが集まり、若くして他界した松田直樹、奥大介の名前がメンバーに入り、中田英寿も姿を見せた。
近年は数少なくなっているクラシカルな10番タイプに位置づけられる稀代のファンタジスタ。左足のキックから放たれるボールはワールドクラスの正確さを持っており、長短のパスを駆使してチャンスメイクをし、視野の広さを活かすことでチーム全体を動かすことができる。縦パス、裏へのスルーパス、サイドチェンジとどれも一級品であり、彼がボールを持った瞬間に前線の選手たちは一斉に動き出す。
足は速くないが、高い技術を駆使したドリブルも得意としており、左右両足による鋭い切り返しで相手を外すプレーを得意としている。
じっくりとタメを作って攻撃を作っていく、遅攻型のゲームメーカーであり、キレや合理性よりも創造性溢れるプレーによって様々な攻撃のアイディアを提示する。ただし、年々スピードを増している現代サッカーにおいてこのプレースタイルはボールを持ちすぎる遅さと捉われてしまうことがあり、2010年南アフリカW杯で岡田監督がボールを展開するスタイルから機動性を重視するスタイルに転換したとき、チームに居場所がなくなってしまったのもそういった理由からだった。
中村の代名詞となっているのが、正確無比なフリーキックである。歴代の日本人選手の中でも最高といっていいレベルのキッカーであり、直接ゴールも味方にピンポイントで合わせるボールも得意としている。プレースキックのレベルは世界屈指とも言われており、前述したように元オランダ代表のGKファン・デル・サールですらどうしもようもないと思わせるものである。
ボールの置く置き方の時点でそのときに蹴る方向を決めており、蹴る位置に向かう途中でコースを決め、その後GKの位置取りを確認にしてコースを変更するかを決めている。ボールから少し離れた位置に軸足を置き、真横から助走し、軸足を中心に腰を回すように蹴る。使うのはインサイドで、インサイドの固いところをボールに当て、ボールの下側を狙って蹴る。外部から見ると、斜め上からこすり上げて蹴っているようなフォームになる。
蹴ったボールはただ曲がるだけではなく、ボールスピードも速い。実際中村の蹴ったボールのスピードは時速99.7~107キロを計上しており、世界的にも有数のボールスピードを生み出している。インサイドに近い位置でのキックでボールに斜めの回転を与えることでゴール近くで急速に落ちる軌道となる。
本田圭佑は2009年9月5日のオランダとの親善試合の後半18分に、FKキッカーをめぐり、当時絶対的な存在だった中村と衝突したが、「後にも先にも、シュンさんよりFKがうまいと思ったことは一度もない。ただ、あの時は蹴りたかったから主張した」と述べている。
2004年に一般人女性と結婚。5人の子供がおり、2012年に日本メンズファッション協会からベストファーザー賞に選ばれている。
2005年から2009年まで在籍していたセルティックでは、ヘンリク・ラーションやクリス・サットンらと共に2000年代以降のクラブのレジェンドとして扱われている。後の選手たちに与えた影響も大きく、イタリア・セリエAで活躍するヨシップ・イリチッチはセットプレーを蹴るうえで影響を受けた選手に中村の名前を挙げ、「彼は世界一だよ」と述べている。また、セルティックからアーセナルへ移籍したキーラン・ティアニーは少年時代の憧れの選手を中村と答え、下部組織でプレーしていた当時中村から貰ったスパイクを今でも宝物にしている。
2012年に日本テレビで放送された「ウルトラマンDASH」において、漫画「キャプテン翼」の名シーンを再現する企画に挑戦し、雨の中、走行中のバスの窓に離れた位置からボールを蹴りこむ離れ業を披露している。
掲示板
138 ななしのよっしん
2022/10/17(月) 08:27:00 ID: ZIB1DqrBzO
二大会出てるし縁はあっただろ
あんまり活躍はしなかったけど
139 ななしのよっしん
2022/10/17(月) 11:51:23 ID: fYbFS0b+od
>>137
2006ドイツは中田英寿が目立ったけど、チーム的には俊輔のチームだったと思うよ
トルシエや岡ちゃんのようにチームづくりを割り切らなかったジーコが全部悪いんや
(ジーコにはジーコなりの言い分はちゃんとあって「あんだけワガママ揃いのセレソンだってワールドカップになれば固く団結するのに、日本人は和や協調性が強いとか言われてるくせに私のチームは最後まで一つにまとまらなかった、それが誤算だった」と)
140 ななしのよっしん
2022/10/17(月) 11:53:05 ID: fYbFS0b+od
俊輔と日本代表といえば、やっぱり2004年のアジアカップなんよ
あの大会の俊輔は、マラドーナやバッジョのごとく一人でチームを牽引してくれた
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/23(月) 05:00
最終更新:2024/12/23(月) 05:00
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