稲本潤一(いなもと じゅんいち、1979年9月18日 - )とは、大阪府堺市出身の元サッカー選手である。
関東1部リーグの南葛SC所属。元サッカー日本代表。
ポジションはMF(ボランチ)。181cm77kg。利き足は右足。
小野伸二や高原直泰と同じ1979年生まれの日本サッカー「黄金世代」であり、代表格。当時の日本では珍しい大型ボランチで、各年代の日本代表で主力に名を連ねていた。世界最高峰のリーグであるイングランド・プレミアリーグで日本人初出場と初ゴールを決めた人物であり、欧州の主要リーグで初めてハットトリックを達成した人物でもある。
FIFAワールドカップには3度出場。自国開催となった2002 FIFAワールドカップでは日本が初めて勝ち点を挙げたベルギー戦の同点ゴールと日本の歴史的なワールドカップ初勝利を挙げたロシア戦で決勝ゴールを決めた選手として日本サッカーの歴史に名を残している。このワールドカップの活躍によって海外でも「日本のワンダーボーイ」と評される。
2001年に名門アーセナルFCに移籍したのを皮切りに、イングランド・トルコ・ドイツ・フランスの4ヶ国でプレーした国際経験の豊富な選手でもある。2010年以降は日本へ戻り、45歳まで現役を続け、2024年シーズンをもって引退。
鹿児島県姶良郡湧水町で姉がいる第二子として誕生。生後まもなく鹿児島県から大阪府堺市に転居している。6歳の時に堺市の青英学園幼稚園でサッカーボールに触れたのがサッカーを始めたきっかけとなった。
小学生となり堺市立深井西小学校へ入学するも同校のサッカー部は5年生からであったため、稲本の才能を惜しんだ周囲が青英学園SCに参加出来るよう取り計らった経緯がある。少年時代の稲本は同年代の子どもと比べて一回り体が大きく、恵まれた体格とスピードを武器にドリブルで強引に突破してゴールを量産するFWだった。
5年生のときに大阪トレセン、6年生で関西選抜に選出。さらには12歳以下のナショナルトレセンにも選ばれ、このときに天才・小野伸二と出会う。小野のプレーを見て「ごっつい奴がおる」と上には上がいることに衝撃を受けることとなる。
中学生になると、「プロになる近道」としてガンバ大阪ジュニアユースへ入る。ここで当時のコーチだった上野山信行のアドバイスによってボランチにコンバートされる。ボディバランスや体の強さ、さらにテクニックも持ち合わせたことから、将来世界と戦える大型ボランチになると期待されるようになっていた。
高校生になるとガンバ大阪ユースへと昇格。しかし、稲本のスケールの大きさはもはやユース年代に留まるレベルではなく、1997年に高校3年生にしてトップチームに昇格。このときサッカーに専念するために通信制の高校に転校している。その才能は当時のヨジップ・クゼ監督からも高く評価され、なんとJリーグ開幕戦のベルマーレ平塚戦でスタメンに抜擢。17歳125日でのJリーグ出場は当時の最年少出場記録となった。そのデビュー戦で初アシストを記録する活躍を見せ、そのまま主力に定着。4月19日の1stステージ第3節清水エスパルス戦ではJリーグ初ゴールを記録。17歳7か月でのゴールは当時のJリーグ最年少ゴール記録となった。この年のガンバはパトリック・エムボマを擁し、2ndステージでは優勝争いに食い込む大躍進を遂げたが、その中で27試合3得点という成績を残す。
高校を卒業した1998年に正式にガンバ大阪とプロ契約を結び、背番号も「6」に変更。この年のチームはエムボマが退団した影響もあって低迷するが、同年代の若い選手が多く台頭したチームにあって中心選手となり、前年を上回る6ゴールをマーク。特にこの年のアビスパ福岡戦で元日本代表の左SBである都並敏史を圧倒的なフィジカルで吹き飛ばし、このプレーで都並に引退を決意させたことは有名な逸話となっている。
1999年は春先に負った怪我の影響もあってプレーの精彩を欠くことが多く、22試合1得点にとどまる。坊主にしていた髪が伸びてきた2000年は調子を取り戻し、Jリーグ2ndステージは優勝争いに食い込むなど輝きを放つ。タイトルには届かなかったものの、この年のJリーグベストイレブンに初めて選出される。
2001年7月、アーセン・ヴェンゲル監督に才能を高く評価され、イングランド・プレミアリーグの強豪アーセナルFCに期限付き移籍することが決まる。9月19日のUEFAチャンピオンズリーグ、シャルケ04戦で公式戦デビューを飾る。しかし、当時スター軍団だったアーセナルは異次元のレベルの高さであり、しかも同じボランチのポジションには世界最高のボランチと呼ばれたパトリック・ヴィエラがいたこともあって試合出場どころかベンチ入りすらままならない日々が続き、カップ戦2試合に出場しただけに留まり、プレミアリーグでの試合出場は果たせなかった。エリート街道を歩んできた稲本にとっては初めて直面した大きな壁となった。
2002 FIFAワールドカップ後、日本のテレビ番組で共演した際にヴェンゲル監督と話し合い、出場機会を求めて移籍を直訴。同じロンドンを本拠地とするフラムFCへ期限付き移籍する。2002年8月18日のプレミアリーグ開幕戦ボルトン・ワンダラーズ戦で後半24分から出場し、プレミアリーグにおける日本人初出場を果たす。8月28日のUEFAインタートトカップ決勝のボローニャFC戦ではハットトリックを達成する大活躍を見せ、チームをUEFAカップ出場へと導く。9月11日のトッテナム・ホットスパーズ戦では後半24分に鮮やかなミドルシュートを決め、プレミアリーグでの日本人初ゴールを記録。この活躍によって完全移籍を勝ち取るのは確実と見られていたが、怪我によって出場機会が減るようになり、プレーの精度も落ちてしまったことから評価は上がらず、1年間レンタル期間を延長するにとどまる。
2003-04シーズンもシーズン前半は調子が良く、10月25日のオールド・トラフォードでのマンチェスター・ユナイテッド戦では後半34分に滑り込みながらの右足ダイレクトでのゴールを決め、敵地での大金星獲得に貢献。フラムがユナイテッド相手にアウェイで勝利したのは40年ぶりの快挙だった。だが、本来とは違うトップ下やサイドハーフで起用されたこともあって調子を落とすようになり、徐々に出場機会を失ってしまう。さらに2004年5月の代表での親善試合で左足骨折の重傷を負ったことで長期の戦線離脱となったことで契約延長は果たせず、退団となってしまう。
2004年7月プレミアリーグに昇格したばかりのウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンへ期限付き移籍。だが、前述した負傷からの復帰が遅れたこともあってチーム内で居場所はなく、2005年1月に再レンタルという形でEFLチャンピオンシップ(イングランド2部リーグ)のカーディフ・シティへと放出される。カーディフでは主力として14試合に出場している。
2005-06シーズンは完全移籍という形でWBAに復帰。しかしレギュラーを確保することはできず、チームもプレミアリーグから降格となってしまう。
2006年9月1日、トルコ スュペルリグの名門ガラタサライSKへ1年契約で移籍。エリック・ゲレツ監督の信頼を得てレギュラーを獲得。UEFAチャンピオンズリーグにも久々に出場を果たし、11月22日のグループステージ第5節ボルドー戦でCL初ゴールを記録。ガラタサライでは熱狂的なサポーターから寵愛を受け、久々に充実したシーズンを過ごすことができ、本人もこのまま残留することを希望していたが、チームが無冠に終わり、ゲレツ監督が退任することも伴い、契約延長することなく退団となる。
2007年5月、高原直泰が在籍していたドイツ・ブンデスリーガのアイントラハト・フランクフルトへ2年契約で加入。ボランチのレギュラーとして起用されることが多く、1シーズン目の2007-08シーズンではゴールこそなかったが、24試合に出場。サポーターからもまずまずの評価を得る。
しかし、2008-09シーズンは怪我もあって出場機会が減ってしまい、19試合0得点で終了。フランクフルトと契約延長することなく退団となる。
2009年6月、ガンバ大阪時代に指導を受けたフレデリック・アントネッティが監督を務めている縁もあってフランス リーグ・アンのスタッド・レンヌへ移籍。シーズン序盤こそ出場機会を得ていたものの、若手の台頭に弾き出される格好で出場機会が減ってしまい、ベンチで過ごす時間が長くなっていった。翌年に南アフリカワールドカップが控えていたこともあり、半年で退団を決意。30歳にして海外での挑戦に区切りを付けることになる。
2010年1月12日、J1リーグの川崎フロンターレに完全移籍することが発表され、30歳にして9年ぶりに日本国内に戻ることになる。欧州での経験から高い期待を寄せられての移籍となったが、中村憲剛とボランチを組むことが多かったこともあって守備的な役割を担い、持ち前のフィジカルを活かしてボールを奪い取ることがメインのタスクとなっていた。内転筋や太もも痛などに悩まされながらも、リーグ戦28試合に出場。攻撃的なチームのバランサーとしての役割をこなしていた。
2011年シーズンも前半戦はボランチのレギュラーとしてプレー。7月9日のJ1第3節アビスパ福岡戦では川崎移籍後初ゴールとなる先制ゴールを決める。クラブの公式戦でのゴールはフラム時代の2004年以来7年ぶりとなった。しかし、その後は故障に悩まされて欠場が増えてしまい12試合の出場にとどまる。
2012年途中に風間八宏が監督に就任。ボールポゼッションを重視する風間監督は展開力のある稲本をセンターバックで起用する構想を持っており、2013年4月18日のサンフレッチェ広島戦で初めてCBで起用される。2013年シーズンはこの1試合のみの起用となり、その後は本職のボランチに戻ることとなったが、2014年シーズンに本格的にCBへコンバートされることになる。ポジションもDFと登録されることとなった。しかし大卒ルーキーの谷口彰悟との競争に負けたこともあってリーグ戦14試合の出場に留まってしまい、シーズン終了後に契約終了で退団することになる。
2014年12月、J2リーグの北海道コンサドーレ札幌に移籍することになり、ユース時代からのライバルであり盟友でもある小野伸二と同じチームに所属することになる。2015年シーズンは小野との共演で注目され、開幕から試合に出場し続けていた。ところが、7月24日にイヴィッツァ・バルバリッチ監督が解任されると状況が一変。終盤戦はベンチスタートとなる試合が増え、キャリアで初めてシーズン30試合以上出場したが、リーグ戦42試合のうちスタメンで出場した試合は27試合に留まった。
移籍2年目の2016年は4月23日のセレッソ大阪戦で札幌での初ゴールを記録。しかし、6月4日に行われたジェフユナイテッド千葉戦に先発出場した際に、右ひざ前十字じん帯断裂で負傷交代。全治8カ月の大怪我となってしまいシーズンの大半を棒に振ることになる。
チームがJ1に昇格した2017年は復活を期するシーズンとなったが、3月に外側半月板と右ひざ軟骨を損傷という大怪我をまたも追ってしまう。この年の9月に復帰したものの、38歳となった稲本にとって2年連続での大怪我は致命的なものとなってしまい、2018年シーズンはリーグ戦ではわずか2試合での出場に終わり、契約満了で退団。
2019年1月23日、J3リーグのSC相模原への移籍が発表される。前年に引退した川口能活に代わってチームを支えるベテランとしての役割も期待され、6月15日には古巣であるガンバ大阪U-23戦で移籍後初ゴールをマーク。このゴールでJ3リーグ戦最年長得点記録を39歳8か月28日に更新することとなった。
2020年シーズンは怪我もあってわずか2試合の出場となったが、ベテランとして若手にアドバイスを送るなど影からチームのJ2リーグ昇格に貢献。2021年はJ2で9試合に出場し、シーズン終了後に契約満了によって退団。
2022年1月18日、漫画家の高橋陽一が代表者を務める関東1部リーグの南葛SCへ完全移籍することが発表される。1年目は2試合のみの出場となったが、2年目となった2023年は9試合に出場。8月6日の栃木シティ戦ではコーナーキックからヘディングシュートを決め、43歳での移籍後初ゴールを記録している。
小野や高原、遠藤保仁といった同年代の仲間が次々と現役を引退した2024年はコーチ兼任という形で現役を続行。公式戦の出場はなく、12月4日に現役引退を表明。稲本の引退によって「黄金世代」は全員が現役を退くこととなった。引退会見には妻の田中美保も姿を見せ、花束を贈呈された。
中学2年生のときにU-14日本代表に選出されて以降、小野伸二や高原直泰と共に各年代の日本代表でプレー。1994年にはAFC U-17アジア選手権で優勝を経験。1995年にはU-17日本代表としてFIFA U-17世界選手権 エクアドル大会に出場。このときは右SBとして全試合に出場したが、グループリーグで敗退している。
1998年にはU-19日本代表としてタイで開催されたAFCユース選手権1998に出場。小野を中心とした「黄金世代」の中心の一人として期待される中、初戦の中国戦で2枚目のイエローカードを貰い退場となってしまう。出場停止の解けた第3戦のカタール戦で復帰すると、小野とのコンビでゴールを決める。決勝トーナメントではボランチのレギュラーとしてプレーし続けるが、決勝の韓国戦で完敗し、優勝を逃す。
1999年からフィリップ・トルシエがフル代表、U-22代表との兼任でU-20代表の監督に就任。4月にナイジェリアで開催された1999 FIFAワールドユース選手権ではキャプテンを任される。しかし大会直前に負った膝の負傷の影響でコンディションが整わず、決勝トーナメント1回戦のポルトガル戦で初出場。準々決勝では出番が無く、準決勝のウルグアイ戦では突然丸坊主になって途中出場するが、動きの悪さからわずか11分間で交代させられてしまう。小野が累積警告で出場停止となった決勝のスペイン戦でもスタメンを外れ、劣勢の後半途中から出場するも何もできず、チームは完敗。最後まで調子が上がらず準優勝したチームの中で厳しい大会となったが、このとき対戦したシャビのプレーを見て海外移籍への意欲を持つようになる。
ワールドユース後はシドニーオリンピック出場を目指すU-22代表を主戦場にするようになる。オリンピックアジア1次予選では前述した膝の怪我の影響を引きずり調子が悪く、マレーシア戦でトルシエから前半で交代を命じられ、以降の5試合で出場機会を与えられない屈辱を経験。最終予選の時期には調子を取り戻し、初戦のカザフスタン戦では中田英寿のCKからアクロバティックなボレーシュートを決めている。トルシエからの信頼も取り戻し、以降の最終予選全試合にスタメンで出場。圧倒的な強さを見せたU-22代表の中心選手として2大会連続でのオリンピック出場に貢献している。
2000年2月に香港で開催されたカールスバーグカップのメンバーとしてフル代表に初招集され、2月5日のメキシコ戦では20歳にしてフル代表デビューを果たす。この頃はトルシエが世代交代に着手していたこともあってオリンピック代表のメンバーの大半がフル代表を兼任し、稲本はフル代表で8試合連続スタメン出場。7月4日のユーゴスラビア戦では決勝ゴールとなる代表初ゴールを記録。
2000年9月にはシドニーオリンピックに出場するU-23日本代表のメンバーに選出。第2戦のスロバキア戦では攻守両面で躍動する高いパフォーマンスを披露し、後半31分にはチームの2点目を決めている。オリンピックでは全4試合にスタメンで出場し、準々決勝のアメリカ戦では120分を戦い抜き、PK戦では2人目のキッカーとして成功させている。
オリンピックから1か月後には、フル代表のメンバーとしてレバノンで開催されたAFCアジアカップ2000に出場。この大会では名波浩とボランチを組んだこともあって攻撃参加は若干抑え気味ではあったが、レギュラーの多くを温存した第3戦以外の全試合にスタメンで出場。圧倒的な強さで2度目のアジア王者となった日本の中心選手として活躍。2001年になってからは戸田和幸とボランチを組むことが増え、再び攻撃的な役割を担うようになっていた。アーセナル移籍後、クラブで出場機会を失っていたが、トルシエの信頼は揺るがず、不動のボランチという立ち位置になっていた。FIFAコンフェデレーションズカップ2001では、日本の準優勝に貢献。
2002年6月には自国開催となった2002 FIFAワールドカップに出場。グループリーグ初戦のベルギー戦では1-1で迎えた後半22分にドリブル突破から日本の勝ち越しゴールを決めている。その後同点に追いつかれた後に再び強引なドリブル突破からゴールネットを揺らすが、これはファウルによって幻のゴールとなっている。とはいえ、日本にとって初の勝ち点獲得に貢献。6月9日の第2戦のロシア戦では、後半6分に柳沢敦のダイレクトパスに反応、2試合連続となる先制ゴールを決め、このゴールが日本の歴史的なワールドカップ初ゴールをもたらす決勝ゴールとなる。第3戦のチュニジア戦とラウンド16のトルコ戦はいずれも戦術的理由により前半45分で交代となる。とはいえ、日本が初めて決勝トーナメントまで進出し、日本中が熱狂した大会での大活躍によって大きく取り沙汰され、一躍時の人となった。
日韓ワールドカップ後に就任したジーコ監督からは当初、中田英寿、小野伸二、中村俊輔と共に形成する「黄金のカルテット」の一角として起用される。2003年も引き続きレギュラーとして起用されていたが、徐々に黄金のカルテットはバランスの悪さを露呈するようになる。2004年5月の英国遠征でのイングランドとの親善試合で相手選手との接触によって左足腓骨骨折の重傷を負う。この負傷によって長期の離脱を強いられ、その間に日本代表はアジアカップを連覇。さらにボランチに福西崇史が台頭し、ボランチの主軸となる。怪我から復帰後に代表に復帰するが、2006年ワールドカップアジア最終予選では中田英寿がボランチにコンバートされたこともあって序列が低下。ベンチから試合を眺めることが多くなっていた。
2006 FIFAワールドカップ ドイツ大会のメンバーにも選出されるが、福西と中田英寿の控えという立場となり、第2戦のクロアチア戦で途中出場。1分1敗で迎えた第3戦のブラジル戦では福西に代わってスタメンで出場。玉田圭司のゴールの起点となるサイドチェンジを見せたが、完敗。1勝もできずにグループリーグ敗退に終わる。
代表監督がイビチャ・オシムに代わってからはしばらく代表から遠ざかるが、2007年6月に1年ぶりに代表に復帰。しかし2008年に岡田武史が監督に就任してからは再び代表から遠ざかるようになる。
2009年9月のオランダ遠征のメンバーに選出されると、9月9日のガーナ戦では岡崎慎司のゴールをアシストし、代表では実に6年半ぶりとなるゴールを決める活躍を見せたことで存在をアピール。2010年にJリーグに復帰したこともあって、再び代表に名を連ねる機会が増える。
2010 FIFAワールドカップ 南アフリカ大会は当落線上と予想されていたが、30歳にして3度目の出場を果たす。長谷部誠、遠藤保仁がチームの骨格となっていたこともあってボランチの控えという立場だったが、初戦のカメルーン戦と第3戦のデンマーク戦で守備固めのクローザー役として途中出場。この大会を最後に代表に呼ばれることはなくなった。
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
1997 | ガンバ大阪 | Jリーグ | 27 | 3 | |
1998 | ガンバ大阪 | Jリーグ | 28 | 6 | |
1999 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 22 | 1 | |
2000 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 28 | 4 | |
2001 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 13 | 2 | |
2001-02 | アーセナル(loan) | プレミアリーグ | 0 | 0 | |
2002-03 | フラム(loan) | プレミアリーグ | 19 | 2 | |
2003-04 | フラム(loan) | プレミアリーグ | 22 | 2 | |
2004-05 | WBA(loan) | プレミアリーグ | 3 | 0 | |
カーディフ(loan) | FLC | 14 | 0 | ||
2005-06 | WBA | プレミアリーグ | 22 | 0 | |
2006-07 | WBA | FLC | 3 | 0 | |
ガラタサライ | スュペル・リグ | 25 | 0 | ||
2007-08 | フランクフルト | ブンデスリーガ | 24 | 0 | |
2008-09 | フランクフルト | ブンデスリーガ | 19 | 0 | |
2009-10 | レンヌ | リーグ・アン | 5 | 0 | |
2010 | 川崎フロンターレ | J1リーグ | 28 | 0 | |
2011 | 川崎フロンターレ | J1リーグ | 12 | 2 | |
2012 | 川崎フロンターレ | J1リーグ | 20 | 0 | |
2013 | 川崎フロンターレ | J1リーグ | 15 | 0 | |
2014 | 川崎フロンターレ | J1リーグ | 14 | 1 | |
2015 | コンサドーレ札幌 | J2リーグ | 31 | 0 | |
2016 | 北海道コンサドーレ札幌 | J2リーグ | 8 | 1 | |
2017 | 北海道コンサドーレ札幌 | J1リーグ | 6 | 0 | |
2018 | 北海道コンサドーレ札幌 | J1リーグ | 2 | 0 | |
2019 | SC相模原 | J3リーグ | 9 | 1 | |
2020 | SC相模原 | J3リーグ | 2 | 0 | |
2021 | SC相模原 | J2リーグ | 9 | 0 | |
2022 | 南葛SC | 関東1部リーグ | 2 | 0 | |
2023 | 南葛SC | 関東1部リーグ | 6 | 1 | |
2024 | 南葛SC | 関東1部リーグ | 0 | 0 |
当時の日本サッカー界では珍しい大型のボランチであり、体格を生かしたボール奪取能力、精度の高いミドルレンジのパスを活かした展開力、そして大胆な攻めあがりからの得点力が持ち味。
若い頃はいわゆるボックス・トゥ・ボックス型の選手で、中盤でボールを奪ってからそのままドリブルで強引に運んでシュートまで持ち込む攻撃的なボランチだった。高さもあり、中盤でのハイボールの競り合いにも強く、国際舞台でもフィジカルバトルでの強さが際立っており、大型の選手にプレッシャーをかけられてもボールをキープできていた。2004年に左足を骨折して以降は迫力のある攻めあがりは頻度が減り、年齢と共にバランスを重視した守備型の6番タイプのボランチとシフトしている。
三世代の日本代表で稲本を指導してきたフィリップ・トルシエはフランス代表のパトリック・ヴィエラに例えており、「スーパー・ボランチ」と称して規格外のプレーに期待を寄せていた。
一方で怪我の多さによって海外のキャリアが思ったようにいかないことが多く、コンディションの不安定さやスタミナ面が欠点となっていた。またスピード面も弱点で、単に足が遅いというだけでなくプレー判断の遅さや俊敏さが足りないことが欧州のトップリーグでなかなか試合に出れない原因となっていた。
掲示板
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/23(月) 20:00
最終更新:2024/12/23(月) 20:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。