清武弘嗣(Hiroshi Kiyotake, 1989年11月12日 - )とは、日本のサッカー選手である。
J2リーグ・大分トリニータ所属。元サッカー日本代表。
ポジションはMF。172cm66kg。利き足は右足。
おこしやす京都ACに所属している清武功暉は実弟。
U-15世代から大分トリニータの下部組織に所属。大分ユースの最高傑作と言われ期待を集める。2008年にトップチームに昇格し、2009年にはレギュラーに定着するも、2010年にクラブがJ2に降格。クラブの深刻な財政難により高橋大輔、上本大海らと共にセレッソ大阪へ移籍。
セレッソではシーズン前半こそ出番はなかったものの、後半戦からはドルトムントへ移籍した香川真司の穴を見事埋め、クラブの躍進に貢献した。
2012年にドイツ・ブンデスリーガのニュルンベルクへ移籍。移籍1年目から4ゴール10アシストを記録する大活躍を見せ、2012-2013シーズンのアシストランキング4位に輝いた。特に味方に点で合わせるプレスキックで多くのアシストを稼ぎ、このシーズンのニュルンベルクの攻撃の中心として欠かせない存在として高い評価を受ける。
さらなる飛躍が期待された2013-14シーズンだったが、クラブ共に低調なパフォーマンスに終始。3ゴール7アシストという数字は残したものの、クラブは2.ブンデスリーガへ降格することとなった。
2014年にドイツ・ブンデスリーガのハノーファー96へ移籍。。2014年10月25日、リーグ戦第9節のボルシア・ドルトムント戦で移籍後初得点となる直接FKをきめ、ブンデスリーガ公式のMOMに選出される。2015年3月7日には強豪バイエルン・ミュンヘンを相手に先制点を決める。ハノーファーでも残留争いのクラブで攻撃の絶対的な中心となり、得意のプレスキックでアシストを稼ぐ。5月23日、チームの1部残留をかけた最終節SCフライブルク戦では先制点を決め、チームの1部残留を勝ち取る。
2015-16シーズンは背番号10を背負い、五輪代表でチームメイトだった酒井宏樹も加わるが、代表で負った怪我によって欠場が多く、5試合6アシストという結果を残したものの、「自動ドア」と揶揄されるほど守備が崩壊していたチームは最下位で2部に降格。
2016年6月にスペイン・リーガ・エスパニョーラのセビージャFCへ移籍することが決定。契約期間は4年。
開幕戦では1ゴール1アシストと活躍するもその後は思うような活躍ができず2017年に出場機会を求めて古巣のセレッソ大阪へ5年ぶりに復帰することとなった。
2017年は怪我で18試合の出場に留まったものの、出場した試合では高い技術を発揮。リーグ戦では4ゴール6アシストを記録。また、この年Jリーグカップの決勝と天皇杯決勝でスタメンとして出場し、クラブの初タイトル及びカップ戦二冠に貢献。
2018年からはキャプテンに任命されるが、毎年のように慢性的な怪我に悩まされ、3年連続でシーズンを通した活躍ができていない。
2020年は ボールの位置によって選手全員がスライドするポジショナルプレーを志向したロティーナ監督の下では、個人突破が必要とされない戦術の中、勝負所で個人技を引き出す事に成功。9月、11月の月間ベストゴールに選出されるなど鮮烈なゴールを決め、攻撃の組み立てや、スルーパスで相手のファウルを誘うなど司令塔としても活躍。キャリアハイの8ゴールを記録し、8ゴール8アシストの成績で久々に怪我をすることなく1年間活躍する。
2022年は小菊昭雄監督のもとでトップ下の位置でパサーとしての役割を与えられる。しかしハイプレッシング戦術を採用するチーム戦術の提要に苦しむ。さらにはこの年から再び怪我に悩まされるようになり、納得のできるプレーを見せられなくなっていた。その中でシーズン最終のフレンドリーマッチ・ツエーゲン金沢戦ではハーフウェイラインから相手ゴールキーパーを飛び越えるロングシュートで得点を決めている。
2023年は左ハムストリングの負傷によってわずか2試合の出場にとどまるなど、シーズンを棒に振っている。2024年シーズンに公式戦復帰を果たしたが、自身のコンディション不良やチームスタイルの変化もあって出場機会が激減するようになっていた。
2024年7月7日、J1リーグのサガン鳥栖への期限付き移籍が発表される。背番号は55。9月13日の第30節川崎フロンターレ戦で1ゴール1アシストの活躍を見せ、久々に輝きを放ったが、終盤は怪我によって欠場が続く。チームは最下位に終わり、J2降格となった。
12月19日に鳥栖及び在籍元のC大阪から契約満了により退団することが発表される。
2024年12月21日、古巣であるJ2リーグの大分トリニータに16シーズンぶりに完全移籍で復帰することが発表される。
年代別代表を経て、2011年にU-22サッカー日本代表に初選出。ロンドンオリンピック予選でもトップ下としてチームの主軸を担い、2次予選のクウェート戦ではダイビングヘッドにより先制点を挙げるなどの活躍を見せた。
2011年にフル代表に招集され、8月10日の韓国戦でAマッチデビューを果たすと、この試合で2アシストの活躍を見せる。その後はフル代表にも定着し、五輪代表と兼任するようになる。
2012年8月、ロンドンオリンピックに出場するU-23代表にも選出。関塚隆監督からはエースとして期待され、第2戦のモロッコ戦では永井謙佑の決勝ゴールをアシスト。その後もチームの司令塔として攻撃のタクトを振い、3位決定戦までの全試合に出場。しかし目標としていたメダルには届かなかった。
オリンピック後はフル代表に専念するようになるが、当時の代表の二列目には本田圭佑や香川真司、岡崎慎司らが名を連ね、アルベルト・ザッケローニ監督がメンバーを固定していたことから出場機会は限られていた。2012年11月14日、2014 FIFAワールドカップ・アジア4次予選・オマーン戦で代表初得点を決める。
2014 FIFAワールドカップ・ブラジル大会の本大会メンバーに選出されるが、二列目の控えという序列に変わりはなく、第3戦のコロンビア戦のみの出場でそれも終了間際のわずか8分間のみとなった。
AFCアジアカップ2015でワールドカップ以来となる日本代表復帰を果たす。3試合に出場したが、やはりスタメンでは起用されることなく、目立った活躍はできなかった。
ヴァヒド・ハリルホジッチが日本代表監督になってからは主力として起用される機会が増えたものの、2017年にセビージャFC移籍が失敗したあたりから序列が低下。さらに度重なる怪我によって代表から遠ざかり、2018 FIFAワールドカップのメンバーからも外れている。
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
2008 | 大分トリニータ | J1リーグ | 8 | 1 | |
2009 | 大分トリニータ | J1リーグ | 23 | 3 | |
2010 | セレッソ大阪 | J1リーグ | 25 | 4 | |
2011 | セレッソ大阪 | J1リーグ | 25 | 7 | |
2012 | セレッソ大阪 | J1リーグ | 16 | 2 | |
2012-13 | ニュルンベルク | ブンデスリーガ | 31 | 4 | |
2013-14 | ニュルンベルク | ブンデスリーガ | 33 | 3 | |
2014-15 | ハノーファー | ブンデスリーガ | 32 | 5 | |
2015-16 | ハノーファー | ブンデスリーガ | 21 | 5 | |
2016-17 | セビージャ | ラ・リーガ | 4 | 0 | |
2017 | セレッソ大阪 | J1リーグ | 18 | 6 | |
2018 | セレッソ大阪 | J1リーグ | 20 | 4 | |
2019 | セレッソ大阪 | J1リーグ | 20 | 4 | |
2020 | セレッソ大阪 | J1リーグ | 33 | 8 | |
2021 | セレッソ大阪 | J1リーグ | 32 | 2 | |
2022 | セレッソ大阪 | J1リーグ | 24 | 2 | |
2023 | セレッソ大阪 | J1リーグ | 2 | 0 | |
2024 | セレッソ大阪 | J1リーグ | 6 | 0 | |
サガン鳥栖(loan) | J1リーグ | 10 | 1 | ||
2025 | 大分トリニータ | J2リーグ |
主戦場のポジションはトップ下と右サイドハーフ。高いテクニックを駆使した司令塔タイプのパサー。キックの精度の高さは日本人でもトップクラスであり、ショートレンジのみならずミドルレンジのパスも正確無比である。
テクニックの高さは知られるところであり、繊細なボールタッチを駆使したドリブルによって密集地帯を抜け出すプレーを得意としている。
また、左右両足のキックの精度が高く、ブンデスリーガ時代はフリーキックやコーナーキックからピンポイントで味方に合わせ、アシストを量産している。
同年代の香川真司とはたびたび比較されてきたが、若い頃の香川はどちらかというとアタッカータイプであり、清武はパサーだった。
詳しくはこちらの記事を参照。
香川と清武の違い、本当に知ってる? トップ下論争の前提を整理してみた。
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最終更新:2024/12/23(月) 19:00
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