長谷部誠(1984年1月18日 - )とは、日本の元サッカー選手である。ルシオではない。
元サッカー日本代表。
現在はアイントラハト・フランクフルトⅡのコーチ、サッカー日本代表コーチを務めている。
メインポジションは守備的MF。時々DF、GK。若い頃は攻撃的MFだったが年々ポジションを下げ、35歳を過ぎてからはリベロ(3バックの中央)が主戦場となっていた。
元プロサッカー選手 | |
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長谷部誠 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 静岡県 |
生年月日 | 1984年1月18日 |
身長 体重 |
180cm 72kg |
選手情報 | |
利き足 | 右足 |
ポジション | ミッドフィルダー ディフェンダー |
プロ入り | 2001年 |
学歴 | |
所属クラブ | |
サッカー選手テンプレート |
日本代表としてFIFAワールドカップに2010年、2014年、2018年の3度出場しており、いずれもキャプテンを務めている。歴代の日本代表監督から絶大な信頼を寄せられ、長年不動のボランチとして君臨。2011年にはAFCアジアカップ優勝に貢献。国際Aマッチ114試合に出場しており、キャプテンとして出場した代表での試合数81試合は歴代1位。2018 FIFAワールドカップ後に代表引退を表明している。
若い頃は攻撃的なポジションの選手であり、ドリブルで仕掛けてパスを散らす司令塔タイプだった。けっしてサッカーエリートだったわけではないが、浦和レッズではプロ2年目から頭角を現し、主力に定着。中心選手として2006年のJ1リーグ優勝や2007年のAFCチャンピオンズリーグ優勝など、クラブの黄金期を築いている。
2008年から16年間ドイツ・ブンデスリーガでプレーしており、アジア人の最多出場記録を保持している。ヴォルフスブルク時代の2008-2009シーズンにブンデスリーガ優勝を経験。2014年から所属しているアイントラハト・フランクフルトでは3バックの中央であるリベロにコンバートされたことで新境地を開き、35歳を過ぎてもキャリアハイのシーズンを過ごしている。2019年にはドイツのサッカー専門誌『kicker』選出のシーズンベスト11と、UEFAが選ぶヨーロッパリーグ(EL)の優秀選手に選出。いつしか「フランクフルトの皇帝」と呼ばれるようになり、クラブのレジェンドとして扱われている。2021-22シーズンにはEL優勝を果たし、クラブにビッグタイトルをもたらしている。
40歳までブンデスリーガの舞台で試合に出場し続け、2023-24シーズン終了後に現役を引退。ブンデスリーガではアジア人最多となる384試合に出場している。
妻はタレントでモデルの佐藤ありさ。圧倒的なリーダーシップと共に真面目な性格として知られ、日本代表のチームメイトからはそのことを弄られている。2011年3月に出版した著書『心を整える。 勝利をたぐり寄せるための56の習慣』が136万部突破のベストセラーとなっている。
静岡県藤枝市出身。姉と妹に挟まれた3人兄弟の真ん中として生まれる。父親は厳格な性格で、母親は真面目で几帳面。幼い頃からおじいちゃん子であり、「誠」という名前も祖父が付けたものである。
3歳の頃、大好きな祖父からサッカーボールを贈られ、練習に明け暮れる毎日を過ごすようになる。キャプテン翼の大空翼に憧れたこともあって小学生の頃から本格的にサッカーを始め、6歳のときに青島東サッカースポーツ少年団に入団。幼い頃から真面目な性格で、周囲から「またあいつ一人で練習してるよ」と言われてもひたすらサッカーに打ち込んでいた。
中学校に進学すると、藤枝市立青島中学校のサッカー部に入部。3年生のときにはサッカー部のキャプテンを任され、チームを県大会3位に導いている。
1999年に地元の名門校である藤枝東高校に一般入試により進学。2年生の終わり頃からレギュラーとなり、2001年の全国高校総体では準優勝。U-18日本代表候補にも選ばれるなどそれなりの実績はあったが、全国高校サッカー選手権の出場を果たせなかったことに加え、関係者から能力は高いもののフィジカルが弱すぎると評価されていたこともあり希望していた地元の清水エスパルスとジュビロ磐田からのオファーは届かなかった。しかし、静岡県選抜に選ばれたときのプレーが認められたことで浦和レッズからオファーを受け、卒業後のプロ入りを決断する。
2002年に浦和レッズでプロとしてのキャリアをスタート。1年目は出場機会はほとんど与えられず、ナビスコカップ1試合に出場したのみとなった。
2003年から背番号が17に変更になり、開幕戦の鹿島アントラーズ戦でスタメンに抜擢され、J1リーグデビューを果たす。その後、トップ下とボランチで出場機会が増えるようになり、9月6日の2ndステージ第4節ガンバ大阪戦でプロ初ゴールを記録している。11月3日のJリーグヤマザキナビスコカップ決勝 鹿島アントラーズ戦では途中出場ながらもプロ入り初タイトルとなるナビスコカップ優勝をピッチ上で経験。リーグ戦では29試合2得点と年間を通して出場機会を得たシーズンとなった。
3年目となった2004年は、ギド・ブッフバルト監督から信頼を受けたことで完全にチームの中心選手に成長する。1stステージは不振に陥った山瀬功治に代わってトップ下での起用が中心となり、山瀬がスタメンに返り咲いた2ndステージは鈴木啓太とのダブルボランチとして出場。8月14日の2ndステージ第1節ヴィッセル神戸戦ではプロになって初ゴールの1試合2ゴールを記録。8月29日の第3節ジュビロ磐田戦では試合終了間際にセンターサークル付近からドリブルで一人で切れ込んでゴールを決める劇的な決勝ゴールを決めている。ナビスコカップでは惜しくも準優勝に終わったものの、この年のニューヒーロー賞を受賞。リーグ戦では豊富な運動量と大胆な攻めあがりでチャンスを作り出し、浦和の2ndステージに貢献。サントリーチャンピオンシップ第2戦の横浜F・マリノス戦では120分間フル出場したものの、PK戦で失敗してしまい、惜しくも年間優勝を逃す。それでも、この年のJリーグベストイレブンにも選出されており、大きく飛躍した1年となった。この年の公式戦9ゴールはキャリアハイの記録となっている。
2005年も鈴木とのダブルボランチがすっかり板に付き、中心選手として活躍。エメルソン、山瀬という中心選手を失ったチームは前半戦こそ苦戦するが、徐々に調子を上げ優勝争いに加わるようになる。8月6日のナビスコカップ準々決勝第1戦清水エスパルス戦では、ターンしながらの豪快なミドルシュートを決め勝利に貢献。この頃、地元静岡の2チームとの対戦でやたら活躍する選手と言われていた。リーグではまたも2位に甘んじたものの、第85回天皇杯ではトミスラヴ・マリッチの活躍もあって勝ち上がり、準決勝の大宮アルディージャ戦では2ゴールを決めるなど、チームの25年ぶりの優勝に貢献する。
2006年はクラブのレジェンドである小野伸二が復帰したことで中盤のポジション争いが激化することが予想されたが、もはやチームに不可欠な選手となった長谷部は、3月11日のJ1第2節磐田戦でピンポイントのクロスによって田中マルクス闘莉王のダイビングヘッドをアシスト。3月25日の第5節横浜FM戦では、左45度の位置からゴールを決めている。クラブ史上最強とも言われる鈴木、ロブソン・ポンテと共に構成した中盤は抜群の安定感とクオリティを保ち、チームの潤滑油として攻守に貢献。最終節で優勝を争っていたガンバ大阪との直接対決に勝利し、悲願のJ1リーグ年間王者に輝く。元旦には第86回天皇杯決勝でガンバ大阪に勝利し、天皇杯連覇、国内二冠達成と浦和の黄金時代を牽引する存在となる。
2007年は、J1リーグとAFCチャンピオンズリーグ(ACL)の2つの大会を戦うことになり、これまで以上に過密日程の中でプレーすることに。シーズン開幕前にはオーストリアでドイツの強豪バイエルン・ミュンヘンと試合をしている。初めてアジアで戦うこととなったACLでは、10月24日の準決勝第2戦の城南一和戦で1点ビハインドを背負った後半28分にFKの流れから値千金の同点ゴールを決め、日本勢としては初の決勝進出に貢献。決勝のセパハン戦では守勢に回る時間が多い苦しい戦いを2試合ともフル出場し、ACL優勝を果たす。リーグ戦では最終節で首位を陥落し惜しくも優勝を逃したが、12月にはFIFAクラブワールドカップ2007に出場。カカを擁するACミランとの準決勝で敗れたが、3位入賞を果たす。浦和の中心選手として全てのタイトルを獲得するなどクラブの黄金時代構築に貢献しており、24歳となるタイミングでいよいよ次のステップへと向かうことを決断する。
2008年1月1日、ドイツ・ブンデスリーガのvflヴォルフスブルクへ移籍することが発表される。エディン・ジェコら一流プレイヤーが揃うチームで早々と出場機会を得ると、4月27日のレバークーゼン戦で初ゴールを記録。16試合1得点と移籍1年目でまずまずの成績を残す。
移籍2年目となった2008-09シーズンは忘れられないシーズンとなる。この年は本職のボランチだけでなく右SHや右SBでもプレーするようになり、マルチロールとして重宝される。チームはジェコとグラフィッチの強力2トップの活躍もあって優勝争いに加わっていく。2009年3月に代表戦で負傷し、大事なリーグ終盤戦に離脱してしまうが、復帰後はレギュラーに返り咲くとチームのブンデスリーガ初優勝に貢献。シーズン途中に加入してきた大久保嘉人と共に奥寺康彦以来31年ぶりにブンデスリーガ優勝を経験した日本人となった。長谷部を欧州の舞台に連れてきたフェリックス・マガト監督はシーズン終了後に同リーグのシャルケ04へ引き抜かれる。
2009-10シーズンは、UEFAチャンピオンズリーグの開幕戦であるCSKAモスクワ戦に途中出場し、日本人選手として5人目のUEFAチャンピオンズリーグ出場を果たす。また、リーグ戦では9月18日の第6節シャルケ04戦でエディン・ジェコの決勝点をアシスト、9月26日の第7節ハノーファー96戦で今季初得点を決めるなどの活躍を見せる。CLでは、9月30日のアウェーでのマンチェスター・ユナイテッド戦において後半11分に絶妙なクロスでジェコの先制点をアシストする。チームは初のCLでグループリーグ敗退となり、リーグでも中位に低迷したが、個人としては24試合1得点6アシストを記録している。
2010-11シーズンのヴォルフスブルクはよもやの大不振に陥り、あわや2部に降格というほど低迷する。危機感を募らせたクラブは2011年3月にシャルケを解任されたばかりのマガトを監督に復帰させる。かつての恩師との再会に当初は期待がされたが、ここから長谷部を取りまく状況が一変するようになる。
2011-12シーズンはリーグ戦23試合に出場したが、その殆どが後述のように本職外のポジションである右SBでの出場がほとんどだった。9月6日の第6節ホッフェンハイム戦では1点ビハインドでの後半35分にGKのマルヴィン・ヒッツがレッドカードで退場。チームは既に交代枠を使い切っていたため、長谷部が急遽GKを務めることになる。馴れないポジションでありながら、正確なロングフィードを出したり、クロスボールにも飛び出してキャッチするなど奮闘するも、後半40分に失点し、チームは1-3で敗戦。このように便利屋のように扱われ、ベンチ外を経験する事も多かった。前年の15位から8位へと向上したクラブとは対照的に長谷部個人としては不本意なシーズンとなった。
そしてシーズン終了後、長谷部は他クラブとの移籍交渉が許可され、事実上の戦力外通告を受けてしまう。古巣浦和への復帰も囁かれたが、本人は欧州トップリーグの舞台でのプレーを希望。だが、2年の残り契約により発生する移籍金や高額の年俸やクラブの財政状況(ヴォルフスブルクのスポンサーはドイツ最大手の自動車メーカー・フォルクスワーゲンであり、お金には全く困っていない。つまり移籍金はびた一文まける必要がない)がネックとなり、移籍市場閉幕を迎えても長谷部獲得に手を挙げるクラブは現れなかった。
新天地への移籍が叶う事なく迎えた2012-13シーズン、堅物の「鬼軍曹」としても知られるマガト監督は当然のように長谷部を構想外に。合流した日本代表の試合でもミスを連発し試合勘不足を露呈するなど、クラブどころか代表での立場すら失いかねない状況に陥ってしまう。しかし、10月末になって思わぬ転機が訪れる。開幕から低調な戦いぶりで8試合消化時点で勝ち点5でリーグ最下位に低迷する原因となったマガト監督が解任されたのだ。するとチームの再出発となった第9節デュッセルドルフ戦、前日に遠征メンバー入りしていた長谷部は4-2-3-1の右サイドハーフでいきなりのスタメン出場。元々タレント揃いだったチームはこれまでの鬱憤を晴らすかのような圧巻のパフォーマンスを披露し、2部からの昇格チームを圧倒。ヴォルフスブルクの面々は得点の度に喜びを爆発させ、2-0で迎えた後半19分には長谷部もアシストを記録するなど結果は4-1の快勝。長谷部誠の新シーズンは2か月遅れの開幕を迎えた。
2013年8月31日、5シーズン半を過ごしたヴォルフスブルクに別れを告げ、清武弘嗣の所属する1.FCニュルンベルクへ移籍。加入1年目でありながらもチームの主力として試合に出場したが思うように結果が残せず、チームも低迷。2014年1月には膝の負傷で戦線離脱を余儀なくされ、クラブもツヴァイテリーガ(2部)への降格が決定した。
2014年6月2日にアイントラハト・フランクフルトへ移籍することが発表される。背番号は「20」。2014-15シーズンは本人が希望するボランチで固定される。攻撃的なスタイルに転換したチームのバランスを中盤の底で整える重要な役割を担い。開幕前は降格候補にも挙げられたチームを予想外の9位に躍進させた立役者となる。自身もリーグ戦ではドイツに移籍後最多出場となる33試合に出場するなど充実したシーズンとなった。
しかし、2015-2016シーズン開幕前にトーマス・シャーフ監督が解任され、アルミン・フェー監督が就任すると状況が一変。ここでもまた右SBでプレーさせられることが増え、チームは大きく低迷し降格の危機に直面するとともに自身も調子を落としてしまう。それでも、2016年3月にフェー監督が解任され、ニコ・コバチ監督が就任すると再びボランチで起用されるようになり、4月30日のダルムシュタット戦で1091日ぶりのゴールを決める。入れ替え戦でも2試合にフル出場し、古巣のニュルンベルクを退けて残留に貢献。
2016-2017シーズンは大きな転機を迎えることとなる。2016年10月28日のブンデスリーガ第9節ボルシア・メンヘングラッドバッハ戦で3バックの中央で起用されるとこれが思いの外嵌り、コバチ監督の提案により、3バックの中央(リベロ)にコンバートされる。すると、チーム戦術の要となる重要な役割を担い、以降チームに欠かせないプレイヤーとなる。3月5日のフライブルク戦ではブンデスリーガ出場試合数を235試合とし、奥寺康彦の持つ日本人最多出場記録を更新。しかし、シーズン終盤に右膝の手術をおこなったことで5カ月もの長期離脱を余儀なくされる。長谷部の離脱と同時に一時はCL出場圏にまで浮上していたチームは失速している。
2017-2018シーズンの開幕前に復帰を果たすと、開幕後は前年から引き続きリベロとしてプレーする。4月21日のヘルタ・ベルリン戦において相手選手の顔面への肘打ちで一発退場となり、4試合の出場停止処分を受ける。5月19日のDFBポカール決勝のバイエルン・ミュンヘン戦にフル出場。下馬評を覆す王者バイエルン相手の勝利に貢献し、ドイツに渡ってからはヴォルフスブルク時代にリーグ優勝して以来の2つめとなるタイトル獲得を果たす。
2018-2019シーズンは、リーグ戦とUEFAヨーロッパカップ(EL)の2つのコンペティションを戦うことになるが、チームリーダーとして獅子奮迅の大活躍を見せる。ベテランらしい歴戦の経験による正確なコーチングでチーム全体を操作し、まさにピッチ上の指揮官として振る舞っていた。自身も毎試合のようにハイパフォーマンスを見せ、リーグ前半戦のベストCBに選出される。最後は失速したもののチームは一時は上位入りを狙える位置をキープし、ELでも準決勝まで勝ち抜く躍進を遂げる。最後尾からチームの頭脳として全体を統率する姿を見たファンからは「フランクフルトの皇帝」とまで称されるようになり、ドイツの有力サッカー専門誌『kicker』からはシーズンのベストイレブンに選出され、UEFA公式によるELの優秀選手賞にも選出。2018年のアジア国際最優秀選手賞も受賞しており、35歳にしてキャリアハイのシーズンを過ごすこととなった。
2019-2020シーズンは、ルカ・ヨビッチやアンテ・レビッチといった主力が抜けた影響もありチームは低迷。2020年年明けあたりからチームが4バックに変更した影響もあり、ベンチで過ごすことが増える。だが、新型コロナウィルスによる中断明けから再び3バックを採用したことでリベロの定位置へ返り咲く。6月6日のマインツ戦でブンデスリーガにおけるアジア人最多となる309試合出場を達成。長谷部が復帰後は、一時は残留争いに巻き込まれていたチームも失っていたバランスを取り戻し、最終的には9位でシーズンを終える。シーズン後には日本に一時帰国し膝の手術を受け、8月6日のELラウンド16・2nd legのバーゼル戦に後半の45分間出場している。
36歳となった2020-2021シーズンは、ブンデスリーガの最年長選手として開幕を迎えることとなる。開幕から7試合連続でフル出場していたが、第8節のライプツィヒ戦を皮切りに5試合連続でスタメンを外れる。このことについて、アディ・ヒュッター監督から夏には現役引退する見込みであるため、先を見据えて長谷部抜きのチームで戦っていると説明。12月15日の第12節ボルシア・メンヘングラッドバッハ戦から本職のボランチとしてレギュラーに復帰すると出色のパフォーマンスを披露し、あらためてフランクフルトに不可欠な選手であることを認めさせる。2021年2月からは退団したダビド・アブラアムに代わってキャプテンを任される。長谷部が中盤に定着してからチームは11試合無敗と快進撃を見せ、王者バイエルンを相手に金星を奪取もしている。3月8日には、フランクフルトとの契約を2022年まで延長したことが発表される。シーズン終盤には再びリベロとして出場することも増え、あらためて存在の大きさを証明したシーズンとなったが、チームは惜しくもCL出場権を逃し、5位でシーズンを終えた。
2021-2022シーズンは出場機会が減ってしまうが、チームがなかなか勝てなかったこともあり待望論が出るようになる。9月27日のELアントワープ戦で一か月ぶりにスタメンで出場するとチームのシーズン初勝利に貢献する。年齢もあって常時スタメンは難しくなるが、それでもチームの成績が下降線になるとスタメンに復帰し前半戦終盤の快進撃に不可欠な存在となった。2022年2月18日に2027年までの新契約を結び、選手としての契約は2023年夏まででその後はコーチングスタッフに就任することが発表された(ただし2023年で引退するかは決まっていない)。後半戦は控えとなり出場機会が減るが、5月18日のEL決勝レンジャーズFC戦で後半13分に途中出場するとデュエル勝率100%という脅威のスタッツで守備を安定させ、フランクフルトに42年ぶりの優勝をもたらす。38歳にしてまた一つ新たな栄光の歴史が刻まれることとなった。
2022-2023シーズンも開幕から控えが続くが、2022年9月7日のCLグループステージ スポルティングCP戦で鎌田大地との交代で後半39分から出場し、13年ぶりにCLのピッチに立つ。シーズン初スタメンとなった9月13日のCL第2節オリンピック・マルセイユ戦ではチームの完封勝利に大きく貢献したことで再び3バックの中央の定位置を掴むようになる。10月4日のCL第3節トッテナム・ホットスパー戦ではデュエル勝率100%を記録し、ハリー・ケインを見事完封したことで各方面から称賛される。10月15日のCL第4節トッテナム戦で右膝靭帯損傷を負い戦線離脱を余儀なくされる。11月16日には古巣である浦和レッズとの親善試合に出場。負傷の影響で15分ほどの出場となったが、さいたまスタジアムへの凱旋を果たす。2023年1月23日のバイエルン・ミュンヘン戦で公式戦三か月ぶりの出場を果たし、格上相手の勝ち点1獲得に貢献。後半戦もスタメンを外れる時期が続いたが、チームの成績が思わしくないとスタメンに返り咲くいつも通りのパターンとなる。流石にフィジカルバトルで劣勢に立たされる場面が見られるようになったが、チーム内での信頼は相変わらず高かった。
2023-24シーズンもブンデスリーガの現役最年長選手として現役を続行。2023年12月9日の第14節バイエルン戦で途中出場し、クラブにおけるブンデスリーガ通算出場数を『230』とし、外国籍選手としてクラブ歴代最多出場記録を打ち立てる。40歳となった2024年2月25日の第22節フライブルク戦にフル出場し、フランクフルトでの通算300試合出場を達成。4月17日に会見を開き、今シーズン限りでの現役引退を表明。5月18日のリーグ最終節RBライプツィヒ戦の終盤に途中出場したのが現役最後の試合となった。
2006年1月の代表合宿において日本代表メンバーに初選出され、2月11日のアメリカとの親善試合で途中出場によりA代表デビューを果たす。存在感を見せるプレーは披露したものの、ジーコ監督からの評価を得ることができず、2006年ワールドカップ本大会のメンバーに選出されなかった。その後、代表監督がイビチャ・オシムに代わってから当初はメンバーに選ばれたものの、2007年に入ってからは選ばれないことが増え、この年のAマッチ出場は無かった。
だが、2008年代表監督が岡田武史に代わると、ドイツ移籍後の活躍が認められ、岡田体制初の海外組を招集しての親善試合のメンバーに選ばれる。5月5日のコートジボワール戦に出場すると、右サイドからのクロスで玉田圭司の決勝ゴールをアシスト。南アフリカW杯アジア3次予選以降は、遠藤保仁とのダブルボランチが日本代表における不動のコンビとして定着するようになる。2008年から2009年にかけてのアジア最終予選でも、主力として6試合にスタメンとして出場し、4大会連続での本大会出場に貢献。2009年11月18日のアジアカップ2011予選香港戦で代表初ゴールを記録する。
2010年5月10日2010 FIFAワールドカップの出場メンバーに選出。日本代表は本大会前の親善試合において内容と結果が振るわず、国内の解説者やメディアから惨敗が予想されるなど、厳しい批判を浴びていた。現状打破の一環として、直前のスイス合宿において岡田監督から中澤佑二に代わってキャプテンに指名される。本大会に入ると、チーム戦術が変わり遠藤、阿部勇樹と共に守備重視の3ボランチを形成。下馬評を覆す戦いぶりを見せるチームを縁の下の力持ちとして牽引し、2大会ぶりとなるグループリーグ突破に貢献。ベスト16までの全4試合に出場し、チームを引っ張った。また、この大会での長谷部は、突然キャプテンに抜擢されながらベテラン、若手それぞれに気を配り、メディア対応も完璧にこなすなど、裏での仕事ぶりも評価されている。大会後はキャプテンということもあり、テレビに引っ張りだこになる。
南アフリカワールドカップ後に就任したアルベルト・ザッケローニ監督からも引き続きキャプテンに指名され、チームの大半が海外組となったメンバーのチームリーダーを務める。2011年にカタールで開催されたAFCアジアカップ2011にも全6試合にほぼフル出場。グループリーグのシリア戦では先制ゴールを自ら決め、険しい道のりを勝ち抜くチームを鼓舞し続け、日本代表の2大会ぶり4度目のアジア制覇に貢献。代表キャプテンとして初めてのビッグタイトルを獲得する。以降もザックJAPANの屋台骨として、ブラジルワールドカップアジア予選やFIFAコンフェデレーションズカップ2013を戦い抜き、当時史上最強という呼び声もあった日本代表のリーダーとして、ザッケローニと本田ら個の強いメンバーの橋渡し役も担っていた。
ワールドカップイヤーとなった2014年は、2月に再発した右膝の炎症が再発した影響で直前まで試合に出場できない状況が続く。それでも2014 FIFAワールドカップの本大会には間に合わせ、グループリーグ3試合全てにスタメンで出場。しかし、コンディション調整に失敗したチームは最後までエンジンがかからず、自身も直前でボランチの相棒が遠藤から山口蛍に代わったことでゲームメイクの負担が増えたこともあり、ミスが目立ち、本来のパフォーマンスからは程遠い出来だった。初戦のコートジボワール戦では後半9分にベンチに下がり、第2戦のギリシャ戦では前半のみで交代させられてしまう。狂い始めたチームのバランスを立て直すことができず、グループリーグ敗退に終わる悔しい結果となった。
その後もロシアワールドカップを目指す日本代表のキャプテンとして代表戦に出場することとなる。2016年9月1日におこなわれたロシアW杯アジア3次予選のUAE戦では、初代表から10年目にして日本代表史上6人目となる国際Aマッチ100試合出場を果たす。2017年は3月におこなった手術のためクラブでも長期離脱を強いられ、しばらく代表から遠ざかっていた。しかし、本大会出場がかかる大一番となった8月31日のロシアW杯アジア最終予選のオーストラリア戦で代表に復帰。キャプテンとしてオーストラリアを完封する働きを見せ、本大会出場権獲得に貢献。
2018年4月ヴァヒド・ハリルホジッチ監督が電撃解任され、西野朗監督が急きょ就任する混乱がおこなった日本代表だったが、2018 FIFAワールドカップのメンバーに3大会連続で選出される。この頃、所属するフランクフルトではリベロが主戦場となっていたこともあり、西野監督は当初3バックのリベロでの起用も考えていたが、結局は代表での定位置であるボランチを務めることになる。大会では、司令塔となる柴崎岳を活かすために黒子の役割に徹し、未然にチームのピンチの芽を摘んでいた。一部の主力メンバーをベンチスタートにしていたグループリーグ3戦目のポーランド戦では後半37分から出場し、賛否両論だった残り時間を後方でのパス回しで費やす西野監督の支持をチームに伝える役割を果たす。自身2度目となるグループリーグ突破を決めるが、決勝トーナメント初戦ではベルギーを相手に2点のリードを守り切れずに逆転負けとなり、2010年と同じベスト16という結果となった。
ロシアワールドカップ後、今大会限りでの代表引退を表明。
日本代表として114試合出場2得点。
2022年9月の日本代表のドイツ合宿に合流し、3日間限定でチームに同行している。
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
2002 | 浦和レッズ | J1リーグ | 0 | 0 | |
2003 | 浦和レッズ | J1リーグ | 28 | 2 | |
2004 | 浦和レッズ | J1リーグ | 27 | 5 | |
2005 | 浦和レッズ | J1リーグ | 31 | 2 | |
2006 | 浦和レッズ | J1リーグ | 32 | 2 | |
2007 | 浦和レッズ | J1リーグ | 31 | 1 | |
2007-08 | ヴォルフスブルク | ブンデスリーガ | 16 | 1 | |
2008-09 | ヴォルフスブルク | ブンデスリーガ | 25 | 0 | |
2009-10 | ヴォルフスブルク | ブンデスリーガ | 24 | 1 | |
2010-11 | ヴォルフスブルク | ブンデスリーガ | 23 | 0 | |
2011-12 | ヴォルフスブルク | ブンデスリーガ | 23 | 1 | |
2012-13 | ヴォルフスブルク | ブンデスリーガ | 23 | 2 | |
2013-14 |
ヴォルフスブルク | ブンデスリーガ | 1 | 0 | |
ニュルンベルク | ブンデスリーガ | 14 | 0 | ||
2014-15 | フランクフルト | ブンデスリーガ | 33 | 0 | |
2015-16 | フランクフルト | ブンデスリーガ | 32 | 1 | |
2016-17 | フランクフルト | ブンデスリーガ | 22 | 1 | |
2017-18 | フランクフルト | ブンデスリーガ | 24 | 0 | |
2018-19 | フランクフルト | ブンデスリーガ | 28 | 0 | |
2019-20 | フランクフルト | ブンデスリーガ | 23 | 0 | |
2020-21 | フランクフルト | ブンデスリーガ | 29 | 0 | |
2021-22 | フランクフルト | ブンデスリーガ | 18 | 0 | |
2022-23 | フランクフルト | ブンデスリーガ | 18 | 0 | |
2023-24 | フランクフルト | ブンデスリーガ | 8 | 0 |
2024年6月から7月にかけてのABEMAで中継されたEURO2024のスペシャルサポーターに就任。7月12日の決勝では特別解説者として登場している。
2024年8月28日、フランクフルトⅡ(U-21チーム)のアシスタントコーチに就任することが発表され、指導者としてのキャリアをスタートさせる。
同年8月29日には、サッカー日本代表のコーチングスタッフに就任したことが発表される。なお、フランクフルトのコーチと兼任するという形となり、国際Aマッチウィークの期間に限り、日本代表のコーチングスタッフとしてチームに同行することになる。
真面目で几帳面な性格として知られ、待ち合わせなどの時間を守ることにも厳格。日本代表のチームメイトからは「真面目か!」の意味で「長谷部か!」という言葉が一種のギャグとして使われていた。
ただし、遅刻者に罰金制度を課したにもかかわらず、自らが昼食に遅刻してしまうことがあった。
真面目さ故に天然のため、特に内田篤人からは弄られることが多い。
プロ入りする際、両親は反対し大学進学を勧めていたが、祖父の「男なら挑戦してみろ」という言葉に背中を押されて高校卒業後の浦和レッズ入りを決意。
その祖父はプロ1年目の年に他界し、プロサッカー選手としてプレーする姿を見ることができなかった。そのため、ゴールパフォーマンスは祖父のために天に人差し指を上げるものとなっている。
プライベートで本田朋子との交際が報じられていることもあり、
本田朋子の動画で長谷部の名前が上がることがある(2010年10月に破局)。
また微妙唯一無二の独特なファッションセンスの持ち主であるため、
空港での服装や、インタビュー時の私服がしばしばネタ話題になる。THE END OF LOVE
ブログやテレビ番組などで、幼い姪っ子をこよなく愛する姿が最近見られるが、
顔が笑み崩れるほどの溺愛っぷりが気持ち悪微笑ましい。
ロックバンドMr.Childrenのファンを公言しており、自身のBLOG上で
「ミスチルの曲について」ひたすら語ったりしている。また自身の著書「心を整える」にも、
ミスチルついての記述がいくつも登場する。
数あるMr.Childrenの楽曲の中で、一番好きな曲は「終わりなき旅」。7分間ある曲の中で、
「高ければ高い壁の方が 登った時 気持ち良いもんな 」
という歌詞に、深く感銘を受けたという。 現在でもFIFAワールドカップや、国際Aマッチなど大舞台の試合に向かう際は、必ず会場到着の7分前から「終わりなき旅」 を聴き始め、曲終了と共に会場入りするようにしている。
2016年7月9日モデルでタレントの佐藤ありさとの結婚を発表。翌年7月21日には第一子の誕生を発表している。
チームにおける監督から与えられる役割に応じてプレースタイルが変化しており、それだけ戦術理解力の高い選手である。若い頃は、攻撃的な選手であり、繊細なタッチでドリブルで自ら仕掛けながらパスを散らすゲームメーカーをこなし、元ブラジル代表のカカに例えられる選手だった。ボランチとしても浦和時代はボックストゥボックス型のプレイヤーで、前線が作ったスペースにチャンスと見ると2列目から飛び出すプレーを得意としていた。
ドイツに渡ってからは、バランスを重視したスタイルに年々変化していき、対人プレーや危機察知能力、カバーリングセンスが向上したことで守備で貢献するタイプとなっていく。これは長年国際舞台でプレーしていた経験によって培った読みから可能とするものであり、それだけサッカーをよく知っている選手であり、飛びぬけたフィジカルやスプリント力が無い分を読みとポジショニングセンスで補っている。中盤に攻撃的なタレントが多い日本代表において長年重宝されていたのも、バランス感覚に優れているからである。
フランクフルトで3バックの中央(リベロ)でプレーするようになったのも上述した読みやカバーリングセンス、危機察知能力による判断力を活かすためのものである。ビルドアップの面でも中盤として長年培ってきた技術が活かされており、最終ラインのゲームメーカーとしても重要視されている。
大きな欠点の少ない選手ではあるが、中盤として起用されていた頃は得点力の少なさが指摘されていた。また、相手からのプレッシャーに対する耐性が低く、マンツーマンでマークされたときにパスミスが目立つ。
フランクフルト時代に長谷部を指導したニコ・コバチは「3バックの中心としても、ボランチとしても常に我々の助けとなってくれる存在だ。誠はどこで起用されても、決して不平不満を口にすることなく、常に力を出しつくす、なんでもできる、疲れ知らずの選手なんだ。ぜひ強調しておきたいのだが、彼はまさに『ソルジャー』というタイプの選手だよ」と評価している。
本来のポジションであるボランチの他、トップ下やサイドバックまでこなす器用な選手である。2016年以降はセンターバック(リベロ)としてプレーすることが多くなる。
2011年9月17日のドイツ・ブンデスリーガ・ホッフェンハイム戦で右サイドバックとしてスタメン出場するが、後半35分にGKのマルヴィン・ヒッツがレッドカードで退場。このときヴォルフスブルクは交代枠をすべて使い切っていたため、急遽長谷部がGKとしてプレーすることになった。正確なロングフィードからのチャンスメイクで周囲を驚かせたり、ハイボールを無難に処理したりとそこそこ活躍したものの、1対1の場面は流石に対処できずに1失点。チームも1-3で敗戦した。尚、これにより長谷部はブンデスリーガにおける日本人初のゴールキーパーとなり、更に欧州4大リーグにおいても日本人初のゴールキーパーとなった。あとはFWとCBだ。
掲示板
53 ななしのよっしん
2023/04/14(金) 05:21:17 ID: 6tswz3lYjK
>>51
まだまだ現役で草
代表戦しかサッカー見ないミーハーだけど未だ現役って知ってびっくりしたわ
54 ななしのよっしん
2024/04/17(水) 20:41:47 ID: NSWxPBviJ8
カイザー長谷部、ついに引退かー
代表引退した後にまさかのキャリアハイを迎えたよな
もうフランクフルトのレジェンドだよ
お疲れ様でした
55 ななしのよっしん
2024/04/17(水) 21:03:02 ID: lLTVQBu2AM
長い間お疲れ様でした。
ようやくこれで…
日本代表に集中できますね!
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最終更新:2024/12/23(月) 19:00
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