長谷部誠 単語

232件

ハセベマコト

1.5万文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

長谷部誠1984年1月18日 - )とは、日本の元サッカー選手である。ルシオではない。
サッカー日本代表
現在アイントラハト・フランクフルトコーチサッカー日本代表コーチを務めている。

メインポジションは守備的MF。時々DF、GK。若い頃は攻撃的MFだったが年々ポジションを下げ、35歳を過ぎてからはリベロ(3バックの中央)が戦場となっていた。

2018年アジア最優秀選手賞を受賞。

概要

日本代表としてFIFAワールドカップ2010年2014年2018年の3度出場しており、いずれもキャプテンを務めている。歴代の日本代表監督から絶大な信頼を寄せられ、長年不動のボランチとして君臨。2011年にはAFCアジアカップ優勝に貢献。国際Aマッチ114試合に出場しており、キャプテンとして出場した代表での試合数81試合は歴代1位2018 FIFAワールドカップ後に代表引退を表明している。

若い頃は攻撃的なポジションの選手であり、ドリブルで仕掛けてパスを散らすタイプだった。けっしてサッカーエリートだったわけではないが、浦和レッズではプロ2年から頭を現し、力に定着。中心選手として2006年J1リーグ優勝2007年AFCチャンピオンズリーグ優勝など、クラブ黄金期を築いている。

2008年から16年間ドイツブンデスリーガプレーしており、アジア人の最多出場記録を保持している。ヴォルフスブルク時代の2008-2009シーズンブンデスリーガ優勝を経験。2014年から所属しているアイントラハト・フランクフルトでは3バックの中央であるリベロコンバートされたことで新地を開き、35歳を過ぎてもキャリアハイのシーズンを過ごしている。2019年にはドイツサッカー専門誌『kicker』選出のシーズンベスト11と、UEFAが選ぶヨーロッパリーグ(EL)の優秀選手に選出。いつしか「フランクフルト皇帝」と呼ばれるようになり、クラブレジェンドとして扱われている。2021-22シーズンにはEL優勝を果たし、クラブビッグタイトルをもたらしている。

40歳までブンデスリーガ舞台で試合に出場し続け、2023-24シーズン終了後に現役を引退ブンデスリーガではアジア人最多となる384試合に出場している。

妻はタレントモデル佐藤ありさ。圧倒的なリーダーシップと共にな性格として知られ、日本代表チームメイトからはそのことを弄られている。2011年3月に出版した著書『心を整える。 勝利をたぐり寄せるための56の習慣』が136万部突破のベストセラーとなっている。

経歴

生い立ち

静岡県藤枝市出身。に挟まれた3人兄弟ん中として生まれる。父親は厳格な性格で、母親帳面。幼い頃からおじいちゃん子であり、「」という名前も祖が付けたものである。

3歳の頃、大好きな祖からサッカーボールを贈られ、練習に明け暮れる毎日を過ごすようになる。キャプテン翼大空に憧れたこともあって小学生の頃から本格的にサッカーを始め、6歳のときに青島サッカースポーツ少年団に入団。幼い頃からな性格で、周囲から「またあいつ一人で練習してるよ」と言われてもひたすらサッカーに打ち込んでいた。

中学校に進学すると、藤枝市青島中学校サッカー部に入部。3年生のときにはサッカー部のキャプテンを任され、チームを県大会3位に導いている。

1999年に地元の名門校である藤枝東高校に一般入試により進学。2年生の終わり頃からレギュラーとなり、2001年の全高校総体では準優勝U-18日本代表補にも選ばれるなどそれなりの実績はあったが、全高校サッカー選手権の出場を果たせなかったことに加え、関係者から力は高いもののフィジカルが弱すぎると評価されていたこともあり希望していた地元の清水エスパルスジュビロ磐田からのオファーは届かなかった。しかし、静岡県選抜に選ばれたときのプレーが認められたことで浦和レッズからオファーを受け、卒業後のプロ入りを決断する。

浦和レッズ

2002年浦和レッズプロとしてのキャリアスタート。1年は出場機会はほとんど与えられず、ナビスコカップ1試合に出場したのみとなった。

2003年から背番号が17に変更になり、開幕戦の鹿島アントラーズ戦でスタメンに抜され、J1リーグデビューを果たす。その後、トップ下とボランチで出場機会が増えるようになり、9月6日2ndステージ第4節ガンバ大阪戦でプロゴール記録している。11月3日Jリーグヤマザキナビスコカップ決勝 鹿島アントラーズ戦では途中出場ながらもプロ入り初タイトルとなるナビスコカップ優勝ピッチ上で経験。リーグ戦では29試合2得点と年間を通して出場機会を得たシーズンとなった。

3年となった2004年は、ギド・ブッフバルト監督から信頼を受けたことで全にチームの中心選手に成長する。1stステージは不振に陥った山瀬功治に代わってトップ下での起用が中心となり、山瀬がスタメンに返り咲いた2ndステージ鈴木啓太とのダブルボランチとして出場。8月14日2ndステージ第1節ヴィッセル神戸戦ではプロになって初ゴールの1試合2ゴール記録8月29日の第3節ジュビロ磐田戦では試合終了間際にセンターサークル付近からドリブルで一人で切れ込んでゴールを決める劇的な決勝ゴールを決めている。ナビスコカップでは惜しくも準優勝に終わったものの、この年のニューヒーロー賞を受賞。リーグ戦では豊富な運動量と大胆な攻めあがりでチャンスを作り出し、浦和2ndステージに貢献。サントリーチャンピオンシップ第2戦の横浜F・マリノス戦では120分間フル出場したものの、PK戦で失敗してしまい、惜しくも年間優勝を逃す。それでも、この年のJリーグベストイレブンにも選出されており、大きく飛躍した1年となった。この年の公式戦9ゴールはキャリアハイの記録となっている。

2005年鈴木とのダブルボランチがすっかりに付き、中心選手として活躍。エメルソン、山瀬という中心選手を失ったチームは前半戦こそ苦戦するが、徐々に調子を上げ優勝争いに加わるようになる。8月6日ナビスコカップ準々決勝第1戦清水エスパルス戦では、ターンしながらの快なミドルシュートを決め勝利に貢献。この頃、地元静岡の2チームとの対戦でやたら活躍する選手と言われていた。リーグではまたも2位に甘んじたものの、第85回天皇杯ではトミスラヴ・マリッチの活躍もあって勝ち上がり、準決勝の大宮アルディージャ戦では2ゴールを決めるなど、チームの25年ぶりの優勝に貢献する。

2006年クラブレジェンドである小野伸二が復帰したことで中盤のポジション争いが化することが予想されたが、もはやチームに不可欠な選手となった長谷部は、3月11日J1第2節磐田戦でピンポイントクロスによって田中マルクス闘莉王ダイビングヘッドアシスト3月25日の第5節横浜FM戦では、左45度の位置からゴールを決めている。クラブ史上最強とも言われる鈴木ロブソンポンテと共に構成した中盤は抜群の安定感とクオリティを保ち、チームの潤滑として攻守に貢献。最終節で優勝を争っていたガンバ大阪との直接対決勝利し、悲願のJ1リーグ年間王者にく。元旦には第86回天皇杯決勝でガンバ大阪勝利し、天皇杯連覇、内二冠達成と浦和黄金時代を牽引する存在となる。

2007年は、J1リーグAFCチャンピオンズリーグACL)の2つの大会を戦うことになり、これまで以上に過密日程の中でプレーすることに。シーズン開幕前にはオーストリアドイツの強バイエルン・ミュンヘンと試合をしている。初めてアジアで戦うこととなったACLでは、10月24日の準決勝第2戦の城南一和戦で1点ビハインドを背負った後半28分にFKの流れから値千金の同点ゴールを決め、日本勢としては初の決勝進出に貢献。決勝のセパハン戦では守勢に回る時間が多い苦しい戦いを2試合ともフル出場し、ACL優勝を果たす。リーグ戦では最終節で首位を陥落し惜しくも優勝を逃したが、12月にはFIFAクラブワールドカップ2007に出場。カカを擁するACミランとの準決勝で敗れたが、3位入賞を果たす。浦和の中心選手として全てのタイトルを獲得するなどクラブ黄金時代構築に貢献しており、24歳となるタイミングでいよいよ次のステップへと向かうことを決断する。

ヴォルフスブルク

2008年1月1日ドイツブンデスリーガvflヴォルフスブルクへ移籍することが発表される。エディン・ジェコら一流プレイヤーチーム々と出場機会を得ると、4月27日レバークーゼン戦で初ゴール記録。16試合1得点と移籍1年でまずまずの成績を残す。

移籍2年となった2008-09シーズンは忘れられないシーズンとなる。この年は本職のボランチだけでなく右SHや右SBでもプレーするようになり、マルチロールとして重宝される。チームはジェコとグラフィッチの強力2トップの活躍もあって優勝争いに加わっていく。2009年3月に代表戦で負傷し、大事なリーグ終盤戦に離脱してしまうが、復帰後はレギュラーに返り咲くとチームブンデスリーガ優勝に貢献。シーズン途中に加入してきた大久保嘉人と共に寺康以来31年ぶりにブンデスリーガ優勝を経験した日本人となった。長谷部欧州舞台に連れてきたフェリックス・マガト監督シーズン終了後に同リーグシャルケ04へ引き抜かれる。

2009-10シーズンは、UEFAチャンピオンズリーグの開幕戦であるCSKAモスクワ戦に途中出場し、日本人選手として5人UEFAチャンピオンズリーグ出場を果たす。また、リーグ戦では9月18日の第6節シャルケ04戦でエディン・ジェコの決勝点をアシスト9月26日の第7節ハノーファー96戦で今季初得点を決めるなどの活躍を見せる。CLでは、9月30日のアウェーでのマンチェスター・ユナイテッド戦において後半11分に絶妙なクロスでジェコの先制点をアシストする。チームは初のCLグループリーグ敗退となり、リーグでも中位に低迷したが、個人としては24試合1得点6アシスト記録している。

2010-11シーズンヴォルフスブルクはよもやの大不振に陥り、あわや2部に降格というほど低迷する。危機感を募らせたクラブ2011年3月シャルケを解任されたばかりのマガトを監督に復帰させる。かつての恩師との再会に当初は期待がされたが、ここから長谷部を取りまく状況が一変するようになる。

2011-12シーズンリーグ戦23試合に出場したが、そのどが後述のように本職外のポジションである右SBでの出場がほとんどだった。9月6日の第6節ホッフェンハイム戦では1点ビハインドでの後半35分にGKのマルヴィン・ヒッツがレッドカードで退場。チームは既に交代を使い切っていたため、長谷部が急遽GKを務めることになる。れないポジションでありながら、正確なロングフィードを出したり、クロスボールにも飛び出してキャッチするなど奮闘するも、後半40分に失点し、チームは1-3で敗戦。このように便利屋のように扱われ、ベンチ外を経験する事も多かった。前年の15位から8位へと向上したクラブとは対照的に長谷部個人としては不本意なシーズンとなった。
そしてシーズン終了後、長谷部は他クラブとの移籍交渉が許可され、事実上の戦力外通告を受けてしまう。古巣浦和への復帰も囁かれたが、本人は欧州トップリーグ舞台でのプレー希望。だが、2年の残り契約により発生する移籍金や高額の年俸やクラブの財政状況(ヴォルフスブルクスポンサードイツ最大手の自動車メーカーフォルクスワーゲンであり、お金には全く困っていない。つまり移籍金はびた一文まける必要がない)がネックとなり、移籍市場閉幕を迎えても長谷部獲得に手を挙げるクラブは現れなかった。

地への移籍がう事なく迎えた2012-13シーズン、堅物の「鬼軍曹」としても知られるマガト監督は当然のように長谷部を構想外に。合流した日本代表の試合でもミスを連発し試合勘不足を露呈するなど、クラブどころか代表での立場すら失いかねない状況に陥ってしまう。しかし、10月末になって思わぬ転機が訪れる。開幕から低調な戦いぶりで8試合消化時点で勝ち点5でリーグ最下位に低迷する原因となったマガト監督が解任されたのだ。するとチームの再出発となった第9節デュッセルドルフ戦、前日に遠征メンバー入りしていた長谷部は4-2-3-1の右サイドハーフでいきなりのスタメン出場。元々タレントいだったチームはこれまでの憤をらすかのような圧巻のパフォーマンスを披露し、2部からの昇格チームを圧倒。ヴォルフスブルクの面々は得点の度に喜びを爆発させ、2-0で迎えた後半19分には長谷部アシスト記録するなど結果は4-1の快勝。長谷部誠の新シーズンは2か遅れの開幕を迎えた。

ニュルンベルク

2013年8月31日、5シーズン半を過ごしたヴォルフスブルクに別れを告げ、清武弘嗣の所属する1.FCニュルンベルクへ移籍。加入1年でありながらもチーム力として試合に出場したが思うように結果が残せず、チームも低迷。2014年1月には膝の負傷で戦線離脱を余儀なくされ、クラブツヴァイテリーガ(2部)への降格が決定した。

フランクフルト

2014年6月2日アイントラハト・フランクフルトへ移籍することが発表される。背番号は「20」。2014-15シーズンは本人が希望するボランチで固定される。攻撃的なスタイルに転換したチームバランスを中盤の底で整える重要な役割を担い。開幕前は降格補にも挙げられたチーム予想外の9位に躍進させた立役者となる。自身もリーグ戦ではドイツに移籍後最多出場となる33試合に出場するなど充実したシーズンとなった。

しかし、2015-2016シーズン開幕前にトーマス・シャーフ監督が解任され、アルミンフェー監督が就任すると状況が一変。ここでもまた右SBプレーさせられることが増え、チームは大きく低迷し降格の危機に直面するとともに自身も調子を落としてしまう。それでも、2016年3月フェー監督が解任され、ニココバ監督が就任すると再びボランチで起用されるようになり、4月30日ダルムシュタット戦で1091日ぶりのゴールを決める。入れ替え戦でも2試合にフル出場し、古巣のニュルンベルクを退けて残留に貢献。

2016-2017シーズンは大きな転機を迎えることとなる。2016年10月28日ブンデスリーガ第9節ボルシア・メンヘングラッドバッハ戦で3バックの中央で起用されるとこれが思いの外嵌り、コバ監督の提案により、3バックの中央(リベロ)にコンバートされる。すると、チーム戦術の要となる重要な役割を担い、以降チームに欠かせないプレイヤーとなる。3月5日フライブルク戦ではブンデスリーガ出場試合数を235試合とし、寺康の持つ日本人最多出場記録更新。しかし、シーズン終盤に右膝の手術をおこなったことで5カもの長期離脱を余儀なくされる。長谷部の離脱と同時に一時はCL出場圏にまで浮上していたチームは失速している。

2017-2018シーズンの開幕前に復帰を果たすと、開幕後は前年から引き続きリベロとしてプレーする。4月21日ヘルタ・ベルリン戦において相手選手の顔面への肘打ちで一発退場となり、4試合の出場停止処分を受ける。5月19日のDFBポカール決勝のバイエルン・ミュンヘン戦にフル出場。下評を覆す王者バイエルン相手の勝利に貢献し、ドイツに渡ってからはヴォルフスブルク時代にリーグ優勝して以来の2つめとなるタイトル獲得を果たす。

2018-2019シーズンは、リーグ戦とUEFAヨーロッパカップ(EL)の2つのコンペティションを戦うことになるが、チームリーダーとして獅子奮の大活躍を見せる。ベテランらしい歴戦の経験による正確なコーチングでチーム全体を操作し、まさにピッチ上の指揮官として振る舞っていた。自身も毎試合のようにハイパフォーマンスを見せ、リーグ前半戦のベストCBに選出される。最後は失速したもののチームは一時は上位入りを狙える位置をキープし、ELでも準決勝まで勝ち抜く躍進を遂げる。最後尾からチームの頭として全体を統率する姿を見たファンからは「フランクフルト皇帝」とまで称されるようになり、ドイツの有力サッカー専門誌『kicker』からはシーズンベストイレブンに選出され、UEFA公式によるELの優秀選手賞にも選出。2018年アジア最優秀選手賞も受賞しており、35歳にしてキャリアハイのシーズンを過ごすこととなった。

2019-2020シーズンは、ルカ・ヨビッチアンテ・レビッチといった力が抜けたもありチームは低迷。2020年年明けあたりからチームが4バックに変更したもあり、ベンチで過ごすことが増える。だが、新型コロナウィルスによる中断明けから再び3バックを採用したことでリベロ定位置へ返り咲く。6月6日マインツ戦でブンデスリーガにおけるアジア人最多となる309試合出場を達成。長谷部が復帰後は、一時は残留争いに巻き込まれていたチームも失っていたバランスを取り戻し、最終的には9位でシーズンを終える。シーズン後には日本に一時帰し膝の手術を受け、8月6日のELラウンド16・2nd legのバーゼル戦に後半の45分間出場している。

36歳となった2020-2021シーズンは、ブンデスリーガの最年長選手として開幕を迎えることとなる。開幕から7試合連続でフル出場していたが、第8節のライプツィヒ戦を皮切りに5試合連続でスタメンを外れる。このことについて、アディ・ヒュッター監督からには現役引退する見込みであるため、先を見据えて長谷部抜きのチームで戦っていると説明。12月15日の第12節ボルシア・メンヘングラッドバッハ戦から本職のボランチとしてレギュラーに復帰すると出色のパフォーマンスを披露し、あらためてフランクフルトに不可欠な選手であることを認めさせる。2021年2月からは退団したダビド・アブラアムに代わってキャプテンを任される。長谷部が中盤に定着してからチームは11試合敗と快進撃を見せ、王者バイエルンを相手に金星を奪取もしている。3月8日には、フランクフルトとの契約2022年まで延長したことが発表される。シーズン終盤には再びリベロとして出場することも増え、あらためて存在の大きさを明したシーズンとなったが、チームは惜しくもCL出場権を逃し、5位でシーズンを終えた。

2021-2022シーズンは出場機会が減ってしまうが、チームがなかなか勝てなかったこともあり待望論が出るようになる。9月27日のELアントワープ戦で一かぶりにスタメンで出場するとチームシーズン勝利に貢献する。年齢もあって常時スタメンは難しくなるが、それでもチームの成績が下降線になるとスタメンに復帰し前半戦終盤の快進撃に不可欠な存在となった。2022年2月18日2027年までの新契約を結び、選手としての契約2023年まででその後はコーチンスタッフに就任することが発表された(ただし2023年引退するかは決まっていない)。後半戦は控えとなり出場機会が減るが、5月18日のEL決勝レンジャーズFC戦で後半13分に途中出場するとデュエル勝率100%という脅威のスタッツで守備を安定させ、フランクフルトに42年ぶりの優勝をもたらす。38歳にしてまた一つ新たな栄歴史が刻まれることとなった。

2022-2023シーズンも開幕から控えが続くが、2022年9月7日CLグループステージ スポルティングCP戦で鎌田大地との交代で後半39分から出場し、13年ぶりにCLピッチに立つ。シーズン初スタメンとなった9月13日CL第2節オリンピック・マルセイユ戦ではチーム完封勝利に大きく貢献したことで再び3バックの中央の定位置を掴むようになる。10月4日CL第3節トッテナム・ホットスパー戦ではデュエル勝率100%記録し、ハリー・ケインを見事完封したことで各方面から称賛される。10月15日CL第4節トッテナム戦で右膝靭帯損傷を負い戦線離脱を余儀なくされる。11月16日には古巣である浦和レッズとの善試合に出場。負傷ので15分ほどの出場となったが、さいたまスタジアムへの凱旋を果たす。2023年1月23日バイエルン・ミュンヘン戦で公式戦三かぶりの出場を果たし、格上相手の勝ち点1獲得に貢献。後半戦もスタメンを外れる時期が続いたが、チームの成績が思わしくないとスタメンに返り咲くいつも通りのパターンとなる。流石にフィジカルバトルで劣勢に立たされる場面が見られるようになったが、チーム内での信頼は相変わらず高かった。

2023-24シーズンブンデスリーガの現役最年長選手として現役を続行。2023年12月9日の第14節バイエルン戦で途中出場し、クラブにおけるブンデスリーガ通算出場数を『230』とし、外籍選手としてクラブ歴代最多出場記録を打ち立てる。40歳となった2024年2月25日の第22節フライブルク戦にフル出場し、フランクフルトでの通算300試合出場を達成。4月17日に会見を開き、今シーズン限りでの現役引退を表明。5月18日リーグ最終節RBライプツィヒ戦の終盤に途中出場したのが現役最後の試合となった。

日本代表

2006年1月の代表合宿において日本代表メンバーに初選出され、2月11日アメリカとの善試合で途中出場によりA代表デビューを果たす。存在感を見せるプレーは披露したものの、ジーコ監督からの評価を得ることができず、2006年ワールドカップ本大会のメンバーに選出されなかった。その後、代表監督イビチャ・オシムに代わってから当初はメンバーに選ばれたものの、2007年に入ってからは選ばれないことが増え、この年のAマッチ出場はかった。

だが、2008年代表監督岡田武史に代わると、ドイツ移籍後の活躍が認められ、岡田体制初の海外組を招集しての善試合のメンバーに選ばれる。5月5日コートジボワール戦に出場すると、右サイドからのクロス玉田の決勝ゴールアシスト南アフリカW杯アジア3次予選以降は、遠藤保仁とのダブルボランチが日本代表における不動のコンビとして定着するようになる。2008年から2009年にかけてのアジア最終予選でも、力として6試合にスタメンとして出場し、4大会連続での本大会出場に貢献。2009年11月18日アジアカップ2011予選香港戦で代表初ゴール記録する。

2010年5月10日2010 FIFAワールドカップの出場メンバーに選出。日本代表は本大会前の善試合において内容と結果が振るわず、内の解説者メディアから惨敗が予想されるなど、厳しい批判を浴びていた。現状打破の一環として、直前のスイス合宿において岡田監督から中澤佑二に代わってキャプテン名される。本大会に入ると、チーム戦術が変わり遠藤阿部と共に守備重視の3ボランチを形成。下評を覆す戦いぶりを見せるチームを縁の下の力持ちとして牽引し、2大会ぶりとなるグループリーグ突破に貢献。ベスト16までの全4試合に出場し、チームを引っった。また、この大会での長谷部は、突然キャプテンに抜されながらベテラン、若手それぞれに気を配り、メディア対応も完璧にこなすなど、裏での仕事ぶりも評価されている。大会後はキャプテンということもあり、テレビに引っりだこになる。

南アフリカワールドカップ後に就任したアルベルト・ザッケローニ監督からも引き続きキャプテン名され、チームの大半が海外組となったメンバーチームリーダーを務める。2011年カタールで開催されたAFCアジアカップ2011にも全6試合にほぼフル出場。グループリーグシリア戦では先制ゴールを自ら決め、険しいのりを勝ち抜くチームを鼓舞し続け、日本代表の2大会ぶり4度アジア制覇に貢献。代表キャプテンとして初めてのビッグタイトルを獲得する。以降もザックJAPAN屋台として、ブラジルワールドカップアジア予選やFIFAコンフェデレーションズカップ2013を戦い抜き、当時史上最強という呼びもあった日本代表リーダーとして、ザッケローニ本田ら個の強いメンバー渡し役も担っていた。

ワールドカップイヤーとなった2014年は、2月に再発した右膝の炎症が再発したで直前まで試合に出場できない状況が続く。それでも2014 FIFAワールドカップの本大会には間に合わせ、グループリーグ3試合全てにスタメンで出場。しかし、コンディション調整に失敗したチームは最後までエンジンがかからず、自身も直前でボランチの相棒遠藤から山口蛍に代わったことでゲームメイクの負担が増えたこともあり、ミス立ち、本来のパフォーマンスからは程遠い出来だった。初戦のコートジボワール戦では後半9分にベンチに下がり、第2戦のギリシャ戦では前半のみで交代させられてしまう。狂い始めたチームバランスを立て直すことができず、グループリーグ敗退に終わる悔しい結果となった。

その後もロシアワールドカップ日本代表キャプテンとして代表戦に出場することとなる。2016年9月1日におこなわれたロシアW杯アジア3次予選のUAE戦では、初代表から10年にして日本代表史上6人となる国際Aマッチ100試合出場を果たす。2017年3月におこなった手術のためクラブでも長期離脱を強いられ、しばらく代表から遠ざかっていた。しかし、本大会出場がかかる大一番となった8月31日ロシアW杯アジア最終予選のオーストラリア戦で代表に復帰。キャプテンとしてオーストラリア完封する働きを見せ、本大会出場権獲得に貢献。

2018年4月ヴァヒド・ハリルホジッチ監督電撃解任され、西野朗監督が急きょ就任する混乱がおこなった日本代表だったが、2018 FIFAワールドカップメンバーに3大会連続で選出される。この頃、所属するフランクフルトではリベロ戦場となっていたこともあり、西野監督は当初3バックリベロでの起用も考えていたが、結局は代表での定位置であるボランチを務めることになる。大会では、となる柴崎岳を活かすために黒子の役割にし、未然にチームピンチの芽を摘んでいた。一部のメンバーベンスタートにしていたグループリーグ3戦ポーランド戦では後半37分から出場し、賛否両論だった残り時間を後方でのパス回しで費やす西野監督の支持をチームに伝える役割を果たす。自身2度となるグループリーグ突破を決めるが、決勝トーナメント初戦ではベルギーを相手に2点のリードを守り切れずに逆転負けとなり、2010年と同じベスト16という結果となった。

ロシアワールドカップ後、今大会限りでの代表引退を表明。
日本代表として114試合出場2得点

2022年9月日本代表ドイツ合宿に合流し、3日間限定でチームに同行している。

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
2002 浦和レッズ J1リーグ 0 0
2003 浦和レッズ J1リーグ 28 2
2004 浦和レッズ J1リーグ 27 5
2005 浦和レッズ J1リーグ 31 2
2006 浦和レッズ J1リーグ 32 2
2007 浦和レッズ J1リーグ 31 1
2007-08 ヴォルフスブルク ブンデスリーガ 16 1
2008-09 ヴォルフスブルク ブンデスリーガ 25 0
2009-10 ヴォルフスブルク ブンデスリーガ 24 1
2010-11 ヴォルフスブルク ブンデスリーガ 23 0
2011-12 ヴォルフスブルク ブンデスリーガ 23 1
2012-13 ヴォルフスブルク ブンデスリーガ 23 2

2013-14
ヴォルフスブルク ブンデスリーガ 1 0
ニュルンベルク ブンデスリーガ 14 0
2014-15 フランクフルト ブンデスリーガ 33 0
2015-16 フランクフルト ブンデスリーガ 32 1
2016-17 フランクフルト ブンデスリーガ 22 1
2017-18 フランクフルト ブンデスリーガ 24 0
2018-19 フランクフルト ブンデスリーガ 28 0
2019-20 フランクフルト ブンデスリーガ 23 0
2020-21 フランクフルト ブンデスリーガ 29 0
2021-22 フランクフルト ブンデスリーガ 18 0
2022-23 フランクフルト ブンデスリーガ 18 0
2023-24 フランクフルト ブンデスリーガ 8 0

個人タイトル

引退後

2024年6月から7月にかけてのABEMAで中継されたEURO2024スペシャルサポーターに就任。7月12日の決勝では特別解説者として登場している。

2024年8月28日フランクフルトU-21チーム)のアシスタントコーチに就任することが発表され、導者としてのキャリアスタートさせる。

同年8月29日には、サッカー日本代表コーチンスタッフに就任したことが発表される。なお、フランクフルトコーチと兼任するという形となり、国際Aマッチウィークの期間に限り、日本代表コーチンスタッフとしてチームに同行することになる。

人物・エピソード

帳面な性格として知られ、待ち合わせなどの時間を守ることにも厳格。日本代表チームメイトからは「か!」の意味で「長谷部か!」という言葉が一種のギャグとして使われていた。
ただし、遅刻者に罰金制度を課したにもかかわらず、自らが食に遅刻してしまうことがあった。
故に天然のため、特に内田篤人からは弄られることが多い。

プロ入りする際、両は反対し大学進学を勧めていたが、祖の「男なら挑戦してみろ」という言葉に背中を押されて高校卒業後の浦和レッズ入りを決意。
その祖プロ1年の年に他界し、プロサッカー選手としてプレーする姿を見ることができなかった。そのため、ゴールパフォーマンスは祖のためにに人差しを上げるものとなっている。

プライベートで本田朋子との交際が報じられていることもあり、
本田朋子動画長谷部名前が上がることがある(2010年10月に破局)。

また微妙二の独特なファッションセンスの持ちであるため、
空港での装や、インタビュー時の私服がしばしばネタ話題になる。THE END OF LOVE

ブログテレビ番組などで、幼い姪っ子をこよなくする姿が最近見られるが、
顔が笑み崩れるほどの溺っぷりが気持ち悪微笑ましい。

ロックバンドMr.Childrenファン言しており、自身のBLOG上で
「ミスチルの曲について」ひたすら語ったりexitしている。また自身の著書「心を整える」にも、
ミスチルついての記述がいくつも登場する。
数あるMr.Childrenの楽曲の中で、一番好きな曲は「わりなき」。7分間ある曲の中で、
高ければ高いの方が 登った時 気持ち良いもんな
という歌詞に、深く感銘を受けたという。 現在でもFIFAワールドカップや、国際Aマッチなど大舞台の試合に向かう際は、必ず会場到着の7分前から「終わりなき旅」 を聴き始め、曲終了と共に会場入りするようにしている。 

2016年7月9日モデルタレント佐藤ありさとの結婚を発表。翌年7月21日には第一子の誕生を発表している。

プレースタイル

チームにおける監督から与えられる役割に応じてプレースタイルが変化しており、それだけ戦術理解力の高い選手である。若い頃は、攻撃的な選手であり、繊細なタッチでドリブルで自ら仕掛けながらパスを散らすゲームメーカーをこなし、元ブラジル代表のカカに例えられる選手だった。ボランチとしても浦和時代はボックストゥボックスプレイヤーで、前線が作ったスペースチャンスと見ると2列から飛び出すプレーを得意としていた。

ドイツに渡ってからは、バランスを重視したスタイルに年々変化していき、対人プレー危機察知力、カバーリングセンスが向上したことで守備で貢献するタイプとなっていく。これは長年舞台プレーしていた経験によって培った読みから可とするものであり、それだけサッカーをよく知っている選手であり、飛びぬけたフィジカルやスプリント力がい分を読みポジショニングセンスで補っている。中盤に攻撃的なタレントが多い日本代表において長年重宝されていたのも、バランス感覚に優れているからである。

フランクフルトで3バックの中央(リベロ)でプレーするようになったのも上述した読みカバーリングセンス危機察知力による判断力を活かすためのものである。ビルドアップの面でも中盤として長年培ってきた技術が活かされており、最終ラインゲームメーカーとしても重要視されている。

大きな欠点の少ない選手ではあるが、中盤として起用されていた頃は得点力の少なさが摘されていた。また、相手からのプレッシャーに対する耐性が低く、マンツーマンでマークされたときにパスミス立つ。

フランクフルト時代に長谷部導したニココバチは「3バックの中心としても、ボランチとしても常に々の助けとなってくれる存在だ。はどこで起用されても、決して不不満を口にすることなく、常に力を出しつくす、なんでもできる、疲れ知らずの選手なんだ。ぜひ強調しておきたいのだが、彼はまさに『ソルジャー』というタイプの選手だよ」と評価している。

ユーティリティープレイヤー

本来のポジションであるボランチの他、トップ下やサイドバックまでこなす器用な選手である。2016年以降はセンターバックリベロ)としてプレーすることが多くなる。

2011年9月17日ドイツブンデスリーガ・ホッフェンハイム戦で右サイドバックとしてスタメン出場するが、後半35分にGKマルヴィン・ヒッツレッドカードで退場。このときヴォルフスブルクは交代をすべて使い切っていたため、急遽長谷部GKとしてプレーすることになった。正確なロングフィードからのチャンスメイクで周囲を驚かせたり、ハイボール難に処理したりとそこそこ活躍したものの、1対1の場面は流石に対処できずに1失点チームも1-3で敗戦した。尚、これにより長谷部ブンデスリーガにおける日本人初のゴールキーパーとなり、更に欧州4大リーグにおいても日本人初のゴールキーパーとなった。あとはFWとCBだ。

関連動画

著書

関連項目

外部リンク

この記事を編集する
関連記事

親記事

子記事

  • なし

兄弟記事

掲示板

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
踊ってみた[単語]

提供: セイラ24

もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2024/12/23(月) 19:00

ほめられた記事

最終更新:2024/12/23(月) 19:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP