原口元気 単語

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原口元気(はらぐち げんき1991年5月9日 - )とは埼玉県出身のサッカー選手である。
J1リーグ浦和レッズ所属。元サッカー日本代表

179cm72kg。ポジションはFW、MFサイドハーフトップ下、インサイドハーフ)。利き足は右足。

概要

埼玉県熊谷市出身。ジュニアユース時代から浦和レッズの下部組織に所属し、2009年17歳トップチームに昇格。当時、浦和ユースの「黄金世代」と呼ばれたメンバーであり、トップチームでもエースとして頭を現すようになる。2014年5月ドイツブンデスリーガヘルタ・ベルリンへ移籍すると、デュッセルドルフハノーファー96、ウニオンベルリンVfBシュトゥットガルトと渡り歩き、10年間ドイツプレーした経験を持つ。

日本代表には2011年デビューヴァヒド・ハリルホジッチ監督の時代に代表の中心選手として定着するようになると、2018年ワールドカップ アジア最終予選では4試合連続ゴール記録する活躍を見せている。2018 FIFAワールドカップ本大会でも右サイドハーフレギュラーを務め、ラウンド16のベルギー戦では先制ゴールを決めている。

若手時代はスピードテクニック武器としたウイングだったが、ドイツに渡ってからは豊富な運動量で攻守をアップダウンするインテンシティを重視するスタイルに変わり、ベテランになってからはトップ下やインサイドハーフボランチにコンバートされている。

経歴

プロ入りまで

7人家族で育ち、がいる。保育園に通い始めた頃からサッカーを始め、と一緒にボールを蹴っていた。

小学生になると、埼玉でも屈の強である江南サッカー少年団に加入。くから飛び抜けた才を発揮し、3年生のときにはすでに6年生の試合に出場していた。2003年には第27回全日少年サッカー大会で力として優勝に貢献。同年の全日少年フットサル大会決勝では、6ゴール7アシストと大活躍を見せ、2冠達成。全に名をかせることになる。にはU-12日本選抜の一員としてフランスで開催されるダノンネーションズカップ2003に出場し、世界を経験。

中学に進学すると、スカウトから誘われて浦和レッズジュニアユースに入団。当時身体が小さかったことから1年生のときは周りとのレベルの差を痛感させられるが、2年生になると試合に出場するようになり力として定着。1学年上に山田高橋峻希がいた当時のチーム浦和ジュニアユースの「黄金世代」と呼ばれ、高円宮杯、日本クラブユース選手権というタイトルを総なめにしている。

中学3年生となった2007年飛び級浦和レッズユースに昇格。この頃、浦和の提携先であるバイエルン・ミュンヘンから練習生として2年間オファーを受け、2008年には高校2年生にしてトップチームに二種登録される。5月25日ヤマザキナビスコカップ名古屋グランパスエイト戦で公式デビューを果たしている。10月13日には、高円宮杯第19回全日ユース選手権(U-18)決勝に出場し、1得点2アシストの活躍で優勝に導いている。

浦和レッズ

2009年1月30日17歳にして浦和レッズクラブ日本人最年少でプロ契約を結ぶ。背番号は「24」。当時監督だったフォルカー・フィンケからの熱望もあって1年前倒しでのトップチーム昇格となった。
J1開幕戦の鹿島アントラーズ戦でスタメンを飾り、くもJリーグデビューを果たす。第5節の名古屋グランパスエイト戦では、クラブの史上最年少ゴールとなるJリーグゴール記録。その後、田中達也力が負傷したこととフィンケがユースから昇格した若手を積極的に起用する方針だったことでレギュラーに定着。なかなか結果を出せない時期も続いたが、才を高く買っていたフィンケが慢強く起用し続けたことで1年にしてチーム2位となる32試合に出場する。

2010年は、攻撃の層が厚かったこともあり途中出場が多くなるが、第10節の名古屋戦で田中達也が負傷したことによる途中出場という前年のプロゴールと同じシチュエーションシーズンゴールとなる決勝ゴール記録。その後チームに負傷者が続出したこともあってスタメンでの出場機会が増えるが、シーズン終盤戦は好調を維持した高橋峻希にスタメンの座を譲ることが多くなり、ベンチを暖めることが多くなっていた。公式戦4得点と前年よりも数字は残したが、どこか不完全燃焼に終わった感は否めなかった。

2011年は、開幕からレギュラーに定着。チームは一時降格圏に転落するほど低迷したが、自身はコンスタントゴールを重ね、9得点記録シーズン後半戦はコンディションを落としたが、フィジカル面で成長したことによってプロの当たりにも対応できるようになり、Jリーグヤマザキナビスコカップではニューヒーロー賞を受賞するなど飛躍の1年となった。しかし、この年の12月10日練習中にチームメイト岡本拓也喧嘩になった挙句に蹴り飛ばし、全治3週間の怪を負わす事件を起こす。翌日クラブから1週間の謹慎処分を科せられる。

ミハイロ・ペトロヴィッチ監督が就任した2012年は、シーズン前半戦はベンスタートが多く、後半戦はレギュラーを掴んだものの、慣れない1トップで起用されたことで思ったような結果を残せなかった。

2013年の開幕戦で前年のJリーグ王者であるサンフレッチェ広島を相手に1ゴール1アシストの活躍を見せたことで左のシャドーの位置でレギュラーに定着。この頃から課題であった感情面でのコントロールができるようになったこともあってコンスタントに結果を残し、ようやく浦和エースと認められるようになる。8月3日の第19節広島戦でゴールを決めたことでリーグ戦9得点に到達するが、そこから第28節の大宮アルディージャ戦までの間ゴールから遠ざかり、苦しい時期を過ごすことになる。それでも、10月19日の第29節鹿島戦で決勝ゴールを決め、自身にとって初の二桁得点に到達。11月2日ヤマザキナビスコカップ決勝では柏レイソルに敗れ、自身にとっての初タイトルを逃した悔しさから人をはばからず号泣。それでもこの年リーグ1位の66得点をたたき出した攻撃の一として成長の1年となった。

2014年は、背番号「9」を背負ってプレーすることになる。ワールドカップの中断期間に入るまでの14試合で4得点記録するが、その後ドイツへの移籍が決定する。

ヘルタ・ベルリン

2014年5月25日ドイツブンデスリーガヘルタ・ベルリンへの全移籍が発表される。公式デビューとなったDFBポカール1回戦フォルトゥナ・ケルン戦で初ゴールを決める。8月24日ブンデスリーガ開幕戦のヴェルダー・ブレーメン戦でもスタメンで起用され、2得点に絡む活躍を見せるが、試合終盤に右肩関節を負傷し離脱。その間にポジションを失うことになる。それでも、2015年第25節シャルケ04戦でブンデスリーガゴールマークしたことをきっかけに左サイドハーフの位置でレギュラーを獲得。攻守に豊富な運動量で献身的に働くプレーぶりがパル・ダルダイ監督から評価され、そのまま力に定着する。

2年となる2015-16シーズン力に定着。ほとんどの試合でチームでもトップクラスの走行距離記録し、カウンターになると得意のドリブル突破で仕掛け、浦和時代と違ったプレー像を確立していき、ヘルタに欠かせない労働者となる。第27節のVfcシュトゥットガルト戦では1得点1アシストの活躍でMOMに選ばれる。このシーズン公式戦37試合に出場し3得点という成績を残した。

2016-17シーズンも、開幕から9試合連続フル出場とチームからの信頼を得ていたが、第11節でスタメンを外れて以降出場機会を減らしてしまう。その後、レギュラーを取り戻すが、終盤にかけてチームと代表でフル稼働していたによって調子を落としていく。さらに、シーズンオフには、イングランドへの移籍を希望し、クラブとの契約延長を拒否する

一時はプレミアリーグへの移籍が実現するかと見られていたが、結局実現せず2017-18シーズンヘルタに残ることに。だが、この移籍騒動のによって信頼を失い、出場機会が減。ようやくスタメンで起用された10月1日バイエルン戦では、ドイツ代表のDF3人をドリブルで抜き去りアシスト記録MOMベストイレブンに選ばれる。しかし、次戦のシャルケ戦で危険なタックルを相手に見舞って一発退場となる。2試合の出場停止処分を科され、以降ほぼ構想外の立場に立たされる。

デュッセルドルフ

2018年1月23日ツヴァイテリーガ(2部)のフォルトゥナ・デュッセルドルフへのレンタル移籍が発表される。翌日の試合から速出場すると、初スタメンを飾った1月27日の1FCカイザースラウテルン戦では1得点1アシストの活躍でMOMに選ばれる。その後、頭部を強打する負傷で3試合休養を取ることもあったが、宇佐美貴史との両サイドコンビチームを牽引。13試合1得点5アシストの結果を残し、チームブンデスリーガ昇格とツヴァイテリー優勝に貢献する。

ハノーファー

2018年6月12日ブンデスリーガハノーファー96へ3年契約全移籍。背番号は「10」。11月25日ボルシア・メンヒェングラートバッハ戦でブンデスリーガ通算100試合出場を達成するが、守備が全に崩壊したチームはなかなか勝ち点を得ることができず低迷。自身もウイングバックで起用されるなど、力を発揮したとはいえず。結局プロにはって初めての公式得点に終わり、チームも降格。期待を裏切る格好となり、ファンメディアから降格を招いた戦犯として批判を受けることとなる。

降格に伴い、移籍を希望したが、クラブが納得できるオファーが届かなかったため、2019-20シーズンハノーファーに残留し、ツヴァイテリーガでプレーすることになる。2019年11月25日ダルムシュタット戦でおよそ1年10かぶりとなるクラブでの得点を決める。折り合いの悪かったミルコ・スロムカが解任され、新監督となったケナン・コジャックからトップ下としてチームの中心として扱われるようになり、攻撃面での力を発揮するようになる。昇格は果たせなかったものの、6得点5アシストドイツ移籍後最高の数字を残し、批判的だったサポーターからの評価も一変させる。

2020-2021シーズンに加入した室屋成とチームメイトになる。引き続きトップ下が戦場となり、攻撃の中心としてチームを引っる立場となるが、前半戦は周囲を納得させられるだけのパフォーマンスを見せられず、ハノーファーが昇格争いから出遅れたこともあってメディアからは厳しい評価を受ける。しかし、年明け以降に調子をあげ、前のシーズンを上回るパフォーマンスを披露する。2021年1月16日のザンクト・パウリ戦では2分間で2ゴールを決める活躍を見せる。ドッペルバックを達成したのはドイツ移籍後初であり、2点は室屋からのアシストだった。1月24日ニュルンベルク戦でも圧巻のミドルシュートを決めて勝利に貢献。2試合連続でファンが選ぶMOMに選ばれると共に、ドイツ誌『kicker』が選出する第17節のMVPを獲得する。4月4日の第27節ハンブルガーSV戦では、2ゴールの活躍によって3点ビハインドからの同点劇を演出し、ファン投票によるMOMに92%の支持率で選出される。また、この試合の2点の倒れ込んだ状態からのゴールドイツレジェンドである”爆撃機ゲルト・ミュラーに似ていると、現地メディアから称賛される。チームは昇格を逃したが、個人として全34試合に出場し、9ゴール7アシストと前年を上回る成績を残す。シーズン終了後の5月24日契約満了により退団することが発表される。

ウニオン・ベルリン

2021年5月27日ブンデスリーガの1.FCウニオンベルリン全移籍することが発表される。インサイドハーフで起用され定位置を掴むと、2021年10月30日の第10節バイエルン戦でアシスト記録するなど、チームは敗れたものの高いパフォーマンスを見せる。その後も持ち前のスプリント力と運動量でチームの前半戦7位という好成績に貢献する。後半戦に入ると序列が下がってしまい、スタメンを外れることが増えるようになる。2022年2月26日の第24節マインツ戦ではブンデスリーガではおよそ5年ぶりとなる移籍後初ゴール記録する。シーズン終盤戦にはレギュラーの座を取り戻し、チームトップタイの6アシスト記録クラブ創立以来初となるEL出場権獲得に貢献する。

2022-2023シーズンも開幕から2試合はスタメンに名を連ねるが、8月下旬にチームが中盤の選手を補強したことで序列が下がり、躍進するチームの中で出場機会が大幅に減ってしまう。

シュトゥットガルト

2023年1月30日ブンデスリーガVfBシュトゥットガルト2024年6月30日までの契約全移籍することが発表される。背番号は「17」。移籍後、すぐにレギュラーに抜され遠藤航と共にインサイドハーフとしてプレーする。しかし、低迷するチームブルーノ・ラッバディア監督を解任し、セバスティアン・ヘーネス監督に交代すると序列が低下。残留争いが佳となった終盤の8試合で2試合しか出場できず、入れ替え戦でも2試合とも出番は訪れなかった。

2023-24シーズンはさらに状況が悪化。チーム大躍進を遂げるものの、戦力外同然の立場に追いやられていた。のマーケットでの移籍も実現はせず、ブンデスリーガでの出場試合数は2試合、出場時間は1シーズンでわずか25分のみに終わる。リーグ終戦直前の2024年5月18日契約満了により退団することが発表される。

浦和レッズ復帰

2024年9月1日、古巣であるJ1リーグ浦和レッズに10年ぶりに復帰することが発表される。背番号は78。9月10日J1第30節ガンバ大阪戦に途中出場し、浦和での再デビューを果たす。長く実戦から離れていたからなのか、本来のコンディションとは程遠く、不振にあえぐチームを救うような活躍はできなかった。11月10日の第36節サンフレッチェ広島戦で移籍後初ゴールを決める。

日本代表

各年代のアンダー代表に呼ばれた経験はあるものの、ユース世代では公式戦の出場はAFCアジア選手権2008の1試合のみ。U-22日本代表としては、ロンドンオリンピックアジア最終予選に出場し、マレーシア戦ではゴールを決めているものの、ポジション争いに敗れ、オリンピック本大会ではメンバーから落選。予備登録メンバーとなった。

2011年10月7日キリンチャレンジカップベトナム戦でA代表デビューを果たす。2013年に開催されたEAFF東アジアカップ2013メンバーに選ばれ、2試合にスタメンで出場し日本優勝に貢献するが、その後日本代表に定着することはできなかった。

2015年6月、約2年ぶりに日本代表に招集される。6月11日に行われたイラク戦にて日本代表ゴールを決めた。以降、インテンシティの高さがヴァヒド・ハリルホジッチ監督から評価され、日本代表力に定着する。2016年6月から開催されたロシアワールドカップアジア最終予選では、タイ戦、イラク戦、オーストラリア戦、シリア戦と4試合連続ゴールの活躍を見せる。ちなみに、4試合連続得点W杯最終予選としては日本代表史上初となる記録である。結局最終予選では、全試合に出場しチーム最多の得点数を記録日本の本大会出場に大きく貢献する。

2018年6月ロシアで開催された2018 FIFAワールドカップメンバーに選出。自身のキャリアで初の世界舞台とした際大会となった。大会では右サイドハーフレギュラーとして起用され、豊富な運動量を活かしたアップダウンを繰り返し、攻守両面でグループリーグ突破に貢献。ラウンド16のベルギー戦では、後半2分に柴崎岳スルーパスから抜け出し先制ゴールを決め、日本の決勝トーナメント得点記録。試合は終盤に逆転負けを許したが、初のワールドカップで重要な役割をこなし、存在感を示すこととなった。

森保一監督が就任してからは中島翔哉堂安律の控えになることが多いが、それでもコンスタントに試合に出場し、指揮官からの信頼は得ていた。2019年1月に開催されたAFCアジアカップ2019では、中島が欠場したこともあって左サイドハーフ力を担う。グループリーグ第2戦のオマーン戦では、決勝ゴールとなるPKを決め、準決勝のイラン戦では試合終了間際にダメ押しとなる3点を決めている。大会では、7試合全てに出場し6試合でスタメン起用、チーム2位タイの2得点記録11月におこなわれたカタールワールドカップ2次予選キルギス戦では、FKからの直接ゴールを決めている。ちなみにその1年前の代表戦でも同じキルギスを相手にFKからの直接ゴールを決めている。

2021年9月からの2022 FIFAワールドカップ アジア最終予選初戦のオマーン戦にスタメンとして起用されるが、精を欠き前半のみで交代となる。以降は途中出場でのクローザー役となり、ウニオンベルリンと同じインサイドハーフとしても起用されるようになった。その後もスタメン起用は少ないものの、常連メンバーとしてずっと名を連ねており、ワールドカップ本大会のメンバー入りも有力視されていたが、所属チームで出場機会が減したことと二列の戦力が充実したことで本大会の登録メンバーから落選し、二大会連続でのワールドカップ出場を逃す。

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
2008 浦和レッズ J1リーグ 0 0
2009 浦和レッズ J1リーグ 32 1
2010 浦和レッズ J1リーグ 26 2
2011 浦和レッズ J1リーグ 30 9
2012 浦和レッズ J1リーグ 32 6
2013 浦和レッズ J1リーグ 33 11
2014 浦和レッズ J1リーグ 14 4
2014-15 ヘルタ・ベルリン ブンデスリーガ 21 1
2015-16 ヘルタ・ベルリン ブンデスリーガ 32 2
2016-17 ヘルタ・ベルリン ブンデスリーガ 31 1
2017-18 ヘルタ・ベルリン ブンデスリーガ 7 0
デュッセルドルフ(loam) ツヴァイテリー 13 1
2018-19 ハノーファー ブンデスリーガ 28 0
2019-20 ハノーファー ツヴァイテリー 32 6
2020-21 ハノーファー ツヴァイテリー 34 9
2021-22 ウニオンベルリン ブンデスリーガ 30 2
2022-23 ウニオンベルリン ブンデスリーガ 11 0
シュトゥットガルト ブンデスリーガ 11 0
2023-24 シュトゥットガルト ブンデスリーガ 2 0
2024 浦和レッズ J1リーグ 10 1

個人タイトル

プレースタイル

戦場となるポジションは、左サイドハーフもしくはウイングロシアW杯では右サイドハーフとしてプレーし、浦和時代は1トップセカンドトップストライカーの役割を担っていた。武器は抜群のスピードを活かしたドリブル突破で、浦和時代は強引な仕掛けからゴールを奪う形を得意としていた。

ドイツに渡って以降は、守備への意識が大きく改善され、豊富な運動量と機動力を活かしてサイドで攻守に貢献できるスタイルに変わっている。多くの試合でチームでもトップレベルのスプリント数を記録し、高い位置からの守備だけでなく、自低い位置までしっかり戻りサイドバックかと思わせる位置まで下がって守ることも多い。また、球際の強さも特徴であり、1対1のフィジカルバトルでもり強く対応する。ただし、やり過ぎて不用意なカードを貰うことが多いのが欠点。

30歳を過ぎてからはトップ下やインサイドハーフといった中盤の中央が戦場となっており、守備の強度や上下にアップダウンする走力や運動量が売りの選手へと変貌している。

日本人ウイングで守備意識の高さやデュエルの強さを兼ね備えたタイプは少ないため、希少価値の高い選手となっている。そのためハリルホジッチ以降の歴代の日本代表監督からも重宝されている。

人物・エピソード

2015年9月フリーアナウンサーの香屋ルリコとの結婚を発表。
[1]

山田高橋峻希、濱田永田拓也と共に浦和ユー黄金世代の1人であり、彼らより1つ年下であるが飛び級として同じ2009年トップチームに昇格している。当時の中心選手であった。だが、少年時代から脚を浴びてきたため、何でもを通す性格として知られ、浦和先輩である柏木陽介から「生意気小僧」と呼ばれるほど。教育係を務めた槇野智章も最初はたじろぐほどだったという。

浦和時代は数々の問題行動を起こした悪童としてのイメージが定着。上記のチームメイト岡本拓也を蹴飛ばして怪をさせた事件に加え、2012年前半27分で交代させられたとき、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督に詰め寄り、試合後サポーターへの挨拶もせずに断で帰宅。2013年には練習中に同監督の采配に対して昂し、クーラーボックスを右足で蹴り上げ、練習が中止になっている。

ドイツに行ってからはだいぶ大人になったようで、浦和時代のような問題行動は見られなくなっている。元来の負けず嫌いな性格もいい方向に向いているようである。

関連動画

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関連項目

外部リンク

脚注

  1. *香屋ルリコ、原口元気と結婚 交際3年半「かけがえのない存在」exit - ORICON STYLE
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