山口蛍 単語

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山口蛍Hotaru Yamaguchi, 1990年10月6日 - )とは、日本サッカー選手である。
J1リーグヴィッセル神戸所属。元サッカー日本代表

173cm72kg。ポジションMFボランチ)。利き足は右足。

2013シーズンまでの登録漢字表記は「山口螢」。

概要

三重県名張市出身。豊富な運動量とボール奪取力が持ち味のボランチであり、対人守備の強さには定評がある。守備職人イメージが強いが、ときおり意表を突いたミドルシュートを決めることもある。

セレッソ大阪の下部組織出身であり、下部組織の中心選手として活躍。2009年トップチームに昇格し、2014年キャプテンに選出されるなど中心選手として活躍。当時、柿谷曜一朗や扇原南野拓実ら共に「セレ女」獲得にも貢献している。

2016年1月ドイツハノーファー96へ移籍するも怪でほとんど試合に出れず、わずか半年で海外挑戦は挫折。セレッソに戻った際は「残りのサッカー人生を全てこのクラブとともに歩んでいきたい」と語ったが、2019年にまさかのヴィッセル神戸へ移籍。神戸では世界的名プレイヤーアンドレス・イニエスタチームメイトとなり、天皇杯優勝2023年J1優勝に貢献。

2012年にはロンドンオリンピックに出場。FIFAワールドカップには2014年2018年に二大会連続で出場。長谷部誠遠藤保仁ボランチに君臨していた時代でも存在感を見せている。

経歴

生い立ち

1990年三重県名張市赤目に次男として誕生。「どんな暗闇でも明るいを放ち続けられますように」という願いを込めて『』と名付けられた。幼い頃は2歳上のといつも一緒になって遊び、裏山を駆け回り、水田を供給するための貯池の栓を勝手に抜き、大騒動を起こしたこともあった。

父親社会人チームプレーしていたもあってサッカー興味を持ち、小学3年生のときに地元クラブチームWEST SC」に入団。プレー経験を買われ、父親コーチとして迎え入れられた。当時のポジショントップ下で、ドリブルを得意としており、憧れの選手はロナウジーニョ
小学4年生のときに両離婚したで反抗期になり、ボヤ騒ぎを起こしたこともあった。それでも父親サポートもあってサッカーにまい進する日々を過ごすようになる。

中学になると、セレッソ大阪U-15の入団セレクションに合格。地元の名張市赤目中学校に通いながら、大阪まで電車で片2時間をかけて往復していた。丸祐介とはこの頃からのチームメイト学校との両立に苦しみ、一時期練習に行かなくなった時期もあったそうだが、1年生の終わりにはJFAエリートプログラムの1期生に選出されるなど頭を現していく。

高校生になった2006年にはセレッソ大阪U-18に昇格。この頃は背番号10をつけて攻撃的なMFを務めていた。2008年にはキャプテンも務め、JFAプリンスリーグU-18関西優勝を飾り、自身もリーグMVPに選出され。

セレッソ大阪

2009年に丸と共にトップチームへ昇格。当初は出場機会が限られていたが、5月13日から3か間、ブラジル選手権セリエA・パルメイラスに留学。

2011シーズンからは扇原ダブルボランチを形成し徐々に出場機会を増やす。J1第27節浦和レッズ戦ではプロゴール記録

2012年からはクラブ力として活躍。キム・ボギョン、清武弘嗣といった力の相次ぐ移籍もあってクラブは下位に低迷したが、ファビオ・シンプリシオの加入後は攻撃的ミッドフィールダーとしても起用されるなどユーティリティな活躍を見せ、リーグ戦30試合に出場。

2013年には全にチームの中心の一人となり、「セレ女」と呼ばれる女性ファンの獲得にも貢献。同年代の若いチームメイトが多い中でリーダーシップも見せるようになり、リーグ戦全34試合に出場。チームの4位入りに貢献し、Jリーグベストイレブンにも選出される。

2014年からは名前の登録漢字表記を、山口螢から山口蛍に変更。さらに、自ら志願してキャプテンに就任。しかし8月9日、第19節FC東京戦で負傷退場。右膝外側半月損傷と診断され、戦列を離れるとそのままシーズンが終了。極度の不振に陥ったチームJ2降格となる。シーズン終了後には移籍の話も浮上するが、チームを再びJ1に戻すために残留を決意。

2015年キャプテンとしてチームを牽引するが、2リーグ4位で終え、J1昇格プレーオフ決勝でアビスパ福岡に敗れ、1年でのJ1復帰を逃す。

ハノーファー

2015年12月21日ドイツブンデスリーガハノーファー96へ移籍。ロンドンオリンピックを共に戦った清武弘嗣酒井宏樹チームメイトとなった。しかし、2016年3月サッカー日本代表戦で、左眼窩(がんか)底などを骨折したもあり、6試合しか出場できなかった。チームは降格となった。

セレッソ大阪復帰

2016年6月19日、自ら希望して半年で古巣セレッソ大阪に復帰することを発表。復帰にあたり、残りのサッカー人生を全てこのクラブとともに歩んでいきたい。プレーで返していくしかない」と“生涯セレッソ宣言”でファンクラブへの恩返しを誓う。わずか半年の復帰となったが、J2舞台で奮闘してプレーオフJ1昇格を決める。

2017年からは下部組織時代の背番号でもある「10」を背負う。中心選手としてチームJ1残留、ならびクラブ史上初タイトルとなるルヴァンカップ優勝、さらには天皇杯まで優勝カップ戦二冠獲得に貢献。2013年以来二度となるJリーグベストイレブンに選出される。

2018年キャプテンに復帰。背番号も10番を清武に譲り、かつて慣れしんだ「6」に変更。ホーム終戦の後に行われたセレモニーでは、結果が出ずに解任が決定した監督尹晶煥を思いを流す。

ヴィッセル神戸

2019年、同じ関西J1クラブであるヴィッセル神戸全移籍。かつてドイツが出戻りした際に「生涯セレッソ宣言」したこともあり、当然セレッソサポーターからの反発も大きかった。移籍の理由は明確に話していないが、裏切りの移籍劇としてYouTubeなどでたびたび取り上げられることに。開幕戦でいきなり古巣のセレッソと対戦すると、ボールを持つたびに大ブーイングを受ける異様な空気長居スタジアムは包まれていた。神戸ではアンドレス・イニエスタルーカス・ポドルスキ世界的なスター選手を支える縁の下の力持ちとして重宝され、インターセプト数はJ1リーグトップ記録。翌年1月1日にはクラブタイトルとなる天皇杯優勝を果たしている。

2020年新型コロナウイルスで過密日程になった中で神戸公式戦全試合出場。イニエスタ不在時はキャプテンも務めている。AFCチャンピオンズリーグでは、敗れたもののクラブ初の際大会でベスト4進出に貢献。また、リーグ戦全34試合警告で自身初となるフェアプレー個人賞を受賞。

2021年シーズンレギュラーとして試合に出場し続けるも、9月5日に行われた第24節・広島戦で負傷交代。この怪チームから離脱し、昨シーズンから続いた神戸での公式戦連続出場が途絶えた。11月3日に行われた第34節・仙台戦で途中出場から復帰を果たすと、出場から2分後に勝ち越しゴールを挙げる。

2022年は開幕からチームは極度の不振に陥り、あわやJ2降格の危機に立たされる苦しいシーズンとなる。第34節の横浜F・マリノス戦でJ1通算300試合出場を達成。

2023年大迫勇也へのロングボール体にダイレクトに縦に素ボールを運ぶスタイルに切り替わったチーム戦術の中で、ボールを回収する重要な役割を担う。7月からは退団したイニエスタからチームキャプテンを引き継ぐ。開幕から第30節の鹿島アントラーズ戦まで全試合フル出場を続けていたが、その後の2試合を負傷のため欠場。最後の2試合は途中出場となったが、この年神戸はクラブ史上初のリーグ優勝を果たす。自身にとっても初のリーグ制覇であり、優勝の立役者の一人として各メディアから称賛される。シーズン終了後には、3度となるJリーグベストイレブンに選出される。

2024年シーズンクロ」の名前にちなんで背番号を「96」に変更する。開幕からボランチの中心選手としてハードな守備を見せ、5月3日の第11節名古屋グランパス戦では得意とする左足ダイレクトでのミドルシュートを決め、チームの3連勝に貢献。7月13日の第23節・北海道コンサドーレ札幌戦までほぼ全試合でスタメンフル出場していたが、この試合後に負傷によって1か離脱。復帰直後の8月26日練習中に左膝の靭帯を負傷してしまい今度はシーズン終盤まで離脱。最終節でチームが連覇を決めた直後に今シーズン限りでキャプテンを辞任することを表明する。

日本代表

プロ2年2010年、所属クラブでは出場機会に恵まれなかったものの、広州アジア競技大会に出場するU-21日本代表に選出される。大会では山村和也とダブルボランチを組み、全試合に出場。日本の初の金メダル獲得に貢献する。

このアジア大会での活躍が関塚監督に評価され、以降もロンドンオリンピック代表の中心選手として選出され続ける。2012年にはロンドンオリンピック本大会のメンバーに選出。同じセレッソ大阪プレーする扇原博、清武弘嗣と共に力としてプレーし、過密日程の中でも準決勝までの全試合にフル出場するタフさを発揮。日本ベスト4進出の立役者となる。

2013年7月には、東アジアカップ2013の出場メンバーとしてフル代表に初招集される。7月21日中国戦でA代表デビューを果たすと、全3試合にフル出場。日本の初優勝に貢献し、大会の最優秀選手に選ばれる。この活躍によってアルベルト・ザッケローニ監督の信頼を得るようになり、代表に定着。当時は長谷部誠遠藤保仁ボランチで絶対的な存在だったが、出場機会を増やしていく。

2014年5月2014 FIFAワールドカップブラジル大会のメンバーにも選出。大会では遠藤保仁がコンディション不良だったことで長谷部相棒としてレギュラーを獲得。第1戦のコートジボワール戦と第2戦のギリシャ戦にスタメンで出場。しかし、チームは1勝もできずにグループリーグ敗退に終わる。

ブラジルW杯後、ハビエル・アギーレが代表監督に就任してからは代表に選ばれなくなるが、2015年3月ヴァヒド・ハリルホジッチ監督から招集を受け、3月27日チュニジア戦で9かぶりに代表に復帰。プレーインテンシティにこだわるハリルホジッチ監督からは強度の高い山口スタイルマッチし、ボランチのレギュラーに定着。2015年8月2日東アジアカップ第2戦の韓国戦で代表初ゴールを決める。

2018 FIFAワールドカップアジア予選でも力としてピッチに立ち、W杯出場へ向けて重要な一戦であった2016年10月6日、最終予選のイラク戦では1-1で迎えたアディショナルタイムに劇的な同点のミドルシュートを決め、日本ハリルホジッチ監督を救う値千金の活躍を見せる。

ハリルホジッチが更迭され、西野朗が代表監督に就任したが、2018 FIFAワールドカップロシア大会で二大会連続での出場を果たす。直前に柴崎岳レギュラーを奪われたものの、3試合に出場。第3戦のポーランド戦のみスタメンで出場。ラウンド16のベルギー戦では、試合終了間際に決勝ゴールを奪われた場面での守備対応が批判の的となる(酒井宏樹はこれを否定)。

森保一が代表監督に就任してからは代表から遠ざかり、2019年11月に復帰したが、以降は呼ばれていない。山口自身も「も、もういいです。個人的にはクラブでしっかりやりたいという思いが強い」と話している。

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
2009 セレッソ大阪 J2リーグ 3 0
2010 セレッソ大阪 J1リーグ 2 0
2011 セレッソ大阪 J1リーグ 17 1
2012 セレッソ大阪 J1リーグ 30 2
2013 セレッソ大阪 J1リーグ 34 6
2014 セレッソ大阪 J1リーグ 19 1
2015 セレッソ大阪 J2リーグ 35 1
2015-16 ハノーファー ブンデスリーガ 35 1
2016 セレッソ大阪 J2リーグ 20 1
2017 セレッソ大阪 J1リーグ 32 2
2018 セレッソ大阪 J1リーグ 33 0
2019 ヴィッセル神戸 J1リーグ 34 3
2020 ヴィッセル神戸 J1リーグ 34 6
2021 ヴィッセル神戸 J1リーグ 32 5
2022 ヴィッセル神戸 J1リーグ 33 2
2023 ヴィッセル神戸 J1リーグ 32 4
2024 ヴィッセル神戸 J1リーグ 27 3

個人タイトル

プレースタイル

足の速さと豊富な運動量を併せ持つ中盤のハードワーカーでありダイナモとも表現される。ボランチが本職であるがMFポジションであれば基本的にどこでもこなせるユーティリティープレーヤーでもある。

足下の技術はさほど高いわけではないが、フィジカルの強さと強度の強い当たりを武器としたボール奪取力が最大の武器であり、タイトマークと鋭い危険察知力で相手のチャンスの芽を摘む守備職人。また、ボール奪取からの攻撃参加も持ち味としており、思い切ったミドルシュートを決めるなど得点力もある。

ボランチとしてピッチに立っている時は、隣でコンビを組む選手にどれだけプレーしやすい環境を作ってあげられるかということを常に考えている縁の下の力持ち。チームチームメートのことを第一に考え、その上で勝利を手にするほうが充実感が得られるタイプである。

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