齋藤学(1990年4月4日 - )とは、日本のサッカー選手である。
J3リーグのアスルクラロ沼津所属。元サッカー日本代表。
通称“エヒメッシカモメッシ”
神奈川県川崎市出身。小学生の頃からマリノスの下部組織に所属し、2007年にはU-17日本代表としてワールドカップに出場。2008年には2種登録ながらリーグ戦7試合に出場した。翌2009年にトップチームに昇格するも、09-10年まではリーグ戦17試合出場・0ゴールと伸び悩んでいた。
2011年、J2・愛媛FCに期限付き移籍で加入すると、第1節・コンサドーレ札幌戦で早速1アシストを決める活躍を見せた。その後もコンスタントに得点を決め、8月10日にはU-23日本代表としてエジプトとの親善試合に出場(愛媛FC所属選手として初の代表入りである)。最終的にはリーグ戦36試合出場・14ゴール(J2得点ランキング同率3位・もう1人はジェフの深井正樹)を記録した。
2012年に横浜F・マリノスに復帰。「J1初ゴールを決めたい」と目標を定め、3月11日の第1節・柏レイソル戦で早くも目標を達成。同年のロンドンオリンピック日本代表にも選出され、予選のマレーシア戦で代表初ゴールを記録した。オリンピック本戦には日本代表全6試合中5試合に出場し、存在感を発揮した。この年はリーグ戦29試合出場・6ゴールであった。
2013年には東アジアカップ日本代表に選出され、初のA代表入りを果たす(ちなみに、同じく選ばれた高萩洋次郎・森脇良太も愛媛FCに所属経験がある。あとは菅沼実が選ばれれば・・・)。7月21日の中国戦で途中出場の形でA代表デビューすると、続く25日のオーストラリア戦でA代表初ゴールを決めた。この年のナビスコカップではニューヒーロー賞を受賞。
2014年は開幕前にVfLヴォルフスブルクからオファーが届くも、マリノスに残留。5月には2014 FIFAワールドカップの本大会メンバーに選出される。しかし大会での出場機会は訪れなかった。
2015年にはすっかりチームの崩しの切り札となり、ゴール数もこれまでより増加。2016年シーズンはさらに進化を遂げ、不振に陥るチームの中でキャリア初の二桁得点に到達。チームのリーグ戦の成績は7位と冴えないものだったが、初めてJリーグ年間ベストイレブンに選出されるキャリアハイのシーズンとなった。
2017年は海外移籍を目指すも実現せず、チームキャンプには練習生として参加。2月にクラブと正式に契約を更新し、退団した中村俊輔の付けていた10番を継承し、さらにキャプテンにも任命され、名実ともにチームの顔となる。だが、この年はアシストは記録していたもののゴールが遠く、リーグ戦初ゴールは9月16日の第26節柏レイソル戦まで待たなければならなかった。しかもその試合の直後に右膝前十字靭帯損傷により全治8カ月の見込みと診断され、シーズンが終了する。
2018年1月18日、川崎フロンターレへの完全移籍が電撃的に発表される。昨季は10番をキャプテンとして背負いながらも、怪我で試合になかなか出られていなかった事や、契約期間が満了し移籍金(違約金)がかからない事、移籍先がライバルチームであり前年優勝した川崎だった事などが理由で横浜FMのサポーターから批判される。さらに本人がSNSで「何を言われてもしょうがない。そう思っていましたが、今までマリノスの選手として闘ってきたこと。これだけは否定されたくない」とコメントしたことでさらに炎上してしまう。この移籍劇はJリーグを代表する裏切りの移籍として後々にも取り上げられることになる。
川崎への移籍後は怪我の後遺症に苦しみコンディションがなかなか整わず、ポジションをなかなか掴めずにいた。さらに2019年8月にまたも右膝靭帯損傷により戦線を離脱。黄金期を迎えていたチームの中でなかなか中心になることができずにいた。
2020年は怪我から復帰したものの、三笘薫の台頭もあってチーム内での立場は完全に揺らいでいた。それでも腐らず練習に取り組んだ姿勢が鬼木達監督に認められ、後半戦に出場機会を得られるようになると、11月25日の第29節・G大阪戦では後半の終盤に途中出場して、川崎のJ1史上最速優勝を決定づける決勝ゴールを決める。この年は結果的に移籍後最多となる25試合に出場している。
2021年、出場機会を求めて名古屋グランパスに移籍。しかしここでもポジション争いで劣勢となり、加入1年目は25試合に出場したものの、長谷川健太監督が就任した2022年にはほぼ構想外の扱いになる。
2022年6月30日、韓国・Kリーグの水原三星ブルーウィングスへ完全移籍。欧州ではないが、自身初の海外移籍となった。しかい、初めての海外挑戦で生活習慣を崩してしまい、メンタル面でも不調を抱え、わずか半年で退団となる。
2023年1月、オーストラリア・Aリーグのニューカッスル・ユナイテッド・ジェッツFCへ半年間の契約で移籍するが、目立った活躍はできずに5月で契約満了により退団。
2023年7月31日、J2リーグのベガルタ仙台へ移籍。12試合に出場したが無得点に終わり、またも半年で契約満了により退団となる。
2024年2月22日、中山雅史監督が率いるJ3リーグのアスルクラロ沼津へ移籍。ほとんど途中出場だったとはスーパーサブとしての起用が定着し、リーグ戦34試合に出場。2得点を決めている。
ハーフタイムには「足が止まったほうが負けるゲームだ」と言って送り出した。
攻撃面では止まらなかったが、守備面では少し足が止まってしまった。
最後は愛媛のメッシにやられた、という感じです。
2011年5月8日、平塚競技場(現:Shonan BMWスタジアム平塚)にてJ2第11節・湘南ベルマーレ対愛媛FC戦が行われた。後半14分、高山薫のゴールで湘南が先制するが、42分、福田健二からボールを受けた齋藤は、そのまま相手DF3人をドリブルでかわし同点ゴールを決めた(結果は1-1のドロー)。そして試合後、湘南の監督である反町康治が語ったのが上記のコメントである。その後、「愛媛のメッシ=略して“エヒメッシ”」という名称が定着した。なお翌年のマリノス復帰後は、“カモメッシ”と呼ばれている。
掲示板
3 ななしのよっしん
2014/01/15(水) 02:10:50 ID: fzQL9VI/S9
掛布の手首を壊した人だな
4 ななしのよっしん
2014/05/16(金) 17:53:38 ID: i+CY1AfV2i
エヒメッシに訂正線入ってるけど、本人はエヒメッシが公認でハマの~とかカモメッシでは嫌って言ってるんだからエヒメッシにしてあげなよ。
5 ななしのよっしん
2017/03/09(木) 07:21:53 ID: gzykdOChN5
ロンドン五輪の時の齋藤の年収400万。
あれから5年後にマリノスのキャプテン。
試合見てても完全に中心選手。
俊輔がいなくなってよりドリブル、やわらかいパスセンスが目立つようになった。チームメートがゴールしたら駆けつけて一緒に喜び連帯感を生む努力。ディフェンス時は鬼チェイス。
開幕2試合はまさに10番にふさわしいプレー。こんな未来想像しなかった笑
今シーズン、Jを見る楽しみが出来た。
急上昇ワード改
最終更新:2025/01/11(土) 05:00
最終更新:2025/01/11(土) 05:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。