トルコ 単語

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トルコ

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トルコとは、以下をす。

  1. 狭義のトルコ、特にトルコ共和国。日常ではこの意味で使われることが多い。本項で解説
  2. オスマン帝国過去にはオスマン・トルコとも。当時は世界中で単にトルコと言えばここをした。(例:トルコ行進曲
  3. 広義のトルコ。1の意味と区別するときなどテュルクとして書き分けされることがある。→テュルク
  4. 風俗店をトルコ風呂。トルコ嬢。中東風呂イメージすり店をそう呼んだものの転化。現在は「ソープランド」に名称変更。

トルコ共和国西アジアにあるである。オスマン帝国の後裔ので、1923年にトルコ共和国が建され現在に至る。

概要

基本データ
正式名称 トルコ共和国
Türkiye Cumhuriyeti
国旗
国歌 独立行進曲exit_nicovideo
チューリップ
キアカツグミ
公用語 トルコ語
首都 アンカラ(Ankara
面積 780,580km2世界第36位)
人口 約8,081万人(世界第16位)
通貨 トルコ・リラ[1]

正式な名は「トルコ共和国」。漢字表記は土耳古で、と略される。

面積日本の約2倍、人口は日本の2/3ほど。

黒海地中海に挟まれたアナトリア半島、およびバルカン半島東端のトラキア地方を領土とし、地勢的定義におけるアジアヨーロッパにまたがる。

国際連合による区分では西アジアに属し、イスラム教であることや地理的な要因から中近東の一と受け止められることが多い一方、近年では経済政治の面からヨーロッパとして扱われる場合がある。具体的には、北大西洋条約機構NATO)加盟であるほか、現在欧州連合EU)への加盟を申請している。またスポーツ団体では欧州サッカー連盟UEFA)、欧州オリンピック委員会(EOC)などのヨーロッパ側の団体に所属している。なおトルコ政府独立後ほぼ一貫して欧化、西洋化をしている。

民の98%イスラム教スンナ派を信仰する。

2014年レジェップ・タイイップ・エルドアンが第12代大統領に就任して以来、強権政治イスラム教への強い回帰・ロシアによるクリミア併合への承認など、従来のEU民主主義寄り路線からいくらか距離を置くようになっている。2016年には軍部のクーデターが起きるもこれを鎮圧し、政府要職にエルドアンの息のかかった者を名するなど、どんどん(半)独裁国家へのを歩んでいる。

歴史

現在のトルコ共和国の領域の大部分は歴史的にはアジア(小アジア)やアナトリアと呼ばれる地域にあたる。

古代この地域はオリエントの一部として栄え、とくに最初の器文明とされるヒッタイト盛する。前1200年頃ヒッタイトの崩壊からカタストロフが始まると替わってフリギアリディアが栄え、これはギリシア文化に大いにを与えた。前550年頃になるとメディアを滅ぼしたアケメネスの支配下に入り、逆に前330年からアレクサンドロス3世率いるマケドニアオリエントを支配、このときアナトリアもヘレニズム文化の領域に組み込まれる。さらには巨大化した共和制ローマが強くなり、いくつかの属州としてローマの支配下に入る。以後、政への転換、ローマ市民権獲得、新首都コンスタンチノープルの建設、キリスト教盛と教化、東西分割統治、西ローマの滅亡などを経て、ローマ帝国東ローマ帝国ビザチン)はギリシア化し、ギリシア語キリスト教(正教)、ローマ人の地となった。

一方で、現在テュルク系トルコ人の容姿はコーカソイド(いわゆる白色人種)だが、その祖先筋はモンゴル高原から出てきており、近隣に分布していたモンゴル民族と似たような容姿のモンゴロイド(いわゆる黄色人種)の遊牧民族であったと考えられている。テュルク民族中央アジアを通りウクライナペルシアまで広がり、先にそこにいたペルシア民族などのコーカソイドとの混合・吸収が起きた。ペルシアの北、現在トルクメニスタンにいた氏族は11世紀ペルシアに入り、ペルシアシリア、そして東ローマ領だったアナトリアを支配した(セルジューク)。セルジュークは全体としては長く続かなかったが、ルーム・セルジュークローマセルジュークの意味)はしばらく安定を保ったため、モンゴル帝国の拡大から逃れたテュルク民族が流入する。これによりアナトリアテュルク化が始まった。

その後の動乱期の後オスマンとその子孫が大帝国を築き上げる(オスマン帝国)。 この多民族帝国は東ローマを滅ぼし長く栄を誇ったが、次第に欧州に対して劣勢となる。最終的に第一次大戦の敗戦処理中の各の思惑のからんだ複雑な動乱の中で、アタテュルクの軍が導権を握り、議会でスルタン=カリフの分離、スルタンの位を決定。領土の大部分を失ったオスマン帝国の残り部分はそのままトルコ共和国に取って代わられる。これをトルコ革命、あるいはトルコ独立と呼ぶ。このときギリシャ共和国との間のが確定する。しかしこの時点でセルジュークから800年ほどたっており、またオスマン時代は多民族が当たり前であり、新しいギリシャ国とトルコ国家の領域には言語も宗教も多様な要素を持つ人が混在していた。そのため、当時の国家を形成すべきという観点から何がトルコ人で何がギリシャ人なのかを決定する必要があり、イスラーム教徒と正教徒でざっくりとわけて大規模な住民交換が行われた(たとえばギリシア語を話していてもイスラーム教徒ならトルコ人としてギリシャ側からトルコへ、トルコ語を話しても正教徒ならギリシャ人としてトルコ側からギリシャへ移住させた)。

第二次大戦までは中立義をとる。第二次大戦中もドイツと不可侵条約を結ぶなど中立を保つが、1945年枢軸国に宣戦。ドイツとは3ヶ日本とは6ヶの"戦争"を戦う。終戦まではややソであったが戦後NATO加盟の他、1960年代からEU(当時はEC)加盟の議論が始まるなど西側に転換している。イスラエルとも08年ごろまでは友好的な関係を築いていた(ガザへの人支援拿捕以降特に悪化している)。

EU加盟については当初は87年に加盟になるはずだったものが、1999年にようやく加盟になって以降議論は続いているものの停滞している。トルコ民を形成するうち、いままでに述べたトルコ人の他、トルコ民にはギリシャ人、クルド人などの少数民族がおり、これに対する保護が薄いこと、度々の軍事クーデターなどがEU加盟の足を引っっている。

文化

古くはヒッタイトからギリシアローマオスマンなど様々な文明・文化開き、かつ東西から人が行き来する要衝の地であったため、東西の文化が混交しており、独特の文化が存在する。

オスマン時代に宮廷で使われたオスマン語は元となったテュルク語に加え歴史的にペルシア語アラビア語、土地的にギリシャ語ブルガリア語、また西欧化のお手本としたフランスフランス語からの借用語を多く含んでおり、トルコ人のための国家の言語としてふさわしくないと判断された。そのため、内の方言や他のテュルク系言語などを参考にして言語の純化を行い、トルコ語が制定された。しかし、いまでも名前などはギリシャ語由来の名前で呼ばれる。彼らは移住してきた遊牧民であり、その名前を持たなかったためである。

トルコのローマ遺跡アフロディシアスの神殿跡列柱

トルコ東部はチューリップの原産地でもある。10世紀頃から栽培が始まり、16世紀にはオランダへ伝来。そして世界へと広まった。現在、トルコのや、トルコ航空シンボルチューリップである。

トルコ共和国憲法では、政教分離の条文は変更不可と規定されている。そのためかイスラーム教徒の多い国家としてはが厳しくない。ジーンズをはいたり、スカーフをしない女性普通に町を歩き、中では普通も売っており、まるでヨーロッパのような印を受けるが、21世紀に入りイスラム回帰運動が活発になると、自的にスカーフを身につけたり、イスラムの教えを掲げる政治家や実業力を強めてきている。現在は、トルコ共和国憲法政教分離の文言をめぐって論争が起きている。

日本では染みが薄いが、トルコ料理フランス料理中華料理とともに世界三大料理に数えられる。中央アジア由来のトルコの伝統料理と、ギリシャシリアなど東西の料理が混じりあい独自の発展を遂げたトルコ料理は、近隣諸の食文化にもを与えている。トルコ料理は味付けが濃い。特に羊肉で作られたケバブなどは独特なクセがあり、好き嫌いがはっきり分かれる。あまり知られていないが、オリーブの生産量はスペインに次いで世界2位。なお、日本で古くからしまれてきた「シシカバブ」はインド料理であり、近年屋台などで見られるようになったトルコ料理の「シシュ・ケバブ」は由来は同じだが調理法は異なる別の料理である。イスタンブールの定番展望ポイント ガラタ塔からアヤソフィア、ブルーモスク(スルタンアハメドモスク)を望む。 手前が金角湾向こうがマルマラ海。

トルコ内の治安は、イスタンブールの大都市や、イラクイランがある東部地帯を除くと良好で、スリに遭う危険性はヨーロッパべると少ない。その代わり、と言っては何だが一番気をつけて欲しいのが交通事故である。トルコの交通事故発生率は周辺諸べてずば抜けて高い。日本のように歩行者横断歩道い箇所の大通りを渡ったり、信号すれすれの横断歩道を渡ることはほぼ自殺行為である。信号を渡るときでもしっかり左右を見て横断しましょう。

経済

トルコ イスタンブール ガラタ塔から見たボスポラス海峡方面イスタンブール周辺はヨーロッパアジアを繋ぐ陸上の中継地点の他、黒海から地中海へ抜ける一の峡があるため、古くから交通の要所として発展してきた。ヨーロッパ(東部)側は文化的にも発展しており、労働賃金EUべて安いので、近代的な工業や観光業、外資系なども強いのだが、アジア(南東部)側の大部分は現在でも農業力となっている。そのため、内の地域格差がしい。近年では、などの重工業も発達してきている。要な貿易相手ドイツ。

また、人口は日本の2/3程度だが、ヨーロッパではドイツに匹敵する規模で中東では随一(2017年ごろにドイツにほぼ追いついた)。新たな市場や労働力として注を集めている。2001年に悪化した経済が持ち直し着実に成長を続けていたが、2008年の金融危機で急減速。失業率の増大や、輸出の悪化に頭を悩ませている。その為にも、EU加盟がめられている。

国際関係

第1次世界大戦において、オスマン帝国ドイツと手を組み敗戦。1923年オスマン帝国が崩壊すると、トルコ共和国が成立。第2次世界大戦では戦闘に関わらず、ドイツからの参戦要請も突っぱねた。他の中立国家と同様大勢が決した1945年1月に対日断交、2月に対独対日宣戦している。ただしアメリカの圧力で渋々対日宣戦布告したに過ぎず、内では反対デモが発生。終戦まで日本軍に対し軍事行動を取る事はかった。

現在EUへの加盟が現在のわかりやすい国家標になっている。しかし、トルコが加盟するにはいくつか問題が上がっていて、それに対してEU加盟の半分が反対している状態だ。

まず1つは、キリスト教国家だけで構成されているEU内に、イスラム教文化国家が誕生する事への不安。2つめは、トルコと隣接しているイランイラクを代表する中東の紛争地帯とダイレクトに繋がってしまい、トルコから、イラクシリアイランなどにまたがる、世界最大の独自国家を持たない民族であるクルド人の問題などの人的問題や、難民問題と直接対峙しなければならないという事。3つめはトルコや・トルコを経由してくる中東からの移民問題である。

北キプロスの砦その上、すでにEUに加盟しているギリシャキプロスとは歴史的に仲が悪く未だにキプロス舞台に紛争状態にある。したがって、その問題解決をする事が加入に必要な条件にもなる。そのため、トルコは歩み寄りを進めているが、キプロス住民側の感情や、際的に重要な地域を失うわけでもあり事態はあまり好転していない。

また、アルメニアとも150200万人にも及ぶといわれているアルメニア人虐殺事件についての歴史認識で対立している。こちらは2009年10月立の調印が押されたが、調印式でトラブルが起こるなど、住民感情がそれに追いつくのはまだ先のようである。

また、トルコ内部からもEUに加盟する事に対しての文化面での不安が出ているなど、交渉は長引きそうだ。

そして、隣接するイラクシリアイランなどとの関係もアメリカとの関係上重要になってきている。

また、ヨーロッパにトルコ人の移民が合法・違法問わず増えており、低所得の仕事が独占されたり現地の子供逆差別にあうという事件も起きている。

国家トルコは独立に際して汎テュルク義ではなくアナトリアのトルコ人だけによるトルコ民族義をとったが、ソ連崩壊後は他のテュルク国家と関係を深め、テュルク議会に参加している。

日土関係

対日感情は非常に良好であり、世界でまれに見る親日国家である。トルコの対日感情の形成は、オスマン帝国時代末期である。日本では明治時代の頃で、欧や中べて較的歴史は浅いが友好関係は深い。

19世紀のオスマン帝国はかつての栄から衰退のを進んでいた。

1890年、日本和歌山県で、オスマン海軍エルトゥールル号が、台風により沈没した。このとき、大島現在串本町)の村人が、台風による暴にも関わらず長から子供まで総出で救助活動をし、それにより69名の乗組員が救助され、帝国海軍の手によって、オスマン帝国まで送り届けられた。この献身的な活動が新聞により報じられトルコの人々の対日感情に大きくし、これが起点となりトルコの人々の対日感情は非常によいものとなった。

1904年、日露戦争が勃発。ロシアは「クリミア戦争」でトルコとも戦争を続けていたため、日本日露戦争勝利したと伝えられると、トルコ人は「同じアジア民族として大変嬉しい」と歓喜。トルコ人の間では、その年に生まれた子供に「トーゴー(当時の日本海軍大将東郷平八郎苗字)」と名付けるが続出した。

1985年イランイラク戦争の泥沼化により、当時のイラク大統領であったサダム(故人)は次のような明を布した。

「48時間の猶予期限以降にイランを飛ぶ航空機は、差別に攻撃する」

この明により、イラク駐在・在住の外国人パニックになり、各は、自民の救出のため救援機をとばした。しかし、日本憲法9条の制約により自衛隊による救援ができず、民間で救援機を出すことを決意した日本航空労働組合の反対や前記期日までの脱出が困難であることを理由に実現しなかった。これにより、日本国では、邦人200名以上の救出は事実不可能になり、日本政府は、各にたいして邦人の救出を依頼したが、多くのが自民で手一杯で、断られた。

そんな中トルコ大使館に依頼したところ、当時のトルコ大使であるビルセル大使

「わかりました。ただちに本め、救援機を派遣させましょう。トルコ人ならだれもが、エルトゥールル号遭難の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきましょうとも」

と答え、本に連絡し、チャータ便の最終便を2便増やし、邦人を救出してくれた。このとき、トルコ側は、日本人を優先的に飛行機に搭乗させてくれたらしく、500人以上のトルコの人々が飛行機に乗れず、陸路からトルコ本へ脱出した。

2006年、当時の内閣総理大臣小泉純一郎はトルコを訪問した際に当時の機長と会うことを要望し実現させ、感謝の意向を伝えた。

2010年エルトゥールル号沈没から120年の節にあたり、「トルコ・日本の友好年」として、日本人観光客が訪れる場所(宝石店・絨毯店など)ではトルコ語日本語を併記したポスターが貼ってある。

注意

当然のことだが、トルコ全員親日というわけではない。かなりの遠なので、そもそも大多数の民は日本のことをよく知らない。ほとんどの日本人がトルコのことをよく知らないのと同様である。日本をよく知りかつ日本に好意的なのは、せいぜい政府の知日日本語を話せる旅行ガイドや、日本への留学生くらいに限られる。

旅行に行くときは注意が必要である。親日と言われてるからといってのん気に歩いていればスリ詐欺キャッチのカモになる。

柏崎市ケマル・アタテュルク像問題

トルコのであるケマル・アタテュルクの像が柏崎市野ざらしになっていた問題。詳細は→http://www19.atwiki.jp/torco/pages/1.htmlexit

現在は署名活動が行われていたが2010年4月に終了。→http://www.shomei.tv/project-932.htmlexit (現在この像は、和歌山県に移設された)

トルコの対日感情が悪化したと思った日本人がいたが、下記ブログではトルコの大手新聞社のWebサイトの記事および、それに寄せられたトルコ人のコメント翻訳した上で、悪化はしていないと述べている。
合わせて参照されたい。
“アタテュルク銅像事件”はトルコに反日感情をもたらしたのか?(1) - 歐亞茶房(ユーラシアのチャイハナ) exit
“アタテュルク銅像事件”はトルコに反日感情をもたらしたのか?(まとめ・前編) - 歐亞茶房(ユーラシアのチャイハナ) exit

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関連項目

脚注

  1. *TL・2009年に新トルコ・リラ「YTL」から改称
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