冨安健洋(とみやす たけひろ)とは福岡県福岡市出身のプロサッカー選手である。
イングランド・プレミアリーグのアーセナルFC所属。サッカー日本代表。
ポジションはDF、MF。主にセンターバック、左右のサイドバックとしてプレー。
アーセナルFC #18 | |
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冨安健洋 | |
基本情報 | |
出身地 | 福岡県福岡市 |
生年月日 | 1998年11月5日 |
身長 | 189cm |
体重 | 84kg |
選手情報 | |
利き足 | 両足 |
ポジション | DF/MF |
学歴 | |
選手経歴 | |
サッカー選手テンプレート |
2021年からイングランドの名門アーセナルに移籍し、主力として活躍する日本人歴代最高の呼び声も高いDFである。日本人離れした高いフィジカルを活かした対人守備や幅広いエリアをカバーできるだけのスピード、足下の技術の高さによるビルドアップ能力、戦術理解力の高さと現代のDFに要求される能力を高水準で持ち合わせる近代的なプレイヤーと言われ、世界的に見ても希少価値の高い選手である。
メインポジションはセンターバックだが、所属クラブではサイドバック(左右両方とも)が主戦場となっており、ボランチでもプレーできるユーティリティプレイヤーでもある。
アビスパ福岡の下部組織出身。幼い頃からすでに頭角を現しており、2018年1月に19歳で海外へ移籍。イタリア・セリエAのボローニャでチームに欠かせないキープレイヤーとなり、アーセナルでもミケル・アルテタ監督から戦術のキーパーソンとして絶大な信頼を寄せられる重要な選手となる。
日本代表には2018年10月にデビューし、あっという間に若くして日本の守備の要に定着。吉田麻也と構成する最終ラインは代表でも歴代最強と評され、2022 FIFAワールドカップにも出場。
一方で怪我の多さが欠点となっており、毎シーズンどこかで故障離脱してしまうことがキャリアの足枷となっている。2022年のワールドカップも故障を抱えていたことから本来のスペックを完全に発揮できたわけではなかった。
福岡県福岡市で姉2人がいる3番目の子どもとして生まれる。父親は野球と剣道をやっており、母親は元陸上選手であり、運動能力の高さは両親のDNAによるものでもある。末っ子ということもあり、両親はゆったりとした気持ちで息子に接しようとし、具体的な教育方針は持たずに基本的に自主性に任せていた。
サッカーと出会ったのは幼稚園年中の頃だった。当初は、姉二人がやっていた水泳を習う予定だったが、祖母の家のランニングマシーンで遊んでいた際に顎を負傷。水泳ができなくなった代わりに全国規模で幼児教育を手掛けるコスモサッカークラブのサッカー教室に入ることになり、そこでボールを蹴るのが楽しくなって、本格的にサッカーを始めることになる。
小学1年生のとき、学校の少年団である三筑キッカーズに入団する。このとき、三築キッカーズの総監督が目を見張るスピードで走る冨安の姿を目撃し、知り合いを介して両親にチームに入るように依頼したという逸話がある。抜群の走力と高い運動能力によって実力をつけ、小学4年生のときには小学6年生の公式戦にコンスタントに出場していた。11歳のときに2009年に開校したバルセロナスクール博多にコーチの薦めもあって週2回通うようになる。ここでも高い潜在能力が評価され、小学生をスペインに連れていくことは難しいということで話は立ち消えになったがFCバルセロナへ推薦されるほどだった。当時のポジションはボランチがメインだったが、小5になるとCBでもプレーするようになり、小6のときにナショナルトレセンに選出され、将来有望なサッカー選手として関係者からの知名度をあげる。また、この時期にバルサスクールの一員としてスペイン遠征に参加し、この頃から海外志向が強くなったという。
中学入学と同時にアビスパ福岡のジュニアユースに入団。すでに同年代の子と比べて体格に恵まれていたことから中学1年から2年まではセンターバックがメインポジションとなり、中3からはDFとボランチの両方を担うようになり、守備の万能さに磨きをかける。中学時代というのは学業や私生活も含めて揺れ動く頃だが、冨安には反抗期や精神面の不安定さも一切なく、監督から言われたことを心に刻み付けて真面目にサッカーに取り組んでいた。そのため各学年のチームでキャプテンを任され、中学3年生になると飛び級でトップチームの練習に参加。この時期にU-15日本代表にも選出されており、関係者からは将来の日本サッカーをしょって立つ逸材と見られていた。
高校に進学した2014年春には順調にU-18チームに昇格。高校2年生となった2015年5月19日、アビスパ福岡に2種登録される。同年10月の天皇杯3回戦のFC町田ゼルビア戦で、高校2年生の時に公式戦デビューを果たし、アビスパ福岡クラブ史上初の高校生Jリーガーとなった。
高校3年時(2016年)には高校卒業を待たずにアビスパ福岡のトップチームに昇格。九州高校に通っていたが、プロ契約が決まったことで通信制の高校に転校する。7月13日、J1リーグ2ndステージ第3節のFC東京戦でスタメンに抜擢され、17歳にしてプロデビューを果たす。このときのポジションはボランチだった。その後も結果を残しCBとボランチの二刀流でレギュラーに定着、リーグ戦に10試合に出場した。チームは1年でJ2降格となるが、プロとしての第一歩を踏み出したシーズンとなった。
J2リーグで戦うこととなった2017年にはチーム内での存在感がさらに増し、開幕からレギュラーとしてプレー。3月19日のJ2第2節ロアッソ熊本戦ではプロ入り初ゴールを決める。リーグ戦35試合出場で1得点、チームのリーグ最小失点タイ(36失点)に貢献するなど、ディフェンスラインの中心選手として活躍した。この年チームはシーズンを4位で終え、12月3日のJ1昇格プレーオフ決勝まで進んでいく。3位名古屋グランパスとの対戦では左足首が疲労骨折しているなかでフル出場し、無失点に抑えるが、0-0の引き分けで終えたため1年での昇格は果たせなかった。
シーズン終了後、この年におこなわれたU-20ワールドカップでの活躍が認められ、複数のJ1の強豪クラブから獲得オファーがあったものの、本人の強い海外志向によりベルギー1部リーグのシント=トロイデンVVへ完全移籍で移籍。移籍金は億単位だといわれている。
2018年1月8日にシント=トロイデンVV加入を正式発表。背番号は「3」。同年5月13日、プレーオフ9節のロイヤル・アントワープFC戦で移籍後初出場を果たすが、1年目での公式戦出場時間はわずか1分のみとなった。
2018-19年シーズンは、7月18日に行われた開幕戦のサークル・ブルッヘ戦でフル出場でリーグ戦初出場を果たすとその後センターバックのレギュラーとして定着。第16節のRSCアンデルレヒト戦では移籍後初得点を決める。冬にはドイツのヘルタ・ブレーメンから移籍金8億円で獲得オファーを受けるが、クラブ側はこれを拒否している。マーク・ブライス監督から「トミヤスはベルギーのレベルを超越している」「トミはベルギーで最高のタレントだ」と評されるほど目覚ましいレベルで成長を遂げていき、リーグ戦に27試合に出場し1得点を記録。クラブサポーター団体から最優秀選手に選出されるなど、海外での2年目にして大きく飛躍したシーズンとなり、シーズン後冨安の市場価値は加入時の12倍にまで膨れ上がったとされている。
2019年7月9日、イタリア・セリエAのボローニャFCへの完全移籍が発表された。背番号は「14」。
近年は欧州4大リーグの中ではやや格下に位置付けられているセリエAの常連の中では下位に属するクラブであるが、ことディフェンスには一家言あるイタリアに20歳の日本人DFが乗り込むというのは少なからず特別な意味合いがあった。
8月10日、親善試合のビジャレアルCF戦でヘディング弾でアピールすると、8月18日、コパ・イタリア3回戦のACピサ1909戦でイタリアでの公式戦デビュー、8月25日セリエA開幕戦のエラス・ヴェローナFC戦で右サイドバックとしてリーグ戦デビューを果たした。その後も、怪我で一時戦列を離れたものの、試合をこなすごとに最終ラインに欠かせない存在となり、辛口で知られるイタリアのメディアからも高く評価される。12月15日セリエA第16節アタランタBC戦にて移籍後初アシストを記録。2020年7月18日のセリエA第34節のACミラン戦では、左足でのミドルシュートを決め、セリエA初ゴールを記録。シーズン終盤に負傷して離脱したものの、リーグ戦中断明けの過密スケジュールの中でずっと出場し続けるなど、シーズンを通して主力として活躍。辛口で知られるイタリアメディアからも1年間の活躍を高く評価され、ビッグクラブへの移籍話も取り沙汰されるようになった。
2年目となった2020-2021シーズンは、開幕から本職であるセンターバックで起用される。移籍期間にACミランから正式な獲得オファーを受けるが、ボローニャ側が提示した移籍金の折り合いがつかず、引き続きボローニャでプレーすることになる。チームは前のシーズンから42試合連続で失点していたが、2020年11月29日のクロトーネ戦でクリーンシート達成に貢献し、不名誉な記録を終わらせる。12月23日のセリエA第14節アタランタBC戦では久々に右SBで起用されると、技ありのチップキックシュートを決める。2021年1月24日の第19節ユヴェントス戦ではチームは敗れたものの、CBと右SBの2つのポジションでプレーしながらクリスティアーノ・ロナウドを抑え込んでみせる。シーズン前半戦時点でクリア数とボール奪取数でリーグ1位のスタッツを記録。第23節の時点でセリエAで唯一全試合フルタイム出場を続けるフィールドプレイヤーとなっていたが、右ふくらはぎの負傷のため第24節のラツィオ戦を欠場し記録が途絶える。ボローニャのセリエA残留に貢献したことで評価はさらに高まることとなった。
2021年の夏にはアタランタ、トッテナムと国内外の強豪2クラブが獲得に乗り出したが交渉が成立せず、このままボローニャに残留するとも見られていたが、移籍期限最終日の8月31日、イングランド・プレミアリーグのアーセナルFCへ移籍することが発表される。背番号は「18」。移籍金はおよそ26億円。
2021年9月11日、プレミアリーグ第4節ノリッジ戦において、日本代表に呼ばれていたこともありチームの練習に1日しか参加できなかったにも関わらずスタメンに抜擢され、プレミアリーグデビューを果たす。右サイドバックとして定位置を掴むと、プレミアリーグ第6節トッテナムとのノース・ロンドンダービー(トッテナムとの関係は前述の通りであるため、「冨安獲得ダービー」とも化していた)でマッチアップするアジア最高峰にしてプレミア最高峰のアタッカー、ソン・フンミンを抑えるなど勝利に大きく貢献。ファンが選ぶMOMと英紙による第6節のベストイレブンに選出される。冨安がレギュラーに定着してからのアーセナルは開幕3連敗とどん底だった状況から息を吹き返し、英国メディアからの評価が日増しに高くなる。11月27日、プレミアリーグ第13節ニューカッスル戦では絶妙なループパスでプレミアリーグでの初アシストを記録。アルテタ監督からの信頼を得たことで不動の右SBとして評価を高めていくが、2022年1月20日のEFLカップ準決勝のリヴァプール戦でふくらはぎを負傷して交代となり、戦線離脱となる。一度は復帰したものの今度は反対のふくらはぎを負傷してしまい、当初の予想よりも長期欠場となってしまう。4月23日、第34節マンチェスター・ユナイテッド戦の試合終了間際に出場し、3か月ぶりの復帰を果たす。復帰後は左SBとしてもプレーするが、第37節のニューカッスル戦で再び負傷し最終節を待たずにシーズンが終了。
2022-23シーズンも怪我のために出遅れ、2022年8月13日のプレミアリーグ第2節レスター・シティ戦で復帰。しかし、右SBで起用されたベン・ホワイトが好調なこともあり、リーグ戦では7試合連続で終盤に途中出場という扱いだった。10月9日のリヴァプールFC戦でシーズン初スタメンを左SBとして飾ると、マッチアップするモハメド・サラーを完封し勝利に貢献する。その後、左SBで安定したプレーを続け、定位置を掴みかけたが、11月3日のELチューリッヒ戦で右ハムストリングを再び負傷。年明けに戦列に復帰するも定位置を失い、再び途中出場で試合を締めるクローザー役となる。2023年2月15日のマンチェスター・シティとの首位攻防戦でスタメンに抜擢されるが、失点に直結する致命的なパスミスを犯し、チームは敗戦。大きく評価を落とし、厳しい批判を浴びることになる。さらに3月16日のELラウンド16 スポルティングCP戦で右膝を負傷。そのまま手術を受け、シーズン中での復帰が絶望的となる。
オフ期間には放出の噂も出たが、2023-24シーズンのプレミアリーグ開幕戦となった2023年8月12日のノッティンガム・フォレスト戦でベンチ入りすると、ユリエン・ティンバーの負傷によって後半5分に投入され、左SBとして5か月ぶりにピッチに復帰する。8月21日の第2節クリスタル・パレス戦ではスタメンに抜擢されたが、不可解な判定によって2度の警告を受け、退場になる不運に見舞われる。その後も控えDFという立場が続くが、途中出場で試合の流れを変える働きを続けることで徐々に評価を取り戻していく。10月24日のUEFAチャンピオンズリーグ グループステージ第3節セビージャFC戦ではスタメンで起用されると、攻守にハイパフォーマンスを披露しファン投票のMVPに選出。10月28日の第10節シェフィールド・ユナイテッド戦ではプレミアリーグ50試合目にして初ゴールを記録する。これらの働きによって評価を高め、ファンが選出する10月のクラブ月間最優秀選手に選ばれる。アルテタ監督からの信頼も取り戻し、左右両方のSBで重宝されるようになり、11月29日のCL第5節RCランス戦では2アシストを含む、3ゴールに絡む大活躍によってアーセナルのグループステージ突破決定に貢献する。さらに12月2日のウルバーハンプトン戦でも公式戦2試合連続アシストを記録。しかしこの試合でふくらはぎを負傷してしまい、またも戦線を離脱。AFCアジアカップ2024出場した後チームに合流するが、またもふくらはぎの負傷によって欠場が続く。それでも、2024年3月20日にアーセナルとの契約を2026年まで延長したことが発表される。3月31日のマンチェスター・シティとの首位攻防戦で戦列に復帰。優勝争いが佳境に入った終盤戦に左SBのレギュラーに返り咲くと、安定したパフォーマンスでチームの6連勝に貢献。逆転優勝の可能性を残していた5月19日のエヴァートンFC戦では貴重な同点ゴールを決め、惜しくも優勝は逃したものの、逆転勝利の呼び水となった。
2024-25シーズンもキャンプ中に膝を負傷したことが判明し、プレシーズンツアーに参加できず、シーズン開幕後も欠場が続く。
中学生の頃からすでに各年代のアンダー代表に選出されており、2014年のAFC U-16選手権2014にU-16代表として出場。全4試合中2試合に起用され、準々決勝の韓国戦に出場。しかし、0-2で敗れ、5大会ぶりのアジア予選敗退となってしまう。
2016年10月には、バーレーンで開催されたAFC U-19選手権2016のメンバーに選出。中山雄太と共に鉄壁の最終ラインを構築し、イランやカタールといった強豪と同居したグループリーグ3試合を無失点で終える。決勝トーナメントに入っても相手にゴールを許すことなく全試合無失点で大会を終え、日本の初優勝と5大会ぶりのU-20ワールドカップ出場権獲得に貢献。またこの年の7月におこなわれたリオデジャネイロオリンピックのトレーニングパートナーに選出されている。
2017年5月に韓国で開催されたFIFA U-20ワールドカップ2017のU-20日本代表にも選出。グループリーグ初戦の南アフリカ戦でオウンゴールにより先制ゴールを献上してしまうが、DFリーダーとしてベスト16までの全4試合にフル出場。この大会での活躍が欧州のスカウトの目にとまり、ベルギー移籍のきっかけになったと言われている。
2018年5月には、東京オリンピックを目指すU-21日本代表に選ばれ、トゥーロン国際大会に出場。また、同年8月30日には森保一監督率いる日本代表(A代表)に初招集された。このとき熱狂的なアビスパ福岡サポーターとして知られる声優の田村ゆかりはツイッターで大変喜んでいた。10月12日のパナマ戦にはスタメンで日本代表初出場を果たし、宮市亮以来(2012年)の10代での日本代表デビューであり、センターバックの選手としては史上初の事であった。
以降A代表の常連となり、AFCアジアカップ 2019のメンバーにも選出される。2019年1月21日のサウジアラビア戦ではコーナーキックを頭で合わせ、アジアカップの日本人最年少ゴールを更新した(20歳77日)。チームは決勝でカタールに敗れ、準優勝に終わったものの、準決勝のイラン戦では相手エースのサダム・アズムンを完璧に抑えてみせ、その評価をさらに高める。以降、代表に欠かせない存在となり、吉田麻也と共にCBのレギュラーに定着。同年スタートしたカタールワールドカップアジア2次予選、コパ・アメリカ2019にも出場。コパ・アメリカでは3試合全てにフル出場したが、1勝もできず、本気の南米勢の前に「手応えは正直ないです」と悔しさを吐露している。
2020年10月のオランダ遠征では、吉田麻也とのコンビで鉄壁の守備を披露し、カメルーン、コートジボワールといったアフリカの強豪を2試合連続で完封する活躍を見せる。2021年3月25日に開催された韓国との親善試合では、プレーと関係のないところでイ・ドンジュンから肘打ちを顔面に受け、歯が半分折れる負傷を負わされる。その後、冨安はピッチに戻り、鉄壁の守備で韓国をシャットアウトするが、このイ・ドンジュンの行為に対して日本のみならず、韓国側からも批判が集まる騒動になる。この騒動について冨安本人は「わざとじゃないと感じた。もう謝罪は受けた。大きな騒動にならないことを願っています」と大人の対応を見せている。
2021年7月に開催された東京オリンピックにU-24日本代表のメンバーとして出場。しかし、開幕直前に左足首を負傷し、最初の2試合を欠場する。グループリーグ第3戦のフランス戦で復帰するも、フランス戦、準々決勝のニュージーランド戦と2試合続けて警告を受け、準決勝のスペイン戦は出場停止となる。3試合にスタメンで出場したが、怪我明けのコンディションのため普段よりもミスが多かった。なお、ニュージーランド戦のPK戦の際に乙女のように祈る姿が映し出され、話題になる。
2022 FIFAワールドカップ アジア最終予選でも日本の最終ラインを支えるが、2022年に入ってからの終盤4試合を怪我のために欠場し、ワールドカップ出場決定の瞬間に立ち会えなかった。その後も負傷が続いたことでなかなか合流ができず、9月23日のアメリカ戦でおよそ10か月ぶりに復帰。安定した守備でアメリカを完封し、試合終盤には代表では初めて右SBとしてプレーする。
2022年11月にカタールで開催された2022 FIFAワールドカップの日本代表メンバーに当然選出されるが、直前のELの試合でハムストリングを負傷。その影響でコンディションが万全ではなく、グループリーグはベンチからのスタートとなった。それでも第1戦のドイツ戦、第3戦のスペイン戦と途中出場で3バック変更のキーマンとなり、スペイン戦では右WBとして抜群の対人守備を見せ、ジョルディ・アルバやアンス・ファティを完封。ドーハの歓喜の立役者の一人となった。大会初スタメンとなったラウンド16のクロアチア戦ではらしくないミスもあったが、120分間をフル出場。しかしチームはPK戦の末に敗れている。
ワールドカップ後は度重なる怪我によって代表から遠ざかっていたが、2023年9月9日のドイツ戦で10か月ぶりに復帰すると、CBとしてフル出場し安定した守備でドイツの攻撃陣を抑え込み、決定的なピンチを未然に防ぐなど勝利に貢献。この試合のMOMの声も多く寄せられる珠玉のパフォーマンスだった。
2024年1月にカタールで開催されたAFCアジアカップ2023では、かつて中澤佑二や吉田麻也が背負っていた背番号22に変更となる。怪我の影響で初戦を欠場し、第2戦のイラク戦の後半開始から出場。以降はセンターバックのスタメンとして出場。異次元とも評される高い守備とビルドアップの起点としてのタスクをこなし、久保建英からは前からプレスに行くように指示があったと明かされるなどこれまでにないほどのリーダーシップを発揮する。準々決勝のイラク戦ではひたすら守勢に立たされる試合展開のなかで奮闘していたものの、トラブルだらけの最終ラインをカバーしきれずに最後は板倉滉と交錯したことがPKに繋がり、敗北。試合後ベスト8敗退について「熱量が足りなかった」と評している。
身長188cmの大型DFでありながら、高い身体能力のみならず、ビルドアップ能力やボールを運ぶ能力に長けており、しかも両足で精度の高いプレーが可能。インテリジェンスや戦術理解力も非常に高く、判断を間違えることもほぼ無いことからニュータイプのDFとも形容される。
センターバックとしては足も速く、そのスピードを生かして上下にハードワークを厭わない。プレミアリーグでは、スピードスターとして知られるマンチェスター・シティのラヒム・スターリングを完璧に抑え込んだことがある。
STVV時代まではセンターバック専門の選手であったが、前述の通りボローニャではサイドバックとしての起用が中心となった。
ボローニャでの役割はいわゆる「偽サイドバック」といったもので、守備時は4バックの一番右でプレーするが、攻撃時は3バックの右の位置でビルドアップに関与し、状況によってはセンターハーフの位置に移動してカウンター対応を求められる。アーセナルではボール保持の際はアンカーの脇の位置でゲームメイクに参加しており、周りの選手の動きに合わせた気の利いたポジショニングが光っている。
総合的に、CBとSBの中間的な性質でその両方をこなすことができるユーティリティ性の高い選手としての評価を確立している。
勉強熱心で技術の吸収力も高く、日本代表では少しでも技術を習得しようと吉田麻也を質問攻めする一幕も。
弱点は怪我が多く、毎年どこかで戦線離脱すること。
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
2015 | アビスパ福岡 | J2リーグ | 0 | 0 | |
2016 | アビスパ福岡 | J1リーグ | 10 | 0 | |
2017 | アビスパ福岡 | J2リーグ | 35 | 1 | |
2017-18 | シント=トロイデン | ジュピラー・プロ・リーグ | 0 | 0 | |
2018-19 | シント=トロイデン | ジュピラー・プロ・リーグ | 27 | 1 | |
2019-20 | ボローニャ | セリエA | 29 | 1 | |
2020-21 | ボローニャ | セリエA | 31 | 2 | |
2021-22 | アーセナル | プレミアリーグ | 21 | 0 | |
2022-23 | アーセナル | プレミアリーグ | 21 | 0 | |
2023-24 | アーセナル | プレミアリーグ | 22 | 2 | |
2024-25 | アーセナル | プレミアリーグ |
掲示板
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最終更新:2024/12/23(月) 19:00
最終更新:2024/12/23(月) 19:00
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